data_人物い
| 氏名 記事 |
| 入江家 |
| いずみ たねあき 泉胤秋 (15??~1587) 通称は大膳。三春城主田村一族で、もとは中津川大膳亮。1585年、最上義光が相馬義胤臣の「伊泉大膳亮」へ宛てた書状が残っているが、この「伊泉大膳亮」が泉胤秋であるとされる。もともと泉胤秋は相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、彼女とそりが合わず堀内家を出た。小浜城主畠山伊勢守尚義の娘を娶った。嫡男の泉胤政が泉家を相続したが幼少であったために泉胤秋も相馬家へ属し、泉胤政の後見人として泉大膳と改める。 |
| 泉胤政 |
| 泉胤定 |
| 泉田胤清 |
| 泉田胤雪 |
| 泉田胤直 |
| 泉田隆家 |
| いちたま市千魂 |
| いかつおおみ 雷大臣 ①父:臣狭山 母:不明 ②子供:大小橋 ・真根子(壱岐卜部氏・津島氏) ・日本大臣(栗原連祖)・弟子 別名:跨耳命・烏賊津使主 妻:百済女性? 武内宿禰妹? ③卜部姓始祖?亀卜に優れ卜部姓を授けられたとも言われている。 ④記紀記事:14仲哀天皇・神功皇后時代四大夫(大三輪氏・物部氏・大伴氏) の一人となる。神功皇后の審神者。 ⑤中臣烏賊津使主は、紀記事に19允恭天皇舎人として、衣通郎媛の話に登場。これとは同名異人か?(時代は合わない) ・真根子ー御見足尼ー太田彦ー酒人ー神奴子ー卜部忍見ーーー壱岐系卜部氏 松尾大社社家(月読社)乙等。 [中臣氏] |
| 雷大臣命 |
| 今川氏親 |
| いいの たかよし 飯野隆至 15??~15?? 岩城家麾下の国人領主。官途は式部大輔。禰宜職の安堵などをされている。伊達家宛書状の奉者を務めている。 |
| 出雲氏(出雲国造) |
| 出雲氏 |
| 板倉家(安中藩) |
| 板倉家(庭瀬藩) |
| 板倉家(備中松山藩) |
| 板倉家(福島藩) |
| 伊賀津臣命 |
| 伊香津臣 |
| 伊香津臣命 いかつおみ |
| 伊佐為宗 いさ ためむね ? 1221 |
| 伊邪那岐命 いざなぎのみこと |
| 伊邪那美命 いざなみのみこと |
| 伊勢大輔 |
| 岩佐又兵衛 |
| 岩城重隆 |
| 岩城常隆 |
| 岩城成隆 |
| 岩城政隆 |
| 岩城貞隆 |
| 岩城由隆 |
| いしばし たんざん 石橋湛山 第55代首相 昭31 .12.23 ~昭32.2.25 [1884~1973]政治家。東京の生まれ。東洋経済新報社に入社し、自由主義的立場から普通選挙論などの論陣を張った。第二次大戦後、蔵相・通産相を歴任。昭和31年(1956)石橋内閣を組織したが、約2か月で病のため総辞職。中国やソ連との交流促進に尽力。 |
| 石川家(伊勢亀山藩) |
| 石川家(下館藩) |
| 石川家臣団 |
| 石川氏 |
| いしかわ あきみつ 石川昭光 (1550~1622) 伊達枝連衆。伊達晴宗の四男。石川晴光の養子。官途は大和守。1568年、石川晴光の養嗣子となる。実父伊達晴宗や兄伊達輝宗に従って田村家や佐竹家のと戦った。1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の領有権をめぐって戦い、芦名家が同地を失うと、石川晴光、石川昭光は佐竹義重への服属した。1575年、芦名家は安積郡大槻城を田村勢に攻められが、芦名勢が北部の久保田を攻め返した。1576年、田村清顕は佐竹家とともに芦名方の長沼城を攻めた。1585年「人取橋の戦い」では、南奥諸大名と共に義兄の佐竹義重についた。1589年「摺上原の戦い」以降は再び伊達家に属した。1590年、須賀川城を与えられたが、奥州仕置にて羽柴秀吉に小田原への不参陣を咎められ、三兄留守政景らと共に改易された。 |
| いしかわ はるみつ 石川晴光 (1528~1580) 石川稙光の男。1530年、父石川稙光の死去にともない家督を相続する。1543年「天文の乱」では近隣諸侯の多くと同様に伊達稙宗方として参戦。天文の乱終結以後、田村隆顕、芦名名盛氏らの勢力圏が石川郡内にまで及ぶようになると、この両者の抗争に巻き込まれる形で次第に所領を削り取られ、さらには、常陸国の佐竹義昭が1560年、白河結城家から高野郡を奪取すると、奥州への進出を図り石川領に兵を進めた。1563年、諸勢力の圧迫を受けて窮地に陥った石川晴光は、伊達家の庇護を求めるため、実子石川光専には家督を継がせず、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎えた。1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。 |
