歴史・人名

人名い

井伊直親(いい なおちか)
1535~1562
別:亀之丞 肥後守
父:井伊直満 養父:井伊信濃守直盛
室:奥山因幡守親朝女
子:井伊直政
 井伊氏は南北朝期より活躍した遠江の豪族。井伊谷城主。駿河・今川氏譜代の臣。しかし養父は戦死、父は謀反との讒言で当主義元に殺されている。その為直親も一時身を隠すが、義元戦死後、当主氏真に仕えた。しかし、家老小野但馬の讒言により尾張・織田氏内通の嫌疑を受け、釈明に赴く途上、氏真の命を受けた朝比奈泰朝の軍勢に討たれた。
井伊直政(いい なおまさ)
1561~1602
別:虎松 万千代 兵部少輔 侍従
父:井伊直親
室:徳川家康養女(松平康親女)
子:井伊直勝(直継)、掃部頭直孝
 父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。長久手の合戦には先鋒として参加し活躍。関ヶ原の合戦においても活躍するが、この時の戦傷が元で亡くなった。徳川四天王の1人。
伊賀久隆(いが ひさたか)
????~1578
別:左衛門尉
室:宇喜多興家女
子:伊賀与三郎家久
 備前・虎倉城主。備前守護代・松田氏に従う有力国衆であったが、やがて備前・宇喜多直家に従って松田氏を倒す。諸戦に活躍したが、直家に毛利との内通を疑われ毒殺されたといわれる。
飯川光誠(いがわ みつのぶ)
????~????
別:大炊助 主計助 若狭守
父:飯川肥前守義宗?
子:笠松但馬守?
 元能登守護吉見氏守護代の家柄。能登・畠山氏臣。遊佐氏失脚後は畠山7人衆の一人となり、合議に参加もしている。当主義綱の全面的信頼を得ており、光誠も当主に反感を抱く家臣が多い中、義綱の為に尽くす。義綱が追放されると、これに従い、能登奪還に尽力した。
池田秀雄(いけだ ひでお)
1528~1598
別:孫次郎 景雄 伊予守
子:池田伊予守秀氏
 近江・六角氏臣。しかし尾張・織田氏の侵攻に伴い、これに従う。本能寺の変では明智光秀に味方し戦うも敗戦。その後秀吉に仕え、伊予・国分城8万石を得た。慶長の役にて、朝鮮において病死。
石川昭光(いしかわ あきみつ)
1550~1622
別:次郎 大和守
父:伊達晴宗 養父:石川修理大夫晴光
子:石川遠江守義宗
 出羽・伊達氏一族だが、石川氏に入嗣する。須賀川城主、松山城主。初め実家伊達氏と敵対するが、1589年政宗の傘下に入る。翌年、羽柴秀吉の小田原征伐に遅参したことから、領地を没収され、伊達氏に仕えた。子義宗に家督を譲り隠居するが、先立たれ、再び政務を執る。大坂の陣では道明寺口の戦いで活躍し、老いても首級5を得る奮闘を見せた。
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん)
伊賀忍者で盗賊の棟梁。伊賀・石川村生まれ。石川文吾 百地三太夫の弟子となり、忍術を学ぶ。その後三太夫の妻と駆け落ちし、その妻を殺し京へ逃げる 京では石川五右衛門と名乗り、盗賊を働いた 京都所司代・前田玄以に逮捕され、豊臣秀吉によってカマユデの刑になる 母親・一味などは、三条川原で磔にされた
石川 丈山(いしかわ じょうざん)
別:石川重之。幼名・左近
父:石川信定の子
徳川譜代の臣・石川信定の子。 徳川家康に小姓として仕え、大阪夏の陣で手柄を立てるが、抜け駆けだったため論功を受けることができなかった これを契機に浪人し出家し京の妙心寺に入り、親友・林羅山の勧めで藤原惺窩に儒教を学ぶ のちに京都所司代・板倉重宗の斡旋で、広島の浅野家に仕えた。しかし十四年間仕えたのち隠居 京の洛北に詩仙堂を構え風流三昧の生活を送った 儒者・漢詩人・書家・茶人・造園家の顔を持つ文化人として有名 特に漢詩と隷書と呼ばれる書き方にすぐれ、多くの作品を残している
石川高信(いしかわ たかのぶ)
????~1581?
