歴史・人名

朝鮮半島概観

朝鮮半島概観
7Cの朝鮮半島(高句麗・百濟・新羅・倭国)

7Cの朝鮮半島概観
朝鮮の歴史における三国時代とは朝鮮半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代(4世紀ころから7世紀ころ)をいう。

中国大陸では581年、隋(581年 - 618年)は、分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。
隋の滅亡後、唐(618年 - 907年)は、7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本(倭国)などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。
まさに、朝鮮半島は中国を巻き込んだ大戦乱の時代になり、倭国も無関係ではいられなくなった時代である。

隋は、中国の王朝と敵対関係にあった高句麗に対して、計5回の遠征軍を送るも決定的な打撃は与えられなかった。

唐は高句麗との闘いに重きを置き、新羅と連合(唐・新羅の同盟)して660年にまず南の百済を滅ぼした。
その後、兵力の重点を高句麗攻撃に移したため、百済旧領地が手薄になり百済の占領地に置いた熊津都督府の支配力が弱まった。
そのすきに残党の百濟は力を付け、たびたび新羅に攻め込んだ。
百済と交流関係にあった倭国は661年、662年に応援兵力を繰り出している。
この動きに対して、唐は腹をかため、一気に決着をつける方針にでた。
大軍を繰り出して唐・新羅連合軍は663年、白村江で百済・倭国連合軍と衝突、百済・倭国連合軍は大敗し、百済は完全に支配された。
この後、唐は、羈縻政策を新羅にも実行し、鶏林都督府をおいた。
百済旧域の熊津都督府の下部に、北九州にも筑紫都督府が設置され、唐の軍隊が664年から672年まで駐留した。

その後、唐・新羅連合軍は最終的に高句麗を滅ぼすことに成功(668年)、平壌に安東都護府を設置した。

・ もとより唐は、羈縻政策をもって朝鮮半島を支配する考えであった。
羈縻政策を新羅にも実行したことや百濟・高句麗の戦後処理の問題で新羅の反発を引き起こした。
唐・新羅戦争が生じ、唐の国内情勢の問題もあって、唐は力を出し切れず、安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。
新羅はその後、唐から赦されて冊封を受け朝貢国となった。

同じ頃、満州ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を起こした混乱に乗じて、高句麗の遺民と粟末靺鞨が中心となり震国(のち渤海)を立て、唐から独立した。
やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配を巡って唐と対立し、唐は733年には水軍を送って山東半島の登州を一時占領したが、間もなく講和して渤海郡王に冊封し羈縻支配下へ組み込んだ。
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続けた。

倭国では、672年に壬申の乱が起きて天武天皇の時代に入り近畿を中心とした王朝体制が明確になる。
701年には大宝律令を発布し、本格的な律令国家になっていく。倭国から日本国へ!

7Cの高句麗概観
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。
このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。

出典 Wikipedia

隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。
これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。
高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。

新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。

さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。
ここに高句麗は滅亡した。

7Cの百済概観
600年代に入ると朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。
武王は、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。
しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。

一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって新羅との争いはやまなかった。

このころは倭国に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた。

この間も唐に対して朝貢を続けており、新羅を国際的に孤立させて追い詰めようとしていたところが、新羅と唐との接触を招くこととなった。
この後も新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金庾信の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、大敗した。

660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)して百済を攻めることとなり百済は滅んだ。

百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗して失敗に終わった。

7Cの新羅概観

600年代に入ると朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。
真平王の時代、防戦状態が続いたが、阿莫城での会戦では百済を大敗させ、高句麗が北漢山城に侵入した際には、親征して高句麗を撃退した。
しかし608年には高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられてもいる。
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは激しく戦って幾つもの城を失い、また城主を戦死させられるなど敗戦が続いた。

626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。
真徳女王は王族の金春秋(後の武烈王)を息子の金文王らとともに648年に唐に派遣し、百済討伐の援軍を願い出てようやく太宗から一応の了承を得ることができた(唐・新羅の同盟)。
金春秋の帰国とともに、649年より唐の衣冠礼服の制度をとりいれ、650年には独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用いるようにするなど、唐との関係を磐石のものとした。

660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)して百済を攻めることとなり百済は滅んだ。

文武王の時代には663年5月からは百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の大規模な反乱を起こし、百済・倭国の連合と唐・新羅の連合との間に白村江の戦いが行なわれたが、この戦いにおいて倭国の水軍を壊滅させ、百済の再興の望みを断ち切ることになった。

666年には唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東道行軍大摠管に任命して高句麗への攻撃が開始された。 新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、高句麗を滅ぼすことに成功した。

百済・高句麗を滅ぼした後に直ちに半島統一ができたわけではなく、先立って663年には新羅もまた鶏林州都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じられていたように、唐は百済の故地に熊津都督府を、高句麗の故地には安東都護府を設置し、それぞれの遺臣を用いて統治させるという羈縻政策を用いようとした。

新羅は却って旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明確にし次々に旧百済領域を奪取していった(唐・新羅戦争)。
このために唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まっていた王弟の金仁問を新羅王に代えようとするとともに、劉仁軌らが新羅討伐に出兵することとなった。

文武王は675年に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、その後も小規模な戦闘を繰り返し、676年には白江河口部の伎伐浦で唐軍に大打撃を与え、ついに唐の新羅征討と半島支配をあきらめさせた。
唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島から唐の勢力は排除されることとなった。

神文王は先王が死去すると王位に就いた。三国統一後の唐の撤退を受けて、国内統治の基盤を固め、王権の強化に努め、 684年名実ともに新羅による半島の統一支配が完成した。

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【百済】と倭国
7cの【百済】と倭国
600年 百済王武王時代
最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐(隋の高句麗遠征)に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。

602年 百済王武王時代
新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。

607年 百済王武王時代
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出した。

611年 百済王武王時代
隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。

618年 百済王武王時代
椵岑城は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。

621年 百済王武王時代
隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢。

624年 百済王武王時代
唐より帯方郡王・百済王に冊封される。

626年 百済王武王時代
高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。

627年 百済王武王時代
新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。
新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せたものの、新羅との争いはやまなかった。

