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世界史ノート(中世編)

世界史ノート(中世編)

第5章 東アジア世界の形成と発展
3.北方民族の活動と中国の分裂

1 北方民族の活動と中国の分裂
 
1 三国と晋
 後漢末の184年に起こった黄巾の乱の中心勢力は、同年末までに後漢と地方豪族によって鎮圧されたが、その後も残党は各地で反乱を起こし、後漢の勢威は失われ、討伐に従事した地方豪族が各地に割拠することとなった。 
 「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきたが、黄巾の乱の鎮圧に立ち上がる劉備・関羽・張飛の「桃園の義」から始まる。私も中学時代に世界名作全集の三国志を読んで、三国志の世界に熱中した一人である。世界史の教員となるきっかけになった本の1冊である。ホームページの中にも三国志関係のページはたくさんあるので詳しく知りたい方はそちらを見て欲しい。以下後漢の滅亡から三国の鼎立への過程の概略をたどっていきたい。 
 黄巾の乱から5年後に霊帝が亡くなり(189)、14歳の少帝(弘農王)が即位した。外戚と宦官の争いが続く中、残忍・凶暴な董卓が甘粛の兵を率いて洛陽に入り、少帝を廃し、9歳の皇太弟を即位させた。後漢最後の皇帝となる献帝(位189~220)である。 
 袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると、董卓は長安遷都(190)を強行したが、後に部下の呂布に殺された。献帝は洛陽に逃げ帰ったが(196)、その献帝を本拠地の許(河南省)に迎えたのが曹操(155~220)である。 
 曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、沛国(安徽省、劉邦の故郷の近く)に生まれ、20歳で後漢に仕え、黄巾の乱の鎮圧に功績をあげて頭角をあらわし、反董卓軍に加わって挙兵した。そして献帝を許に迎えることに成功した。そして官渡の戦いで袁紹を破って(200)ますます勢力を強め、後漢の実権を握り、丞相となった(208)。 
 華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下し、荊州に攻め込んだ。 
 「三国志」の英雄のなかで人気がある劉備(161~223)はその頃荊州の劉表のもとにいた。前漢の6代皇帝景帝の子孫と称した劉備は、父を早く亡くし、母との苦しい生活のなかで初め儒学を志したが読書を好まず、侠客らと交わっていた。黄巾の乱が起こると、関羽・張飛と義兄弟の契りを結び、討伐軍に加わり次第に勢力を伸ばしていった。 
 その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒をはかり、劉備らに密書を出した。しかし、この計画がもれ、劉備は袁紹のもとへ逃げるが、その袁紹が曹操に敗れると、荊州(湖北省)の劉表のもとに身を寄せた。この荊州時代に有名な「三顧の礼」によって諸葛亮(孔明)(181~234)を得た(207)。 
 南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、孔明の意見に従って、孫権(後漢末の群雄の一人であった孫堅の次子で、父・兄(孫策)の死後、江南を支配)と同盟を結び、有名な「赤壁の戦い」で曹操軍を破った(208)。 
 赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)に対して、劉備・孫権連合軍は約3万人といわれている。偽って降伏した黄蓋(呉の武将)の「連環の計」(水上戦の経験がなく、船酔いに苦しむ曹操軍に大船同士を繋ぎ合わせる事を進言)と「火攻の計」によって曹操軍は大混乱に陥り、大敗した。 
 赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立したが、結局劉備の領有が認められた(210)。劉備は、孔明の「天下三分の計」に従い、荊州を足がかりとして益州(現在の四川省)への進出をはかり、劉璋から益州を奪った(214)。 
 こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の孫権、四川の劉備に三分され、三国が鼎立することとなった。 
 220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、位220~226)が魏王となり、同年献帝から禅譲を受けて帝位につき魏王朝(220~265)を樹立した。 
 曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、位221~223)は成都で即位し、蜀(221~263)を建国した。 
 その翌年、孫権(182~252、位222~252)も呉王として自立して呉(222~280)を建国し、後に皇帝を称して都を建業(現在の南京)に置いた(229)。 
 三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強かった。人口で見ると、魏が約440万人、呉が約230万人、蜀は約94万人で、国力は人口に比例すると考えていい。 
 蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐のために、呉に出兵したが大敗を喫して逃げ帰り、白帝城で亡くなった(223)。 
 劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀を支えたのが諸葛亮(孔明)である。彼は「出師(すいし)の表」を書き、宿敵魏との戦いに出陣し(227)、以後何回も出兵したが華北を回復する事は出来ず、五丈原で陣没した(234)。 
 孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされた。 
 魏では文帝の死後(226)、司馬懿(179~251)の権力がさらに強まった。五丈原で孔明と戦い守り抜いたのが司馬懿である。彼は曹操以来4代にわたって仕えた権臣で、249年のクーデターで丞相となり、魏の実権を握った。子の司馬昭は反抗する魏の4代皇帝を殺し、曹操の孫の元帝を即位させた。司馬昭は265年に亡くなったが、同年、子の司馬炎(武帝、位265~290)が元帝から禅譲を受けて帝位に即き、晋(西晋)(265~316)を建てた。 
 武帝は、魏が滅びたのは王族に有力者がいなかったためと考え、司馬一族の者27人を王に封じ、軍事力を持たせ、司馬氏以外の諸将を押さえ、晋王室の守りとした。 
 武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一した。呉は孫権から4代約60年で滅亡した。武帝は統一の直後に占田・課田法と呼ばれる土地制度を施行した。 
 武帝の死後(290)、恵帝(290~306)が即位したが暗愚であったため、外戚の政権争いが生じ、これに乗じて八人の王(王に封じられていた司馬一族の者)が政権をめぐって争う八王の乱(290~306)が起きた。このとき諸王が周辺民族の兵力を利用したため、五胡の侵入を招くこととなった。 
 五胡とは、当時中国の北辺または西北辺で活躍していた匈奴・鮮卑・羯・てい・羌の5族をいう。 
 匈奴は、前漢の末の前1世紀中頃に東西に分裂した。分裂後、西匈奴は漢と東匈奴に滅ぼされた。さらに東匈奴は後漢の初めの48年に南北に分裂した。分裂後、北匈奴は後漢の攻撃を受けて中央アジア方面に移動し、さらに西進してヨ-ロッパに進出した。ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族は北匈奴であるとの説が有力である。一方の南匈奴は後漢に服属して長城付近に定着した。その南匈奴の劉淵は八王の乱に乗じて漢(後に前趙と称す、304~329)を建てた。 
 劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしたが、その直前に亡くなった(310)。そして子の劉聡の時に、洛陽を陥れ(311)、懐帝(武帝の子、晋の第3代皇帝)を捕らえ、さらに316年には長安の愍帝(びんてい、武帝の孫、晋の第4代皇帝)を降して西晋を滅ぼした。この匈奴を主とする兵乱を当時の年号から永嘉(えいか)の乱(307~312)という。 
 司馬懿の曾孫の司馬睿(しばえい、元帝、位317~322)は、初め琅邪(ろうや、山東半島)王であったが、八王の乱を避けて江南(長江の中・下流域)に逃れていた。司馬睿は、西晋が滅ぼされると土着の豪族と華北から移住してきた名門貴族の支持を受けて、皇帝に即位して東晋(317~420)を建国し、晋を復活させ、都を建康(現在の南京)に置いた。 
 

 

 
10.

1 北方民族の活動と中国の分裂
 
2 五胡十六国と南北朝
 西晋末の匈奴の兵乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺や西辺からモンゴル系またはトルコ系の匈奴・鮮卑・匈奴の別種である羯やチベット系のてい(氏の下に一)・羌がいっせいに華北に侵入して国を建てた。匈奴・鮮卑・羯・てい・羌を五胡と呼ぶ。 
 華北では、4世紀の初めから5世紀の初めまでの約100年間に、匈奴の劉淵が建てた前趙(304~329)を初めとして13の国が五胡によって建国された。これに漢人の建てた3つの国を合わせて五胡十六国といい、この時代を五胡十六国時代(304~439)と呼ぶ。 
 この間、チベット系のてい族が建てた前秦(351~394)の第3代の王、苻堅(位357~385)は、漢人宰相を用いて内政を整え、華北を統一し、中国の統一をめざして100万と称する大軍で南下したが、ひ(さんずいに肥)水の戦い(383)で東晋軍に大敗し、以後国内は分裂し鮮卑族の勢力が増大した。 
 鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していたが、匈奴の滅亡後の2世紀に一時統一されモンゴル高原で強大となった。その後、再び分裂し各地に諸部族が割拠した。五胡十六国時代には、諸部族の一つの慕容氏などが華北に侵入し、4世紀以後16国のうちの5つの国を建てた。 
 鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏族となり、拓跋圭(371~409、道武帝、位386~409)の時、前秦の崩壊に乗じて拓跋部を統一し、魏王の位に即いた(386)。のち華北に侵入・制圧し、平城(現在の大同)に遷都し、国号を北魏(386~534)と称し(398)、部族制を解散して中国的王朝を創始した。 
 北魏の第3代皇帝の太武帝(位423~452)は、北涼を滅ぼして華北の統一を完成し(439)、五胡十六国時代に終止符をうった。また鮮卑が華北に移動した後にモンゴル高原で強大となり、北魏の北辺を脅かしていた柔然(モンゴル系の遊牧民族)を討ち、南下して宋(南朝)を大破して打撃を与えた。彼は道士の寇謙之(363~448)を信任して道教を信じ、仏教を弾圧して廃仏を行った(446)。これは中国史上「三武一宗の法難」といわれる仏教の四大弾圧の最初の弾圧となった。 
 北魏の第6代皇帝が有名な孝文帝(位471~499)である。5歳で即位したため、486年までは祖母の太皇太后が執政した。その間に官吏の俸給制、均田制(485)(後述)、三長制(486)(5家を隣、5隣を里、5里を党とし、隣長・里長・党長(三長)を置いて戸口調査・徴税・均田制の実施を担当させた村落制度)等が実施された。 
 孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ、中国文化にあこがれた。親政を始めると徹底した鮮卑族の中国化政策を進め、平城から洛陽に遷都し(494)、鮮卑人の胡服を禁止し(鮮卑族は遊牧に適した筒袖・ズボンを着用していたが、それを禁止してゆったりとした中国服に改めさせた)、胡語を禁止し(鮮卑語の使用を禁止し中国語を使用させた)、胡姓を禁止してすべて中国風に改めさせた。さらに鮮卑と漢人の通婚を奨励した。また洛陽郊外の龍門に大石窟が開かれていくのも洛陽遷都以後である。 
 孝文帝の徹底した鮮卑人の中国化政策は、北魏を急速に文化国家に変えていった。その一方で今までの素朴質実な鮮卑人の生活がぜいたくになり、それとともに軍事力が衰えていった。鮮卑族はその後、漢人に同化され、史上から姿を消していくこととなる。 
 孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂し、東魏(534~550)と西魏(535~556)が成立した。東魏は、将軍の高歓が孝文帝の曾孫を擁立して建てた国であり、西魏は同じく将軍の宇文泰(うぶんたい)が高歓のもとから逃げてきた北魏最後の皇帝を殺して、孝文帝の孫を擁立して建てた国である。 
 高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により北斉(ほくせい、550~577)を建てたが、北斉は6代続いた後に北周に滅ぼされた。 
 宇文泰の子が西魏から禅譲により建国したのが北周(556~581)である。北周は北斉を滅ぼして華北を統一し5代続いたが、外戚の楊堅に国を奪われた。楊堅は隋の創始者である。 
 北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5王朝をまとめて北朝(439~581)という。 
 一方、江南では司馬睿によって建国された東晋(317~420)が約100年間続いた。この間華北の五胡十六国の戦乱を避けて、華北の漢人の貴族・豪族をはじめ多くの農民も江南に移住してきた。このため江南の人口は急激に増加し、華北との人口比率もほぼ1:1になった。 
 華北を五胡に奪われ、江南に移住・定着した漢人は江南の開発を進めた。このため三国の呉以後、開発が進められていた江南(長江の中・下流域)では土地の開墾・灌漑用水路が引かれ、耕地が拡大し、水田耕作が普及して農業生産力が急速に増大した。以後、中国の経済の中心は江南に移っていくこととなる。 
 東晋の皇帝は、華北から移住してきた名門貴族と土着の豪族との対立・調整に苦心した。東晋では皇帝の力が弱く、華北の名族出身の王氏や桓氏の政権争いが続き、その間北方の五胡の侵略にも苦しめられた。特に前秦の苻堅の南下は最大の危機であったが、ひ水の戦い(338)で撃退した。 
 東晋の末に道教徒の孫恩の指導する民衆の反乱が起こった。これに乗じて軍閥の桓玄が帝位を奪おうとしたが、軍人の劉裕(356~422)が桓玄を討って安帝を復位させて政治の実権を握った。後に安帝を暗殺して恭帝(東晋11代、最後の皇帝)を立て、翌年に禅譲によって帝位につき、建康(現在の南京)を都として、宋(420~479)を建国した。宋の武帝(位420~422)である。 
 宋は、439年に華北を統一した北魏の圧迫を受け、やがて皇族・武将の反乱が続く中で武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握り、順帝から禅譲を受けて斉を建て、宋は8代約60年で滅んだ。 
 斉(せい、479~502)も皇族の蕭衍(しょうえん)に国を奪われて7代で滅びた。 
 梁(りょう、502~557)の創始者である武帝(蕭衍、位502~549)の48年間にわたる治世は南朝及び南朝文化の最盛期であったが、末年に侯景(東魏の武将、梁に帰属したが、後に反乱を起こし、建康を陥れ、国号を漢と称したが、やがて敗死した)の乱が起こって 大打撃を受け、武帝の死からわずか8年後に武将の陳覇先に滅ぼされた。 
 梁を滅ぼし、陳(557~589)を建てた陳覇先(ちんはせん、武帝、位557~559)は微賤の出だったが、侯景の乱に功があり、後に禅譲を受けて即位した。陳は5代続いて隋に滅ぼされた(589)。その滅亡によって南朝が終わり、隋による中国の統一が達成された。 
 宋・斉・梁・陳の4王朝をまとめて南朝(420~589)と呼ぶ。華北で興亡した北魏以後の5王朝と江南の4王朝が併存し、対立した時代を南北朝時代(439~589)と呼ぶ。 
 後漢が滅び、三国が分立した時代から隋によって統一されるまでの約370年間を魏・晋・南北朝時代(220~589)と総称する。 
 

 

 
11.

1 北方民族の活動と中国の分裂
 
3 大土地所有の発達
 中国では、大土地所有制が漢代から盛んとなり、広大な土地と多くの奴婢(奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族が各地に現れた。 
 彼らは、前漢の武帝の時に始まった郷挙里選と呼ばれる官吏任用制を利用して官職を独占するようになり、経済的・社会的のみならず政治的にも力を持つようになり、地方の実力者となった。 
 豪族は後漢末から魏・晋・南北朝を通じて、各地でますます力を強めていった。  
 三国の魏の文帝は、豪族の子弟ばかりが推薦されるなどの弊害が目立ってきた従来の郷挙里選にかわって九品中正と呼ばれる官吏任用制を始めた(220)。 
 九品中正(きゅうひんちゅうせい)は中央から任命される中正官と呼ばれる役人を州郡に置き、中正官が郷里の評判によって人物を九品(9段階)にわけて中央に推薦する(これを郷品(きょうひん)という)、中央では郷品に基づいて相応する官職に任命するという官吏任用制で、魏・晋・南北朝を通じて行われた。 
 郷品に基づいて相応する官職に任命するやり方とは、官職を上・中・下に分け、さらにその中を上・中・下に、計9段階に分ける、そして上の上を一品とし、下の下を九品とした。そして丞相や大将軍を一品とし、大臣級は三品、地方長官は四品と決めておき、三品に推薦された者は4ランク下の七品の役に任命され、累進すれば最後は三品の役に就くようにした。なおここから上品とか下品の語が生まれたと言われている。 
 この九品中正の鍵を握るのは中正官である。彼らがしっかりした人物評定をすれば、優れた人物がふさわしい地位・官職に就けるが、そこに賄賂とか情実などが入り込み、人物評定が正しく行われないことになれば本来の役割を果たさなくなってしまう。ところが当時は豪族の全盛時代で中正官になるのは、ほとんどその地方の豪族であったために、結果的には豪族の子弟が上級官職を独占することとなった。 
 「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言葉がある。寒門は貧乏で社会的に無力な低い家柄のことであり、勢族は有力な豪族のことである。つまり貧乏で低い家柄の人はどんなに才能があっても上品に推薦されず、従って高い官職につけない、下品に推薦されている人の中には勢族の人は見あたらない、豪族の子弟は才能がなくても上品に推薦され高い官職に就くことが出来た、豪族が高級官職を独占した様子をなげいた言葉である。 このようにして中央に進出して政治的権力を握り、上級官僚の地位を世襲的に占めるようになった豪族たちを、この頃から貴族と呼ぶ。魏・晋・南北朝から次の隋・唐の時代はまさに貴族の時代であった。   
 後漢末から五胡十六国時代の戦乱や豪族による土地兼併によって土地を失った農民は流民となって各地をさまよい、あるいは豪族の奴婢となった。このことを放置すれば、国家が直接支配する土地と人民を減少させ、軍事面での破綻や税収の減少にともなう国家財政の破綻を引き起こすことになるので、各王朝は何とかして豪族の大土地所有を抑えようとして様々な対策を行った。 
 三国の魏は屯田制を実施した。屯田制は国家が耕作者の集団をおいて官有地を耕作させる制度で、軍屯と民屯がある。軍屯はおもに辺境の軍隊が食糧を自給するために、兵士とその家族が耕作する方法であり、民屯は農民に官有地を耕作させる方法である。魏の曹操は一般の農民をまねいて耕作させ、収穫の5~6割を納めさせた。これは魏の有力な財源となり、魏の経済力を増大させた。 
 西晋は占田・課田法を採用した。これは武帝が呉を滅ぼして天下を統一した直後(280)に発布した土地制度である。占田は土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝とされたが、官人には官職や位階(一品から九品)に応じて50頃(けい、1頃は 100畝=約5.5ha)から10頃の所有が認められた。課田は農民に官有地や戦乱による無主の土地を割り当てて耕作させたものといわれている。占田・課田法については内容や実施の程度などはよく分かっていないが、大土地所有の制限と税の確保を目的としたものであることは間違いないであろう。 
 東晋に始まり南朝で行われた政策に土断法がある。これは当時、華北の戦乱を逃れて多くの農民・流民が江南へ移動してきたが、彼らは戸籍につかず、租税を納めず、豪族の私有民(奴婢)となる者が多かったので、彼らを現住地の一般の戸籍に登録させた政策である。 
 北魏では均田制が行われた。第6代皇帝の孝文帝が実施した均田制は、土地所有額を制限し、国家の土地を貸し与え、国家による土地と人民の支配および税収の確保を図った制度である。 
 北魏が与えた土地には露田(穀物を栽培する土地)、麻田(麻を作る田)、桑田(桑を植える田)があり、露田と麻田は死亡または70歳で返還したが、桑田は世襲された。そして丁男(15~69歳)には露田40畝、麻田10畝、桑田20畝が支給された。 
 なお北魏では妻(丁男の半分が支給された)、そして奴婢(丁男と同じ)や耕牛(1頭につき30畝、4頭まで支給)にまで支給されたので豪族に有利であった。 
 均田制によって土地を支給された均田農民には租(穀物)・調(特産物)・役(労役)の税が課せられた。 
 よく知られているように、この北魏の均田制は隋・唐に受け継がれて行くことになる。 
 各王朝が行った大土地所有を抑制しようとする政策は、国家が農民を確保するにはある程度役に立ったが、豪族の大土地所有を抑制するうえではほとんど無力で効果なく、豪族は前述の九品中正を利用して中央政界に進出して政治的権力を握り、貴族階級を形成していくこととなる。 
 

 

 
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1 北方民族の活動と中国の分裂
 
4 六朝時代の文化
 魏・晋・南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国において仏教が社会一般に普及したことである。 
 仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされてきたが、最近は「紀元前2年に長安の前漢の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節がやってきて、仏陀の教えについて語った。」 という記録から、年表等にも前2年と書かれている。いずれにしても紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよい。 
 しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われたか、シルク・ロードを通ってやってきた西域の人々に信仰されていたにすぎなかった。 
 後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦乱が続くなかで人々は否応なしに死について考え、救いを求めた。こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まっていった。 
 仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物は仏図澄(ぶっとちょう、?~348)である。仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛んで、付近にキジル千仏洞がある)に生まれた。本名はブドチンガ。310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めた。寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと言われている。 
 仏図澄と同じ亀茲の人で仏典の漢訳に大きな功績を残したのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344~413)である。本名クマラジーヴァ。父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒であった。7歳で出家し、中央アジア・インドで仏教の教理を学んだ。前秦の苻堅の亀茲遠征の時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、そこで中国語を学んだ。のちに後秦王の国師として長安に迎えられ(401)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳した。 
 以後、仏教は華北では北魏の朝廷の保護を受けて(太武帝は弾圧したが)盛んとなり、また東晋から南朝にかけて江南でも仏教は非常に盛んであった。多くの仏寺・仏像が造られ、僧尼の数は激増した。特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出した。 
 東晋の僧、法顕(ほっけん、337?~422?)は出家生活に必要な戒律の原典を求めるために、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発し(399)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝の時代)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得て、セイロン(現スリランカ)に渡り、インド・セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国した。帰国後は仏典の漢訳に従事した。その旅行記「仏国記」は、当時の西域・インド・南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献である。 
 仏教の隆盛とともに仏寺・仏像が盛んに造られ、また各地に石窟・石仏が掘られた。特に敦煌(とんこう)・雲崗(うんこう)・竜門の石窟は中国の仏教遺跡として有名である。 
 敦煌莫高窟(ばっこうくつ、千仏洞ともいう)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)までの間に約1000窟が掘られ、492窟が現存している。仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれている。1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類・古写本・古文書が発見された。なぜ大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかという謎を11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守るために隠したとの解釈で書かれているのが、有名な井上靖氏の「敦煌」である。映画化されたので見られた方も多いと思う。 
 雲崗の石窟は、鮮卑族が建てた北魏の初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所にある大石窟寺院である。3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(位452~465)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494)までに大小53の石窟を東西1kmにわたって造営された。ガンダーラ・グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでいる。特に有名な大仏は高さ14mもある。 
 孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母のために2窟を開き、さらに自らのために1窟を開いた。完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと言われている。以後、唐の玄宗皇帝(位712~756)までの約250年間に2100余の石窟が開かれた。その仏像は雲崗のそれに比べると中国化している。  
 仏教の隆盛に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は後漢末の太平道(黄巾の乱の指導者である張角が始めた)や張陵の始めた五斗米道(天師道ともいう、祈祷によって病気を治し、謝礼に米5斗を取った)を起源とし、それに当時貴族の間に流行していた不老長生を願う神仙術と老荘思想、さらには易・呪術・占卜などの様々な要素を含む宗教である。 
 北魏の寇謙之(363~448)は、河南省の嵩山(すうざん)に20年間こもって修行し、天神の啓示を受けて、今までの五斗米道を改革して新天師道を創始し、太武帝の尊信を受けて、道教を国教とし (442)、さらに太武帝に廃仏を行わせた。 
 道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士(道教の僧)・道観(道教の寺院)などの言葉や教団組織が確立された。道教の不老長生と現世的利益を願う教えが中国人に受け入れられ、以後長く民衆に信仰され、儒教・仏教とともに中国の三大宗教のひとつとなる。 
 魏・晋・南北朝時代の文化でもう一つ特筆すべきことは、江南で優雅な中国的な貴族文化が発達したことである。 
 江南では、三国時代の呉に続く東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝が興亡したが、この6王朝はいずれも現在の南京に都を置いた。現在の南京は呉の時代には建業と呼ばれたが、東晋以後は建康と呼ばれた。この6王朝を六朝(りくちょう)と総称し、この時代を六朝時代といい、その文化を六朝文化と呼ぶ。 
 六朝文化の担い手は貴族であった。当時の貴族の教養とされたのが「玄、儒、文、史」である。玄は老荘思想、儒は儒学、文は文学、史は歴史である。 
 玄、儒、文、史のなかでは儒学は人気がなく振るわなかった。もっとも人気を集めたのが玄学すなわち老荘思想であった。こうしたなかで清談の風がうまれた。清談は二人が一つのテーマで論議をたたかわすものであるが、六朝時代になると老荘思想による論議が盛んとなり、次第に世間を超越して、虚無を論ずるようになった。いわゆる「竹林の七賢」の阮籍(げんせき)らは老荘思想を身につけ、世事を逃れて自由放逸な生活を楽しみ、酒を愛し、竹林を好み、清談を楽しんだ。清談は上流貴族社会の流行となった。 
 六朝時代に文学、書道、絵画などの芸術が一つのジャンルとして確立した。その担い手も貴族であった。 
 文学では東晋の詩人である陶潜(とうせん、字の淵明から陶淵明とも、365頃~427)や南朝の宋の詩人である謝霊運(しゃれいうん、385~433)が有名である。 
 陶淵明は、東晋の名将の曾孫であったが、生活のために下級官吏を歴任した。405年に県の知事になったが、官吏の束縛と監督官の横暴を嫌い、「五斗米(県の知事の俸給の一日分、日本の約5升にあたる)のために腰を折らず(上役にぺこぺこするのはいやだの意味)」とわずか80余日で辞任した。このとき作ったのが有名な「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざらんや」で始まる「帰去来辞」(ききょらいのじ)である。故郷の田園に帰って、酒と菊を愛し、自然に親しみながら自適の生活を送り、詩を作った。六朝第一の自然詩人・田園詩人といわれた。 
 謝霊運は、晋の名門の一族で宋に仕えたが、政治的に軽んじられたために官を辞し、山水に親しみながら政治的不満を詩で発散した。のち広州に流罪となり、脱走を企てて失敗し、刑死した。 
 文章は対句を多く用いた華麗な形式(四六駢儷体(しろくべんれいたい))が尊ばれ、南朝梁の昭明太子(501~531)が編纂した「文選」(もんぜん、周から梁までの百数十人の詩と散文800余を収録した書で、日本の平安時代の文学にも大きな影響を与えた)に収められている。 
 絵画には顧愷之(こがいし、344頃~405頃)があらわれ、「画聖」と称せられた。東晋の画家、顧愷之は江蘇省の豪族の出身で、人物画を多く描き、また神仙思想にもとづく山水画を描いた。「女史箴図(じょししんず)」(宮廷女性に対する教訓(女史箴)を1節ごとに絵であらわして、原文の一部を付したもの)が彼の代表作品とされてきたが、現在では唐代の模写と考えられている。 
 書道には、東晋の書家で、山東の名門の出身である王羲之(307頃~365頃)があらわれ、「書聖」と称せられた。彼は諸官を歴任し、郡の知事になったが早く辞職し、その後は自然の中で悠々自適の生活を送った。書道の大成者でその書風は後世長く模範とされた。特に「蘭亭序(らんていじょ)」が有名である。 
 また「水経注」(地理書)、「斉民要術(せいみんようじゅつ、現存する中国最古の農書)、「傷寒論(しょうかんろん、実用的医学書)などの実用書もつくられた。 
 

 

 
13.

1 北方民族の活動と中国の分裂
 
5 朝鮮・日本の形成
 朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?~前190頃、殷が滅亡したとき、王族の箕子が朝鮮に入って建国したと伝えられる)と衛氏朝鮮(前190頃~前108、燕から亡命した衛満が箕子朝鮮に仕え、前190年頃にその国を奪って建国したといわれる)に始まる。 
 前漢の武帝は、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟(げんと)郡の4郡を設置した。以後約400年にわたって中国の支配が続いた。 
 高句麗(?~668)は、ツングース系(中国東北地方、東シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の夫余(扶余)族が紀元前後の頃に、中国東北地方に建てた国である。高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した公孫氏の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209)、丸都城(がんとじょう)を築いた。さらに公孫氏を滅ぼした魏(220~265)の遠征軍に丸都城を奪われ(244)、国王は東方に逃れた。その後立ち直り、中国の混乱期に乗じて、313年に楽浪郡を滅ぼし、朝鮮北部を領有した。そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王ともいう、位391~412)、長寿王(位412~491)、文咨(ぶんし)王(位491~519)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国となった。 
 広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻め、百済救援に北上した日本軍を破った。このことが有名な好太王(広開土王)碑文に書かれていて、倭(大和政権)が朝鮮半島に進出していたことを裏付ける史料とされてきた。 
 朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓(南東部)・弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれていた。三韓のなかはさらに多数の小国に分かれていて、楽浪郡・帯方郡の間接的支配を受けていた。 
 3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(ひゃくさい、くだら、4世紀中頃~660)が成立した。3世紀頃12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(しんら、しらぎ、4世紀中頃~935)が成立した。 
 弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたが、4世紀中頃日本が進出し、任那(にんな、みまな、4世紀後半~562、加羅(から)・伽耶(かや)とも)を支配下に置いた。 
 こうして4世紀から7世紀にかけては、朝鮮には高句麗・新羅・百済の三国が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれる。 
 6世紀にはいると百済・新羅が勢いを強め、南方の任那(加羅)諸国を次々に支配下に入れたので、大和政権は任那(加羅)に持っていた勢力の拠点を失い、朝鮮半島から事実上手を引いた(562)。 
 有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つである「魏志」の「東夷伝」の倭人の条の通称)に「倭人は帯方郡の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時朝見(朝貢し謁見するの意味)する者有り。・・・其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という。」とある。 
 邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、「親魏倭王」の称号と多くの銅鏡を贈られた。 
 4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀に入ると朝鮮半島における政治的・軍事的立場を有利にするために、中国の皇帝の権威を利用しようとした。そのために倭の五王はたびたび中国の南朝に使いを送り、皇帝から高い称号を得ようとした。 
 倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃・珍・済(せい)・興・武である。讃は応神か仁徳か履中、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略天皇にあたると考えられている。5世紀の初めからほぼ1世紀の間に9回朝貢した記録が「宋書」などの史書に書かれている。 
 このような朝鮮・中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀にかけて鉄器・土器を初めとする技術や漢字・儒教(513)・仏教(538、一説には552)などの学問・宗教も伝わり、文化が進んだ。    
 

 

 
14.
4.東アジア文化圏の形成

2 東アジア文化圏の形成
 
1 隋の統一
 隋の建国者である楊堅(文帝、541~604、位581~604)の父は北周建国の功臣の一人で重臣であった。楊堅は父の後を継いで、北周の将軍から最高官職である「八柱国」(府兵を指揮する貴族)となり、娘が北周4代皇帝宣帝の妃となったため外戚となった。そして宣帝の死後、幼い静帝が即位すると後見となり、これに反対する政敵を倒し、静帝に迫って禅譲させ、隋王朝(581~618)を開いた。なお楊堅には鮮卑族の血が濃いという説がある。都は引き続いて長安におき、名を大興城と改めた。そして588年に南朝の陳討伐の軍を起こし、翌589年に陳を滅ぼし、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国を統一した。 
 文帝は、魏・晋・南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強化し、中央集権的な国家の樹立を図った。 
 そのために、北朝の律令・制度を継承しながら国家体制の整備を行い、まず軍事面では府兵制を全国に実施した(590)。府兵制は、西魏に始まり北周で行われた兵農一致の兵制で、均田農民から徴兵し、かわりに租庸調を免じた。 
 さらに経済面では、北斉にならって、北魏以来の均田制をまず華北で次いで全国で実施した(592)。18~59歳の丁男に露田80畝・永業田20畝を支給し、租庸調の税を徴収した。ただし、煬帝の時に北魏で行われていた妻や奴婢への給田を廃止し、官位に応じて官人永業田を与えることとした。これにより豪族・貴族は大土地を所有し、権威を保つためには隋の官位に就かなければならなくなった。 
 文帝が行った改革の中で最も重要なことは、従来の九品中正にかわって科挙(選挙、官吏を選択推挙するの意味)と呼ばれる官吏任用制を始めたことである。 
 中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に世族なし」といわれたように、上級官職を豪族が独占し、家柄は良いが無能な官吏がのさばり、家柄の低い貧しい家の才能ある者の進出を妨げることになったので、中正官を廃止し(598)、学科試験の成績によって官吏を採用し、官吏への道を能力に応じて平等に開き、豪族・貴族による高級官職独占の弊害を除き、君主権の強化を図った。 
 南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶために運河の開削を始め、文帝の584年に広通渠(こうつうきょ、長安と黄河を結ぶ運河)、さらに587年にかん溝(淮河と長江を結ぶ運河)が開通した。これをさらに大規模に行ったのが、次の煬帝である。 
 対外的には、当時、北方で突厥が強大となっていたが、文帝は内紛に乗じて離間策をとり、そのため突厥は東西に分裂した(583)。東方では高句麗が隋領に侵入してきたことを口実に30万の遠征軍を送ったが大失敗に終わった(598)。 
 文帝は、はじめ長男の楊勇を皇太子としたが、武将として優れた才能を持っていた次男の楊広は母に取り入り、兄を皇太子の位から追い落とし、皇太子となった(600)。しかし、文帝が再び長男の勇を皇太子に立てようとしたので、楊広は機先を制して父を毒殺して皇帝になったと言われている。楊広すなわち中国史上有名な第2代皇帝、煬帝(ようだい、569~618、位604~618)である。 
 煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、父を毒殺したとの説もあり、人民を酷使し、豪奢な生活を営なむなど、暴君とされ、中国史上あまり評判がよくない。 
 煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を造営した。 
 煬帝といえば、すぐに大運河の建設というように、大運河の建設は煬帝の業績の中で最も有名であり重要なことである。大運河は、幅30~50mの水路で華北と江南の各地を結んだ運河で、当時次第に開発が進み米作の中心となってきた江南(長江の中・下流域)の米を中心とする物資を、人口が多い華北へ運ぶために建設された。全長1500kmに及ぶ大運河は以後華北と江南を結ぶ大動脈となり、中国経済発展に大きく貢献し、現在もなお人々に恩恵を与えている。 大運河の建設は、すでに文帝の時に始まっていたが、大規模な建設を進め完成させたのが煬帝である。にもかかわらず煬帝が大運河を建設したのは、彼が好んだ江都(揚州)への豪遊のためであるとも言われるが、これはやや気の毒な感じもする。 
 まず100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を開削し(605)、すでに開通しているかん溝を通って黄河と長江が結ばれることとなった。次いで永済渠(えいさいきょ、黄河~天津)(608)、江南河(長江~杭州)(610)が開通した。 
 通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われた。煬帝の「竜舟」は長さ200尺(約60m)、高さ45尺、4層づくりで100数十の部屋があった。それに諸王・百官・女官ら10万人の随従の人々を乗せた舟が数千隻が続き、200里(1里は約560m)の列をなしたと言われる。このために舟の引き手として8万人が農村からかり出された。この江都行幸は3回行われたが、3度目の時煬帝はその地で殺された。 
 煬帝は対外的にも積極策をとった。北方の突厥に備えて「万里の長城」を修築したが、このために100万人の男女を徴発し、突貫工事で完成させた。また西の吐谷渾(とよくこん、青海省を中心に鮮卑系の人々が建てた国)を討って青海地方を併合し、西域諸国へも勢力を伸ばした。さらに南の林邑(ヴェトナム南部にあったチャム人の国)を討ち、琉球(現在の台湾)を征服した。 
 この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した(607)。その時の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」の文があり、煬帝が怒ったということは有名である。 
 高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従わなかった。突厥と結ぶことをおそれた煬帝は大規模な高句麗遠征を強行した。 
 第1回の遠征(611)には、113万人を越える水陸の大軍が集められ、輸送にあたる者230万人が徴発された。軍の長さは1000里にも達したと言われている。しかし、陸軍は遼河(遼東半島の西の河)の線で高句麗軍の頑強な抵抗にあって6ヶ月も進めなかった。一方水軍は陸軍の到着を待たずに高句麗の首都平壌から60里まで迫ったが伏兵にあって大敗し、4万の兵は数千になった。遅れて陸軍が平壌から30里まで迫ったので、高句麗は偽りの降伏をし、そして隋軍が退くところに襲いかかって大勝利を得た。隋軍30万5千のうち遼東まで逃げ帰った者はわずか2700人だったと言われる。 
 翌年(612)、第2回目の遠征が行われたが、遼河を渡ったところで内地に楊玄感の反乱が起こったので、全軍が引き上げ、反乱の討伐にあたり2ヶ月で鎮圧した。第3回の遠征が614年に行われたが、高句麗が降伏したので、軍は遼東から引き上げた。  
 高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発されて苦しんでいた農民が立ち上がり、各地で反乱が相次いだ。 
 こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(616)、遊興にふける日々を送った。617年に李淵は長安に入り、煬帝の孫を擁立した。ついにクーデターが起こり、煬帝は近衛軍の兵士に殺され(618)、隋は滅亡した。 
2 突厥の活動
 モンゴル高原では、鮮卑が華北に移った後の5~6世紀に、モンゴル系の柔然が強大となり、モンゴル高原を中心に南満州からタリム盆地を支配下に置き、北魏と対立した。しかし、5世紀後半に支配下にあった高車が独立した後、次第に衰退し、6世紀中頃にトルコ系の突厥に滅ぼされた。 
 アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北方、バイカル湖の南からアルタイ山脈にわたる地域で遊牧生活を営んでいた。 
 中国史に登場する丁零(ていれい、前3~後5世紀頃、初め匈奴に属していたが、後に独立し、匈奴に対抗した)、高車(こうしゃ、丁零の後身、柔然に属していたが、5世紀後半に独立し、柔然と対立した)、鉄勒(てつろく、丁零・高車の後身、隋・唐時代に中国人が突厥以外のトルコ人を呼んだ総称、バイカル湖の南からカスピ海にわたる広い地域に分布していた)などはいずれもトルコ系民族である。 
 トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南にいた人々は、初め柔然に服属していたが、6世紀の中頃から強大となり、柔然を滅ぼして、モンゴル高原にトルコ人による統一国家を建てた。この国は中国では突厥(とっけつ、トルコの正しい音のテュルクの音訳)と呼ばれた。 
 遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用いた。国を保つ王の意味である。柔然の王が初めて用いたとされているが、突厥の君主もこの称号を用いた。 
 突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552~553)と号した。その子3代の王、木杆(もくかん)可汗(?~572)の時、ササン朝のホスロー1世と同盟してエフタル(5~6世紀に中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族)を挟撃して滅ぼし(566)、東は満州から西は中央アジアにまたがる大帝国となった。そしてシルク・ロードを押さえて巨利を得て栄えた。 しかし、6世紀末には内紛が起こり、当時成立したばかりの隋の文帝はこの内紛を利用して離間をはかったので、突厥はモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂した(583)。 
 その後まもなく東突厥は隋に朝貢することとなり、その後も内紛が続いたが、7世紀初めの隋末の混乱に乗じて、再び勢いを取り戻した。しかし、630年に唐に滅ぼされた。 
 19世紀末に、ロシアの考古学者がオルホン川(モンゴル高原からバイカル湖に注ぐ川)の流域で碑文を発見し、デンマークの言語学者トムセンによって解読された。それによるとこの碑文は、東突厥の可汗の功績を讃えたもので、732・735年に建てられたものであることが分かった。そこから8世紀のトルコ語を記録した突厥文字が、北方遊牧民族の最古の文字であることが明らかになった。    
 

 

 
5.

2 東アジア文化圏の形成
 
3 唐の盛衰(その1)
 隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が起こったが、これに各地の豪族が加わり、国を建て皇帝を称し、中国全土で激しい抗争が続いた。その混乱を収め、唐(618~907)を建てたのが、山西で挙兵した李淵、すなわち唐の高祖(565~635、位618~626)である。李淵の先祖は、隋を建てた楊氏と同様に鮮卑が多く住んでいた武川の軍閥で、祖父は西魏・北周の「八柱国」(府兵を指揮する軍人貴族)という最高官職に就いた。このため李氏は鮮卑族であるという説も強い。 
 李淵は7歳で父あとを継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋を建てると、李淵の母が楊堅の皇后の姉にあたる(つまり李淵と煬帝は従兄弟ということになる)ことから、隋に仕えて八柱国となった。しかし、煬帝には警戒されて大した官職につけず地方長官などを歴任した。隋末の混乱期には、突厥防衛のために山西の留守(りゅうしゅ、非常時に皇帝から文武の大権を委任された官職)の地位にあったが、次男の李世民(後の2代皇帝太宗)の勧めで挙兵し(617)、突厥の援助を得て長安を占領した。当時、煬帝は江都にいたが、李淵は孫の恭帝を擁立して即位させた。そして煬帝が暗殺されると、恭帝に禅譲させ、唐王朝(618~907)を樹立し、首都を長安に定め、唐の基礎を固めた。 
 しかし、唐が成立したとはいえ、まだ長安の地方政権にすぎず、各地には皇帝を称する群雄が割拠していて、唐は群雄平定に10年近くかかり、次の太宗の時代にやっと中国統一を達成した(628)。この間、次男の李世民の活躍はめざましく、皇太子であった長男の李建成はこれを妬み、三男の李元吉と結んで李世民を討とうとしたが、かえって殺された(玄武門の変、626)。 
 これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗(位626~649)となり、年号を貞観(じょうがん)と改めた。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、房玄齢や杜如晦(とじょかい)らの名臣に補佐されて、国内はよく治まり、理想的な政治が行われた時代とされる。唐は、隋の制度をほぼそのまま継承し、高祖・太宗の2代にわたって律令体制を整備・確立した。 
 中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置いた。三省とは中書省(詔勅の立案・起草を司る)・門下省(詔勅の審議を行う、修正や拒否の権限があったので、貴族勢力の牙城となった)・尚書省(詔勅を実施する行政機関)である。尚書省の下に、吏部(官吏の選任を担当)・戸部(財政を担当)・礼部(祭祀、教育を担当)兵部(軍事を担当)・刑部(裁判を担当)・工部(土木を担当)の六部が置かれた。そして官吏の監察機関として御史台(ぎょしだい)が置かれた。 
 また地方統治制度としては州県制をしいた。全土を10道に分け(627)、その下に州(隋・唐は従来の郡を廃して州とした)・県を置き、長安・洛陽・太原の重要都市には府を設置した。 
 唐は律・令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政治を行うしくみ、いわゆる律令体制を完成した。律は刑法、令は行政法ないし民法典をさす。ほかに補充改正規定である格(かく、きゃく)と施行細則である式がある。この律令体制は日本をはじめ東アジア諸国に大きな影響を及ぼした。 
 官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強化した。唐代の科挙の科目には秀才、明経、進士、明法、明算などがあった。唐の初めには、政治についての意見や時事問題についての対策などの論文を課す秀才が最高のものとされたが(学才を持つ人を秀才と呼ぶのはここから来ている)、中期以降は明経と進士が主要な科になった。 
 明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と詩賦によって作文能力をためすものであった。特に次第に進士が重視されるようになり、合格者は将来の栄達が約束されたも同然であった。当然、狭き門となる。進士科の毎年の合格者は、1000~2000人の応募者に対して10人前後であった。 
 対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にとって脅威であった東突厥を討って可汗(かかん、突厥の王の称号)を捕虜とした(630)。当時、異常気象が突厥の地を襲い、連年の雪害で大量の家畜が死に、可汗が税を厳しく取り立てたために諸部が離反した。これに乗じて討伐軍を派遣し、可汗を捕虜とするという大勝利を得て、長年の北方の脅威を取り除くことに成功し、後に安北都護府を置いて統治した。 
 さらに青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(635)、639年には中央アジアのトゥルファン地方にあって栄えていた漢人系の高昌(こうしょう)に遠征軍を送り、640年にこれを滅ぼし、安西都護府を設置して(640)西域地方を支配下におさめた。 
 当時、チベットにソンツェン=ガンポ(?~649)が出て、640年頃までにチベット高原全体を征服して吐蕃(とばん)を建て、唐の西辺に侵入した。そのため唐の太宗は、文成公主(?~689)を降嫁させ(641)、親和関係を成立させた。文成公主は唐と吐蕃の和平に尽力し、また中国の文物がチベットに入るきっかけをつくるなどの功績により、現在もラマ教(チベット仏教)の尊像に刻まれてチベット人に敬愛されている。 
 東方では高句麗遠征を行ったが(645)、これは大失敗に終わった。 
 太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝国となり、次の高宗の時代に唐の領土は最大となっていく。 
 有名な玄奘(三蔵法師)が西域を経てインドに行き、経典等を持ち帰ったのも太宗の時代のことであった。 
 太宗の子は14人あったが、皇后との間に生まれた3人が皇位継承権を持っていた。長子は奇行・愚行が多かったため廃され、太宗は第4子の李泰を太子に立てようとしたが、皇后の兄で重臣であった長孫無忌(ちょうそんむき、長孫が姓)が強く推したので、第9子の李治が太子となり、太宗の死後、即位して第3代皇帝、高宗(628~683、位649~683)となった。高宗はおとなしく、心やさしい人物であった。 
 対外的には、新羅と結んで百済(660)、高句麗(668)を滅ぼした。この時、日本は百済の復興を助けるために援軍を送ったが、白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い(663)で、日本水軍は唐・新羅連合水軍に大敗し、日本勢力は完全に朝鮮半島から一掃された。 
 西方では、西突厥を討って(657)、中央アジアを支配下におさめ、南方でも、ヴェトナム中部にまで進出し、安南都護府を置いて支配した。 
 こうして高宗の時代には唐の領土は最大となり、東は朝鮮から西は中央アジア、北はモンゴル高原から南はヴェトナムに及ぶ空前の大帝国となった。 
 唐は征服した周辺諸民族を統治するために、六つの都護府を置いて統治した。太宗から高宗の時代にかけて、安南都護府(622、ヴェトナムのハノイに設置)、安西都護府(640、中央アジアに設置)、安北都護府(647、外モンゴルに設置)、単于(ぜんう)都護府(650、内モンゴルに設置)、安東都護府(668、朝鮮の平壌に設置)、北庭都護府(702、中央アジアに設置)を設置し、都護は中央から派遣したが、その下の都督・刺史(長官)には服属した在地の族長を任命するという間接統治を行った。このような唐の懐柔策は「覊縻(きび)政策」と呼ばれる。馬を繋ぎ止めるの意味である。 
 高宗は、長孫無忌やちょ遂良(ちょすいりょう、唐の政治家、書家として有名)らの反対を押し切って、武照を皇后とした(655)。武照は、中国史上唯一の女帝となる則天武后(624(628)~705、位690~705、武則天ともいう)である。 
 則天武后の父は、山西で木材業によって一代で富をつくり、李淵が山西で挙兵したとき、これに従って長安に出て工部尚書にまで出世し、娘の武照は14歳で太宗の後宮に仕えた。武照は、太宗の死後、尼となって寺にいたが、その寺に参詣した高宗と会い、後に後宮に迎え入れられた。そしてたちまち高宗の心をとらえ、王皇后と蕭淑妃を失脚させて、ついに皇后になった(655)。 
 皇后となった則天武后は、反対派を除き、一族の者を重用して政権の基盤を固めていった。そして元来、病弱で激しい頭痛もちであった高宗が30歳を過ぎた頃から激しいめまいや頭痛に悩み、政務を則天武后に任せたことから(660)、則天武后が高宗に代わって一切の政務を行うようになり、次第に独裁権力を握るようになった。 
 そして高宗が亡くなると(683)、子の中宗(位683~684、位705~710)を第4代皇帝としたが、まもなく廃し、次いでその弟の睿宗(えいそう、位684~690、位710~712)を立てた。 
 武后の専横に対して李敬業の反乱が起きたが(684)、これを鎮圧した後は、密告政治によって反対派弾圧を強化し、ついに690年、睿宗を廃し、自ら皇帝の位につき、国号を「周」(690~705、通称は武周)と改めた。この時、則天武后はすでに67歳であった。 
 即位後、仏教を保護し、大土木事業を盛んに行い、新しい人材の登用を行い、新しい漢字も作成させた。しかし、83歳となり病床についた。その時、臣下が決起して則天武后に譲位を迫って同意させた。地方に幽閉されていた中宗が呼び戻されて復位し、国号は再び唐に戻った。その年の終わりに則天武后は亡くなった(705)。 
 中宗の復位後、まもなく則天武后が没すると、今度は中宗の皇后の韋后(いこう、?~710)が政治に介入し、韋氏一族が政治の実権を握るようになった。政権をねらった韋后は娘と謀り、中宗を毒殺した(710)。 
 しかし、中宗の死から18日後に、睿宗の三男の李隆基がクーデターを起こし、韋后とその娘を斬り、父の睿宗を復位させた。 
 則天武后と韋后が政権を奪って、唐の政治を混乱させたことを「武韋の禍」とか唐の「女禍」と呼ぶ。これは女は政治に口出しすべきではないという封建的な歴史家の立場からの呼び方である。 
 

 

 
6.

