歴史・人名

人名た

太原崇孚(たいげん すうふ)
1496~1555 
○庵原氏 雪斎
◇父:庵原左衛門尉
 駿河・今川氏重臣。禅僧で駿河・臨済寺開祖。太原は字。今川義元の教育係を務め、その家督相続(花倉の乱)に貢献する。義元が当主となってからは軍師として諸戦に活躍、1548年小豆坂の戦いでは義元の将として尾張・織田信秀を敗り、捕まっていた松平元康を助けた。また、外交面にも力を発揮、武田、北条との甲相駿三国同盟"善徳寺の会盟"を成立させる。義元の片腕としてその繁栄を支えるが、60歳で没。以後今川氏も衰勢の一途をたどるが、雪斎が存命なら桶狭間の敗北はなかったとも…。
太原雪斎(たいげん せっさい)
別:九英承菊・太原崇孚
臨済宗の禅僧で駿河・今川義元の軍師 駿河・今川氏親の重臣・庵原氏の出身で、左衛門尉之秀の子といわれる。母は今川水軍の将・興津藤兵衛の娘 京の建仁寺霊泉院で常庵竜崇について修行し九英承菊と称す のちに梅岳承芳と名乗っていた方菊丸とともに妙心寺に移り、大休宗休和尚より印可を授けられて太原崇孚と称した 梅岳承芳が家督相続し今川義元となったとき、氏輝の菩提寺・臨済寺の住持となり、寺内に雪斎という庵室を構えたため、太原雪斎と呼ばれるようになった 義元の軍師となり「黒衣の宰相」と呼ばれ、「甲相駿三国同盟」をまとめたといわれる 第二回の小豆坂合戦では織田信秀を破り、翌年安祥城を攻めて織田家に捕らえられていた松平竹千代(徳川家康)を駿府へ連れ帰った
高橋興光(たかはし おきみつ)
????~1529 
○大九郎
◇父:高橋久光
 石見・藤掛城主。南北朝期、師光が北朝の高師泰に従い出雲・佐和顕連攻めの功にてその所領を得、祖父清光の時から出雲・尼子氏に仕える。父戦死後、その後を継ぐ。戦略には長けていたが、家政に疎く家中の離反を招き、従兄弟高橋盛光に討たれた。
高橋紹運(たかはし じょううん)
1548~1586 
○吉弘氏 弥七郎 鎮理 鎮種 主膳兵衛尉
◇父:吉弘鑑理 室:斎藤長実女 子:高橋統虎(立花宗茂)、民部少輔統増(直次)
 豊後・大友氏家臣。吉弘鑑理二男であるが、謀反を起こし跡絶えた高橋鑑種の跡を継ぎ筑前・宝満城に入る。1585年、侵攻する薩摩・島津軍5万余に支城岩屋城にて囲まれるが、寡兵7百余にてよく守り降伏にも応じなかった。しかし翌年、ついに残余の将兵50余名と共に、城内にて自刃して果てた。
高橋統虎(たかはし むねとら)
1569(1567?)~1642
→立花宗茂
田北鑑重(たきた あきしげ)
????~1580
○勘解由左衛門尉 鑑富 紹鉄 大和守
◇父:田北親員 養父、兄:田北鑑生 養子:田北鎮周
 豊後・大友氏庶流の一族。日向・耳川の敗戦後、大友氏に反旗を返すが、筑前に逃亡中に戦死した。禅宗を信仰する田北氏が、キリスト教を擁護する大友氏に反発した為といわれる。
田北鑑生(たきた あきなり)
????~1561
○大和守
◇父:田北親員 養子:田北鑑重
 豊後・大友氏庶流の一族であり、加判衆も務めている。大友氏の筑前侵攻に大いに貢献し、秋月文種を討ち取る等多くの武功を挙げている。
田北鎮周(たきた しげかね)
????~1578
○弥十郎 相模守 刑部少輔
◇父:田北親員 養父、兄:田北鑑重 養子:田北(吉弘)統員
 豊後・大友氏庶流の一族であり、加判衆も務める。日向・耳川の合戦において渡河侵攻による積極論を主張したが、慎重派と意見が対立、意見がまとまらぬまま、なし崩しに戦端が開き戦死した。
滝野吉政(たきの よしまさ)
????~1602
○十郎
◇子:滝野亀之助
 清和源氏流。伊賀・柏原城を本拠とする豪族。1581年、第2次天正伊賀の乱に際しては総大将を務めて、織田信長の大軍を迎え撃つが、衆寡敵せず、降伏した。