634年 百済王武王時代
先代の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。

641年 百済王義慈王時代
在位:641年 - 660年
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。
義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。 王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。 またこのころは日本に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた。

642年 百済王義慈王時代
7月に単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下した。
8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。
この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。
また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった。

644年から649年 百済王義慈王時代
新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金庾信の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、649年8月に道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗した。

651年 百済王義慈王時代
唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られたが、その後も新羅との争いは止まらなかった。

653年 百済王義慈王時代
豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月であるが、『三国史記』百済本紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるので、この頃ではないだろうかとする説もある。

655年 百済王義慈王時代
高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃から連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、既に朝政を顧みなかったという。

660年 百済王義慈王時代
唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)して百済を攻めた。ここに百済は滅んだ。

660年 唐王朝
唐朝が百済を滅ぼすと、百済の故地に熊津都督府を設置

韓国歴史地図 平凡社

日本書紀(参考資料)

631年 日本書紀
舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年

642年 日本書紀
皇極天皇元年1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したとされている。

647年 日本書紀
新羅は上臣の大阿飡の金春秋たちを派遣して、博士の小徳の高向黒麻呂・小山中の中臣連押熊を見送り、来て、孔雀を1隻を献上した。そして春秋を人質とした。春秋は姿顔が美しくて、善で、談咲した。

650年 日本書紀
孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。豊璋は日本と百済の同盟を担保する人質ではあったが、倭国側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いであり決して悪くはなかった。

660年 日本書紀
唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼしたという知らせが届いた。
百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだけだったので、百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。
当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。

662年 日本書紀
662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。
豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。

663年 百済の滅亡後
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗して失敗に終わった。

663年 日本書紀
663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流した。
やがて唐本国から劉仁軌率いる7000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江(韓国では白江、白馬江ともいう)で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。

664年5月17日 日本書紀
百済鎮将の劉仁願が、朝散大夫の【郭務悰】等を遣わし、表函と献物を送り届けた。(天智3年)

664年10月1日 日本書紀
郭務悰】を送り出す勅を出された。鎌足は沙門智祥を遣わして品物を-【郭務悰】に贈る。

664年10月4日 日本書紀
【郭務悰】らに饗応された。

664年12月12日 日本書紀
【郭務悰】等が帰途についた。

665年9月23日 日本書紀
唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣してきた。
この一文には、施注が付いており「"等"とは右戎衛郎将上柱国百済祢軍朝散大夫柱国【郭務悰】をいう。
およそ254人。7月28日対馬に着き、9月20日筑紫に着いた。23日、表函を奉った。

665年10月23日 日本書紀
菟道で閲兵した。

665年11月13日 日本書紀
劉徳高等に饗応をされた。

665年12月14日 日本書紀
劉徳高等に物を賜った。この月、-劉徳高等は帰途についた。

667年天智11月 日本書紀
百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石爲を以て送使とす。

667年11月13日 日本書紀
司馬法聰等が帰国。小山下伊吉連博徳・大乙下笠諸石をもって、使者を送った。

668年1月3日 日本書紀
天智天皇が即位する。 (天智7年)

669年10月16日 日本書紀
藤原内大臣(鎌足)薨去。  (天智8年)
この年、第5次遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に向う。
「大唐が【郭務悰】ら2000余人を遣わしてきた」

671年1月2日 日本書紀
大友皇子が太政大臣となった。

671年1月13日 日本書紀
百済鎮将の劉仁願が、李守真等を遣わして、上表した。

671年7月11日 日本書紀
唐人李守真等と百済の使人らは共に帰途についた。

671年10月 朝鮮半島での出来事
新羅は、百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して、百済地域を占領した。
百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍が、黄海で新羅の水軍に敗れた。
これにて、旧百濟領に設置された熊津都督府は消滅した。

671年11月2日 日本書紀
沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が唐から来た。
彼らが申すには、唐国の使人【郭務悰】等600人、送使沙宅孫登等1400人、総計2000人が、船47隻に乗り、比知島に停泊、相談した結果「いま我らは人数も船数も多い。突然彼の地に入港すれば、防人たちは驚いて矢を射て戦おうとするだろう。
そこで道久等を遣して、前もって来朝の意を伝えたし」とのこと671年11月10日対馬国司が使いを太宰府に遣わして報告した記事がある。

671年12月3日 日本書紀
天智天皇が近江宮で崩御。

672年3月18日 日本書紀
内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を【郭務悰】等に告げた。
是に、【郭務悰】等は、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、東に向って首を垂れた。

672年3月18日 日本書紀
【郭務悰】等は再拝し、書函と信物を献上した。

672年5月12日 日本書紀
甲冑弓矢を【郭務悰】等に賜る。
この日、【郭務悰】等への賜物は全部で[あしぎぬ]1673匹、布2852端・綿666斤だった。

672年6月30日 日本書紀
【郭務悰】等が帰途についた。

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【高句麗】と隋・唐
7cの【高句麗】と隋・唐
595年 高句麗嬰陽王時代
(倭国)高句麗より恵慈来朝。後に聖徳太子の師となったと言う。

598年 高句麗嬰陽王時代
靺鞨の人々を率いて遼西に進入し、そのために隋の文帝の怒りを買い隋の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)(第一次遠征)を引き起こすことになった。

600年 高句麗嬰陽王時代
大学博士の李文真に命じて、高句麗の建国後間もなくからの古い歴史書である『留記』100巻の整理を行い、『新集』5巻に編纂させた。

607年 高句麗嬰陽王時代
突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬帝に見られ、第二次遠征(612年)の遠因となった。

610年 高句麗嬰陽王時代
(倭国)高句麗より曇徴来朝。碾磑(みずうす)を製法を伝える。

613年 高句麗嬰陽王時代
第三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせることとなった。

618年 高句麗栄留王時代
即位した年に中国では唐が建国されており、栄留王は直ちに唐に対して朝貢を行い、和親を結んだ。

622年 高句麗栄留王時代
隋の高句麗遠征の時の捕虜を互いに交換した。唐に送還された捕虜は1万人に及び、唐の高祖は非常に喜んだ。

624年 高句麗栄留王時代
唐の暦を願い出て、唐はこれに応える形で栄留王を<上柱国・遼東郡公・高句麗国王>に冊封した。
また、このとき高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『老子』の講義を受けた。