2 東アジア文化圏の形成
 
4 唐の盛衰(その2)
 睿宗は2年後に、位を皇太子の李隆基に譲り、李隆基が28歳で即位した。李隆基が中国史上有名な皇帝である玄宗(685~762、6代、位712~756)である。玄宗は、翌年、年号を開元(713~741)と改めた。 
 玄宗は、即位すると名臣・賢臣の助けを得て、不要の官職を除くなどの官僚機構の整理を行った。土地を不法に占有している者からその土地を取り上げて、流民を戸籍に編入して、空き地を与えて耕作に従事させた。また府兵制(徴兵制)にかえて、募兵制を採用した(723年に始まる、府兵制の廃止は749年)。さらに異民族の侵入に備えて、辺境に募兵から成る軍団を置いた。この軍団の総司令官は節度使と呼ばれる。710年に置かれた河西節度使(甘粛省の西部)が最初で、玄宗の時代に10の節度使が置かれた(後には40~50を数えた)。このような諸改革に取り組み、唐の支配体制の立て直しに専念した。 
 この玄宗の治世前半の善政は「開元の治」と呼ばれる。しかし、長い治世の後半には、次第に政治に倦(う)み、特に寵愛した武恵妃を失ってからは(737)、失意の生活を送る一方で、美女を捜す使いを全国に出した。そのような時に、玄宗の目にとまったのが有名な「世界三大美女」の一人である楊貴妃(719~756)である。 
 楊貴妃、本名は楊玉環、父は四川省の県役人であったが早く亡くなり、叔父に養われた。その美貌をかわれて、玄宗の第18子の寿王の妃となった。そして玄宗が華清宮(長安の東、驪(り)山の温泉宮)に行幸したときに見初められた(740)。 
 玄宗は、楊玉環を寿王と離別させ、道観(道教の寺院)に入れて女道士とし、やがて宮中に召した(744)。この時、玄宗は59歳、楊貴妃は25歳であった。翌年、楊玉環は貴妃(女官の最高位)となり(745)、玄宗の寵愛を一身に受け、楊一族は高位・高官に抜擢された。その一人が楊国忠である。 
 楊国忠(?~756)は楊貴妃の従祖兄(またいとこ)の間柄であったが、若い時は素行が修まらず、酒やばくちにこるならず者であり、一族からつまはじきにされていた。楊貴妃を頼って長安に出てくると、たちまち高官に抜擢され、財政手腕を認められて、玄宗の信任を得て、ついに宰相となった(752)。 
 今や役人は楊氏一族のために奔走し、人々は楊氏一族に取り入ろうとし、楊家の門前には賄賂を積んだ車がひしめき合ったと言われている。 
 玄宗と楊貴妃は、華清宮に遊び、玄宗は政治を省みず、国政は乱れた。玄宗と楊貴妃のロマンスは白居易(白楽天)の有名な「長恨歌」に歌われている。漢文で学んで記憶している人も多いと思う。 
 権勢を誇る楊国忠と対立するようになったのが安禄山(705~757)である。安禄山は、ソグド人(現在のウズベク共和国の辺りに住んでいた人々)の父とトルコ人(突厥)の母の間に生まれた雑胡(混血児)であった。父が早く亡くなり、母が突厥人の安氏と再婚したので安姓を名乗った。成長して蕃市(外国商品を取り引きする市場)の仲買人となった。安禄山は6カ国語を自由に操ったと言われている。 
 後に范陽節度使(北京付近に設置)に仕え、中央の官吏に賄賂を送って、次第に昇進し、ついに平盧(へいろ)節度使(現在の遼寧省に設置)となった(742)。翌年、玄宗に謁見し、以後玄宗・楊貴妃に取り入り(後に楊貴妃の養子となる)、范陽節度使を兼任し、さらに河東節度使(洛陽の西に設置)となり(751)、3つの節度使を兼ねて、約20万人の大軍を擁する大軍閥にのし上がった。安禄山は晩年になるに従って肥満し、体重は330斤(約200kg)あり、腹は膝の下まで垂れていたと言われている。 
 楊国忠は、強大な軍を擁するようになった安禄山を警戒し、両者は次第に対立を深めていった。玄宗が安禄山を宰相にしようとしたとき、楊国忠は激しく反対し中止になった。これを恨んだ安禄山が反乱に踏み切ったとも言われている。 
 755年11月、安禄山は「姦臣楊国忠を除く」と称して、范陽で挙兵した(安史の乱、755~763)。20万の安禄山の軍は、破竹の勢いで進撃し、わずか1ヶ月で洛陽を陥れ、安禄山は大燕皇帝と称した(756)。唐軍は、高仙芝(こうせんし、高句麗出身で唐に仕えた武将、西域に遣わされ、751年に中央アジアのタラスでイスラム軍と戦って敗れた)や顔真卿(709~786、唐の政治家、特に書家として有名、安史の乱の際、平原(山東)の太守であったが、義勇軍を率いて奮戦した)らの抵抗もむなしく、安禄山軍は潼関(どうかん、長安の東の関所)を占領した。 
 長安陥落を目前にして、玄宗・楊貴妃・楊国忠らは蜀へ落ち延びようとした。しかし、一行が長安の西、馬嵬(ばかい)にたどり着いたとき、飢えた兵士達は楊国忠を殺し、さらに楊貴妃を殺せと要求した。玄宗はやむなく宦官の高力士に命じて、楊貴妃を仏堂の中で絹で絞殺させた(756)。 
 その頃、洛陽にいた安禄山は眼病を患って失明し、できものに悩まされ、遊楽にふけり、粗暴な振る舞いが多くなり、ついにその子、安慶緒に殺された(757)。しかし、安慶緒も 安禄山の部下であった史思明(?~761)に殺された。 
 史思明も、ソグド人と突厥の混血児で、安禄山と同郷の出身であった。早くから安禄山と親しく交わり、その反乱に従った。史思明は、安禄山が殺されると安慶緒と合わず、唐に降ったが、再び叛いて、安慶緒を殺して、大燕皇帝を称した(759)。しかし、史思明も末子を溺愛し、長子の史朝義に殺された(761)。その史朝義も、唐を援助したウイグル軍に敗れて自殺した。 
 唐は、安史の乱(755~763、安禄山と史思明の名を取ってこう呼ばれる)の鎮圧に苦しんだが、節度使を増強し、ウイグルの援助を得、反乱軍の内紛もあって、9年に及んだ反乱をやっと平定することが出来た。 
 この間、玄宗は蜀に逃れて、子の粛宗(7代、位756~762)に位を譲り、長安が回復されると、長安に戻ったが(762)、粛宗との間がうまくいかず、幽閉同然の余生のうちに没した(762)。 
 安史の乱は平定されたが、長安・洛陽などの都市や農村は荒廃し、唐を支えてきた三本柱である均田制・租庸調制・府兵制は崩れ、この反乱を機に国力は衰退してしまった。 
 唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定したが、このため以後、北からのウイグルと西からの吐蕃の侵入に脅かされることになった。特に吐蕃には一時長安を占領された(763)。 西域地方は彼らの支配下に置かれるようになり、唐はかっての征服地の大半を失った。 
 唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、かっては辺境にのみ置かれていた節度使が内地にも置かれるようになり、その数は40~50にも及んだ。彼らは、その地方の軍事権のみならず、政治・財政権も握って、軍閥を形成し、中央から独立した勢力となり、藩鎮と呼ばれるようになった。 
 中央では、宦官が財政・軍事権を握るようになり、宦官は憲宗(11代、位805~820)を殺して穆宗(ぼくそう)を立てた。以後、宦官は皇帝を殺して次の皇帝を立て、皇太子を廃しては意のままになる人物を皇太子に立てた。文宗(14代、位826~840)は宦官を除こうとして失敗し、宦官の勢力は以後ますます強まった。 
 この間、徳宗(9代、位779~805)は、安史の乱後の回復を図り、楊炎(727~781)の献策によって両税法(後述)という新税法を実施する(780年に全面実施)画期的な税制改革を行い、財政は一時好転したが、後に再び財政難に陥った。財政の立て直しのための増税、宦官や節度使の横暴、外民族の侵入による軍事費の増大などは結局人民に負担増としてのしかかってくる。こうした中で、逃亡して流民となる農民が続出し、貧富の差はますます大きくなり、社会不安が増大した。このような状況の中で起こったのが黄巣の乱(875~884)である。 
 黄巣(?~884)は、山東省に生まれ、科挙をめざしたが数度受験に失敗した。後に塩の密売人となって富裕となり、多くの侠客を養っていた。 
 塩は言うまでもなく生活必需品だが、唐はこれを専売とし、重要な財源であった。唐の財政が窮乏する中で、塩の価格はつり上げられ、750年に1斗10銭であったのが、788年には370銭にもなった。塩の密売人は、政府の価格より安く売っても大きな利益を得ることが出来たし、貧しい人々からは喜ばれた。彼らは大規模な組織を作り、自ら兵を養って武装して行商し、貧しい農民や流民を養った。 
 同じ塩の密売人の王仙芝(?~878)が、河北で挙兵し(875)、山東に進出してきた。黄巣はこれに呼応して河南・山東を荒らし回ったが、王仙芝が唐の官職につられて投降しようとしたので、これと別れ、王仙芝が敗死したあと、その軍を吸収して、江南・福建を経て広州を陥れ、そこから北上して長江流域に進出し、北上して洛陽・長安を占領し(880)、帝位について国号を大斉と称した。長安に入ったとき反乱軍は60万にふくれあがっていた。しかし、唐の反攻にあって長安を撤退し(883)、故郷の近くの泰山で自殺した(884)。 
 黄巣の乱はほぼ10年にわたり、四川以外のほとんど全中国を荒掠した。唐が安史の乱後も150年間近く続いたのは、経済の中心である江南が荒廃をまぬがれたためである。その江南が荒掠されたことは、唐に決定的な打撃を与えることとなり、唐は全く衰退してしまった。日本からの遣唐使が廃止(894)された理由の一つは、黄巣の乱によって中国を旅行することが危険になったことであった。 
 朱温(852~912)は黄巣の乱の有力な部将の一人であった。彼は安徽省に生まれたが、早く父を失い、母と貧しい生活を送っていたが、黄巣の乱が起こるとこれに加わった(875)。しかし、黄巣軍が長安を占領したが略奪・放火・殺人などで人心を失うと、黄巣を見限って唐に寝返り、「全忠」の名を与えられ(以後、朱全忠と呼ばれる)、開封の節度使に任じられた(883)。朱全忠は、黄巣の乱鎮圧の功によって着々と力をつけ、昭宗(19代、位888~904)を殺して、哀宗(20代、唐最後の皇帝、位904~907)を即位させ、哀宗に迫って禅譲させ、907年についに皇帝となり、国号を梁(後梁(こうりょう)と呼ばれる)と称し、都を開封に置いた。 
 こうして20代、約290年間続いた唐はついに滅亡した。  
 

 

 
7.

2 東アジア文化圏の形成
 
5 隋・唐の社会
 隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱めるために均田制を施行して大土地所有を制限し、租庸調制、府兵制を行った。 
 唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施した。この3つの制度は、唐を支える三本柱であり、お互いに密接に関連していたから、その一つが崩れると全部が崩れる性格のものであった。 
 唐の均田制は、高祖の時に隋の制度をもとに制定された(624)。丁男(21歳から59歳)と中男(16歳から20歳)に口分田(穀物を植える土地)80畝と永業田(桑・麻を植える土地)20畝、計100畝を支給した。100畝は、日本の5町5反で約5.5haである。1haは10000平方メートルであるから、日本の農地の規模から見ると広大な土地である。日本の班田収授の法の口分田は2反(約23a)であった。 口分田はその人一代に限って使用が認められ、死ねば国家に返還させたが、永業田は子孫への世襲が認められた。 
 この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広さは異なるが、大きなものは1万畝のものもあった)、職分田(官職に応じて授ける土地)、公廨田(こうかいでん、官庁の公費にあてるための土地)などがあり、老男・身体障害者・寡婦・丁男のいない戸主・商工業者・僧侶・道士(道教の僧)・特殊身分への給田もあった。 
 均田制が始まった北魏では、妻・奴婢さらに耕牛にまで土地が支給されたが、隋では奴婢や耕牛への支給がなくなり、さらに唐では妻への支給もなくなり、成年男子が支給の対象とされた。 
 政府は農民に土地を均等に与えることによって、自作農を増加させ、土地への定着をはかり、均田農民に租税と兵役を負担させ、同時に貴族の大土地所有を制限しようとしたが、全国で土地の支給と返還がどの程度行われたかはよく分かっていない。 
 土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せられた(624年制定)。 
 唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は26.73kg)、庸は年間20日の無償労働または1日絹3尺(1尺は31.1cm)・布(あさぬの)3.5尺の割で換算した代償、そして調は絹2丈(1丈は10尺)と綿(まわた)3両(1両は37.3g)または布2.5丈と麻3斤(1斤は222.7g)であった。この他に雑徭(ざつよう・ぞうよう)といって地方での土木事業などに労役を提供するものがあり、年間40日以内(50日説もある)とされていた。 
 府兵制は、西魏で始まり隋・唐で整備された兵農一致の兵制である。唐では全国に折衝府(せつしょうふ、全国の約600カ所に設置された軍営、その8割は長安・洛陽周辺にあった、府兵の徴集・訓練・動員などを司った)を置いて、丁男中から強健な府兵を選び農閑期に訓練し、国都の衛士及び辺境の防人になった。兵役期間中は租庸調は免除されたが、武器・衣服は自弁した。 636年に制定されたが、均田制の崩壊による均田農民の没落と共に、募兵制に変わっていき、749年に廃止された。 
 唐では、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)の制によって官僚となり、上級の官職を占めた。しかも、唐の均田制では、官人永業田や職分田など官僚を優遇する制度があり、高級官僚では永業田だけで100頃(けい、1頃は100畝)もあり、下級官僚でも職分田と永業田を合わせると4頃もあった。従って高級官僚を出した一族は、数代経つと永業田が蓄積されて大土地所有者となった。 つまり、唐では貴族による大土地所有制が事実上認められていた。 
 元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されていたが、高宗の頃には土地の売買が行われるようになり、貴族・官僚・寺院などによる土地の兼併が進み、大土地所有制が進展した。これらの貴族らの所有地(私有地)は荘園と呼ばれる。貴族は荘園を奴婢や半奴隷的な小作人に耕作させた。 
 均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだした。人口が増加し、土地が不足するようになり、土地の支給や返還がうまく行かなくなり、農民や官僚に与えられた永業田が売買された。さらに、産業や商業が発達して貧富の差が大きくなり、貴族や新興の地主らは、山林・沼沢・辺地を開発して荘園を広げ、貧しい農民の土地を奪って荘園をいっそう広げていった。 
 均田農民の負担のうち、租・調の負担はあまり重くなかったが、農民を苦しめたのは庸と徴兵であった。玄宗の時代、外征に多くの農民がかり出され、農地は荒廃した。特に安史の乱後の政治的混乱の中で、土地を捨てて、あてもなくさまよう流民の群が各地にうまれた。その一方で、没落して逃亡した農民を労働力とする荘園がますます発展していった。 均田制がうまく行かなくなると、府兵制は実施困難となり、募兵制が行われるようになった。玄宗は723年に12万人の兵を募集した。募兵制の発達により、府兵制は749年に廃止された。 
 また均田制の崩壊とともに、租庸調の税制も行われなくなり、唐の財政は窮乏した。こうした状況を打開するために実施されたのが両税法と呼ばれる新税制である。 
 徳宗(9代、位779~805)は、安史の乱後の回復をはかり、楊炎(727~781)を宰相に任命し、楊炎の意見を入れて、780年に両税法を全面的に実施した。 
 両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土地に戻すことをあきらめて、現に住んでいる所で課税する)、実際に所有している土地や資産の額に応じて(均田制では租は粟2石というように税は均等であったが、両税法では多くの土地・資産を持っている人からは多くの税を徴収しようとした。このことは唐が大土地所有制を認めたことを意味する)、 夏6月(麦の取り入れ期)と秋11月(稲の取り入れ期)の年2回徴収する(ここから両税法の名が来ている、両は二つの意味)税法で、銭納を原則とし(実際の納入には、粟や布帛などの代納を認めた)、単税主義(今までは租庸調以外にも雑多な税があったが、税を一本化した)をとった。 
 この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転した。しかし、楊炎は、政敵を暗殺し、独断専行したので、徳宗の信任を失い、また藩鎮(節度使)の反感を受け、宰相の地位を追われ、左遷されて赴任する途中で自害を命じられた。 
 両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋・元・明に受け継がれ、明の中期に一条鞭法が実施されるまで、ほぼ800年にわたって続くことになる画期的な税法であった。 
 こうして、唐を支えた三本柱である均田制・租庸調制・府兵制は、安史の乱後、完全に崩壊し、行われなくなった。 
 唐の都の長安は人口100万人といわれ、政治都市であると同時に、国内商業の中心地であり、世界商業の中心地でもあった。但し、長安では商業区は東市と西市に限定され、他の地域での商業は許されず、その営業も正午から日没までとされていた。 
 唐帝国の領土の拡大によって、中央アジアではイスラム帝国と領土を接することになり、シルク・ロードを利用しての東西貿易が発達し、中央アジアの商権を握っていたソグド人をはじめ、ペルシア人・アラブ人らが長安に来住し、中国人も西方に進出した。長安の住民中、外国人の数は1万人を越えていたと言われ、なかでも胡人(主に西方の外国人)の占める割合が高かった。胡人の来住とともに西方の文物が盛んに流入し、彼らの生活様式である胡風が流行した。 胡人だけでなく、遣唐使として唐を訪れた日本人をはじめ東アジアの人々も多かったと思われる。長安はまさに国際都市であり、当時の世界の二大都市(当時の世界最大の都市はバグダードで人口は150~200万人と言われている)として繁栄した。 
 また「海の道」による貿易は、1世紀頃からインドとローマの間で、季節風を利用した貿易が盛んとなり、やがてインドと中国を結ぶ航路も開け、中国の商船が活躍していたが、7世紀以後、イスラムの勃興にともない中国人に替わって、アラブ人が航海権を握るようになり、アラブ人は広州・泉州(福建省)・揚州(江蘇省)などの海港に盛んに来航し、貿易に従事した。広州・泉州・揚州も国際都市として繁栄し、広州には唐の中期以降、市舶司(海上貿易事務を司る役所)が置かれ、また広州・泉州には蕃坊(外国商人の居留地)があった。 
 商業・産業の発達にともない、遠隔地との取引が拡大するなかで、飛銭と呼ばれる銭を遠方に送る送金手形が利用されるようになった。 
 魏晋南北朝以来開発が進んだ江南では、茶や綿花の栽培が盛んとなった。喫茶が流行してくるのも唐代からである。   
 

 

 
8.

2 東アジア文化圏の形成
 
6 唐代の文化
 唐の文化は、西のイスラム文化と並んで、当時の世界における最高水準の文化であった。唐文化の特徴は、その広大な大帝国の成立によって、特に西方からの外国文化が流入して国際的な文化が成立したこと、貴族を中心とする貴族文化であったこと、そして唐の文化が東アジア全般に影響を及ぼし、東アジア文化圏が形成されたことなどである。 
 唐代には、東は朝鮮・日本から、西は中央アジア・ペルシア・インドなどから多くの留学生・商人をはじめ、様々な人々が往来し、長安や広州などの港市は異国情緒に満ち、異国趣味が流行した。 長安には1万人以上の外国人がいたといわれている。特に中央アジア・イランからきていた、いわゆる「胡人」には商売人や芸人をはじめ、様々な職業の人達がいた。 酒場では、スタイルがよくエキゾチックな顔立ちの美しいイラン人の娘さん達が(彼女たちは「胡姫」と呼ばれていた)お酒をついだり、踊ったりしていた。 長安の若い女達は、「胡姫」の服装や化粧をまねて「胡服」を新調して町を歩き、細い乗馬ズボンをはいて長安の町を馬で走り回った。 西方から入ってきた家具や絨毯などが使われ、西方から入ってきた音楽や楽器が盛んに演奏された。 
 人々の往来とともに、特に西方から様々な文化が流入し、それとともにキリスト教・ゾロアスター教・イスラム教などの諸宗教も伝来した。 
 ネストリウス派キリスト教は、431年のエフェソスの宗教会議で、聖母マリアは神でないという説を唱えて異端とされ、ササン朝を経て唐に伝わり、中国では景教と呼ばれた。中国への最初のキリスト教の伝来である。 
 ペルシア人の阿羅本が、635年に長安にやってきて、太宗に布教を許された。各地に波斯寺(波斯はペルシアのこと)が建てられたが、玄宗の時に大秦寺(大秦はローマのこと)と改称された。長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」(781年に建立され、明末に発見された高さ2.8mの碑)には、伝来の経過や盛衰の経過が記録されている。景教は、唐の武宗の廃仏(会昌の廃仏、845年)時に禁圧された。 
 ゾロアスター教も伝来し、けん(示へんに夭)教と呼ばれた。ゾロアスター教は古くからペルシア人に信仰された宗教で、ササン朝では国教とされた。ゾロアスター教は、すでに北朝の頃に伝来していたが、唐代にはいってペルシア人(当時、胡人と呼ばれた人々の多くはペルシア人であった)が盛んに往来したので、各地に寺院が建てられて栄えたが、信者の多くは胡人であった。けん教も会昌の廃仏時に禁圧を受けた。 
 ペルシアからは、マニ教も伝来し、摩尼教と呼ばれた。マニ教は、ササン朝の時に、ゾロアスター教・キリスト教・仏教を融合した宗教で、ササン朝で異端とされ禁止された。国外に流布し、中国には7世紀に伝来し、8世紀には長安に寺院も建てられたが、信者の多くは胡人で、やはり会昌の廃仏時に禁圧を受けた。 
 イスラム教は、7世紀の後半、高宗の頃、アラブ人によって海路伝えられ、華南の港市に寺院が建てられ、信仰されたが、後に華北にも広まった。中国では回教、回回(ふいふい)、清真(せいしん)教とも呼ばれ、その寺院は清真寺と呼ばれる。清真料理と言えば豚肉を使ってない料理のことである。 
 中国の三大宗教である儒教・仏教・道教もそれぞれ栄えた。 
 道教は、祖とされる老子の姓名が李耳(りじ)で、唐室の李氏と同じであったことから、唐室祖宗の教えとされ、特別の地位を与えられて仏教の上位に置かれた。しかし、寺院・僧侶の数や財力では仏教にはるかに及ばなかった。 
 仏教も、帝室や貴族の保護を受けて大いに栄えた。唐代の仏教史上、最も有名な出来事は玄奘のインド旅行である。 
 玄奘(602~664)は、13歳で出家し、各地の師のもとで仏教の教義の研究を行った。 しかし、仏典が十分そろっていないこともあり、多くの疑問を解くことが出来なかった。 そこで、その解決のためにどうしてもインドへ行きたいと考え、インド行きを朝廷に請願したが許されなかった。仲間の僧はあきらめたが、玄奘はあきらめることができず、国外に出ることを禁止するという国禁を犯して、単身で密出国という形で玉門関を出た(629)。 
 玄奘は、高昌(現在のトルファン)で大歓迎を受け、帰路立ち寄ることを約束して高昌を出発し、天山南路を経てパミール高原を越えるという大変な難行の末、北インドに入り、インド各地を巡った後に、ナーランダ学院(5世紀、グプタ朝の時建立された仏教教学の一大研究所)で5年間学び、この間ハルシャ=ヴァルダーナ王にも会った。 
 膨大な経典とともに再び陸路を経て、太宗の貞観19年(645)に帰国した。太宗はその知らせを聞いて大いに喜び、彼に玄奘三蔵の号を贈り、仏典の翻訳に援助を与えた。 
 玄奘は、帰国の翌年(646)に、この大旅行の様子を「大唐西域記」にまとめた。この書物は当時の中央アジア・インドの状況を伝える貴重な史料になっている。この旅行記をもとに、16世紀に明の呉承恩が書いた長編小説が、孫悟空らの活躍で有名な「西遊記」である。つまり三蔵法師のモデルが玄奘である。 
 玄奘は勅命によって、大慈恩寺(648年に建立された)に迎えられて、インドから持ち帰った仏典の翻訳にあたり、亡くなるまでの18年間に「大般若経」など75部1335巻の漢訳を行った。大慈恩寺内に建てられた大雁塔(西安観光の目玉の一つ)は、これらの仏典・仏像を火災から守るために建てられた(652)塔である。 
 玄奘の死から7年後の671年、義浄(635~713)も、広州から海路インドに向かった。25年の間、東南アジア・インド30カ国を訪れ、滞在し、インドではナーランダ学院で学び、多数の仏典をともなって、再び海路帰国(695)した。そして則天武后の出迎えをうけて洛陽に入り、勅をうけて仏典の翻訳にあたり、54部221巻を漢訳した。 
 著書の「南海寄帰内法伝」は、旅行中の681~691年、シュリーヴィジャヤ滞在中に、それまでの見聞を記したもので、当時の東南アジア諸国・インドの様子を知るための貴重な史料となっている。 
 唐代の仏教では、禅宗・浄土宗・密教が普及するようになり、のちに日本に伝えられて、平安・鎌倉仏教に大きな影響を及ぼすことになる。  
 儒教も、唐が唐初から儒教の興隆に力をそそいだことや、特に儒教の古典が科挙の必修科目になったことから盛んであった。 
 太宗に仕えて国子監(中央の諸学校を統轄した機関)の長官や皇太子の教育係などを歴任した孔頴達(くようだつ、こうえいたつ(574~648))は、太宗の命をうけて、儒教の重要な経典である五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)の国定注釈書ともいうべき「五経正義」を編纂した(653年完成)。これが科挙試験の標準とされた。 しかし、国家によって五経の解釈が統一されたために、訓詁学(特に儒教の字句解釈を主とする儒学)が発達し、自由な学問の発達が阻害されることとなった。 
 唐詩は、単に唐代の文化を代表するだけでなく、中国文化を代表するものといってよい。五言絶句や七言律詩の形式が完成し、多くの優れた詩人が輩出した。漢文で習った詩人の名やいくつかの唐詩が浮かんでくることと思う。 
 盛唐時代の王維(701頃~761)、李白(701~762)、杜甫(712~770)や中唐の白居易(772~846)らは特に有名である。 
 王維は自然詩人として、画家としても有名である。 
 李白は、富裕な商人の子として生まれ、少年時代は四川で過ごし、25歳頃四川を出て、生涯のほとんどを放浪に過ごした。知人の推薦で玄宗に仕えたが(742~744)、その後また各地を遍歴した。杜甫が「李白一斗、詩百編」と言ったように、酒を愛し、あびるように飲んで、その間に詩を読んだと言われ、「詩仙」と称された。 
 杜甫は、官僚の家に生まれたが、何度も科挙に失敗し、職もなく妻子を連れて放浪した。40歳頃知人の推薦で下級官吏になったが、安史の乱にあい、反乱軍の捕虜となった。後に脱走し、粛宗のもとで官職に就いたが、2年後に免職となり、妻子とともに各地を転々とし、四川の成都に至り、6年間この地に留まった。この時期が杜甫の生涯の中でもっともよい時代であった。その後長江を下って放浪し、59歳で亡くなった。杜甫は「兵車行」に見られるように社会の不正を暴露・批判する詩を多く歌い、「詩聖」と称された。 
 白居易、字は楽天。白楽天の名で知られている。29歳で進士に合格し、刑部尚書(司法長官)にまで昇進した。玄宗と楊貴妃の恋愛を歌った「長恨歌」で有名となったが、政治や官吏の腐敗を批判した詩を作ったため、二度左遷され、のち政界に嫌気がさして辞任した。唐代最多と言われるほど多くの詩を書いたが、平易な詩が多く、早くから日本に伝わり広く愛誦された。「白氏文集」は平安貴族の必読書で、日本の文学に大きな影響を及ぼした。 
 文章では韓愈(768~824)と柳宗元(773~819)の二大文豪が有名である。ともに進士に合格し、官僚となり出世したが、後に左遷された。文章家としては、当時流行していた六朝以来の四六駢儷体(対句を多く使い、韻を踏んだ華麗な美辞を用いた文、内容より文章の美しさを重んじた)を排し、漢代の「古文」復興を主張し、古文復興運動の中心人物となり、ともに「唐宋八大家」(唐・宋の8人の代表的な文章家)に数えられている。 
 絵画では、六朝に始まる山水画が進歩し、呉道玄(8世紀頃)、李思訓(651頃~718)、王維らが現れた。呉道玄は、玄宗に仕え、人物・鬼神・山水を描き、仏寺や道観の壁画も多く描いた。李思訓は、唐の王室の出で、玄宗に仕え、山水画に優れた。 
 書道も盛んで、多くの優れた書家が輩出した。唐代の官吏は科挙合格者だけでなく、科挙合格者以外でも官吏になれた。官吏の任用にあたっては、言(ことばづかい)・書(習字)などの試験があり、きれいな字を書くことは官吏になる必須の条件であった。このような理由からも書道は盛んであった。 
 初唐の三大書家と呼ばれる欧陽詢(557~641)、虞世南(558~638)、ちょ(衣へんに者)遂良(596~658)や盛唐の書家、顔真卿(709~786頃)らが有名である。 
 ちょ遂良は、王羲之の書風を継いで書に巧みであったので、太宗の書道の顧問となって信任を得て、中書令(宰相)となったが、次の高宗が武昭(則天武后)を皇后に立てるのに反対して左遷され、3年後に没した。 
 顔真卿は、前述したように、安史の乱の際、平原(山東)の太守として義勇軍を率いて反乱軍と戦った。彼の書は従来の王羲之風の典雅な書を一変させ、男性的な力強い書風を始め、一世を風靡した。 
 工芸の分野では、唐三彩が有名である。唐三彩は緑・褐・白の三色で彩色して焼き上げた陶器で、人物・動物を題材として作られ、葬具に用いられた。胡人の風俗なども題材として多く用いられ、当時のはなやかな貴族文化、異国趣味などを知る資料としても重要である。 
 

 

 
9.

2 東アジア文化圏の形成
 
7 唐文化の波及と東アジア諸国
 唐の国際的な文化は、周辺の諸民族に大きな影響を与えた。周辺の諸民族は唐文化を受け入れながら、それぞれの民族の文化を発展させ、東アジアには唐を中心に広大な東アジア文化圏が成立した。 
 日本は、早くから中国文化を受け入れてきたが、隋・唐がおこると遣隋使・遣唐使を送って中国の文化を盛んに輸入した。遣隋使は3回派遣されたが、特に聖徳太子によって派遣された小野妹子は有名である。 
 遣唐使は630年に開始され、894年に菅原道真の建議によって廃止されるまで16回派遣された。大使以下の随員とともに留学生・留学僧も加わり、普通は総勢500人前後、4隻の船に分乗して中国に渡り、文化の輸入に努めた。遣唐使が中止された894年というと黄巣の乱が鎮圧されて10年後のことであるが、9年に及び中国全土を巻き込んだ黄巣の乱による中国内地の旅行の危険も廃止の大きな理由であったと思う。 
 645年の大化改新によって、唐の律令制にならって班田収授法(唐の均田制にならって実施された土地制度)・租庸調制などを実施し、律令国家体制を整えていった。 
 朝鮮半島では、4世紀に辰韓を統一した新羅が、法興王(新羅23代の王、位514~540)の頃から国家体制を整えて、急速に発展していった。 
 しかし、7世紀にはいると百済・高句麗の侵入に悩まされるようになった。642年に百済は高句麗と結んで新羅を攻めた。新羅は唐に救援を求めた。唐の太宗は645年から3回の高句麗遠征を行ったが失敗に終わり、鉾先を百済に転じ、660年に水軍を派遣した。 
 新羅の武烈王(29代、位654~661)は唐と結んで百済を挟撃し、百済はついに滅亡した。この時、日本は百済を助けて水軍を送ったが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いで唐・新羅水軍に大敗し、日本勢力は朝鮮半島から一掃されることとなった。 
 唐は、667年についに高句麗を攻め滅ぼした。唐がさらに朝鮮半島を支配下に置こうとすると、唐と結んで百済を滅ぼした新羅はこれに反抗し、675年に唐軍を撃退し、ついで朝鮮半島の大半を支配下に置いて、676年についに朝鮮民族による初めての統一国家を樹立した。 
 新羅は、7世紀中頃から唐の律令制を取り入れて律令国家体制を整え、統一後も唐の制度・文化を盛んに輸入して栄えた。新羅では仏教が盛んで、都の慶州(金城)を中心に大規模な仏教建築や仏教彫刻が盛んにつくられ、仏教美術が発達した。慶州近郊にある仏国寺は現在の10倍の規模を誇っていたと言われる新羅時代の代表的な仏教寺院である。 
 新羅では骨品(こっぴん)と呼ばれる身分制度が行われ、出身氏族によって身分が5段階に分けられ、これにより位階・官職をはじめ婚姻などが制約された。 
 貴族勢力が強かった新羅では、9世紀頃から中央における王位争いや貴族間の争い、地方でも貴族や農民の反乱が相次いで国力は急速に衰退し、新羅末の動乱のなかから一部将であった王建が頭角を現し、高麗王となり(918)、935年に新羅を滅ぼした。 
 中国の東北地方の東北部に住んでいたツングース系の靺鞨(まつかつ)族の一部は高句麗に支配されていたが、高句麗の滅亡後は唐の支配下に置かれていた。696年に唐に対する契丹人の大規模な反乱が起きると、靺鞨族や高句麗の遺民もこれに参加し、靺鞨族はこの反乱を機に唐の支配から脱した。靺鞨族の首長の一人であった大祚栄(だいそえい、?~719)は、靺鞨族や高句麗の遺民を率いて中国東北地方の東部に移り、敖東城(ごうとうじょう、現在の吉林省の敦化市)を都として「震国」を建てた(698)。そして唐から渤海郡王に任じられ(713)、国号を渤海と改めた。 
 渤海は15代約200年間にわたって中国東北地方を中心に沿海州から朝鮮北部を支配し、唐に留学生を派遣し、盛んに唐の政治・制度・文化を取り入れ律令国家体制を整え、仏教文化が栄えた。9世紀頃には最盛期を迎え、「海東の盛国」と呼ばれた。渤海は日本とも 交渉があり、8世紀以後滅びるまでの200年間に30回を越える使節を送り交易を行った。その渤海も9世紀末には王位をめぐる争いや外圧によって衰え、926年に契丹によって滅ぼされた。 
 チベットでは、ソンツェン・ガンポ(?~649、位629~649)が、6世紀末から7世紀初めにかけて、一代でチベット諸族を統一して統一国家を建てた。この国は中国では吐蕃(とばん、7~9世紀)と呼ばれた。 
 ソンツェン・ガンポは、唐とは太宗以来親交を続け、641年には唐から文成公主をめとり、唐文化を盛んに取り入れた。彼はその一方でネパール王女を妻として仏教を取り入れ、またインド文字をもとにチベット文字を作ったと言われている。チベットに入ったインド系の仏教は、チベットの固有の民間信仰と融合し、独自のチベット仏教、いわゆるラマ教となり、吐蕃の国家的仏教となった。 
 その後、吐蕃は680年頃から東トルキスタン(中央アジア東部)に進出したが、このためやがて唐と対立するようになり、唐は玄宗の頃に吐蕃を攻撃した。しかし、安史の乱後の763年には吐蕃が一時長安を占領した。その後も対立関係が続いたが、9世紀に入って和平の機運が生まれ、821年に長安で、翌822年にはラサで会盟が行われ、唐は吐蕃の甘粛領有を認めた。この会盟の内容を漢字とチベット文字で記したのが唐蕃会盟碑で、823年にラサに建てられた。吐蕃は王が殺されて以来(843)内紛で衰退していった。 
 唐と吐蕃の争いに乗じて、雲南ではチベット=ビルマ系の民族が大理を中心に南詔(なんしょう)国を建国した。南詔は唐と友好関係を結んで周辺を統一した(739)。南詔はのち唐と対立して吐蕃と結んだが、8世紀末には再び唐と結んで吐蕃を圧迫した。南詔も唐文化を取り入れ、9世紀前半に最盛期を迎えたが、9世紀後半以後内紛によって衰え、902年に宰相の漢人に国を奪われて滅亡した。 
 ヴェトナム北部は、始皇帝による征服から一時自立したが、前漢の武帝による征服以来、約1000年間の長期にわたって中国の支配下に置かれ、中国文化の影響を受けてきた。 
 この間、ヴェトナムのジャンヌダルクと呼ばれる「徴(チュン)姉妹の乱」をはじめとする抵抗運動が度々起きている。チュン=チャク(徴側)・チュン=ニ(徴弐)姉妹は後漢の漢人太守の搾取・暴政に対して40年に反乱を起こし、象にまたがって太守の軍と戦い、太守を追い出して自立し、一時は王を称した。そして太守の収奪に苦しめられていた交趾・九真2郡の住民に2年間の免税を行った。しかし、2年後後漢の討伐軍に敗れ、捕らえられて殺された。 
 唐は、622年にハノイに交州大総管府を置き、679年に安南都護府と改称したので、中国では以後ヴェトナムは安南と呼ばれるようになった。唐が907年に滅亡し、中国は五代十国と呼ばれる分裂時代を迎えた。十国の一つに数えられる南漢(917~971)が広東・江西を支配し、ヴェトナムの支配者の地位を継承した。 
 呉権(ゴークエン)は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立して王を称し、呉朝を樹立した(939)。ヴェトナムは1000年間にわたる中国の支配から独立の第一歩を踏み出した。 呉権の死後、20年に及ぶ分裂を再統一した丁部領(ディンボーリン)が丁朝(968~980)を始めた。丁朝も短命に終わり、前黎(れい)朝(980~1008)が続いた。この呉朝・丁朝・前黎朝を総称してヴェトナムの初期三王朝と呼ぶ。 
 この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、位1010~1028)によって、ヴェトナム最初の本格的な統一王朝である李朝大越国(1010~1225)が建国された。 
 李朝は都をハノイに置き、中国の諸制度・文化を取り入れて中央集権国家の樹立をめざした。李朝では儒学が重視されたが、仏教も国教とも言うべき地位を与えられ、道教も行われた。さらに科挙も取り入れられた。  李朝は、1075年から2年続いた宋軍の侵入を撃退し、さらに南方のチャンパーを征服して国力が充実し栄えたが、13世紀に陳朝によって滅ぼされた。  
 

 

 
10.
5.中国社会の変化と北方民族の進出

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
1 五代の形勢
 唐代、玄宗は異民族の侵入にそなえて辺境に十節度使(辺境の防備のために置かれた軍団の司令官)を置いたが、安史の乱(755~63)後は内地にも置かれるようになった。 
 節度使は、はじめは皇帝に任命され、強力な軍隊を預かって州を支配し、州の租税を徴収して軍隊にかかる費用の残りを中央に送った。しかし、唐末になると強力な節度使は中央に送るべき租税を私有し、また本来は皇帝の軍を私兵とし、中央から自立していった。こうして節度使はその地方の軍事・財政・民政権を握り、地方で自立して地方軍閥となり藩鎮と呼ばれるようになった。 
 節度使(唐末五代では藩鎮と同じ意味に使われることが多い)は数州を領有し、その数は唐末で40~50、五代で30~40に及んだといわれている。 
 唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875~84)に加わり、後に唐に降って節度使に任命された朱全忠(852~912)は、黄巣の乱の鎮圧の功績によって梁王となり(901)、衰退した唐の皇帝昭宗を殺し、哀帝に迫って禅譲させて唐を滅ぼし、自ら帝位について後梁(907~923)を建て、都をべん(さんずいに卞)州(開封)に定めた。 
 以後、約50年間に華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝が交替した。これを五代と総称する。 
 このうち後漢をごかんと読むと後漢(25~220)と紛らわしくなるので、五代の王朝はそれぞれ、こうりょう・こうとう・こうしん・こうかん・こうしゅうと読むのが慣例となっている。またその間に、その他の地方でも多くの節度使(藩鎮)がそれぞれ自立し、10前後の国が興亡したので、これを十国と呼び、唐の滅亡から宋の中国統一までの(907~979)この時代を五代十国(時代)という。 
 唐を滅ぼした朱全忠(太祖、位907~912)が建てた後梁(907~923)の勢力範囲は黄河中・下流域に限られ、李克用などの藩鎮が各地に割拠していた。朱全忠はこれらの敵対勢力との戦いに明け暮れる中で次男に殺され、後梁は2代16年で滅びた。 
 朱全忠と対立した李克用(856~908)は、突厥の沙陀(さだ)部の出身で、黄巣の乱の鎮圧の功によって節度使となり、朱全忠と華北の覇権をめぐって激しく対立し、その攻撃を受けて応戦中に病死した。しかし李克用の子が後梁を滅ぼして後唐(923~936)を建国したが、後唐も4代13年で滅亡した。 
 後晋の建国者である石敬とう(王へんに唐)(高祖、位936~942)も突厥出身と言われている。後唐の最後の皇帝の妹婿であった彼は皇帝と対立し、契丹の援助を受けて後唐を滅ぼし、後晋(936~946)を建国した。 
 石敬とうは契丹の援助を受ける際に契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(北京(燕州)・大同(雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲した。この燕雲十六州の回復が漢民族の宿願となり、宋と遼との抗争の大きな原因となっていく。しかし、その後晋も2代10年で滅びた。 
 後晋を倒して後漢の建国者となったのも突厥の沙陀(さだ)部出身の劉知遠(高祖、位947~948)である。彼は後唐に仕え、後晋の建国を助けて禁軍(皇帝の護衛兵)を掌握し、各地の節度使を兼ねて有力者となり、後晋が契丹の侵入を受けて滅亡すると、自ら帝位につき後漢(947~950)を興したが、翌年に病没し、後漢は2代わずか3年で部将の郭威に滅ぼされた。 
 後周の建国者、郭威(太祖、位951~54)は、劉知遠の建国を補佐し、その子隠帝が殺されると、軍隊に擁立されて即位し、後周(951~960)を建国した。 
 後周の第2代皇帝、世宗(位954~959)は五代第一の名君と言われ、契丹や南唐などの諸国を討ち、国内政治を整えた。中国史上大規模な仏教弾圧事件を「三武一宗の法難」というが、一宗の宗は世宗のことである。しかし、後周も3代9年で滅亡した。 
 五代のうち、後唐(都は洛陽)を除く四王朝は開封を都とした。開封は古くから水陸交通・軍事の要衝であったが、特に隋代の大運河の開通により、都の長安と江南を結ぶ大運河の分岐点となり、以後交通・商業の中心地として大いに発展し、次の北宋も開封を都とした。 
 華北で五代が興亡を繰り返した間、江南では呉(902~937)・呉越(907~978)・荊南(907~963)・楚(927~951)・南唐(937~975)が、 四川では前蜀(907~925)・後蜀(934~965)が、福建のびん(門のなかに虫)(909~945)、 華南の南漢(917~971)、そして華北の北漢(951~979)などの国々が興亡した。 以上の国々が十国に数えられている。十国の中で最も強勢だったのが江南の富を背景に栄えた南唐で、唐の文化を継承した文化が大いに栄えた。 
 唐末五代の時代は中国史上、春秋戦国時代と並ぶ社会の大変革期であった。 
 政治的には、魏晋南北朝時代から隋唐の時代に国家の支配層であった貴族が、特に黄巣の乱やうち続く戦乱と下剋上の風潮の中で、経済的な基盤であった荘園を失って没落していった。そして旧貴族に変わって藩鎮や形勢戸と呼ばれる新興地主らが支配層にのし上がっていった。彼らは唐末の戦乱によって荒廃した土地の開発を進め、新たに荘園の所有者となり、佃戸制に基づく大土地所有制を発展させ、また諸産業の回復・開発に努めた。 
 こうした社会の変化の中で、従来の都を中心とした貴族文化は衰退し、かわって庶民文化や地方にも特色ある新しい文化が興るなど社会は大きく変動を遂げていった。  
 

 

 
6.

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
2 宋の統一(その1)
 宋(北宋)の建国者の趙匡胤(太祖、927~976、位960~976)は、後唐の武将の子として生まれ、後周の世宗に仕えて軍功をあげ、精鋭を誇った禁軍(皇帝の親衛軍)の最高司令官となった。世宗が亡くなり、7歳の恭帝が立つと、契丹と北漢が侵入してきた。趙匡胤は、これを迎え撃つために出動命令を受けて出陣したが、 その途中、陣中で酒に酔って眠っているところを起こされ、無理矢理に天子の着る黄袍を着せられ、いくら固辞しても部下の将兵が納得せず、やむを得ずこれを受けたと伝えられている。 
 こうして部下の将兵によって皇帝に推戴され、恭帝から禅譲を受けた趙匡胤は宋王朝(960~1279、北宋(960~1127)を樹立し、開封を都とした。 
 趙匡胤は即位すると、これまで藩鎮(節度使)の強大な勢力が皇帝の権力を弱体化させたことに鑑み、藩鎮(節度使)の勢力の削減を図り、藩鎮(節度使)から統帥権を奪って指揮権のみを与え、 一方で藩鎮の精鋭兵士を禁軍(皇帝の親衛軍)に吸い上げて禁軍を強化していった。 
 こうして唐末・五代の藩鎮(節度使)の武断政治を廃し、科挙合格者で学識のある文人官僚によって政治を行う文治主義を押し進め、君主独裁中央集権体制の確立を目指した。 
 中央官制では、唐代以来貴族の牙城であった門下省を廃止して中書省に吸収し、その長官(宰相)に六部を統轄させた。そして優秀な官僚を確保するために、隋・唐以来の科挙を改革し、従来の地方・中央の試験に殿試を加えて、州試・省試・殿試の三段階とした。 
 殿試は、省試合格者に対して皇帝自らが出題する最終で最高の試験で、太祖が創設し、上位合格者には高官への道が約束された。また殿試によって、合格者である官僚は皇帝の学問上の弟子と言うことになり、皇帝に絶対的な忠誠を誓うようになり、皇帝権力の強化すなわち君主独裁制の確立に大きな役割を果たした。 
 太祖は契丹の南侵をくい止め、呉越・北漢を除く五代以来の地方政権を滅ぼしたが、中国統一を見ることなく亡くなった(976)。弟の趙光義(後の太宗)に殺されたとも言われている。 
 太祖の後を継いだ太宗(939~997、位976~997)は、太祖の弟で、兄の建国を助けて大きな功績があった。太祖の2人の子をさしおいて2代目の皇帝となり、兄の遺業を継いで呉越・北漢を滅ぼして中国の統一に成功した(979)。さらに勢いを駆って遼(契丹)に出兵したが失敗に終わり、燕雲十六州の回復は出来なかった。 
 内政でも、太祖の文治主義を継承し、君主独裁中央集権官僚制の確立に努めた。 
 太宗は節度使の財政権を奪うなど節度使の権限をさらに縮小し、また節度使に欠員が出る度に文官を任命した。こうして節度使は単なる地方の行政官に過ぎなくなり、藩鎮体制は解体されたが、節度使の軍隊の弱体化は辺境の防衛力を著しく弱体化させることになり、以後契丹・西夏などの侵入に苦しめられるという新たな問題をうんだ。 
 太祖・太宗ともに節度使の権限を奪い、文治主義を採用し、文官を重く用いて、君主独裁を強化し、中央集権の体制を作りあげた。この体制を支えた文官(官僚)は科挙によって登用された。  
 科挙は隋代に始まり、唐に受け継がれ、宋代に完成された。宋代には前述したように太祖によって殿試が創設され、州試(第1段階としてに地方試験)・省試(第2段階として州試の合格者に対して中央の尚書省が行う試験)・殿試(省試の合格者に対して皇帝自らが行う最後で最高の試験)の三段階が確立した。 
 宋代、科挙に合格して官僚になった者を出した家は官戸と呼ばれ、戸籍に明記され、役の減免や裁判上でも特権が与えられた。また科挙に合格して官僚になった者には将来の出世・高官への道が約束され、その上莫大な収入があったので3年勤めると孫子の時代までも安楽な生活が出きると言われた。このため科挙には受験者が殺到し、競争は勢い激烈となり、なかには何度も受験に失敗し、70歳を過ぎてようやく合格した者もいたと言われている。 
 科挙にはいくつかの科目があり、試験科目も異なっていた。唐代には秀才(科)が重視されたが、宋代には進士(科)が最も重視され、宋代中頃には進士に一本化された。 
 進士の試験科目は経義(経書の暗記)・詩賦(作詩)・策論(時事問題についての意見書)であった。経義では論語など儒学の重要な書物の内容の暗記がテストされたが、暗記しなければならない文の文字数は62万字に及んだと言われている。 
 進士を優秀な成績で合格した者(トップ合格者は状元と呼ばれた)が宰相以下の高官を独占した。 
 科挙は3年に1度行われたが、その合格者はきわめて少数で、進士は太祖の時は年平均9人、太宗の時は50人、真宗の時に78人となり、仁宗の時代は最も多かったが113人に過ぎなかった。受験者は太宗の時の例で見ると、州試に合格して省試を受験した者5300人(976)、多いときは17300人もいた。 
 科挙の受験資格は広く庶民にも開かれていたが、このように超難関の試験であったので、合格するには長年にわたって科挙だけを目的に脇目もふらず勉強しなければならなかった。従って合格することは勉強に十分な時間とお金が充てられる富裕な家の者でないと不可能であり、貧乏な家の者は受験など思いも寄らぬことであった。このため科挙合格者は特定の富裕な階層の者に限られてくる。 
 多くの合格者を出した富裕な階層の代表は、当時「形勢戸」と呼ばれた地方の有力地主層であった。科挙に合格者し官僚を出した家は「官戸」と呼ばれ様々な特典を与えられた。宋代には、唐代までの旧貴族に代わって、「形勢戸」・「官戸」が新しい社会の支配層・新しい貴族階級を形成するようになった。 
 官僚になるには科挙に合格する以外にも、例えば高官の子弟や親戚の者とか、政府に多額の献金をした者、役所の書記を長く勤めた者などが官僚になれた。官僚になると高額の俸給を与えられた。このため官僚の増加は政府の財政を圧迫する原因となり、有資格者の増加のため、合格しても官僚になれない者も続出し、彼らは官僚になるために賄賂を送ったりしたので官界の腐敗を招くことになった。 
 太宗の死後、真宗(位997~1022)が即位した。当時国内には平和が訪れ、宋は安定・発展期に入っていたが、対外的には国力を充実させた遼(契丹)がしばしば宋の北辺に侵入し、これに苦しめられていた。 
 遼が、1004年に黄河北岸のせん(壇の字の土へんがさんずいになる)州(せん淵)に迫ったので、真宗が宰相の勧めで自ら親征し、遼軍と対峙したが、結局両国間で和議が結ばれた。 
 このせん淵の盟(1004)で、(1)両国は宋を兄、遼を弟とする兄弟の交わりを結ぶ。 (2)宋は遼に歳幣として毎年、銀10万両と絹20万疋を贈る。両は37.3g、疋は反物2反、1反は約10.6m(漢和辞書より)。(3)宋と遼は国境を保全し、捕虜・越境者は送還することを約した。 
 せん淵の盟は、以後100年間にわたって両国によって忠実に守られ、平和が続き、両国の繁栄をもたらしたが、宋が遼に贈った歳幣は以後宋の財政を圧迫することになる。 
 4代目の仁宗(位1022~63)の時代は、欧陽脩らの有能な官僚の補佐のもとに、周敦頤・程顥・程頤(北宋の有名な儒学者)らの優れた学者が輩出し、北宋で最も国力が充実した時期を現出したが、この頃西北辺で李元昊(りげんこう、位1038~48)がタングート族を統合して西夏を建国し(1038)、しばしば侵入した。 
 そのため慶暦の和約(1044)を結び、(1)西夏は宋に対して臣下の礼を取る。(2)宋は西夏に歳幣として毎年、銀5万両・絹13万疋そして茶2万斤を贈る。(3)国境に貿易場を設けて貿易を行うことを約した。 
 宋は和約を結ぶ一方で西北辺に兵力を集中した。また西夏との和約を機に、遼との歳幣も銀20万両・絹30万疋に増額された。こうした軍事費・歳幣さらに官僚の俸給が増大し、仁宗の治世の後半には宋の財政は急激に悪化した。  
 

 

 
7.

