歴史・人名

人名い

井伊直親(いい なおちか)? 1535~1562
井伊氏は南北朝期より活躍した遠江の豪族。井伊谷城主。駿河・今川氏譜代の臣。しかし養父は戦死、父は謀反との讒言で当主義元に殺されている。その為直親も一時身を隠すが、義元戦死後、当主氏真に仕えた。しかし、家老小野但馬の讒言により尾張・織田氏内通の嫌疑を受け、釈明に赴く途上、氏真の命を受けた朝比奈泰朝の軍勢に討たれた。
井伊直政(いい なおまさ)? 1561~1602
父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。長久手の合戦には先鋒として参加し活躍。関ヶ原の合戦においても活躍するが、この時の戦傷が元で亡くなった。徳川四天王の1人。
飯依比古(いいよりひこ)? 
「国生み」から生まれた四国地方の1つの面
讃岐の国(香川県)
米や粟などを生み出す男性、という意味を持つ
雷大臣(いかつおおみ) 
卜部姓始祖?亀卜に優れ卜部姓を授けられたとも言われている。
記紀記事:14仲哀天皇・神功皇后時代四大夫(大三輪氏・物部氏・大伴氏)
の一人となる。神功皇后の審神者。
中臣烏賊津使主は、紀記事に19允恭天皇舎人として、衣通郎媛の話に登場。これとは同名異人か?(時代は合わない)
真根子ー御見足尼ー太田彦ー酒人ー神奴子ー卜部忍見ーーー壱岐系卜部氏
松尾大社社家(月読社)乙等。
伊香津臣(いかつおみ) 
伊香津臣命
烏賊津使主(いかつおみ)? 
雷大臣
伊香津臣命(いかつおみのみこと) 
近江風土記に記事あり。
中臣氏は物部伊香色雄の娘婿となり伊香の地を得たとの説あり。

中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。
伊香津臣命は、『帝王編年記』養老七年癸亥条にみえる羽衣伝説に登場する与胡郷の人、伊香刀美に同一視されます。
伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
また、太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
現在でも、大橋信弥氏が、
「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、他の同族とともに、中臣氏への接近をはかり、中臣氏の政治的地位の上昇にともなって、ついに物部氏との関係を断って、中臣氏同祖系譜に組み込まれることになった」
とされています。
『三代実録』の貞観元年正月二十七日条には、近江国の従五位上勲八等伊香神に従四位下が授けられ、同八年閏三月七日条には従四位上に神階が昇ったことがみえます。
神宮寺はもと法相宗と伝えますが、その後、真言宗に転宗したと伝えます。明治八年に廃寺になりました。
境内の藤の老木や独鈷水には、弘法大師に付会される伝説があるようです。


■系譜
天児屋根命の14世孫、または5世孫とされています(伊香具神社の社伝は7世孫)。

中臣氏の祖
景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。
また正始四年(243年)、三度目の遣使が、末の弟の伊世理命である。
伊世理命は畝尾連(うねびむらじ)の祖とされる。
姓氏録和泉国神別は畝尾連を天児屋根の後とする。中臣氏や鹿嶋氏系譜の上でも、伊世理命の父、伊香津臣は天児屋根の五世孫であり、系譜との矛盾はない。
そして畝尾と関連すると思われる場所がある。
奈良県橿原市木ノ本に畝尾都多本神社(うねびつたもとじんじゃ)という、延喜式にその名を見る古社がある。
古事記』上巻国生みの神話の中で『香山の畝尾の木ノ本に坐して』とされる神社である。神社の場所は畝尾の木ノ本である。滋賀県の木之本と同じ地名である。おそらくこちらが元の名であろう。
したがって伊香津臣は、元々はこの橿原の木ノ本に住んでいたと思われる。伊香津臣が移り住んだ、滋賀県の木之本は、伊香津臣の出身地、畝尾(うねび)の木ノ本に由来するとのであろう。
 この氏族の祖にあたる、天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、日向から神武に付き従った数少ない、大和王権成立以前からの臣下である。大和王権の成立とともに、王権のお膝元、橿原の地に居を構えた可能性を推測する。
長男の臣知人は木之本に住み、後に伊香具氏となる。二世代後の古加斐命(こかひのみこと)は崇神朝に伊香具神社を祭るとされる。
子:臣知人命(意美志留)、梨迹臣、伊世理命、伊是理媛、奈是理媛

天児屋根命──天押雲命──天種子命──宇佐津臣命──大御気津臣命──伊香津臣命梨津臣命─┼神聞勝命──久志宇賀主命─┬国摩大鹿島命──巨狭山命──雷大臣命─├大小橋命

中臣氏の祖、伊香津臣命(いかつおみ)には、臣知人命(おみしるひとのみこと・意美志留)、梨迹臣(なしとみ・那志等美)、伊世理命(いぜりのみこと)、伊是理媛(いぜりひめ)、奈是理媛(なぜりひめ)、という五人の子がある。
 景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。
また正始四年(243年)、三度目の遣使が、末の弟の伊世理命である。
伊世理命は畝尾連(うねびむらじ)の祖とされる。
姓氏録和泉国神別は畝尾連を天児屋根の後とする。中臣氏や鹿嶋氏系譜の上でも、伊世理命の父、伊香津臣は天児屋根の五世孫であり、系譜との矛盾はない。
そして畝尾と関連すると思われる場所がある。
奈良県橿原市木ノ本に畝尾都多本神社(うねびつたもとじんじゃ)という、延喜式にその名を見る古社がある。
古事記』上巻国生みの神話の中で『香山の畝尾の木ノ本に坐して』とされる神社である。神社の場所は畝尾の木ノ本である。滋賀県の木之本と同じ地名である。おそらくこちらが元の名であろう。
したがって伊香津臣は、元々はこの橿原の木ノ本に住んでいたと思われる。伊香津臣が移り住んだ、滋賀県の木之本は、伊香津臣の出身地、畝尾(うねび)の木ノ本に由来するとのであろう。
 この氏族の祖にあたる、天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、日向から神武に付き従った数少ない、大和王権成立以前からの臣下である。大和王権の成立とともに、王権のお膝元、橿原の地に居を構えた可能性を推測する。
長男の臣知人は木之本に住み、後に伊香具氏となる。二世代後の古加斐命(こかひのみこと)は崇神朝に伊香具神社を祭るとされる。