沢彦宗恩(たくげん そうおん)
臨済宗妙心寺派の禅僧。織田信長に思想面で影響を与えたといわれる 信長の傅役・平手政秀が自刃したあとの菩提を弔うために建立した政秀寺の開山として招かれた 天下布武の印判文字や岐阜への改称も沢彦の意見といわれる
武田勝頼(たけだ かつより)
1546~1582 
○四郎 諏訪氏 伊那氏
◇父:武田信玄 室:織田信長養女(遠山氏女)、北条氏康女 子:武田信勝、勝親(勝三)
 甲斐・武田氏一族。母の実家諏訪氏を継ぎ、信濃・高遠城主となる。兄義信の死により、子信勝が武田氏宗主となり、勝頼は"陣代"として実質的後継者となる。父死後家督を継承、1574年父も陥とせなかった駿河・高天神城を陥とす。1575年長篠にて家臣の反対を押し切って決戦、織田、徳川連合軍に大敗した。1578年越後上杉氏の後継問題に介入、上杉景勝を押したことから、上杉景虎を支援する相模・北条氏と対立した。駿河・高天神城陥落で家中の信望を完全に失い、木曽氏、穴山氏などに離反される。侵攻してきた織田、徳川軍を防ぎきれず、甲斐・天目山で一族と共に自害。
武田信方(たけだ のぶかた)
????~1585?
○彦五郎
◇父:武田義豊
 若狭守護・武田氏一族。内紛が続く家中において、叔父信高が討死した跡を継ぐ。若狭・新保山城を拠点に勢力を伸ばし、兄義統に叛旗を翻そうとする程であった。1567年義統に替わって足利義昭からの上洛要請を受けるも、これを拒否。1570年織田信長の越前攻めに際しては、若狭で反信長勢力を結集して最後まで抵抗したが、1573年越前朝倉氏滅亡後、若狭に入部した丹羽長秀によって逐われた。後に甲斐武田氏を頼り、その滅亡時に生け捕られて殺害されたともいわれる。
武田信勝(たけだ のぶかつ)
1567~1582 ○太郎 ◇父:武田勝頼  甲斐・武田氏一族。武田氏の当主として主立った働きをする前に、武田氏は天目山で滅亡、父と運命を共にした。 武田信廉(たけだ のぶかど) ????~1582  ○孫六 信連 信綱 逍遙軒 刑部少輔 ◇父:武田信虎 子:武田信澄  甲斐・武田氏一族。兄信玄を助け、主にその本陣守衛の任を担う。容貌が信玄に酷似していた為、その影武者を務めたといわれた。また、文化人として優れた面を見せ、多くの絵画、彫刻が残っている。長篠の合戦にも参加するが、最期は武田氏滅亡後に捕らえられて斬首された。
武田信廉(たけだ のぶかど)
????~1582 
○孫六 信連 信綱 逍遙軒 刑部少輔
◇父:武田信虎 子:武田信澄
 甲斐・武田氏一族。兄信玄を助け、主にその本陣守衛の任を担う。容貌が信玄に酷似していた為、その影武者を務めたといわれた。また、文化人として優れた面を見せ、多くの絵画、彫刻が残っている。長篠の合戦にも参加するが、最期は武田氏滅亡後に捕らえられて斬首された。
武田信繁(たけだ のぶしげ)
1525~1561  ○次郎 左馬助 ◇父:武田信虎 子:望月三郎信頼、武田信豊、望月遠江守信雅  甲斐・武田氏一族。左馬助の唐名"典厩"の名で知られる。父信虎の偏愛を受け、疎んじていた兄信玄より2男の彼に家督を譲ろうと考えていた程であった。しかし父が信玄に追放された後も信玄と不和ではなく、むしろ慕って臣従し、文武両面に助けて、"武田の真の副将軍"として信玄の信頼厚く、家臣領民の信望も非常に高かった。信濃攻略等に活躍するが、越後・上杉氏との川中島の合戦において、主力不在の本陣を突かれた際、これを寡兵にて死守、戦死した。ちなみに真田昌幸は彼にあやかり2男に信繁(いわゆる幸村)と名付けたとか…。
武田信豊(たけだ のぶとよ)
1514~???? 