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
3 宋の統一(その2)
 北宋の第6代皇帝、神宗(1048~85、位1067~85)が父英宗の後を継いで即位した頃には、対外的には遼・西夏の圧迫、国内では財政の窮乏・重税による自作農の没落など国家の再建が大きな課題として残されていた。そのため青年皇帝神宗は政治・財政改革に着手し、地方官であった王安石(1021~86)を抜擢して宰相に任命し(1070)、新法を次々に実施させた。 
 王安石(1021~86)は江西省出身、21歳で科挙に合格して進士となり、地方官を16年間勤めた。この間、仁宗に政治改革の必要性を説く意見書を提出している。神宗は即位すると政治改革を断行するために、その王安石を地方官から大抜擢して副宰相(1069)、さらに宰相(中書省と門下省の長官を兼ねる官職)に任命した(1070)。 
 王安石は神宗の全面的な信頼を得て、軍事・財政の危機を克服するために「新法」と呼ばれる富国強兵策を次々に実施した(王安石の改革)。 
 王安石の「新法」の主なものは、青苗法・均輸法・市易法・募役法などの富国策と保甲法・保馬法などの強兵策である。 
 青苗法は、貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来ない者がおり、彼らは地主から高利で銭を借りてその返済に苦しんでいた。 そのような農民に穀物や銭を低利で貸し付け収穫時に返済させ、大地主の高利に苦しんでいた貧農を救済しようとする政策であった。 
 均輸法は、前漢の武帝も行ったが、均輸官を各地に置き、その地の特産物を輸送させ、それを不足地に転売する法で、地域の物価を平均化させるとともに、その差額が政府の収入となった。この法は大商人の利益を奪うものとして彼らの激しい反対を受けた。 
 市易法は、大商人の営利独占・小商人の抑圧などを排し、小商人の商品が売れないときは政府がこれを買い上げ、またはその商品を抵当にして低利で融資を行い、小商人を保護し、商業の振興をはかった政策である。 
 募役法は、徴税・治安維持などの地方の労役が上・中層農民にとって大きな負担となっていたので、労役を免ずる代わりに免役銭を徴収し、一方ではどんなに苦しい仕事でも働いて収入を得ないと生活できない貧しい人々の中から希望者を募り、雇銭を支給し労役に充てた政策である。 
 保甲法は、当時の宋の傭兵制が軍隊の質の低下・軍事力の弱体化・軍事費の増大を招いていたので、民戸10家を保・50家を大保・500家を都保とする民兵制度を組織し、農閑期に農民を集めて軍事訓練を施し、治安維持などにあたらせた兵農一致の政策である。 
 保馬法は、遼・西夏との戦いに必要な軍馬が遼・西夏の輸出禁止によって入手難となり、軍馬が不足したので、これを打開するために民間に官馬または代価を与え馬を養わせ、平時には使役に使うことを許し、戦時にはこれを徴発して、軍馬を確保しようとした政策である。 
 このように王安石の行った「新法」は貴族・特権官僚・大商人・大地主などの特権・利益を抑え、中小農民や中小商工業者を保護・育成し、財政の再建をはかろうとした政策であったので、特権階層からは激しい反対を受けた。彼らは司馬光を中心とする「旧法党」に結集し、王安石の新法を支持する「新法党」を激しく攻撃し、これと対立した。 
 王安石の新法はかなりの成果を上げ、財政や治安は好転したが、旧法党と新法党の「党争」(官僚間の権力争い)が激しくなる中で、彼はついに辞職し(1076)郷里に隠退した。 
 神宗が没した翌年に旧法党の司馬光が宰相となり、新法はことごとく廃止される中で王安石は亡くなった(1086)。彼は文章家としても有名で「唐宋八大家」の一人に数えられている。 
 司馬光(1019~86)は、山西省の大地主の家に生まれ、20歳で科挙に合格して進士となり、地方官を歴任した後に神宗の時中央政界に入った(1067)、王安石の改革が実施されると司馬光は急激な改革に反対して中央政界を去り(1070)、以後編年体の歴史書である「資治通鑑」(294巻)の編纂に専念した。神宗が没して哲宗が即位すると(1085)、 旧法党の党首として中央政界に復帰し、宰相となり(1086)、王安石の新法をことごとく廃したがその数ヶ月後に彼も没した。 
 哲宗(位1085~1100)の時代は「党争」(旧法党と新法党の権力争い)に明け暮れ、宋の国力は弱体化した。 
 哲宗の死後、弟の徽宗(位1100~25)が第8代の皇帝となった。徽宗は政治にはあまり熱意なく、学芸に秀で詩文書画をよくし、「風流天子」と呼ばれた。書に優れ、新画風の院体画を開き、文化の保護・奨励に努め、書画や古器物の収集を盛んに行い、豪奢な宮廷生活によって国費を乱費した。 
 こうした宮廷の奢侈のために国民に負担を強いたので、江南では北宋最大の農民反乱である方臘(ほうろう)の乱が起きた(1120~21)。 
 この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系の女真族がにわかに強大となり、その首長である阿骨打(あぐだ、1068~1123、位1115~23)は遼に反旗を翻し、金を建国し(1115)、次第に遼を圧迫していった。 
 この情勢を見た宋は新興の金と同盟を結び宿敵遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州の回復を図ろうとしたが、かえって金の華北侵入を招き、金軍は首都開封に迫った(1025)。 
 徽宗はその事態に驚き、「己を罪する詔」を出し、全国に勤王軍を募るとともに、子の欽宗(位1125~27)に譲位した。 
 宋はいったんは金と和を結んだが、金は翌年宋の違約を責めて再び開封を包囲し、ついに開封を陥れた(1126)。そして翌1127年、徽宗・欽宗・后妃・皇族・官僚・技術者など数千人を捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去った。この出来事は靖康の変(1126~27)と呼ばれるが、靖康の変によって北宋はついに滅亡した(1127)。 
 徽宗はその地に幽閉されたまま帰国の願いはかなわずその地で没した(1135)。欽宗も幽閉は30年に及び、金と南宋との和平の成立(1142)後も帰国は許されず、ついにその地で没した(1061)。  
 

 

 
8.

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
4 遼と西夏
 契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込んでいる河)の上流シラムレン川流域に現れたモンゴル系にツングース系が混血した遊牧・狩猟民である。 
 キタイ(Kitai)・キタン(Kitan)の名で呼ばれ、中国では契丹と表記された。Kitaiの名が西方に伝わりCathyという中国の別称となった。 
 初めウイグル(744~840に王国を形成)に属したが、ウイグルが衰え始めた頃から急速に勢力を強めた。 
 契丹は多くの部族に分かれていたが、中国が唐末の混乱に陥っている頃に、民族の英雄である耶律阿保機(やりつあぼき、耶律が姓で阿保機が名、太祖、872~926、位916~926)が現れた。 
 彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人をとらえて契丹の地に連れ帰り、力ある者を登用して国力を蓄え、やがて契丹諸部族を統合して遼(916~1125)を建国した。 
 太祖(耶律阿保機)は西方の突厥・ウイグル・タングートに親征して外モンゴルから東トルキスタンを制圧し、東方では中国東北地方東部から朝鮮北部を200年以上支配してきた渤海を滅ぼした(926)。しかし、その帰途、扶余で病没した。 
 太祖は独自の契丹文字を作成(920)させるなど、契丹民族の文化の発展にも尽くした。 
 次の太宗(位926~947)は、中国で石敬とうが後唐に替わって後晋を建国する際に、彼を援助し、その代償として燕雲十六州を獲得した(936)。 
 遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土の一部を支配した最初の国家である。このような性格を持った国家を征服王朝という。 
 征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼・金・元・清をDynasty of Conquestと呼んだ訳で、北方民族が中国の領土の一部または全部を征服して建てた中国風の王朝国家の意味で使われている。 
 初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の官制を取り入れて中国風の王朝を建設しようとした。しかし、遊牧・狩猟民である契丹人が農耕民である漢人を支配することは容易でなく、漢人の抵抗が各地で起こった。 
 そのため遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)を採用した。 
 中央の最高機関である枢密院を契丹人など遊牧民を統治する北面官と漢人・渤海人など農耕民を統治する南面官に分け、北面官を上位に置き、政治・軍事を担当させた。そして 契丹人など遊牧民に対しては遊牧民固有の部族制で、漢人など農耕民に対しては中国風の州県制で統治した。この統治の仕方を二重統治(体制)と呼んでいる。 
 遼第一の名君と言われている6代皇帝聖宗(位982~1031)は12歳で即位し、治世の前半の20年は母后や名臣・勇将の補佐を得て国力の充実に努めた。 
 東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジアのウイグル諸国を服従させて後顧の憂いをなくした聖宗は、1004年に自ら大軍を率いて宋に侵入し、黄河北岸のせん州に迫った。これを見た宋の真宗も親征し、両軍は黄河を挟んで南北に対陣したが、結局和議が成立し、宋を兄・遼を弟として兄弟の交わりを結ぶこと、宋は遼に毎年銀10万両・絹20万疋を贈ることなどが約された。これがせん淵の盟(前述)である。この和議は以後約100年間にわたって両国によって守られ、両国の間には平和が続いた。 
 聖宗の治世の後半には政治・軍事組織が整備され、中央集権体制が確立されたので、次の7代興宗(位1031~55)・8代道宗(1055~1101)に至る3代約120年間が遼の全盛期となった。 
 しかし、9代天祚帝(てんそ、位1101~25)の時代に、北方で女真が強大となり遼から独立し金を建国した。そして同盟した宋と金の挟撃を受けて敗れた天祚帝は内モンゴルに逃亡し(1122)、後に反撃に出たが逆に捕らえられ、中国東北地方の奥地に流され、そこで没した(1125)。こうして200年続いた遼はついに滅亡した(1125)。 
 遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子孫である耶律大石(1087~1143、西遼の初代皇帝、位1132~43)は、天祚帝が内モンゴルに逃亡したときに、外モンゴルに逃れ、自立して王位についた(1124)。彼の元には多くの部族が集結したが、やがて金の圧迫が強まったのでさらに西方に移動し、トルキスタン地方のウイグルをおさえ、カラ=ハン朝を倒してベラサグンで即位し、西遼を建てた。西遼はイスラムからはカラ=キタイ(黒い契丹の意味)と呼ばれた。 
 契丹は初めウイグル人の文化の影響を受けたが、やがて中国文化を吸収し、仏教を受け入れた。特に聖宗から道宗の全盛期には皇帝が仏教を保護・奨励したので仏教が盛んとなり、大寺院や仏塔が建立され、大蔵経も出版されるなど仏教文化が栄えた。 
 太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これによって契丹人が漢化されることを防ぎ、民族意識を持たせようとした。契丹文字には大字と小字があるが、解読はまだあまり進んでない。 
 宋の西北辺境の陜西・甘粛方面にはチベット系のタングート(党項)族が居住していた。タングートは初め四川・青海方面にいたが、チベットの吐蕃の圧迫を受けて東遷し、陜西・甘粛に移った。9世紀頃から陜西の夏州を中心に居住していたタングートの平夏部が強大となり、黄巣の乱の鎮圧に功を立て、唐から李姓を与えられた。 
 その子孫の李元昊(りげんこう、1003~48、位1038~48)は父の後を継いで平西王となり(1032)、タングート諸部族を統合して青海の東部や甘粛西部の敦煌にまで領土を拡大した。そして宋にならって官制・兵制など諸制度を整え、宋・遼に対抗して皇帝を称し、国号を大夏と称した(1038)。中国ではこの国を西夏(1038~1227)と呼んでいる。 
 西夏はシルク=ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益をあげていたが、宋と貿易をめぐって対立し、しばしば宋に侵入した。 
 李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中で、両国は1044年に慶暦の和約(前述)を結んだ。この和議によって西夏は宋に臣礼をとり、代わりに毎年銀5万両・絹13万疋・茶2万斤を得、さらに国境に貿易場を設けて貿易を行うことを認めさせた。 
 李元昊は東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大し、宋・遼の両大国に対抗してよく国を維持した。また若いときから文武両道に優れ、法律・仏教に通じていた彼は西夏文字の創製に関与し、漢籍の翻訳を行わせるなど西夏の文化の向上にも努めた。 
 井上靖の名作「敦煌」は映画化されたので、映画を見た人も多いと思うが、この作品は科挙に失敗した主人公の趙行徳が西夏の女を助けたことから巻き込まれる数奇な運命を描いた作品で、李元昊時代の西夏を中心に展開され、1900年頃に敦煌石窟寺院の第17窟から多数の古写本・古文書が発見された謎に迫る名作である。ぜひ読んでみて下さい。 
 文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化を基調とする独自の文化を発展させた。漢字の体裁にならって画数の多い複雑な独自の西夏文字を作った。現在6100余字が知られていて、3分の2以上の文字の発音や意味も明らかにされている。また儒教や仏教も盛んで、「論語」や仏典をはじめ中国やチベットの多くの書物が西夏文字に翻訳されている。 
 西夏は、李元昊以来10代約200年間続いたが、遼に代わって金が強大となるとこれに服属し、最後はチンギス=ハンによって滅ぼされた(1227)。    
 

 

 
9.

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
5 金の侵入と南宋
 女真人は、10世紀以来中国東北地方東部の奥地・森林山岳地帯で半猟・半農の生活を営むツングース系民族で、女直とも呼ばれた。女真・女直はジュルチンの音訳である。 
 女真は、10世紀以来遼の支配下にあった。女真のうち早くから遼と接し、遼東半島までも南下して遼の支配下で働いた者は熟女真と呼ばれ、これに対しいつまでも奥地にとどまり半猟・半農生活を送っていた者は生女真(せいじょしん)と呼ばれた。 
 現在のハルビン市を流れている混同江(現在の松花江)流域は、当時一面の森林地帯であったが、現ハルビンの西南の辺りに住んでいた生女真は完顔(わんやん)部と呼ばれた。完顔部は古くからの名族で代々傑出した人物が出て首長となったが、 11世紀後半に一人の英雄、完顔阿骨打(わんやんあぐだ、1068~1123、金の太祖、位1115~23)が出て父・兄の後を継いで首長となった(1113)。 
 太祖(阿骨打)は首長となると、それまでの氏族制を行政と軍事の両面を兼ねた猛安・謀克に改編した(1114)。そして女真諸部族を統一し、遼に叛旗をひるがえし(1114)、皇帝に即位し国号を大金と称した(1115)。大金を以下、 金と呼ぶ。 
 太祖は、猛安・謀克を組織化し、国家体制を確立していった。 
 猛安・謀克は行政と軍事を兼ねた制度で、行政面では300戸をもって1謀克とし、10謀克をもって1猛安とした。その長は謀克・猛安と呼ばれた。また軍事面では1謀克から100人の兵を出し、1猛安は1000人で軍団を編成した。行政の長である謀克・猛安が、戦時には軍隊の長を兼ね、その地位を世襲した。 
 太祖が遼から自立して金を建国し、遼軍を圧迫しているとの情報を得た宋は新興の金と結んで遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州を回復しようとして金に同盟を申し入れた(1118)。 その主な条件は、(1)宋が今まで遼に贈っていた歳幣、銀20万両・絹30万疋を金に与える、(2)遼の領土のうち万里の長城以北の地は金の占領に任せ、宋は万里の長城以南の燕雲十六州を自力で回復するというものであった。これに対して金は燕雲十六州のうち 燕京(北京)以下6州だけの割譲を主張し、交渉はまとまらなかった。 
 金は交渉がまとまらないうちに軍事行動を起こして遼軍を破り、燕京周辺を除く遼の領土を占領し、遼最後の皇帝天祚帝を内モンゴル方面に追いやった(1122)。一方、宋軍による燕京攻略ははかどらず、逆にしばしば敗北を重ねて、ついに金軍に援助を要請した。 
 太祖は、宋の援助の要請を受けると、たちまち燕京を陥れて(1112)遼軍を壊滅させ、翌年、金は燕雲十六州の内の6州を宋に割譲する代償として銅銭100万貫と軍糧20万石を要求した。宋はやむなくその支給を約束した。 太祖は続いて天祚帝を追討しようとしたが、その途中で病没した(1123)。 
 太宗(位1123~35)は、兄の後を継いで帝位につくと、天祚帝を内モンゴル方面に追撃して捕らえ、ついに遼を滅ぼした(1125)。遼が滅びる直前に、皇族の耶律大石が中央アジアに逃れ西遼(1132~1211)を建国したことは前述した。 
 太宗は、遼を滅ぼして後顧の憂いを除くと、今までの宋の背信行為を責めて、河北・山西から大挙南下・侵入して宋の首都開封に迫った(1125)。金の南下に驚いた徽宗は「己を罪する詔」を下し、勤王軍を募り、欽宗に譲位した。 
 翌1126年、金は開封を包囲した。陥落を前にして宋は金の要求を全て受け入れ、いったん講和条約を結び、宋は金の皇帝を伯父として尊ぶ、宋は金に金500万両・銀5000万両・牛馬1万頭・帛100万疋を贈ることを約した。 
 金はこの約束に満足して兵を引いたが、この時またしても宋の背信行為が暴露されたので、再び南下し、40日にわたる攻撃の末、ついに開封を攻略し(1126)、 掠奪を行った後、徽宗・欽宗・后妃・皇族・官僚・技術者など約3000人を捕虜として北方に連れ去った。この靖康の変(1126~27)によって北宋はついに滅亡した(1127)。 
 徽宗の第9子で欽宗の弟であった康王は、靖康の変の際に河北にいて難を逃れ、北宋の滅亡後、河南の応天府(現在の商邱)で帝位につき宋を復興した。これが南宋の初代皇帝である高宗(1107~87、位1127~62)である。これ以後の宋を「南宋」(1127~1279)と呼び、これまでの宋を「 北宋」(960~1127)と呼ぶ。 
 高宗は金の追撃を受けて、南に逃げ長江を渡って、江南に拠って金を防ぎ、江南の諸勢力・反乱を平定して南宋の基礎を確立し、都を臨安(現在の杭州)に定めた(1138)。 
 金は北宋を滅ぼし、華北を支配下に入れ、さらに南下して南宋を圧迫したが、まもなく兵を引いた。当時の金国内には、中国全土の征服を主張する強硬派と、今の金の力では黄河以北を確保するのが精一杯であるから南宋との関係を良くした方がよいという和平派が対立していたが、和平派は和平工作のために捕らえていた秦檜を南宋に送り返した。 
 秦檜(しんかい、1090~1155)は、江蘇省出身で科挙に合格し、官僚として昇進したが、靖康の変の際北方に連行された。金の和平派によって南宋に送り返された(1130)。  
 秦檜は、金の内情を知る者として高宗の信任を得て宰相となり(1131)、金の実力を考えると主戦派の唱える開封の奪回はとうてい無理である、それよりも金と和平を結んで現状を維持する方が得策であると主張し、金との和平交渉を進めた。以後、南宋国内でも岳飛らの主戦派と秦檜らの和平派の対立が激化した。 
 岳飛(1103~41)は、河南省の農民の子に生まれ、北宋末に金が南下すると義勇軍に応募し、金との戦いに軍功をたて一兵卒から将軍にまで昇進した。しかし、余りに早い昇進や当時の武将としては珍しく学問があったことから諸将の反感をかっていた。 
 秦檜は、主戦派によって一時失脚したが再び宰相となり(1138)、翌年金との和議を成立させたが、これは金によって破棄され、金と南宋との間に再び激しい戦いが始まった。 
 この戦いでの岳飛の活躍はめざましく、かっての宋の都・開封近くにまで進撃し、金軍を大いに悩ませた。南宋の意外な善戦を見て、金国内で和平の動きが高まり、南宋でも秦檜 らの和平派が力を得て和議を進めようとした。これに対して岳飛らの主戦派は徹底抗戦を主張した。 
 秦檜は詔勅によって全軍に作戦行動を停止させ、将軍たちを呼び戻したが、岳飛は中央の命令に従わなかったので、秦檜は岳飛に謀反の罪をかぶせ投獄の後に処刑した。 
 悲劇の将軍岳飛は、後に無実が明らかとなると、忠義の士と讃えられ救国の民族的な英雄として「岳王廟」に祀られ、岳飛の墓には現在も参詣する人の列は後を絶たないのに対し、秦檜は無実の岳飛を殺し、後に屈辱的な和議を結んだ奸臣・売国奴として、「岳王廟」 の前に縛られた姿の彼の石像が置かれ、その石像は人々に足蹴にされ、唾を吐きかけられるなどの侮辱を受けたと言われている。 
 岳飛の死の翌年、1142年についに南宋は金との間に屈辱的な和議(紹興の和議)を結んだ。その主な内容は、(1)両国は、東は淮水から西の大散関に至る線を持って国境とする。(2)歳貢として宋は金に対して毎年銀25万両・絹25万疋を贈ること。(3)宋は金に対して臣下の礼を取ること。(4)金は徽宗の遺体と高宗の母を宋に送り返すこと等であった。 
 この和議によって南宋の領土は北宋に比べて半減したが、経済的に豊かな江南を確保し、経済的には大いに繁栄した。南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加した。彼らの手で江南の開発が進展し、以後江南は中国経済の中心地となった。 
 南宋は、9代約150年間続いたが、金がモンゴルに滅ぼされると(1234)、南宋は直接モンゴルと境を接することなった。やがてモンゴルでフビライ=ハンが即位すると、全力で南宋攻略にかかった。南宋は再三講和を申し入れたが拒絶され、ついに首都臨安が陥落した(1276)。 
 7代皇帝恭帝(当時7歳)は捕らえられて北へ送られたが、陸秀夫や文天祥らが恭帝の弟を奉じて南に逃げて元に抵抗し、最後は崖山(広州の南の小島)に立てこもった。モンゴル軍は崖山に迫り、陸秀夫は衛王を抱いて海に身を投じ、ここに南宋は完全に滅亡した(1279)。 
 金は、1142年の和議によって淮水以北の華北を支配下に治めたので、約600万戸の漢人を統治することとなった。征服王朝である金は漢人統治に苦心したが、金も遼にならって二重統治(体制)を採用した。女真人に対しては華北に移住した女真人も含めて猛安・謀克で統治し、漢人に対しては中国風の州県制で統治した。 
 第4代皇帝海陵王(位1149~61)は中国的な大帝国の建設を目指し、燕京(北京)に遷都し、皇帝権力の強化と中央集権化を図った。また中国統一を目指し、大軍を持って南宋に侵入したが(1161)、宋軍に敗れ、長江沿岸の陣中で部下に殺された。 
 金第一の名君とされる第5代世宗(位1161~89)は、女真人が中国化によって質実剛健の気風を失って弱体化し、また貧困化することを憂い、復古主義・国粋主義政策を取る一方で貧困化した女真人の救済に努め、女真人の自覚を促すために女真文化の復興にも力を入れた。 
 世宗の後を継いだ章宗(位1189~1208)の頃から、モンゴルの侵入が激しくなり、その防衛のための軍事費や相次ぐ黄河の氾濫によって財政難に陥った。その財政難を切り抜けるために交鈔(こうしょう、金・元で発行された紙幣)を乱発してインフレーションを招き、経済が混乱し国力は急速に衰退した。 
 13世紀初めモンゴルではチンギス=ハン(位1206~27)が即位し、モンゴル軍の侵入はますます激しくなり、ついに燕京(北京)が陥落し(1215)、モンゴルと南宋の連合軍に河南省で包囲された哀宗(9代、位1223~34)は自殺し、9代約120年間続いた金はついに 滅亡した(1234)。  
 

 

 
10.

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
6 宋代の社会
 宋は、北方民族の遼・西夏・金の圧迫を受け、政治的にはあまり振るわなかったが、経済的には大いに繁栄し、農業生産力が増大し、商工業が急速に発展し、外国貿易も栄えた。 
 宋の南渡以来、南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加し、彼らの手で江南の開発が大いに進展した。特に長江下流域一帯は米作地帯として発展し、以後中国農業の、ひいては中国経済の一大中心地となった。 
 江南では従来農耕地としては利用できなかった湿地帯や河岸・池などの干拓が盛んに行われ、また水利の便の悪かったところに用水路を引いて水田にするなど新しい水田の開発が盛んに行われた。 
 また北宋時代に、占城(チャンパー、ヴェトナム南部)から日照りに強い早稲(わせ)種の占城稲が江南に伝わったこと、稲と麦の1年二毛作が普及したことなどによって江南の農業生産力が飛躍的に増大した。 
 特に長江下流域一帯の米作は中国農業の中心となった。「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」という言葉がそのことをよく示している。江浙は江蘇省と浙江省の略であり、蘇湖の 蘇は蘇州、湖は湖州の略である。 
 また華北の畑作地帯でも唐の中期以後農業技術が進歩し、小麦・粟・豆などの2年三毛作が行われるようになり、農業生産力が増大した。 
 宋代にも、唐以来の大土地所有制(荘園制)が発展したが、荘園の所有者の多くは、従来の貴族に代わって、官戸(科挙に合格して官僚を出した家)・形勢戸(地方の有力地主層)などの新興地主層であった。彼らは自分たちの土地を農奴的な小作人の佃戸に耕作させた。 
 佃戸は、法的には自由民であったが、地主のもとで移転の自由を奪われ、地主の家の仕事にかり出されるなど種々の労役を課せられ、収穫物は地主と折半(2等分)が普通だった。このように佃戸は地主に隷属する小作人であったが、 地主にとっては労働力でもあるので、地主の保護も受けられたので、生活が成り立たないほどのわずかな耕地しか持たず、 重税や借財に苦しんだ零細な自作農より恵まれた面もあった。 
 米作以外の諸産業も大いに発達した。特に茶の栽培・製茶業が盛んとなり、飲茶の風が普及した。インドのアッサム地方が原産である茶は、中国には漢代に四川に伝わり、魏晋南北朝時代に江南に広まった。茶は古くは薬として飲まれていたが、飲茶の風は唐代には 中国全土に普及し、庶民の間にも普及した。 
 宋代にはこの傾向がますます強まり、庶民にとっても茶は生活必需品となり、都市のあちこちに茶を飲ませる茶館が出来た。それに伴って茶の生産地も江南から福建・雲南・四川など各地に広まった。 
 宋代には茶は塩と並ぶ重要な専売品となり、その利益は国家財政の重要な支えとなった。また周辺の北方民族の間にも飲茶の風習が広まり、茶は北方民族との貿易にとって重要な貿易品となった。さらに外国貿易が盛んとなる中で従来の絹とともに重要な輸出品になっていく。 
 絹織物業でも機織り技術が進歩し、宋代には江南が生産の中心地となった。 
 飲茶の風の普及に伴い、陶磁器産業も大いに発展し、宋代には高い技術を使った美しい 白磁・青磁などが官用・輸出品として商品生産されるようになり、明代以後窯業の街として世界的に有名となる江西省の景徳鎮も宋代から生産地として繁栄した。 
 製茶・絹織物・陶磁器を中心に諸産業が発達し、各地では特産物が生産され、流通するようになると客商(宋代以後活躍した遠隔地商人)らが活躍するようになった。 
 商業の発達に伴い貨幣経済が発達し、貨幣の流通量が増大し、銅銭のほかに金銀も地金のまま用いられ、世界最初の紙幣である交子・会子が使用されるようになった。 
 交子は、北宋時代に四川の成都で民間金融業者が発行した手形を、のちに政府が発行権を奪って紙幣として発行した世界最初の紙幣である。 
 会子は、初め開封や臨安(杭州)などの大都市の金融業者が発行した手形を、南宋が銅銭の不足を補うために発行した紙幣である。 
 商工業の発達・貨幣経済の発達に伴い都市が発達した。宋代の都市の特色として、唐代までの大都市は政治都市の性格が強かったのに対し、宋代の都市は商業都市の性格が強いということがあげられる。 北宋の都の開封、南宋の都の臨安(杭州)といった大都市も政治都市というよりも商業都市としての性格が強かった。 
 開封・杭州などの大都市とともに、地方でも鎮・市と呼ばれた地方の小都市が数多く出現した。鎮・市は各地に設けられた定期市から生まれた草市(城外の物資の交易場)から発達したものである。 
 中国の都市は、周囲を城壁で囲まれている。夜になると城門は閉じられ出入りが出来なくなる。城壁内でも、夜になると「坊」(大通りによって囲まれた方形の区画)の門が閉じられ、他の坊との行き来も出来なかった。また都市内では「市」(唐の長安の東市・西市が有名)と呼ばれる一定の区域内でのみ商業が許された。市の四方の門も朝夕に開閉され、営業が許されたのは門が開いている日の出から日没までであった。 
 宋代になり、商工業がますます発達するようになると、こうした「坊」・「市」などの制限がくずれ、商人は都市のどこにでも自由に商店を出せるようになり、夜間営業も許されるようになった。 
 唐代の長安は夜になると暗闇の中でひっそりしていたであろうが、宋代の開封(人口60~70万人)・臨安(杭州)(人口100~150万人)などの大都市では、夜も煌々と明るく、大通りに沿って酒楼が建ち並び、小料理店が店を並べ、至る所に市が立つようになった。 また瓦市と呼ばれた劇場・寄席などが集まる歓楽街があり、さまざまな娯楽を楽しむことが出来た。開封の繁栄ぶりは清明節(清明は春分から15日目で中国では墓参が行われた) の日の開封の様子を描いた「清明上河図」でうかがうことが出来る。 
 営業の自由を獲得した商人達は、営業の独占や相互扶助を目的として同業者が集まって組合を作った。商人の同業組合は「行」、手工業者の同業組合は「作」と呼ばれた。米を扱う商人の米行をはじめ、絹行・銀行のほか乞食行まであったといわれている。行の運営は選ばれた役員があたったが、役員のほとんどは有力な大商人で占められていた。 
 宋代には外国貿易も盛んとなり、茶・絹・陶磁器などが輸出され、外国の諸物資が輸入された。イスラム教徒・東南アジア・朝鮮・日本などの船が広州・泉州・明州(めいしゅう、寧波)・臨安(杭州)などの港市に盛んに出入りして貿易を行った。これらの港市は外国貿易によって大いに繁栄し、主な港市には唐代に引き続いて市舶司(海上貿易に関する事務を司る役所)が置かれた。   
 

 

 
11.

3 中国社会の変化と北方民族の進出
 
7 宋代の文化
 宋代の文化の特色としては、中国的・国粋的な文化であったこと、士大夫(社会的には農工商に対して読書人・知識人階級を指し、官界では科挙出身の高級官僚を指す)を中心とした学問・文芸が発達したこと、そして商工業の発達によって力をつけてきた都市の庶民が文化の担い手となり庶民文化が栄えたことなどがあげられる。 
 宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられたため、その文化は中国的・国粋的なものとなった。そのことは学問・思想の面によく表れている。 
 儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成された。 
 宋学は、唐代までの儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓詁学が中心であったことへの批判から、細かい字句の解釈にとらわれず、経典を自由に解釈し、儒学の精神・本質を明らかにしょうとした新しい儒学である。 
 宋学は北宋の周敦頤(しゅうとんい、1017~73)に始まった。周敦頤は「大極図説」を著し、大極と名づける宇宙の本体から万物・人間・聖人が生ずるとし、人は学んで聖人になりうると説いて宋学の始祖とされた。彼の説は弟子の程顥(ていこう、1032~85)・程頤(ていい、1033~1107)によってさらに発展させられた。 
 周敦頤・程顥・程頤らの学説を発展させて宋学を集大成したのが南宋の朱熹(朱子、1130~1200)である。朱熹は19歳で科挙に合格し、のち皇帝の侍講となったが、権臣に憎まれてわずか45日で辞職し、以後70歳で辞官するまでほとんどを名目的な奉祠の官(道教の寺院の管理官)にとどまった。 
 朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙・万物は、理と気からなる。理は人・物の性(本性・本質)であり、気は物質・存在を意味する。この理と気が結びついて万物が存在するという二元的存在論)に基づいて、これを人間の道徳に応用し「性即理」(心の本体である性は理であるから、気(欲望)を捨てて理にしたがって生きることを理想とする倫理説)を説き、その学問方法として「格物致知」(物の理をきわめて、知をつくすこと)を唱えた。そして従来儒教の聖典とされてきた「五経」よりも「四書」(大学・中庸・論語・孟子)を重んじた。 
 漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自らを中華と誇り、周辺の異民族を戎狄蛮夷(じゅうてきばんい)と呼んで蔑視してきた。ところが南宋は華北を金に奪われ、金に臣下の礼をとらざるを得なかった。朱熹は北宋の司馬光らも唱えた「大義名分論」(上下関係の秩序を重んじ、君臣・父子の身分秩序を正そうとする思想的立場)・「正統論」を唱え、華夷の区別を論じ、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著して君臣・父子の道徳を絶対視して宋の君主独裁制を思想的に支えた。 
 宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、また程朱学・理学・性理学とも呼ばれる。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、朝鮮や日本の思想に大きな影響を与えた。李氏朝鮮(李朝)は朱子学を官学とし、江戸幕府も統治理念として朱子学を採用した。 
 朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、1139~92)は、朱熹の「性即理」説に対して「心即理」説を唱えた。彼は宇宙本体の理は個人の心であり、心をさぐれば理が見いだせると説いて朱熹と対立し、朱熹が学問・知識を重んじたのに対し、道徳の実践を重んじた。その説は明代に王守仁(王陽明)に受け継がれ、陽明学の源流となった。 
 儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史学や地理などの学問が重要視され、「新唐書」(欧陽脩らの撰、唐一代を記した紀伝体正史)や「新五代史」(欧陽脩撰、五代の紀伝体正史)などの多くの歴史書が著されたが、司馬光の「資治通鑑」は特に有名である。 
 北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治通鑑」は、編年体の通史で戦国時代から五代までの1362年間の事跡を本文294巻に編纂した歴史書であり、完成までに19年を要した大著である。この歴史書は儒教的大義名分論・正統論の立場で書かれている。君主の治世の参考資料として書かれ、以後学者必読の書とされた。 
 朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著した。「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」は「資治通鑑」に書かれた事実を大義名分論・正統論の立場から再編纂した歴史書で、後世に大きな影響を及ぼした。  
 宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践的な仏教に成長した。その代表が禅宗と浄土宗である。禅宗は官僚層・知識人の間に浸透したのに対し、一般庶民の間には阿弥陀仏の浄土に往生を説く浄土宗が広まっていった。 
 道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教をしのぐ隆盛ぶりであった。 金の統治下にあった華北では王重陽を開祖とし、儒・仏・道三教の調和をはかる全真教が 道教の革新を唱えておこった。 
 庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色であるが、庶民文化を代表するのが「詞」である。詞は五言・七言にこだわらず長短の句をつないで楽曲に合わせて歌われた韻文で、「唐詩」に対して「宋詞」といわれ大いに流行した。詞は詩から変化してきたものであるが、唐代の詩が貴族や知識人の文学であったのに対し、詞は民衆に親しまれ、酒席でも客や芸妓によって唱われたので、民衆にも分かる俗語がふんだんに使われた。しかし、知識人も格調高い詞を作っている。 
 詞とともに庶民に親しまれたのが雑劇や口語をまじえた小説である。雑劇は中国の古典演劇で、北宋で歌としぐさを伴う歌劇として成立し、元代に「元曲」として完成する。 
 文学では散文が盛んになった。唐代に韓愈や柳宗元が唱えた古文復興を北宋の欧陽脩が唱えると自由に文章を書くことが流行し、多くの名文家を輩出した。唐代の韓愈・柳宗元 の二人に宋代の欧陽脩・蘇軾(蘇東坡)・王安石など6人を加えた「唐宋八大家」は名文家として有名である。 
 文学的教養と並んで、書・絵画も士大夫(知識人階級)にとって重要な教養であった。 
 美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とする院体画がうまれた。文人画は南画ともいわれ、士大夫階級の絵画の意味で、山水・自然を題材として水墨で作者の主観的な心境を表現する絵が多く、北宋が全盛期である。これに対して院体画は院画・北画ともいわれ、宮廷の画院に属する職業画家の画風で、写実を重んじ装飾的であるのが特色で、花鳥・山水・人物などを宮廷趣味に合うように描いた。 北宋の皇帝徽宗は院体画の代表的な画家として有名で、「桃鳩図」は徽宗の代表作としてよく知られている。 
 文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)・北宗画となり、その伝統は清末まで中国画壇を支配した。 
 工芸では青磁・白磁などの陶磁器が発達した。 
 宋代は中国の科学が発展した時代でもあった。科学技術の面で、いわゆる印刷術・火薬・羅針盤の三大発明が飛躍的な発展をとげて実用化されたのが宋代であった。 
 印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されている。宋代になると文治主義がとられ、科挙が盛んになったので受験参考書の需要が増大し、大都市では民間の出版社も生まれた。大蔵経などの仏教の経典も数多く出版された。初めは一枚の版木に一頁分を彫る整板印刷といわれる方法だった。11世紀半ばに北宋の畢昇(ひつしょう)が、泥と膠(にかわ)を混ぜたものに文字を刻み、焼き固めて活字を作った(膠泥活字)といわれているが、木版印刷に比べて不便なためあまり利用されなかった。 
 硝石・硫黄・木炭などを混ぜ合わせて作った黒色火薬は唐代の錬金の過程で偶然出来たと考えられている。それが実戦に用いられるようになったのも宋代のことである。最初は点火用・威嚇用に用いられ、手や投石機で投げていたが、南宋になると大きな竹筒の中に火薬をつめて発射する火筒(ほづつ)が発明され、金軍との戦闘に使用された。元寇の時にモンゴル軍が使用したのは筒を銅や鉄で作った火筒であったといわれている。火薬は13世紀頃イスラムを経てヨーロッパに伝えられた。 
 磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期にすでに知られていたといわれている。それが航海に使われるようになったのが宋代である。 北宋の書物に指南魚(魚形の磁鉄を水に浮かべて方角を知る)として用いたことが記されていて、南宋の書物には磁針を航海に使用したことが書かれている。やがて中国に来航したアラビア商人がこれを利用するようになり、後にヨーロッパに伝わった。  
 

 

 
12.
6.モンゴル民族の発展

4 モンゴル民族の発展
 
1 モンゴル帝国の成立
 モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は陰山山脈から北はシベリアに至る高原の砂漠・草原地帯である。ゴビ砂漠によって南北に分けられ、北を外モンゴル、南を内モンゴルと呼ぶ。 
 モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民族が活躍してきたが、9世紀頃にトルコ系のウイグル人が西方に移動した後は、モンゴル系諸部族の居住地となった。 
 10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴル諸部族の多くはこれに服属した。しかし、12世紀初めに遼は金に滅ぼされ、しかも金の勢力は外モンゴルに及ばなかったので、モンゴル高原の諸部族はその勢力を拡大しようとして争いを繰りひろげた。 
 言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬・羊などの家畜である。その家畜を養うためには水と草が必要である。モンゴル高原には肥沃な草原地帯はそんなに多くない。古来、豊かな草原地帯として知られてきたのが、外モンゴルの中央部にあるオルコン川やセレンガ川一帯の草原地帯であった。 モンゴル部もオノン川・ケルレン川のほとりを根拠地として、西方のオルコン川やセレンガ川流域への進出の機会をねらっていた。 
 そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れた。世界史上最も有名な人物の一人であるチンギス=ハンである。 
 チンギス=ハン(1162~1227、生年については異説が多い)、幼名テムジン(鉄木真)はモンゴル部の有力な部将イェスガイの子として生まれた。ところが、テムジンが13歳の時に、父がタタール部によって毒殺されたため、父の部下の多くが離散してしまい、テムジン一家(母と5人の子)は窮乏のどん底に陥った。一家はブルカン山に逃れ、木の実や草の根をも食べながら困窮の生活に耐えた。 
 こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛えられながら優れた指導者に成長していった。そして同族のジャムカやケレイト部のワン=ハンと同盟して勢力の拡大に努め、やがてモンゴル部の長に推戴された(1188)。 その後、金と協力して父の仇敵であったタタール部を破った(1196)。テムジンの勢力が強まるとワン=ハンと敵対することとなったが、これを破ってケレイト部を滅ぼし(1203)、さらにナイマン部・メルキト部を滅ぼした。ジャムカはこの時ナイマンの陣営に加わっていたが捕らえられて殺された。こうして、もはやモンゴル高原にはテムジンに敵対する勢力はなくなった。 
 1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリルタイ(モンゴル語で「集会」の意味、有力者が集まり、ハンの選定・遠征の決定・法令の発布など国家の重要事を合議・決定した)で、テムジンは全モンゴルのハン(カン、汗とも、突厥・ウイグル・モンゴルの君主の称)に推戴され、チンギス=ハンの尊称を与えられた。チンギスとは、”強大”を意味する語とも、シャーマニズムにおける最高神”光の神”の意味とも言われている。 
 チンギス=ハン(太祖、成吉思汗、位1206~1227)は、全モンゴルを統一すると、モンゴル帝国(1206~1271)の建国の功臣88人を千戸長に任命し、95の千戸を編成した。この千戸制は、全遊牧民を95の千戸集団に分け、それぞれをさらに百戸・十戸に分けて、各々に長を置く軍事・行政組織で、モンゴルの強力な軍事力の基礎となった。 
 チンギス=ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク=ロードの貿易による利益に目をつけ、これを手中に収めるために侵略の矛先をシルク=ロードの確保・支配に向け、まず西夏に侵入し、これを屈服させた(1209)。さらに金を攻撃して和議を結び、多額の金銀・絹・馬を贈らせることを約束させた(1214)。 
 この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきた。チンギス=ハンも莫大な贈り物とともに返礼の使節を送ったが、その隊商隊がホラズムのオトラルに着いたとき、その町の知事は使節を殺し、物資を掠奪した。このことがチンギス=ハンの大規模な西征のきっかけとなった。 
 チンギス=ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ=キタイ)を滅ぼしてその故地を奪ったナイマン部を滅ぼし、翌1219年に20万の大軍でホラズム朝に侵入し、オトラルついで首都のサマルカンドを陥れ、抵抗する住民を皆殺しにし、あらゆる財物を掠奪し、ホラズム朝を事実上滅亡に追いこんだ(1221)。さらに逃げるホラズムの王子を追って西北インドに侵入し、別働隊はイラン・南ロシアに侵入し、これを征服した。 
 チンギス=ハンは、次男のチャガタイ・三男オゴタイ・末子トゥルイとともにモンゴル高原に凱旋したが(1225)、長男のジュチは南ロシアに留まった。 
 チンギス=ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に分け与えた。長男ジュチに南ロシアを、次男のチャガタイに中央アジア西部を、三男オゴタイに中央アジア東部を、そして末子のトゥルイにはモンゴル本土を相続させようとした。モンゴル民族をはじめ遊牧民族の間には末子相続の慣習があり、この時点ではチンギス=ハンの所領はトゥルイが相続すると考えられていた。 南ロシアに留まっていたジュチはまもなく亡くなり、その後をジュチの子のバトゥが継いだ(1224または25)。 
 チンギス=ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、ついに西夏を滅ぼしたが、その帰途の陣中で没した(1227)。 
 チンギス=ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥルイが国政を執り、次のハンを選定するクリルタイもトゥルイによって召集された(1229)。クリルタイではトゥルイを推す者も多かったが、チンギス=ハンの遺言によって三男のオゴタイがハンに推戴された。オゴタイは温厚な性格で、仲が悪かった長男ジュチと次男チャガタイの不和をいつも調停するなど人望もあったので、チンギス=ハンはオゴタイを後継者にしたといわれている。 
 オゴタイ=ハン(太宗、1186~1241、位1229~41)は、即位するとチンギス=ハンの宿願であった金攻略に乗り出し、南宋と結んでついに金を滅ぼした(1234)。これによって淮水以北の広大な農耕地帯がその支配下に入ったが、漢人の支配にはチンギス=ハンの遺言に従って遼の王族出身の耶律楚材(1190~1244)を用いた。 
 オゴタイ=ハンはオルコン川上流のカラコルムに長方形の城壁に囲まれた中国風の首都を建設した。そしてカラコルムと占領地との間に公道を建設し、駅伝制(ジャムチ)を整備した。また甥のバトゥに命じてヨーロッパ遠征(1236~42)を行わせるなど領土の拡大に努めた。 
 バトゥ(1207~55)は、チンギス=ハンの長男ジュチの次男で、父の死後南ロシアの所領を受け継ぎ、ヨーロッパ遠征の総司令官となり、15万の大軍を率いて東欧に向かった。翌年モスクワを陥れ、ドン川のほとりで軍馬を休ませ、1年にわたって兵力を蓄えた後、ロシアの中心都市キエフを攻略して(1240)全ロシアを征服し、バトゥの本隊はハンガリーに向かった。 
 副司令官のスブタイの率いる別隊はポーランドに侵入した。シュレジェン侯ハインリヒ2世の率いるポーランド・ドイツ連合軍がポーランドのリーグニッツ東南でモンゴル軍と戦ったが敗れ、ハインリヒは戦死した。後にこの地はワールシュタット(死体の地)と呼ばれたので、この戦いはワールシュタット(リーグニッツ)の戦い(1241)と呼ばれる。 ポーランド各地を荒掠した後、南下してバトゥの本隊と合流し、ハンガリーを征服した。 
 次は西ヨーロッパ諸国がモンゴル軍の侵略の恐怖にさらされることとなったが、モンゴル軍は翌年にわかに撤退を始めた。オゴタイの死(1241)の報が伝えられたためであった。 しかし、バトゥはモンゴル本国に帰国せず、ヴォルガ下流のサライに留まり、父ジュチの封土に南ロシアのキプチャク草原一帯を加えて、サライを都とするキプチャク=ハン国(1243~1502)を創建し、その初代のハンとなった。 
 オゴタイ=ハンの死後、その皇后が監国となって政務をみた。彼女はオゴタイの子のグユクをハン位につけたかったが、グユクとかねてより仲が悪かった最長老のバトゥはグユクの即位に反対し、南ロシアに留まってクリルタイに出席しようとしなかった。 
 オゴタイの死から5年後に、バトゥが欠席する中でクリルタイが開かれ、グユク(位1246~48)が大ハンに選ばれて即位した。しかし、グユクはわずか在位2年で病死した。そのため汗位相続争いが再燃した。バトゥは自らの手でクリルタイを開き、強引にチンギス=ハンの末子のトゥルイの長男モンケを第4代の大ハンに選出した。 
 モンケ=ハン(憲宗、1208~59、位1251~59)は即位すると、オゴタイ系の諸王を処分し、ハンの権威の確立に努めた。対外的には弟のフビライ(1215~94)を中国(華北)の大総督に任命して華北経営にあたらせるとともに、吐蕃(チベット)・大理(雲南)遠征を行わせた。また同じく弟のフラグをイラン方面の総督に任命し、西アジア遠征を行わせた。 
 フラグ(1218~65)は中央アジア・カスピ海南岸を経て、アッバース朝の首都バグダードに至ってこれを攻撃し、翌年バグダードを陥れるとともに掠奪・虐殺を行い街を焼き払った。ここに500年間続いたアッバース朝はついに滅亡した(1258)。 
 フラグは次いでシリアを征服し、さらにマムルーク朝治下のエジプトへ侵入をはかったが撃退された。イランに戻ったフラグはこの地にイル=ハン国(1258~1353)を建国した。 
 フラグ=ハン(位1258~65)は、モンケ=ハンの死(1259)に際し、帰国しようとしたが諸事情から断念し、イランに留まり、兄フビライが大ハン位を継ぐと(1260)元朝と友好関係を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争を繰り返した。 
 モンケ=ハンは、自らは南宋攻略に出陣したが(1258)、四川の陣中で病没した(1259)。 
 こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃までには、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国となった。 
 

 

 
3.

4 モンゴル民族の発展
 
2 モンゴル帝国の分裂
 モンゴル帝国は、13世紀の中頃には、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国となった。しかし、この大帝国には遊牧地帯と農耕地帯があり、宗教や文化の異なる民族が多数いたので、全領土を一つの国家として支配することはもともと困難であった。 
 チンギス=ハンが西征の後、領土を子どもたちに分け与えた頃からこの大帝国に分裂の傾向が現れ、フビライが大ハンの位についた(1260)頃にはモンゴル帝国は、元と西北モンゴルのオゴタイ=ハン国・中央アジアのチャガタイ=ハン国・ロシアのキプチャク=ハン国そしてイラン方面のイル=ハン国の4ハン国に事実上分裂した。 
 フビライ(1215~94)は、モンケ=ハンが即位すると、中国(華北)の大総督に任命され華北経営にあたるとともに、吐蕃(チベット)・大理(雲南)に遠征を行い、これを征服した。 
 モンケが南宋攻略中に四川で病没したとき、フビライは顎州(がくしゅう、今の武漢)を包囲していた。モンケ=ハンの直属軍は本国に引き揚げたが、フビライは安南(ヴェトナム)に出兵している部将を見殺しに出来ず、その北上を待って合流して長江を渡り、上都(開平)に引き上げた。 
 モンケ=ハンの死後、フビライは次のハンの有力な候補者であったが、首都カラコルムに残っていた末弟のアリクブガはモンケ=ハンに最も寵愛されていたので、モンケ=ハンの死後、後事を託されていたと唱え、クリルタイでハン位に推戴されるよう画策していた。これに対してフビライの最も有力な支持者であるフラグは西アジアにいて頼みにならず、クリルタイにおける選挙の結果は予断を許さない情勢であった。 
 そこで南宋攻略のための大軍を握っていたフビライは実力でハン位を争うことを決意し、有力者の不参加を無視して北京の北方にある上都(開平)でクリルタイを開き、推戴されて大ハンの位についた(1260)。 
 フビライの即位に対しては方々で反対が起こった。アリクブガは、フビライのクリルタイを認めず、反対派から推戴されて大ハンを名乗り、軍備を整えて敵対した。フビライはしばしば敗北したが、劣勢を盛り返して敵軍を破り、ついにアリクブガを降伏させた(1264)。アリクブガは降伏したが、今度はハイドゥが反乱を起こした。 
 ハイドゥは、オゴタイ=ハンの孫で、グユク=ハンの死後、ハン位がオゴタイ系からトゥルイ系に移ったことに不満を持ち、モンケ=ハンの即位の時に暗殺を謀ったが失敗し、封地を削減されていた。フビライが即位してアリクブガと対立すると、アリクブガを支持して反乱を起こした(1266)。しかしこれも失敗に終わると、キプチャク・チャガタイ・オゴタイの3ハン国連合の盟主となって元朝に反抗を続けたが、戦傷がもとで没した(1301)。  
 この40年近くに及ぶハイドゥの乱(1266~1301)によってモンゴル帝国の分裂は決定的となった。 
 オゴタイ=ハン国(1225頃~1310)は、オゴタイ=ハンおよびその子孫がジュンガリア地方に建てた遊牧国家で、首都はイリ川の西北エミールにおかれた。元朝に対してはしばしば反乱を起こした。ハイドゥの乱がその最大のものである。後にチャガタイ=ハン国に併合された。 
 チャガタイ=ハン国(1227~14世紀後半)は、チャガタイがイリ川からシル川にかけて建国した遊牧国家で、イリ川流域のアルマリクを都とした。ハイドゥの乱後まもなくオゴタイ=ハン国を併合したが、14世紀にイスラム化し、内紛によって東西に分裂した(1321)。このうち西チャガタイ=ハン国はティムールによって滅ぼされた。  
 キプチャク=ハン国(1243~1502)は、チンギス=ハンの孫のバトゥが西征の帰途に南ロシアに建てた遊牧国家で、都はヴォルガ下流のサライにおかれた。14世紀前半に在位したウズベク=ハンはイスラム教を正式に採用し、また商業・貿易を奨励して最盛期を現出した。しかし、14世紀末にティムールにサライを掠奪されて衰え始め、さらに支配下にあったモスクワ大公国が次第に台頭し、そのイヴァン3世の時に独立した(1480)ため崩壊した。 
 イル=ハン国(1258~1353(1411))は、チンギス=ハンの孫のフラグが、1258年にアッバース朝を滅ぼし、イラン地方を支配して建てた国で、都はカスピ海南西のタブリーズにおかれた。イル=ハン国は元朝と友好を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争した。 
 イル=ハン国は、初めネストリウス派キリスト教徒を保護し、イスラム教徒を圧迫したが、第7代の英主ガザン=ハン(位1295~1304)は、イスラム教に改宗し、これを国教とした。また彼はイラン人のラシード=ウッディーンを宰相に任命し、セルジューク朝のイクター制を採用し、学芸・文化を保護するなどイル=ハン国の黄金時代を築いた。しかし、その後はハン位争いや内乱に苦しみ、14世紀後半には分裂し、その領土はティムールに征服・併合されていった。 
 

 

 
4.