伊賀津臣命(いかつおみのみこと) 
近江風土記に登場。
古代日本の人物。御食津臣命の子。
伊香津臣命・中臣烏賊津使主・雷大臣命(いかつおみのみこと・なかとみのいかつのおみ・いかつちおおおみのみこと)? 
「近江国風土記逸文」に、伊香津臣命・烏賊津使主(いかつおみ)、伊香刀美・雷大臣命とも書く。
中臣氏の祖、伊香津臣命(いかつおみ)には、臣知人命(おみしるひとのみこと・意美志留)、梨迹臣(なしとみ・那志等美)、伊世理命(いぜりのみこと)、伊是理媛(いぜりひめ)、奈是理媛(なぜりひめ)、という五人の子がある。
672年に伊香姓を賜姓した近江、伊香氏の元祖は、 臣知人(おみしるひとのみこと・意美志留)といいます。
この筋が伊香具神社社家となります。
景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。
中臣烏賊津使主は意美佐夜麻命の子。天児屋根命十四世孫、あるいは五世孫。神功皇后の審神者。中臣氏の祖。
仲哀天皇に仕え、天皇が崩じると、神功皇后は烏賊津使主、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連の四人の大夫に詔して喪を秘して百寮を率いさせ、 天皇の屍をおさめ、武内宿禰に奉侍させて海路より穴門に遷らせた。
烏賊津使主は、後に皇后の勅を受けて百済に使いし、百済の女を娶り一男を生んだ。
允恭天皇の時、烏賊津使主は天皇の命令を受けて衣通姫を迎える使者になり、 熱心に頼んで姫を天皇の后とするのに成功した。
神功皇后が新羅を征した時、軍に従ひ勲功ありて、 凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り 祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝えたという。
伊香津臣命は、中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。
その子は、前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)であり、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。
また、伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
現在でも、大橋信弥氏が、「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、中臣氏に近づいたもの」としている。
『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に「伊香具神社」がある。余呉の湖の近くで、その祭神が伊香津臣命。そして余呉の湖の周囲に式内社「乎彌(おみ)神社があり、その祭神が巨知人命である。更に同じく式内社の「乃彌(のみ)神社があり、その祭神が梨津臣命。
この三柱の神は、有名な余呉の湖の羽衣伝説と結びついている。
『近江国風土記』逸文によると:
古老(ふるおきな)の傅へて曰へらく、近江の國伊香(いかご)の郡。與胡(よご)の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶(とも)に白鳥と為りて、天より降りて、江の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遙かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、往きて見るに、實に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即(やが)て感愛(めづるこころ)を生(おこ)して得還り去らず。竊(ひそ)かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隱しき。天女、乃(すなは)ち知(さと)りて、其の兄(いろね)七人(ななたり)は天井に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、即ち地民(くにつひと)と為りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家(をとひめ)と為りて此處に居(す)み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連等が先祖(とほつおや)、是なり。後に母(いろは)、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、唫詠(ながめ)すること断(や)まざりき。
わかりやすく書くと:
 余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。
それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた。
 天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最後の若い天女の一人は、羽衣がないため飛び立てない。
地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。
兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志刀美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いざりひめ)、妹娘は奈是理比咩(なぜりひめ)。
これが伊香連の(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。
のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。
妻を失った伊香刀美は、寂しくため息をつき続けたという。
そして、伊香刀美は伊香津臣命と、意美志留は巨知人命と、那志刀美は梨津臣命と同人とされている。
伊香刀美(いかとみ)? 
伊香津臣命
伊伎島(いきのしま)? 
「国生み」から生まれた5番目の国
長崎県の壱岐島
活杙神(いくぐいのかみ)? 
天地開闢の神々の一柱。
古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第四の神。 角杙神と活杙神は、男女の神。
『日本書紀』では、神世七代には含まれていない。
杙は棒状の杭で、境界を表わす神。
活樴尊(いくくいのみこと)? 
→活杙神
生島神(いくしまのかみ)? 