○彦二郎 紹真 伊豆守 治部少輔
◇父:武田元光 室:六角定頼女 子:武田義統、元康、信方
 父に譲られ若狭守護・武田氏当主となる。1542年細川晴元に与し、河内・太平寺に三好長慶を攻めるが、武田軍の中心であった粟屋党を多数敗死させてしまう。1552年近江から旧臣粟屋右馬允らが攻め込むが、子信方を派遣してこれを撃退。1552年家督を子義統に譲るが、これと不和になる。一時近江に逐われ、1558年再入国を果たすべく、義統と戦うが叶わなかった。やがて義統と和して帰国している。祖父、父同様文芸に熱心であった。
武田信豊(たけだ のぶとよ)
????~1582
○長老 六郎次郎 左馬助 相模守
◇父:武田信繁 室:武田勝頼女 子:武田雅楽
 甲斐・武田氏一族。父子でともに典厩と呼ばれたので、後世各々を古典厩、後典厩と呼ぶ。父戦死後家督を相続、信濃小諸城を守る。長篠の合戦においては、当主勝頼を見捨て先に退却したことから、切腹させられそうになるが許される。尾張・織田氏の甲斐侵攻に際して死去。城代の下曽根覚雲斎に謀殺されたとも、武田氏滅亡の報に接して自害したともいわれる。
武田晴信(たけだ はるのぶ)
1521~1573 
○勝千代? 太郎 信玄 信濃守 左京大夫 大膳大夫
◇父:武田信虎 室:上杉朝興女、三条公頼女、諏訪頼重女、油川信友女、根津元直女 子:武田義信、海野信親、西保信之、武田勝頼、仁科盛信、葛山六郎信貞、安田三郎信清
 不和であった父を駿河に追放して甲斐・武田氏19代当主となる。信玄の名が有名。苦戦しながらも信濃諸豪族を攻略していくが、これを援ける越後・上杉謙信とは川中島にて5度戦い、容易に決着は付かなかった。又、内政面でも手腕を発揮し、分国法「甲州法度之次第」制定、信玄堤を築く等の実績を残す。相模・北条氏、駿河・今川氏とは三国同盟を結んでいたが、今川氏斜陽をみてこれを破棄、駿河に侵攻した。しかし、今川氏室を持つ嫡子義信がこれに反発、謀反を企てたことから幽閉して死なせている。駿河制圧後は京にも目を向けて、やがて大軍を率い西上の途につく。尾張・織田、三河・徳川連合軍を三方ヶ原に撃破する等順調に見えたが、その後発病、信濃まで引き返して53歳で没す。
武田光和(たけだ みつかず)
1502~1534
○太郎 光貞 刑部少輔
◇父:武田元繁 室:吉川元経女、熊谷信直女 養子:武田信実
 安芸守護・武田氏当主。周防・大内氏の下去就を再三している。安芸・毛利氏と争うが若くして病死。
武田元明(たけだ もとあき)
1552~1583
○孫八郎 元次
◇父:武田義統 室:三淵伊賀守晴員女、京極高佳女 子:木下勝俊、利房?