625年 高句麗栄留王時代
唐に使者を送り、仏教・道教の教法を学びたいと申し入れし、これを許されている。
しかし、唐が国内の混乱を収めていったころから両国間の緊張は高まってきた。

630年 高句麗栄留王時代
唐は東突厥を撃破した後、唐は翌631年に栄留王に対して高句麗の対隋戦勝記念塚の破壊と、京観に使われた隋兵の遺体・遺骨の返還とを求めてきた。

640年 高句麗栄留王時代
唐が640年に高昌国を服属させると、世子の桓権を唐に派遣し国学への入学を要請する(=実質的な人質として差し出す)などして、緊張の緩和に努めた。

642年 高句麗栄留王時代
唐が高句麗を討とうとしていることに対して、国内の体制の再編を図る必要があると考えた淵蓋蘇文はクーデターを起こし、栄留王は100名以上の臣下とともに殺害された。『旧唐書』・『三国史記

642年 高句麗宝蔵王時代
唐と結んだ新羅とは敵対関係が続いていたが、百済とは緊密な関係を維持した(麗済同盟)。
高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百済が滅亡した660年まで続いた。

668年 高句麗宝蔵王時代
第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、ここに高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降して長安に連行されたが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなく、唐から司平大常伯・員外同正に任命された。

668年 高句麗宝蔵王時代

高句麗が滅亡する。新羅と唐の連合軍に滅ぼされるまで、高句麗は東アジアにおいて強い影響力を持つ帝国であり軍国主義国であった。
この時期、倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。
高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族だと推測される。
高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。

668年 唐王朝
唐(新羅軍も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に設置され、鴨緑江下流域及び遼東地区を管轄した。

668年 唐王朝
高句麗と百済が唐朝により滅亡すると、旧高句麗に安東都護府、旧百済に熊津都督府、新羅に鶏林州都督府を設置し、朝鮮半島全域を藩属国から羈縻州へと変更された。

677年 高句麗滅亡後
唐が朝鮮半島の経営を放棄せざるを得なくなると、これに伴って遼東地域には動揺が生じた。
そこで唐はこれを抑えるために宝蔵王を遼東州都督・朝鮮王に任じて遼東に帰らせた。
ところが宝蔵王は唐の意に反して高句麗流民を糾合し、靺鞨と内通して高句麗復興を図った。
これが発覚すると681年に邛州に流され、682年頃死去したと見られる。
高宗は詔して宝蔵王の遺体を首都長安に送らせ、突厥の頡利可汗の墓のそばに葬らせた。

隋・唐の高句麗出兵

隋の高句麗遠征は、598年から614年まで4回にわたって行われた。

第1次遠征
598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝は、30万の大軍で陸海両面で高句麗に侵攻したが、周羅睺が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。

第2次遠征
612年正月、隋の煬帝は、60万の大軍で高句麗に侵攻した。高句麗の将軍乙支文徳は、隋軍の内情を探るため、降伏すると見せて隋軍の陣に入り、補給に問題があることを知ると、脱出して高句麗軍に戻った。乙支文徳は、焦土作戦を取りながら、わざと退却し続け、宇文述が率いる隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。乙支文徳は、薩水(清川江)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。これを韓国では、薩水大捷という。隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。

第3次遠征
613年、隋の煬帝は再び高句麗に侵攻したが、隋の国内で楊玄感が反乱を起こしたため、隋軍は撤退した。

第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる戦争で疲弊していたため、楊玄感に内通し高句麗に亡命していた斛斯政を隋の将軍来護児に引き渡した。隋も国内が乱れていたため和議を結んだ。高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行せず、これに隋は激怒し再度の遠征を計画したが国内の反乱のため実行することはできなかった。

出典 最新世界史図表 第一学習社

唐の高句麗出兵は、644年から668年まで計3次にわたって行われた、唐による高句麗への侵攻である。

第1次侵攻(644–645年) 645年2月には太宗が親征する大規模な戦争となった。唐は水路と陸路の二面作戦をとった。 張亮率いる水軍は高句麗の卑沙城を落したものの、その救援に向った高句麗水軍に大敗した。 唐軍は高く強固な城壁に守られた安市城に手こずり、これを攻撃するため土山を築いたところ、これが崩壊して士卒に大きな被害を出し、結局この作戦は失敗に終わった。 冬になると兵糧補給が困難になることもあり、これ以上の継戦は困難と判断、退却を開始した。 しかし退却途上に荒天や厳寒に遭遇し大きな被害を出した。

第2次侵攻(661年) 唐は戦略を長期消耗戦に転換し、小規模の攻撃を継続して高句麗を疲弊させた。 また高句麗と敵対する新羅を冊封し、661年に百済の役で高句麗の同盟国・百済を滅ぼして、高句麗を攻撃する態勢を固めた。 唐軍は平壌城を包囲したが、高句麗の淵蓋蘇文が蛇水の戦いで龐孝泰の軍を破り龐孝泰を敗死させた。 残る唐軍も補給が続かない状況のため撤退した。

第3次侵攻(667–668年) 665年に淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が後を継いだが、弟の淵男建・淵男産との間に内紛が生じ、淵男生は唐に投降してしまった。この機に乗じて、唐軍は淵男生を先頭にして、李勣などが高句麗に侵攻した。
淵蓋蘇文の弟・淵浄土は新羅に投降した。668年には、唐軍により首都の平壌城が落ち、ここに高句麗は滅亡した。

出典 Wikipedia

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【新羅】と唐・高句麗・百濟
7cの【新羅】と唐・高句麗・百濟
602年 新羅真平王時代
百済との阿莫城(全羅北道南原市)での会戦では百済を大敗させた。

603年 新羅真平王時代
高句麗が北漢山城(ソウル特別市)に侵入した際には、親征して高句麗を撃退した。

608年 新羅真平王時代
高句麗の侵入により牛鳴山城(江原道安辺郡瑞谷面)を陥落させられた。

611年 新羅真平王時代
隋から帰国した僧の円光に命じ、隋に高句麗討伐を求める上表文を書かせ、611年に提出したことが伝えられている。 『隋書』にはこの上表のことは記されてはいないが、上表の直後の612年には未曾有の大軍による隋の高句麗遠征が引き起こされることとなった。