伊佐為宗(いさ ためむね) 生年不明 - 承久3年(1221年)
伊達氏の祖。宇治川の戦いで戦死
伊奢沙和気命(いざさわけのみこと)? 
福井県敦賀市に鎮座の「越前國一之宮・気比神宮」の祭神である。
渡来人で、製鉄に従事する人などに祀られている「天日槍(あめのひぼこ)」と同神説がある。
日本の神社のなかで一番多いといわれる八幡神社の祭神である応神天皇(誉田別命)と名前を交換したという、尋常ではない存在感の神である。
気比神宮のしおりによれば、
千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承される伊奢沙別命は笥飯大神(けひのおほかみ)、又の名を御食津大神(みけつおほかみ)と称へ奉り食物を司り給う神で、上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。また、ケは食物を意味し、ヒは霊妙(不可思議な働き)を意味するとも伝えられる。また、弘法大師が立宗された真言宗(密教)では、高野山真言宗の四大守護神(四社明神)のひとつとして祀られ、伝教大師が立宗された比叡山天台宗においても山中に氣比神社を建て守護神として祀られている。
応神天皇が去来紗別尊(いざさわけのみこと)と呼ばれた皇子から初めて皇太子となったとき、越国に行き敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)をお参りした。神の名は誉田別尊。この神に頼まれて名を交換したという。
これは『古事記』の「仲哀天皇」の巻、「気比大神」の段に記述されている。
(現代語訳)
 そこでタケシウチノ宿禰命は、その皇太子を連れて禊をしようとして、近江および若狭国を巡歴した時、越前国の角鹿に仮宮を造って、そこにお住ませ申した。ところがそこにおられるイザサワケノ大神の命が、夜の夢に現われて、「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と仰せになった。そこでその神を祝福して申すには、「恐れ入りました。仰せのとおりに、御名をいただいて名を変え申しましょう」と申しあげた。するとまたその神が仰せられるには、「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えたしるしの贈物をさし上げましょう」と仰せになった。
 そしてその翌朝、皇太子が浜にお出ましになったところ、鼻の傷ついた海豚(いるか)が、すべて浦いっぱいに寄り集まっていた。これを見て御子が、神に申し上げさせて、「神が私に食料の魚を下さった」と仰せになった。それでまたその神の御名をたたえて御食つ大神と名づけた。それで今に気比大神というのである。またその傷ついた海豚(いるか)の鼻の血が臭かったので、その浦を名づけて血浦といったが、今は角鹿と呼んでいる。
*「禊をしようとして」とあるのは、忍熊王(おしくまにみこと)との戦いの際に、敵軍を騙すため「御子は既に亡くなりました」と太子を死んだように言い広めた時の穢れを祓うための禊。
また、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』では、このように書かれている。
伊奢沙和気のいざさ、乃至いささが、天日槍(あめのひぼこ)の将来した胆狭浅の大刀(いささのたち)とかかわりがあり、出石に因む名であるところからして、この大神は天日槍であると考えるむきも多い。
 伊著沙和気=天日槍説は、すでに本居宣長が『古事記伝』の中で、気比神宮の祭神について「異国の事に故ある神なるべし、共に就て、書紀垂仁巻の都怒我阿羅斯等が事、又天日槍が事に、いささか思ひ依れる事もあれど、詳ならねば云がたし」と、栗田寛は『神祇志料』の中で、「此(=祭神)は天日槍命にはあらじかと思はるゝ由あり」と書き、今井啓一はその著『天日槍』の中に「気比大神は天日槍であろう」の一章を設け、三品彰英も、大神を天日槍とする豊田亮「気比神考」を引いて同意を表明している。
付言すると、神功皇后の出身氏族「息長氏」について山尾幸久氏は、「息長氏は、五世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した、新羅文化を背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下にそのころ在地に台頭した集団と考えられる」 (『日本古代王権形成史論』)としている。
天日槍は、新羅の王子であったが、日本にやってきたとの伝承なので、神功皇后がこの神を強く信じていたのは当然と思う。
伊耶那岐神(いざなきのかみ)? 
→伊邪那岐神
日本の祖父神。
伊弉諾尊(いざなぎのかみ)? 
→伊邪那岐神
日本の祖父神。
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)? 
性別:♂

系譜:高天原の神、神世七代の最後の二神。初めての夫婦神である

神格:人類の起源神、結婚の神 / 創造神、万物を生み出す女神

神社:多賀神社、伊弉諾神社、伊佐須美神社、筑波山神社、三峰神社、愛宕神社、玉置神社、英彦山神宮、江田神社、花窟(ハナノイワヤ)神社、闘鶏神社、波上宮

 伊耶那岐神、伊耶那美神は、神話のなかに一番最初に出てくる夫婦神である。そこから、夫婦婚姻のはじめとか結婚の神などといわれる。また、結婚して数々の国土を誕生させる国生みや、地上の営みを司る多くの神々を誕生させる「神生み」を行ったことから、国堅めの神、生命の祖神などともされている。特に、男女が結婚して子を産むという、我々の生活にそのまま当てはまる活動をしているという点で、宇宙を創造した天之御中主神をはじめとする他の根源神たちと比べて一番親しみやすい神さまであろう。
 この二神は、いってみれば日本の国の祖神といえるわけで、しかも、我々の生活に関わる神々の創造主であることから、一般的に縁結び、子宝、子育て、夫婦円満といったことに始まって、諸々の神徳を発揮する万能の神でもあるとして崇敬されている。ただ、この神がもともとはどういう神であったかということになると、よく分からないことが多い。一般によく言われているのは、古くから各地にその地域社会で信仰されていた土着的な創造神や始祖神がいた。そうした名もない土着神の伝承が、ひとつの神話に整理統合されたのではないかということだ。
 その意味では、伊耶那岐神、伊耶那美神に関する神話の内容を大陸や東南アジアの神話とつきあわせてその共通性を求めるといった作業をしていくと、日本民族のルーツの問題にもあたる。それについてはまたいつか述べるとして、ここでは我々の身近な神社に祀られている伊耶那岐神、伊耶那美神について見ていこう。