 父義統没後、若狭守護・武田氏当主となるが、すでに実権は有力重臣に握られ、家中の統制はとれなかった。1568年越前・朝倉氏に侵攻され、抵抗するが敗北。戦後殺されず、越前に幽閉された。1573年朝倉氏が尾張・織田信長により滅ぶと、若狭に帰国したといわれるが、朝倉に与したとして殺害されそうになり、旧臣粟屋氏らの嘆願により助命される。若狭を領する丹羽長秀の一武将として、後に3千石を与えられた。本能寺の変で信長が家臣明智光秀に殺された時、光秀に加担して、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした為、光秀滅亡後、呼び出されて切腹を強いられた。
武田元繁(たけだ もとしげ)
????~1517
○元重 刑部少輔
◇父:武田元綱 室:義興養女 子:武田光和、伴繁清
 安芸守護・武田氏当主。周防・大内氏の勢力に押され、その下に従う。安芸・小倉山城の吉川氏を攻めた時、これを援ける安芸・毛利氏との間で有田合戦が起こり、数で優位に立っていたが、不意に流れ矢に当たり戦死したという。
武田元信(たけだ もとのぶ)
1455~1521 
○彦次郎 紹壮 伊豆守 治部少輔 大膳大夫
◇父:武田国信 子:武田元光、信孝
 若狭守護・武田氏。父没後、家督継承。1491年将軍義材の近江出征に従軍。その後の管領・細川政元と与し、将軍義材を廃嫡する(明応の政変)。幕府や管領細川氏の信厚く、若狭武田氏最盛期を築いた。しかし、幕府近侍して出兵が重なった為、領国経営は苦しく、1502年若狭で土一揆が起こり、一族が討たれている。この不満の解消すべく、1506年丹後・一色義有の攻略にかかるが、戦いは長期化し、政元らの援軍を得るもこれを達せなかった。1517年今度は丹後・一色軍が若狭に侵攻するが、越前・朝倉氏の支援を得て、逆に丹後の一部を攻略に成功した。騎射等に優れて「武家故実」を作成する一方、文芸面でも大いに活躍し、歌道、歌舞、猿楽、古典籍等多芸に秀で、当代一流の文化人とも交流深かった。
武田元光(たけだ もとみつ)
1493~1551 
○彦次郞 元言 伊豆守 大膳大夫
◇父:武田元信 子:武田信親、信豊、信実、信高
 父が出家したことから家督継承、若狭守護・武田氏当主となるが、丹後・一色氏との抗争、重臣間の内紛等難題を抱えていた。細川高国の援けて出兵し、1527年京・西七条において三好勝長、柳本賢治らの軍勢を迎撃するが、激戦の末大敗し、高国と共に将軍義晴を奉じて近江へ落ちた。この敗北により領国経営が不安定となり、海岸線を丹後の海賊衆に襲撃されるが、何とかこれを撃退した。また、重臣粟屋元隆が離反し、1538年これと争う等内紛が絶えず、弟信孝を擁する一派が越前から若狭へ侵攻しようとした時、幕府を通して越前・朝倉氏にその制止を要請、これを断念させている。父同様、和歌等芸術面に優れていたという。
武田義統(たけだ よしずみ?)
1526~1567
○彦ニ郎 義元?信統? 治部少輔 伊豆守 大膳大夫
◇父:武田信豊 室:足利義晴女 子:武田元明、義頼
 家督相続で父信豊と争うが、信豊を支持する叔父信高が没すると、信豊は隠居し、若狭守護・武田氏当主となる。1558年再び揉め、信豊は近江・六角氏を頼って出国し、態勢を整え若狭に攻め込まれ、後にこれと和する。1561年重臣栗屋勝久、逸見昌経らの反乱が起き、越前・朝倉氏の支援を得て一時的に撃退するものの、粟屋氏は事実上独立し、逸見氏は1566年義統の子元明を擁立して叛乱を起こし、再び父子の争いとなった。これに対しても再び朝倉氏の援軍を得て、逸見氏を撃破する。この時足利義昭が若狭に頼ってくるが、武田氏の内紛を見て入洛を断念し、朝倉氏の下へ赴いている。
武田義信(たけだ よしのぶ)
1538~1567 
○太郎
◇父:武田信玄 室:今川義元女
 甲斐・武田信玄嫡男。信濃・知久氏攻めで初陣を飾る。妻の実家、駿河・今川氏の弱体化と共に、今川氏を攻略して南進を図る父と対立する。1565年叛意を問われ幽閉され、後に自害した。尚、信玄は翌年より駿河侵攻を開始する。
竹中重門(たけなか しげかど)
1573~1631 
○丹後守
◇父:竹中重治
 羽柴秀吉の下、12歳で、小牧の戦いに参加。1592年文禄の役では肥前・名護屋駐屯。関ヶ原の合戦では、はじめ西軍に属していたものの、後に東軍に加わって、西軍の将小西行長を捕らえる働きを見せた。林羅山に和漢を学び、文芸にも優れていた。著書に秀吉の一代記「豊鑑」がある。
竹中重治(たけなか しげはる)
1544~1579 
○半兵衛尉 重虎
◇父:竹中遠江守重元 室:安藤守就女 弟:竹中久作重矩、与右衛門、彦八郎 子:竹中重門、重次、重利
 美濃・斎藤氏に仕える。当主龍興を諫めるため、わずかな手勢を率いて稲葉山城を乗っ取ったことからその名をあげた。その後城は龍興に返還し、近江・浅井氏に仕えた。その後尾張・織田氏の美濃平定に際してその家臣となり、羽柴秀吉に仕える。そして、近江攻め、長篠合戦などで軍師として、功をあげた。しかし、播磨・三木氏攻略中、陣中にて若くして病死した。秀吉はその死を惜しみ、深く嘆いたといわれる。
竹貫隆光(たけぬきたかみつ)
15??~15??