別:南部氏 左衛門尉
父:南部政康
室:一方井安正(定宗)女
子:南部信直、南部政信
 陸奥・南部氏一族の重鎮として活躍する。文武に優れ、津軽郡代として石川城主となり、その支配を確立した。しかし、1571年大浦(津軽)為信の急襲を受け籠城、寡兵敵せず落城した。この時亡くなったとも、1581年病死したともいわれる。
石巻康敬(いしまき やすまさ)
1534~1613
別:左馬允 康昌 下野守
父:石巻下総守康信
室:内田氏女
子:石巻康貞
 相模・北条氏の評定衆を務める。三河の人。当主氏直が豊臣秀吉の要求要請を反故にした為、弁明に上洛するが却って捕らえられた。北条氏滅亡後、徳川氏に仕えた。
伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)
????~1599
別:源太 掃部助 忠金 右衛門大夫 幸侃
父:伊集院大和守忠倉
子:伊集院源次郎忠真
 薩摩・島津氏家臣。豊臣秀吉の九州出征の時あたりから秀吉に近づくようになり、後に肝属郡に8万石を得た。しかし、主家をないがしろにする振る舞いが見られた為、秀吉死後、当主忠恒と不和になり誅殺される。その後、伊集院の一統が島津に反乱を起こすが鎮圧された(庄内の乱)。
伊集院久宣(いじゅういん ひさのぶ)
????~1587
別:美作守
父:伊集院忠胤
子:伊集院忠許
 薩摩・島津氏家臣。各地を転戦し武功を重ねるが、豊臣秀吉の九州侵攻を前に退却中、豊後・大友軍の攻撃を受け戦死。
以心崇伝(いしんすうでん)
別:金地院崇伝
父:一色式部少輔秀勝の次男
臨済宗大覚寺派の僧。足利義輝の家臣・一色式部少輔秀勝の次男 父の死後、南禅寺に入り玄圃霊三の師事する。一時、醍醐三宝院で学んだり、相国寺の西笑承兌にも指導された 最終的には南禅寺金地院の靖叔徳林に嗣法する 二十六歳で住職資格を得て福巌寺に住し、さらに十刹寺院である禅興寺に転住 のちに建長寺に住し、同年南禅寺の二百七十世住持に就任した 徳川家康の命で駿府に赴き、西笑承兌の後任として外交往復文書の書記となる。 次第に頭角を現して幕府の宗教行政にまで携わるようになって、やがて国政にも重きを成すようになった キリスト教禁制をはじめ、寺院法度・武家諸法度など多くの法令に関与する一方、方広寺の鐘銘事件では豊臣氏に難題を吹っかけ大阪の陣のきっかけを作った 家康死後の神号問題で天海と争い敗北したが、のちに僧録司となり禅宗五山派の実権を掌握した 「黒衣の宰相」といわれ政治に辣腕を振るったが、庶民には人気がなく「大慾山気根院僭上寺悪国師」とあだ名された 紫衣事件で崇伝に厳罰を主張された沢庵は、彼を「天魔外道」と評している 著書に「異国日記」「本光国師日記」「本光国師法語」などがある
出羽元倶(いずは もととも)
1555~1571
別:毛利氏 鶴法師丸 孫四郎
父:毛利元就 養父:出羽元祐
 安芸・毛利元就六男。石見・出羽元祐の養子となり出羽氏を名乗る。早世。
伊勢長氏(いせ ながうじ)
1432?~1519
別:新九郎 盛時 氏茂 早雲 宗瑞
父:伊勢貞定(盛定)?貞藤?