4 モンゴル民族の発展
 
3 元の中国支配
 フビライ=ハン(世祖、位1260~94)は、兄モンケ=ハンの死後、上都(開平)でクリルタイを開き大ハンの位についた(1260)。そしてカラコルムから大都(現在の北京)に遷都し(1264)、国号を中国風に元と称した(1271)。 
 フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定すると、全力をあげて南宋攻略にとりかかった。南宋の重要な拠点である襄陽を5年にわたる包囲戦で陥れると(1273)、さらに南下して長江中流の要衝である顎州(現在の武漢)を占領した。そして長江を下り、蕪湖で南宋軍を破り、首都臨安を包囲した。 
 南宋では文天祥らが抗戦を唱えたが、皇太后は幼い恭帝(位1274~76)をともなって元に降伏した。主戦論を唱えた陸秀夫らは恭帝の庶兄である端宗(位1276~78)を擁立し、彼の死後は弟の帝昞(ていへい、位1278~79)を擁立して海上に逃れ、福州・泉州を経て、最後はマカオの西南の崖山島に逃れたが、元軍の総攻撃を受けて南宋軍が全滅する中で、陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、南宋はついに滅亡した(崖山の戦い、1279)。 
 文天祥は、講和の交渉のために元の陣中に赴いたがそのまま抑留され、後に脱走して各地を転戦して元軍と戦ったが捕らえられて大都に送られ、のち死刑となった(1282)。 
 南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビライの時に最大となり、その領土は中国・モンゴル・満州に及び、チベット(1252年に服属)・朝鮮(高麗)・ミャンマー(ビルマ)を属国とした。 
 高麗(918~1392)は、オゴタイ=ハンの時代に元軍の侵入を受けて降伏した(1231)。しかし、その翌年都を開京から江華島に移してモンゴルに背いたのでモンゴルは再び大軍を送り込んだ。以後連年にわたって侵略し掠奪と破壊を続けた。高麗は再び降伏し、モンゴルの属国となった(1259)。モンゴルはダルガチ(占領地の統治官、長官)を派遣して高麗を直接支配し、以後モンゴル風を強制した。 
 このモンゴルの占領下で三別抄(別抄は強兵で組織された軍団)が反乱を起こした(1270~73)。別抄3軍団は最後は耽羅(済州島)にこもって抵抗したがついに鎮圧され、高麗は完全に属国となった。フビライは高麗を拠点とし、さらに日本を服属させようとした。 
 これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を提出したいた(1268)。さらに翌年にも使節を対馬に派遣したが目的を果たせず、2年後にまた使節を遣わしたが(1271)、この使節も使命を果たせずに帰国した。 
 フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員・水手の徴発を命じ(1274年初め)、その完成を待って、モンゴル・高麗の連合軍28000人の大軍が900艘に分乗して合浦を出発し、対馬・壱岐を襲い博多沖に攻め寄せた(1274.10)。しかし、暴風雨に遭って軍船の多くが覆没し、溺死した者約13500人といわれている(文永の役)。 
 フビライは、その翌年また使節を派遣したが、時の執権北条時宗は全員を竜の口で斬った。フビライは再戦の準備を進めたが、南宋攻略軍が臨安に迫っていた時期であったので軍船の建造も一時中止した。しかし、南宋は臨安陥落の前に降伏し(1276)、崖山の戦いで滅亡した(1279)。 
 フビライは、南宋を滅ぼすと南宋・高麗に軍船の建造を命じ、1281年今度は軍を二つに分け、一つは高麗から4万人の軍勢が900艘に分乗し、もう一つの軍は征服した南宋軍を主力として10万人の大軍が3500艘に分乗して江南を発した。7月、4400艘が博多湾に集結し、博多付近へ上陸を試みたが撃退され、鷹島に退いた。この時もたまたま台風に遭い、軍船の多くは覆没し、約10万人が溺死した(弘安の役)。 
 フビライは三度目の遠征を企てたが、江南の反乱・ヴェトナムの反抗さらにハイズの乱とそれに呼応するモンゴル東部・満州での反乱が起こり、フビライはついに日本遠征を断念せざるを得なくなった。 
 フビライは日本・ヴェトナム・ジャワに遠征軍を送ったが、その遠征は強い抵抗にあって失敗に終わっている。 
 ヴェトナム南部のチャンパ(占城)が反抗したので、海路大軍を送り込み王城を占領したが、ここでも暴風に襲われ多くの軍船を失って引き上げた(1283~84)。 
 またヴェトナム北部の陳朝(1225~1400)に2回(1284、87)にわたって陸路侵略したが、酷暑と泥濘に苦しみ、ヴェトナム人の粘り強い反抗にあって撤退した。 
 ジャワ島のシンガサーリ朝(1222~92)の王が元の使者を追い返したのでジャワ遠征を行ったがこれも失敗に終わった(1292)。 
 しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044~1287)を滅ぼし、これを属国とした。 
 南宋を滅ぼし中国全土を支配下においた元朝は、人口の8割以上を占める漢人統治にあたってはモンゴル人第一主義を原則とし、 従来の州県制に基づく統治を行った。 
 モンゴル人第一主義は民族差別に基づく身分制度で、人々をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。 
 色目人は諸色目人(色々の目の色をした人々の意)の略で、中央アジア・西アジア出身の異民族を指し、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成し、主として経済・財政面で活躍した。なおヨーロッパの人々もこの中に入る。  
 支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%であった。 
 漢人は、金の支配下にあった人々の総称で女真・契丹・高麗・渤海の人々と淮河以北に居住していた漢人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。 
 そして南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。 
 漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。わずか3%の支配階級が97%の漢民族・女真人・契丹人などを支配したのがモンゴル人第一主義である。 
 モンゴル人第一主義のもとでは、重要官職はすべてモンゴル人と色目人が独占したので、従来の官吏任用制である科挙は一時停止された。 中国文化に理解を示した第4代の仁宗の時に復活したが(1313)、 それもモンゴル人・色目人と漢人には別々の試験が課され、しかも試験の難易に差が付けられていて、モンゴル人や色目人に有利になっていた。 
 こうしたなかで、今までの中国社会では人々から尊敬されてきた士大夫階級、特に儒学者は冷遇された。当時の人々の社会的地位を順にあげている記録に「官・吏・僧・道・医・工・匠・娼・儒・丐」をあり、儒学者は9番目におかれ、かろうじて丐(乞食)の上に 置かれる存在であった。 
 支配階級で貴族階級であるモンゴル人の数は極端に少なく、彼らは大土地を所有したが遊牧民族である彼らは中国の農耕社会に根をおろすことはなかった。彼らの所有する大土地は宋代と同様に佃戸によって耕された。よく言われるようにモンゴル人は中国社会に寄生しているに過ぎなかった。 
 世祖フビライ=ハンの死後、孫の成宗(位1294~1307)が継ぎ、世祖の方針を守り、国内・対外的にも平和を維持したが、次の武宗(位1307~11)の時代になるとチベット仏教(ラマ教)信仰による莫大な出費・交鈔(紙幣)の乱発などにより財政が混乱した。 
 チベット仏教(ラマ教)は、フビライがチベット仏教の教主パスパを国師に迎えて保護したので元朝で大いに栄えた。 
 パスパ(1235(39)~80)はチベット仏教(ラマ教)のサキャ派(紅帽派)の教主で、幼時より聡明でパスパ(聖者)と呼ばれた。即位前のフビライの信任を得て授戒し、フビライの即位とともに国師となり、モンゴル帝国内の仏教の統治権を与えられた。 
 またパスパはフビライの命を受けて、チベット文字を基礎とするパスパ文字を考案した(1269年に公布)。パスパ文字は正式の国字となり、公文書に使用されたが、読みにくくまた書きにくかったためにあまり普及しなかった。 
 元朝では、以後チベット仏教(ラマ教)が大いに栄え、ラマ僧は尊崇された。また壮大なラマ教寺院が次々に建立され、豪華な法要が営まれ、そのために莫大な国費が費やされた。 
 宮廷貴族のぜいたくな生活やチベット仏教(ラマ教)の信仰による莫大な出費などにより、元の財政は窮乏した。 
 財政難を切り抜けるために、元朝は塩・茶・酒の専売制を強化し、交鈔を乱発した。交鈔は元の主要通貨となった紙幣で、フビライは交鈔を唯一の通貨とした。フビライの頃は交鈔は銅銭の代用として使用され、銅銭2貫文が銀1両とされ、交鈔の発行高に見合う銀が国庫に用意されていたが、その乱発により銀準備不足に陥り、通貨の価値が暴落し、激しいインフレを引き起こし、物価の上昇は民衆の生活を苦しめた。 
 第4代の仁宗(位1311~20)は中国文化を尊重し、科挙の復活などを行った。次の英宗(位1320~23)は禁軍の強化など皇帝権の強化に努めたが、その急激な改革に反対する勢力によって暗殺された。 
 その後、元朝内部ではハン位の相続争いが続き、一方で財政は窮乏した。そして交鈔の乱発によるインフレは民衆の生活を圧迫し、社会不安が増大した。 
 第11代ハンに順帝(位1333~70)が即位したが、順帝は権臣に政権をゆだね、政治から逃避して逸楽に溺れた。このため国内は乱れ、紅巾の乱(白蓮教徒の乱、1351~66)など反元の反乱が相次いだ。 
 紅巾の乱から身を起こして明(1368~1644)を建国した朱元璋(明の太祖洪武帝)が北上して大都を陥れ、元を滅ぼした(1368)。順帝は、大都から上都へ、さらに応昌に逃れたがそこで病死した。 
 順帝の子、昭宗(位1371~78)は、モンゴル高原に退いて北元(1371~88)を建国したが、その子の時に明の遠征軍に敗れて部下に殺され、北元は2代で滅びた。 
 

 

 
5.

4 モンゴル民族の発展
 
4 交通・貿易の発達
 モンゴル高原や中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族は、古くから中継貿易による利益を重視し、通商路を攻略して支配下に治め、商人の通商の安全を守る代償として商品に課税し利益を得てきた。 
 チンギス=ハンも、モンゴル高原を統一すると、中継貿易の利益に目をつけて中央アジアから西アジアに進出した。 
 モンゴル帝国は、初期から通商路の安全を重視し、その整備や治安の確保に努め、駅伝制を施行した。 
 チンギス=ハンは、遼・金の制度を継承して駅伝制(モンゴル語でジャムチ、站赤)を創設した。駅伝制はオゴタイ=ハンの時代に制度化され、元朝で完備された。 
 元の駅伝制は、大都を中心とする主要道路に沿って、10里ごとに站(たん、駅)を置いて、民戸100戸を站戸とし、官命で旅行する官吏・使節などに人馬・食料を提供させた。 この駅伝制によって帝国内の交通が安全・便利となり、主にムスリム(イスラム教徒)商人の隊商による陸路貿易が盛んとなり、それにともなって東西文化の交流も盛んとなった。 
 またインド洋経由の海上貿易も宋代に引き続いて盛んに行われ、杭州・泉州・広州などの港市が繁栄した。 
 マルコ=ポーロは杭州(臨安)をキンザイと呼び、有名な「世界の記述(東方見聞録)」の中で、キンザイは世界一の都市であると記述している。杭州の当時の人口は約160万人といわれている。 
 また泉州をザイトンと呼び、「ザイトンの港には、あらゆるインド船が入港し、香料その他の高価な商品を運んでくる。そしてマンジ(南宋の旧領)の諸地方の商人もこの港に集まってくる。・・ここからあらゆる商品がマンジ各地に送られていく。キリスト教徒の需要を満たすために、アレクサンドリアその他の港に胡椒船一隻が入港するのに対し、ザイトンの港には百隻、あるいはそれ以上の胡椒船が入ってくると言えよう。この港は世界における二大貿易港の一つである。・・」と記述している。二大貿易港のもう一つがどこかは記述が無く不明だが、彼の故郷のヴェネツィアとの説もある。 
 元の首都大都には、多数の官僚や商人が集まっていたが、この付近では食料が自給できなかったので江南から運ばれた。そのため食料を初めとする江南の物資を華北に運ぶために、隋代以来の大運河を補修するとともに、華北から江南に会通河・済州河・揚州河・江南運河などの新運河が開かれた。 
 またこれとは別に長江下流から山東半島を回って大都に方面に至る海運も発達した。そのため山東半島を南北に縦断する膠莱河も開かれた。 
 貨幣としては、はじめ銅銭・金・銀が用いられたが、やがて交鈔(紙幣)が発行された。この交鈔は多額の取引や輸送に便利であったので、交鈔は元の主要通貨となり、フビライは交鈔を唯一の通貨とした。 
 

 

 
6.

4 モンゴル民族の発展
 
5 東西文化の交流と元代の文化
 モンゴル帝国の成立によってユーラシア大陸の大部分がモンゴル民族の支配下に置かれたこと、モンゴル帝国は駅伝制を整備して通商路の安全の確保に努めたこと、また元朝がモンゴル人第一主義をとり色目人を重用したことなどから、シルクロードを往来する隊商の数は著しく増加し、中央アジア・西アジア・ヨーロッパから多くの商人・宣教師・旅行家などが中国を訪れ、人と物の移動に伴って東西文化の交流も盛んとなった。 
 当時のヨーロッパは十字軍の時代で、またアジアにキリスト教の司祭王がいるという「プレスター=ジョン」伝説が信じられていたので、イスラム教徒を征服したモンゴル帝国に関心を持ち、司祭王を探し出してイスラム教徒を挟撃する目的で教皇やフランス王の使節がモンゴル高原に送られた。 
 イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ=カルピニ(1182頃~1252)は、バトゥのヨーロッパ侵入に驚いた教皇インノケンティウス4世の使節としてカラコルムに派遣された。彼はモンゴル人への布教とモンゴル国内の偵察を目的にフランスのリヨンを出発し(1245)、キエフ・サライ(キプチャク=ハン国の首都)を経てカラコルム付近に至り、教皇の親書を手渡し、返書を得て翌年帰国した。彼の報告書(旅行記)はヨーロッパに初めてモンゴルの実状を伝えたものとして重要な史料となっている。 
 ウィリアム=ルブルック(1220頃~93頃)はフランスのフランチェスコ会修道士で、フランス王ルイ9世の使節としてキリスト教の布教とイスラム教徒に対する十字軍への協力を要請することを目的にカラコルムへ派遣された。彼はコンスタンティノープルを出発し(1253)、南ロシアを経てカラコルムに到着し、モンケ=ハンに会見した(1254)。彼も後に旅行記を著したが、カルピニの旅行記とともに当時のモンゴル・中央アジアを知る貴重な史料となっている。 
 有名なマルコ=ポーロ(1254~1324)は、ヴェネツィアの豪商の子として生まれた。 17歳の時に、フビライの宮廷を訪れて帰国した父と叔父の二度目の旅行に同行して中国へ向けて出発した(1271)。彼らは中央アジアを経て上都(開平)に至り、フビライに謁見し(1275)、やがて大都の宮廷でフビライに仕えることになった。 
 マルコ=ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として各地に赴任し、またフビライの使節として各地を訪れた。彼の中国滞在は17年間に及んだ。望郷の念にかられた彼は帰国の許可を願い出たがなかなか許されなかった。 
 元朝の皇女がイル=ハン国に嫁ぐ際にやっと許されて随行を認められ、ザイトン(泉州)を出航し(1290)、マラッカ海峡・インド洋を経てイランのホルムズに上陸し、イル=ハン国の宮廷にしばらく滞在したのちコンスタンティノープルを経てヴェネツィアに帰国した(1295)。帰国した彼はジェノヴァとの戦いで捕虜となり(1298)翌年釈放されたが、獄中での旅行の見聞談を同囚の友人ルスチアーノが筆録したのが有名な「世界の記述(東方見聞録)」である。 
 「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、「黄金の国ジパング」として紹介されている。その一節に「ジパング(日本)は東海の一島で、大陸或いはマンジ海岸から約1500哩(マイル)のところにある。この島はかなりの大きさで、住民は皮膚の色が美しく、姿がよく、礼儀正しい。宗教は偶像崇拝である。彼らはいかなる外国勢カにも服さず、彼ら自身の王達の支配のみを受けている。黄金が非常に多く、無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないので訪れる商人は僅かしかない。・・・王宮の屋根は凡て黄金の板で葺いてある。・・・広間の床も同じく黄金で、沢山の部屋にはかなりの厚さの純 金のテーブルがあり、窓にも黄金の飾りがついている。・・・この島の富はこれほど有名であつたので,現王フビライ汗の胸中に、この島を征服し領土としようとする欲望がかき立てられた。・・・この島の住民は敵を捕虜にした時、その者が身代金を調達できないと、家に親類や友人を招き、捕虜を殺して料理し、酒宴を開き、人肉ほど美味いものはない と言つて食べる・・・。」とある。 
 イブン=バトゥータ(1304~68/69 あるいは77)はモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出た。メッカに巡礼を終えた彼は、さらにキプチャク=ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、約10年間滞在した。のち中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345)、泉州・広州・杭州・大都(北京)を訪れた後、海路で帰国した(1349)。 
 大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバール=サウマ(ラッバン=ソーマ)(?~1294)は、イェルサレムへの巡礼に出発し、のちイル=ハン国王(イル=ハン国は初めネストリウス派キリスト教を保護した)の使節としてローマ・パリを訪れ、教皇やフランス王に謁見した。その時教皇に西ヨーロッパキリスト教徒とモンゴル人との提携を説き、教皇がモンテ=コルヴィノを大都に派遣するきっかけをつくった。 
 モンテ=コルヴィノ(1247~1328)はイタリア人のフランチェスコ会修道士で、教皇の命を受けてイル=ハン国を経て海路中国へ向かい、泉州を経て大都に着いた(1294)。のち教皇から大都教区大司教に任命され(1307)、30余年間にわたって大都で布教に従事したが、大都で病没した。 
 中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と呼ばれたが、ネストリウス派キリスト教はヨーロッパでは異端とされたキリスト教であるので、西ヨーロッパで信仰されていたローマ=カトリック教が中国に伝わったのはこの時が初めてである。 
 元朝が優遇した色目人にはイスラム教徒が多かったので、中国でもイスラム教が次第に広まり、天文学・数学などを中心とするイスラム文化が中国に伝えられた。 
 郭守敬(1231~1316)は、フビライに仕えて多くの水利事業を行ったが、従来の暦が不正確になり、暦法の改革の事業が行われるとこれに参加し、多くの観測機械を製作して精密な観測を行い、授時暦を制定した(1280)。 
 授時暦はイスラムの天文学に基づいて作られた暦で、1年を365.2425日とする太陰暦である。日本にも影響を及ぼし、江戸時代に作られた貞享暦(じょうきょうれき)はこの授時暦を基礎として作られた暦で1685年から1872(明治5年)まで使用された。 
 またイラン・インドには、モンゴルの進出によって中国絵画が伝えられ、その影響を受けてミニアチュール(細密画)が盛んとなった。 
 モンゴル人は中国を征服する前から西方の高度なイスラム文化に接していたので、中国文化にはコンプレックスを持たず、中国固有の学問・思想には関心を示さなかったので儒学は不振をきわめた。その一方でモンゴル人に理解されやすかった戯曲・小説を中心とする庶民文化は宋代に引き続いて発達した。 
 元の庶民文化を代表するのが、元曲(雑劇)である。宋代から盛んとなった雑劇は、元代に形式も整い元曲として大いに栄え、「漢文・唐詩・宋詞・元曲」と呼ばれ、中国文化史の上で重要な地位を占めている。 
 元曲は、琵琶・琴・三弦などの楽器に合わせて俳優が演じ・歌い・語る古典劇で、せりふは全て口語であったので庶民に愛好された。現在約300の脚本が残っている。代表的な作品としては「西廂記」・「琵琶記」・「漢宮秋」などがある。 
 「西廂記」は、愛する男女が上流階級の封建的なしきたりのために離ればなれになるが最後は結ばれるという恋愛物語である。 
 「琵琶記」は、主人公が妻を残して科挙の受験のために都に出て行き、優秀な成績で合格し、宰相に見込まれて娘と結婚し、出世して幸せな生活を送っていた。田舎に残された妻は貞節を守り、夫の母を養いながら待つが飢饉で母が亡くなったので夫を捜すために都に出ていく。上京してみると夫は栄華を極めていて近寄ることもできなかったが、苦難の末に夫と再会して幸せに暮らすという作品である。 
 「漢宮秋」は、前漢の元帝の宮女・王昭君が匈奴との和親政策のために、呼韓邪単于に嫁せられ、その地で亡くなったという哀話を劇化した作品である。 
 また中国の四大奇書のうち、「三国志演義」・「水滸伝」の原形が出来たのも元代である。小説は、宋代から流行するようになった講釈が口語による文章として書かれ、庶民の間に広まっていった。「三国志演義」を読んでみても、もともと講釈師によって語られていたものであることがその形式に残っている。 
 モンゴル人は、公用語としてはモンゴル語を用い、公文書はウイグル文字やパスパによって作成されたチベット文字を基礎とするパスパ文字が使用された。 
 

 

 
7.

4 モンゴル民族の発展
 
6 隣接諸国の変遷
 王建(877~943、高麗の太祖(位918~943)は、新羅末期におこった反乱軍の指導者弓裔(きゅうえい)の部将として頭角を現し、弓裔が人望を失うと諸将に擁立されて王位につき、高麗(918~1392)を建国し、都を自分の出身地である開城に置いた。 
 王建は、新羅の諸制度を受け継いで支配体制を整える一方、国内の諸勢力を抑えて統一を達成した(936)。彼は新羅の貴族・地方豪族を迎え入れるとともに、自分は高句麗の子孫であるとの意識を持ち、渤海が契丹に滅ぼされると(926)、渤海の遺民を積極的に受け入れて中央集権体制の確立に努めた。 
 6代目の成宗(位981~997)は、唐・宋の制度にならって官制を整備し、中央集権体制を確立した。以後、12世紀前半まで高麗は全盛期を迎えた。しかし、その頃から特権官僚の族党間の抗争が激化するなかで、武人が台頭し、12世紀末には崔氏の武人政権が成立した。 
 13世紀に入ると、モンゴルの侵入を受け、高麗は江華島に逃れて抵抗したが、崔氏の政権没落後、元に降伏してその属国となった(1259)。フビライの日本遠征の基地となって軍船の建造などに苦しめられた。さらに14世紀になると、今度は倭寇の侵入に苦しめられ、国力がさらに衰退する中で、武将の李成桂(李朝の太祖)に国を奪われ、高麗は34代・475年で滅びた、 
 高麗では、仏教が国家の保護を受けて盛んで、「高麗版大蔵経」が2回刊行された。2回目は高宗(位1213~1259)の時代に、モンゴルの侵略下で仏の加護を祈って行われた。 
 高宗の時代に、世界最古の金属活字が発明されたといわれている。 
 また高麗では、宋から学んだ製陶技術が発達し、美しい高麗青磁が作られ、多くの優れた作品が生み出された。 
 ヴェトナムは唐末・五代の時期に、それまでの1000年にわたる中国支配から独立し、いわゆる初期三王朝が成立した。呉権は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立して王を称し、呉朝を建て(939)、丁部領(ディンボーリン)が丁朝(968~980)を、黎桓(れいかん)が前黎(れい)朝(980~1008)を建てたがそれぞれ短命に終わった。この呉朝・丁朝・前黎朝を総称してヴェトナムの初期三王朝と呼ぶ。 
 この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、位1010~1028)によって、ヴェトナム最初の本格的な統一王朝である李朝大越国(1010~1225)が建国された。 
 李朝は、中国にならって中央官制・軍制を整備し、また科挙を取り入れて中央集権国家の樹立をめざした。李朝では儒学が重視されたが、仏教も盛んだった。李朝は宋軍の侵入を撃退し(1075)、さらに南方のチャンパーに侵略して領土の拡大をはかるなど国力が充実し繁栄したが、7代高宗(位1175~1210)の頃から国内が乱れて衰退に向かい、陳朝によって滅ぼされた(1225)。 
 陳けい(位1225~1258)は、李朝最後の女帝から譲位されて陳朝(1225~1400)を建てた。陳朝も国内諸制度・科挙を整備し、中央集権体制を強化した。 
 陳朝はヴェトナム人の民族意識が高揚した時期といわれている。ヴェトナムの歴史の編纂が行われ、字喃(じなん、チュノム)と呼ばれる漢字を利用して作られたヴェトナム固有の文字が作られ、広く使用された。  
 13世紀には、フビライの三度にわたる侵入(1257、84、87)を撃退し、南方のチャンパーに侵略するなど国力が充実した。しかし、1400年に権臣に王位を奪われて滅びた。 
 陳朝の滅亡後、明の永楽帝に征服され、ヴェトナムは再び中国の支配下に置かれた(1400~28)。 
 雲南では、10世紀に南詔国(?~902)に替わって、タイ人が大理国(937~1254)を建国したが、フビライに征服されて滅びた。  
 

 

 
8.

第6章 イスラム世界の形成と発展
7.イスラム帝国の成立

1 イスラム帝国の成立
 
1 ムハンマドとイスラム教
 イスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット、570頃~632)は、日本の聖徳太子・中国の煬帝とほぼ同時代にアラビア半島のメッカに生まれ、40歳頃神の啓示を受けてイスラム教を創始した。 
 イスラム教は、キリスト教(約19億人)・仏教(約3億人)と並ぶ世界の三大宗教で、今日、西アジア・アフリカを中心に約11億人の人々に信仰されている。  
 ムハンマドの生まれたアラビア半島のメッカは、当時国際的な中継貿易都市として繁栄していた。アラビア半島は大部分が砂漠で、セム系のアラブ人は古くからオアシスを中心に遊牧や農業そして隊商(キャラバン)による商業活動を営んでいた。 
 アラビア半島はこれまでの歴史の中ではあまり注目されることはなかった。かってのアケメネス朝ペルシアやローマ帝国のような大帝国の領域もこの半島に及ぶことはなく、世界史の主流からはずれていた。 
 そのアラビア半島が脚光をあびるようになるのは、6世紀頃からである。この頃、ササン朝ペルシアのホスロー1世(位531~579)とビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝(位527~565)がメソポタミアをめぐって激しく争ったために、この地域を通る従来のシルク・ロードは危険となり、商人たちが危険なルートを避けたためシルク・ロードは衰えていった。またビザンツ帝国の国力低下とともに紅海貿易も衰えたため、アラビア半島の西海岸を経由してシリアに至る中継貿易路が繁栄するようになった。この国際的な中継貿易を独占して莫大な利益を得ていたのがメッカの大商人たちであった。 
 ムハンマドは、このメッカのクライシュ族の名門ハーシム家に生まれた。クライシュ族は、古くからメッカの東方で遊牧をしていたが、5世紀にメッカを征服してここに定住し、中継貿易に従事するようになり、シリア・エジプトとの貿易を独占した。クライシュ族の多くの氏族の中で、特にハーシム家とウマイヤ家が有力であった。 
 ムハンマドは、幼くして両親と死別し、祖父・伯父に養育された。やがて隊商に従事して、アラビア半島・シリアなどを旅する中で見聞を広め、ユダヤ教やキリスト教にも接した。25歳頃、メッカの大商人の未亡人ハディージャと結婚し、裕福な生活に入ったが、当時のメッカにおける貧富の差の増大などに心を痛め、メッカ郊外の山の洞窟で瞑想に耽ることが多くなった。そして40歳頃(610年頃)、天使ガブリエルから「起きて警告せよ」とのアッラーの啓示を受け、やがて預言者(神の言葉を人々に伝える使徒)であると自覚し、唯一神アッラーへの絶対帰依(イスラム)を説き、布教を始めた。 
 彼はメッカの一部の大商人達による富の独占を批判し、「アッラーの前に人間は平等である」と説いたので、メッカの下層民の間に信者を得ていった。そのためメッカの特権階級である大商人達から迫害を受けるようになった。 
 622年、ムハンマドは少数の信者達とともにメッカを脱出し、ムハンマドの支持者が多かったメディナ(元はヤスリブと呼ばれた)に逃れた。この出来事はヒジュラ(ヘジラ、聖遷)と呼ばれ、イスラム暦の紀元元年とされる。 
 イスラム暦はヒジュラの年の年初(西暦622年7月16日)を紀元元年とする太陰暦である。太陰暦で1年が354日であるために太陽暦の西暦とはずれが生じる。昨年の1999年4月17日がイスラム暦の1419年1月1日となっている。 
 メディナへの移住後、ムハンマドに率いられたムスリム(イスラム教徒を意味するアラビア語、アッラーに身を捧げた者の意味)の共同体であるウンマ(イスラム教団)が成立し、それを背景にムハンマドはメディナの支配者となり、敵対者と戦い、周辺の各部族にイスラム教を布教していった。 
 そして630年1月には1万人の軍勢を率いて、かって彼を追放したメッカを包囲し、無血占領した。そこで今まで多神教の神殿であったカーバ神殿の偶像を破壊し、以後イスラム教の聖堂とした。カーバ神殿はメッカの大モスク(イスラム教の寺院)の中央にあり、石造で高さ15メートルの立方体の建物である。コーランの言葉を刺繍した黒い布で覆われている。東隅の壁の下に神聖視された黒石がはめ込まれている。イスラム暦の12月には世界中から多くの巡礼者が集まる。 
 その後、アラビア半島の諸部族はムハンマドの支配下に入り、彼が亡くなる632年までにアラビア半島はほぼ統一された。ムハンマドは632年に「別れの巡礼」(メッカへの巡礼)を行った直後に病に陥り、メディナで没し、その地に葬られた。 
 イスラム教は、唯一神アッラーへの絶対的服従(イスラム)を教義の中心とする宗教である。聖典の「コーラン」は、ムハンマドに下されたアッラーの啓示を記録したもので、114章から成る。第3代カリフのウスマーンの時代、650年頃に現在の形にまとめられ、アラビア語で書かれている。 
 イスラム教徒は、六信(イスラム教徒が信ずべきこと)を信じ、五行(イスラム教徒が行うべきこと、義務)を実行し、その他イスラム法によって規定されている様々な禁忌(ハラム)を守らねばならない。 
 六信とは、(1)アッラーは唯一絶対の神であり、万物の創造者であること、(2)天使がアッラーと人間の世界との間に存在し、両方の世界を媒介していること、(3)聖典の「コーラン」が最も純粋に神の言葉を示していること、(4)ムハンマドは預言者であること。アッラーはムハンマド以前にもモーセ・ダヴィデ・イエスなどの預言者をこの世に送ったが、ムハンマドは最後にして最大の預言者であること、(5)最後の審判により、人々は生前の善行・悪行の多少によって天国と地獄にわけられること、(6)天命、神の意志は人間の意志・行為を通じて現れる。人間の全ての行為はアッラーが創造したものであること、以上6つのことを信ずることである。 
 五行とは(1)信仰告白(2)礼拝(3)断食(4)喜捨(5)巡礼の5つの義務を実行することである。 
 (1)信仰告白は「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはその使徒である」という言葉を唱えることである。 
 (2)礼拝は、1日に5回、どこにいてもメッカのカーバ神殿に向かって礼拝を行うことである。1回目は日の出前、以後正午、日没前、日没後そして寝る前の5回である。一度の礼拝は短い人でも10分位、長い人は1時間以上に及ぶという。 
 (3)断食は、イスラム暦の9月(ラマダーン)に1ヶ月間、日の出から日没まで一切の飲食を断つことである。 イスラム暦は太陰暦で1年が354日であるため、年によっては真夏・真冬に当たることもある。特に真夏の断食は大変な苦行であると思う。 ラマダーン明けには盛大な祭りが行われる。但し、病人・妊婦・幼児・老人など弱い人には免除される。 
 (4)喜捨(ザカート)とは、貧しい人々への施しをいう。農作物・家畜・商品・貨幣などの一定額を自発的に差し出すことで、その用途は貧しい人々の扶助に限られている。後には税の形を取るようになり、救貧税の性格を持つようになる。 
 (5)巡礼は、一生のうち一度はメッカのカーバ神殿に巡礼することである。 
 この他、成年男子にはジハード(聖戦、異教徒に対するイスラム教の拡大または防衛の戦い)に参加する義務が課せられている。 
 以上の六信・五行の他に、イスラム法によって日常生活に様々な禁忌が規定されている。 
 飲酒の禁止、汚れた動物とされる豚肉を食べることは禁止、また定められた方法以外で処理された肉を食べることも禁止されている。利子を取ることも禁止されている、イスラムの銀行に預金しても利子は付かない。男は4人まで妻を持つことができる、但し4人を平等に愛することが条件である。女は夫以外の男性に顔や肌を見せてはいけない、そのためにチャドルを着用する。左手は不浄とされているので食事や物の受け渡しに使わないなどがよく知られている。 
 イスラム教は、このように単に信仰の面だけでなく、社会生活全般にわたってムスリムの日常生活と密接に結びついていることが大きな特色である。 
 

 

 
7.

1 イスラム帝国の成立
 
2 アラブ人の征服
 ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリフを選出した。カリフは代理人・後継者の意味で、アブー=バクルが教団の指導者に選ばれたとき、この称号を用い、以後イスラム教徒全体の政治的首長の称号となった。 
 初代カリフに選ばれたアブー=バクル(位632~634)はムハンマドの親友で、早くから彼に従い、片腕として迫害に耐え、メディナに移ってからも教団の長老として重きをなしていた。 彼の娘がムハンマドの妻の一人になっていたので義父にあたる。 初代カリフに選ばれるとアラブ人の団結に力を注ぎ、各地に遠征軍を送り、後の発展の基礎を築いた。 
 アブー=バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル(位634~644)が就いた。ウマルは、初めはムハンマドを迫害する側にあったが、回心して熱心なイスラム信者となり、教団の重鎮となった。カリフに就任すると大規模な征服戦争(ジハード、聖戦)を継続し、シリア(635)・エジプト(642)をビザンツ帝国から奪い、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破り、これを事実上滅亡に追いやり、イラク・イランを征服して大帝国を形成した。征服地から租税の徴収を始めたり、イスラム暦を採用したのもウマルである。しかし、最後はイラン人奴隷に暗殺された。 
 第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマーン)(位644~656)が選出された。彼もムハンマドの教友で彼の娘と結婚した。敬虔なイスラム信者であったウスマーンは「コーラン」を現在の形にまとめさせたことで知られている。彼も征服事業をさらに進めたが、ウマイヤ家の者を重用したために反対派に暗殺された。 
 第4代カリフに選出されたのがアリー(位656~661)である。ムハンマドは最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけたが、男子はすべて早世し、ムハンマドの晩年までただ一人残った娘ファーティマの夫となったのが、ムハンマドの従兄弟であったアリーであった。アリーはハディージャに次いで2番目に入信したといわれ、ムハンマドから厚い信頼を受けていた。 
 アリーは、第4代カリフに選出されたが、当時シリア総督であった実力者のムアーウィア(?~680)は、第3代カリフのウスマーン(ムアーウィアの伯父)の暗殺にアリーが関係しているとして対立し、内乱を起こした。両者は戦いの後、いったんは休戦したが、講和に反対するハワーリジュ派の刺客によってアリーはクーファで暗殺された(661)。 
 ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマイヤ朝(661~750)を創始した。 
 初代のアブー=バクルから4代のアリーまでは、ムスリムの選挙で選ばれたので、この時代を正統カリフ時代(632~661)という。 
 暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウマイヤ朝のカリフを認めず、ムハンマドの娘ファーティマと結婚したアリーとアリーの子孫だけがイスラムの最高指導者(イマーム)となる資格があるとするシーア派を形成していく。 
 シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占めている。アリーの息子がササン朝ペルシア(イラン人が建てた王朝)の王の娘と結婚したためイラン人の間に広まり、現在のイラン=イスラム共和国の国教となっている。 
 これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占めているのがスンナ(スンニ)派である。スンナ派はウマイヤ朝のカリフを含めて代々のカリフを正統と認める立場を取っている。 
 正統カリフ時代に、シリア・エジプト・イランを征服し、東は中央アジアから西は北アフリカ中央部にまたがる大帝国が形成されると、多くのアラブ人は征服地に移住した。今日のエジプトは9割以上がアラブ人で占められている。 
 ウマイヤ朝を創設したムアウィア(?~680、位661~680)は、クライシュ族の名門ウマイヤ家に生まれた。彼の父はムハンマドを迫害する有力者の1人であったが、ムアウィアはムハンマドがメッカを征服するとイスラム教に帰依し、シリア征服に軍功をあげてシリア総督となり、ダマスクスを中心に勢力を伸ばした。第3代カリフのウスマーン(ムアウィアの伯父)が暗殺され、アリーが第4代カリフとなると、アリーがウスマーン暗殺に関係していると主張し、アリーと対立・抗争した。そしてアリーが暗殺されると、アリーの子にカリフ継承権を放棄させて、カリフとなり、都をメディアからダマスクスに遷して、ウマイヤ朝を開いた。以後、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲し、ウマイヤ朝は14代続くことになる。 
 ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(位705~715)の時に、東は中央アジア・西北インドまで西は北アフリカの西まで征服した。さらにイベリア半島に進出してゲルマン人の国家である西ゴート王国を滅ぼし(711)、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国を建設し、ウマイヤ朝の最盛期を築いた。 
 イスラム軍は、その後フランク王国に侵入したが、732年にトゥール=ポワティエ間の戦いでカール=マルテルの率いるフランク軍に敗れ、ピレネー山脈の南に退いた。 
 ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、アラブ人を支配者として、彼らに多くの特権を与えた。そして征服地の先住民にだけジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課し、彼らがイスラム教に改宗しても免除されなかった。 
 ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒(彼らは啓典の民と呼ばれ、他の異教徒とは区別された)に課して、そのかわりに信仰の維持を認めたが、正統カリフ時代には征服地の異教徒に拡大された。自由身分の成年男子に課し、貨幣で徴収した。 
 ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初に徴収した。アラブの征服が農耕地帯に拡大するにつれて、国庫収入の大部分を占めるようになった。最初は土地面積に応じて一定額を徴収していたが、8世紀末から実際の収穫の半分を徴収するようになった。貨幣または現物、およびその併用で徴収された。 
 正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配者として特権を持ち、被征服民を差別して支配したので、この大帝国はアラブ帝国とも呼ばれる。 
 14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に滅ぼされた。 
 

 

 
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1 イスラム帝国の成立
 
3 イスラム帝国
 ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、征服地の非アラブ系改宗者(マワーリー)を差別したので、彼らは”アッラーの前に平等である”と説く「コーラン」の教えに反するとしてウマイヤ朝の政策に不満を抱いた。特にシーア派を信仰するイラン人がその中心であった。またアラブ人の中にもウマイヤ朝の政策を批判する者が出てきた。 
 こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イラン人の協力を得て、ウマイヤ朝を打倒し、アッバース朝(750~1258)を開いたのが、アブー=アルアッバース(サッファーフ(カリフ名)、732頃~754、位750~754)である。 
 アブー=アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバースの曾孫で、父の反ウマイヤ運動を引き継いで、サラサーン(イラン東部)で挙兵し、イラクに進出してクーファでカリフに推戴され(749)、翌年の戦いでウマイヤ勢力を掃討し、750年にアッバース朝を開いた。 
 激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家の人々を皆殺しにし、またアッバース朝の樹立に協力してきたシーア派の人々を殺戮し、スンニ派を採用し、自分の近親者で政権を固め、中央集権化をはかった。 
 アッバース朝が成立した翌年(751)に、イスラム軍は中央アジアのタラス河畔で高仙芝(?~755、高句麗出身で唐に仕えた武将)の率いる唐軍と戦ってこれを撃破した。有名なタラス河畔の戦いである(751)。この戦いは当時の世界二大強国の激突でもあり、特にこの時イスラムの捕虜となった唐兵の中に紙すき工がいたことから、製紙法が西方へ伝播するきっかけとなった戦いとして有名である。8世紀以後、バグダードで製紙業が盛んとなり、製紙法は北アフリカを経て12世紀には西ヨーロッパに伝播することになる。 
 兄サッファーフの後を継いで第2代カリフとなったのがマンスール(位754~775)である。マンスールはアッバース朝の中で最も傑出したカリフの一人と言われ、円形都市として有名な新首都バグダードを建設し(762~766)、またササン朝の制度を採用し、イラン人を多く起用して国政の整備を行い、文化面にも力を注いだ。 
 第5代カリフのハールーン=アッラシード(763頃~809、位786~809)は、第3代カリフと奴隷出身の母との間に生まれ、異母兄が暗殺されたあとカリフの位に就いた。 
 ハールーン=アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君主とされ、彼の時代にアッバース朝は黄金時代を迎えた。 
 彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈り物を交換したと言われている。しばしば小アジア遠征を行い、ビザンツ帝国を圧迫した。 
 この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄した。最盛期の人口は100万人を超えた(150万人、200万人と書いている本もある)。このバグダードの繁栄ぶりは、有名な「アラビアン=ナイト(千夜一夜物語)」に描かれている。 
 ハールーン=アッラシードはこの「アラビアン=ナイト」に度々登場することでも有名である。しかし、彼は中央アジアの反乱鎮圧に向かう途中にトゥーズで病没した。 
 ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバース朝も、彼の死後まもなく帝国内の各地で自立の動きが盛んとなり、エジプトやイランには独立王朝が次々に成立し、アッバース朝は次第に衰退していく。 
 アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基づいて政治を行い、官僚制を整備し、中央集権化を進めた。 
 アッバース朝のもとで、ウマイヤ朝時代のアラブ第一主義は改められ、イスラム教徒は神の前に平等であるとの原則が確立され、民族による差別が撤廃され、宰相にもイラン人を中心とするマワーリー(新改宗者)が採用されるようになった。 
 またアラブ人の特権は次第に廃止され、イスラム教徒であれば、アラブ人以外の人でもジズヤ(人頭税)は課せられなくなり、一方アラブ人でも征服地に土地を所有する場合にはハラージュ(地租)が課せられるようになった。 
 ウマイヤ朝までの「アラブ帝国」から、真の意味での「イスラム帝国」への変質がアッバース朝によって実現された。   
 

 

 
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1 イスラム帝国の成立
 
4 イスラム帝国の分裂
 アッバース朝の成立はイスラム世界の分裂の第一歩となった。 
 アッバース朝の創始者であるアブー=アルアッバースはウマイヤ家一族の大虐殺を行い、東方世界ではウマイヤ家の血統は絶えたが、この時ウマイヤ朝第10代カリフの孫であったアブド=アッラフマーン(731~788、位756~788)は、かろうじてこの大虐殺を逃れ、シリアからモロッコまでの劇的な逃避行の後、ウマイヤ朝の旧臣の支持のもとでスペイン上陸を敢行し(755)、アッバース軍を倒して、コルドバに入城し、翌756年にウマイヤを再興した。この王朝は後ウマイヤ朝(756~1031)と呼ばれる。 
 後ウマイヤ朝の第8代のアブド=アッラフマーン3世(位912~961)は、名君として名高く、926年に初めてカリフを称し、アッバース朝・ファーティマ朝に対抗する西カリフとして後ウマイヤ朝の最盛期を現出した。 
 首都コルドバは、人口30万人に達し、西方イスラム世界の政治・経済・文化及び世界商業の一大中心地として繁栄した。 
 後ウマイヤ朝の成立により、イスラム世界は東方のアッバース朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝に分裂したが、アッバース朝が黄金期を築いたハールーン=アッラシードの死後(809)、次第に衰退すると、帝国内で各民族の自立の動きが活発となり、アッバース朝は分裂状態に陥っていく。 
 9世紀後半には、エジプトのトゥールン朝や中央アジアでサーマン朝が自立し、10世紀初めにはチュニジアで過激シーア派のイスマーイール派がファーティマ朝(909~1171)を建国した。ファーティマはアリーと結婚したムハンマドの娘の名である。 
 ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服して、カイロ市を建設し、ここに都を置いた。 
 ファーティマ朝の創始者は、建国の当初からカリフを称し、アッバース朝や後ウマイヤ朝に対抗した。後ウマイヤ朝の君主もファーティマ朝のカリフに対抗してカリフを称したので、10世紀のイスラム世界には3人のカリフが並立することになった。そのため、アッバース朝は東カリフ国、ファーティマ朝は中カリフ国、後ウマイヤ朝は西カリフ国とも呼ばれる。 
 ファーティマ朝より少し遅れて、イランではシーア派の軍事政権が成立した。ブワイフ朝(932~1055)である。シーア派のアブー=ジュジャー=ブワイがサーマン朝(875~999)から自立して、イランの要地を領有した。 
 その子の時にバグダードに入り(946)、アッバース朝のカリフから大将軍(アミール=ル=ウマラー)の称号を受け、イスラム法を施行する権限を与えられ、イスラム世界の実権を握った。そのためアッバース朝のカリフは名目的な存在となり、イスラム世界の分裂は益々激しくなっていった。 
 ブワイフ朝は100年あまり続いたが、11世紀の半ばにセルジューク朝(セルジューク=トルコ)に滅ぼされた。   
 

 

 
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8.イスラム世界の発展

2 イスラム世界の発展
 
1 東方イスラム世界
 アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン=アッラシードの死後(809)、エジプトやイランで独立の動きが強まり、次第に分裂状態に陥っていった。 
 イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)でアッバース朝の将軍であったターヒルがホラサーン(イラン東部)で自立し、ターヒル朝(821~873)を建国したが、サッファール朝(867~903)に滅ぼされた。サッファール朝は、イラン人ライスが創建し、3代続き、一時はイラン各地を支配しバグダードに迫ったが、後にサーマン朝に滅ぼされた。 
 サーマン朝(875~999)は、中央アジア最初のイラン系イスラム王朝で、ナスルがアッバース朝から独立し、その後サッファール朝を滅ぼしてブハラ(現ウズベキスタン共和国、アム川北岸の都市)に都した。最盛期には中央アジアからイラン東部までを領有し、ブハラ・サマルカンド等の商業都市が発展したが、10世紀末にトルコ系のカラハン朝に滅ぼされた。 
 カラハン朝(10世紀中頃~12世紀中頃)は、中央アジア最初のトルコ系イスラム王朝で、10世紀にカシュガル方面から興り、ベラサグンに都して、次第に勢力を伸ばし、960年頃にイスラム教に改宗した。サーマン朝を滅ぼして(999)、東西トルキスタン(中央アジア)を領有する大帝国となり、東西トルキスタンのイスラム化を促進した。しかし、1008年にガズナ朝に大敗し、パミール高原を中心に東西に分裂し(1047)、カシュガルの東カラハン朝は1132年に西遼(カラキタイ)に、そしてサマルカンドの西カラハン朝はホラズムに滅ぼされた。 
 北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトルコ人は、古くは匈奴・柔然に服属していたが、6世紀中頃から台頭し、柔然を滅ぼして東は蒙古高原から西は中央アジアにまたがる大突厥帝国を建国した。しかし、内紛によって583年に東西に分裂し、東突厥はウイグルに滅ぼされた。 
 ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し(840)、ウイグルは四散した。この時多くのウイグル人がモンゴル高原からタリム盆地に移住し、その結果中央アジアのトルコ化が急速に進み、以後中央アジアはペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれるようになった。ウイグル人は現在もこの辺り(中華人民共和国の新疆ウイグル自治区)に多く住んでいる。 
 中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れていたので、奴隷・傭兵としてイスラム世界に進出していく。トルコ人とイスラムとの出会いはアッバース朝が、9世紀にマムルークと呼ばれるトルコ人の奴隷兵で親衛隊を組織したのが初めてであった。 
 マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ人・スラヴ人・ギリシア人・クルド人などの戦争捕虜や購入奴隷が中心であった。なかでもトルコ人のマムルークはアッバース朝以後次第にイスラム各王朝の軍事力の中心となり、以後のイスラム世界で軍事・政治の面で大きな力を持つことになる。 
 グッズ=トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族長のセルジュークに率いられてキルギス草原からシル川(天山山脈に発し、アラル海に注ぐ中央アジアの大河)下流に移住し、セルジュークの孫のトゥグリル=ベク(993頃~1063、位1038~63)のもとでセルジューク朝(セルジューク=トルコ)(1038~1194)を建国した。 
 トゥグリル=ベクは、シル川下流域で自立し、1038年にガズナ朝を破ってアフガニスタンに追い返してホラサーン地方(イラン東部)を獲得し、さらにイラン本土に進出し、レイに都した。1055年、アッバース朝のカリフの招きでバグダードに入城し、シーア派のブワイフ朝を倒し、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得て、スンナ派政権を樹立した。 
 スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉で、カリフに代わってイスラム世界の世俗的(軍事・政治)支配権を握った専制君主の称号として、20世紀の初めまで使われることになる。このためアッバース朝のカリフは以後宗教的な権威を保つに過ぎなくなり、政治・軍事の実権を失っていく。 
 トゥグリル=ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大な領域を支配下に置き、東方イスラム世界を統一して、ビザンツ帝国と抗争した。このセルジューク朝の小アジア進出が十字軍の原因となった。 
 大セルジューク朝(本家のセルジューク朝をこう呼ぶ、1038~1157)の最盛期は、3代のマリク=シャー(位1072~92)の時代で、彼はイラン人宰相のニザーム=アル=ムルク(1092没)の補佐のもと、政治・文化の黄金時代を現出した。イクター制が整備されたのもこの王の時である。 
 イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に西アジアで広く施行されるようになった土地制度である。イクターは国家から授与された分与地、あるいはその分与地での徴税権を意味する。ブワイフ朝では功臣や兵士などに国庫から現金で俸給を支払う代わりに、各人の俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与え、農民や商人から直接徴税させた。セルジューク朝では分与地での徴税権を与えることは同様であったが、イクター保有者にその収入で兵士を養い、戦時にはこれらの兵士を率いて参戦する軍事奉仕を義務化した。そしてニザーム=アル=ムルクが兵士に忠誠を尽くさせるために世襲的領地の分与を制度化したので、イクターは以後世襲化されるようになった。 
 セルジューク朝はマリク=シャーの死後、内紛によって大セルジューク朝の他に、各地の分家である小アジアのルーム=セルジューク朝(1077~1308)をはじめシリア・イラクのセルジューク朝など4つの小王朝が分立して、分裂状態に陥った。イラク=セルジューク朝(1117~94)がホラズム朝に滅ぼされた1194年をもってセルジューク朝の滅亡としている。 
 ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、1077~1231)は、ガズナ朝のトルコ系奴隷でホラズムの知事であったアヌーシュ=テギンが、セルジューク朝によってホラズム太守に任じられて、アム川下流域で独立して建てた国である。その子の時にホラズム=シャー(シャーはイラン語で「王」を意味する語)を称し(1097)、セルジューク朝からイランを奪い、やがてイラン全土を領有した。後に西遼(カラキタイ)を撃破し、イランから中央アジアにまたがる大帝国となった。第6代のアラー=ウッディーン=ムハンマド(位1200~20)はゴール朝を滅ぼして(1215)アフガニスタンを奪ったが、その直後にチンギス=ハンに討たれ(1220)、ホラズム朝は事実上崩壊した。その子はさらにモンゴルに対する抗戦を続けたが、1231年に完全に滅亡した。 
 イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受け、やがてその支配下に置かれた。 
 チンギス=ハンの孫のフラグ=ハン(1218~65)に率いられたモンゴル軍は1258年にバグダードを陥れ、アッバース朝最後のカリフであるムスターシムを殺し、約500年間続いてきたアッバース朝をついに滅ぼした。 
 フラグ=ハン(位1258~65)はイラン・イラクを征服してイル=ハン国(1258~1353)を開いた。イル=ハン国は初めネストリウス派のキリスト教を保護し、イスラム教徒を圧迫したが、英主として名高い第7代のガザン=ハン(位1295~1304)は、1万人のモンゴル兵とともにイスラム教に改宗し、イスラム教を国教とした。また彼は学芸・文化を保護し、イル=ハン国の最盛期を現出した。 
 

 

 
2.