 神話では、伊耶那岐神は三貴神(天照大神、月読神、素盞鳴尊)の父神とされており、高天原の最高神天照大神の祖神に当たるわけである。まず、伊耶那岐神に関して我々がふだんの生活のなかで身近に接することといえば、やはり神社に参拝したときに受けたりする禊祓の儀式である。わざわざ神主からお祓いを受けるまでもなく、拝殿の前にある手水舎(チョウズシャ)で何気なく柄杓に水を汲んで手に注いだりする。これも心身を浄める意味があり、もともとは伊耶那岐神が御祓をしたことにちなむもので、神主が神祭りを行う場合に、精進潔斎して俗世界の汚れを祓い落として豊作などの祈願をおこなう禊祓の儀式を簡略化したものである。神徳がどうのこうの言う以前に、こうした信仰の習慣として我々は伊邪那岐命に触れているというわけである。
 伊耶那岐神がおこなった御祓については、別項「禊祓」を参照していただきたい。日本人は古くから穢れ(不浄)というものを特別に意識し、嫌っていたようである。それはなぜかというと、神はそもそも清浄であり、人間は神の「分霊(ワケミタマ=神と同じ自然の一部)」なのだから、その本質は清浄であるべきだと古代の人々は考えたからだ。伊耶那岐神が黄泉の国の穢れを祓い落とす場面などは、生命を尊び、死を嫌うという観念の現れのようである。そこから発展して、人間の罪や悪行、病気やけがなど、正常で平穏な生活に災いをなすいっさいのことは、穢れによるものと考えるようになった。
 つまり、たとえば病気でも、その原因は病を起こさせる穢れであって、これを祓い落とすことで病気を治すことができると考えたわけである。禊祓というのは、神に近づきコンタクトする手段であり、それによって神の霊力を受けやすくするということである。
 禊祓というものは我々の生活のなかに知らず知らずのうちに入り込んでいる。たとえば盛り塩は、禊祓の方法として古くは海水が使われたことから来たものだし、相撲の力士がまく塩もこれの延長である。他に、人形に罪穢れを託して川に流す流し雛や、旧年中の厄を祓って身を清めるという豆まきの行事も、禊祓の儀式の一種なのである。

 一方、伊耶那美神については、多くの大地を生み出したとされることから大地と深く関係した存在と考えられている。伊耶那岐神の天父神的性格に対して大地母神的な性格を持っているといえる。これは、人間が豊穣を願う心を反映しているといえる。
 また、禊祓の項で述べたが、伊耶那美神には黄泉の国の神としての顔もある。神でありながらも神で冥府、死の世界の代表者として祀られたりもするわけで、伊耶那岐神がこの世の代表とすると、伊耶那美神はあの世の代表というわけである。黄泉平坂での言い争いにも「わたしは地上の人間を一日に1000人殺す。」「それならばわしは一日に1500の産屋を建てる。」とあるように、伊耶那美神は人間の寿命を司る神でもある。
 考えようによっては非常に恐ろしい神だが、やはり多くの神々を生みだした母神的な性格の方が目立つ。伊耶那美神が生みだしたさまざまな神霊がこの世界を限りなく豊かにしてくれているのだ。たとえば、日本の四季折々の変化なども、いってみれば伊耶那美神の営為があったからである。つまり、この神は我々の住むこの世界のよりよい環境や心の豊かさを守ってくれるというのが本来の顔であり、むしろ死の神としての顔の方が一面にすぎないといえるだろう。


伊耶那岐神

  生没年:
  父:
  妻:伊耶那美神
    大綿津見神
    大山津見神
    迦具土神
  三貴子:
    天照大神
    月読命
    建速須佐之男命



伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 
→伊邪那岐神
日本の祖父神。
伊邪那美神(いざなみのかみ)? 
高天原の神、神世七代の最後の二神。初めての夫婦神である
人類の起源神、結婚の神 / 創造神、万物を生み出す女神
伊耶那岐神、伊耶那美神は、神話のなかに一番最初に出てくる夫婦神である。そこから、夫婦婚姻のはじめとか結婚の神などといわれる。また、結婚して数々の国土を誕生させる国生みや、地上の営みを司る多くの神々を誕生させる「神生み」を行ったことから、国堅めの神、生命の祖神などともされている。特に、男女が結婚して子を産むという、我々の生活にそのまま当てはまる活動をしているという点で、宇宙を創造した天之御中主神をはじめとする他の根源神たちと比べて一番親しみやすい神さまであろう。
 この二神は、いってみれば日本の国の祖神といえるわけで、しかも、我々の生活に関わる神々の創造主であることから、一般的に縁結び、子宝、子育て、夫婦円満といったことに始まって、諸々の神徳を発揮する万能の神でもあるとして崇敬されている。ただ、この神がもともとはどういう神であったかということになると、よく分からないことが多い。一般によく言われているのは、古くから各地にその地域社会で信仰されていた土着的な創造神や始祖神がいた。そうした名もない土着神の伝承が、ひとつの神話に整理統合されたのではないかということだ。
 その意味では、伊耶那岐神、伊耶那美神に関する神話の内容を大陸や東南アジアの神話とつきあわせてその共通性を求めるといった作業をしていくと、日本民族のルーツの問題にもあたる。それについてはまたいつか述べるとして、ここでは我々の身近な神社に祀られている伊耶那岐神、伊耶那美神について見ていこう。
 神話では、伊耶那岐神は三貴神(天照大神、月読神、素盞鳴尊)の父神とされており、高天原の最高神天照大神の祖神に当たるわけである。まず、伊耶那岐神に関して我々がふだんの生活のなかで身近に接することといえば、やはり神社に参拝したときに受けたりする禊祓の儀式である。わざわざ神主からお祓いを受けるまでもなく、拝殿の前にある手水舎(チョウズシャ)で何気なく柄杓に水を汲んで手に注いだりする。これも心身を浄める意味があり、もともとは伊耶那岐神が御祓をしたことにちなむもので、神主が神祭りを行う場合に、精進潔斎して俗世界の汚れを祓い落として豊作などの祈願をおこなう禊祓の儀式を簡略化したものである。神徳がどうのこうの言う以前に、こうした信仰の習慣として我々は伊邪那岐命に触れているというわけである。
 伊耶那岐神がおこなった御祓については、別項「禊祓」を参照していただきたい。日本人は古くから穢れ(不浄)というものを特別に意識し、嫌っていたようである。それはなぜかというと、神はそもそも清浄であり、人間は神の「分霊(ワケミタマ=神と同じ自然の一部)」なのだから、その本質は清浄であるべきだと古代の人々は考えたからだ。伊耶那岐神が黄泉の国の穢れを祓い落とす場面などは、生命を尊び、死を嫌うという観念の現れのようである。そこから発展して、人間の罪や悪行、病気やけがなど、正常で平穏な生活に災いをなすいっさいのことは、穢れによるものと考えるようになった。
 つまり、たとえば病気でも、その原因は病を起こさせる穢れであって、これを祓い落とすことで病気を治すことができると考えたわけである。禊祓というのは、神に近づきコンタクトする手段であり、それによって神の霊力を受けやすくするということである。
 禊祓というものは我々の生活のなかに知らず知らずのうちに入り込んでいる。たとえば盛り塩は、禊祓の方法として古くは海水が使われたことから来たものだし、相撲の力士がまく塩もこれの延長である。他に、人形に罪穢れを託して川に流す流し雛や、旧年中の厄を祓って身を清めるという豆まきの行事も、禊祓の儀式の一種なのである。
 一方、伊耶那美神については、多くの大地を生み出したとされることから大地と深く関係した存在と考えられている。伊耶那岐神の天父神的性格に対して大地母神的な性格を持っているといえる。これは、人間が豊穣を願う心を反映しているといえる。
 また、禊祓の項で述べたが、伊耶那美神には黄泉の国の神としての顔もある。神でありながらも神で冥府、死の世界の代表者として祀られたりもするわけで、伊耶那岐神がこの世の代表とすると、伊耶那美神はあの世の代表というわけである。黄泉平坂での言い争いにも「わたしは地上の人間を一日に1000人殺す。」「それならばわしは一日に1500の産屋を建てる。」とあるように、伊耶那美神は人間の寿命を司る神でもある。
 考えようによっては非常に恐ろしい神だが、やはり多くの神々を生みだした母神的な性格の方が目立つ。伊耶那美神が生みだしたさまざまな神霊がこの世界を限りなく豊かにしてくれているのだ。たとえば、日本の四季折々の変化なども、いってみれば伊耶那美神の営為があったからである。つまり、この神は我々の住むこの世界のよりよい環境や心の豊かさを守ってくれるというのが本来の顔であり、むしろ死の神としての顔の方が一面にすぎないといえるだろう。

伊耶那岐神

  生没年:
  父:
  妻:伊耶那美神
    大綿津見神
    大山津見神
    迦具土神
  三貴子:
    天照大神
    月読命
    建速須佐之男命



伊弉冉神(いざなみのかみ)? 
→伊邪那美神
日本の祖母神。
伊耶那美神(いざなみのかみ)? 
→伊邪那美神
日本の祖母神。
伊弉冉尊(いざなみのかみ)? 
→伊邪那美神
伊邪那美命(いざなみのみこと) 
→伊邪那美神
日本の祖母神。
石凝姥神(いしこりどめのかみ)? 

石楯尾大神(いしたておのおおかみ)? 
 相模国式内社石楯尾神社は、現在論社が七社もある状態らしい。しかし、その祭神は、石楯尾大神であるということは各社共通している。
石楯尾大神がどういう神かと調べたところ、二つの伝承がある。
その一:
名倉の石楯尾神社の社伝では「第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征のみぎり、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである、とされている。
これからすると、天磐楯 (あまのいわたて)を神格化したものが石楯尾大神である、となる。
では天磐楯 (あまのいわたて)は、どういうものか調べると、和歌山県新宮市にある神倉山にある「ゴトビキ岩」だという。
神武天皇の東征の神話で有名なのが、熊野で神武天皇が正気を失ったとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。その場所が天磐盾(あめのいわたて)の山であり、神倉山と云われ、神倉神社がある。
その二:
この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天然の神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあった。
ここが富士神界( 肉体ある人の世より前の霊体の神神の世)の中心地・高御座であった。 (相模の国の奥津宮=総産土神) このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土路にあたり (石楯が粘板岩でここが変成粘板岩) 古代人が神を斎きまつった所・斎庭として人々の崇敬の中心となり、崇神天皇より古くから総産土神としてお社が設けられた様であり、高位の神々様が数多くお鎮り遊ばされて居り、応神天皇の御幸所で御造営があったとも伝えられ、文徳天皇天安元年五月、丙辰・従五位下の神とし官社に預った事が文徳実録にある国史所載社である。
この二つの話から推察すると、日本武尊東征のみぎり、この地に至った日本武尊が「エボシ岩」を天磐楯 (あまのいわたて)と同じだと感じ、社を祀ったのがはじまりで、このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここを産土神として神格化したものが石楯尾大神ではないかと思える。
残念ながら「エボシ岩」は、中央線の工事で撤去されてしまったとの事。
伊豆諸島の神(三嶋神の后神)/阿波咩命、伊古奈比咩命、伊賀牟比売命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命、優波夷命、久爾都比咩命、波布比売命(いずしょとうのかみ)? 
伊豆諸島の神(三嶋神の后神)/阿波咩命、伊古奈比咩命、伊賀牟比売命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命、優波夷命、久爾都比咩命、波布比売命
三嶋大社に参拝した折、三嶋神(三嶋大明神)について調べた際に、沢山の后神が浮かび上がり、その神は伊豆諸島に祀られている神であることがわかった。
それにより、三嶋神の本質も理解できた。
まず、下田市白浜と伊豆諸島に祀られている神のうち、三島神の后神は以下の通りである。
下田市白浜・伊古奈比咩命神社:伊古奈比咩命(後后)
神津島・阿波命神社:阿波咩命(正后)
三宅島・后神社:伊賀牟比売命(箱根翁媼嫡長女)
三宅島・二宮神社:伊波乃比咩命(箱根翁媼嫡次女)
三宅島・御笏神社:佐伎多麻比咩命(箱根翁媼嫡三女)
大島・波布比咩命神社:波布比売命
新島村式根島・泊神社:久爾都比咩命
沖ノ島(八丈島)・優婆夷宝明神社:優波夷命(うばいのみこと)
御蔵島、利島には王子神のみ祀られている。
寺社縁起である『三宅記』によって、それぞれの島に祀られている神について知ることが出来る。
『三宅記』の記述は、3つの物語から構成される。あらすじは次の通り。