室:小笠原備前守政清女、葛山備中守維貞女
子:北条氏綱、左馬助氏時、葛山中務少輔氏広、北条長綱
 その出自については諸説あり確かではないが、室町幕府政所執事伊勢氏に関する一族と考えられる。応仁の乱の時は足利義視の下にあった。妹が駿河・今川義忠室となったことから駿河に下向し、義忠死後の家督争いを治める。又、幕府の申次衆を務めた。やがて内乱の続く関東方面に進出していき、関東管領上杉氏らと争いを繰り返した。1495年大森藤頼の相模・小田原城を攻略。1516年伊豆・三浦義同を討った。後代に「早雲寺殿21箇条」を伝える。尚、後北条氏の祖とされるが、長氏自身は北条氏を名乗っていない。  弟:伊勢弥次郎
磯野員昌(いその かずまさ)
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別:丹波守
父:磯野平八郎員宗
子:磯野右近行信 養子:織田(津田)信澄
 北近江・浅井氏家臣。磯野氏は元は近江守護京極氏の被官であり、浅井氏が京極氏から離反した後も京極氏を守っていたが、員詮の時、浅井氏に抵抗する有力被官浅見氏に与して敗れ、浅井亮政の軍門に下った。員昌は浅井長政の有力武将として多くの戦いに参戦、姉川の戦いでは先陣を務め、倍する尾張・織田氏の軍、13段の構えの内11段まで打ち破る猛攻を見せた。しかし、姉川の戦いでは浅井氏が敗れ、居城佐和山城に引き揚げた。その後、諜略により内通を疑われて人質を殺されたことから、織田方に降伏した。織田氏の下、近江・新庄城主になるが、1578年突如所領没収され、高野山に逃れた。
板垣信方(いたがき のぶかた)
????~1548
別:信形 駿河守
子:板垣弥次郎信憲、(乾)正信
 甲斐源氏流。甲斐・武田氏臣。当主晴信(信玄)の傅役だったという。信玄の父信虎追放に協力した。以後、甘利虎泰と共に重鎮として、信玄を助け家中を支える。信玄が一時遊事に耽った際は決死の覚悟で諫めた。軍略にも優れ、後に"龍神三段の構えあり"と評される。しかし、信濃・村上義清との上田原の合戦にて不意をつかれ討死。尚、虎泰も同合戦にて戦死している。尚、2男正信は後に乾氏を名乗って土佐藩に仕え、有名な板垣退助正形はその裔。  弟:室住玄蕃充
板部岡融成(いたべおか とおなり)
1537~1609
別:田中氏 越中守 江雪斎 岡野氏
父:田中泰行?康行? 養父:板部岡康雄
子:岡野房恒
 鎌倉幕府執権北条氏の裔との説有り。江雪斎の名で有名。板部岡康雄の遺領を継ぐ。相模・北条氏の評定衆であり、主に外交面で働いている。甲斐・武田信玄死去の際には、その真偽確認に甲斐に赴いているが、身代わりとなった信玄の弟信廉を信玄と見間違えて、信玄生存と報告している。豊臣秀吉との折衝も務めたが、北条氏は滅亡。以後岡野に改姓して、秀吉の御咄衆となり、やがては徳川氏に仕えた。茶人としても優れていた。
伊丹康直(いたみ やすなお)
1523~1596
別:千代松 雅勝 康明 秀虎 大隅守
父:伊丹雅興
子:伊丹播磨守康勝
 摂津・伊丹城主の子であったが、落城により各地を流浪、やがて今川氏に仕えるといわれるが、真偽は不明。駿河・今川氏の下水軍を統べる。甲斐・武田氏の駿河侵攻にともない、武田氏の船大将となる。武田氏が滅亡すると今度は三河・徳川氏の御船奉行を務めた。
一条兼定(いちじょう かねさだ)
1543~1585
別:万千代 康信 パウロ 左近衛少将 左近衛中将 権中納言
父:一条房基 養父:一条房通
室:宇都宮豊綱女、大友義鎮女
子:一条内政