岩城家臣。石川家の庶家であったが岩城家臣となり、重臣として重きをなした。
竹貫広光(たけぬきひろみつ)
15??~15??
竹貫隆光の男。1541年、佐竹、白川結城家との抗争の調停を岩城家が行ったとき折衝に当たった。
竹俣慶綱(たけのまた よしつな)
1524~1582 
○太郎 右兵衛尉 三河守
◇父:竹俣為綱 子:竹俣勝綱
 越後・長尾氏臣。1561年の川中島の合戦では、乗馬武具を失いながら奮戦し賞されている。越中・魚津城において山本寺孝長ら12将と共に織田信長の軍と戦い討死。
多田満頼(ただ みつより)
????~1563 
○三八郎 昌澄 昌利 淡路守
◇子:多田新八郎、三八郎満俊、三吉
 美濃の出。甲斐・武田氏臣。地獄の妖婆"火車鬼"を退治した逸話を持つ勇者。特に夜襲戦に定評があった。1563年病死。
立花鑑載(たちばな あきとし)
????~1568
○弥十郎 山城守
 豊後・大友貞載の末流で"西大友"と呼ばれた。筑前・立花城主。1565年大友本家に謀反を起こすが、吉弘鑑理らに攻められ追放された。しかし後に許され戻るが、安芸・毛利氏、高橋鑑種の誘いで再び謀反した。この時は戸次鑑連に攻められ敗北、逃走したが殺された。
立花道雪(たちばな どうせつ)
1513~1585 
○戸次氏 八幡丸 孫次郎 鑑連 伯耆守 左衛門大夫
◇父:戸次親家 室:入田丹後守女、問注所統景女、宗像氏貞女 養子:戸次鎮連、立花宗茂(高橋統虎)
 豊後・大友氏臣。若い頃、落雷による負傷で下半身不随となり、合戦では家臣に駕籠を担がせて指揮を執った。生涯のほとんどを戦場で過ごし、多々良川の戦いにおいては数に勝る安芸・毛利軍を撃退し武名をあげる。大友一門の筑前・立花鑑載が安芸・毛利氏に通じて裏切った時、これを討ち後に立花氏を継ぐこととなった。しかし男子に恵まれず、一時は一人娘を男装させ立花城主としたが、やがて高橋統虎を婿に迎えて後嗣として厳しく育て上げた。筑前・秋月種実の柳川城攻略を前にして73歳で亡くなった。
立花宗茂(たちばな むねしげ)
1569(1567?)~1642 
○高橋氏 千熊丸 弥七郎 統虎 鎮虎 宗虎 正成 親成 尚政 俊正 経正 信正 立斎 左近将監 飛騨守 羽柴侍従
◇父:高橋紹運 養父:立花道雪 室:立花道雪女、矢嶋秀行女、葉原頼宣女 養子:立花(高橋)忠茂
 豊後・大友氏臣。立花道雪の婿養子となって立花城に入り、厳しい教育を受ける。羽柴秀吉の九州征伐後、羽柴の姓を与えられ大友氏から独立、、筑後柳川13万2千石に封ぜられた。朝鮮出征に活躍し、加藤清正を救う等して武名を高める。関ヶ原の戦いでは西軍につき、西軍敗走後、居城に籠もるが降伏し改易される。しかし、宗茂の人柄を惜しむ声が多く、3年後に奥州棚倉1万石に返り咲き、大坂の陣で戦功をあげ、旧領柳河11万9千石を回復する。島原の乱では有馬城を攻略した。
立原久綱(たちはら ひさつな)
1531~1613 
○源太兵衛
◇父:立原備前守幸綱 兄:立原幸隆 子:立原充忠
 出雲・尼子氏臣。尼子氏が安芸・毛利氏に降伏すると、毛利氏の仕官を蹴って上洛。尼子氏の一族勝久を甥山中幸盛らと擁立し、主家再興の為、織田信長の援助を受けて、毛利氏と戦う。播磨・上月城籠城には反対するが、結局共に籠もって敗れ、吉川元春に捕られたが脱走。後に阿波の蜂須賀氏の下の女婿福屋高兼を頼った。
立石正賀(たていし まさよし)
1565~????
