歴史・人名

戦国人名辞典

戦国人名辞典

大内義隆(おおうちよしたか)(1507-1551)大内義興の子。周防山口城主。尼子氏、大友氏らと争い大敗。後、文事にふけり、武断派の陶隆房の謀反により、自刃。

大谷吉継(おおたによしつぐ)(1559-1600)刑部卿。秀吉の長浜城主時代に召し抱えられ、側近として仕える。朝鮮出兵では、軍奉行を務める。関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、戦死。

大友宗麟(おおともそうりん)(1530-1587)大友義鑑の子。実名義鎮。豊後府内城主、後に臼杵城主。九州探題。一時は北九州を制覇したが、島津氏の圧迫により衰退。豊臣秀吉を頼り、かろうじて大名として存続。キリシタン大名として有名。

大友義統(おおともよしむね)(1558-1610)宗麟の子。1576年家督相続、1578年耳川の戦いで島津氏に敗れ、衰退。豊臣秀吉に早くから従うが、1593年朝鮮の役での失策から改易。関ヶ原の戦いで西軍に荷担するが、黒田勢に敗れ、常陸宍戸で死去。

大村純忠(おおむらすみただ)(1533-1587)大村純前の養子。有馬晴純の子。キリシタン大名となり、ローマへ少年使節を送ったことで有名。

織田勝長(おだかつなが)( ?-1582)信長の子。武田信玄の養子。尾張犬山城主。本能寺の変で二条城に立てこもり、討ち死に。

織田長益(おだながます)(1547-1621)信秀の子、信長の弟。有楽斎と号す。利休七哲の一人。信長に従い、各地を転戦。本能寺の変では、京都から逃げ延び、秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いでは東軍に属す。大坂の陣では大坂城中にあったが、夏の陣直前に退去。京都で没。

織田信勝(おだのぶかつ)( ?-1557)信長の弟。勘十郎、信行。尾張末盛城主。信長と対立し、2度にわたって挙兵するが、敗北。謀殺された。

織田信雄(おだのぶかつ)(1558-1630)信長の次男。北畠具房の猶子。伊勢国司。本能寺の変で、近江安土まで出兵、安土城を焼失する。清洲会議で尾張、伊勢、伊賀を領する。1584年徳川家康と連合して、羽柴秀吉と小牧長久手で戦うが、のち和睦。1590年転封を拒否して、改易。徳川家康に接近し、大名に復帰した。関ヶ原の戦いは大坂にあって、西軍の動きを伝え、大坂の陣では京都に隠棲した。

織田信包(おだのぶかね)(1543-1614)信秀の子。信長の弟。伊勢長野氏の養子、伊勢上野城主。各地を転戦し、本能寺の変後、羽柴秀吉に属し、伊勢安濃津城主。1598年丹波柏原を領し、関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、旧領安堵。大坂で豊臣秀頼に近侍し、大坂の陣を前に病没。

織田信孝(おだのぶたか)(1558-1583)信長の三男。1568年神戸氏の養子。本能寺の変当時は四国遠征のため、大坂におり、秀吉とともに山崎の戦で明智光秀を討った。しかし、清洲会議で秀吉と対立、柴田勝家と組んで争うが、敗れて自刃した。

織田信忠(おだのぶただ)(1557-1582)信長の長男。信長に従って、各地を転戦し、1576年家督相続。1582年武田征伐には総大将となる。本能寺の変のとき、京都妙覚寺にあったが、二条城に篭って自刃。

織田信長(おだのぶなが)(1534-1582)織田信秀の子。尾張清洲城主。1559年尾張を統一した後、1560年桶狭間で今川義元を討った。その後、三河の徳川家康と同盟し、1568年美濃斎藤氏を降し、近江六角氏を破って、足利義昭を擁して上洛、天下統一事業を進める。1570年姉川合戦で浅井、朝倉連合軍を破った。このころから、大坂の石山本願寺と争い、1571年には比叡山を焼き討ち、1573年浅井、朝倉氏を滅ぼし、さらに足利義昭を追放し、畿内を制し た。1575年武田勝頼を長篠合戦で破った後、1582年には武田氏を滅ぼしてその支配領域は関東から中国、四国に及んだ。1577年安土城主。しかし、1582年本能寺で家臣明智光秀の謀反にあい、自刃。天下統一事業は、豊臣秀吉に引き継がれた。

織田信秀(おだのぶひで)(1510-1551)織田信定の子。尾張下四郡の守護代織田大和守の一族で三奉行の一人。次第に頭角をあらわし、主家を圧倒、三河や美濃にも出兵したが、志半ばで病死。

織田信広(おだのぶひろ)( ?-1574)信秀の庶長子。信長の兄。父信秀を助けて、活躍した。1557年には信長に反抗した。のち赦免されて、各地を転戦したが、伊勢長島の一向一揆との戦いで戦死。

織田信光(おだのぶみつ)( ?-1555)信秀の弟。守山城主。1552年ごろから信長に協力し、1555年清洲城を奪った。のち、家臣に殺された。

織田秀信(おだひでのぶ)(1580-1605)信忠の長男。三法師。岐阜城主。本能寺の変後、清洲会議で織田家の後継者とされた。1590年岐阜城に入る。関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗北。高野山に追放された。