 土佐国司職。当初は政事、軍事に精を出していたが、やがて放蕩を好み日夜酒宴、遊興にふけるようになった為、家臣らに豊後に追放された。その後、豊後の大友義鎮に兵を借り、伊予から再度土佐へ侵攻を試みたが、失敗した。42歳で病死。
一条内政(いちじょう ただまさ)
????~1580
別:万千代 左近衛中将 三位中将
父:一条兼定
室:長宗我部元親女
子:一条摂津守政親
 土佐・一条氏当主。父追放後、土佐・長宗我部氏に養われる身であったが、波川清宗の謀反に加担した嫌疑を受ける。伊予追放となり、24歳の若さで亡くなるが、一説には元親が毒殺したともいわれる。
一条信龍(いちじょう のぶたつ)
????~1582
別:武田氏 右衛門大夫
父:武田信玄
子:一条上野介信就
 甲斐・武田氏一族。同じ名族一条氏を継いだ。気骨がある一方で、風雅を解する武将でもあったようだ。長篠の敗戦では、馬場信春と共に、本隊が退くまで戦場に留まった。武田氏滅亡の折には、徳川軍を迎え撃ち戦うが、捕らえられ処刑される。
一条房家(いちじょう ふさいえ)
1475?77?~1539
別:左近衛少将 権大納言
父:一条関白教房
室:源惟氏女、日野資冬女、東小路氏女、五辻富仲女
子:一条房冬、一条房通、東小路教行
 土佐・一条氏2代当主。国人衆に攻められ滅亡した、長宗我部氏の遺児国親を庇護し扶育したことで有名。本家の京・一条氏が跡取りがなかった為、子房通に継がせている。周辺国人衆を従え、南予・西園寺氏と婚姻関係を結ぶ等、一条氏の支配基盤を確立した。
一条房基(いちじょう ふさもと)
1522~1549
別:右近衛中将 権中納言
父:一条権中納言房冬
室:大友義鑑女
子:一条兼定
 土佐・一条氏当主。祖父、父を失ってからも、土佐七雄の津野基高を攻めてこれを降す等、勢力拡大に努める。しかし、28歳の若さで亡くなった。狂気の為自害したといわれる。
一色藤長(いっしき ふじなが)
????~1596
別:松丸 七郎 一遊斎 式部少輔
父:一色式部少輔晴具
室:一色秀勝
子:一色式部少輔範勝、宗朴
 足利幕府の幕臣。一色氏は三河・吉良庄一色が発祥で、その後丹後守護職となって、そこから将軍家奉行職に分派した流れをひく。将軍義輝に仕え、その死後は義昭に従って各地を流浪。尾張・織田信長の助力で義昭が上洛を果たすと、幕府御供衆に返り咲く。しかし、やがて義昭は再び追放され、藤長もこれに従った。信長との関係修復に尽力するが果たせず、紀伊、備後と流浪を続ける。やがて、細川藤孝の下に身を寄せた。
伊東祐勝(いとう すけかつ)
1569~1594
別:小右衛門尉 義勝 ゼロニモ
父:伊東義益
 日向・伊東氏一族。 天正遣欧使節の候補に挙がっていたが、予定が合わなかったため、代わりに一族祐益(マンショ)が選ばれたという。朝鮮出兵に参加して病となり、帰国後病没。
伊東祐兵(いとう すけたか)
1559~1600
別:虎熊丸 六郎五郎 六郎三郎 祐隆 豊後守 民部大輔
父:伊東義祐
室:伊東義益女
子:伊東祐慶、祐寿
 日向・伊東義祐3男。薩摩・島津氏の侵攻に敗れ、父と共に豊後そして伊予に逃れる。1582年京に上って羽柴秀吉に仕え、九州征伐の時には、先導役として日向に入って旧領を復し、飫肥5万石初代藩主となる。朝鮮出兵にも参加して活躍、関ヶ原の役では日向で唯一東軍についたが、病に倒れ大坂で42歳で亡くなった。
伊東祐慶(いとう すけのり)
1589~1636
別:熊太郎 祐典 左京亮 修理大夫
父:伊東祐兵
室:佐藤隆勝女?豊臣秀次女?