○助兵衛
◇父:立石右京進
 土佐・一条氏臣、後に土佐・長宗我部氏に仕える。伊予攻めに功があった。関ヶ原の戦いでは降伏の使者を務めた。
田中吉政(たなか よしまさ)
1548?~1609 
○宇竹 久次 久兵衛 宗政 長政 パルトロメヨ 兵部大輔 侍従 筑後守
◇父:田中重政 子:田中民部少輔吉次、主膳則政、又兵衛康政、隼人忠政
 近江・浅井氏臣。宮部継潤の下で働き、やがて、羽柴秀吉に仕える。関ヶ原の合戦では東軍に属して、戦後石田三成を捕らえた功で、筑後・柳川城主32万石を得た。領内のキリスト教を保護し、自らも帰依した。
田中隆定(たなかたかさだ)
15??~15??
岩城家臣。官途は越中守。岩城常隆に仕えた。1590年、隠居の佐竹義重に仕えた。1591年、山尾城の門、橋の普請に当たった。
谷 忠澄(たに ただずみ)
1533~1600 
○忠兵衛
◇弟:滝本寺非有 子:谷彦十郎、加兵衛
 元は土佐一宮神社神官だったが、武略、外交等の才知を買われ、土佐・長宗我部元親の家老となる。羽柴秀吉との戦いでは、いち早く秀吉の強さを認め、元親を諫めて和議を勧めた。1586年戸次川合戦従軍、この際、土佐兵戦死者を弔って石塔婆を建立している。幡多郡中村城代となり、そこで没した。
谷衛好(たに もりよし)
1529~1578  ○福田氏 小太郎 大膳亮 ◇父:福田六兵衛尉正之 養父:谷衛之 子:谷孫一郎、出羽守衛友  美濃の出であるが、近江・浅井亮政傘下の豪族谷衛之の養子に入る。養父戦死後、その跡を継ぐが、後に美濃に戻り斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡後は、尾張・織田氏臣羽柴秀吉に従い、1576年大坂本願寺との石山合戦等で戦功を挙げ、播磨・平田に6千石を得た。播磨・三木城別所氏攻略の際、籠城する別所氏の糧道を断っていたところ、夜襲を受けて奮戦するも衆寡敵せず戦死した。衛好は、試刀術の達人で、子衛友に“谷流”奥義を伝えたという。
田村顕長(たむらあきなが)
15??~15??
田村顕基の次男。「三春四老之内」。
田村顕基(たむらあきもと)
15??~15??
田村郡小野城主。田村盛顕の次男。官途は右馬頭。通称梅雪斎。家中騒動では田村清顕未亡人と共に相馬方につく。娘は田村清康の室。父田村義顕より小野郷を与えられて新町城主となった。
田村顕基家臣団(たむらあきもとけかしんだん)
田村兵部人政顕、郡司豊前守敏良、郡司雅楽頭敏貞、猪狩中務人親満、野内伊予守正兼。
田村顕頼(たむらあきより)
1492~15??
田村盛顕の次男。官途は宮内少輔。通称月斎聖休。1559年、田村隆顕とともに出陣、二階堂家から奪った小泉城の城代に任ぜられた。田村清顕死後の家中騒動では伊達方につく。合戦で戦功が多かったた。
田村氏顕(たむらうじあき)
15??~1579
田村清顕の弟。1579年、岩瀬郡に侵攻し、二階堂家と合戦した結果、田村勢230人が討たれたが、田村氏顕も討死した。
田村清顕(たむらきよあき)
15??~1586
田村隆顕の男。室は相馬顕胤の娘(於北方)。英明な武将として知られ、父田村隆顕の死後、田村家の家督を相続する。佐竹家や葦名家に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗の室として嫁がせ、伊達勢の援軍を得ることで独立を保持した。伊達家と室の実家である相馬家との領土問題では、相馬義胤を説得し丸森城を伊達輝宗に返還させ両者の和睦に成功した。田村清顕には愛姫以外に子供ができなかった。1586年、田村清顕が没するとその後釜をめぐって田村家中、及び伊達家相馬家の間で再び争いが起った。
田村清通(たむらきよみち)
15??~15??