| いしかわ の まろ 石川麻呂 名前 蘇我石川麻呂、蘇我倉山田麻呂、倉山田臣、山田臣、山田大臣 親族 父 倉麻呂(蘇我馬子の子) 母 妻 子 興子(こごし) 遠智娘(天智天皇の妃) 乳娘(ちのいらつめ)(孝徳天皇の妃) 造媛(みやつこひめ)(中大兄の妃) 兄弟 赤兄(あかえ) 連子(むらじこ)(石川安麻呂の父) 略歴(07世紀) 生年月日不詳 蘇我倉麻呂の子として生まれる。 645-乙巳-皇極04年06月08日 中大兄皇子や中臣鎌足らから蘇我入鹿の殺害計画を打ち明けられ同意する。 当日に「三韓の上表文」を読む役を引き受ける。 645-乙巳-皇極04年06月12日 三韓の調べを貢ぐ日 、上表文を読み上げているが、緊張感から冷や汗と震えを蘇我入鹿に咎められたという。直後、入鹿殺害は実行される。 645-乙巳-皇極04年06月13日 入鹿殺害の功でか、右大臣となる。 649-己酉-大化05年03月24日 異母弟阿倍内麻呂に密告される 孝徳天皇は、石川麻呂を救うべく奔走したといわれるが、中大兄と鎌足の筋書き通りに事は進む。 難波を逃れてくるのを大和でで山田寺の造営中であった長子の興子(こごし)は今木(高市)で迎える。 649-己酉-大化05年03月25日 孝徳天皇もやむなく「石川麻呂謀反」に同意させられ兵を派遣する。 興子は小墾田宮を焼き追討軍に対抗しようとしたが石川麻呂はそれを許さず、山田寺で「願はくはわが生生世世(しょうじょうせぜ)に君王を怨み奉らじ」として妻子8人とともに自害して果てたとされている。 書紀では、後に無実であったことが分かり後悔したとあるが、中大兄は、密告した蘇我日向を筑紫大宰帥に任じるなど事件に関与する人物を宮から遠ざけ、真相解明をしようとする動きを封じてしまっ ている。最初から鎌足と中大兄により仕組まれた謀反劇であったという説もある。 この時すでに実権は孝徳天皇にはなく、中大兄と鎌足にあったのでしょう。 天皇家? |
| いしかわ たねみつ 石川稙光 (1494~1530) 石川郡三芦城主。1534年、石川稙光は伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜とともに岩城重隆、結城晴綱を攻める。 |
| 池田家(岡山藩) |
| 池田家(鴨方藩) |
| 池田家(鹿野藩) |
| 池田家(若桜藩) |
| 池田家(生坂藩) |
| 池田家(鳥取藩) |
| いとくてんのう 懿徳天皇 -553綏靖29~-477懿徳34.09.08 別名:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)、大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)、大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと) 父:安寧天皇(あんねいてんのう)第2皇子 母:渟名底仲媛命(ぬなぞこなかつひめのみこと)(鴨王の女) 室:皇后・天豊津媛命(あまとよつひめみこ)(父:息石耳命) 子:観松彦香殖稲尊(孝昭天皇) 第4代に数えられる大和朝廷の天皇。安寧11年に立太子。即位後、軽の曲峡宮に遷都して天豊津媛命を皇后とした。在位34年にして没し、陵墓は奈良県橿原市西池尻町の畝傍山南繊沙渓上 (みなみつまさごのたにのへ) 陵に葬られたという。 |
| いぐち かげゆ 井口勘解由 (?~1560年) 土佐井口城主。長宗我部重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否。周孝に攻められるも、三百の兵で撃退。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死。居城も落とされた。 |
| 井上家 |
| 一条房家 |
| 逸見清光 |