子:伊東祐久、祐豊
 関ヶ原の合戦では東軍に味方し、病に倒れた父に代わって領国日向に帰り、高橋元種の宮崎城を陥とし、薩摩・島津氏の佐土原城も攻める。父の死で当主となる。
伊東祐青(いとう すけはる)
????~1577
別:修理亮
父:伊東祐生 養父:伊東義祐
室:伊東義祐女
子:伊東虎千代麿祐益(マンショ)、勝左衛門(ジュスト)
 日向・伊東氏一族。薩摩・島津氏の侵攻を受けて、当主義祐らを守って豊後へ敗走中に戦死。
伊東マンショ(いとう まんしょ)
別:伊東虎千代麿
父:伊東祐青
日本名・伊東虎千代麿。日向国主・伊東義祐の娘の子。父は伊東祐青
島津家による日向侵攻で伊東一族が豊後に逃れたとき、孤児となる。ヴァリニャーノ神父に引き取られ受洗
大友宗麟の天正少年使節団の一員となり、宗鱗の名代とされた
スペイン国王や教皇と謁見
帰国後、マカオで修道士として修行し、九州で布教活動を行った
伊東義賢(いとう よしかた)
1568~1594
別:慶竜丸 三左衛門 義綱 義荘 パルトロメオ 左京亮
父:伊東義益
室:大友義鎮女?
 日向・伊東氏一族。父が義賢1歳の時に病死した為、祖父義祐の元で育ち、伊東氏没落後、義祐らが伊予に逃れた後も、豊後・大友氏に養われる。叔父祐兵が、羽柴秀吉の力を借りて日向の旧領を回復すると、飫肥に地を得る。朝鮮出兵の最中に病没。27歳。義賢の人望を怖れた祐兵に毒殺されたとも。
伊東義祐(いとう よしすけ)
1512~1585
別:虎熊丸 六郎五郎 祐清 昭眼 三位入道 修理大夫 大膳大夫
父:伊東大和守尹祐
室:河崎某女、福永某女
子:伊東観虎丸、義益、祐兵 養子:伊東祐青
 日向・伊東氏10代当主。兄祐充の死後、1536年当主となり、弟祐吉擁立派との内紛に荒れた家中をまとめる。豊後・大友氏を後ろ盾に再三薩摩・島津氏と争うが、1577年敗れて大友氏の元に走り、大友氏の耳川大敗後は伊予に逃れた。最期は堺まで流浪して、74歳で没。
伊東義益(いとう よします)
1546~1569
別:虎房丸 六郎 左京大夫
父:伊東義祐
室:一条房基女
子:伊東義賢、祐勝
 日向・伊東義祐二男。兄の死後父より家督を継ぐ。文武に秀で、政事にも明るく、家中のみならず民衆の信望も厚かったといわれる。しかし、薩摩・島津氏との戦いの中、若くして病没した。24歳。
稲葉良通(いなば よしみち)
1515~1588
別:越智氏 六郎 彦四郎 彦六 通似 通朝 貞道 長通 一鉄仙斎 右京亮 伊予守
父:稲葉通則?
子:稲葉兵庫頭重通、貞通、土井直政、稲葉方通
 “西美濃三人衆”の1人。初め美濃・土岐氏、斎藤氏に仕え、その後美濃に侵攻してきた尾張・織田信長に臣従する。その後各地を転戦し、姉川の合戦では近江・浅井軍の側面を突き、織田軍の危機を救う。一時信長は彼の才を怖れ、殺そうとしたが、その文才を見いだし思い留まったという。信長死後、羽柴秀吉に仕え、74歳で亡くなった。例え信長の前であろうとも、自分の意見を変えず、“一徹者”の語源となる。
猪苗代盛国(いなわしろ もりくに)
????~????
別:平太郎 盛親 弾正忠
父:猪苗代盛頼?