まず第1部では、天竺に生まれた王子(三嶋神)は、継母の懸想による父の怒りを買って流浪し、支那、高麗と渡り、孝安天皇(第8代)元年に日本に到来する。そして富士山頂でまみえた神明に安住の地を請うと、富士山南部の地を与えられた。この地では狭かったので「島焼き」(造島)を行うこととしたが、その前に一度天竺に帰国する。再び渡来した際、丹波で出会った翁媼との会話の中で、自身の名が「三嶋大明神」であること、正体が薬師如来であることを知る。翁(天児屋根命)からは「タミの実」をもらい、翁媼の子の若宮・剣宮・見目を連れて伊豆に向かう。そして孝安天皇21年、多くの龍神・雷神達とともに「島焼き」を行ない、7日7夜で10島を生み出した。その島々には自身の后を配置し、各后は王子達を産んだ。
第2部では、三嶋神は箱根の湖辺に住む老翁媼の女3人を大蛇(龍神)から救い、3人を后として三宅島に迎える。3人の后もまた多くの王子を産んだ。
最後に第3部では、三嶋神は富士山において、東遊・駿河舞の芸を習得した壬生御館(みぶのみたち)という人物に出会う。御館は神々が造った島々を見ようと三宅島に渡来、三嶋神の命に応じて築地を築いた。推古天皇2年(594年)正月、垂迹の時を迎えた三嶋神は御館に奉斎を命じ、500年後に守護神となることを宣言、石笏を託して垂迹する。御館は息子の実正(実政)に東遊・駿河舞の技を、三嶋神は実成に亀卜の技を教えた。そして御館は本国へ帰り、三嶋神は白浜に飛び立ったが、その後も御館の子孫は三宅島において三嶋神を奉斎し続けたという。

本后の阿波咩命(あわのめのみこと)は神津島・阿波命神社に祀られているが、
『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)の本后であるという。
「阿波」の神名から、忌部氏が阿波国から安房国に東遷する際(忌部氏の東遷)、当地に逗留したことに由来するという伝承もある。
平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩命神社項において、阿波咩命を天津羽羽神(あまつはばのかみ、天石門別神の娘神)に比定している。
後后の伊古奈比咩命については、下田市白浜の伊古奈比咩命神社に祀られ、次のような伝承がある。
伊豆創世の神々は、はじめ三宅島に祀られたがその後白浜に渡り、ここに祀られる。さらに三嶋神のみが白浜を離れて現在の三嶋大社に遷座した。主人のいなくなった白濱神社では后である伊古奈比咩命が主祭神となったと伝えられている。
三嶋神の本后は神津島の守り神である阿波命(あわのみこと)と伝えられているが、平安時代に三嶋神と伊古奈比咩命を名神として祀った とこ ろ、神津島が大噴火を起こし、これに驚いた朝廷が阿波命も名神に列したと『日本後紀』にある。もしかすると、三嶋神だけが遷座したのは、本妻の怒りに慄いたからなのかもしれない。
三嶋大社摂社・見目(みるめ)神社のご祭神は、波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命である。
三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」ともいわれる。
阿波咩命(正后)と伊古奈比咩命(後后)は入っていない。
最後に神津島に伝わる神話を紹介しておく。
御蔵島、利島の神が活躍しているので、これは王子神の物語かもしれない。

神代の昔、事代主命と神々によって伊豆七島が造られた後、
その真中にある神津島(神集島)で島々 の神々が集まり会議が開かれました。
場所は天上山山頂の火口跡の不入が沢。
会議の一番大事な議題は、命の源である「水」をどのように配分するかでした。
そして討議の結果、翌朝先着順に分ける 事に決まりました。
翌朝一番早く来たのは、 御蔵島の神様。そのため御蔵島は最も 多くの水を手に入れる事が出来ました。次に現れたのが新島の神様、3番目は八丈島、4番目は三宅島、5番目は大島でした。 こうして次々に水が配られ 水はどんどんなくなっていきます。 
そんなところに最後に寝坊してやってきたのは利島の神様。既に水は殆ど残っていない状態でした。 これを見た利島の神様は怒り、僅かに水が 残っていた池に飛び込んで暴れ回りました。水は四方に飛び散りお陰で神津島ではいたるところで水が沸きでるようになったと言われています。不入が沢は今でも足を踏み入れてはいけない神聖な場所になっています。

五十鈴姫神(いすずひめのかみ)? 
事代主神の娘。神武天皇の后。
伊世理命(いぜりのみこと)? 
正始四年(243年)、三度目の遣使が、伊世理命である。
伊世理命は畝尾連(うねびむらじ)の祖とされる。
伊是理媛(いぜりひめ)? 