2 イスラム世界の発展
 
2 カイロの繁栄
 ファーティマ朝(909~1171)は過激シーア派の一分派のイスマイル派がチュニジアに建国した国で、創始者のオバイドゥッラー(位909~934)はムハンマドの娘ファーティマの子孫と称し、アル=マフディー(マフディーは「救世主」の意味)と称した。また彼は即位当初よりカリフを称したので、ファーティマ朝は唯一のシーア派王朝として、東のアッバース朝及び西の後ウマイヤ朝と対立した。 
 ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を建設し、ここに都を移した(973)。さらにシリアに進出し、地中海・北アフリカ貿易を独占して栄えたが、やがてアイユーブ朝に滅ぼされた。 
 アイユーブ朝(1169~1250、アイユーブはサラディンの父の名に由来する)の創始者は有名なサラディン(サラーフ=アッディーン、1138~93、位1169~93)である。 
 サラディンは、トルコ・イラク・イランにまたがって居住する剽悍な少数民族であるクルド人出身である。クルド人はスンナ派のイスラム教徒で、トルコでは山岳トルコ族とも呼ばれている。サラディンはイラクに生まれ、初めアレッポ(北シリアの都市)のザンギー朝に仕えた。後にエジプトに入り、ファーティマ朝に仕えて宰相となり、ファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を開いた。 
 サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、エジプト・シリア・イラクに領土を拡大し、イスラム勢力を結集して十字軍を破り、イェルサレム王国から聖地イェルサレムを奪回した(1187)。このため第3回十字軍の遠征(1189~92)が起こされたが、サラディンはイギリス王リチャード1世の軍と戦い、聖地イェルサレムを守り抜いて休戦条約を結んだ。この時のリチャード1世との勇猛な戦いぶりからサラディンはイスラム教徒の間で英雄視されているだけでなく、サラディンの武勇や寛容さは当時のヨーロッパ人にも大きな感銘を与え、彼の名声はヨーロッパにも広まった。 
 しかしサラディンの死後(1193)、広大な領土は諸子に分割され、エジプトのアイユーブ朝はマムルーク朝に、西アジアの各家はモンゴルに滅ぼされた。  
 マムルーク朝(1250~1517)は、エジプトのアイユーブ朝の親衛隊長であったアイバク(?~1257、位1250~57)によって建てられた。 
 アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユーブ朝に仕えてスルタンの親衛隊長となり、7代スルタンの死後、その妃シャジャル=アッドゥッル(宮廷女奴隷出身)を擁立し、またその夫となって実権を握り、マムルーク朝を創始した。エジプト・シリアを平定し、権力の独占を図り、王妃にその意志を見抜かれて入浴中に暗殺された。 
 第5代スルタンとなったバイバルス(位1260~77)は南ロシア生まれのトルコ人で戦乱のため奴隷となって各地を転々とし、後にアイユーブ朝に仕え、スルタンの親衛隊長となり、第6回十字軍のフランス王ルイ9世と戦ってルイ9世を捕虜とし、またシリアでイル=ハン国軍の侵入を撃退して頭角を現した。しかし期待した恩賞が与えられなかったことからスルタンを殺して即位した。イル=ハン国に滅ぼされたバグダードのアッバース朝のカリフの親族をカイロに引き取って保護し、カリフ制を復活させ(1261)、その権威を利用した。バイバルスは国政の基礎を確立した英主として名高い。 
 マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード・コルドバとともにイスラム文化の中心地としても栄えた。歴代のスルタンは東西貿易を国家の統制下に置いて利益を独占し、カイロに多くの美しいモスクや学院などを残した。ファーティマ朝時代に創建されたアズハル学院(カイロの大学)は、マムルーク朝の時代にはスンナ派イスラム学の最高学府となり、各地から学者が集まった。 
 マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東西貿易の利益を失うことになり、衰退しオスマン=トルコ帝国に滅ぼされた(1517)。 
 

 

 
3.

2 イスラム世界の発展
 
3 西方イスラム世界
 アフリカ北岸のモロッコ・アルジェリア・チュニジア地方はマグリブ地方と呼ばれる。 マグリブは、アラビア語で「西」を意味し、エジプト以東のイスラム世界に対して西方イスラム世界を指している。 
 このマグリブ地方の先住民はベルベル人と呼ばれ、ハム系を主にネグロ・セム系の混血である。彼らは7世紀以来アラブ人の支配を受け、そのイベリア半島攻略の主力をなし、ヨーロッパ人からはムーア人と呼ばれた。 
 西サハラでラクダの遊牧を行っていたベルベル人のサンハージャ族の族長が1039年にメッカに巡礼した。その帰途、イスラム法学者の教説を聞いて深い感銘を受け、その弟子の1人を伴って帰り、彼の教えを受けた。彼の教えに動かされたサンハージャ族は宗教的な結社を政治運動に転化して軍団を結成し、西サハラにムラービト朝(1056~1147、スペイン語でアルモラビド朝とも呼ばれる)を樹立した。 
 初代アミール(アラビア語で「指揮者」の意味、武将・総督の称号として用いられる)となったイブン=ターシフィーン(位1061~1106)のもとで、首都マラケシュを建設するとともに、聖戦(ジハード)をおこし、北に軍を進め、モロッコからアルジェリアの肥沃な農耕地帯をその支配下に治めた。さらに南下して西アフリカのガーナ王国(8世紀頃~1076)を一挙に滅ぼした。 
 その頃、イベリア半島では後ウマイヤ朝が内紛で分裂・衰退して滅亡し(1031)、以後アンダルシア地方(イベリア半島南部、アラブ人はアンダルスと呼んだ)はイスラム系諸小王朝が乱立する分裂時代を迎えていた。同じ頃、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ、キリスト教徒によるイベリア半島からのイスラム勢力の駆逐運動)が展開されていた。 
 国土回復運動によってトレドを失ったムスリム諸侯がイブン=ターシフィーンに援軍の派遣を求めてきたので、彼はこれに応えてイベリア半島に渡り(1086)、カスティリャの軍を破り、グラナダ・コルドバ・セビリアなどを攻略し、アンダルシア地方をムラービト朝の領土とした。しかし、ムラービト朝では、世代が変わると熱狂的な宗教的な情熱が衰え、部族間の団結もゆるんできた。この頃、北アフリカのアトラス山中で、同じベルベル人のムワッヒド朝が台頭していた。 
 アトラス山中で定住生活を営むマスムーダ族のイブン=トゥーマルト(1091頃~1130)は、メッカに巡礼した際に(1106)、イスラム神秘主義を学び、宗教や道徳を改革しようという情熱に駆られて故郷に戻ってきた。イブン=トゥーマルトは自らマフディー(イスラム教で「救世主」の意味)と称し、教説を説いて回りベルベル人のイスラム化を促進した。 
 アブド=アルムーミン(位1130~63)は、イブン=トゥーマルトの死後、彼の思想・運動を継承し、ムワッヒド朝(1130~1269、スペイン語でアルモハド朝)を創始した。彼はマスムーダ族をまとめて勢力を拡大し、ムラービト朝を滅ぼし(1147)、占領したマラケシュを都とした。さらに東に転じてチュニジア・トリポリまで領土を拡大し、イベリア半島南部と北アフリカにまたがる大帝国をつくりあげた。 
 しかし、ムワッヒド朝もムラービト朝と同じように宗教的な情熱が冷めてくると国内は分裂し、同じ頃モロッコに興ったマリーン朝に領土を奪われ、吸収され滅亡した(1269)。 
 一方、イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が進展する中で、かって後ウマイヤ朝の首都として、当時世界最大の都市の一つとして繁栄してきたコルドバがキリスト教徒のカスティリャによって占領された(1236)。 
 この頃成立したナスル朝(グラナダ王国、1230~1492)は、コルドバ陥落後グラナダを首都とした(1238)。グラナダはヨーロッパにおけるイスラムの政治・軍事・文化の拠点として栄え、イタリアや東方との貿易で経済的にも繁栄した。有名なアルハンブラ宮殿は西方イスラム世界のみならず世界的にも最も美しい建築の一つと言われている。 
 ナスル朝はキリスト教国の進出に対して最後まで抵抗したが、1492年にスペイン軍に敗れ、グラナダは陥落し、ナスル朝は滅亡した。これによって国土回復運動(レコンキスタ)は完了し、イスラム教徒はアフリカに押し返された。この年は奇しくもコロンブスがアメリカ大陸に到達した年と同じ年であった。  
 

 

 
4.

2 イスラム世界の発展
 
4 アフリカの諸国
 現在知られている最古の黒人王国はナイル上流のクシュ王国(前920頃~後350頃)である。エジプト中王国末期に一時エジプトの支配から独立したクシュ人は、新王国の初めに再びエジプトの支配下に置かれた。クシュ人は前10世紀に再びエジプトの支配を脱し、前8世紀には逆にエジプトを征服し、都をテーベに遷して栄えたが、前7世紀にアッシリアのエジプト侵入で後退し、都をテーベからナイル中流域のメロエに遷し、メロエ王国(前670頃~後350頃)としてその後も栄えた。 
 メロエ王国はアッシリアから製鉄を学び、製鉄と商業によって栄えたが、4世紀にエチオピアのアクスム王国によって滅ぼされた。メロエ王国の滅亡は鉄の製法がアフリカ各地に伝播するきっかけとなった。また彼らはエジプトの文字と異なるメロエ文字を用いたが、メロエ文字は今日まだ未解読である。 
 アクスム王国(前120頃~後572)は、アラビア半島の南端から移住してきたセム系のアクスム人がアビシニア高原に建てた国でエチオピア王国とも呼ばれる。2~3世紀が全盛期でメロエを脅かし続け、350年頃ついにクシュ(メロエ)王国を滅ぼした。 
 アクスム王国には4世紀にキリスト教(コプト派)が入り、キリスト教化が進み、キリスト教が国教とされた。西ヨーロッパでは中世から近代初めにかけてプレスター=ジョン伝説が信じられた。アジア(後にはアフリカになる)のどこかにキリスト教の司祭王が居るという伝説である。15世紀以後はエチオピアの皇帝がプレスター=ジョンであるという考えが一般化していったが、エチオピアに早くからキリスト教が広まっていたことがその背景になっている。 
 西スーダン(スーダンはアラビア語で「黒い国」を意味する。ほぼ北緯10度から北緯20度辺りまでのアフリカの地を指す)のニジェール川・セネガル川流域ではアラブ人の間で「黄金の国」として知られていたガーナ王国(8世紀以前~1076)と呼ばれる黒人王国が栄えていた。ガーナは豊富に産する黄金を、サハラ砂漠を縦断してやってくるムスリム商人がもたらす岩塩と交換する交易によって繁栄していた。交易ルートの安全を確保するために軍事・政治機構を確立し、20万人以上の常備軍を持っていたと言われ、西スーダン一帯に勢力を及ぼしていた。しかし、11世紀にベルベル人のムラービト朝によって滅ぼされた。このムラービト朝によるガーナ王国の征服は西アフリカのイスラム化を促進することになる。 
 13世紀にマンディンゴ族は初代王のスンジャータ(1240頃~1260頃)のもとで、近隣の国々との戦いに勝ち、かってのガーナ王国の産金地を支配下に治め、金と塩の交易ルートを確保し、西スーダンの大半を支配下に置いた。これがマリ王国(1240~1473)である。マリ王国では早くからイスラム教が受け入れられ、支配階級はイスラム教徒であった。 
 マリ王国の最盛期の王がマンサ=ムーサ(カンカンムーサ)(位1312~37)である。マンサ=ムーサの名を有名にしているのがメッカへの巡礼である(1324)。その帰途カイロに滞在したときに使った金は13トンにも達したと言われ、このためカイロでは金の価値が下がり、インフレが起こったと言われている。マンサ=ムーサの名はヨーロッパにまで伝わり、14世紀にヨーロッパで作成された地図にはマリ王国とマンサ=ムーサの姿が書き込まれていた。 
 14世紀には有名なイブン=バトゥータがこの国を訪れて、その繁栄ぶりについて記述している。しかし、マリ王国は、15世紀の後半にニジェール川流域で急速に勢力を伸ばしてきたソンガイ王国によって滅ぼされた。 
 西スーダンの黒人ソンガイ族は、15世紀後半に勇猛・好戦的な王のもとで、隊商交易の終点として繁栄していたトンブクトゥを奪い、マリ王国を滅ぼし、西アフリカの大部分を支配下に治めた。ソンガイ王国(1473~1591)は北アフリカとの交易によって栄え、15~16世紀に全盛期を迎えた。ソンガイ王国の経済・文化の中心として栄えたトンブクトゥには16世紀に黒人による最初の大学が創設された。 
 ソンガイ王国は、16世紀末に「黄金の國」伝説を信ずるモロッコ軍の南下によって滅ぼされた。しかし、モロッコ軍は期待に反した西スーダンの貧しさに落胆し、激しい略奪を行って引き上げた。このため西スーダンは壊滅的な打撃を受け、交易の中心も西スーダンからチャド湖周辺のカネム王国(9世紀頃~14世紀末)やボルヌ王国(14世紀末~17世紀、カネム王国が本拠をボルヌに遷して再興した国)などに移っていく。 
 アフリカ東岸、赤道以南のマリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワなどの海港都市には、10世紀以降イスラム商人が移住し、彼らのインド洋貿易で繁栄していた。このためこの地域ではスワヒリ語(スワヒリはアラビア語で「海岸地帯の人々」の意味、アラビア語の影響を受けた言語)が普及した。 
 さらにその南方のサンベシ川流域では、15世紀にモノモタパ王国が繁栄していたことがポルトガル人によって伝えられている。その中で述べられているジンバブエの壮大な石造遺跡が19世紀後半に発見され、その後の研究によってジンバブエには高度な文明が存在していたこと、そしてインド洋貿易によって繁栄していたことが明らかになった。モノモタパ王国は、15世紀中頃に建設され、15世紀末にかけては領土を拡大し栄えたが、16世紀には小国になっていった。   
 

 

 
5.
9.インド・東南アジアのイスラム化

3 インド・東南アジアのイスラム化
 
1 インドのイスラム化
 イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シンド(インダス川下流域)地方を征服したがその支配は長続きせず、イスラム教徒による本格的なインド征服が始まったのはガズナ朝(ガズニ、962~1186)の時からである。 
 ガズナ朝は、サーマン朝(875~999)に仕えていたトルコ人奴隷のアルプテギン(?~963)がアフガニスタンのガズナに建国したトルコ系イスラム王朝である。 
 第7代スルタンのマフムード(位998~1030)は、サーマン朝から独立し、1000年頃から10数回にわたって北インドに侵入し、北インドのイスラム化の道を開くとともに、アフガニスタン・中央アジア・イラン・北インドにまたがる大帝国を築き、都のガズナは大いに栄え、フィルドゥシーなどの文人を優遇するなど、ガズナ朝の全盛期を現出した。しかし、12世紀中頃からゴール朝の圧力が強まり、セルジューク朝とゴール朝によって滅ぼされた(1186)。 
 ゴール朝(1148頃~1215)は、ガズナ朝の支配下でアフガニスタンのゴールを拠点として台頭してきた。ムハンマド=ゴーリー(?~1206)は、兄王とともにゴール朝の独立に活躍し、ガズナ朝を滅ぼし(1186)、以後30年間にわたってインドに侵入し、ラージプート族(好戦的なヒンドゥー教徒)の軍を破り、北インドのほぼ全域をイスラムの支配下に置いた。このため北インドのイスラム化が一層進んだ。兄を継いで王となったが(1202)、インド遠征の帰途、インダス河畔で暗殺された(1206)。その後、ゴール朝は部下の将軍の内紛によって分裂し、ホラズム朝に滅ぼされた(1215)。 
 中央アジアのトルコ人のマムルークであったアイバク(?~1210、位1206~1210)はゴール朝のムハンマド=ゴーリーに部将として仕え、そのインド遠征に従事して功績をあげ、インド方面総司令官に任命されて北インドの実権をほぼ掌握し、ムハンマド=ゴーリーが暗殺されると、インドの支配権を握り、インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206~90)を創始し、都をデリーに置いた。 
 ガズナ朝・ゴール朝ともにアフガニスタンに拠点を持ち、インドに侵入して北インドを支配した王朝で、インドのイスラム王朝とは言えず、インド最初のイスラム王朝はアイバクが創始した奴隷王朝である。 
 アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレトゥミシュがデリーでスルタンとなり、北インドにおけるイスラム王朝の支配権を確立した。彼を初め王位に就くものに奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれた。 
 奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を注いだが、末期には党争と内乱が相次ぎ、同じトルコ系のハルジー朝(1290~1320)に取って代わられた。 
 ハルジー朝の最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(父はトルコ人、母はインド人)が暗殺者を倒してトゥグルク朝(1320~1414)を建国した。トゥグルク朝については有名なイブン=バットゥータの旅行記「三大陸周遊記」に記述がある。トゥグルク朝はティムールの侵入を受け(1398)、以後衰退した。 
 ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当たったティムールの部将が独立して建てたのがサイイド朝(1414~51)である。しかし、サイイド朝の支配地域はデリー周辺に限られ、4代でロディー朝に取って代わられた。 
 サイイド朝の末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で勢力を得たアフガン系のロディー族のハバロールがデリーに迎えられ、サイイド朝に代わってスルタンとなり創始したのがインド史上最初のアフガン系王朝であるロディー朝(1451~1526)である。しかし、ロディー朝もパーニーパットの戦い(1526)でティムールの子孫のバーブルに敗れ、ムガール帝国(1526~1858)に滅ぼされた。 
 インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国の建国までの約300年間に北インドにはデリーを都とする5つの王朝(奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝(以上トルコ系)とロディー朝(アフガン系))が続いたので、この時代をデリー=スルタン朝(1206~1526)と総称する。 
 インドに侵入したイスラム王朝は、最初は民衆にイスラム教を強制し、ヒンドゥー教の寺院や神像を破壊したが、デリー=スルタン朝の時代になるとヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大な態度をとり、インド人の伝統的な社会の上に立って君臨するという政策を採るようになった。  
 

 

 
2.

3 インド・東南アジアのイスラム化
 
2 東南アジアのイスラム化
 ムスリム商人は、すでに8世紀後半のアッバース朝時代から盛んに海上に進出し、インド洋から東南アジアを経て中国の海港都市でも活躍していた。イスラム教は中国にはアラブ人が7世紀後半に海路経由で伝え、広州・揚州・泉州などの港市にはイスラム寺院も建てられている。しかし、東南アジアにイスラム教が広まるようになるのは13世紀以後のことである。 
 東南アジアでイスラム教が広まる時期が遅れた理由としては、初期のムスリム商人達が布教に余り熱心でなかったこと、東南アジアの住民達にも受け入れる気運がなかったことなどが考えられている。13世紀に入って東南アジアにイスラム教が広まるようになった のは神秘主義教団の活動によってインドのイスラム化が進んだことが深く関係していると考えられている。 
 イスラム社会では、10世紀頃から神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム)が盛んとなった。スーフィズム教団の修道者は、羊毛で作った粗末な衣服(スーフ)をまとい、ぜいたくな生活を排し、苦行と瞑想によって神との一体感を求めた。12世紀になるとスーフィズム教団の組織化が進み、多くの神秘主義教団が結成され、教団員は貿易路に沿ってインド・東南アジア・中国に進出し、イスラム教の布教に熱心に従事した。 
 こうした状況の中で、13世紀末にはスマトラ島の西北部、14世紀後半から15世紀にかけてジャワ島の東北部にイスラム教徒の小国が形成された。 
 東南アジアの諸島部では、7世紀にスマトラ島の東南部にシュリーヴィジャヤ王国が興り、海上交通の要衝であるマラッカ海峡を押さえて繁栄し、10世紀に最盛期を迎えたが、14世紀に入るとジャワ島のマジャパヒト王国の台頭で衰退に向かった。 
 シュリーヴィジャヤ王国が衰退した14世紀の末頃、マライ半島の南西部に東南アジア最初のイスラム国家であるマラッカ王国(14世紀末頃~1511)が成立した。 
 マラッカ王国の建国者であるパラメーシュヴァラはマジャパヒト王国(1293~1520頃、ジャワ島中部を中心に栄えたヒンドゥー教の王国)の王女の夫でシャイレーンドラ朝(8世紀中頃~9世紀前半、中部ジャワを支配した王朝)の王家の子孫と伝えられている。彼は14世紀末にマジャパヒト王国で王位継承争いが起こったとき難を逃れ、後にマラッカに定着した。中国の明に朝貢し、タイのアユタヤ朝(1350~1767)の南下を防ぎ、独立を維持した。パラメーシュヴァラは晩年にイスラム教に改宗した。 
 その後、マラッカ王国は東南アジア最初のイスラム国家として、また東南アジアの国際貿易の中心として栄え、最盛期の15世紀後半にはその領域はマライ半島南部全域と対岸のスマトラ島の東部に及ぶ大勢力となったが、1511年にポルトガル人によってマラッカが占領され滅びた。 
 イスラム教は、マラッカの貿易のルートに沿ってインドネシアやフィリッピンの南部にも広まった。ミンダナオ島などフィリッピン南部の諸島の住民は16世紀末頃イスラム化し、モロ人と呼ばれている。 
 ジャワ島ではマラッカ王国の成立の影響を受けて、北部ジャワにイスラム諸都市が分立し、内陸部の米作地帯にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国に代わって、イスラム教国であるマタラム王国(16世紀末~1755)が成立した。   
 

 

 
3.
10.イスラム文明の発展

4 イスラム文明の発展
 
1 イスラム文明の特徴
 イスラム文明の特徴を一言でいうと融合文明であるということである。イスラム教とアラビア語を基調とし、それにギリシア・イラン・インドなどの先進文明を取り入れ、混ぜ合わせて出来た文明である。様々な色の液体を1つの容器に入れて混ぜ合わせると全く別の色になるように、様々な文明が融合して全く別の文明が作り出された、それがイスラム文明である。ペルシアの説話を骨子としてインド・アラビア・ギリシア・エジプトなどの説話を集大成した「アラビアン=ナイト」(千夜一夜物語)などは諸文明の融合を示すよい例である。 
 イスラム文明は、イスラム教を核とする普遍的文明であり、イスラム世界の各地に伝播し、その地域・民族の特色が加わり、イラン=イスラム文明・トルコ=イスラム文明・インド=イスラム文明など多様な文明が形成された。また中世ヨーロッパではイスラム教徒の著作がアラビア語からラテン語に翻訳され、ヨーロッパにおける学問の発達を促し、後のルネサンスの開花にも大きな影響を及ぼした。 
 自然科学が発達したこともイスラム文明の特色である。自然科学は近現代のヨーロッパ文明で大いに発達し、現代の我々の豊かで便利な生活を実現させたが、近代以前の文明のなかで自然科学が発達したことはまれで、わずかにヘレニズム文化とこのイスラム文化をあげることが出来るのみである。 
 またイスラム文化は都市文明で、その主な担い手は商人や手工業者らであり、美術・工芸などの分野も発達した。 
2 イスラム教徒の学問
 イスラム教徒の学問は、「固有(自国)の学問」と「外来の学問」に大別することが出来る。「固有の学問」は、アラブ固有の学問分野でイスラム教・アラビア語・ムハンマド・「コーラン」研究から発達した学問で、法学・神学・言語学・歴史学などが含まれる。 
 言語学・文法学は「コーラン」の研究から発達した。「コーラン」はアラビア語で書かれていて、他の言語への翻訳は禁止されているので、「コーラン」を正しく理解し・伝達するためにはアラビア語の言語学や文法学が大切な学問であった。 
 法学・神学も「コーラン」の解釈を中心に発達した。イスラム法は、「神の定めた掟」の意味でシャリーアと呼ばれ、行政法・身分法・家族法・商法など社会生活全般に関わる規定を含んでいるため法学は最も重要な学問とされた。イスラム神学・法学に精通した人はウラマーと呼ばれ、神学・法学上の問題の裁定を行う。従ってウラマーのイスラム社会での発言権は強く、社会のエリートとして大きな影響力を持った。神学者としてはイラン系のイスラム神学者のガザーリー(1058~1111)が知られている。 
 歴史学は、ムハンマドの伝承研究から発達した。イラン系の神学者・歴史家タバリー(839~923)は年代記的世界史「預言者と諸王の歴史」を著した。 
 イブン=ハルドゥーン(1332~1406)はイスラム世界最高の歴史哲学者として有名である。チュニス出身で法学を学び、政治家となり若くして北アフリカのハフス朝(1228~1574)の高官となったが、妬まれて各地を転々としたり投獄されるなど波乱の半生を過ごした。43才で政界を引退し、歴史書の執筆にあたった。「世界史序説」を著し、遊牧民と定住民との関係・交渉を中心に王朝興亡の歴史に法則性があることを論じた。50才の時エジプトに移住し、マムルーク朝に仕えてカイロの大法官となり、その後カイロで没した。    
 「外来の学問」は、ギリシア・インドなどの非アラブの学問で、哲学・論理学・地理学・医学・数学・天文暦学・工学・錬金術などで自然科学の分野を中心に発達した。 
 これらの「外来の学問」は、9世紀の初めにギリシア語の文献が組織的にアラビア語に翻訳されるようになって飛躍的に発達した。特に自然科学は大いに発達した。
 医学・薬学は、ギリシア・インドから学び、特に外科・眼科などが発達していたと言われている。有名な医学者としてはイラン系の医学者・哲学者で「医学典範」の著者であるイブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ、980~1037)とコルドバ生まれの大哲学者・医学者で「医学大全」を著したイブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス、1126~98)がよく知られている。 
 イブン=シーナーは、サーマン朝の高官の子としてブハラに生まれた。17歳頃サーマン朝の君主の病気を治療し、その宮廷図書館で学究生活を送った。その後各地を転々とした後ハマダーンのブワイフ朝君主の宰相となり、その保護のもとで14年間を過ごした。 その学問は医学・哲学・神学・数学・天文学に精通し、彼の著作は100を越え、「学問の長老」と称された。特に「医学典範」はアラビア医学の集大成で、ラテン語に翻訳され、12~17世紀にかけて西ヨーロッパの大学・医学部で権威あるテキストとして重用された。 イスラム世界では現在でも利用されていると言われている。 
 イブン=ルシュドは、コルドバの名門に生まれ、法学・医学・哲学を学び、その天分を発揮し、27歳頃モロッコのマラケシュに赴いてムワッヒド朝のカリフに謁見し、コルドバで法官となり、晩年にはムワッヒド朝のカリフの主治医となった。この間多くの著書を残したが、特にアリストテレス哲学の研究家・注釈家として有名で、中世ヨーロッパにおけるアリストテレス哲学の研究に大きな影響を与えた。 
 数学も、ギリシアの幾何学やインドの数学を学び、特にインドから学んだ数字・十進法とゼロの観念を大いに発達させた。 
 現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれる。インド数字を原型として、イスラム世界で完成し、後にヨーロッパに普及し、現在は世界中で使用されている。この アラビア数字の最大の長所はインドから学んだゼロの観念をアラビア数字・十進法と結びつけたところにある。 
 ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1はI、5はV、10はX、50はL、100はCなど)が、大きな数字を表記するのに大変苦労した。例えば1999はCIC(1000) IC(500) CCCCLXXXXVIIII(1000と500の右端のCは、Cを裏返して左右を逆にした記号になる)と表記した。これをアラビア数字では1999で表せるし、さらに0を付け加えるだけで無限大の数字を表すことが出来るようになった。まさに画期的な記数法である。 
 従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達したのは代数学でなく幾何学であった。代数学が発達せず、幾何学が発達した理由はやはり数字の問題だと思う。この計算に便利なアラビア数字の発明によって、イスラムでは、代数学・三角法が発達した。イラン系のフワーリズミー(780頃~850頃)は、ホラズムに生まれ、アッバース朝に仕えた。アラビアの数学を確立し、代数学の創始者となった。彼は天文学者としても有名だった。 
 天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイスラムでも大いに発達し、そこから天文観測や暦学が発達し、正確な暦も作成された。 
 オマル=ハイヤーム(1048~1131)は、イランの詩人・数学者・天文学者で、セルジューク朝のスルタンの命により、きわめて精密な一種の太陽暦である「ジャラーリー暦」の制定に従事した。数学者としては3次方程式の解法の体系化しているが、彼の名を有名にしているのはペルシア語の「四行詩集」(「ルバイヤート」)の作者としてである。ルバイヤートは19世紀に英訳されて世界的に有名となった。 
 錬金術は、古代エジプトに起源を持つ、卑金属を貴金属に変えようとする技術である。もちろん実現するはずもないが、そのためにあらゆる実験・観察が繰り返され、その中から様々な元素記号が生まれ、化学反応式さらに酸とアルカリの区別などが知られていた。このイスラムの実験・観察のデータをもとに、近代ヨーロッパで化学が発達することになる。 
 ヨーロッパ人が、イスラムから様々な学問・知識を受け入れていく際、当時のヨーロッパ人には知られてなくて、そのものを表す単語がないときにはアラビア語がそのまま使われた。このため今日の英語の中にも多くのアラビア語起源の単語があることはよく知られている。例えばalcohol,alkali,algebra,alchemy,alembic,amalgamなどの科学用語の他にsugar,cotton,syrop,check,tambourine,luteそしてzeroなどがある。科学用語にalの付く語が多いがalはアラビア語の定冠詞である。 
 「外来の学問」は、自然科学以外の分野では哲学・地理学なども発達した。 
 哲学では、ギリシア哲学・特にアリストテレス哲学の研究が盛んに行われた。前述したイブン=ルシュドはアリストテレス哲学の研究家として知られ、彼の注釈は後の西ヨーロッパに大きな影響を与えた。イブン=ルシュドと同じく医学者として有名なイブン=シーナーも哲学者としても有名である。 
 地理学の分野では、大旅行家イブン=バトゥータ(1304~68/69あるいは77)が有名である。今までにもイブンの名の付く人物が多く出てきたが、イブンは長男に多くつけられる名前である。 
 イブン=バトゥータはモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出た。カイロ・ダマスクスなどを経てメッカに巡礼を行った。その後さらに足を延ばしてエジプト・シリア・小アジアを経て南ロシアに至り、クリミア半島・キプチャク=ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、トゥグルク朝で法官となり約10年間デリーに滞在した。のち中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345)、泉州・広州・杭州・大都(北京)を訪れた後、海路で帰国した(1349)。その後もスペインやサハラ砂漠を越えてニジェール川流域を旅行し、マリ王国も訪れた。 
 彼の口述筆記による旅行記「三大陸周遊記」(原名は「町々の珍しさと旅の奇異への観察者に対する贈り物」)は1355年頃に完成したが、マルコ=ポーロの「世界の記述」(東方見聞録)と並ぶ旅行記として有名である。 
 文学では、アッバース朝以後、ペルシアの文学の影響を受けて散文学が盛んとなった。その代表作「千夜一夜物語」(アラビアン=ナイト)は、8世紀にアラビア語に訳されたペルシア古来の「千物語」が骨子になり、それにインド・アラビア・ギリシア・エジプトなどの説話が融合され、16世紀初め頃までに現在の形に発展したものである。「アリババと40人の盗賊」「船乗りシンドバットの冒険」「アラジンと魔法のランプ」など子供向けのよく知られた話も多くあるが、イスラム教徒の生活や風俗を知る上でも貴重な書物である。またフィルドゥシー(940頃~1025)が約25年を費やして完成した「シャー=ナーメ」(「王の書」)は、イランの建国から7世紀までの神話・伝説・歴史を詠んだペルシアの大叙事詩である。 
 建築は、ドームとミナレット(光塔、この上から人間の声で礼拝の時が告げられる)を特色とするモスク(イスラム教の礼拝堂)が中心で、イェルサレムにある金色に輝くドームを持つ「岩のドーム」は初期の代表的なモスクである。またスペインのグラナダに残るナスル朝の宮殿である「アルハンブラ宮殿」はイスラムの代表的な建築で、世界で最も美しい建築の一つと言われている。 
 イスラム教は偶像崇拝を厳禁する宗教である。そのため絵画・彫刻の分野はあまり発達しなかったが、ミニアチュール(細密画)が書物の挿し絵として始まり、後に中国絵画の影響を受けて盛んとなった。 
 偶像崇拝禁止のイスラム圏で大いに発達したのが、アラベスクである。アラベスクは植物や文字を図案化して幾何学的に連続配置した装飾文様であるが、モスクなどのイスラム建築では見事なアラベスクが使われている。 
3 人と物の東西交流
 広大なイスラム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進した。 
 ムスリム商人は、より多くの利潤を求めて、イスラム世界の外へも積極的に進出した。 「アラビアン=ナイト」に描かれている「船乗りシンドバットの冒険」はそのことをよく示している。 
 遠隔地貿易には、陸上の隊商貿易と海上の商船貿易とがあった。らくだの背に荷物を積んだ隊商は遠くは中国・南ロシア・内陸アフリカを往来し、イスラム教徒の商船は地中海・インド洋を縦横に航行し、遠く東南アジアや中国にも至った。 主要な取引品はインドや東南アジアの香辛料・宝石・綿布・染料など、中国の絹織物・陶磁器など、またアフリカの金・奴隷・象牙などであった。 
 中国・東アフリカ・東南アジアの海港などには、ムスリム商人の居留地が設けられていた。唐・宋代の中国ではアラビア・アラビア人はタージー(大食)と呼ばれ、ウマイヤ朝は白衣大食、アッバース朝は黒衣大食と呼ばれていた。 
 こうした人と物の交流とともに文化の交流も盛んであった。 
 中国で発明された製紙法がタラス河畔の戦い(751)で捕虜となった唐軍の中にいた紙すき工によってバグダードに伝わり、さらにイベリア半島とシチリア島を経て12世紀頃西ヨーロッパに伝えられたことは前述した。 
 同じく中国起源で宋代に実用化されていた火薬と羅針盤もイスラム世界を経由してヨーロッパに伝えられた。 
 インドから西アジアに伝わった木綿や砂糖は、十字軍の兵士達によってヨーロッパへ伝えられた。 
 元の郭守敬によって作成された「授時暦」にはイスラムの天文学の成果が取り入れられている。「授時暦」は江戸時代に作成された「貞享暦」に影響を及ぼしている、1年を365.2425日とする精密な陰陽暦である。 
 

 

 
4.

第7章 ヨーロッパ世界の形成と発展
11.西ヨーロッパ世界の成立

1 西ヨーロッパ世界の成立
 
1 ゲルマン民族の大移動
 アジア系の遊牧民族であるフン族は、1世紀の中頃までヴォルガ川流域に定着していたが、4世紀後半にカスピ海の北を西進し、ドン川を越えて黒海北岸に居住していた東ゴート族を征服し(375)、さらに西ゴート族に迫ったので、西ゴート族は375年に南下を開始し、翌年ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入した。これが有名なゲルマン民族の大移動のきっかけとなった。 
 インド=ヨーロッパ語族のゲルマン人は、前1000年頃からバルト海沿岸に居住していたが、ケルト人を圧迫しながら、紀元前後の頃までにはライン川からドナウ川の北岸一帯にまで進出し、ローマ帝国と堺を接するようになった。 
 ケルト人もインド=ヨーロッパ語族の一つで、前10~8世紀頃から前6~4世紀頃までには原住地のライン川・エルベ川・ドナウ川流域からアルプス山脈以北のヨーロッパの広い地域に広がっていた。しかし、ガリア(現在のフランス)は前1世紀に、ブリタニア(現在のイギリス)は後1世紀にローマ帝国の支配下に置かれた。ケルト人は現在ではアイルランド・ウエールズ(イギリスの南西部)・スコットランドやブルターニュ(北フランス)などに居住している。 
 民族大移動を起こす前のゲルマン人の社会、いわゆる原始ゲルマン社会を知る上で重要な史料としては、カエサルの「ガリア戦記」とタキトゥスの「ゲルマニア」がある。特に「ゲルマニア」は、ローマの政治家・歴史家であったタキトゥスが100年頃のゲルマン民族について書いた最も重要な史料である。 
 「ゲルマニア」は、第1部「ゲルマニアの土地・習俗」と第2部「ゲルマニアの諸族」の2部46章から成っている。それによると、ゲルマン民族は数十の部族に分かれ、狩猟・牧畜・農業によって生活していた。第11章「会議(民会)」には「小事には長老達が、大事には邦民全体がこれに掌わる。しかしその決定権が人民にあるごとき問題もあらかじめ長老達の手許で精査せられるという風にしてである」(岩波文庫)とあり、重要な問題は民会で決定されていた。 
 ゲルマン人はローマと堺を接するようになると、一部のゲルマン人は傭兵・下級官吏・コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移り住むようになった。特に五賢帝時代頃からローマ帝国で兵員が不足するようになると、ゲルマン人を屯田兵としてだけでなく正規軍の中にも採用し、民族移動の時期になると、兵士だけでなく、ローマの将軍や宰相にまでゲルマン人が現れてくる。よく言われるようにローマ帝国の末期にはローマはまさに内から「ゲルマン化」していた。 
 ゲルマン民族は狩猟・牧畜を主としていたが、次第に農業が重要になってきた。しかし、当時の農業は施肥や輪作を知らなかったので、彼らは農地がやせるとその土地を捨て、新しい農地を求めていった。このためゲルマン人社会での人口の増加とともに土地不足が深刻となり、これが民族移動の内部要因となった。 
 フン族は東ゴート族を征服し、さらに西ゴート族に迫ったので、西ゴート族が375年に南下を開始し、ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入したことがゲルマン民族の大移動のきっかけになったことは先に述べた。 
 ゲルマン民族の大移動は、部族全体が王に率いられて家族と全財産を牛車に乗せ、これも重要な財産である家畜の群を従えての文字通りの大移動であり、固有の部族制を維持しながらの移動であった。 
 しかし、ゲルマン人の数はローマ人に比べると圧倒的に少数で、ローマ系の住民の約3パーセントほどであったといわれている。従って、移動に際してはローマに対して移住の許可を求めていくが、それが認められないときは流浪し、さらには生きるために戦闘や略奪・暴行に訴えざるを得なかった。以下、主な部族の動きを追っていきたい。 
 西ゴート族は、376年にドナウ川の南に移住したが、ローマの役人の収奪に対して反乱を起こした。トラキア(現在のブルガリア)を荒らし、これを阻止しようとしたローマ皇帝のヴァレンスを378年のアドリアノープルの戦いで敗死させた。しかし、その後コンスタンティノープルに向かわず、アラリック(370頃~410、位395~410)に率いられてトラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし、409年には三度イタリアに侵入し、翌410年にはローマを占領して徹底的に掠奪を行った。 さらにイタリア半島を南下してアフリカを目指したが、艦隊が難破したために、アフリカに渡ることをあきらめ、イタリア半島を再び北上したが、まもなく没した(410)。 
 アラリックもそうであったように、多くのゲルマン人にとってあこがれの地は地中海に近いところ、特にローマの穀倉地帯であったアフリカのチュニジア(かってカルタゴが栄えた地)であった。 
 アフリカ攻略に失敗した西ゴート族はさらに西進し、ワリア王(位415~419)の時にイスパニアを攻略し、最初の西ローマ皇帝であるホノリウス帝との協約によって、イベリア半島の大半と南ガリアを含む西ゴート王国(415~711)を建国して定住した。西ゴート王国は300年間にわたってイベリア半島を支配したが、8世紀にイスラム(ウマイヤ朝)によって滅ぼされる。 
 この間、ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族は東ゴート族を征服した後、ドナウ川北岸を西進してパンノニア(現在のハンガリー)辺りに定着した。このフン族が匈奴であるかどうかが長く論争されてきたが、今日では北匈奴がフン族であるとの同族説が有力になっている。 
 433年頃、叔父の跡を継いでフン族の王となったのが、ヨーロッパ人から「神の禍」として非常に怖れられたアッティラ(406頃~453、位433頃~453)である。アッティラは東ローマ帝国に侵入して(441年頃)貢納金を奪い、その後カスピ海からライン川にまたがる大帝国を建設した。 
 アッティラの相次ぐ貢納金の要求に耐えられなくなった東・西ローマ帝国がこれを拒否すると、アッティラはこれを口実に、451年に大軍を率いて西に進撃し、ガリアに侵入し、メッツを攻略してオルレアンに迫った。しかし、パリ東北のカタラウヌムの戦いでアエティウス(西ローマ帝国の将軍)の率いる西ローマ(フランク人が主体)と西ゴートの連合軍に敗れて退いた。 
 勢力をもり返したアッティラは、翌年イタリアに侵入し、ローマに迫ったが、ローマ教皇レオ1世がアッティラと会見してローマ破壊をやめるように必死に説得すると、それを入れてハンガリーに引き返した。そしてその翌年、結婚式の翌日に急死した。彼の死とともにフンの大帝国はたちまち崩壊した。 
 こうした混乱の中で、476年に西ローマ帝国はオドアケルによって滅ぼされた。 
 オドアケル(434頃~493)はゲルマンのスキリア族の名門の出で、彼の父はアッティラの宰相であった。オドアケルは西ローマ皇帝の親衛隊に入り、その司令官となり、475年の皇帝交替の際にゲルマン人傭兵隊長に推され、ゲルマン人傭兵にイタリアの土地を要求して拒否されると、翌476年に最後の西ローマ皇帝となるロムルス=アウグストゥスを追放してイタリア王を称した。 
 オドアケルは東ローマ皇帝から総督の称号を受け、イタリアとダルマティア(旧ユーゴスラヴィアのアドリア海沿岸地方)を支配したが、東ローマ帝国の内政に干渉したため、東ローマ皇帝は東ゴート族のテオドリック大王にオドアケル追討を命じた。オドアケル軍は各地で敗れ、オドアケルはテオドリックに暗殺された(493)。 
 東ゴート族は、フン族に征服され、その支配下に置かれ、アッティラのガリア遠征にも従軍させられた。アッティラの急死、大帝国の崩壊によってその支配から解放され、東ローマ皇帝からパンノニアに建国を認められた。 
 東ゴート族の王家に生まれたテオドリック大王(454頃~526、位473ごろ~526)は、人質としてコンスタンティノープルに送られ、そこで少年時代を過ごした。成人して帰国し、東ゴート族の王位についた。西ローマ帝国がオドアケルによって滅ぼされると、東ローマ皇帝はテオドリックにオドアケル追討を命じ、東ゴート族のイタリア移住を許した。テオドリックはイタリアに進出してオドアケルを破り、彼を暗殺した。そしてイタリア半島に東ゴート王国(493~555)を建国した。 彼は親ローマ政策を行い、ローマ人を重用し、ローマの習慣を尊重した。しかし、アリウス派(ローマ帝国で異端とされたキリスト教の一派)を強制したために、アタナシウス派を信仰するローマ人の支持を得ることが出来なかった。 東ゴート王国は、ユスティニアヌス帝治下のビザンツ(東ローマ)帝国によって滅ぼされる(555)。 
 ヴァンダル族は、オーデル川とヴィストラ川に挟まれた地域(現在のポーランド西部)に居住していたが、4世紀前半にローマ皇帝コンスタンティヌス帝からパンノニアへの移住を許され、アリウス派のキリスト教に改宗した。5世紀初めに東方からフン族が迫ってくると、西へ移動してガリアに入り、さらにイベリア半島に移動した。 
 ガイゼリック(390頃~477、位429~477)の時に北アフリカに渡り(429)、北アフリカのローマ領を征服して、チュニジアを中心としてヴァンダル王国(429~534)を建国した。さらにシチリア・サルジニア島からイタリア半島に進出し、一時地中海を制圧した。455年にはローマに侵入して掠奪を行った。彼は、アタナシウス派を信仰するローマ系の住民を圧迫し、掠奪・暴行をを働いたため、ローマ人の間では悪名高い。 
 ヴァンダル王国は、ガイゼリックの死後内紛によって衰え、ユスティニアヌス帝治下のビザンツ(東ローマ)帝国によって滅ぼされる(534)。 
 ブルグンド族は、ポメラニア東部・バルト海沿岸(現在のポーランドの西北部)に居住していたが、4世紀頃西南進して、ライン川上流のヴォルムス付近に移住した。ローマと同盟関係を結んでその地にとどまっていたが、やがてローマはフン族の傭兵を使ってブルグンド族を攻撃させた。ブルグンド族はフン族との激戦に敗れ、王を失って四散した。 
 この出来事を背景に書かれたのが、13世紀に完成する大叙事詩「ニーベルンゲンの歌」である。 
 ブルグンド族の多くは南に向かい、現在のスイスのジュネーヴ付近にブルグンド王国(443~534)を再建した。その後、ブルグンド族はローマの傭兵として働いていたが、西ローマ帝国が滅亡するとその混乱に乗じて、現在のフランスのリヨンを中心にフランスの東南部一帯に勢力を伸ばした。しかし、当時発展しつつあったフランクによって滅ぼされた(534)。 
 多くのゲルマン諸族が地中海方面を目指したのに対し、ユトランド半島から北ドイツに居住していたアングロ=サクソン族(アングル人・サクソン人・ジュート人などの諸部族の融合体)は、5世紀前半に北海をわたってブリタニア(イギリス)に侵入して先住民のケルト人を征服し、部族ごとに小王国(ヘプターキー(七王国))を建てた。 
 ローマ時代にブリタニアと呼ばれていた現在のイギリス(ブリトン島)は、以後イングランド(Angle’s land、アングル人の土地の意味)と呼ばれるようになった。 
 ゲルマン諸族の多くが4世紀に移動を開始しているのに対し、遅れて移動したのがロンバルド(ランゴバルド)族である。エルベ川・オーデル川の上流の辺りに居住していたロンバルド族は、ビザンツ(東ローマ)皇帝のユスティニアヌス帝からパンノニアの土地をもらい、イタリア半島の東ゴート王国の討伐を助けた(526)。 そしてアルボイン王(位561~572)の時にイタリアに入り、ロンバルド王国(568~774)を建国し、イタリア半島の北部・中部を征服して一時栄えた。 ゲルマン諸族の中で最も野蛮であったといわれているロンバルド族はアリウス派を信仰し、ローマ教会を圧迫した。 
 ミラノを中心とする北イタリアをロンバルディアと呼ぶのは、ロンバルド王国の中心がこの辺りにあったからである。しかし、ロンバルド王国も、8世紀にはいるとフランク族の進出によって次第に領土を奪われ、ついにカール大帝の時にフランク王国に併合された。 
 西ローマ帝国の滅亡(476)後の西ヨーロッパには、いくつかのゲルマン民族による王国が建国されたが、その中からフランク族が次第に発展し、後にヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国が成立する。 
 またゲルマン民族が西に移動したあとのエルベ川以東の地やバルカン半島には同じインド=ヨーロッパ語族のスラヴ民族が移住し定着していく。   
 

 

 
2.

2 フランクの発展
 
2 フランクの発展
 フランク族は、3世紀頃には10いくつかの支族に分かれ、ライン川の右岸(ライン川の東)の中・下流域に定住した。そして4世紀にはライン川を越えて北ガリアに広がった。他のゲルマン諸族が現住地を離れて遠距離を移動したのに対して、フランク族は移動距離が短く、しかも現住地を維持しながら居住地を拡大していった。このことがフランク族が以後発展していく1つの理由である。 
 この頃、フランク族の中ではサリ族とリブリア族の2つの支族の勢力が強まっていた。フランドル地方(現在のベルギー)を支配していたサリ族の小王国の王家に生まれ、王位につくと、フランクの他の支族を次々と支配下に治め、フランク族を一つに統一したのがメロヴィング家のクローヴィス(465~511、位481~511)である。 
 クローヴィスは粗野で残忍、猜疑心が強く、陰謀と奸計に明け暮れたと言われている。彼はアッティラを撃退したローマの将軍の子、シアグリウスをソワソンの戦いで破り(486)、以後アラマン族・ブルグンド族・西ゴート族を次々に撃破し、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を建設した。 
 フランク族がこのように大発展をとげた最大の理由は、他のゲルマン諸族がニケーアの公会議で異端とされたアリウス派を信仰していたのに対し、フランクはゲルマン諸族の中でいち早く正統のアタナシウス派に改宗した(496)ことである。 
 クローヴィスの改宗については、彼がアラマン族との戦いに負けそうになったとき、カトリックの信者であった妻の言葉を思い出し神に祈って勝利を得ることが出来たので、家臣3000人とともに洗礼を受けたといわれている。この改宗によって、ローマ系の住民と親密な関係を保つことが出来、カトリック教会の支持を得ることが出来た。 
 フランク族の間では分割相続の習慣があったので、クローヴィスの死後、フランク王国は4人の子によって分割された。その後、フランク王国を再統一したのは、4人の中で最後まで生き残ったクロタール1世(位511~561)であった。クロタール1世の死後、またフランク王国は4人の子に分割された。そしてクロタール1世の孫のクロタール2世(位584~628)によってフランク王国は再統一された(613)。 
 メロヴィング家には、残忍と好色の血が流れていたと言われている。クロタール1世も、2世も好色の血を受け継ぎ、以後の王も怠惰でぜいたくな後宮生活に溺れた。そのため、多くの王は10代の前半で父親となり、若死にした。彼らは「無為の王」と呼ばれている。 
 このため、フランク王国ではこの頃から「宮宰」(マヨル=ドムス、家政の長官の意味)の力が強くなり、行政・財政の実権を握るようになった。 
 カロリング家の祖である大ピピン(?~639)は、クロタール2世の再統一を支えた有力な豪族の一人で、クロタール2世治下のアウストラシア(フランク王国の東北部を支配したフランクの一分国)の宮宰であり、アウストラシアでは大ピピン以後カロリング家が宮宰を世襲するようになった。そして彼の孫である中ピピン(ピピン2世、?~714)の時にはカロリング家がフランク王国の実権を握るようになった。 
 中ピピンの子が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム教徒を撃退したことで知られるカール=マルテル(689~741)である。彼は、父の後を継いでアウストラシアの宮宰となり(任714~741)、720年には全フランク王国の宮宰となった。  
 その頃、アフリカからジブラルタルを渡りイベリア半島に侵入したイスラム(ウマイヤ朝)軍は西ゴート王国を滅ぼし(711)、さらに北上してガリアに侵入した(720)。そして、732年10月、ポワティエとトゥール間で7日にわたってイスラム教徒とキリスト教徒との間で一大決戦が行われた。これが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732)で、カール=マルテルは重装騎兵を中心とするフランク軍を率いてイスラム軍を撃退し、ヨーロッパとキリスト教世界をイスラムから守った。この時、カール=マルテルが教会領を没収して家臣に与えたことが、封建的主従関係の成立を促進することとなった。 
 カール=マルテルは、イスラム軍を撃退した後、ブルゴーニュ地方(フランス東部)からラングドック地方(フランス南部)を征服した。これによってフランク王国の領土はフランスの全土に広まった。彼は、737~742年までは正統の国王がいないという理由で国王を置かないでフランク王国を統治した。今やフランク王国の実権は事実上カロリング家に握られることとなった。 
 726年にビザンツ(東ローマ)皇帝レオン(レオ)3世が聖像禁止令を発布して以後、ビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇は、ビザンツ皇帝にかわる保護者としての有力な政治勢力を求めていた。 
 トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍の強さを知ったローマ教皇は、フランクとの提携をはかった。ローマ教皇はカール=マルテルに使いを送り、彼がロンバルド族から教皇を守ってくれるなら、教皇は東ローマと手を切ってフランクをローマ教皇の保護者に認めようと申し出たが(739)、カール=マルテルはこれを断った。それから2年後に彼は亡くなった。 
 カール=マルテルの死後、兄とともに父の後を継いで宮宰となったのが、小ピピン(ピピン3世、714~768、位751~768)である。彼は兄が修道士になって隠退したあと、全フランク王国の実権を掌握した。そして、751年にメロヴィング朝の最後の皇帝ヒルデリヒ3世を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751~987)を開いた。 
 この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇ザカリアスは、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンのクーデターを承認した。ザカリアスの次の教皇の時、教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに頼み込んだ。 
 これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。この出来事は「ピピンの寄進」と呼ばれ、これが教皇領の起源となった。またこの出来事によって教皇とフランクの結びつきが強まった。 
 

 

 
3.