室:金上盛定女、二階堂氏女
子:猪苗代盛胤、盛直、亀丸
 猪苗代氏一族は会津・蘆名氏庶流だが主家に逆らい度々叛している。会津・猪苗代城主。家督を嫡子盛胤に譲るが、後妻の言に踊らされて、嫡子を廃して猪苗代城を奪還、父子で争った。陸前・伊達氏の侵攻に際し、伊達成実臣羽根田直景を介してこれに寝返り、摺上原で蘆名勢と戦う。先鋒としても活躍し、伊達氏大勝の一因を作った。後に伊達家中で準一家に列せられた。
猪苗代盛胤(いなわしろ もりたね)
????~????
別:左馬介
父:猪苗代盛国
子:中野作左衛門盛親
 磐城・蘆名氏臣。1585年父より家督を受けるが、3年後、その父に城を奪われる。その後は父との抗争を続けた。1589年摺上原の合戦では、陸前・伊達側についた父に対し、あくまで蘆名氏に従い戦うが敗北。戦後、流亡する。
井上元兼(いのうえ もとかね)
????~1550
別:源太郎丸 河内守
父:井上光兼
子:井上就兼、井上就澄
 安芸・毛利氏重臣。源頼季の裔という。毛利元就の家督相続に貢献して家中での力を伸ばした。しかし、専横な振舞が多く、元就の命令にも服さないことが度々あったことから、元兼とその一族ほとんどが誅殺された。
猪俣邦憲(いのまた くにのり)
????~1590
別:助盛 能登守
 相模・北条氏重臣富永氏の出。北条氏邦の奉行人から箕輪城代になる。のちに沼田城が支城になると、ここに城代として派遣された。1589年真田氏の上野・名胡桃城を謀略で陥とすが、逆に豊臣秀吉から約を違えたとして、小田原征伐の口実となってしまう。小田原城落城後、磔にされた。
揖斐光親(いび みつちか)
????~????
別:土岐氏 五郎
父:土岐政房 養父:揖斐基信
 美濃守護・土岐氏一族。子がなかった揖斐氏当主基信の養子として美濃・揖斐城主となる。後奈良天皇が資金不足にて10年間即位の儀式を行えずにいたところ、1526年献金を行いこれを実施させている。1547年斎藤道三が守護土岐頼芸を大桑城に攻めて追放した際、頼芸に与した光親も、揖斐城を攻められて落城。城を脱出してその後は流浪するが、やがて復帰して斎藤道三の子義龍に従った。
今井定清(いまい さだきよ)
????~1561
別:尺夜叉丸 左近 備中守
父:今井秀俊
子:今井小法師丸秀形(秀家)
 近江守護・京極氏重臣の家柄。父秀俊は台頭著しい近江・浅井氏に通じ、これにより近江守護・六角氏に攻められて自刃。この為、定清は幼時から六角定頼の庇護を受け成人するが、京極氏との内通を疑われて人質を殺害された為、六角を離れ旧主京極氏の下に戻った。しかし、恩義ある六角氏に抵抗できず、進退に苦しんで、隠棲していたところを、浅井長政に招聘され、箕浦城主となった。長政に従った定清は六角氏との戦闘に力を尽くすが、磯野員昌の加勢を得て太尾城を夜襲した際、敵と見誤った員昌の兵に、背後から刺されて戦死。
今井 宗久(いまい そうきゅう)
父:武野紹鴎の娘婿
堺の豪商。屋号は納屋。武野紹鴎の娘婿で弟子 東近江の貧しい商人の子で諸国放浪後に大和・今井で商売をはじめ土地の有力者となる その後堺の豪商・納屋宗次の下で商売を行い、武野紹鴎に弟子入りして茶を学ぶ 紹鴎の娘を娶り宗次から暖簾分けしてもらい納屋宗久と名乗る 紹鴎没後にその息子(後の宗瓦)の後見となり、紹鴎秘蔵の名物茶器を勝手に持ち出して大名との関係を深めた 織田信長と堺衆の対立では津田宗及と共に町衆を説得し武力衝突を回避した 以降信長の信頼を得て鉄砲・弾薬を独占し巨富を築いた しかし信長没後は羽柴秀吉から遠ざけられて勢力は衰えた 茶道三宗匠の一人で、個性がないのが個性と言われた
今井 宗薫(いまい そうくん)
父:今井宗久の嫡男
