歴史・人名

人名そ

宗長(そうちょう)
駿河の連歌師。号は柴屋軒。鍛冶屋・五条義助の子 今川義忠に仕えたが義忠没後に京の連歌師・宗祇の門弟となり連歌を学ぶ 宗祇に同行して各地を廻り、宗祇死後は今川氏親の庇護を受ける 甲斐・武田信虎今川氏親との講和に貢献した 著作は句集「那智篭」、日記「宗長手記」・「宗長日記」があり、そのほか「東路の津登」、「宇津山記」、「宗祇終焉記」がある
宗牧(そうぼく)
連歌師・宗長の高弟。宗養の父。堺出身で姓は谷。号は孤竹斎 六角堂専順に学び、松永貞徳の師となった。徹書記流の書の達人でもある
相馬顕胤(そうま あきたね)
1508~1549
相馬郡小高城主。相馬盛胤の男。隣接する岩城重隆と争い、岩城城下にまで攻めこんで和睦。伊達稙宗の女を室に迎えており、「天文の乱」では伊達稙宗方について伊達晴宗と戦った。岩城重隆相馬家への対抗上伊達晴宗側について田村顕胤を攻めたが敗北。
相馬郷胤(そうま さとたね)
15??~1601
父:相馬盛胤の四男
相馬盛胤の四男。田中城代。
相馬隆胤(そうま たかたね)
1551~1590
父:相馬盛胤の次男
草野直清の討死後には中村城代を務めた。伊達勢と激闘を繰り返したがついに討死した。
相馬隆胤(そうま たかたね)
1551~1590
相馬義胤の五男。1563年、中村城代となる。1590年、伊達家との戦いで討死した。勇猛であったが猪突猛進型の武将であった。
相馬利胤(そうま としたね)
1581~1625
相馬義胤の三男。1600年「関ヶ原の役」で失領した。1602年、父の隠居による家督相続と所領の獲得に至り、1609年に本領へ復帰を果たし、60,000石を領した。1611年、小高城より中村城に本城を移す。1614年「大坂の役夏の陣」では徳川秀忠の先陣を務めて奮戦した。
相馬盛胤(そうま もりたね)
1529~1601
相馬顕胤の男。室は伊達稙宗の弟伊達義宗の女。また妹は田村清顕の室となり、後伊達政宗の室となる愛姫を産んでいる。このような婚姻関係があるものの、伊達晴宗との直接関係はなく、伊達晴宗伊達輝宗とは激しい戦いを繰り返した。1564年、名取郡で伊達晴宗と激闘、その後も丸森城奪取するなど伊具郡に積極的に侵攻した。伊達輝宗の代にはこれまで防戦一方であった戦いを侵略にまで推し進めた。1549年、妹を田村清顕の室に入れて縁戚を結び、略取した田村領を返還するなど外交にもしたたかであった。
相馬義胤(そうま よしたね)
1548~1635
相馬盛胤の男。1564年、伊具郡に侵入して伊達軍と激しく争い、二本松畠山家、大内家らと結ぶなど伊達包囲網の一角をなして大いに伊達勢を苦しめたが、伊達政宗が当主となって以後はその猛攻により次々と同盟者は滅亡し、相馬領にも侵攻してくるなど劣勢は否めず、家臣の離反や弟相馬隆胤の討死など、軍事的にも窮地に立たされていた。1589年「小田原の役」に参陣したことにより、行方郡、宇多郡、標葉郡に48,000石余を安堵された。1598年、小高城より牛越城に移る。1600年「関ヶ原の役」では当初日和見をして形勢確定後越後長尾領である安達郡を攻略しようとして失敗、戦後罪に問われて改易された。その後伊達政宗の斡旋と世子相馬利胤の奔走によって相馬利胤に領地が与えられた。
十河一存(そごう かずなが)
????~1561  ○三好氏 又四郎 長正 之虎 左衛門督 讃岐守 民部大輔 ◇父:三好元長 養父:十河景滋(存春) 室:九条稙通女 子:三好義継、十河存之 養子:十河存保  十河氏は元々讃岐の豪族だが、十河景滋の子・金光が早世したため、阿波・三好氏一族の一存が入嗣。讃岐・十河城主。讃岐・池内城主寒川元政との戦いにおいて、負傷した左腕に塩をすりこみ平然と戦闘を続け、勝利を得たことから、“鬼十河”“夜叉十河”と勇猛をうたわれた。畿内の各戦いにおいても、一存は兄らを凌ぐ働きをして勲功を重ね、三好氏の勢力拡大に貢献したが、瘧を病んで有馬温泉への湯治途中、落馬して急死したという。なお、月代を広く、四角く剃り込む一存の独特の髪型は“十河額”と呼ばれた。
十河存英(そごう ながひで)
1575~1615 ○孫二郎 惣次大夫 ◇父:十河存保 子:十河長保  1歳の時、父が戦死して十河家は改易となり、存英は浪人する。1614年、再起を賭け、豊臣秀頼に味方し、大坂城入城。夏の陣で摂津・尼崎に出撃するが戦死した。
十河存保(そごう ながやす)
1554~1576 ○三好氏 孫六郎 隼人正 河内守 民部大輔 ◇父:三好義賢 養父:十河一存 子:十河存英  養父一存急死により家督を嗣ぐ。土佐・長宗我部氏に領地を侵され、織田信長を頼るが、信長の死により四国から逐い出された。後、羽柴秀吉に従い、1585年の四国征伐で再び讃岐3万石の大名に返り咲く。しかし、1586年九州征伐前哨戦である戸次川の戦いで、軍監仙石秀久の無謀な作戦に従って、島津氏の謀略に嵌り戦死。
曽根昌世(そね まさただ)
????~????  ○孫次郎 右近助 内匠助 下野守  甲斐源氏流。甲斐・武田氏軍目付。相模・三増峠の戦いでは退却中の殿浅利信種が戦死して浮き足だった軍を、よくまとめて戦った。後に駿河・興国寺城主となる。武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた。
曽呂利新左衛門(そろり しんざえもん)
堺の鞘師。豊臣秀吉の御咄衆。知恵袋ともいわれた 彼の鞘にはソロリと刀が収まったことからこう呼ばれたという 茶道や香道も一流で、茶は千利休の師匠・武野紹鴎に学び、香道は名人・志野宗心に習った 実在したかどうかははっきりしていない