田村顕基の男。官途は右馬頭。
田村清康(たむらきよやす)
15??~15??
田村郡船引城主。官途は右衛門大夫。田村清顕死後の一門談合体制に参加した。
田村重顕(たむらしげあき)
15??~1579
田村清顕の弟。1579年、二階堂家を攻めたとき討死した。
田村重時(たむらしげとき)
1499~1572
田村直顕の弟、重顕の孫。父は重為。
田村隆顕(たむらたかあき)
15??~1574
田村義顕の男。1532年、父田村義顕から家督を相続したとき、田村家は相馬家、岩城家、佐竹家、葦名家などの諸大名に囲まれて苦しい立場にあったが、田村隆顕は伊達稙宗の娘を室として迎え、伊達勢の援助を得ることで田村家の命脈を保った。「天文の乱」においては伊達稙宗派に属す。 1547年、伊達稙宗派、芦名盛氏と不和を生じ、芦名盛氏が伊達晴宗派に転じると、乱終結後の1549年には伊達稙宗派であった相馬顕胤の娘(盛胤の妹)を自身の嫡男田村清顕の室として迎え、相馬と和平を結んで後顧の憂いを断った。田村隆顕は外交戦略に優れた人物であった。1560年、佐竹家と手を結んで芦名家を攻めた。1572年、佐竹家が攻めて来ると芦名家と手を結んで撃退するなどしている。まさに小領主ながら優れた武将だった。
田村義顕(たむらよしあき)
15??~1561
田村盛顕の男。室は岩城常隆の娘。当初は守山城を本拠としていたが、1504年、三春城を築き居城とした。田村氏発展の基礎を築いた人物とされる。1532年、田村隆顕に家督を譲って隠居した。
為松若狭守(ためまつ わかさのかみ)
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 土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆に討たれた。
田屋明政(たや あきまさ)
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○新三郎 石見守 浅井氏
◇父:田屋清政? 養父:浅井亮政 室:浅井亮政女 養子:田屋(田尾)政高
 近江・高島の土豪田屋氏の出。近江・浅井氏当主亮政の養子となるが、実子久政誕生に伴い田屋氏に戻る。亮政の死によって、義弟久政と対立し、近江北半国の守護・京極氏の支援を受けるが、近江南半国の守護・六角氏と盟した久政に敗れた。次女は浅井長政女・茶々らの乳母を務めた饗庭局。
田屋明政(たや あきまさ)
????~???? ○新三郎 石見守 浅井氏 ◇父:浅井清政 養父:浅井亮政 室:浅井亮政女 養子:田屋(田尾)政高  近江・高島の土豪田屋氏の出。近江・浅井氏当主亮政の養子となるが、実子久政誕生に伴い田屋氏に戻る。亮政の死によって、義弟久政と対立し、近江北半国の守護・京極氏の支援を受けるが、近江南半国の守護・六角氏と盟した久政に敗れた。次女は浅井長政女・茶々らの乳母を務めた饗庭局。
田原親賢(たわら ちかかた)
????~1600 
○奈多氏 紹忍 尾張守 近江守 民部大輔
◇父:奈多鑑基 養父:田原近江守親資 養子:田原(柳原)親虎、(大友)親盛
 妹が豊後・大友義鎮室であったことから重用され、加判衆も務める。豊後・武蔵田原氏の養子となって本家田原氏をも凌ぐ力を振るった。豊前方面の支配に貢献し、安芸・毛利氏侵攻にも多々良川の合戦等に参加、毛利氏を破っている。日向・耳川の合戦においては養子親盛と共に総大将格として参加するが、諸将をまとめきれず惨敗、引責して所領を失った。その後隠居したが、後に、豊後に入封した中川秀成に大禄で仕える。関ヶ原の戦いでは、西軍に付いて敗れた大友義統を降伏させ、自身は東軍としての旗幟を明らかにする為、豊後・臼杵城の太田飛騨守一吉を寡兵にて攻め、戦死した。
田原親貫(たわら ちかつら)
????~1580
○長野氏 右馬頭
◇養父:田原常陸介親宏 室:田原親宏女 養子:田原(大友)親家
 元は豊前・長野氏の出。豊後・大友氏庶流田原氏本家。日向・耳川の敗戦の翌年、田北鑑重らと謀り反旗を挙げる。しかし、養子の親家らに攻められて敗北した。