堺の町衆で茶人。後に武士となった 父の遺領を継ぐことができず摂津・住吉郡内で千石の知行を与えられ、茶頭として豊臣秀吉に出仕 関ケ原後には徳川家康の近臣として仕え、後に和泉・河内の代官となった 大坂冬の陣では東軍に通じる嫌疑を受けて大坂城に監禁される のちに逃れて東軍に従った
今川氏真(いまがわ うじざね)
1538~1614
別:五郎 彦五郎 上総介 治部大輔 刑部大輔
父:今川義元
室:北条氏康女、庵原右近太夫忠康女
子:今川左馬助範以、品川新六郎高久、西尾安信、今川澄存
 父戦死後、駿河・今川氏当主となるが、蹴鞠(達人級?)華道に没頭する。内政面ではそれまでの政策を受け継いで、検地、楽市等を行うが、武将としての器に欠け、家臣の離反が相次ぎ、独立した徳川家康に攻められ大敗、相模・北条氏の下に走った。舅氏康死語、北条氏を逐われると、今度は家康を頼り、後に上洛、仇織田信長にも謁見している。以後京に居住し、1612年駿府城にて家康訪問後は江戸品川に下向、77歳で没。
今川氏親(いまがわ うじちか)
1470~1528
別:龍王丸 彦五郎 上総介 治部大夫 修理大夫
父:今川義忠
室:中御門宣胤女、福島氏女
子:今川氏輝、彦五郎、良真、義元、氏豊
 駿河守護今川氏当主。父は応仁の乱で東軍に付き、遠江攻略後、塩月坂にて不慮の戦死。氏親4歳の時であり、一族範満との間で家督争いが生じて堀越公方足利氏、関東管領上杉氏の介入を招いた。これは客分にあった伯父伊勢長氏(後の北条早雲)の仲裁で争いは鎮まり、乱を逃れていた氏親も駿府に戻る。この縁で北条氏との同盟を結んで、1517年引馬の戦いにて遠江一円を攻略、三河、尾張に勢力を伸ばした。武勇に優れた一方、領国経営にも手腕を見せて検地、知行制度の確立、1509年には分国法「今川仮名目録」33ヶ条を制定している。
今川氏輝(いまがわ うじてる)
1513~1536
別:龍王丸 五郎 上総介
父:今川氏親
 父の病死で、14歳で駿河守護今川氏当主となる。母寿桂尼の輔佐を受け国政を行い、商業振興、旗本馬廻衆設置などに取組むが、甲斐・武田信虎との戦傷が元で若くして急死。次弟彦五郎も同時に死んでおり、謀殺されたともいわれる。
今川義元(いまがわ よしもと)
1519~1560
別:芳菊丸 梅岳承芳 駿河守 三河守 治部大輔
父:今川氏親
室:武田信虎
子:今川氏真、泉奘、長得
 僧籍にあったが兄急死後、兄良真との家督争い(花倉の乱)に勝ち、駿河・今川氏当主となる。太原雪斎を軍師に迎えて相模・北条氏、尾張・織田氏に侵攻し勢力を拡大、後には甲相駿三国同盟を結んで地盤を確実なものとした。内政についても父からの領国経営を継承して検地を徹底、直臣の強化を図ると共に、「仮名目録追加」21ヶ条を出している。今川氏は全盛期を迎え、“海道一の弓取り”とうたわれた。1560年、2万7千の大軍を率いて上洛を図る(尾張攻略のみとも)が、桶狭間において雨の中休息中、尾張・織田信長に奇襲を受け、自ら太刀を振るって戦うが、その臣毛利新介に討たれた。享年42歳。義元は京風文化に憧れ、顔に化粧を施し、又、肥満していた為、行軍時は輿に乗っていたという。
今木一政(いまき かずまさ)
????~1658
別:浅井氏 源右衛門 長門守 正祥
父:浅井定政
子:浅井政右、武康
 近江・浅井氏庶流。浅井長政の娘・淀殿を頼って羽柴秀頼に近習として仕えたという。1615年大坂城に籠城するが、落城直前に徳川家康へ使いに赴き、秀頼らの助命を願い出る。しかし、すでに城に火が点き、秀頼らは自害しまった為姿を消す。その後、加賀・前田利常を頼って家臣となり、1千石を得る。1658年利常に殉じて自害したという。
入田親誠(いりた ちかざね)
????~????