1 西ヨーロッパ世界の成立
 
3 ローマ=カトリック教会の成立
 フランク王国の発展とともに勢力を伸ばしたのがカトリック教会である。教会は、元来はキリスト教徒の団体を指す言葉であったが、後には建物をも指すようになった。教会は3世紀頃までに、ローマ帝国内の各地に成立し、増大していった。その中から、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアのいわゆる五本山、総大司教座が置かれた5つの教会が重要となった。 
 このうち、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であり、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張した。ローマ帝国が東西に分裂する(395)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下にはいると、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争った。 
 ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後、西ヨーロッパにおいて精神的権威を持つことになったが、教皇(ローマ教皇、ローマ=カトリック教会の最高首長で初代のペテロを継ぐ者とされる、ラテン語ではPapa、英語ではPope)の地位につくには東ローマ皇帝の承認が必要だったし、東ローマ皇帝がいる限り、キリスト教の保護者は東ローマ皇帝であった。しかも、西ローマ帝国の滅亡後はアリウス派を信仰するゲルマン諸族に周りを囲まれ、ローマ教会が頼れるのは東ローマだけであった。こうした状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていた。 
 修道院は、修道士・修道女が共同生活しながら修行する場である。4世紀頃のエジプトにあらわれ、シリアに伝播し、さらにヨーロッパに伝えられた。この修道院を改善し、西ヨーロッパ独自の修道院制度を創始したのがベネディクトゥス(480頃~543頃)である。 ベネディクトゥスは、イタリアの貴族の家に生まれ、ローマで哲学・法学を学んだが退廃したローマの生活に失望し、17才頃サビニ山中の洞窟で修行した。その後、祈りの他に労働や学問を日課とし、強い信仰心と高い教養をもつ聖職者の養成を目指して、ローマの南方のモンテ・カッシノに修道院を建てた(529)。 
 ベネディクト派修道院は、貞潔・清貧・服従を旨とし、「祈り、働け」をモットーとする聖ベネディクトゥス会則(戒律)を作り、これを厳格に守らせた。修道士達は、午前2時に起床し、午後8時に就寝するまでに、4~5時間の祈りと6~7時間の労働を行い、2時間の読書・写本に励んだ(シトー派修道会、6月の例)。修道院の生活は自給自足だったので、生活に必要な物は全て修道士の労働によって作り出された。そのため修道院は、民衆の教化という宗教的な面や開墾などの経済的な面だけでなく、学問研究などの文化的な面でも大きな功績を残した。 
 聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地に広まり、ベネディクト派修道院は多くの優れた聖職者を生み出した。彼らはゲルマン諸族の王をアタナシウス派に改宗させたり、辺境や異教の地での布教に活躍した。「大教皇」と呼ばれたグレゴリウス1世もベネディクト修道院で修行した1人であった。 
 グレゴリウス1世(540頃~604、位590~604)は、ローマの貴族の家に生まれ、ローマの総督にもなったが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出された。彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を主張して譲らず、教皇権の確立に務めた。またゲルマン人の改宗に努力し、特にアングロ=サクソン族の改宗に力を尽くした。 
 これより少し前、ユスティニアヌス帝(位527~565)治下のビザンツ(東ローマ)帝国は、東ゴート王国を滅ぼして(555)、一時イタリアを回復したが、その後イタリアに南下してきたロンバルド族によってイタリアを奪われた(568)。以後、ローマ教会もゲルマン諸族の中で最も野蛮であったといわれ、アリウス派を信仰するロンバルド族の圧迫を受けることになった。こうした状況の中で、グレゴリウス1世は東ローマ勢力がイタリアから後退したのを見て、従来の東ローマに頼る方針を改めて、ローマ教会は以後ゲルマン国家との繋がりを強めるべきだと考えるようになった。 
 その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫った。さらにイスラム教徒は、北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化した。こうした状況の中で、ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護・援助を期待することはむずかしくなった。 
 イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717~718)に耐え、これを撃退したビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世(レオ3世、位717~741)は、726年に「聖像禁止令」を発布した。 
 当時、キリスト教徒の間では、イエス・マリア・殉教者の聖像(偶像)や聖遺物を崇拝する風潮が盛んとなっていた。偶像を否定するユダヤ教を母胎とするキリスト教は元来聖像(偶像)崇拝を厳禁する宗教であった。さらに偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世はいっさいの聖像の制作・所持・礼拝を禁止し、破壊を命じた。これが「聖像禁止令」である。 
 しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段に利用していたローマ教会の反発を招き、ローマ教会との対立を引き起こし、東西教会分裂の契機となった。この対立にあたり、東ローマ皇帝は強硬な態度を取り、今まで対立していたロンバルド族と結び、ロンバルド王にローマ教会に対する圧迫をますます強めさせた。 
 ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し、ロンバルドの圧迫に苦しんでいるときに起きたのが、732年のトゥール=ポワティエ間の戦いである。イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に目をつけたローマ教皇は、従来の政策を転換して、東ローマと手を切り、フランクと結ぶことを決意し(739)、カール=マルテルに接近をはかった が失敗に終わったことは前に述べた。 
 カール=マルテルの後を継いだ小ピピン(位751~768)は、751年にメロヴィング朝の皇帝を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751~987)を開いた。 
 この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンの王位を承認した。そして次の教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに頼み込んだ。 
 これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結びつきはますます固くなった。 
 

 

 
4.

1 西ヨーロッパ世界の成立
 
4 カール大帝
 小ピピンの子が、中世西ヨーロッパの歴史を代表する人物、有名なカール大帝(カール1世、シャルルマーニュ、742~814、位768~814)である。彼は、父ピピンの後を弟とともに継いだが、弟の死で単独の王となった(771)。3年後に教皇の要請でイタリアに出兵し、今まで教皇を圧迫してきたロンバルド王国を滅ぼした(774)。 
 ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住していたサクソン(ザクセン)族の一部はアングル人とともにブリタニアに渡ったが、残りは北ドイツに居住していた。カール大帝は、サクソン族との5回以上30年に及ぶ戦いの末、ザクセン(サクソニア)地方を征服し、サクソン族のキリスト教化に成功した。 
 この間、中央ヨーロッパに侵入してきたアジア系のアヴァール人と戦い(791~799)、これを撃退し、ドナウ川の中流域にまで領土を拡大した。アヴァール人は、モンゴル系と言われ、かつては突厥に服属していたが、その一部が西に移動した。6世紀以後、中央ヨーロッパに侵入し、パンノニア(ハンガリー)を中心に勢力を拡大したが、東ローマ軍に大敗し(601)、分裂した。さらにカール大帝にも敗れ(791)、その首長はフランクに服属した。その後、アヴァール人はスラヴ人やマジャール人に同化していった。 
 南では、イスラム教徒と戦い(778~801)、スペイン辺境領を設置し、スペイン東北部にまで領土を拡大した。このイスラムとの戦いの帰途、ピレネー山中のロンスヴォーで殿(しんがり)軍が敗北した。この出来事が11世紀末に完成する「ローランの歌」の題材となった。「ローランの歌」は、カール大帝の甥のローランの活躍を歌った中世ヨーロッパの代表的な騎士道物語の一つであるが、カール大帝は200才を越える老騎士として登場する。 
 こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまたがる西ヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国を建設した。彼は、この大国の統治に当たって、中央集権化をはかり、全国を多くの州に分け、、各州に伯を置いて統治させた。 伯にはそれぞれの地方の有力者を任命し、巡察使を派遣して伯を監督させた。彼はまた、学問や文芸の復興をはかり、イギリスの神学者のアルクィンらを招き、教育や文化を保護・奨励し、いわゆるカロリング=ルネサンスを現出した。 
 800年のクリスマスの日、ローマのサン=ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世は、カール大帝にローマ皇帝の帝冠を与えた。この「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する出来事であった。 
 カール大帝の父ピピン以来、教皇とフランクの結びつきは強くなっていたが、教皇レオ3世は、カール大帝が西ローマ帝国の旧領をほぼ統一したのを見て、カール大帝をローマ皇帝にすることによって、その結びつきをますます強固なものにし、東ローマ皇帝と対等の権威をつくり出そうとした。しかし、カール大帝は、教皇が皇帝をつくることは前例がなく、皇帝をつくれるのは東ローマ皇帝だけであると考え、東ローマ皇帝と交渉し、ようやく812年にヴェネチアその他を東ローマ皇帝に譲ることを条件に自分の地位を東ローマ皇帝に認めさせた。 
 ともあれ、「カールの戴冠」は、政治的・宗教的・文化的意義を持つ重要な出来事であった。政治的意義は、ゲルマン民族の大移動以来混乱していた西ヨーロッパ世界がビザンツ(東ローマ)帝国に対抗できる一つの政治的勢力としてまとまり、東ローマ帝国から独立し、西ヨーロッパ世界が成立したことである。 その意味から、ゲルマン(フランク)人であるカール大帝に与えられたのは、西ローマ皇帝の帝冠であり、これによって「西ローマ帝国」が復活したとみなしている。 
 今まで見てきたように、西ヨーロッパ中世世界の成立にイスラム教徒は大きな影響を及ぼした。そのことを、ベルギーの歴史家ピレンヌ(1862~1935)はその著「マホメットとシャルルマーニュ」の中で「マホメット(ムハンマド)なくしてカール大帝(シャルルマーニュ)なし」という有名な言葉で述べている。 
 宗教的意義は、フランクを後ろ盾としてローマ=カトリック教会がビザンツ帝国(東ローマ)皇帝から独立した地位を得たことである。726年の「聖像禁止令」発布以後、対立を深めていたローマ教皇を首長とするローマ=カトリック教会(西方教会)とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会(東方教会)は、1054年に相互に破門(教会共同体から除外すること)し合い、完全に分離した。以後、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界で、ギリシア正教会は東ヨーロッパ世界で勢力を持つことになる。 なお、この東西両教会が和解するのは、実に1965年の12月のことである。この年、ローマ=カトリック教会とギリシア正教会は相互に破門を取り消し、やっと和解した。 
 そして文化的意義としては、ギリシア・ローマの古典文化の要素とキリスト教的要素に、新たにゲルマン的要素が加わり、ヨーロッパ文化圏が成立したことがあげられる。 
 まさに 、「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する重要な出来事であった。  
 

 

 
5.
12.西ヨーロッパ封建社会の発展

2 西ヨーロッパ封建社会の発展
 
1 フランク王国の分裂
 カール大帝には約20人の子供がいたが、男子で彼の死後まで生きたのは第3子のルートヴィヒ1世(ルイ1世、敬虔王、位814~840)だけだったので、彼がカール大帝の後継者となった。彼は敬虔王のあだ名の通り、信仰心が厚く各地に教会や修道院を寄進したが、政治力・決断力に欠けていたと言われている。 
 ルートヴィヒ1世は、817年に王国をロタール、ピピン、ルートヴィヒの3人の子供に分配したが、829年に再婚して生まれた末子のシャルルに再分配しようとしてロタールらの反乱を招き、ルートヴィヒを攻撃中に亡くなった。 
 父の死後、長子のロタール1世が全土の支配を図ったのに対し、次子のルートヴィヒ2世と末子のシャルル2世(ピピンは早死した)が結んでロタール1世を破り、843年にヴェルダン条約を強制して、王国を3分割した。長子ロタール1世(位840~855)は中部フランク(中フランク、東・西フランクの中間地帯とイタリア)を獲得し、次子ルートヴィヒ2世(843~876)は東フランク(ドイツ、ライン川以東の地)を、そして末子のシャルル2世(位843~877)は西フランク(フランス)を獲得した。 
 ロタール1世は、西ローマ皇帝の地位と中部フランクを得たが、3人の中で一番早く亡くなり、後を継いだロタール2世も没すると(869)、ルートヴィヒ2世とシャルル2世は再び結んで、870年のメルセン条約で、兄の領土であったイタリアを除く中部フランクをほぼ均等に分割して、それぞれ東・西フランクに併合した。 
 メルセン条約による国境が、その後長い変遷を経て、今日のドイツ・フランス・イタリアの国境になっていく。その意味で、このメルセン条約によって後のドイツ・フランス・イタリアの基礎がつくられたと言える。 
 このフランス王国が分裂していった時期はヨーロッパが外部からの侵入に脅かされ・苦しめられた時期でもある。北からはノルマン人、東からはマジャール人、南からはイスラム教徒がヨーロッパ世界を脅かし、この外部からの侵入は以後のヨーロッパの歴史に大きな影響を及ぼしていく。 
 イタリアでは、ルイ2世(ロタール1世の子)の死によってカロリング家が断絶した(875)。その後、イタリアでは諸侯や都市が分立し、北イタリアは東フランク(962年以後は神聖ローマ帝国)やビザンツの介入を受け、南イタリアはイスラムやノルマン人の侵入を受けた。このためイタリアは分裂状態に陥り、中世の「イタリア」は地理的名称にしかすぎなくなった。 
 東フランクでは、ルートヴィヒ4世(東フランク第4代の王)が若死して、911年にカロリング朝が断絶すると、カロリング家と血縁関係にあったフランケン公コンラート1世が有力諸侯達によって国王に選出された。しかし、コンラート1世はマジャール人(ハンガリー人)の侵入と国内の各部族の分立に苦しめられ、王として力は弱かった。こうした状況の中で、人々は血統よりも実力のある人物が王となり、王国が再建されることを願うようになった。そこでコンラート1世は後継者に有力諸侯の1人であったザクセン公ハインリヒ1世(位919~936)を指名した。 
 ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジャール人・スラブ人の侵入を撃退して、国内の結束を固め「ドイツ王国」の名称を用いたので、ハインリヒの即位をもって国家としての「ドイツ」が成立したと見なしている。彼は国内の各部族の分立を抑えることはできなかったが国民の信頼を得ていたので、彼の死後、子のオットー1世が諸侯の選挙によって東フランク王に選ばれた。 
 オットー1世(912~973、東フランク王(位936~973)、神聖ローマ帝国初代皇帝(位936~973))は即位すると、国家の統一に力を注ぎ、外敵のマジャール人を討ち、国内では敵対する諸侯を抑えて中央集権体制の確立に努めた。 
 マジャール人は、アジア系の遊牧民で、現在のハンガリー人の祖先である。ウラル語族に属し、原住地はウラル山脈の西南部の辺りと考えられている。5世紀頃から西南方に移動を開始し、カフカース地方(黒海とカスピ海に挟まれた地方)に数世紀間定住していたが、9世紀の初め隣接民族の移動に刺激され、再び西方に移動しハンガリー平原に入り、以後ここを拠点としてドイツ・イタリア・ギリシアに連年にわたって侵入した。彼らは騎馬戦術に優れ、その凶暴さと残忍さで周辺の人々に恐れられた。 
 オットー1世は、933年と特に955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破し、その西方進出を阻止するとともに、オストマルク辺境領(後のオーストリア)を置いてその後の侵入に備えた。 
 国内では大諸侯を抑えるために一族の者を諸侯として各地に配置したが、一族の者が各地の部族勢力と結んだため目的を果たすことができなかった。そこで「帝国教会政策」を採用して中央集権体制の確立をはかろうとした。帝国教会政策は、教会や修道院領を王領とし、司教や修道院長の任命権を握り、聖職者を国王の官僚とし、彼らを王権の支柱とする政策である。 
 オットー1世は、帝国教会政策を進めるために、3回にわたってイタリア遠征を行った(951~952、961~964、966~972)。この2回目の遠征の時、教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の帝冠を授けられた(962)。ヨハネス12世(位955~964)は、トスカナ公家の出身で、教皇領の拡大をはかり、イヴレア侯と争い、オットー1世に助けを求め、彼が軍を率いてイタリアに入るとローマ皇帝の冠を授けた。 
 これが「神聖ローマ帝国」(962~1806)の起源となった。この国は最初は単に「ローマ帝国」と呼ばれていたが、13世紀の中頃以後「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。 
 ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現したが、その後のドイツ王は代々「ローマ皇帝」の称号を受けたことから、歴代の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)は本国の統治よりもイタリア支配に熱中した。このためドイツ国内は分裂状態に陥っていく。この歴代の神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ばれている。 
 西フランクは、8世紀末以来のたび重なるノルマン人の侵入に苦しめられていた。特に885年から86年に、約700隻の船に分乗した約3万人のノルマン人の大軍がセーヌ川をさかのぼりパリを包囲した。この時、無能なカロリング家の西フランク王に代わってパリを死守し、名声をあげたのがパリ伯ウードであった。 
 ウードの甥、パリ伯ユーグの長子として生まれたのがユーグ=カペー(938頃~996、位987~996)である。ルイ5世の死によってカロリング家が断絶すると、カロリング家の女を妻としていたユーグ=カペーは、国王選挙で対立候補であったロレーヌ公シャルル(ルイ5世の叔父)を破って王位に就き(987)、カペー朝(987~1328)を開いた。 
 しかし、カペー家の王領はパリとオルレアンを含む狭い地域に限られ、また各地に分散していたため、王権は弱く、振るわなかった。 
 

 

 
8.

2 西ヨーロッパ封建社会の発展
 
2 ヴァイキングの活動
 ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカンディナヴィア半島・ユトランド半島を原住地とし、スウェーデン・デンマーク・ノルウェーの3つの部族に分かれていた。彼らは狩猟や漁労を営んでいたが、また造船と航海に優れた技術を持っていた。 
 ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40~60人程度の人を乗せ、高い舳先(へさき)を持ち、甲板はなく、櫂と帆で走り、時速は約10ノットを出した。吃水は約1mで河川の遡行に適していた。 
 ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不足が原因と考えられている)、ヨーロッパ各地に侵入・移動した。初めは商業活動を行っていたがしばしば掠奪や海賊行為を働き、「ヴァイキング」(入り江の民の意味、後には海賊を意味するようになった)と呼ばれて怖れられた。彼らは、海岸を荒らし、河川をさかのぼって町や村・修道院などを襲撃・掠奪し、掠奪を免れようとする領主などからは賠償金を徴収した。彼らの襲撃を受けた人々は町や村を捨て、ひたすら奥地に逃げ込むしかなかった。 
 ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い掠奪を行ったが、やがて内陸部に入り込み、土地を奪って定着し、建国するようになった。 
 ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末のカール大帝の頃にはすでに始まっていた。西フランクには大西洋に注ぎ込む河川が多いので彼らの侵入には好都合であった。9世紀に入るとノルマン人の侵入はいっそう活発となり、885年にはパリが包囲されたことは前に述べた。 
 ノルウェーのノルマン人の首長であったロロ(860頃~933)は北フランスを荒らし、セーヌ川の河口地帯を占領した(890頃~910)。このロロの侵入に苦しんだシャルル3世(西フランクの6代目の王、位893~923)は、ロロがキリスト教に改宗することを条件に、セーヌ川の下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許し、ノルマンディー公に封じた(911)。このノルマンディー公国は13世紀にフランスに併合されるまで続いた。 
 ノルマンディーに定着したノルマン人の下級貴族のある家に12人の武勇に優れた兄弟がいた。彼らは遠く地中海にまで進出し、最初は東ローマやロンバルドの傭兵となったが、後に自立し、掠奪と征服に乗り出し、南イタリアに地盤を築いていった。ルッジェーロ(ロジェール)1世(1031~1101)は、教皇からイスラム教徒が支配するシチリア島の討伐を命じられた兄のロベール=ギスカールを助けて、シチリア島に侵入・征服し(1061~)教皇からシチリア伯の称号を得(1072)、兄の死後(1085)は南イタリアをも支配した。 
 父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジェーロ2世(位1130~1154)は、南イタリアを含むノルマン諸勢力を統合してシチリア王となり、両シチリア王国を建国した(1130)。 
 フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだのがイングランド(イギリス)である。ゲルマン民族の大移動の時、イングランドにはアングロ=サクソン族が移住し(5世紀中頃以後)、先住のブリトン人を征服し、部族ごとに多くの小王国を建設した。これら小王国は6世紀末にケント・エセックス・サセックス・ウェセックス・イースト=アングリア・マーシア・ノーザンブリアの七王国(ヘプターキー)に統合された。 
 七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王のエグバート(エグベルト)(ウェセックス王、位802~839、イングランド王、位829~839)が七王国すべてを支配下においてイングランドを統一した(829)。 
 イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の侵入が始まり、9世紀に入ると、その侵入はいっそう激しさを増した。デーン人はデンマークからイギリスに侵入したノルマン人の一派を指すが、イギリスではノルマン人・ヴァイキングがデーン人と呼ばれた。デーン人は、イングランドを次々に征服し、9世紀後半には南西部のウェセックスがわずかに独立を保っているに過ぎない状態となった。 
 こうした状況の時にイングランド王に即位したのが、エグバートの孫のアルフレッド大王(848頃~899、位871~899)である。アルフレッド大王は、デーン人との激しい戦いの中から彼らの戦術を学び、それを利用してデーン人を打ち破り、彼らの勢力をデーンロー地方(イングランドの東部)の北部に限定することに成功した。また彼は海軍の拡張などの軍制改革、行政制度の整備などに尽くし、イングランド王国を再建した。このようにアルフレッド王はイングランドをデーン人から守ったアングロ=サクソン族の最も偉大な王としてイギリス国民から尊敬され、大王の名で呼ばれている。 
 アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較的少なく平和な状態が続いたが、11世紀の初め、イングランド王が反乱を口実に国内のデーン人を虐殺したことから、再びデーン人の大規模な侵入が始まった。 
 デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングランド王、位1016~1035、デンマーク王、位1018~1035)が父とともにイングランドに侵入・征服し(1013、1015)、1016年にはイングランド王となり、デーン朝(1016~1042)を開いた。彼は兄の死によりデンマーク王を兼ね、さらにノルウェー とスウェーデンの一部を征服し(1028)、北海を取りまく大海上帝国を建設したが、彼の死後、大帝国はまもなく崩壊し、デーン朝は3代で滅びた。 
 その後、イングランドでは再びアングロ=サクソン王朝が復活したが(1042)、1066年の「ノルマンの征服」(ノルマン・コンクェスト)によって再びノルマン人に征服され、ノルマン朝(1066~1154)が建てられることになる。 
 ノルマンディー公ウィリアム(1027頃~1087、ノルマン朝の創始者、イギリス王としてはウィリアム1世(位1066~1087)は、ノルマンディー公ロロの5代目の子孫で、父の後を継いでノルマンディー公となった(1035)。イングランドでエドワード懺悔王(位1042~1066、デーン朝が断絶するとノルマンディーから帰国して即位した、ウェセックス家最後のイングランド王、母はノルマンディー公家の出)が亡くなり、義弟のハロルドが即位するとノルマンディー公ウィリアムは、エドワード王の従兄弟の子として王位継承を要求してイングランドに侵入した。彼は約750隻の船に約15000人の兵を分乗させ、ヘースティングス付近に上陸し、ヘースティングスの戦い(1066)で大勝してハロルドを敗死させ、イングランド王に即位してウィリアム1世と称し、ノルマン朝を創始した。これが「ノルマンの征服」と呼ばれる出来事である。 
 ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封建制度を移入し、ノルマン貴族を各地に封じて統治させた。そして全国的な検地を行い、ドゥームズデー=ブックと呼ばれる検地帳(土地台帳)を作成させ、全国の土地所有者を集めて王への忠誠を誓わせた(「ソールズベリーの誓約」、1086)。またカンタベリー大司教を任命するなど、集権的封建制度でイギリスを統治した。 
 「ノルマンの征服」によって、ノルマンディー公国はイギリス領となり、イギリスはヨーロッパに領土を持つこととなった。またフランス王の家臣であったノルマンディー公がイギリス王になり、主君のフランス王よりも強大な力を持つことになったことが、以後の英仏関係複雑にし、長期にわたる英仏抗争の原因となった。 
 北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ(ルス)族の族長であったリューリク(ルーリック)(?~879)に率いられたノルマン人の一派(ルーシ族)が、スラヴ系の諸部族の要請を受けて兄弟でロシアに入り、ロシア最古の都市の1つであるノヴゴロドに入り、ノヴゴロド公国を建てた(862)。これがロシア最初の国家とされる。なおロシア(Russia)の呼称はルス(Russ)に因むと言われている。 
 その後、リューリクの一族のオレーグに率いられたルーシ族はさらに南下し、ロシア最大の都市キエフを中心にキエフ公国を建国した(882)。 
 ノルマン人の現住地にはデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3王国が成立した。デンマークでは、8世紀頃、デーン人がユトランド半島を中心に王国を形成した。11世紀前半のクヌート王の時代にはイギリス及びスウェーデン・ノルウェーの一部を統一し、北海帝国を建設した。ノルウェーでは、ノルマン人によって9世紀末に初めて統一国家が形成された。しかし、11世紀前半にはデンマークのクヌートの支配下に置かれた。スウェーデンにも、10世紀頃ノルマン人によって統一国家が形成された。 
 ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して、そこに移住した。アイスランドは13世紀末にノルウェーに併合された。ノルマン人の一部は大西洋を越えて、10世紀末にグリーンランドに達し、また1000年頃には北米のヴィンランド(カナダの東部)にも達したと言われている。とすると、コロンブスの発見よりも500年も前のことになるが、名前も伝わってないし、記録もないため、最初にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人はコロンブスと言うことになっている。  
 

 

 
9.

2 西ヨーロッパ封建社会の発展
 
3 封建社会の成立
 中世西ヨーロッパは、イスラム・マジャール人・ノルマン人などの圧迫によって絶えず苦しめられていた。こうした状況の中で、西ヨーロッパに封建制度・封建社会が成立した。人々は外民族の侵入から自分の土地を守るために、今までのように遠くの王や皇帝を頼るのではなく、近くの有力者に保護を求め、主従関係を結ぶようになった。このため有力者は多くの家臣を従えて勢力を持つようになり、各地で自立していき、その一方で王や皇帝は、地方の一有力者に過ぎなくなっていった。 
 封建制度という言葉は、狭義では封土(ほうど)の授受を中心に形成された主従関係を指す言葉として使われ、そして広義では、荘園制を基礎とする社会組織一般を指す言葉として、封建社会と同義に使われる。 
 西ヨーロッパでは、8~9世紀頃までに、封土の授受によって結ばれた主従関係による階層組織をもつ社会、封建制度に基づく社会、すなわち封建社会が成立した。 
 西ヨーロッパの封建制度は、ローマの恩貸地制度とゲルマン人の従士制度が結びついて成立したとされている。恩貸地制度は、土地所有者が自分の土地を守ってもらうために、有力者に土地を献じてその保護下に入り、改めてその土地を恩貸地として受け、土地の使用権を与えられるかわりに有力者に奉仕する慣習でローマ帝国末期に形成された。 
 一方、古ゲルマンの慣習である従士制度は、自由民の子弟が有力者のもとで、衣食・武器など(これを封という)を与えられて扶養と保護を受けながら、一人前の戦士に育て上げてもらう、そのかわりに一生涯その有力者に対して服従し、奉仕・忠誠をつくすというものである。 
 これらの制度がもとになり、フランク王国のもとで長期間のうちに、王・諸侯・騎士の間で、主君が臣下に封土を与え、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役(従軍)などの義務を負うという封建的主従関係が幾層にも出来上がっていった。特に、カール=マルテルがイスラム教徒の侵入に対抗するために騎士軍を創設する際、教会領の土地の一部を騎士に与えたことが西ヨーロッパでの封建制度の成立に大きな影響を与えたと言われている。 
 この封土の授受を媒介とする主従関係は次第に世襲化されていき、封土も世襲化されていった。しかし、西ヨーロッパの場合、この主従関係は個人と個人の双務的な契約関係であって、一方的な支配と従属の関係ではなかった。このことが西ヨーロッパの封建制度の特色である。 
 双務的な契約関係とは、主君と臣下の双方に契約を守る義務があるということで、主君といえども臣下に絶対的・無条件の服従を強いることは出来ず、臣下には主君の無理な要求には服従を拒む権利があったということである。 
 臣下の義務の中で最も重要な義務である軍役についても、12世紀のフランスの場合、遠征は年40日、近隣の諸侯との戦闘は歩いて24時間で行ける距離までで1週間が原則であった。また臣下は義務さえ果たせば複数の主君を持つことが出来、2人以上の主君を持つ場合も多く、なかには45人の主君を持った例もあったといわれている。 
 イスラムをはじめとする外民族の侵入による混乱によって交通や商業が衰え、人々は農村で自給自足の生活を営むようになり、西ヨーロッパは自給自足(自然経済)による農業中心の社会に移っていく。言い換えると、西ヨーロッパ全体が巨大な農村になっていった。 
 こうした中で、諸侯・騎士は封土として与えられた土地を所領として支配する領主として、そこに住む農民を支配するようになった。彼らが領主として支配した土地は荘園と呼ばれた。中世ヨーロッパでは教会や修道院も寄進や開墾によって多くの荘園を持つようになったので、大司教や修道院長らの聖職者も、諸侯や騎士とともに領主として荘園の農民を支配した。 
 一般的な荘園の場合、領主の館(大諸侯の場合は城)・教会・農民の住居などが中心にあり、その周辺に領主の直営地・農民の保有地からなる耕地と農民が共同で使用できる牧草地や森林が広がり、水車小屋やパン焼き小屋などの施設もあった。 
 荘園内の農民の大多数は農奴と呼ばれる不自由な隷農であった。農奴は移転の自由がなく、生涯その土地に縛り付けられ、職業選択の自由もなかった。また領主裁判権に服さねばならないなど様々な身分的な束縛を受けた。しかし、奴隷とは違って、家族を持つことが出来、住居や農具などの所有は認められていた。 
 このような農奴になったのは、ローマ末期のコロヌスや解放奴隷、そして民族大移動の混乱の中で土地を失ったり、有力者に隷属するようになった没落したゲルマンの自由民などであった。 
 農奴は、身分上の束縛を受けるとともに、領主に対して様々な経済的な義務(税の負担)を負っていた。そのうち特に重要なのが賦役と貢納であった。 
 荘園の耕地は領主が直接経営する直営地と、農奴に貸し与えた農民保有地からなっていた。その領主の直営地で週のうち2~3日間労働するのが賦役である。しかし、その全収穫物は領主の物となる。農奴はただで働くことによって税を負担しているのと同じことになるので、賦役は労働地代とも呼ばれる。農奴はこの賦役をきらったが、この賦役と引き替えに領主から保有地を支給された。農奴は保有地を耕作し、その収穫物の一部や鶏卵・チーズなどを現物を納めた。これが貢納である。貢納は生産物地代とも呼ばれる。 
 さらに十分の一税があった。これは農奴が荘園内にある教会に納めた貢納である。その名の通り、あらゆる収穫の十分の一を納めた。この他、結婚税・死亡税を納めた。死亡税によって保有地の世襲が認められた。そして水車小屋・パン焼きかまど使用料(小麦を粉にしたり、パンに焼くには領主が経営する水車小屋・パン焼きかまどを使用せねばならなかった)の負担など有りとあらゆる税負担を強いられた。この農奴からの搾取によって領主階級の生活が成り立っていた。それが荘園制であり、その上に成り立っていた封建社会であった。 
 このような中で農奴たちは必死に働いた。特に保有地での労働は、領主に納めたあとの残りは自分の物になるので、賦役に比べて労働意欲が高く、直営地に対して保有地の方が生産性が高かった。さらに生産性の向上に様々な工夫が為された。その中で特に有名なのが三圃制である。これは耕地を三分し、春耕地・秋耕地・休閑地とし、3年で一巡する農法である。休閑地を設けて、そこでは家畜などを飼った。休ませることと家畜のふんなどで地力の回復をはかった。この三圃制は、二圃制(1年おきに休閑する)に代わって、10~11世紀頃から始まり、地力の低いところでは19世紀の初めまで続いた。また牛馬に犂(すき)を引かせるために、各耕地は細長い地条に分けられていた。 
 本来、封土であった荘園には、国王の官吏が立ち入り、裁判や課税などを行ったが、封建制(荘園制)の発展とともに、その権限が荘園の領主の手に渡り、国王の官吏は荘園にはいることが出来なくなり、徴税も行えなくなっていった。つまり、荘園領主が不輸不入権を手に入れ、その結果ますます封建社会の分権化が進んだ。このため11~13世紀の封建制度の最盛期には、一般に権力が分散して分権化し、王権は弱かった。 
 封建社会の支配階級である王・諸侯・騎士の間には、キリスト教の発展とともに、騎士道と呼ばれる新しい道徳が生まれてきた。日本の武士道にあたるが、戦士としての騎士の性格から、武勇と忠誠を中心にキリスト教的な神への奉仕、弱者への保護、特に婦人への献身的な奉仕が強調された。  
 

 

 
10.

2 西ヨーロッパ封建社会の発展
 
4 教会の権威
 フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ=カトリック教会は、ノルマン人やマジャール人の侵入によって大打撃を受けた。特に彼らの侵入を受けた地域の多くの修道院は、その富をねらう掠奪の格好の餌食となり、破壊された。しかし、その後の修道士達の布教活動によって10~11世紀にマジャール人やノルマン人もキリスト教化し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパの全域にわたって精神的な権威を確立していった。 
 この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進したので、教会や修道院は広大な所領(荘園)を所有するようになり、大司教や修道院長らは支配階級として、政治的にも大諸侯に匹敵する力を持つようになった。また、封建社会の発展にともない、ローマ=カトリック教会内にも、教皇を頂点とし大司教・司教・司祭と続く聖職者の階層制度が生まれ、修道院でも修道院長を頂点とする序列が出来た。 
 教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入や、信者からの寄進・賽銭・供物などによって経済的に豊かになるにつれて、教会の世俗化・聖職者の腐敗・堕落が大きな問題となってきた。 
 当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられている土地の所有者に帰属する、教会や修道院を管理する権限も、その土地の所有者に属すべきであるという考え方があった。従って司教や修道院長の任命権(聖職者叙任権)や教会や修道院の財産管理権も世俗の支配者(国王や諸侯)が握っていた。聖職者叙任権を世俗の支配者が握っていたことが教会や聖職者の腐敗・堕落の根本的な原因であった。 
 国王が領主として大司教などを任命する場合、聖書に対する学識よりも武勇や政治的な能力が重んじられた。こうした世俗の支配者に任命された聖職者の生活は俗人と変わりなく、多くの聖職者達は妻帯していた。また当時の聖職者は社会的な地位が高く、その上収入がよいので、大司教・司教の地位を金で買い取ることが行われ、聖職が財産の一部として扱われ、世襲も盛んに行われていた。こうして金で聖職の地位を手に入れた聖職者の中には聖書もろくに読めない人もいたといわれている。 
 こうした聖職売買や聖職者の妻帯などの弊害を取り除こうとする教会粛正運動の中心となったのがクリュニー修道院である。 
 クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領であるフランス東部のクリュニーに建設した修道院である。クリュニー修道院は、あらゆる世俗権力の支配から自由であること、修道院長の選挙は自由に行われることなどの権利をフランス王・教皇の特許状で獲得し、ベネディクト戒律を厳格に励行、し、典礼(祈り)と読書・研究などの知的活動に励んだ。 
 「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリュニー修道院の名は、当時多くの教会や修道院が腐敗・堕落していた西ヨーロッパの宗教界に新風を吹き込み、その名声がヨーロッパ中に広まり、多くの人々がクリュニー修道院で学び、その中から多くの優れた人材が生み出された。各地の国王や諸侯は資財を寄進して、クリュニーの支修道院をつくり、その会則を取り入れたため、最盛期の12世紀初めには約1500の分院を擁するヨーロッパ第1の修道会に発展した。 
 このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となったのが、1098年にブルゴーニュに建設されたシトー修道院である。シトー修道院もベネディクト戒律の厳格な実行と清貧・労働を重視した。クリュニー修道院では祈りや読書などの知的活動が重んじられ、労働に当てられる時間がほとんどなかったのに対し、シトー修道院では自らの労働で自らの生活を維持するための労働が重視された。彼らは荒野の開墾に従事し、開拓者の役割を果たし、経済的な面でも注目された。12世紀に全盛期を迎え、シトー派修道会は約1800の修道院を擁する一大修道会となった。 
 クリュニー修道院出身で、後に教皇となったのがグレゴリウス7世(1020頃~1085、位1073~1085)である。彼はイタリアのトスカナ地方の市民の家に生まれ、聖職者になり、のちにクリュニー修道院に入って修行し、その影響を強く受けた。教皇レオ9世に従って教皇庁に入り、6代20年間にわたって教皇を補佐し、教皇に選出されるとレオ9世以来の改革を徹底する、いわゆる「グレゴリウス改革」を断行した。 
 まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追放した。最初の頃、聖職売買で追放されたのは金銭の授受によって聖職者となった者であったが、聖職売買は聖職叙任権を世俗の支配者が握っている限りなくならないと考え、金銭の授受とは関係なく俗人によって任命は全て聖職売買であるとして、聖職の叙任を世俗人から受けることを禁止し、聖職叙任権は教皇に帰属すべきであることを主張した(1075)。これによって世俗勢力による支配と干渉から教会を解放するのが目的であった。 
 このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(1050~1106、位1056~1106)との衝突を引き起こした。 
 ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最初の10年間は母后が摂政となった。やがて親政したが(1065)、ドイツ(神聖ローマ帝国)は成立当初から大移動の際の単位であったかっての部族の勢力が強く、ザクセン・フランケン・ロートリンゲン・シュヴァーベン・バイエルンなどの部族公領の勢力が強かった。そのため、オットー大帝以来の歴代の皇帝は、国内に多くある教会や修道院を利用し、世襲のおそれのない(妻帯が禁止されていたので独身であった)司教や修道院長らを王国の要所に置いて皇帝の忠実な官僚としてドイツの統一を維持しようとした。 皇帝は帝国内の司教・修道院長の任命権を握っていたので、信頼できる家臣を司教・修道院長に送り込むことが出来た。そして絶えず教会や修道院に土地を寄進し、それに対して経済的・軍事的な義務を負わしていた。 
 従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物がドイツの司教・修道院長に任命されるようになると、ドイツの教会支配政策は崩壊し、皇帝権力の弱体化を招くことになる。そのためにハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の改革に強く反対した。 
 ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7世の廃位を決議させた(1076.1)。これに対してグレゴリウス7世は逆にハインリヒ4世の破門を宣告した(1076.2)。 
 破門はローマ=カトリック教会の罰則の1つで、破門されると教会共同体から除外される。君主が破門された場合は、臣下の封建的義務が解かれるので、破門は事実上の君主の廃位を意味した。 
 ドイツ諸侯は、マインツの南のトリブールに集まり、ハインリヒ4世の破門が1年以内に解除されなければ、ハインリヒ4世は教皇が主催するアウグスブルグの国会で王位を追われると決議した(1076.10)。 
 窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子をともない、数名の従者を連れて 厳冬のアルプスを越えてロンバルディアに入った(この年は異常な寒波がヨーロッパを襲った年だったのでアルプス越えは命がけであった)。この地は反教皇派の勢力が強かったので、ハインリヒ4世に付き従う軍勢の数が増え、遠征軍と変わらないほどになった。 
 グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、イタリアを北上していたが、ハインリヒ4世が攻めて来るという噂を聞いて、トスカナの女伯マティルダの要害であるカノッサ城に入り閉じこもった。1077年1月25日、ハインリヒ4世は少数の家来を連れてカノッサ城を訪れ、教皇への面会を求めた。しかし、教皇はこれを拒絶した。 しかし、マティルダとクリュニー修道院長の取りなしで、悔悛の実を示すことを条件に譲歩した。 ただ一人で三重の城門の第二門の中に入ることを許されたハインリヒ4世は、無帽・はだし・粗毛の修道衣をまとい、降り積もった雪の上に3日間立ちつくし、涙ながらに教皇に赦免を乞い求めたといわれている。こうしてハインリヒ4世はやっと城内で接見を許され、諸侯との争いの解決を教皇の裁定にゆだねることを条件に破門を解かれた。 
 これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事件として、歴史上有名な「カノッサの屈辱」(1077)である。 
 破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレゴリウス7世のドイツ来訪を阻止し、反国王派の諸侯が立てた対立国王のルドルフと戦った。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世にルドルフの破門を要求したが、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を再び破門した(1080)。これに対してハインリヒ4世はドイツとロンバルディアの司教を集めて公会議を主催し、グレゴリウス7世の廃位を決議させ、対立教皇を立てた。そして国内で反国王諸侯と戦い、ルドルフを敗死させた(1080)。 
 翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハインリヒ4世は、ローマの聖アンジェロ城に立てこもったグレゴリウス7世を取り囲んだ。そして自分の意のままになる聖職者を教皇の位につけ、クレメンス3世と名乗らせ、彼の手からローマ皇帝の帝冠を授けられた(1084)。グレゴリウス7世は、その後南イタリアのノルマン人の騎士ロベール=ギスカールに救出されたが、配流地のサレルノで翌年没した。こうしてみると最終的な勝利者はカノッサで屈服したハインリヒ4世の方であるように思える。もっとも、ハインリヒ4世も、一時ドイツで権威を回復したが、教皇ウルバヌス2世(十字軍を提唱した教皇)からも破門され(1094)、諸侯と結んだ子供の反乱に苦しめられ、失意のうちに世を去った(1106)。 
 ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(位1099~1125)の時、教皇カリクトゥス2世との間で「ヴォルムス(ウォルムス)の協約」が結ばれ、聖職叙任権闘争は一応終結した。ヴォルムスの協約の内容は、「司教選挙において俗権と聖権を分離し、皇帝側には選挙への出席と選ばれた者への俗権の授与を認め、教会側には選挙の自由と司教職への叙任権を認める」ということだが、まさに妥協の産物で、とても分かりにくい。要は皇帝は司教を任命する権利(叙任権)を放棄するが、司教領を皇帝の知行とし、これを司教に授封する権利を確保したということで、「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に」の精神に帰ったということになる。 
 その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の成功により、ますます隆盛に向かい、13世紀の初頭のインノケンティウス3世(位1198~1216)の時、教皇権は絶頂期に達した。 
 インノケンティウス3世(1160頃~1216、位1198~1216)はイタリアのアナーニ出身で、ボローニャ大学・パリ大学で学んだ後、若くして枢機卿(ローマ=カトリック教会の高級聖職、教皇の最高顧問として教皇庁内で要職を占めた)となり、わずか37歳で教皇に選出された。彼は、教会内部の改革を断行し、教皇至上権を唱え、ラテラノ公会議(1215)では「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」という有名な演説を行っている。 
 この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあったフリードリヒ2世を帝位につけ、フランス王のフィリップ2世には離婚問題とからんでインターディクト(ローマ=カトリック教会における罰則の一つ、祭式や洗礼などの秘蹟の授受を停止する、破門とは異なり、教会の一員である資格は失わない)を下し、アルビジョワ十字軍(後出)を強要し続けた。またカンタベリー大司教の叙任権をめぐってイギリス国王ジョンと争い、ジョンを破門して(1209)、封建的臣下とした。さらに第4回十字軍(1202~1204)を提唱したが、これは「脱線した十字軍」になってしまった。 
 インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、托鉢修道会(乞食僧団)を修道会として認可したことであるいわれている。イタリア人のフランチェスコ(1181頃~1226)が始めたフランチェスコ修道会、スペイン人のドミニコ(ドミニクス、1170頃~1221)が始めたドミニコ修道会がこれである。 
 フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに生まれた。若い頃は放蕩の生活を送っていたが、あることで投獄され、重病を患ったことから回心し、以後一切の財産・所有物と家族を捨て、清貧の共同生活に入った(1206)。あばら小屋に住み、乞食やハンセン氏病の患者の世話をしていたが、3年後に粗末な農夫の服を着て、縄の帯を締め、はだしの姿で、12人の仲間とローマに出て教皇インノケンティウス3世に面会を求め、修道会設立を願い出た(1209)。そして教皇の認可を得て「小さな兄弟たち」という団体をつくり、労働と清貧の修道生活を始めた。彼らは労働の報酬として食べ物を求めただけで、食べ物がないときは喜捨を乞うて歩いた。所有しているものは首からかける袋とお椀1つだけで、その他の物は一切持たなかった。このため彼の創設した修道会は托鉢修道会とか乞食僧団と呼ばれた。彼らはフランス・スペイン・遠くはエジプトまで、民衆の中に入り込んで説教・布教活動をして回った。 
 同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも、司祭となってローマに出て、教皇の命令を受けてアルビジョワ派(当時南フランスで盛んとなった異端の一派)の説得に努めた。その後、フランスのトゥールーズ付近にドミニコ修道会を創設し(1215)、翌年教皇から認可を受け、施し物によって衣食を得るという托鉢修道会に改め(1220)、 フランチェスコ派と並んで、民衆の信仰に新しい風を吹き込み、学問研究の面でも優れた業績を残し、カトリック精神の支柱となった。 
 こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭インノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎え、以後やや衰えながらも、14世紀の初め頃まで教皇権の強い時代が続くことになる。  
 

 

 
11.
13.東ヨーロッパ世界

3 東ヨーロッパ世界
 
1 ビザンツ帝国
 ゲルマン民族の大移動の開始(375)から、20年後のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂した。その後の混乱の中で、西ローマ帝国が滅亡(476)した後も、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(現イスタンブル)を都として、1000年以上も存続した。西ローマ帝国の滅亡後は、東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝として、西ヨーロッパのゲルマン諸王に権威を認められていた。 しかし、この間ドナウ川はもはや防衛戦でなくなり、ビザンツ帝国はドナウ川の南に移住したゲルマン諸族や、ドナウ川の北にいたフン族・スラヴ族・ブルガール人、そして東方からはササン朝ペルシアの侵入に絶えず脅かされていた。 
 また国内では、カルケドンの公会議(451)で異端とされた単性論(イエスは神と人の2つの性質を持つという正統のアタナシウス派の主張を認めず、イエスには神としての単一の性質しかないという説)が、シリア・エジプトの教会で主流を占め、これらの地域は東ローマ帝国から離れようとする傾向が強かった。 
 このような時期に、マケドニアの農家に生まれ、マケドニアの将軍で後に皇帝となった叔父のユスティヌス1世(位518~527)の養子となり、その死後帝位についたのが有名なユスティニアヌス1世(483~565、位527~565)である。 
 彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンスタンティノープルで起こった反乱、蜂起した民衆の”ニカ(勝利)という叫び声によってこう呼ばれる)を鎮圧し、対外的にはホスロー1世(位531~579)の即位後激しくなったササン朝ペルシアの侵入を、将軍ベリサリウス(494頃~565)らの活躍によって撃退し、休戦条約を結んだ(533、545)。 
 この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめざし、北アフリカのヴァンダル王国で親ローマ的な皇帝が廃されたことを口実に、将軍ベリサリウスにヴァンダル征討を命じた。ベリサリウスは、ヴァンダル王国を滅ぼし(534)、さらにシチリア島・ナポリを占領してローマに入り(536)、一時東ゴート王国を制圧した。しかし、東ゴート王国はさらに抵抗を続け、ベリサリウスがペルシアと戦っている間に勢力を取り戻し、イタリア全土を回復した。ベリサリウスにかわって東ローマの将軍となったナルセス(478頃~568)は、3万の軍を率いてイタリアに遠征し、ついに東ゴート王国を滅ぼした(555)。さらにその間、西ゴート王国とも戦い、ヒスパニア(スペイン)南部を領有した。 
 この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ帝国の領土は、バルカン半島・小アジア・シリア・エジプト・北アフリカ・イタリア・シチリア・スペイン南部にまで及び、地中海は再び「ローマの湖」となった。 
 「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしているのが「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」編纂の事業(529~534)である。彼は、ローマ人が後世に残した最大の文化遺産といわれるローマ法の研究を奨励し、トリボニアヌス(?~546)ら10名の法学者に命じ、ローマ法の大編纂事業を行わせた。 
 「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(位117~138)以後に発布された皇帝立法を集めた「勅法集(ユスティニアヌス法典)」、法学者の学説を集めた「学説集」と、この2つの抜粋である「法学提要」の三部から成り立っていて、534年に完成した。 
 現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けている。その影響はドイツ・フランスの法を通じて明治時代の日本の法にも及んでいる。その意味でも、「ローマ法大全」の歴史的意義は計り知れないほど大きい。 
 またユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行ったが、その最大のものがセント=ソフィア大聖堂である。セント=ソフィア大聖堂は、コンスタンティヌス大帝によって建立されたがのちに焼失した。これを再建したのがユスティニアヌス帝のセント=ソフィア大聖堂で、高さ56メートルのドーム(円屋根)と美しいモザイク壁画で飾られたビザンツ式建築の代表的建築物として有名である。 
 ユスティニアヌス帝は、このセント=ソフィア大聖堂の建立によって、東ローマ皇帝が政教両界の最高支配者であることを示した。この皇帝が同時に教会の首長であるという東ローマ帝国の政治理念は皇帝教皇主義と呼ばれる。しかし、彼の宗教政策は、東方のシリア・エジプトで盛んであった単性論と西方のローマ教皇の間に立って一定せず、帝国内を一つの信仰で統一することは出来なかった。 
 さらにユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経由して蚕と養蚕の技術が伝来し、以後絹織物業は東ローマ帝国の代表的な産業になっていく。 
 このように、東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時に最盛期を迎えたが、彼の死(565)から3年後にロンバルド族が北イタリアに侵入した。また東方はササン朝ペルシアの脅威にさらされ、北方からはアヴァール人やスラヴ諸族の侵入に脅かされた。 
 アフリカ総督の子、ヘラクレイオス1世(位610~641)が、ユスティニアヌス帝の死後の混乱を収拾し、クーデターによって帝位につき、ヘラクレイオス朝を開いた。しかし、名君と言われたヘラクレイオス1世の時代も首都コンスタンティノープルの周辺と小アジアを確保するのが精一杯で、ササン朝ペルシアによってエジプト・シリアを奪われ(611~616)、アヴァール人の侵入にも苦しんだ。やがて反撃に転じ。エジプト・シリアを奪回し(623~627)、アヴァール人の撃退に成功した(626)。しかし、晩年にはササン朝ペルシアにかわって台頭してきたイスラム教徒によって、シリア(635)、次いでエジプト(642)を失った。 
 このような対外的危機にあたって、国境防衛のために、軍管区制(テマとも呼ばれる)と屯田兵制を施行した。軍管区制は、帝国の全領域をいくつかの軍管区に分け、屯田兵をおき、軍団の司令官に駐屯地の民政を兼ねさせる制度である。屯田兵制は、軍管区制のもとで、司令官の指揮下に兵士に土地を与え、かわりに兵役を課した制度である。軍管区制は、625年頃ヘラクレイオス1世によって確立され、11世紀頃まで行われた。 
 東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルが古くはビザンティウムと呼ばれていたことから、ビザンツ帝国とも呼ばれる。ギリシア的・ヘレニズム的な東方地域を中心とした東ローマ帝国は、西ヨーロッパがフランクの発展とともに一つのまとまった世界を形成していく中で、西ヨーロッパとは異なる独自の世界を形成していった。このビザンツ的な独自の世界が形成されていくのが、7世紀のヘラクレイオス1世以後のことであるとされている。従って以後は、東ローマ帝国をビザンツ帝国呼んでいきたい。 
 シリア・エジプトを征服し、ササン朝ペルシアを滅亡に追い込んだイスラム教徒は、ビザンツ帝国艦隊を撃破し(655)、コンスタンティノープルを包囲した(673~678)。しかし、軍管区制などの国政改革が実を結びつつあったビザンツ帝国は「ギリシアの火」(一種の火薬、硝石・硫黄・松脂を混合した発火性物質で、水では消せなかった)を使ってイスラム軍を苦しめ、撃破した。しかし、イスラム教徒は717年に再度コンスタンティノープルを包囲した。 
 ビザンツ帝国は、この年に即位したレオン3世(675頃~741、位717~741)のもとで1年間の包囲に耐え、ついにこれを撃退した。 
 レオン3世は、北シリアの下層民の家に生まれ、後軍隊に入って軍管区の司令官にまで昇進し、軍隊に推されて、テオドシウス3世を廃して即位し、イサウロス朝を創始した。前述のイスラム教徒によるコンスタンティノープルの包囲に耐えて、これを撃退した。そして偶像を否定するイスラム教徒に刺激され、国内の富裕化した教会・修道院を抑えるために、726年に「聖像禁止令」を発布した。この聖像禁止令がローマ教会を巻き込んで、聖像崇拝の大論争に発展し、後に東西教会に分裂する(1054)きっかけになったことは前に述べた。 
 イサウロス朝にかわった、バシレイオス1世(位867~886)によって創始されたマケドニア朝(867~1057)の時代はビザンツ帝国中期の最盛期であった。特にバシレイオス2世(位963~1025)の時には、クレタ島を占領して東地中海の海上権を握って経済的に繁栄し、さらにブルガリアを滅ぼしてこれを併合し、南イタリアも一時奪回し、ユスティニアヌス帝以来最大の領土を誇った。 
 キエフ公国のウラディミル1世の改宗(989)によって、ロシアの地にギリシア正教を中心とするビザンツ文化が伝播するのもこの時代である。  
 しかし、11世紀中頃からセルジューク朝の侵入を受け、小アジアのほとんどを失った。 
 マケドニア朝の断絶後の混乱を鎮圧して即位したアレクシオス1世(位1081~1118)は、プロノイア制によって軍隊の再建を図った。プロノイア制は、11世紀頃から行われた土地制度で、奉仕・勤務の代償に、皇帝が地方領主に国有地の官吏・監督を任せる制度である。しかし、13世紀以降は世襲化され、社会の封建化を促進し、帝国解体の要因となった。 
 アレクシオス1世は、セルジューク朝の脅威を訴える書簡をローマ教皇ウルバヌス2世に送り、西ヨーロッパに救援を要請した。これに応えて、1096年に第1回十字軍が派遣されることになる。しかし、13世紀初頭に行われた第4回十字軍によってコンスタンティノープルは占領された。フランドル伯ボードアン1世(位1204~05)によるラテン帝国(1204~61)が建設され、ビザンツ帝国は一時崩壊した。 
 この時、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世(位1204~22)は、小アジアの北西部のニケーアを中心にニケーア帝国(1204~61)を建てて、セルジューク朝やラテン帝国に対抗した。ニケーア帝国5代目の皇帝ミカエル8世はコンスタンティノープルを奪回して、ビザンツ帝国を再建した(1261)。 
 しかし、その後のビザンツ帝国は、帝位争いや傭兵の反乱、オスマン=トルコ帝国の圧迫によって国力は全く振るわず、15世紀に入ると領土はコンスタンティノープルの周辺・ギリシアの一部・クレタ島・黒海南岸の一部にわずかに残るのみとなり、メフメト2世にコンスタンティノープルを占領され、1000年以上続いたビザンツ帝国は、1453年についに滅亡した。 
 ビザンツ文化は、ギリシア文化を継承・保存し、周辺のスラヴ人の開化やのちの西ヨーロッパのルネサンスに大きな影響を及ぼした。 
 西ヨーロッパ世界の文化が、ローマ文化とローマ=カトリック教会を基調としているのに対し、東ヨーロッパ世界の文化(ビザンツ文化)は、ギリシア文化とギリシア正教を基調としている。 
 ビザンツ帝国の領域では、ヘレニズム時代以後コイネーと呼ばれるギリシア語が使用されてきたが、6世紀頃からはギリシア語はビザンツ帝国の公用語として使用されるようになった。 
 美術の分野では、独自のビザンツ式が栄えた。ビザンツ式は、ドーム(円屋根)とモザイク壁画を特徴とする教会建築の様式で、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープルに建立したセント=ソフィア大聖堂がその代表である。セント=ソフィア大聖堂は、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン=トルコ帝国の占領後、イスラム教のモスク(寺院)に改装され、今日に至っている。その他、ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂やヴェネツィアのサン=マルコ聖堂も有名である。 
 ビザンツ文化の中で後世に最も大きな影響を及ぼしたのがユスティニアヌス帝が編纂させた「ローマ法大全」であるが、これについては前述した。 
 ビザンツ帝国によって継承され、発展したギリシア古典文化は、ビザンツ帝国の滅亡前後からビザンツの学者達によってイタリアにもたらされ、西ヨーロッパのルネサンスに大きな影響を及ぼしたこともよく知られている。  
 

 

 
1.