614年~ 新羅真平王時代
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは椵岑城(忠清北道槐山郡)・母山城(忠清北道鎮川郡)付近で激しく戦って幾つもの城を失い、また城主を戦死させられるなど敗戦が続いた。

624年 新羅真平王時代
唐より<柱国・楽浪郡公・新羅王>に冊封される。

625年 新羅真平王時代
高句麗の無道を訴え出た。
しかしながら唐からは高句麗との和解を勧められるばかりであって、積極的な支援を得られたわけではなかった。

626年 新羅真平王時代
高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。

629年 新羅真平王時代
高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、初陣となる副将金庾信の活躍で同城を陥落させる勝利を得て、この後637年までは三国間に大きな戦いはなく過ごされることとなった。

631年 新羅真平王時代
伊飡の柒宿と阿飡の石品とが反逆を起こしており、新羅国内の情勢は穏当とはいえない状況にあった。
こうした不穏当な状況下、632年1月に死去した。真平王と諡され、漢祇(比定地未詳)に埋葬された。唐の太宗からは「左光禄大夫」を追贈され、香典として布2百反を賜った。

635年 新羅善徳女王時代
百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際的に孤立した状況にあり、それを打開しようとして唐に積極的に近づき、朝貢を重ねて635年には父の真平王に与えられていた〈柱国・楽浪郡公・新羅王〉の爵号を継承することができた。

636年 新羅善徳女王時代
百済が独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃しようとして潜んでいたところを、角干(1等官)の閼川を派遣して殲滅させることに成功した。

638年 新羅善徳女王時代
高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったときには、閼川が高句麗兵を撃退した。

640年 新羅善徳女王時代
王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけとなったように、新羅の文化発展への貢献が知られている。

642年 新羅善徳女王時代
百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取し、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまった。
同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられている。
その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(後の武烈王)が高句麗に赴いたが、一時、人質にされた上、高句麗からの援軍は得られなかった。

643年 新羅善徳女王時代
唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。

645年 新羅善徳女王時代
徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。 帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九層塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。

647年 新羅善徳女王時代
女王自らが任命した上大等の毗曇らが女王の廃位を求めて内乱を起こした。 上大等に代表される中央貴族に対抗して金庾信ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月8日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られた。

647年 新羅真徳女王時代
内乱鎮圧の直後、唐からは善徳女王に対する追贈と真徳女王に対する「柱国・楽浪郡王」の冊封が行なわれ、7月に謝恩使を発した。

648年 新羅真徳女王時代
百済からは茂山(全羅北道茂朱郡茂豊面)・甘勿(慶尚北道金泉市甘文面)・桐岑(未詳)を包囲され、翌648年3月には腰車城(忠清北道報恩郡懐南面)など10余城が陥落させられたが、いずれも金庾信の活躍で撃退に成功した。
外交面では王族の金春秋(後の武烈王)を息子の金文王らとともに648年に唐に派遣し、百済討伐の援軍を願い出てようやく太宗から一応の了承を得ることができた(唐・新羅の同盟)。

651年 新羅真徳女王時代
官制についても唐制にならったものに切り替えていき、これまでの上大等を中心とする権力体制に対して中侍を政治機構の要としようとした。
また礼部(儀礼教育)・調府(貢賦)など主要官庁への令(長官)・卿(次官)・大舎(三等官)・史(四等官)の配置を行うなど、大幅な官制改革を果たし、後の新羅の律令体制の四階層制の基本となった。

654年 新羅真徳女王時代
理方府(立法)を新設した。

654年 新羅武烈王時代
先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。
即位直後に唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせて楽浪郡王を増封された。

655年 新羅武烈王時代
高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。
これに応えて唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃している。

659年 新羅武烈王時代
百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。

660年 新羅武烈王時代
唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問としていた。
新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、唐と新羅との連合軍としての百済討伐であることが明瞭であった。
同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び、11月には武烈王は凱旋して論功行賞を行なった。

661年 新羅武烈王時代
唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。
武烈王陵は現在の慶尚北道慶州市西岳洞にあり、その陵碑は大韓民国の国宝第25号に指定されている。

661年 新羅文武王時代
661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。
唐からは直ちに高句麗討伐軍に呼応することを求められ、文武王は金庾信らに命じて唐軍のいる平壌へ食糧を補給し、全面的に支援をする構えを保った。
このときの高句麗は唐の攻撃に耐え、唐軍は食糧を受け取ると戦いを収めて帰国していった。

662年 新羅文武王時代
唐から開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封された。

663年 新羅文武王時代
百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の大規模な反乱を起こし、百済・倭国の連合と唐・新羅の連合との間に白村江の戦いが行なわれたが、この戦いにおいて倭国の水軍を壊滅させ、百済の再興の望みを断ち切ることになった。

666年 新羅文武王時代
唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東道行軍大摠管に任命して高句麗への攻撃が開始された。

668年 新羅文武王時代
新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、同年9月21日に高句麗を滅ぼすことに成功した。

663年4月 新羅文武王時代
唐は百済の故地に熊津都督府を設置、朝鮮半島に羈縻政策を用いようとした。
新羅も鶏林州都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じられた。

668年9月 新羅文武王時代
唐(新羅軍も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に安東都護府が設置され、鴨緑江下流域及び遼東地区を管轄した。
唐の羈縻政策が開始された。

670年8月 新羅文武王時代
唐の羈縻政策に対抗するため、高句麗の宝蔵王の庶子である安勝が残存勢力とともに新羅に亡命してきたのを利用し、金馬渚(全羅北道益山市)に住まわせて高句麗王として封じた。

671年 新羅文武王時代
新羅は旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明確にし、泗沘の占領と所夫里州の設置を初めとして、次々に旧百済領域を奪取していった(唐・新羅戦争)。

出典 韓国歴史地図 平凡社

673年 新羅文武王時代
百済から帰属してきたものを新羅の官制に取り込んだが、百済での官制の序列に従って新羅官制の序列に組み入れ、両者の連続性を継承させようとした。 また、高句麗移民に対しては安勝を保護して高句麗王、次いで報徳王として新羅の配下に冊封した。