五十猛神(いそたけるのかみ)? 

市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)? 
水の神様。弁天様と習合。
一条房家(いちじょう ふさいえ) 1475?77?~1539
; 土佐・一条氏2代当主。国人衆に攻められ滅亡した、長宗我部氏の遺児国親を庇護し扶育したことで有名。本家の京・一条氏が跡取りがなかった為、子房通に継がせている。周辺国人衆を従え、南予・西園寺氏と婚姻関係を結ぶ等、一条氏の支配基盤を確立した。

一条房家
文明7(1475)~天文8(1539)
 一条房家は、近代古典研究発展の礎を築き関白をも勤めた一条兼良の孫にあたる。
 兼良の嫡子で房家の父である教房も関白となったが、応仁の乱の勃発に伴い奈良の大乗院へ避難し、更に応仁2(1468)年10月土佐幡多荘回復のために中村に下向した。教房は中村館に居を構え、京都を模した都市建設を行った。中村では大文字の送り火も催され、小京都として発展した。それと同時に一条家は公卿から戦国大名に転じていったのである。
 房家は当初上洛して仏門に入る予定であったが、父・教房が死に、何らかの理由で上京が中止となり土佐一条家を継承することになった。
 土佐一条家の基盤は房家の代に築かれ、全盛期を現出したのも房家であった。房家は周辺諸豪族を屈服させ、家臣団へと編制していった。
 また、永正5(1508)年に長宗我部兼序が本山・吉良・大平連合軍によって居城・岡豊城を攻められ自刃すると、その嫡子国親を庇護した。国親が房家の庇護下にあったとき、房家が「高楼から飛び降りたら家名を再興させてやる」と言うと国親は本気で飛び降りようとしたという逸話が残っている。
 既に明応3(1494)年に正五位下左近衛少将に昇っていた房家は、永正6(1509)年に従四位上、永正7(1510)年に従三位、永正8(1511)年に右近中将、永正10(1513)年に権中納言と次々に昇進し、永正13(1516)年には上洛して権大納言に任じられた。また、一条本家に子・房通を入嗣させている。
 そして永正15(1518)年、房家は長宗我部の所領を分配占領していた諸豪族を説得し、本領三千貫を取り返し国親に与えた。
 その後も、永正17(1520)年に正三位、大永元(1521)年に従二位、大永6(1526)年に正二位と昇進を重ねた房家は、天文8(1539)12月13日死去した。土佐一条家は房家の曾孫の兼定のとき、長宗我部家に恩を仇で返される形で滅ぼされた。
市千魂(いちたま) 
市千魂
ヰチチ(いちち)? 
市千魂
市千魂命(いちちたまのみこと)? 
八坂神社祭神。
ヰチチ

→ 語義
市千魂命。 
ツハヤムスビ(津速産霊尊) の孫。
フツヌシの妹・アサカ姫を妻とし、アマノコヤネを生む。
『霊還し』の方法論を開発した功により、『ココトムスビ』『カスガ殿』の名と、大和の春日県の治めを、アマテルより賜る。その後老齢のため、県を治めることができなくなったというので、クシタマホノアカリが大和に下ることになる。
  
大阪市住吉区住吉、住吉 (スミヨシ) 大社、児安社 (コヤスシャ)

        ┌フツヌシ
       ??┤
        └アサカ姫┐
             ├┬アマノコヤネ──┐
ツハヤムスビ─??─ヰチヂ─┘│        ├オシクモ─アメタネコ─ウサマロ┐
              └(タケチノコリ) │     ┌・・・─・・・─・・・─・・・┘
                       ├ヒタチ  └・・・─オオカシマ
トヨケ─??─ヲハシリ─タケミカツチ─ヒメ───┘

★他の文献では、ヰチヂは津速産霊神の子で、興台産霊神の父になっている。 
津速産霊尊─市千魂命─居々登魂命─天児屋根命(母天背男命女許登能麻遅媛命)─天押雲命天種子命─宇佐津臣命大御気津臣命伊香津臣命(弟建御合命[添]、弟大期幣美命〔恩地神主家〕、弟水臣命[長柄]─梨津臣命(弟臣知人命)─梨津臣命(弟臣知人命)─建稲穂命[飛鳥直祖]、弟建御世狭名命[狭山連祖、川俣連祖]、弟神聞勝命久志宇賀主命国摩大鹿島命
『ヰチチが得らむ 霊還し ココストの根を 結ぶ文 ココトムスビの 名に据えて カスガ殿とぞ 尊ませ』8文
『三月 カスガの 年 老いて 政 休まん 理に』20文
『カグヤマは ヤマズミの二子 フトタマは ミムスビの三子 コヤネとは カスガ殿の子』20文
『勤めとて ミカサに帰り タラ 祭り』28文
『ホツマ国 カシマの宮の 世嗣に ツハヤムスビの 孫なる ココトムスビの 若子の アマノコヤネの 人と成り 陽陰の道 得て』ミ逸文
『天の中国 ミカサ山 父に語れば 調ひて 天に伺ふ この由も 祝かみ喜ぶ 御言宣 交わり 帰る』ミ逸文

一目連神(いちもくれん、ひとつめのむらじ)? 