3 東ヨーロッパ世界
 
2 スラヴ民族の自立
 インド=ヨーロッパ語族に属するスラヴ民族は、6世紀頃、原住地のカルパティア山脈から、ゲルマン民族が移動した後の東ヨーロッパ各地に、東スラヴ族・西スラヴ族・南スラヴ族に分かれて移住・定住した。 
 このうち西方に拡大したポーランド人・チェック人・スロヴァク(スロヴァキア)人等の西スラヴ族は、ゲルマン民族の移動で空白となったドイツに隣接する地域に移住した。このため西スラヴ族は、西ヨーロッパの影響を受け、ローマ=カトリックを信仰した。 
 ポーランドでは、10世紀にポラーニ人(農耕の人々の意)を中心に統一され、ピアスト朝(960~1370頃)が成立した。ピアスト朝は、神聖ローマ帝国に接近し、ポーランド人はローマ=カトリックに改宗した(966)。 
 13世紀に入ると、モンゴル人の侵入とドイツ人の東方植民による進出に苦しめられた。特にポーランドのリーグニッツの東南で、ドイツ・ポーランド連合軍がバトゥの率いるモンゴル軍に大敗したワールシュタットの戦い(1241)は有名である。 
 しかし、14世紀に入るとカジミェシュ(カシミール)大王(位1333~70)のもとで王権が伸張し、ポーランドは大いに栄えたが、彼の死によってピアスト朝は断絶した。 
 この頃、バルト海東南岸に居住していたバルト系のリトアニア人は、ドイツ騎士団の進出に対抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国となった。 
 リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)(1351~1434、位1386~1434)は、ポーランド女王と結婚し(1386)、ポーランド王とリトアニア大公を兼ね、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝(1386~1572)を創設した。彼はドイツ騎士団を破り、リトアニア=ポーランド王国の全盛期を築き、リトアニア=ポーランド王国は東欧の強国として栄えた。 
 同じ西スラヴ族のチェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、6世紀頃現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国地方に定着した。チェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、東欧革命後の1993年に、現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立するまでチェコ=スロヴァキア連邦を形成していた。 
 10世紀初めにチェック人を中心にベーメン(ボヘミア)王国が建てられたが、11世紀には神聖ローマ帝国に編入された。チェック人は、7世紀頃にローマ=カトリックに改宗していた。 
 14世紀末にプラハ大学神学教授となり、後に同大学の学長となったボヘミアのフス(1370頃~1415)は、イギリスのウィクリフの説に共鳴し、ローマ教会を攻撃したために、当時開かれていたコンスタンツの公会議で異端とされ、火刑に処せられた(1415)。 
 フスの処刑後、神聖ローマ皇帝ジギスムントがプラハ市とプラハ大学に対して迫害を加えると、チェック人はフスの説の承認を求めて反乱を起こした。この反乱はフス戦争(1419~36)と呼ばれるが、宗教上の争いであると同時に、チェック人のドイツ人の支配に対する反乱でもあった。 
 一方、スロヴァク人は、10世紀以来マジャール(ハンガリー)人の支配下に置かれた。 
 南スラヴ族のセルビア人は、6世紀にバルカン半島を南下して、半島の南西部に定着したが、東ローマ帝国の支配下に入り、9世紀頃までにギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を吸収した。 
 12世紀中頃、東ローマ帝国から独立し、14世紀前半にはバルカン北部を統合して大セルビア王国を形成して最盛期を迎えた。しかし、コソボの戦い(1389)に大敗し、以後オスマン=トルコ帝国の支配下に置かれた。 
 同じ南スラヴ族のクロアティア人は、9世紀頃ローマ=カトリックに改宗し、10世紀には東ローマ帝国から独立して侯国を形成したが、12世紀以後はハンガリーに従属した。 
 同じく南スラヴ族のスロヴェニア人もローマ=カトリックに改宗し、14世紀以降はオーストリアのハプスブルグ家の支配下に置かれた。 
 アジア系のブルガール人は、7世紀末にバルカン半島東南部に侵入し、東ローマ皇帝の許可を得て自立し、9世紀にギリシア正教に改宗した。9世紀末にマケドニア・アルバニア・セルビアを征服し、第1次ブルガリア王国(893~1018)を建国し、10世紀前半に最盛期を迎えたが、内紛で衰え、東ローマ帝国に併合された。 
 12世紀末に再び独立し、第2次ブルガリア王国(1187~1393)が建国されたが、14世紀末にオスマン=トルコ帝国に敗れ、以後その支配下に置かれた。この間ブルガール人は先住の南スラヴ族に同化されていった。 
 ロシア人・ウクライナ人などの東スラヴ族が定着したロシアの地には、リューリク(ルーリック)(?~879)に率いられたノルマン人(ヴァイキング)の一派が、9世紀にノヴゴロド国、次いでキエフ公国を建てた。 
 スラヴ人が住む地域に入ったノルマン人をスラヴ人はルーシ(ルス、Rus’)と呼んだ。Russiaの名はRus’に由来すると言われている。しかし、ルーシはまもなく同化され、スラヴ化していった。 
 キエフ公国(9~13世紀)は、ウラディミル1世(位980~1015)の時に最盛期を迎えた。ウラディミル1世は、周辺の東スラヴ諸族を討って領土を拡大し、土着勢力にかわってルーシ族を各地に封じ、農民の移動の自由等を奪い、農奴制を強化していった。 
 ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し(988)、ギリシア正教に改宗し、国教とした。そしてビザンツ文化を盛んに受け入れて、文化面で後進地域であったロシアの面目を一新した。 
 その後もキエフ公国は、ヤロスラフ1世(位1019~54)の時代にかけて繁栄したが、その死後は、領土の分割相続をめぐって内紛が続き、国内は多くの諸侯が分立して封建化・農民の農奴化が進んだ。また周辺の遊牧民の侵入もあって国力は衰退した。 
 こうした状況のなかで、13世紀にバトゥ(チンギス=ハンの孫)の率いるモンゴルの侵入を受け、キエフを占領され(1240)、キエフ公以下の諸侯はこれに従属し、ロシアの地は以後250年にわたってモンゴルの支配に服することとなった。 
 しかし、14世紀頃からモスクワ大公国が強力となり、モスクワ大公イヴァン3世(位1462~1505)の時にモンゴルの支配から完全に自立していく(1480)。 
 

 

 
2.
14.十字軍と都市の発達

4 十字軍と都市の発達
 
1 十字軍とその影響(1)
 西ヨーロッパ世界は中世を通じて絶えず外部からの圧迫・侵入に苦しめられてきた。 特に8~9世紀以来、イスラム勢力やアジア系のマジャール人そしてヴァイキングの侵入が 相次ぎ、西ヨーロッパは守勢を余儀なくされ、ひたすらその圧迫に耐えてきた。しかし、封建社会が安定し、 さらに発展するなかで力を蓄えてきた西ヨーロッパ世界はそれまでの守勢から反撃に転ずるようになった。 
 イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キリスト教徒によるイスラム勢力をイベリア半島から 駆逐する運動、すなわち国土回復運動(再征服、レコンキスタ)が早くから起こっていた。またドイツ人による エルベ川以東のスラヴ人居住地への植民活動(東方植民)も12世紀以後盛んになる。こうした西ヨーロッパ世界の 外への発展の最大のものが有名な十字軍である。 
 当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城し (1055)、イスラム世界における政治・軍事の実権を握るとともにさらに西進し、ビザンツ帝国軍を破って (1071、マンジケルトの戦い)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領してビザンツ帝国を東方から圧迫した。 このためビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めてきた(1095)。 
 フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(位1088~99)は、フランス東部のクレルモンで 公会議を開き有名な演説を行った。ビザンツ帝国がしばしば救援を求めてきていること、聖地イェルサレムでの 巡礼者が悲惨な状況にあることを語った後、「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、 東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義のための戦いに倒れた者には罪の赦しが 与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。 いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」と聖地イェルサレム回復の ためにイスラム教徒に対する聖戦を起こすことを提唱した。この演説に感激した聴衆は「神、それを欲し給う」と 叫び、演説はしばしば中断されたと言われている。 
 こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士から成る第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の 十字軍が派遣されることとなる。 
 十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地イェルサレムを奪回するために起こした遠征で あるが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことである。なぜこの時期に 十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられる。 
 (1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く 耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の 力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきたこと。 
 (2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者と なり、宗教的な熱情が高まっていたこと、このことが背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり 得なかったであろう。 
 (3)教皇の権威が著しく高まっていたこと、このことは有名なカノッサの屈辱(1077)が、十字軍が始まる 20年ほど前の出来事であったことを思い出せばよい。教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていたこと。 
 (4)諸侯・騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていた ため、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者もあったこと。 
 (5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする 東方の商品を獲得して利益を得ようとしていたこと。 
 (6)農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいた ことなどがあげられる。  
 十字軍はこのような様々な要因・人々の利害が複雑に絡み合っていたので、経過とともに宗教的な要因が薄れ、 経済的な要因によって動かされるようになった。 
 ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こした。こうした状況のなかで隠者ピエール(1050~1115)と 呼ばれた北フランス生まれの修道士・説教士は各地で十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行った。 彼の元には数万の熱狂者が集まり、ピエールはこの群衆を率いて、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープル から小アジアに渡ったが、トルコ軍に殲滅された。第1回十字軍に先立つこの十字軍は民衆十字軍(1096~97)と 呼ばれている。民衆十字軍の失敗は、聖地の回復には烏合の衆でなく、武力を持った軍隊が必要であることを教えた。 
 第1回十字軍(1096~99)は、フランスの諸侯・騎士を主力として、4軍団に分かれて出発し、翌年 コンスタンティノープルで合流し、ビザンツ皇帝に臣従の礼をとった後、ビザンツ軍と共に小アジアに渡った。 
 騎兵5千・歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、トルコ軍と小競り合いを繰り返しながら小アジアを 横切り、北シリアのアンティオキアに至り、半年に及ぶ攻城戦の末にここを陥れた(1098)。 
 アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマンの騎士ボエモンはアンティオキア公国(1098~1268) の君主に治まり、もはやイェルサレムには行こうとしなかった。これより前、エデッサを攻略したボードアンも エデッサ伯国(1098~1146)を建ててそこに留まった。十字軍の要因の一つに諸侯・騎士達の領土獲得欲があるが この例によく現れている。 
 アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間にわたる攻囲戦の後についに イェルサレムを陥れた(1099)。この時、十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにし、老若男女を問わず住民 約7万人を虐殺した。虐殺と掠奪が終わると彼らは血にまみれた手を洗い、衣服を改めて喜びの涙にむせびながら 聖墓に詣でたとキリスト教徒の年代記家が記している。 
 当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し、キリスト教徒の狂信・不寛容ぶりが際だって いる。この違いは当時のヨーロッパが異文化に接する機会に乏しく、封鎖された世界の中にあったので、 キリスト教の隣人愛はキリスト教徒に対するものだけであったことが原因である。 
 ともあれ、第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十字軍であった。回復した聖地を確保するために イェルサレム王国(1099~1291)が建設された。 
 イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロートリンゲン)公ゴドフロアを統治者に選び、 残留した戦士達に封土を与えて建てられた封建国家であった。イェルサレム王国は、前述したエデッサ伯国・ アンティオキア公国・トリポリ伯国(1102~1289)に対して宗主権を持っていたが、この三国は事実上独立していた。 
 イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成したとして帰国し、また西ヨーロッパから来る増援隊は 少数だったので、現地軍は絶えず兵員不足に悩まされた。このために設立されたのが宗教騎士団である。 
 聖地の守護を目的として設立された(1119)テンプル騎士団の団員は騎士と修道士の役割を兼ね、武器を 持ってキリストに奉仕する誓いを立てていた。第1回十字軍時代に成立し、ロードス島を本拠地に活躍したヨハネ 騎士団、そして第3回十字軍の際に組織され活躍したドイツ騎士団は合わせて三大騎士団と呼ばれている。 
 宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍した。特にドイツ騎士団は、ドイツの東方植民の先頭に 立ち、後のプロイセンの基礎となった。 
 第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂し内紛のために連合して十字軍と戦うことが 出来なかったことが大きな理由であった。しかし、セルジューク朝はその後勢力を回復し、モスル太守のザンギーが 北シリアを回復し、エデッサ伯国を滅ぼした(1146)。その翌年に第2回十字軍が派遣された。 
 第2回十字軍(1147~49)には、ドイツ皇帝・フランス王が参加し、救援におもむき、アッコンに到達し、 ダマスクスを攻撃したが失敗に終わり、解散して帰国した。 
 この後のイスラム側の失地回復はめざましくザンギーの子ヌレディンがダマスクスを奪回した。この ザンギー朝に仕え、のちエジプトのファーティマ朝の宰相となり、ついで ファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を興したのが有名なサラディン(サラーフ=アッディーン、1138~93 (位1169~93))である。彼はエジプト・シリア・イラクを支配下におさめて十字軍国家を包囲し、ついに イェルサレムを奪回した(1187)。 
 イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。こうした状況の中で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世 (位1152~90)・フランス王フィリップ2世(位1180~1223)・イギリス王リチャード1世(獅子心王、位1189~99) というそうそうたる君主が教皇の求めに応じて十字軍士の誓いを立て、豪華な顔ぶれがそろった、もっとも十字軍 らしい十字軍といわれた第3回十字軍(1189~92)が起こされた。 
 しかし、当時英仏は本国で領土をめぐって激しく争っていたので協定が整わず出発が遅れ、フリードリヒのみが 小アジアのルートをとって進んだが、小アジア東南部を流れるサレフ川渡河の際に溺死した。このため一部は アンティオキアに進んだが大部分は帰国してしまった。 
 フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(1190)、シチリア島で落ち合いそこで冬を過ごしたが、 その時も反目しあい、その後は別行動を取り、再びアッコンで合流してアッコン攻城戦に加わった。アッコンは イェルサレムの北方に位置するシリアの港市でイェルサレム王国の事実上の首都であり、十字軍の最後の拠点と なった町である。第1回十字軍が占領したが、サラディンが奪回し、英仏王が再び占領した。しかし、アッコンが 陥落すると、フィリップ2世は病気を口実に帰国してしまった(1191)。 
 リチャード1世だけがイェルサレムを目指した。サラディンはリチャードと各地で戦い、 リチャード軍に悩まされながらもイェルサレムを死守した。この時のリチャードサラディンと勇敢な戦いぶりは 後世に長く語り継がれた。 
 リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」の異名をとり、中世騎士道の典型的人物とされた。 一方のサラディンもその武勇・勇猛さを知られたばかりでなく、その博愛・寛容の 精神によってヨーロッパ人に多大な感銘を与えた。 
 結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地イェルサレムへの巡礼のための自由な通行権を 得て帰国の途についた(1192)。 
 リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜となりドイツ皇帝に引き渡されて幽閉され、 莫大な身代金を払って釈放され(1194)やっと帰国した。帰国後、弟のジョンを逐って王位を取り戻し、 国内の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵しフィリップ2世と戦ったが、流れ矢にあたって戦死した(1199)。 一方のサラディンはそれより6年前にすでに病死していた。 
 かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来なかった。    
 

 

 
1.

4 十字軍と都市の発達
 
2 十字軍とその影響(2)
 第3回十字軍も結局聖地イェルサレム奪回という目的を達成することは出来 なかった。それから6年後に教皇の座についたのが、教皇権の絶頂期の教皇として 有名なインノケンティウス3世(位1198~1216)である。彼の提唱によって第4回 十字軍が起こされた。 
 第4回十字軍(1202~1204)は、北フランスの諸侯・騎士を中心に編成された。目標をアイユーブ朝の本拠地であるエジプトとし、海路による遠征を決定し、海上輸送をヴェネツィアに依頼した。ヴェネツィアは兵士・資財の輸送と1年分の食料調達を銀貨8万5千マルクで請け負った。 
 十字軍士らはヴェネツィアに集結してきたが、約束の船賃が6割しか調達でき なかった。交渉が難航したが、ヴェネツィア側がハンガリー王に奪われたツァラ (アドリア海沿いの海港都市)を取り戻してくれるなら船を出す、不足分の支払いは 後でよいと提案してきた。 
 十字軍士はやむを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲い占領して略奪を 行った(1202)。十字軍が同じキリスト教徒の町を襲ったという報を聞いた教皇 インノケンティウス3世は激怒し、第4回十字軍士全員を破門した。「破門された十字軍」という前代未聞の事態となった。 
 翌年、破門された十字軍士を乗せた艦隊はツァラからコンスタンティノープルに 向けて出航した(1203)。ヴェネツィアの商人と亡命中のアレクシオス (ビザンツ帝国の内紛により廃位させられたイサアキオス2世の子、後の アレクシオス4世)そして十字軍の指導者の間で、廃位させられた皇帝を復位させる、その代わりに皇帝は十字軍のヴェネツィアに対する負債を肩代わりし、さらにエジプト遠征の費用を負担するとの密約が結ばれていた。ヴェネツィアの商人達は十字軍を利用して商敵であったコンスタンティノープルに打撃を与え、東地中海へ商権を拡大することを企てていた。 
 十字軍士達は強く反対したが、結局ヴェネツィアの商人と十字軍の指導者の説得にあって同意し、コンスタンティノープルを攻略し、占領した(1203)。 
 幽閉されていたイサアキオス2世が復位し、アレクシオス4世と共同皇帝となり、十字軍はコンスタンティノープルに駐留することになった。ヴェネツィアの商人達は新皇帝に密約の履行を強硬に迫ったが断られた。また密約の内容が漏れ、激高した市民達は皇帝の廃位を宣言し、アレクシオスを絞殺し、イサアキオスを毒殺した。 
 この宮廷クーデターを挑戦と受け取った十字軍士達は、再びコンスタンティノープルを占領し、徹底的に略奪を行った。略奪品は十字軍とヴェネツィアで折半された。 
 十字軍士は「ラテン帝国(1204~61)」を建国し、フランドル伯のボードワン1世を皇帝に選出した。ヴェネツィアはコンスタンティノープルの一部と多くの島々や沿海地域を手に入れ目的を果たした。内陸部の土地は主立った十字軍士に分け与えられた。 
 ラテン帝国に対して、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世を創始者として「ニケーア帝国(1204~61)」が建国され、ビザンツ帝国は一時消滅した。 
 このように第4回十字軍は、本来の目的から全くはずれてしまい、まさに 「脱線した十字軍」となり、ビザンツ帝国を消滅させ、ヴェネツィアの商権拡大と 諸侯・騎士の領土獲得欲のみを満足させる結果となった。またこれによって 東西教会の対立が深まり、十字軍に対する不信感はますます強まった。 
 第4回十字軍が失敗に終わったため、教皇インノケンティウス3世は新しい 十字軍を起こすために全ヨーロッパに説教師を派遣した。こうした説教師に接して いたであろう北フランスのある村の羊飼いの少年エティエンヌはある日巡礼の姿を した神を見た。神は聖地回復を記した手紙を少年に渡した。エティエンヌは神の 使命をさとり、一心に神のお告げを説いて回った。やがて数千人の少年少女が彼の 伝道に従うようになった。 
 少年達の親は、彼らの冒険を必死に思いとどまらせようとしたが脱落者は 少なく、彼らはリヨンからマルセイユへと出た。もちろん彼らは船賃も持って なかった。この時マルセイユの船主が「お前達の殊勝な心がけに免じて聖地まで無償で船に乗せてやろう」と申し出た。彼らはその甘言を信じて7艘の船に分乗してマルセイユを出帆した。7艘のうち2艘はサルデーニャ島付近で難破し、残る5艘の船に乗った少年達はアレクサンドリアに運ばれ、奴隷として売り飛ばされた。 
 この出来事は少年十字軍(1212)と呼ばれている。同じような動きはドイツでも見られた。度重なる十字軍の失敗、その度に説教士達によってかきたてられた社会の興奮から引き起こされた悲劇的な出来事であった。   
 教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議(1215)で新たな十字軍を提唱したが、その翌年に亡くなった。 
 インノケンティウス3世の支持を得て神聖ローマ帝国皇帝となった フリードリヒ2世(位1215~50)は、教皇から十字軍を派遣するように迫られて いたが、口実を設けては引き延ばしていた。グレゴリウス9世が教皇になると、 新教皇はすぐに実行するように強く迫った。フリードリヒ2世はやむを得ず 出発したが、マラリアにかかり引き返した。教皇はこれを仮病として彼を破門した。 破門をもって脅されたフリードリヒ2世は翌年聖地におもむいた。 
 こうして始まったのが第5回十字軍(1228~29)である。フリードリヒは、 アイユーブ朝の内紛につけいり、外交交渉によってスルタンと協定を結び、 一戦も交えることなくイェルサレムを回復した。協定の内容はイェルサレムは 返還するが信仰上は共同統治とし、10年間の休戦を約束したものであった。 
 しかし、その後イェルサレムは再びイスラム教徒の手に落ち(1244)、イェルサレムは 20世紀までイスラム教徒の支配下に置かれることとなった。 
 敬虔なキリスト教徒で「聖王」と呼ばれたフランス王ルイ9世(位1226~70)は、国内ではアルビジョワ十字軍(1209~29)を起こし、南フランスの異端アルビジョワ派を討伐し、根絶した。ルイ9世は単独で第6回十字軍(1248~54)・第7回十字軍(1270)を起こした。 
 第6回十字軍は、目標をアイユーブ朝の都カイロに定め、ダミエッタを占領してカイロに進撃したが、イスラム教徒の反撃にあって包囲され、捕虜となった(1249)。莫大な身代金を支払って釈放されたルイ9世は帰国後も聖地回復の夢を捨てず第7回十字軍を起こした。 
 第7回十字軍は、北アフリカを攻めて、そこに十字軍の新しい拠点を築こうとしてチュニスに上陸したが、彼はそこで病没し、これが最後の十字軍となった。 
 これより前、マムルーク朝(1250~1517)は、アイユーブ朝を滅ぼし、エジプト・シリアを領有し、アンティオキア公国を滅ぼし(1268)、トリポリ伯国も滅ぼした(1289)。さらに十字軍の最後の拠点アッコンも1291年に陥落し、シリア・パレスチナの地は完全にイスラム教徒の支配下に置かれた。この年をもって十字軍時代の終わりとする。 
 約200年の間に前後7回の十字軍が派遣されたことは、当然のことながらヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼし、中世ヨーロッパ世界を大きく変化させることとなった。 
 宗教面では、十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことから、教皇の権威はますます高まり、13世紀初めのインノケンティウス3世の時に教皇権は絶頂期を迎えた。しかし、結局聖地を回復できなかったことは逆に教皇に対する信頼を失わせることとなり、宗教熱は冷却し、さらには教皇権の衰退を招くことになった。 
 政治面では、諸侯・騎士が没落する原因となった。長期間の遠征によって多くの 諸侯・騎士が命を落とし、家系の断絶が起こった。また莫大な遠征費の負担は彼らの 経済的な没落の原因となった。その一方で国王による中央集権化が進展した。 国王は十字軍の指揮者として活躍し、諸侯・騎士の没落によってその地位は相対的に 強化された。また諸侯・騎士が戦死し、家系が断絶した場合はその遺領を王領に 編入し財政面での強化をはかった。こうして各国では国王による中央集権化が進展 した。   
 経済面では、十字軍によって最大の利益を得たヴェネツィア・ジェノヴァなどの 北イタリア海港都市がイスラム世界との遠隔地貿易(東方貿易)によって大きな利益を 得て発展した。またヨーロッパ内部でも遠隔地商業や貨幣経済が発展し、都市が発達した。 
 文化面では、十字軍によって多くの人々が東方との間を往来したためヨーロッパ人の視野が広まり、ビザンツ文化やイスラム文化が流入し、特にイスラムから未知の学問や技術がもたらされ、近代以後のヨーロッパ文化発展の基礎がつくられた。 
 

 

 
2.

4 十字軍と都市の発達
 
3 中世都市の成立 
 西ヨーロッパでは、イスラム教徒・マジャール人・ヴァイキングの侵入が相次いだ8世紀以後、荘園制を基礎とする封建制度に基づく社会、すなわち封建社会が成立した。 
 相次ぐ外民族の侵入による混乱の中で、人口は減少し、商業・交通は衰え、それにともない都市や貨幣経済も衰退し、人々は荘園内で自給自足の生活を営むようになった。 
 しかし、11世紀以後封建社会が安定して人口も増大する中で、いわゆる大開墾時代(11~13世紀頃)が始まり、森林や荒地の開墾・沼沢地の干拓などによって耕地が拡大し、また三圃制や有輪犁を馬や牛に引かせて深く耕す農法が普及し、農業生産力が高まっていった。 
 荘園内で生産力が増大すると、余剰生産物が生まれてくる。その余剰生産物を交換する市が始まった。市は最初は小規模で不定期にしか開かれなかったが、次第に定期市へと発展していった。市では最初の頃は物々交換が多かったが、次第に貨幣による交換が盛んとなり、自給自足の自然経済から貨幣経済に移行していった。 
 このような変化はイスラム教徒やヴァイキングの商業活動や大量の人と物が動いた十字軍によって促進され、貨幣経済・商業の発達は商人や手工業者という新しい階級を生み出した。そして商人や手工業者の居住地域としての都市が成立・発展した。 
 西ヨーロッパでは、11~12世紀にこのような変化が進んだ。こうした都市や市民の発展は「商業ルネサンス(商業の復活)」と呼ばれている。 
 中世都市の多くは定期市から発展したが、その成立の由来からローマ都市・司教都市・城砦都市・建設都市などに分けられる。ローマ都市は古代ローマ都市の跡に建てられた都市、司教都市は司教座がおかれた町の教会を中心に発達した都市、城砦都市は封建領主の城を中心に発達した都市、そして建設都市は港・河口・市場など交通の便のよい所に建設された都市である。 
 商業は初めは小規模で、取引の範囲も都市と周辺の農村との近距離商業であったが、十字軍などの影響で交通が発達すると東方貿易や北海貿易に代表される遠隔地商業が盛んになった。遠隔地商業の発達にともなってヨーロッパには地中海商業圏と北欧商業圏の二大商業圏が成立した。 
 北イタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都市は早くから地中海で活躍していたが、 十字軍時代以後はイスラム商人との東方貿易によって繁栄した。東方貿易で手に入れたこしょうなどの 香辛料・絹・宝石などのアジアの特産物をアルプス以北に運んで銀と交換し、その銀でイスラム商人から香辛料などを購入した。 
 特にヴェネツィアは、第4回十字軍以後東地中海に商権を拡大し、東方貿易によって莫大な富を手にして繁栄した。ジェノヴァも十字軍を利用して東地中海に商権を拡大し、ヴェネツィアと海上の覇権をめぐって激しく争った。 
 内陸のフィレンツェは、13世紀以後毛織物生産と貿易・金融業によって大いに繁栄した。フィレンツェの 大富豪メディチ家は商業・金融で巨富を得て、15世紀前半には市政を握り、一族からは二人のローマ教皇を出した。 また文芸の保護に努めたので、フィレンツェはイタリア・ルネサンスの一大中心地となった。 
 北イタリアの内陸都市ミラノも毛織物・商業で栄えた。 
 北イタリアと同じ頃、北ドイツ・フランドル地方でも都市が発達した。この地域では北海・バルト海を中心に北欧商業圏が成立し、北海貿易が盛んとなり、穀物・海産物・毛織物・木材などの生活必需品がヨーロッパ内で取り引きされた。 
 北ドイツでは、リューベック・ハンブルク・ブレーメンなどの都市が栄えた。 
 リューベックは12世紀に建設されて以来、北海・バルト海貿易の中心となって繁栄し、のちにハンザ同盟の盟主となった。エルベ川河口の港市であるハンブルクも北海貿易で栄え、ハンザ同盟の中心的な都市として繁栄した。またブレーメンもハンザ同盟の重要な都市として栄えた。 
 ライン川の河口に近いフランドル地方(ほぼ現在のベルギーにあたる地方)では、10世紀頃から毛織物生産が盛んとなり、ガン・ブリュージュなどが毛織物生産都市として栄えた。 
 イギリスでは、ロンドンが北海貿易で栄えハンザ同盟の4大在外商館の1つがおかれた。 
 北イタリア都市と北ドイツ都市の発展によって、地中海商業圏と北欧商業圏とを結ぶ交通路に沿って、シャンパーニュ地方や南ドイツでも都市が発達した。 
 フランス東北部のシャンパーニュ地方は、二つの商業圏の中間に位置し、諸国からの交通路が集中する交通の要地であったので、トロアを中心とする6都市で順に年6回の定期市が開かれた。「シャンパーニュの大市」として知られ、全ヨーロッパから商人が集まり、東方貿易・北海貿易によってもたらされる商品が取引され、12~13世紀かけて大いに繁栄した。 
 南ドイツではアウグスブルクやニュルンベルクが栄えた。 
 アウグスブルクは、初代ローマ皇帝アウグストゥスが設置した要塞が起源で、中世ヨーロッパ最大の銀・銅の産地として有名だった。商業・交易の中心地としても栄え、15世紀には大富豪のフッガー家が台頭した。 
 フッガー家は、15世紀にイタリアとの香辛料・羊毛取引で産を成し、15世紀末から銀山・銅山の採掘権を独占して巨万の富を築いて一躍国際的な金融資本家にのし上がり、16世紀には皇帝や教皇への融資を通じてヨーロッパの政治に大きな影響を及ぼした。 
 ニュルンベルクは、15世紀頃にはイタリアとの遠隔地貿易の要地として栄え、当時のドイツで1・2を競う大都市となった。またニュルンベルクの商人達は活発な商業活動でも知られ、「ニュルンベルク市民なきところ大市なし」と言われるほどであった。 
 その他ドイツでは、ライン川に沿う地域でケルンやマインツが繁栄した。ケルンとマインツには大司教座がおかれ、10世紀以後交易の中心地としても繁栄した。 
 フランスでは、ルーアン・ボルドー・マルセイユなどの港市や内陸のリヨンなども栄えた。ボルドーはぶどう酒の輸出港として、リヨンは絹織物生産で知られている。 
 今まで多くの都市をあげてきたが、ヨーロッパ中世都市は私たちが想像しているよりはるかに小さく、人口は1000~5000人位であった。1500年頃に人口が5万人を越えていたのはロンドン・パリ・ヴェネツィア・パレルモ・ミラノ・フィレンツェ・ブリュージュ・ガンの8つだけであった。 
 

 

 
3.

4 十字軍と都市の発達
 
4 都市の自治権獲得 
 中世ヨーロッパの封建社会は、「祈る人、戦う人、働く人」の三つの階級から成り立っていた。「働く人」の大多数を占めていたのは、荘園内で働く不自由な農奴達であった。また荘園の中には少数だったが手工業者達もいた。しかし、10世紀頃までは「働く人」の中には商人達はいなかった。 
 11世紀以後の商業・貨幣経済の発達は商人という新しい階級を生み出し、商人と荘園から移り住むようになった手工業者の居住地帯としての都市が成立し発展するようになった。 
 中世ヨーロッパの都市のほとんどは城壁で囲まれていた。この城壁の中に住んでいた人々は市民と呼ばれたが、市民のほとんどは農奴出身であった。 
 荘園の中で交換が始まり、市が立つようになったとき、商業に従事したのは耕作する土地を持たなかった農奴や 農業の片手間に商売をした人々であったろう。やがて取引の規模が大きくなり、取引の範囲が広くなるにつれて 商業や手工業に専念する人々が現れてくる。しかし、彼らは封建領主の支配を受け、移動の自由がなく、賦役などの束縛を受けていた。それでは商売などに専念できない。そこで彼らは封建的束縛から解放されて自由な身分になることを望み、領主の支配からの独立に努めた。 
 貨幣経済の進展にともない領主も貨幣を必要とするようになり、都市への課税を強化すると、都市の市民はそれに対抗し、場合によっては領主との闘争によって自由を獲得する場合もあったが、多くの場合は封建領主である諸侯や騎士を抑えようとしていた国王や皇帝と結び、彼らに金銭的な援助を行う代わりに、その保護を受け、国王・皇帝から特許状を得て自治権を獲得していった。 
 次にあげるのは、イギリスのブリストル市の特許状(1155年)の一部である。「イングランド王にして ノルマンディー公、アキテーヌ公、アンジュー伯たるへンリーは(ヘンリー2世のこと)、・・・以下のことを告げる。 すなわち、余は、余のブリストルの市民たちに、イングランド、ノルマンディー、ウェールズを通じて、彼らと 彼らの商品の行くあらゆる場所において、すべての取引税、通行税、関税を免除することを認めた。したがって余の 自由かつ忠誠なる臣下に対すると等しく、彼ら(市民)が、彼らのすべての特権、免税権、自由な関税を有すること、 また、彼らが取引税、通行税、全ての他の関税を免除されることを望み、これをきびしく命ずる。さらに余は、この 特許状の命に反して、彼らをさまたげる者については、10ポンドの罰金をもってこれを禁じる。」 (世界史史料・名言集、山川出版社より) 
 このようにして封建領主の支配から自立し、市民自身が市政を運営する権利(自治権)を得た都市は自治都市と呼ばれた。ただし、自治権は都市によって強弱の差があった。 
 ヴェネツィア・ジェノヴァなどの北イタリアの自治都市は、周辺の地域まで含んだ都市共和国となるものが多く、領主など外部の権力からは完全に独立し、市民自身で市政を運営した。これに対してリューベック・ハンブルクなどのドイツの都市は、皇帝から特許状を得て自治権を獲得し、皇帝直属の自由都市(帝国都市)として諸侯と同じ地位に立った。しかし、一部の有力な都市を除く多くの都市は、封建領主の保護のもとで納税の義務を負っていた。 
 中世都市は、自立はしていても人口や規模の小さな都市が多く、皇帝・国王・封建領主の圧迫に単独で対抗することが困難だったので、周囲の都市と都市同盟を結び、共通の利害のために戦った。 
 都市同盟としては、北ドイツ諸都市を中心とするハンザ同盟や北イタリアのロンバルディア同盟が有名である。 
 ハンザ同盟は、北欧商業圏を支配した北ドイツ諸都市を中心とする都市同盟で、ハンザは団体の意味である。13世紀にリューベックとハンブルクが防衛同盟を結んだのに始まり、14世紀中頃には約80余りの都市が、最盛期には100を超える年が加盟し、リューベックを盟主とした。ロンドン・ブリュージュ・ベルゲン(ノルウェー)・ノヴゴロド(ロシア)には四大在外商館がおかれ、ハンザ同盟の活動の範囲はヨーロッパ内部や東ヨーロッパにも及んだ。また通商の安全を確保するために、共通の陸・海軍を持っていたが、海軍は北欧の強国デンマーク海軍を撃破して(1370)、北海・バルト海を制圧し、14世紀末には最盛期を迎えたが、16世紀以後次第に衰え、三十年戦争後に解散した(1648)。 
 ロンバルディア同盟は、ミラノを中心とする北イタリア諸都市の間で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世の南下に対抗して結成され、皇帝軍を2度にわたって撃破した。最盛期には約30の都市が加盟していた。  
 

 

 
4.

4 十字軍と都市の発達
 
5 市民の自治
 「都市の空気は自由にする」というドイツのことわざがあるように、封建的束縛から解放され自由を手に入れた都市の市民は、様々な束縛にあえぐ不自由な農奴から見るとうらやましい存在であった。そのため荘園の農奴達のなかには何とかして都市へ逃げ込んで自由になろうとする者も多かった。ドイツでは農奴が都市に逃げ込んで1年と1日経過すれば自由な身分になれるという慣習があった。 
 しかし、都市の自由は封建領主からの自由であって、無制限の自由ではなく、都市の内部には厳格な支配と規制があった。 
 自治都市は、市民が市政を運営する特権を持っていたが、市政は商人ギルドの親方層である一部の大商人に握られていた。 
 ギルドは、中世都市の商人・手工業者の同業・同職者の組合で、同業者の 共存共栄・相互扶助・市場の独占を目的とした組織である。ギルド内では、組合員 (親方)の平等は尊ばれたが、労働時間・製品の規格・製品の品質・製造方法・ 価格などに様々な規制が設けられていて、自由な競争は禁じられ、生産の統制や 技術の保持がはかられた。またギルドの組合員になれるのは親方だけで、親方の権威は絶対であった。 
 手工業者のギルドは同職ギルド(ツンフト)と呼ばれる。同職ギルドでは親方・職人・徒弟の間に厳重な身分関係が保たれていた。 
 一人前の手工業者になるためには、まず徒弟として親方の家に住み込み、無給で 7年間辛抱し、家事の手伝いや仕事場の掃除その他の雑用をしながら奉公する。 この間は一切技術は教えてもらえなかった。この修業の後に職人となる。 職人になると親方から給料をもらい、ひたすら技術の習得に打ち込んだ。 職人として腕を磨いた後、他の親方のもとでさらに腕を磨き、職人の期間が終わると組合が決めた通りの製品を作成して組合に提出し、審査に合格した者のみが親方になれた。しかし、人数に制限もあり親方になることは大変困難なことであった。従って職人が親方になるために作成した製品には優れた物が多く、英語のmasterpiece(傑作の意味)は、この親方作品に由来する。親方になるとギルドに加入でき、製品の販売権を持つことが出来た。 
 ギルドは、最初は商人ギルドだけで、手工業者もこの中にふくまれていて、商人ギルドの運営は大商人が独占していた。彼らが市政に参加し、市政を独占していた。 
 これに不満を持つ手工業者は、12世紀前半頃から同職ギルドを作って分離し、大商人と争いながら次第に市政への参加を実現していった。この商人ギルドと同職ギルドとの対立・抗争をツンフト闘争と呼んでいる。 
 13世紀中頃から各都市でツンフト闘争が展開され、それによって手工業者の親方も市政に参加できるようになった。この闘争は特にドイツの諸都市で激しかった。 
 ギルドは、当初は市民の活動を保障し、生産面でも一定の役割を果たしていたが、様々な統制はのちに生産の発達を妨げるものとなった。 
 商工業・都市の発達にともない、中世末期から近代初頭にかけて大商業資本家が出現した。彼らは市政を独占し、皇帝の即位さえ左右するようになった。その代表がフィレンツェのメディチ家やアウグスブルクのフッガー家であるが、両家については都市の成立の所でも触れたので、ここでは両家を代表する二人に人物について簡単に触れる。 
 ロレンツォ=デ=メディチ(1449~92)は、フィレンツェの名門メディチ家の 長男に生まれ、祖父コジモ=デ=メディチや父の後を継いでメディチ家と フィレンツェ共和国の全盛期を築いた。市政では反対派を抑えてメディチ家の専制体制を樹立し、また学芸の保護に努め、レオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロの活動を援助した。また彼の長男が教皇レオ10世である。 
 ヤコプ=フッガー(1459~1525)は、アウグスブルクの金融資本家フッガー家の7男として生まれ、フッガー家の全盛期を築いた。父の遺産を受け継いで東方貿易に従事し、また銀山の独占権を獲得し、ドイツ皇帝や教皇に巨額の融資を行うなど国際金融資本家として巨万の富を築いた。このため15世紀末から16世紀の中頃までは「フッガー家の時代」とも呼ばれた。 
 

 

 
5.
15.西ヨーロッパ中央集権国家の成立

5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
 
1 教会勢力の衰微
 十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことは、教皇の権威をますます高め、教皇権は13世紀初頭のインノケンティウス3世の時に絶頂期を迎えた。 
 しかし、結局聖地を回復することが出来ず、その一方で十字軍の指揮者として活躍した国王の権力が伸張するにつれて、教皇の権威は振るわなくなった。 
 13世紀末に出た教皇ボニファティウス8世(位1294~1303)は、ローマ有数の名門の出身で、政治家・法律家として優れた才能を持っていたが、尊大で激情に走りやすく、政治的柔軟性に欠けていた。 
 フランスのフィリップ4世(位1285~1314)は、13世紀末に起こった英仏間のフランドルとギエンヌをめぐる戦いの戦費をまかなうために、教会法に反して聖職者・修道院に課税したので、聖職者達は教皇に訴えた。 
 ボニファティウス8世は聖職者課税禁止の教書を発して、教皇の同意なく教会財産に課税する者を破門することを宣言してフィリップ4世を激しく非難した(1296)が、これに対してフィリップ4世は、フランス国内の一切の貴金属を国外に持ち出すことを禁止した。 これはフランスの聖職者が教皇に差し出す租税・献金の禁止を意味した。結局教皇は、聖職者課税禁止を緩和してフィリップ4世と妥協した。 
 ところが、さらにフィリップ4世が、ナルボンヌの司教の知行権をけずって、臣下のナルボンヌ伯に与えたことから両者の2回目の衝突が起こった。 
 司教が教皇に訴えたため、ボニファティウス8世は司教を使節として派遣したが、その司教の傲慢な態度に怒ったフィリップ4世は司教を逮捕して審問し、司教職剥奪を教皇に要求した(1301)。 
 これに憤ったボニファティウス8世は、フィリップ4世に対して、司教の釈放を命ずるとともに、国王は教皇権に従うべきであることを主張する教書を発し、破門で脅しながらフィリップ4世を屈服させようとした。 
 しかし、フィリップ4世は、これに屈せず、ノートルダムに、聖職者・貴族と初めて参加した市民代表を加えた「三部会」を召集し(1302)、教皇の教書を歪曲して発表し、臣下に教皇弾劾の演説を行わせたので、フランス国民は国王を支持し、教皇を非難する決議を行った。 この時召集された「三部会」がフランス議会の始まりとされている。 
 これに対して、ボニファティウス8世が発した教書が有名な「唯一の聖なる教会」である(1302)。「教会及びその権力には二振りの剣、すなわち聖界のものと俗界のものがある。・・・いうまでもなく聖界の剣及び俗界のそれはともに教会の権力のうちにある。後者は教会のために、前者は教会によって行使される。・・・しかも一つの剣が他の剣の下に従属し、また俗界の権威は聖界の権威に服従せしめられることは当然である。」(史料世界史、山川出版社) 
 フィリップ4世は、これに対して再び聖職者・貴族をルーヴルに集め、ボニファティウス8世を異端・売官者として告発し、その廃位を要求した(1303)。 
 ボニファティウス8世は、さらに教書を発し、フィリップ4世は破門されることになったが、その直前にアナーニ事件が起こった。 
 フィリップ4世は、教皇の廃位を要求する一方で、ひそかに腹心の部下の一隊をイタリアに派遣し、たまたまボニファティウス8世が滞在していたアナーニを急襲させた。不意をつかれた教皇は捕らえられて幽閉された。そしてアナーニの町は略奪された。これがアナーニ事件(1303)である。 
 ボニファティウス8世は、その後市民の手で解放されたが、受けた屈辱がもとで持病の胆石が悪化し、1ヶ月後に急逝した。 
 その後、フランスの貴族出身でボルドー大司教であったクレメンス5世(位1305~14)が教皇に選出された。クレメンス5世は、リヨンで戴冠し、ローヌ河沿いの町で一時を過ごした後、フィリップ4世に強制されて教皇庁を南仏のアヴィニョンに移した(1309)。 
 以後、7代70年間にわたって教皇庁は南仏のアヴィニョンに置かれ、7人の教皇(7人ともフランス人であった)はフランス王の監視下に置かれることになる。 
 この有名な出来事は、「アヴィニョン捕囚」(1309~77)、あるいは古代のユダヤ人のバビロン捕囚の故事になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」(1309~77)と呼ばれている。 
 7代目のアヴィニョン教皇、グレゴリー11世(位1370~78)が、ローマ帰還(1377)の翌年に亡くなったため、ローマではウルバヌス6世が選出されたが、フランス人枢機卿はこれに反対し、アヴィニョンにクレメンス7世を立てた。 
 このため、以後イタリア・ドイツ・イギリスが支持するローマ教皇とフランスが支持するアヴィニョン教皇がともに正統を主張して対立することになった。これを教会大分裂(シスマ)(1378~1417)という。15世紀初めには、この事態を解決するためにローマ・アヴィニョン両教皇を廃して新しい教皇が立てられたが、両教皇はこれを認めず、かえって3人の教皇が鼎立する事態となった(1409、ピサ公会議)。 
 教会大分裂によって教皇の権威は著しく失墜した。またヨーロッパ中の教会は、支持する教皇に献金するために金集めに狂奔したので、教会や聖職者の世俗化・腐敗が一層進んだ。こうした状況のなかで教会革新の声が高まった。 
 イギリスの神学者・聖職者であったウィクリフ(1320頃~84)は、オックスフォード大学に学び、後に同大学神学教授になった。彼はイギリス教会に対する教皇の干渉を排除し、イギリスの教皇からの宗教的・政治的独立を主張した。 
 彼は、カトリックの教義が聖書から離れているとし、聖書こそが信仰と救済の最高の根拠であるとする聖書中心主義を唱え、教会の世俗化や腐敗を激しく攻撃した。そしてラテン語で書かれていた聖書の英語訳を行い、自説の普及に努めるとともに、国王の保護の下で教会改革を説いたが、ワット=タイラーの乱(1381)が起こると関係を疑われて大学を辞職した。また彼の説はベーメン(ボヘミア)のフスに大きな影響を及ぼした。 
 ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)のフス(1370頃~1415)は、貧農の子に生まれ、プラハ大学に学び、同大学教授(1398)、のちに同大学総長となった(1409)。 
 大学教授を勤めると同時に、プラハ市のベツレヘム教会の説教者となり、ウィクリフの説に共鳴して聖書中心主義の立場からカトリック教会を批判し、教皇の世俗的権力を否定し、教会改革を主張した。このためローマ教会と対立を深め、破門されたが(1411)、これに屈せず、各地で活動した。 
 フスの説を支持する者はボヘミアだけでなく、全ヨーロッパに広まったため、ローマ教会はコンスタンツの公会議(1414~18)を開き、フスを召喚し、彼に学説の撤回を迫った。しかし、フスがこれを拒否したため、彼の説は異端とされ、フスは火刑に処せられた(1415)。 
 ドイツ皇帝ジギスムントの主宰で開かれたコンスタンツの公会議(1414~18)には約5万人が参加したと言われているが、この会議はシスマの解決と異端の審議を主目的として開かれた。 
 シスマについては、ローマ教皇を正統と認め、分裂中の3教皇を廃し、統一教皇としてマルティヌス5世(位1417~31)を選出してシスマを解決した。また異端の審議については、フスの説を異端として火刑に処すとともに、ウィクリフの説も異端として彼の遺体を掘り起こし、彼の著書とともに焼いてテムズ川に投じた。 
 フスの処刑後、ドイツ皇帝ジギスムントは、プラハ市とプラハ大学を迫害したので、市民はフスの説の承認を求めて反乱を起こした。このフス戦争(1419~36)は、チェック人のドイツ支配に対する抵抗でもあった。 
 こうして教皇権はかつての栄光を失って衰退に向かい、教会の世俗化や腐敗に対する教会革新運動は後を絶たず、ついに近代初頭にドイツのルターの宗教改革が起こることになる。 
 

 

 
1.