673年年 新羅文武王時代
古くからの新羅の勢力だけでは唐への対抗が難しいことに気付いた文武王は、百済・高句麗両国の遺民を取り込んで新羅の身分制度を再編することにも努めた。
旧来の新羅の身分制度は首都金城(慶州市)を中心とする京位と、地方豪族を序列化する外位との二本立てであったが、外位を廃止して京位に一本化した。

674年1月 新羅文武王時代
唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まっていた王弟の金仁問を新羅王に代えようとするとともに、劉仁軌らが新羅討伐に出兵することとなった。

674年9月 新羅文武王時代
新羅の送使が随行する形でこの高句麗をして倭国へ朝貢させ、安勝を報徳王として再封し、旧高句麗に対する新羅の宗主権を誇示した。

675年2月 新羅文武王時代
文武王は唐に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、その後も小規模な戦闘を繰り返した。

676年11月 新羅文武王時代
その後も小規模な戦闘を繰り返し、白江河口部の伎伐浦(忠清北道舒川郡長項)で唐軍に大打撃を与え、ついに唐の新羅征討と半島支配とをあきらめさせた。
唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島から唐の勢力は排除されることとなった。

この頃 新羅文武王時代
百済・高句麗の故地を直接統治していくことについて、百済の旧都泗沘に所夫里州(州治は現在の忠清南道扶余郡)を置いたように、百済の南西部には発羅州(州治は現在の全羅南道羅州市)を置いた。

678年 新羅文武王時代
高句麗の平原城跡に北原小京(江原道原州市)を置いて地方統治の拠点とした。

680年 新羅文武王時代
加耶郡に金官小京(慶尚南道金海市)を置いて地方統治の拠点とし、あわせて王都金城の文化の普及に努めた。
6世紀に既に設置されていた州・小京とともに、新羅の地方統治の九州五小京の完成まであとわずかとなった。

680年 新羅文武王時代
文武王の妹を安勝に降嫁させて新羅・高句麗の王家の結合を図り、旧の三国が一体となるように努めた。

新羅文武王時代の文化政策
文武王の時代には王都金城の作りが改められてもいる。
674年2月に宮城である半月城付近に月池(後に雁鴨池と呼ばれる)を造営し、また679年には王宮の修築を行ない、この地に東宮(臨海殿)を建てた。

王城内には四天王寺(慶州市仁旺洞狼山)を建立させたほか、王城を離れた周辺地域への寺院建立も進め、676年には高僧の義湘に浮石寺(慶尚北道栄州市浮石面)を創建させている。

在位21年にして681年7月1日に死去し、文武王と諡された。王自身のかねてからの遺詔によって、新羅では初めて火葬された王となり、骨壷は東海の浜辺の大石の上に葬られた。有名な海中王陵である。

683年10月 新羅神文王時代
高句麗の遺民を封じた傀儡政権である報徳国の安勝に対して、蘇判(3等官)の官位とともに新羅王家と同じ金姓を与え、高句麗王家と新羅王家との結合を図り、安勝は王都金城(慶尚北道慶州市)に住まわせた。

684年11月 新羅神文王時代
報徳国の置かれた金馬渚(全羅北道益山市)で安勝の一族の将軍が反乱を起こしたため、神文王は報徳国を滅ぼし、名実ともに新羅による半島の統一支配が完成した。

685年 新羅神文王時代
完山州(全羅北道全州市)の再設置、居列州(慶尚南道居昌郡)を分割して菁州(慶尚南道晋州市)を設置して、九州が完備した。

出典 Wikipedia

687年 新羅神文王時代
九州は旧高句麗・百済・新羅の領域にそれぞれ三州が置かれるかたちに再編され、それぞれの州治は王都金城(慶州市)に対する副都の位置づけとして、地方統治の拠点となった。

687年4月 新羅神文王時代
父の文武王、祖父武烈王、曽祖父文興葛文王(金龍春)、高祖父真平王、及び太祖大王(金氏王統の始祖である13代味鄒尼師今)の祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化による内政の安定を図った。

689年 新羅神文王時代
官僚に対する禄邑制をやめて租米による俸禄制を始め、官職に取り立てられた中下級貴族層の官僚化を一層進め、先の中央貴族の粛清とあいまって王権の伸長を果たした。

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白村江の戦い前の倭国(日本書紀)
7cの初頭から白村江の戦い前後の倭国(日本書紀)
593年 日本
推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
597年4月 日本
推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
599年9月 日本
推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
600年2月 日本
推古 新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。
601年3月 日本
推古 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、新羅を攻めることをはかった。
602年2月 日本
推古 来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。
10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
603年4月 日本
推古 2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征新羅将軍とした。
12月、冠位十二階を制定。
604年4月 日本
推古 聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制作りの礎を築いた
605年4月 日本
推古 高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三百両を貢上した。
607年 日本
推古 小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。
610年3月 日本
推古 高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙部奈末竹世士と任那の使者部大舎首智買が筑紫に着いた。
9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。
10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。
611年8月 日本
推古 新羅は沙部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。
615年9月 日本
推古 百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
616年7月 日本
推古 新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
618年8月 日本
推古 高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万の兵を打ち破ったときに得たものだという。
618年