別:親実 親真 掃部頭 丹後守
父:入田親廉
室:阿蘇惟豊女
子:入田義実(宗和)、親利、鎮氏
 豊後・津賀牟礼城主で豊後守護大友義鑑の加判衆の一人。大友親時の子泰親を祖とする。教育係を務めたが不和となった大友義鎮の廃嫡を謀り失敗。肥後・阿蘇氏の元に逃れるが、討たれた。
入交信(いりまじり ???)
????~1613
別:松田豊後守
父:入交助六左衛門
室:大和・長照寺東之丞女
子:入交惣左衛門、太郎右衛門重信、助左衛門重俊、竹田次郎兵衛
子:入交惣左衛門、太郎右衛門重信、助左衛門重俊、竹田次郎兵衛  土佐・一条氏臣。後に長宗我部氏に臣従。3000石領有。長宗我部氏没落後、1601年藤堂高虎に招かれるが、息子4人を仕官させて己は辞退した。
色部勝長(いろべ かつなが)
????~1569
別:弥三郎 修理亮
父:色部遠江守憲長
子:色部弥三郎顕長、惣七郎長実(長真)
 色部氏は秩父氏の流れ。初め山内上杉氏に仕え、後に越後・長尾氏に仕える。中条藤資らが上杉定実の養子に、陸前・伊達氏から後嗣を迎えようとした際にはこれに反対する。1561年の川中島の合戦では謙信血染めの感状を受けた。反旗を返した本庄繁長攻略中に夜襲を受け戦死。
岩城常隆(いわき つねたか)
1567~1590
別:左京大夫
父:岩城親隆
室:二階堂盛義女、佐竹義重女
子:伊達長次郎政隆 養子:岩城(佐竹)能化丸貞隆
 陸奥・岩城氏当主。父親隆と共に再三伊達氏らと争い、1589年伊達氏が葦名氏を破ると、これと講和する。翌年羽柴秀吉の小田原征伐に参陣し、領地安堵を得るが、陣中の鎌倉において急死。
岩佐 又兵衛(いわさ またべえ)
京都・江戸・福井で活躍した画家。荒木村重と側室・たしの子といわれる。たしは本願寺の坊官・下間頼廉の子ともいわれる 有岡城落城時に乳母に抱かれて落ち、京都西本願寺別院に隠れた。母方の姓を名乗り岩佐又兵衛と称す 長じて織田信雄に仕えたが、生来絵が好きで妙手の域に達する。名声を聞いた将軍・徳川家光に召しだされ浮世絵の祖となる ただし、誤伝であるという説もあり。作品に「三十六歌仙絵額」がある
犬童頼安(いんどう よりやす)
1521~1606
別:熊徳丸 軍七 伝心 休矣 美作守
父:犬童美作守重安
子:犬童清兵衛頼兄
 肥後・相良氏臣。犬童氏は、相良長定謀反に加担した為に一族が滅亡したが、その時まだ幼少であった頼安は許された。その頼安も相良治頼の謀反に加担して出国するが、後に許され帰参している。以後相良氏の為忠義を尽くし、獺野原の合戦等で武功を挙げた。又、薩摩・島津氏に水俣城を囲まれた際には、島津方の将新納忠元と連歌の応酬を見せている。相良氏が島津氏に降った後も、幼主頼房の下深水宗芳と共に、相良氏存続の為力を尽くした。家中の信望厚く、頼安が亡くなった際には、7人の殉死者を出している。