伊豆能売(いづのめ)? 
厳粛で清浄な女性という意味。
巫女の起源となる存在。
伊邪那岐神が禊祓の為、水の中へと進んでいき出現。
伊都之尾羽張(いつのをはばり)? 
威勢のあって雄々しい刀であることを意味する。
十拳剣
逸見清光(いつみ)? 1110-1168

懿徳天皇(いとくてんのう)? -553綏靖29~-477懿徳34.09.08
母・渟名底仲媛命(ぬなぞこなかつひめのみこと)(鴨王の女)

皇居・曲峡宮(まがりおのみや)

陵墓・陵名: 畝傍山南繊沙谿上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)
形状: 山形
所在: 奈良県橿原市西池尻町

第4代 懿徳天皇は安寧天皇の第2子。安寧11年に立太子。即位後、軽の曲峡宮に遷都して天豊津媛命を皇后とした。
在位34年にして没し、畝傍山南繊沙谿上陵に葬られたという。

略歴 (紀元前)
BC553-戊申-綏靖29年 生誕
BC538-癸亥-安寧11年1月1日 立太子
BC511-庚寅-安寧38年12月6日 安寧天皇崩御
BC510-辛卯-懿徳01年02月04日 即位
BC510-辛卯-懿徳01年08月01日 安寧天皇を御蔭井上陵に葬る
BC509-癸辰-懿徳2年1月5日 軽の曲峡宮に遷都
BC509-癸辰-懿徳02年02月11日 天豊津媛を皇后とする
BC506-乙未-懿徳05年 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)が生まれる
BC489-壬子-懿徳22年2月12日 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)を皇太子とする
BC477-甲子-懿徳34年09月08日 崩御
BC476-乙丑-10月13日 畝傍山南繊沙谿上陵に葬られる。

石巣比売神(いはすひめのかみ)? 
堅固な住居の女神。
家宅六神の1柱。
石土毘古神(いはつちびこのかみ)? 
岩石と土の神。
家宅六神の1柱。
伊豫之二名島(いよのふたなのしま)? 
「国生み」から生まれた2番目の国
四国地方のこと。
四国地方は四つの面があり、それぞれ別々の名前がついている。
 1 伊予の国(愛媛県)「愛比売」(えひめ)
 2 讃岐の国(香川県)「飯依比古」(いいよりひこ)
 3 粟の国(徳島県)「大宜都比売」(おおげつひめ)
 4 土佐の国(高知県)「建依別謂」(たけよりわけ)
岩佐又兵衛(いわさ またべえ) 
京都・江戸・福井で活躍した画家。荒木村重と側室・たしの子といわれる。たしは本願寺の坊官・下間頼廉の子ともいわれる_x000B_有岡城落城時に乳母に抱かれて落ち、京都西本願寺別院に隠れた。母方の姓を名乗り岩佐又兵衛と称す_x000B_長じて織田信雄に仕えたが、生来絵が好きで妙手の域に達する。名声を聞いた将軍・徳川家光に召しだされ浮世絵の祖となる_x000B_ただし、誤伝であるという説もあり。作品に「三十六歌仙絵額」がある
石拆神(いわさくのかみ)? 
刀剣の神。
迦具土神の首を斬り湯津石村(ゆついはむら)に飛び散ってついた刀の先の血から出現しました。
石拆神・根拆神・石筒之男神・磐筒女命(いわさくのかみ・ねさくのかみ・いわつつのおのかみ・いわつつめのみこと)? 
伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。
古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆・根拆・石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)・闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。
『日本書紀』の一書によれば、伊邪那岐神が火神の迦具土神を斬ったとき、 剣から滴る血が固まって天安河辺の岩群(五百筒磐村)になった。そして「即ちこれ経津主神の祖なり」とある。
他の一書では血に染まった岩群を磐裂神・根裂神といい、 その御子磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。
石拆は石(岩・磐)を裂く程凄まじい威力、根拆と木の根を裂く程凄まじい威力という意味で、刀剣の神格化、あるいは雷神と考えられている。
石拆神(イワサク)と根拆神(ネサク)、石筒之男神(イワツツノオ)は、日本神話に登場する神で、古事記には、斬り殺された加具土神(カグツチのカミ)の血が、その刀の先から岩群に飛び散ったところから現れたと記述されている
火の神を神剣によって斬り殺したことであわられた神々であることから、火をコントロールし利用することが可能となった人間が、農耕や戦闘に有利な鉄製品を作り出したことを象徴する神々であると推察する。
イワサク:「•岩をも切り裂くほど」の刀剣、雷、農耕器具の神格化
ネサク:「•根を断ち切るほど」の刀剣、雷、農耕器具の神格化
イワツツノオ・イワツツノメ:岩の神霊・男(女)、石鎚の男神(女神)、石を砕いて土に変える男神(女神)
石土毘古神(いわづちびこのかみ)? 

石筒之男神(いわつつのおのかみ)? 
刀剣の神。
迦具土神の首を斬り湯津石村(ゆついはむら)に飛び散ってついた刀の先の血から出現しました。