  • 907年 中国
    唐 煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥ったとき、煬帝のいとこであった李淵は617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。首都は長安に置かれた。
    620年 日本
    推古 聖徳太子蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
    621年 日本
    推古 摂政であった厩戸皇子が没す。
    新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
    623年 日本
    推古 7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智を派遣し、そろって来朝した。仏像一組・金塔・舎利を貢上した。
    この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣し、任那の事情を訊いた。しかし使いが帰国しないうちに新羅に軍を出し伐ってしまった。
    11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢上しようとしているときに攻めてしまったことを悔いた。
    626年 日本
    推古 蘇我馬子が没す。
    626年 中国
    唐 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。
    630年 日本
    舒明 3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子・小使徳率武徳がともに朝貢した。
    8月、大仁犬上君三田鍬・大仁薬師恵日を大唐に遣わした。
    9月、高麗・百済の客に朝廷で饗応された。そして帰国した。この年田部連らは掖玖(屋久島)より帰国した。
    10月、天皇は飛鳥岡のほとり、岡本宮にお移りになった.
    631年 日本
    舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
    ※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年。
    632年 日本
    舒明 8月、唐が高表仁を遣わし、三田耜を送った。ともに対馬に泊まった。このとき学問僧霊雲・僧旻及び勝鳥養や新羅の送使が従ってきた。
    632年 日本
    舒明 10月、唐国の使人高表仁らは難波の港に泊まった。
    伊岐史乙等・難波吉士八牛を遣わし、客らを館に案内した。その日神酒を給わった。
    ※『旧唐書』には、倭国伝の貞観5年(631)に、唐が高表仁を遣わしたが、表仁は綏遠の才がなく、王子と礼を争い、朝命を宣べずに還った。
    635年 日本
    舒明 6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
    638年 日本
    舒明 百済・新羅・任那がそろって朝貢した。
    640年 日本
    舒明 10月、唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理が新羅を伝って帰ってきた。百済・新羅の朝貢使がこれに従ってきた。
    642年 日本
    皇極 1月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。
    643年 日本
    皇極 聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。
    2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。
    高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。
    3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。
    5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。
    10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
    筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使とともに来た、といった。6月、筑紫の大宰が早馬で来て、高麗が遣使して来朝した、といった。百済の進調船が難波の港に泊まった。
    644年 中国
    唐 唐の高句麗出兵は644年から668年まで計3次にわたって行われた。唐軍は新羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。ここに高句麗は滅亡するに至った。
    7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。
    645年 日本
    皇極 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
    646年 日本
    孝徳 1月、改新の詔を出した。この改新の詔を以て大化の改新の始まりとする。 2月、高麗・百済・任那・新羅が遣使して調賦を貢献した。 9月、小德高向博士黑麻呂を新羅に遣わして、人質を出させた。
    647年 日本
    孝徳 正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
    648年 日本
    孝徳 2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。
    649年 日本
    孝徳 5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
    650年 日本
    白雉 2月、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。
    2月、朝庭の儀式に左大臣・右大臣が百官、百済君豊璋・弟塞城・忠勝、高麗の侍医毛治、新羅の侍学士らをひきいて中庭に入った。
    四月、新羅が遣使して貢調した。【或本はいう。この天皇の世、高麗・百済・新羅の三国が毎年遣使貢献してきた。】
    651年 日本
    白雉 6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。

新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
652年 日本
白雉 4月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
653年 日本
白雉 6月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。遣唐使の派遣。
654年 日本
白雉 2月、大唐遣使は二船に分乗し、留まること数ヶ月、新羅の道を取り、萊州に泊まり、遂に京に着き、天子に拝謁した。このとき東宮監門郭丈挙が、日本国の地理及び国初の神名を聞いたので、問いにみな答えた。
10月、天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔った。遣唐使の派遣 遣唐使の派遣
655年 日本
斉明 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。
是歳、高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。新羅は別に彌武を質とした。
656年 日本
斉明 8月、8日、高麗が達沙らを遣わして調を進った。
是歳、高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。
658年 日本
斉明 越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。
659年 日本
斉明 7月、3日、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を唐国に遣使した。
伊吉連博德書はいう。小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連らの二船が呉唐への路を使わされた。(中略)29日に東京に到着した。天子は東京にいた。30日、天子は相見て問うた。日本国天皇は平安かどうか。(中略)11月1日、冬至の会があった。諸蕃の中で倭客が最も勝れていた。後に出火騒ぎがあり、韓智興の従者西漢大麻呂の讒言により我客のせいにされたが、伊吉連博德が説明し罪は免れた。勅旨があり、国家は来年必ず海東を征伐するから、おまえたち倭客は東には帰れない、といった。西京の別の処に幽置された。】
660年 日本
斉明 是歳、【高麗の沙門道顕の日本世記はいう。7月云々。春秋智は大将軍蘇定方の手を借り、百済を挟撃して亡ぼした。あるいはいう、百済は自ら亡びた。】
伊吉連博德書はいう。庚申年の8月に百済を平らげた後、9月12日に客を本国に発たせた。19日に西京より発ち、10月16日に東京に帰り着き、はじめて阿利麻ら5人と会うことができた。11月1日、将軍蘇定方らにとらえられた百済王以下、太子隆ら、諸王子13人、大佐平沙宅千福・国辨成以下37人、あわせて50人ほどの人たちを朝堂に進め奉った。(中略)24日、東京より発った。】
9月、5日、百済が達率沙彌覚従らを遣わし来朝して、奏して、「今年7月、新羅が唐人を引き入れて百済を転覆させた。君臣みな俘となり、生きているものはいない。(中略)ただ福信だけが神武の権を起こして既に亡んだ国を興した。」といった。
10月、百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わし、来朝して唐の俘一百余人を献じた。今の美濃国の不破、片県の二郡の唐人たちである。また軍の救いを乞い、あわせて、天朝に遣わしている王子豊璋を百済国に迎え国主としたい、といった。【王子豊璋と妻子、その叔父忠勝らを送った。或本はいう。天皇は豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔となし、礼を以って発遣した。】
12月、24日、天皇は難波宮に幸した。天皇は福信の乞うところにしたがい、筑紫に行き救軍を派遣しようと思い、まずここに来て諸軍器を準備した。
是歳、百済のために、まさに新羅を伐とうと思い、駿河国に船を造らせた。
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白村江の戦い
白村江の戦い(663年10月)倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争

百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。
654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。
656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。
657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。
男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。

倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。
大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。

白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。

百済滅亡
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。

百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。
また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。 百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた。

黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子法敏(のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した。
この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された。

7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否。
7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。

660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。
唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した(熊津都督府)。

百済復興運動
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かうと、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。

8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した。
9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。

こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。
熊津都督王文度も着任後に急死している。

唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。
10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。
10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。

しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信の周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった。

倭国による百済救援

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した。
斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。
この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

双方の軍事力と戦いの経過
唐・新羅連合軍

総兵力は不明であるが、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している。
当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。
この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。

水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。

陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁原、新羅王の金法敏(文武王)。

倭国

第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)。

戦いの経過

661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。
陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。