5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
 
2 封建制・荘園制の崩壊
 封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていたが、十字軍以後商業や都市が発達し、貨幣経済が進展する中で荘園制や封建制も崩れ始めた。 
 貨幣経済が広まると、領主層もいやおうなしにその中にまき込まれていった。領主としての体面を保つためにより多くの貨幣を必要とした領主は、賦役をやめ、直営地を農民に貸し与え、地代を生産物や貨幣で取るようになった。 
 賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働くことで、労働地代とも呼ばれた。農奴は賦役をきらったが、領主から土地を借りるためには賦役に出て行かねばならなかった。 
 賦役による直営地の収穫物は全て領主のものとなり、農奴達がどんなに一生懸命働いても自分たちのものにならなかったので、農奴達は本気で働こうとしなかった。そのため同じ面積当たりから取れる収穫物は、農民の保有地(領主から借りた土地)の方が多かった、言い換えると賦役は非能率であった。 
 そのため領主は非能率な賦役をやめて、賦役を金納化したり、直営地を分割して農奴に貸し与えるようになった。領主から土地を借りた農奴は、収穫物の一定割合を作物で納めたので、この税は貢納または生産物地代と呼ばれる。 
 このように地代形態は、労働地代から生産物地代・貨幣地代へと変化していった。 
 この地代形態の変化は、農奴にとっても有利であった。生産物・貨幣で納める場合、その割合が一定であったり定額の場合、農奴達が一生懸命働き収穫量を増やせば増やすほど、農奴の手元に残る量も多くなり、農奴の一部には貨幣を蓄えて次第に富裕になっていく者もあった。 
 たまたま、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに流行し、農村人口が激減すると領主の直営地経営は困難となり、賦役の金納化(売却)が促進され、農奴の身分的束縛がゆるんでいった。 
 ペストは歴史上何回も猛威をふるって多くの人々の命を奪ったおそろしい伝染病であるが、特に14世紀中頃ヨーロッパ襲ったペストの流行は歴史上最も有名である。 
 この時のペストはアジアで猛威をふるっていたが、東方貿易に従事していたイタリア商人らが感染し、イタリア・フランスの港に入り(1347)、1348年には全西ヨーロッパに広まった。ペストには腺ペストや肺ペストなどの種類があるが、この時ヨーロッパで流行したのは腺ペストの方で、その症状については有名なボッカチオの「デカメロン」(1348~53の作)の冒頭に次のように書かれている。 
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違って罹病の初期にはこわばったはれものが出来て、そのうちのあるものは普通のりんごぐらいに他のものは鶏卵ぐらいに大きくなり・・。命取りのはれものはまたたく間に全身にわたってところかまわず吹き出し盛り上がってまいりました。こうなってからあとはそのはれものは黒色かなまり色の斑点に変わり出しました。たいていの者には両わきだの、両足だの体中いたるところにあらわれてくるのです・・・あのペストのはれものが死の到来のきわめて確かなしるしであったように、この斑点はそれが出てきた人にとって同じく死の徴候でした。こうした病気の治療には、医者の診察もどんな効能のある薬もききめがあるようには見えませんでした・・・徴候があらわれて3日以内に、多少遅い早いはあってもたいていは少しの熱も出さず、そうかといって別に変わったこともなく死んでいきました。このペストはそれは驚くべき力をもっておりました。・・・」 
 このペストの大流行によって、イギリス・フランスでは人口の3分の1が病死したといわれている。農村人口も激減して領主の直営地経営が困難となり、貨幣地代の普及が促進され、農奴は賦役や領主裁判権などの身分的束縛から解放されるようになった。 
 このような動きを農奴解放という。農奴解放によって農民の地位は向上し、かっての農奴は家族労働によって保有地を耕作し、わずかな地代を払うが、身分的にはほとんど自由になった。このような農民を独立自営農民(ヨーマン)と呼ぶ。 
 こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮乏化した領主が再び束縛や搾取を強化しようとすると(このような動きを封建反動という)、彼らは激しく反抗し、農奴制の廃止などの要求を掲げて農民一揆を起こした。 
 フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大農民反乱が起こった。 
 百年戦争初期のポワティエの戦い(1356)後の無給傭兵達の村荒らしや領主の身代金調達のための重税賦課が直接の原因となり、フランス北東部の農民達がギョーム=カール(カイエ)を指導者として立ち上がった。ジャックとは当時の貴族が農民達を軽蔑して呼んだ呼び方である。しかし、反乱軍は諸侯軍に破れ、カールは処刑され、徹底的に弾圧された。この反乱は規模や処刑の厳しさでフランス史上最大といわれている。 
 イギリスでも、1381年にワット=タイラーの乱が起こった。 
 百年戦争の戦費調達のために15才以上の国民に人頭税がかけられると、これに反対してワット=タイラーはイングランドの東南部の農民・手工業者を率いて立ち上がった。ロンドンに進撃し、国王に農奴制の廃止や地代の引き下げを約束させた。しかし、さらに教会財産の没収や農民への土地分配などの新たな要求を行った際に殺害され、指導者を失った反乱軍は各地で敗れて一揆は鎮圧された。 
 このワット=タイラーの思想的指導者で、巡回説教師としてウィクリフの教会革新の説を広めていたジョン=ボールは「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか」と唱え、社会的平等思想を説いて、農民や下層民を引きつけたが、一揆の失敗で処刑された。 
 このようにジャックリーの乱やワット=タイラーの乱は鎮圧されたが、再発防止のために農民の要求の多くは次第に実現され、自由化が進んでいくことになる。 
 荘園制・封建制の崩壊は諸侯・騎士を没落を促進した。諸侯・騎士は十字軍による軍事的・経済的な負担によって没落しつつあったが、荘園制の崩壊は彼らの経済的な基盤を失わせ、また火砲の使用などによる戦術の変化は諸侯・騎士の没落を決定的にした。 
 14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大きく変えた。弩はハンドルで弓弦を引きしぼり、引き金を引いて矢をとばす武器で、矢の飛ぶ力が強く殺傷力は格段に高まったが、発射までに時間がかかるのが難点であった。一方の弓の長さが1.7mもある 長弓は速射が可能で、鎧(よろい)を突き通す力も備えていた。 
 このような武器の出現とともに重装騎士が出現する。彼らは強い矢に対抗するために、全身を鋼の板金を重ねた鎧に身を包んだが、鎧の重さは50~60kgに達したと言われている。 そのためまっすぐに立つことも難しく、一人で馬に乗ることも出来ず、落馬すれば起きあがることも出来なかった。そのため重装騎士は限られた力しか発揮できず、騎士による一騎打ちは意味を失い、軽装騎兵や歩兵が戦闘で大きな役割を果たすようになった。 
 さらに14世紀以後の火砲の出現は戦術を一層大きく変化させていった。 
 14世紀の中頃には大砲が使用されるようになった。初期の大砲は、砲身の長さ1mほどの鉄製の筒で、弾丸は石や鉄・鉛などで作られていた。筒の一端に火薬をつめ、長い棒の先につけた種火で点火して発射した。しかし、平均10発で砲身が破裂し、発射速度は1時間に1発位であったといわれ、破壊力・飛距離はあまりなかったが大音響で人馬を驚かせて混乱させるのに効果があった。15世紀になるとかなり進歩し、射程距離は約1kmに伸び、砲身の寿命も約100発に向上した。 
 鉄砲は、大砲より遅れて15世紀の後半に使用されるようになった。初期の鉄砲は発射と照準を合わせることが面倒で命中率も悪かった。16世紀初めにはいわゆる火縄銃が発明され、発射と照準が容易になり急速に普及していった。射程距離は約300mあったが、100m以内が有効とされ、重装騎士に対しても十分に威力を発揮した。しかし、2分に1発程度と発射に時間がかかることと、雨によって火縄が濡れて不発火になる欠点があった。 
 日本には1543年に種子島にポルトガル人によって伝えられたが、ヨーロッパで鉄砲が盛んに使われるようになって間もないことで、鉄砲の使用が織田信長・豊臣秀吉などの天下統一に大きな役割を果たしたことはよく知られている。 
 火砲の使用などによる戦術の変化は騎士の役割を低下させ、彼らの没落を早めた。諸侯や騎士は、当時中央集権化を進めていた国王の廷臣となり、農民からは地代を取り立てるだけの地主になっていった。 
 

 

 
2.

5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
 
3 イギリスとフランス
 イギリスでは、ノルマンの征服(1066)によってノルマン朝が成立した。 
 ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスでエドワード懺悔王が亡くなり義弟のハロルドが王位につくと、王位継承権を主張してイギリスに侵入し、ヘースティングズの戦い(1066)でハロルドを破ってウィリアム1世(位1066~87)として即位してノルマン朝(1066~1154)を開いた。 
 ウィリアム1世は5年間でイギリスの統一をはたし、全国で検地を行いドゥームズデー=ブック(全国的な検地帳、土地台帳)をつくり(1086)、全国の土地所有者をソールズベリに集めて忠誠を誓わせ(ソールズベリの誓約、1086)、またカンタベリ大司教を自ら任命するなど集権的封建制でイギリスを統治した。このようにノルマン朝では初めから王権が強かった。 
 ウィリアム1世はイギリス国王であるが、フランス領(ノルマンディー公国)についてはフランス王の臣下であった。このようにフランス王の臣下がイギリス王となり、主君より強大になったことが以後英仏間で抗争が続く原因となった。 
 ノルマン朝は4代続いたが、ウィリアム1世の孫スティーブンの死によって断絶し、フランスのアンジュー伯アンリ(ウィリアム1世の曾孫、母はスティーブンのいとこのマティルダ)がヘンリ2世として即位し、プランタジネット朝(1154~1399)を創始した。 ヘンリ2世は、即位する以前にすでに父からアンジュー伯領を継承し(1151)、 その翌年にフランス王ルイ7世と離婚したエレオノールとの結婚によってアキテーヌ(=ギュイエンヌ)公領等を継承していた。そのヘンリ2世がイギリス王となったためにフランスのほぼ西半分がイギリス領となり、ヘンリ2世はイングランド・ノルマンディーと合わせて当時の西ヨーロッパで最も広大な領土を支配することとなった。 
 しかし、ヘンリ2世の晩年はみじめで、フランス王と結んだ息子達(のちのリチャード1世やジョン)の反乱に苦しめられ、最後はリチャードに攻められて、フランスの陣中で没した。 
 リチャード1世(位1189~99)は、ヘンリ2世の3男として生まれ、母からアキテーヌ公領を受け継いだ。父王に2度反乱を起こしたが、父の死後イギリス王となった。 
 即位後間もなく、フランス王フィリップ2世・ドイツ皇帝フリードリヒ1世とともに第3回十字軍(1189~92)に参加し、単独でサラディンと勇戦し、「獅子心王」とあざなされた。帰途、ドイツ皇帝の捕虜となったが莫大な身代金を払って釈放されて帰国した(94)。 帰国後、弟のジョンから王位を奪い返し、 諸侯の反乱を鎮圧したのちフランスに出兵してフィリップ2世と戦ったがその地で戦死した。 
 リチャードは10年の治世の間、イギリスに留まったのは半年余りであったいわれ、戦いに明け暮れた。勇猛な武将で、中世騎士道の典型的な人物と称えられたが、政治的には無能であった。 
 プランタジネット朝第3代の王、ジョン(位1199~1216)はヘンリ2世の末子で兄たちにはそれぞれ領地が分け与えられたがジョンだけには与えられなかったことから「欠地王」とあざなされた。兄リチャードの死後イギリス王位を継承し、引き続いてフィリップ2世と大陸で戦ったが(1204~06)フランス国内の領地の多くを失った。 
 またカンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と争ったが破門され(1209)、全領土をいったん教皇に献上し改めて封土として受け、教皇の封建的臣下となった。 
 翌年、再び大陸に出兵してフィリップ2世と戦ったが敗退し、国内では戦費の負担に苦しんだ貴族の反乱を招き、帰国後有名な「マグナ=カルタ(大憲章)」に署名した(1215)。 しかし、ジョンはインノケンティウス3世に訴えてマグナ=カルタの無効を宣言してもらい、また反乱を起こした貴族達を破門してもらったので、再び内乱となり、貴族軍と交戦中に病没した(1216)。   
 「マグナ=カルタ(大憲章)」はジョンの悪政に対して貴族が団結して王に認めさせたもので全63条から成っている。権利の請願(1628)や権利章典(1689)とともにイギリス憲法を構成する重要な文書で「イギリス憲政のバイブル」ともいわれている。 
 主な条項をいくつか列挙してみると次のようである。 
 第1条 まず第一に、朕は、イングランドの教会は自由であり、その権利を減ずることなく、その自由を侵されることなく有すべきことを、神に容認し、この朕の特許状によって、朕及び朕の後継者のために永久に確認した。・・・ 
 第12条 いかなる軍役免除金または御用金も、王国全体の協議によるのでなければ、朕の王国において課せられるべきでない。・・・ 
 第13条 またロンドン市は、全てのその古来の特権と、水路陸路を問わず自由な関税とを有すべきである。さらに朕はすべての他の都市、市邑、町、港がすべてその特権と自由な関税を有すべきことを望み、また認可する。 
 第16条 いかなる者も、騎士の封、またいかなる自由な封の保有についても、その封に付帯する以上の奉仕をおこなうことを強制されることはない。 
 第39条 いかなる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか、または国法による以外には、逮捕され、監禁され、また自由を奪われ、また法の保護外におかれ、また追放され、またいかなる方法にてもあれ侵害されることはなく、また朕は彼に敵対することなく、彼に対して軍勢を派遣することはない。 
 第41条 あらゆる商人は、古来の正当な慣習により、いかなる悪税をも課せられることはなく、売買のため、水路陸路を問わず、安全かつ無事にイングランドに入国出国し、イングランド内に滞在し、通行することが出来る。・・・                      (山川出版社「世界史史料・名言集」より) 
 第39条のように国民の権利に関する条項もあるが少なく、大部分は封建社会において教会・貴族・都市などが慣習的に持っていた特権を再確認させたものであった。しかしマグナ=カルタは国王が臣下の要求に屈した最初ものであり、イギリス憲政史上画期的な出来事であった。 
 ジョンの死後、子のヘンリ3世(位1216~72)が幼少で即位した。当初は摂政が国内をよく治めたが、親政を始めるとフランスから王妃を迎え、フランス人を重用した。また対仏戦での戦費がかさんだためにマグナ=カルタを無視して重税を課したので貴族の不満を招き、一度はオックスフォード条令(58)で貴族の特権を認めたが、 まもなくこれを無視したのでシモン=ド=モンフォールの率いる貴族の反乱が起き、敗れて捕らえられた(64)。 のちに王太子エドワード(のちのエドワード1世)に救出されたが(65)、以後政治の実権はエドワードに移った。 
 シモン=ド=モンフォール(1208頃~65)はノルマンディーでフランスの名門貴族の家に生まれた。父はアルビジョワ十字軍に参加して功績があった。母がイギリス人であったことからレスター伯領を相続してイギリスに渡った(29)。 ヘンリ3世の妹と結婚したが(38)、ヘンリ3世に対する貴族の不満が増大すると、その指導者に選ばれ、オックスフォード条令を王に認めさせた。 
 ヘンリ3世がこれを無視すると反乱を起こし(63~65)、王を捕らえ、翌1265年に従来の大貴族・高位聖職者の集会に州騎士(地方の小領主)と都市の市民代表を加えて諮問議会を召集した。この諮問議会(シモン=ド=モンフォールの議会)はイギリス議会(下院)の始まりとされている。しかし彼は王太子エドワードとの戦いで敗死した(65)。 
 エドワード1世(位1272~1307)は即位すると多くの法令を発布し、制度を整えた。彼が1295年に召集した議会は模範議会(大貴族・高位聖職者の他に、各州2人の騎士・各都市2人の市民で構成)と呼ばれ、その後の議会構成のモデルとなった。 
 そしてエドワード3世(位1327~77)の時に、議会は上院(大貴族・高位聖職者で構成)と下院(騎士と市民構成)に分かれ、課税には下院の承認を必要とすることになり、議会は諮問議会から立法機関へと発展していった。 
 このエドワード3世の時に有名な百年戦争が勃発した。 
 フランスでは10世紀末にカペー朝(987~1328)が成立したが王室領はパリ周辺に限られていて王権は弱く、典型的な封建制のもとで国王よりはるかに広大な領地を持つ大諸侯(ノルマンディー公、ブルターニュ公、アンジュー伯、アキテーヌ公など)の勢力が強かった。 
 カペー朝第7代の王が有名なフィリップ2世(尊厳王、位1180~1223)である。フィリップ2世は王領の拡大と中央集権化に努め、封建諸侯と戦って王権を伸張し、フランス王権の基礎を固めた。 
 前王ルイ7世(位1137~80)の時代にイギリス領となったフランス西半分の領土の奪回をはかり、ヘンリ2世・リチャード1世と抗争を繰り返した(1187~)。 
 第3回十字軍(1189~92)に参加したが、リチャードと対立して途中から帰国し、のちノルマンディーの領有をめぐってリチャードと戦った(1194~99)。 
 さらに次王ジョンとも戦い、ノルマンディー・アンジューなど大陸のイギリス領の大半を奪い返し、王領を一挙に拡大した(1204)。その後ジョンはドイツ皇帝と結んで失地の奪回をはかったが、フィリップ2世は連合軍を破って領土を確保した(1214)。 
 当時、南フランスのアルビ地方を中心にアルビジョワ派が盛んとなり、南フランスの諸侯の間に信仰された。アルビジョワ派は、マニ教の影響を受け現世は苦と罪のみであると考えて肉体を罪悪視し禁欲を唱えたカタリ派系のキリスト教の一派で異端の宣告を受けていた。 フィリップ2世はアルビジョワ派討伐のためにアルビジョワ十字軍(1209~29)を起こし、アルビジョワ派の諸侯を討って南フランスにも王権を拡大した。 
 フィリップ2世の孫でカペー朝第9代の王位についたルイ9世(位1226~70)は敬虔なカトリック教徒で聖王とあざなされた。12才で即位したので最初の10年間は母后が摂政を務め、この間南フランスのアルビジョワ派を根絶して(1229)、南フランスに王権を拡大した。 
 イギリス王ヘンリ3世との間にパリ条約を結び(1259)、ノルマンディー・アンジュー・ポワトゥーなどの諸地方を獲得し、かわりにギュイエンヌ地方を与えて英仏間の紛争を解決した。内政にも力を尽くしたので、長い治世の間国内は安定し、カペー朝の全盛期を現出した。 
 ルイ9世は第6回十字軍(1248~54)・第7回十字軍(1270)に参加したが、第7回十字軍の際チュニスで病没した。 
 ルイ9世の孫でカペー朝第11代の王が中世フランスを代表する偉大な王フィリップ4世(位1258~1314)である。彼は王権の強化と国家統一を強力に押し進め、当時のヨーロッパで最初に国家統一を実現した。 
 フィリップ4世は、当時親英・反仏的だったフランドル諸都市(イギリスから羊毛を輸入していたのでイギリスとの繋がりが強かった)とギュイエンヌ(ボルドーを中心とする地方でイギリスにぶどう酒を輸出していた)へのイギリスの影響力を排除し、王領化をはかるために出兵したが失敗に終わった。 
 フィリップ4世はこの戦争の戦費による財政難を打開するために聖職者への課税を企てて教皇ボニファティウス8世と対立し、三部会を召集し(1302)、国民の支持を背景にアナーニ事件(1303)を引き起こし、ボニファティウス8世をアナーニに幽囚して憤死させた。 さらにフランス人教皇を擁立して教皇庁をアヴィニョンに移し(教皇のバビロン捕囚、1309~77)、教皇をフランス王の監視下に置く端緒を開いたことは前述した。 
 フィリップ4世の死後、3人の子ども達が後を継いだがシャルル4世の死(1328)によってカペー朝は断絶し、ヴァロア朝のフィリップ6世即位したがこのことが有名な百年戦争(1339~1453)が起こる発端となった。   
 

 

 
3.

5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
 
4 百年戦争とばら戦争
 イギリスは、ノルマン朝・プランタジネット朝の成立によってフランスに広大な領土を持つこととなり、その奪回をはかるフランスとの間で抗争が繰り返された。 
 フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領の拡大と中央集権化が進むとフランス国内のイギリス領をめぐる英仏の抗争はますます激しくなった。 
 フィリップ4世はフランドル・ギュイエンヌ地方に対するイギリスの影響力を排除し、その王領化を企ててエドワード1世と両地方をめぐって激しく争った。 
 フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地であったが、その原料の羊毛の大部分を当時のヨーロッパ第一の羊毛生産国であるイギリスから輸入していた。 
 フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフランドル伯領を直接支配下におこうとしたが、イギリスは経済的に緊密な関係にあったフランドルにフランス王の勢力が及ぶことを阻止しようとした。百年戦争のきっかけは王位継承問題であったが、最大の原因はこのフランドルをめぐる英仏の争いであった。 
 またギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボルドーからイギリスに輸出され、イギリスの王侯・貴族に愛飲されていた。 
 フランスではカペー朝が断絶した後、フィリップ4世の甥のフィリップ6世(位1328~50)が即位し、ヴァロア朝(1328~1589)を創始した。 
 フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関してはフランス王の封建的臣下であることを利用し、口実を設けてギュイエンヌの領地の没収を宣言した(1337)。 
 これに対してイギリス国王エドワード3世(位1327~77)は、母イサベラがフィリップ4世の娘であることから、甥のフィリップ6世に王位継承権があるなら、孫の自分にも当然王位継承権があると主張して挑戦状を突きつけ(1337)、その一方でフランドル諸都市に対しては羊毛輸出の禁止で脅し、対仏反乱を起こさせた。 
 こうして百年戦争(1339~1453)が始まった。 
 挑戦状を送った翌年にイギリス軍がノルマンディーに上陸し、その翌年に戦争が開始された。近年、この戦争開始の年(1339)をもって百年戦争の開始としている。 
 百年戦争と呼ばれているが、百年間絶えず戦争が続けられたわけでなく、休戦の期間が長く、時折決戦が行われた。 
 百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(1346、クレシーは北仏、カレーの南)である。この戦いではエドワード黒太子(エドワード3世の長男、黒い鎧を着用していたことからBlack Princeと呼ばれた)の率いるイギリス長弓隊が活躍し、重装騎兵とジェノヴァの傭兵からなる弩(いしゆみ)隊に完勝した。またイギリス軍が初めて大砲を使用した戦いとしても有名である。クレシーの戦いの翌年、イギリス軍はカレーを占領してこの町を大陸への足がかりとした。  
 エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌに渡り、翌年北上してロワール川流域に進出し、その地を荒らしまわり戦利品を獲得して引き上げようとしていた。その時、ノルマンディーから南下してきたフランス国王ジャン2世(位1350~64)の軍勢と遭遇し、ここにポワティエの戦い(1356)が始まった。この戦いは激戦の末にイギリス軍の勝利に終わった。そして敗れたジャンは捕虜となった。 
 これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346~50)、フランスでも人口の3分の1が病死したと言われている。さらに大農民反乱であるジャックリーの乱(1358)が起こるなどフランス国内は大混乱に陥った。 
 こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリスはポワトゥー・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・カレーを獲得する代わりに王位継承権を放棄し、ジャン2世を釈放し、一時休戦した。 
 フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(位1364~80)が即位すると、イギリスに占領された地を次々に奪回し(1369~75)、75年にはイギリスはカレー・ボルドー・バヨンヌ(フランス南西部)を残すに過ぎなくなった。 
 シャルル5世の死後、長男シャルル6世(位1380~1422)が11歳で即位したが、不幸にもブルターニュ地方に遠征した際に発狂し、以後長い狂気と短い正気を繰り返したのでブルゴーニュ公が摂政となった。 
 以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世の弟)を中心とするアルマニャック派(国王派)とブルゴーニュ公(シャルル6世の叔父)を中心とするブルゴーニュ派に2分され、対立・抗争を続けた。ブルゴーニュ公は、当時フランドルを併合し、フランス東部に強大な勢力を打ち立てていたが、後にイギリスと手を結んだ。 
 一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(位1377~99、エドワード黒太子の子)が即位したが、一族のランカスター家のヘンリ(後のヘンリ4世)と争い、捕えられて廃位後に暗殺され、プランタジネット朝は断絶し、ランカスター朝(1399~1461)が成立した。 
 ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(位1413~22)は、フランスの内乱に乗じてフランスでの勢力回復をはかりノルマンディーに出兵した(1415)。そしてアザンクールの戦い(1415)で大勝し、トロアの和約(1420)を結び、フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)の王位継承権を否認し、イギリス王太子ヘンリのフランス王位継承権を認めさせた。 
 1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イギリスの幼王ヘンリ6世(位1422~61)が英仏両王を称した。 
 フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニャック派によって王位継承者とされたが、ブルゴーニュ派の反対もあって非合法の王であり、その勢力範囲はロワール川流域とギュイエンヌを除くロワール以南の南フランスに限定されていた。 
 イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領土拡大をはかり、ブルゴーニュ公と結んでアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲した(1428)。もしオルレアンが陥落すればフランスは滅亡の危機にさらされるという時に現れたのが、有名なジャンヌ=ダルクである。 
 ジャンヌ=ダルク(1412~31)は、フランス東部のドンレミ村の農家に生まれ信仰心の篤い少女であった。13歳の時に「フランスへ行け、フランスに行って国王を救え」という神のお告げを聞いた(1425)。 
 オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアンを救え」という神の声にせき立てられたジャンヌ=ダルクは、近くの守備隊長の所へ出かけ、王太子シャルルのもとへ送り届けてくれるよう頼み込んだ。最初は全く相手にしてもらえなかったが、少女の信仰心と熱意は隊長を動かし、 その援助によって500km離れた王太子の居城へ到達し、シャルルに謁見し、シャルルの許可を得て数百の兵を率いてオルレアンに向けて出発した。 
 ジャンヌ=ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を鼓舞し、ついにオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を撤退させた(1429)。ジャンヌの軍勢はその後破竹の進撃を続け、ランス(代々フランス国王の戴冠式が行われた町)に進撃し、そこでシャルルの戴冠式が挙行され、シャルル7世(位1422~61)は正式にフランス王になることが出来た。 
 しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブルゴーニュ派に捕らえられ、シャルル7世が身代金を支払わなかったためにイギリス側に引き渡された。この時、ジャンヌに大恩のあるシャルル7世は「小娘一人の命ですめば安いものだ」と言ったといわれている。 
 ジャンヌ=ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端・魔女」の判決を受け、1431年5月31日にルーアン市の広場で火刑に処せられた。ジャンヌ=ダルクについては、後に名誉復権裁判が行われ、無罪・復権の判決が出され(1456)、1920年には聖者に列せられた。 
 その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、ノルマンディー(1449)、ギュイエンヌ(1451~53)を回復し、1453年にはボルドーを占領し、カレーを除いてフランス国内から完全にイギリス勢力を駆逐し、百年戦争はついに終結した(1453)。 
 シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャック=クールを財政監督官に起用して財政改革を行い、また常備軍の創設や官僚制の整備を行い、王権の強化と中央集権化を進めた。 
 百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失ったイギリスでは、間もなくランカスター家とヨーク家による王位争奪の大内乱が始まった。この内乱はランカスター家が赤ばらを紋章とし、ヨーク家が白ばらを紋章としたので、ばら戦争(1455~85)と呼ばれている。ばら戦争は、この両家の王位争いに国内の諸侯が両派に分かれて争ったので30年に及ぶ大内乱となった。 
 ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)のヘンリ4世(位1399~1413)は、従兄のリチャード2世の圧政に反抗し、これを破って議会の承認を得て即位し、ランカスター朝(1399~1461)の創始者となった。その後ヘンリ5世・ヘンリ6世と続くが、ヘンリ6世(位1422~61)とヨーク公リチャードとの争いをが契機となってばら戦争が始まった。 
 ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワード4世(位1461~70)は、父ヨーク公リチャードの戦死後、ランカスター派を破り、ヨーク朝(位1461~85)を創始した。 
 ヘンリ=テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家の血を引いていたので、ヨーク朝の成立以来フランスに亡命していたが、フランス王の援助を受けて帰国し、ボズワースの戦い(1485)でリチャード3世(ヨーク朝第3代の王)を破って敗死させ、即位してヘンリ7世(位1485~1509)となった。これによってばら戦争は終結し、テューダー朝(1485~1603)が成立した。 
 ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)と結婚したので、ランカスター家とヨーク家の合同がなった。 
 ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収して王領を拡大し、また星室庁(国王直属の特別裁判所、ウェストミンスター宮殿の星の間に設置されたのでこう呼ばれた)を利用して貴族を抑圧し、イギリス絶対王政の基礎を築いた。 
 

 

 
4.

5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
 
5 スペインとポルトガル
 イベリア半島は、8世紀以来イスラム教徒の支配下に置かれた。イスラム教徒(ウマイヤ朝)に滅ぼされた西ゴート王国の貴族は北方の山岳地帯に逃げ込み、そこを拠点としてイベリア半島からイスラム教徒を駆逐し、キリスト教徒の手に奪回する運動を起こした。この運動は国土回復運動(レコンキスタ、再征服)と呼ばれている。 
 レコンキスタの過程で、イベリア半島にはレオン・カスティリア・ナヴァル・アラゴン・ポルトガルなどの諸国が成立した。 
 レコンキスタの先頭に立ったのは、8世紀初めに西ゴート貴族らによってイベリア半島の北西部に建国されたアストゥリアス王国であった。アストゥリアス王国は次第に領土を拡大し、9世紀後半にレオン地方を征服し、レオンに首都をおいたので以後はレオン王国と呼ばれた。 
 カスティリア王国(930年頃建国)は、レオン王国の辺境伯が近隣を征服し自立して建てた国である。その後南方に領土を拡大し、13世紀にはレオン王国を併合(1230)、 さらにコルドバを占領して(1236)イベリア半島の大半を支配下に治め最大の王国となった。 
 ナヴァル王国は、10世紀初めに建国された。11世紀にアラゴン王国に併合されたが、12世紀には独立を回復した。 
 アラゴン王国は、11世紀にナヴァル王の一族によって建国された。その後南方に領土を拡大し、14世紀にはサルデーニャ(サルディニア)島・シチリア島なども領有して西地中海で勢力を振るい、カスティリア王国と並んでレコンキスタの中心となった。 
 ポルトガルは、アルフォンソ=エンリケシュがイスラム教徒を撃破し、領土を回復してカスティリア王国から分離して独立王国となった(1143)。ジョアン1世(位1385~1433)は北アフリカのセウタを攻略して海外進出の基礎を築いた。その子エンリケ航海王子は西アフリカの探検を奨励した。 
 ジョアン2世(位1481~95)は、貴族の反乱を鎮圧して国内統一を進めて絶対主義の基礎を築き、またインド航路発見を援助するなど海外発展に力を尽くした。 
 12世紀になると、カスティリア・アラゴン・ポルトガルの3国が強大となり、キリスト教徒はイベリア半島の北半を奪回し、イスラム教徒は次第に南へ追いつめられていった。 
 イベリア半島の南端に追い込まれたイスラム教徒は、イベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝(グラナダ王国、1230~1492)を建て、グラナダを首都とした。以後グラナダはヨーロッパにおけるイスラムの政治・軍事・文化の最後の拠点となり、グラナダに残るアルハンブラ宮殿は世界で最も美しい建築物の一つに数えられている。 
 13世紀前半に、グラナダを除いてレコンキスタがほぼ完了すると、共通の目標を失ったカスティリア・アラゴン・ポルトガルなどの諸国間では対立が激しくなり、14・15世紀には各国で混乱が続いた。 
 カスティリア国王ファン2世(位1406~54)の娘イサベル(後のイサベル1世、1451~1504)は、1469年にアラゴン王子のフェルナンド(後のフェルナンド5世、1452~1516) と結婚した。イサベルは兄の後を継いでカスティリア国王となり(1474)、夫のフェルナンドも父の死後アラゴン王となったので(1479)、カスティリア・アラゴン両国は合邦してスペイン(イスパニア)王国となった。 
 フェルナンド5世(位1479~1516)とイサベル1世(1479~1504)はスペインを共治し、1492年にイスラム教徒の最後の拠点であったグラナダを陥れ、ここにレコンキスタが完了した。イサベルが後援したコロンブスの船団がサンサルバドルに到達したのも同じ1492年のことであった。 
 フェルナンドとイサベルは、国内では勃興しつつあった都市と結んで貴族勢力を抑え、スペイン絶対王政の基礎を築いた。 
 

 

 
5.

5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
 
6 ドイツ・イタリア・北ヨーロッパ
 オットー大帝が神聖ローマ帝国の皇帝になって以来、ドイツ皇帝はローマ皇帝の称号を保つために、旧ローマ帝国の中心地イタリアの統治に力をそそぎ、イタリアへの遠征と干渉を行い教皇と対立した。このためドイツ本国の統治をおろそかにしたので国内では大諸侯の台頭をまねき、皇帝の権力は振るわなくなった。歴代の神聖ローマ皇帝がとったこのような政策はイタリア政策と呼ばれている。 
 シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝、1138~1254)の第2代皇帝フリードリヒ1世(位1152~90)は、イタリアにおける帝権拡大をはかり5回にわたってイタリア遠征を行ったが、第3回十字軍に参加して、小アジアで溺死した。 
 第6代皇帝フリードリヒ2世(位1215~1250)は、祖父のフリードリヒ1世と並んで中世ドイツの君主のうち最も親しまれている君主である。シチリア女王を母として生まれ、幼年時代を教皇インノケンティウス3世の後見の下で過ごし、彼の支持を得て神聖ローマ皇帝となった。 
 彼はシチリアを中心にドイツ・イタリアにまたがる帝国の建設を夢見て、イタリア政策に全力を傾け、ロンバルディア同盟(北イタリアのミラノを中心とする都市同盟で教皇と結んだ)と激しい抗争を繰り返した。そのため、その治世の大半をシチリア・イタリアで過ごした。 
 フリードリヒ2世は、イタリア政策を強力に進めるために、ドイツ国内では聖俗諸侯に大幅な特権を認めたので、大諸侯の力がますます強まり、皇帝によるドイツの統一は困難となった。 
 フリードリヒ2世の死後まもなく、シュタウフェン朝は断絶し(1254)、以後20年間にわたって、神聖ローマ皇帝が実質的に空位となる、いわゆる大空位時代(1256~73)が訪れ、国内は混乱をきわめた。この間、オランダ伯やイギリスやフランスの傀儡皇帝が立てられたが、事実上は無皇帝時代であった。 
 1273年には、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選ばれ、大空位時代に終止符を打ったが、その後も皇帝は少数の有力諸侯によって選ばれようになった。 
 有力諸侯は、ルクセンブルグ朝(1347~1437)のカール4世(位1347~78)を皇帝に選び、「金印勅書(黄金文書)」(1356)によって彼らの特権を法的に承認させた。 
 金印勅書は、皇帝選出権を持つ聖俗7人の諸侯(マインツ大司教・トリール(トリエル)大司教・ケルン大司教・ベーメン(ボヘミア)王・ファルツ伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯)を定め、皇帝選出をめぐって混乱が生じた場合は上記の7人の諸侯(彼らは選帝侯または選挙侯と呼ばれた)の多数決によることを定め、また選帝侯の特権を認めた。 
 これによって皇帝選挙制が確立され従来の混乱は避けられたが、その所領における完全な主権を認められた選帝侯はとびぬけて強大な力を持つこととなり、彼らはもはや皇帝に臣従する臣下ではなくなり、皇帝の権力はますます振るわなくなった。 
 その後、1438年に皇帝となったハプスブルグ家のアルプレヒト2世(位1438~39)以後、19世紀初めに神聖ローマ帝国が消滅するまで、ハプスブルグ家が代々皇帝を出した。 
 中世末にイギリス・フランス・スペインなどで国王による中央集権化が進むなかで、ドイツでは皇帝の権力はますます弱体化し、13~14世紀にかけて大諸侯は事実上独立し、ドイツでは大小の諸侯・自由都市など合わせて約300余の領邦(領邦国家ともいう、13世紀以後のドイツで形成された地方国家)が分立し、ドイツの分裂は決定的となった。 
 この間、ドイツ人は12世紀以降、エルベ川以東のスラブ人の居住地域に植民し、ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などを作りあげた。エルベ川以東の地では、西ヨーロッパで農奴制が崩れて行くなかで、領主制と農奴制が逆に強化されていった。 
 スイスは、ドイツからアルプスを越えてイタリアに至る通路として重要な地であったので、神聖ローマ帝国は直轄地として支配していた。 
 ハプスブルグ家が皇帝位につくと、ハプスブルグ家の居城に近いこの地方への領土拡大をはかって圧迫を加えたので、ウリ・シュヴィッツ・ウンターヴァルデンの3州(原初3州)は同盟してハプスブルグ家の支配に反抗し、独立運動を開始した。モンガルテンの戦い(1315)、ドルナッハの戦い(1499)に勝利をおさめ、13州(同盟州は次第に増加した)は事実上の独立を達成し、1648年のウェストファリア条約でその独立が国際的に承認された。 
 スイスの独立運動の伝説的英雄ヴィルヘルム=テルの物語は、19世紀初めのドイツ人劇作家シラーの戯曲によって広く知られるようになった。 
 イタリアも、ドイツと同様に国家の統一は実現せず、教皇領をはじめ多数の王国・諸侯国・都市共和国などが分立した。 
 イタリアでは、フランク王国が分裂していくなかで、いち早くカロリング朝が断絶し(875)、しかもその前後からイスラム教徒の侵入に脅かされた。 
 さらに、ドイツで神聖ローマ帝国が成立すると(962)、以後ドイツ皇帝のイタリア政策による侵入と干渉に苦しめられた。 
 11~12世紀には、教皇とドイツ皇帝間の聖職叙任権闘争がからんでゲルフ(教皇党、教皇支持派で都市の大商人が多い)とギベリン(皇帝党、ドイツ皇帝を支持する派で貴族・領主層が多い)の党争が激しくなった。 
 また11世紀以後、ノルマン人の侵入を受け、シチリア島と南イタリアにはノルマン人による両シチリア王国(1130~1860)が成立し、さらに十字軍以後は都市が繁栄し、多くの都市共和国が成立した。 
 こうして中世末期には、教皇領・ナポリ王国(両シチリア王国)・ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・フィレンツェ共和国・ミラノ公国・サヴォイア公国など多数の王国・諸侯国・都市共和国などが分立した。 
 しかもこれらの諸国家は単独ではイタリアを統一する力はなく、伝統的なドイツのイタリア政策による干渉に加えて、中央集権化を成し遂げたフランス・スペインなどの干渉も強まり、イタリアはその抗争の場となり、分裂状態が長く続き、統一は不可能となった。 政治的には分裂していたイタリアであったが、都市の繁栄を背景に14世紀以降ルネサンスが花開き、文化面では他のヨーロッパ諸国をリードした。 
 ノルマン人によって建国されたデンマーク王国(8世紀頃に国家を形成)・スウェーデン王国(10世紀頃に王国形成)・ノルウェー王国(9世紀に王国形成)の北欧三国は、14世紀末にデンマーク女王マルグレーテ(位1387~1412)のもとでカルマル同盟(1397)を結び、同君連合の王国(デンマーク連合王国、1397~1523)を形成した。 
 マルグレーテは、デンマーク王の王女として生まれ、後にノルウェー王と結婚した(1363)。父と夫の死後、子のオラーフが王位を継いだがオラーフも没したため、デンマーク・ノルウェー女王となり、スウェーデンに勢力を伸ばし、スウェーデン王を破って捕虜とし、三国が共通の君主を頂くことを認めさせ、カルマル同盟を結んで三国の王を兼ねることとなった。このカルマル同盟はスウェーデンが独立するまで(1523)続いた。 
 アジア系のフィン人(現在のフィンランド人の祖)は、700年頃に現在の地に定着したが、13世紀末にスウェーデンに併合された。  
 

 

 
6.
16.西ヨーロッパの中世文化

6 西ヨーロッパ中世の文化
 
1 学問と大学
 西ヨーロッパの中世文化の特色はキリスト教文化という言葉で言い表すことが出来る。中世西ヨーロッパはカトリックの時代で、カトリック教会が絶大な権威をもっていたので学問・芸術なども教会の支配下にあった。最高の学問は、キリスト教の教理を研究する神学であり、建築や美術は教会とその装飾のために発達した。 
 中世の学問の担い手は、中世ヨーロッパの共通語であるラテン語が読み書きできる聖職者で、彼らが学者であり知識人であった。人口の大部分を占める農民はほとんど読み書きが出来なかった。 
 最高の学問は神学であった。「哲学は神学の婢(はしため、召使い・下女の意味)」ということわざはこのことをよく示している。 
 神学は、初めのうちはアウグスティヌスなどの教父の著述を読む程度であったが、十字軍以後はビザンツやイスラムからギリシアの哲学(特にアリストテレスの哲学)を取り入れてキリスト教の信仰・教義を哲学的に体系化したスコラ学(スコラは教会付属の学校の意味)に発展した。 
 イタリア生まれで、のちにカンタベリ大司教となったアンセルムス(1033~1109)は、神や普遍は個々の事物に先立って存在するという実在論を唱えて「スコラ哲学の父」と呼ばれた。これに対してアベラール(1079~1142)は、実在するものは個々に事物だけで、神とか普遍は後につくられたもので名のみのものにすぎないという唯名論(ゆいめいろん)を主張した。 
 この実在論と唯名論の対立は、普遍闘争と呼ばれ、ヨーロッパ全域で長く争われたが、アリストテレス主義の導入によるトマス=アクィナスの説によって解決された。 
 トマス=アクィナス(1225頃~74)は、イタリアの神学者・スコラ哲学者で、ナポリ大学で学んだ後にドミニコ修道士となり、パリ大学で教鞭をとり、帰国後はローマの修道院で研究に励み、主著「神学大全」(1266~73年に執筆)を著して信仰と理性の調和・統合をはかった。彼はアリストテレス哲学をキリスト教思想に調和させて普遍論争を終わらせ、また神学と哲学の結合に努めたのでスコラ哲学の大成者とされている。 
 しかし、教皇権の衰退とともに、中世末にはウィリアム=オッカム(1290頃~1349頃)らの唯名論が有力となった。(神学・スコラ学については不勉強で、上の記述は他の書物を参考にしてまとめただけのものであることをお断りします) 
 中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義やカトリック教会の教えに反するような自由な思想や学問は許されず、合理的な学問の発達は妨げられた。 
 自然科学は上記の理由で発達しなかったが、中世最大の自然科学者といわれるイギリスのロジャー=ベーコン(1214頃~94)は、12世紀以後イスラム科学の影響を受けて、実験や観察を重んじ、近代自然科学への道を開いた。 
 12世紀ルネサンスといわれるように、12世紀の西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化が盛んに取り入れられ、イスラムやギリシアの学術文献がアラビア語やギリシア語からラテン語に翻訳・研究されて学問が盛んとなった。 
 イスラム文化は、主にトレドを中心とするスペインやシチリアを中心とする南イタリア経由で、そしてビザンツ文化はコンスタンティノープルと盛んに通商を行ったヴェネツィアを中心とする北イタリア経由で西ヨーロッパに伝えられた。 
 西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化の影響を受けて様々な学問が盛んとなったが、これらの学問は最初の頃は修道院や私塾で教えられるに過ぎなかった。しかし、12 世紀頃からはその頃ヨーロッパ各地に生まれてくる大学で教えられるようになった。 
 ヨーロッパの大学の多くは12世紀以前から各地にあった教会や修道院付属の学校を母体として生まれた。 
 有名なパリ大学は、12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属の神学校から昇格し、フィリップ2世の保護を受けて、教授学生組合として発展した。ソルボン(パリ大学神学部の別名であるソルボンヌは彼の名に由来する)によって創始された神学部が有名で、教会大分裂の時代まで神学の最高権威で、ヨーロッパ各地から多くの優れた学生が集まった。またパリ大学は、14世紀以降ヨーロッパ各地に設立される大学の模範となった。 
 ヨーロッパ最古の大学は、ナポリの南にあったサレルノ大学である。サレルノ大学は、イスラムから受け入れた医学で有名であり、11世紀中頃に設立され、ギリシアの医学者ヒポクラテスの研究に基づく講義が行われていた。 
 サレルノ大学と並んで古い大学が北イタリアのボローニャ大学で11世紀末に設立された。法学者がローマ法の注釈を始め、ローマ法と教会法で有名になると全ヨーロッパから学生が集まり、13世紀中頃には学生数が1万人に達したと言われている。 
 ボローニャ大学は学生の大学であった。学生達は相互扶助を目的としてウニヴェルシタス(universityの語源)と呼ばれる団体を結成して、彼らの生活を守るために部屋代の値下げなど様々な要求を出し、聞き入れられないときは他の町に移住すると脅して要求を認めさせた。当時の大学はきちんとした校舎などもなかったので、学生が他の町に移ることは大学が他の町に移ることを意味した。 
 後には学生達は教授に対しても講義ボイコットなどの手段で対抗したので、教授達は学生の中から選ばれたレクトル(学長)に服従の宣誓をするようになった。当時の教授達の収入は学生からの徴収金に拠っていたので、教授達は学生達のボイコットには抵抗できなかった。 
 イギリスのオックスフォード大学は、12世紀後半にパリを引き上げた学生達によってパリ大学を模範として設立された。神学部を中心として、多くの優れた学者を輩出し、ケンブリッジ大学と並んでイギリスの指導者層を多く出した。 
 ケンブリッジ大学は、13世紀の初めにオックスフォード大学の教授や学生が移ってきて設立され、法学で有名であった。 
 上記の大学に続いて、13~15世紀にかけてヨーロッパ各地に多くの大学が設立された。 14世紀に設立されたプラハ大学はドイツ最初の大学として名高く、のちにフスも同大学の総長となっている。 
 中世ヨーロッパの完全な大学は、神学・法学・医学の3学部をそろえ、その下に人文学部があった。人文学部は教養課程にあたり、いわゆる自由7科(文法(ラテン語)、修辞、論理、算術、幾何、天文、音楽)が必修とされ、これを修めないと専門学部に入れなかった。 
2 美術と文学
 中世の美術は、教会建築とそれに付随する絵画・彫刻を中心に発達した。 
 教会建築は、はじめセント=ソフィア大聖堂に代表されるビザンツ式が模倣されていたが、11~12世紀にかけては、ロマネスク式が盛んとなった。ロマネスクとはローマ風の意味である。その特色はドーム型のアーチとその重みを支える重厚な石壁にあった。窓が小さいために内部は薄暗く、広い壁面は壁画で飾られていた。ピサの斜塔で有名なピサ大聖堂やヴォルムス大聖堂などがその代表例である。 
 12世紀末から、教会の権威の増大と新興市民階級の経済力の上昇を背景として、尖塔とアーチと広い窓を特色とするゴシック式が教会建築の主流となり、全ヨーロッパに普及した。 
 ゴシック式の普及は教会の大規模化を促し、聖堂の多くは天に向かってそびえ立つ大小の尖塔をそなえ、その広い窓はステンドグラスで飾られ、彫刻もロマネスク式より写実的になった。パリのノートルダム大聖堂、北フランスのアミアン大聖堂・ランス大聖堂・シャルトル大聖堂やドイツ最大のゴシック建築であるケルン大聖堂などがその代表例である。 
 中世の文学を代表するのは騎士道物語である。騎士道物語は英雄的騎士にまつわる伝説や騎士道を題材とし、ラテン語でなく日常語で書かれて吟誦された。フランスの「ローランの歌」、イギリスの「アーサー王物語」そしてドイツの「ニーベルンゲンの歌」などがその代表作であるが、これらははじめ口語で吟誦され、のちに文字で書かれた物語である。 
 「ローランの歌」は、カール大帝の対イスラム戦に従軍したローランの武勲と友情・恋を歌った武勲詩である。主人公のローラン(カール大帝の甥)はカール大帝(作品中では200歳の老王として書かれている)のイスパニア遠征に従軍し、殿(しんがり)軍として引き上げるときにピレネー山脈中のロンスヴォーでイスラム軍と戦って裏切り者のために戦死する。  
 「アーサー王物語」は、イギリスの先住民であるブリトン人(ケルト系)の伝説的英雄で、しばしばサクソン人を撃退したアーサー王と彼の宮廷に集まる円卓騎士の武勇を題材とした騎士道物語で12世紀頃に成立した。 
 「ニーベルンゲンの歌」は、ジークフリートの妻クリームヒルトが、兄グンター(ブルグンド王)の臣下ハゲネに殺された夫ジークフリートの敵を討つために、エッツェル(フンのアッティラ)に嫁し、グンターとハゲネを殺させて彼女も死ぬという、クリームヒルトの復讐とブルグンド族の没落を描いた叙事詩で13世紀に完成した。 
 また12世紀以後、南フランスの吟遊詩人(トゥルバドゥール)やドイツの吟遊詩人(ミンネジンガー)が各地を遍歴し、宮廷に招かれて騎士的愛をテーマにした叙情詩を歌った。 
 

 

 

第8章 東西文化の交流(省略)