海上戦
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。
倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。

この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『日本書紀』)。

陸上戦
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。
白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。
九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。

白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

戦後の朝鮮半島と倭国
唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国として歴史に名を残した統一王朝である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わるプロセスの中で起きた戦役であるといえる。

倭国
白村江の戦いでの敗戦により倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、朝鮮半島の領地・権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。
唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。
白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。

戦後処理
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。
この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。
百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される。
670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。

天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使はその後も長らく継続され、唐との友好関係を基調とした日本の外交を支えていくこととなった。

捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑捕虜とされた。
その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。
その後、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できた。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らも帰還した。

防衛体制の整備
白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。
百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。
さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。

「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。

百済遺民の四散
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。
百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。
史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる。

日本書紀の信憑性と疑問
古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。古田氏は白村江の戦いでの倭軍の敗因として以下の点を挙げている。

1.唐朝の外交軍事戦略の転換(畿内ヤマト王権との接近)。
2.畿内ヤマト王権の戦闘拒否(斉明天皇の死去を口実に離脱か)。
3.畿内ヤマト王権倭国へ協力派兵していない。

またこの敗戦で捕虜となったのが倭国の王、薩夜麻でありこれ以降、事実上倭国は滅亡に至った。
もし畿内ヤマト王権の離叛が無く九州各地の神籠石山城に籠もって戦う防衛作戦を倭国が実行していたら事態は一変していただろうと言われている。
かつて、朝鮮半島は倭国の支配領域であり(近年朝鮮半島で前方後円墳が見つかった)倭国と百済とは単なる同盟国を超えた血族に近い関係があったと思われる。また、白村江の戦いの前後の畿内ヤマト王権の動きとして、不可解な点が数多く指摘されている。

この戦いで畿内の将軍や重臣で戦死や捕虜になった者がいない。
万葉集では一切触れられていない。
白村江の敗戦後、畿内ヤマト王権が目覚ましい発展を遂げている。

など、倭国の滅亡に畿内ヤマト王権が深く関与した事が疑われている。 。

出典 Wikipediaより編集
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律令国家日本へ(日本書紀)
白村江の戦いの結末と壬申の乱➡律令日本国家へ(日本書紀)
661年 日本
斉明 正月、6日、御船は西征して、はじめて海路に就いた。14日、御船は伊予の熟田津の石湯の行宮に泊まった。
3月、25日、御船は還って娜の大津(博多港)に着き、磐瀬(福岡市三宅)の行宮(長津)に居た。
4月、百済の福信は遣使して上表し、その王子糺解を迎えることを乞うた。

【釈道顕の日本世記はいう。百済の福信が書を献じ、その君糺解を迎えることを東朝に祈った。或本はいう。4月、天皇は朝倉宮に遷った。】
5月、9日、天皇は朝倉の橘の広庭の宮に遷り居た。

【伊吉連博得書はいう。(中略)智興の従者東漢草直足嶋の讒言により、使人らは寵命を受けることができなかった。使人らの怨は上天の神を突き抜け、足嶋を震え死なせた。時の人は、大倭の天の報いは近い、といった。】
7月、24日、斉明天皇が崩じた。この月、蘇将軍と突厥王子契苾加力らが、水陸二路から高麗城下に至った。皇太子(天智)は長津宮に遷り、徐々に海外の軍政をとった。
8月、1日、皇太子は天皇の喪を磐瀬に移した。
前将軍大花下阿曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救った。
9月、皇太子(天智)は長津宮にいた。織冠を百済王子豊璋に授けた。また多臣蒋敷の妹を妻とし、大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣わして、軍5000余を率い、本国に護送した。このとき福信が迎えに来て、奉国朝政、すべてを豊璋に委ねた。
10月、7日、天皇の喪は海を帰途に就いた(皇太子とともに)。
23日、天皇の喪は難波に着き泊まった。 11月、7日、天皇の喪を飛鳥の川原で殯した。
【日本世紀はいう。福信がとらえた唐人續守言らが筑紫に着いた。ある本は、辛酉年(661)、百済の佐平福信が献じた唐の俘106口は近江国墾田に居住したという。しかし庚申年(660)に、すでに福信が唐の俘を献じたとあるので、ここに注記しておく。】(660年10月条に、福信が唐の俘百余人を献じたが、今の美濃国の不破、片県の二郡の唐人たちだとある。) 12月、高麗が、「高麗国では[氵貝]水が凍結し、唐軍が渡って来た。高麗の兵士は勇壮で唐の塞を二つ取った。しかし残り二つは取ることができなかった」といった。
是年、日本の高麗を救う軍将らが百済の加巴利浜に泊まって火を燃した。灰が変わって孔となったり、細い響きがして、鳴鏑のようだった。ある人が、高麗と百済が滅びる徴か、といった。
662年 日本
斉明 正月、百済の佐平鬼室福信に矢10万隻・絲500斤・綿1000斤・布1000端・韋1000張・稲種3000斛を賜った。
3月、百済王に布を三百端賜った。この月、唐人・新羅人が高麗を伐った。高麗は救いを乞うた。軍将を遣り、○留城に拠った。
4月、釈道顕が占って、「北国の人が将に南国につこうとしている。高麗が破れて日本に属すのか」といった。
5月、大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが水軍170艘を率いて、豊璋らを百済国に送り、勅を宣して、豊璋らにその位を継がせた。また金策を福信にあたえ、爵と禄を賜った。
是歳、百済を救うため、武器を修繕し、船舶を具備し、兵糧をたくわえた。
663年 日本
天智 2月、新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安德などの要地を取った。百済は避城を去り州柔に還った。田来津が当初計ったとおりになった。
3月、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わし、27,000人を率いて新羅を打った。
6月、前将軍上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を取った。
8月、新羅は百済王が良将を斬ったので、百済に入り州柔を取ろうと謀った。百済は新羅の計りごとを知り、今、大日本国の救将廬原君臣が健児1万余を率い、まさに海を越えてやってくると聞いている、我は自ら往って白村で待ち、もてなそうと思う、といった。
17日、新羅の将が州柔に着き、王城を取り囲んだ。大唐の軍将は戦船170艘を率いて、白村江に布陣した。
27日、日本の水軍の先陣が大唐の水軍と合戦した。日本は不利となり退いた。朴市田来津は戦死した。このとき、百済王豊璋は数人と船に乗り高麗に逃げた。
百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
9月、百済の州柔城がはじめて唐に降りた。このとき国人は、百済の名は今日で絶えた、といい、枕服岐城にいた妻子らに、国を去る心を知らせた。日本の水軍及び佐平余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、国民らが弖礼城に着いた。明くる日出船して、はじめて日本に向かった。
664年 日本
天智 是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国に防人と烽を置いた。また筑紫に大堤を築いて貯水した。これを水城といった。
2月、天皇は大皇弟に命じて、冠位の階の名を増やしたり換えたりすること、氏の上、民部、家部などのことを宣した。
5月、百済の鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを遣わして、表函と献物を進った。
10月、郭務悰らを送り出す勅を出した。鎌足は沙門智祥を使わして品物を郭務悰に贈った。四日、郭務悰らに饗応した。十二月十二日、郭務悰らは帰途についた。
665年 日本
天智 2月、百済国の官位階級を勘案した。佐平福信の功で、鬼室集斯に小錦下を授けた。また百済の百姓男女四百余人を近江国神前郡に住まわせた。
8月、達率答[火本]春初を遣わし、城を長門国に築いた。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わし、大野と椽の二城を築いた。耽羅が遣使し来朝した。
9月、唐国が朝散大夫沂州・司馬上柱国劉德高らを遣わした。【らとは右戎衛郎将上柱国百済禰軍、朝散大夫柱国郭務悰をいう。およそ254人。7月28日に対馬に着き、9月20日に筑紫に着いた。22日に表函を進った。】
10月、盛大に菟道で閲兵をした。
11月、劉德高らを饗応した。
12月、劉德高らに物を賜った。
この月、劉德高らは帰途についた。
この年、小錦守君大石等を大唐に遣わした。唐の使い人を送るため。
666年 日本
天智 是歳、百済人2000余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。
正月、高麗が前部能婁らを遣わし調を進った。この日、耽羅が王子姑如らを遣わし貢献した。
10月、高麗が臣乙相奄○○らを遣わし調を進った。
667年 日本
天智 2月、大田皇女の墓への路で、高麗・百済・新羅の使いはみな哀しんだ。
3月、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
11月、この月、倭国の高安城、讃吉国の山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築いた。
11月、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石爲を以て送使とす。
668年 日本
天智 是歳、皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
4月、百済が末都師父らを遣わして調を進った。
7月、高麗が越の路を通って、遣使して調を進った。栗前王を筑紫の率に任命した。
9月、12日、新羅が沙○級飡金東厳らを遣わして調を進った。26日、中臣内臣・沙門法辧・秦筆を使いとして、新羅上臣大角干庾信に船一隻を賜い、東厳らに付した。
10月、大唐の大将軍英公が高麗を打ち滅ぼした。
11月、1日、新羅王に絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚を賜い、金東厳らに付した。
669年 日本
天智 是歳、小錦中河内直鯨らを大唐に遣使した。
また佐平余自信・佐平鬼室集斯ら、男女700余人を、近江国蒲生郡に遷して住まわせた。
また大唐が郭務悰ら2000余人を派遣した。
1月、蘇我赤兄臣を筑紫宰(大宰師)に任じた。
9月、新羅が沙飡督儒らを遣わして調を進った。
670年 日本
天智 是歳、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。
671年 日本
天智 6月、百済が羿真子らを遣わして調を進った。この月、栗隈王を筑紫の率とした。新羅が遣使して調を進った。別に水牛一頭・山鷄一隻を献じた。
11月、10日、対馬の国司が筑紫の大宰府に遣使して、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の4人が、唐国の使者郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1400人、合わせて2000人とともに船47隻に乗り、比知嶋に泊まったことを知らせてきた。
12月、天智天皇が近江宮で崩御
672年 日本
天武 是歳、天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
3月、朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇の崩御を郭務悰らに告げさせた。郭務悰らはことごとく喪服を着て、三度挙哀をし、東に向かって拝んだ。
12月、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。
672年3月 日本
大海人皇子 天皇の死を中国の使者の郭務悰に伝える。郭務悰は品物を献上。
672年5月 日本
大海人皇子 郭務悰に鎧兜・弓矢・その他の品を与える。高麗が使者を派遣して貢調した。郭務悰が帰国。美濃で天智天皇の墓を作っているが、兵士を集めいているのではないか?と朴井連雄君が天武天皇に報告。別の人が近江京から倭京で監視を置き、大海人皇子の食料補給路を遮断しようとしていると報告。大海人皇子が危機感を覚える。
672年6月 日本
大海人皇子 壬申の乱(別途説明)
673年 日本
天武 是歳、大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となる
676年 日本
天武 是歳、新羅が朝鮮半島を統一
678年 日本
天武 是歳、筑紫国で大地震が発生
681年 日本
天武 是歳、天武天皇が律令制定を命ずる詔が発令。律令の編纂を開始。
686年 日本
天武 是歳、天武天皇が没す。
689年6月 日本
持統 飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
701年8月 日本
文武 700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。
日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは大宝律令をおいて他に例がない。
大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等粟田真人・下毛野古麻呂らである。

大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。
翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。

大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。
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謎の壬申の乱

壬申の乱は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日(672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申にあたることによる。

660年代後半
都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てた。

671年11月23日
天智天皇10年10月17日、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。
その後、天智天皇は病に臥せる。
大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。
天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。

672年1月7日
12月3日、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。
大友皇子が跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。

672年7月24日
大海人皇子は天武天皇元年6月24日に吉野を出立した。
まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。

大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。
続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。
そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。
さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。 美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。
これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。

672年7月31日
美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。

特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。
しかし、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。
それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。
吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。
この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。
やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。

672年8月8日
村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7月7日に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。

672年8月20日
7月22日に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗する。

672年8月21日
翌7月23日に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。

673年2月27日
翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。
また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

白村江の敗戦

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。

このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。

しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。

また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。

これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説もある。

以上wikipediaより抜粋