小野寺義道(おのでらよしみち)(1567-1645)出羽横手城主。最上氏と抗争を続け、関ヶ原の戦いでも時局を誤り、戦後石見津和野に流された。

片倉景綱(かたくらかげつな)(1557-1615)伊達政宗の重臣。小十郎。政宗に従い、各地を従軍。1602年白石城主。

加藤清正(かとうきよまさ)(1562-1611)豊臣秀吉の武将。通称虎之助。賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人。武勇に優れ、朝鮮の役をはじめ各地で活躍。民政家としても優れ、熊本城などの築城も行った。関ヶ原の戦いは、東軍に属した。肥後熊本藩主。

加藤光泰(かとうみつやす)(1537-1593)はじめ斎藤竜興に仕え、その後羽柴秀吉に仕えた。1585年美濃大垣城主。小田原征伐後、甲府城主。朝鮮出兵に参加、帰国途中病没。

加藤嘉明(かとうよしあき)(1563-1631)豊臣秀吉の家臣。賤ヶ岳の戦いで、七本槍の一人。伊予松山城主。後、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで東軍に付き、伊予松山20万石。1627年陸奥会津藩主。

金森長近(かなもりながちか)(1524-1608)大畑定近の子。茶人。飛騨高山城主。織田信長、ついで羽柴秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いで東軍に付いた。

金森可重(かなもりよししげ)(1558-1615)長屋景重の子。長近の養子。茶人。父とともに、信長、秀吉に仕える。関ヶ原の戦いで、父とともに東軍に属し、大坂の陣でも戦功を上げた。飛騨高山藩主。

亀井茲矩(かめいこれのり)(1557-1612)因幡鹿野城主。亀井秀綱の養子。湯永綱の子。はじめ、尼子家臣。主家滅亡後、秀吉の家臣となり各地を転戦。ルソンをはじめ、海外貿易を行う。琉球に目を付け、自身琉球守を名乗る。関ヶ原の戦いは東軍に付き、長男政矩は、初代津和野藩主。

蒲生氏郷(がもううじさと)(1556-1595)近江日野城主蒲生賢秀の子。織田信長に仕え、女婿となる。豊臣秀吉の下で、伊勢松坂、会津若松城主。朝鮮の役で出陣中、発病、死去。千利休高弟の一人でキリシタン。

蒲生賢秀(がもうかたひで)(1534-1584)近江日野城主、定秀の子。六角氏の重臣。主家没落後は、織田信長に従う。本能寺の変のとき、日野城に篭城し、明智光秀に応じなかった。

蒲生定秀(がもうさだひで)(1508-1579)高郷の子。六角氏の重臣。兄秀紀を暗殺して、蒲生家を継ぐ。各地を転戦し、活躍。

河尻秀隆(かわじりひでたか)( ?-1582)織田信秀、信長の家臣。黒母衣衆筆頭。武田氏滅亡後、甲斐府中城主。本能寺の変後、一揆勢に攻められ殺された。

木曽義昌(きそよしまさ)( ?-1595)信濃木曽領主。正室は武田信玄の娘。勝頼と不和になり、1582年織田信長に通じた。のち、羽柴秀吉に従い、下総に転封された。

北条景広(きたじょうかげひろ)( ?-1579)越後北条のの領主。高広の子。上野厩橋城代。関東経略に活躍した。御館の乱で景虎に組みし、敗死。

北条高広(きたじょうたかひろ)( ?- ?)越後北条の領主。上杉謙信に従うが、たびたび背いた。上野厩橋城にあって、関東経略に尽力した。御館の乱で景虎に従うが敗れ、武田勝頼のもとに走るが、のち帰参。

北畠具教(きたばたけとものり)(1528-1576)伊勢国司、北畠晴具の子。織田信長の伊勢侵攻に際し、大河内城に篭城、信長の次男信雄を養子とすることで和睦したが、のちに暗殺された。

北畠具房(きたばたけともふさ)(1547-1580)北畠具教の子。具教暗殺後、滝川一益に預けられた。のち、開放されたが病死。

北畠晴具(きたばたけはるとも)(1503-1563)伊勢国司。材親の子。近江京極氏や伊勢国内の勢力と抗争した。和歌、連歌をよくした文化人。

吉川広家(きっかわひろいえ)(1561-1625)吉川元春の三男。父や兄の死により、吉川家の家督を継ぐ。本家毛利家を補佐し、各地を転戦、朝鮮の役でも活躍した。関ヶ原の戦いで、毛利家存続のため、東軍に内通したが、戦後減封された。初代岩国藩主。

吉川元長(きっかわもとなが)(1548-1587)吉川元春の嫡子。父に従い、各地を従軍。豊臣秀吉の九州征伐に参加中、病死。

吉川元春(きかわもとはる)(1530-1586)毛利元就の次男。吉川興経の養子。小早川隆景と並び毛利両川と呼ばれ、山陰地方を制圧した。元就死後、甥の輝元を補佐した。

京極高次(きょうごくたかつぐ)(1563-1609)京極高吉の子。織田信長に仕えた。本能寺の変で、明智光秀に組みし敗走するが、豊臣秀吉の側室になった妹の縁で再興。関ヶ原の戦いでは、大津城に籠城し、その功績で戦後、若狭小浜藩主。

吉良親貞(きらさだちか)(1541-1576)長宗我部国親の子。土佐中村城代。土佐各地に出陣し、戦功を上げた。

九鬼嘉隆(くきよしたか)(1542-1600)九鬼定隆の子。志摩鳥羽城主。織田信長、豊臣秀吉に仕える。水軍の将として活躍。関ヶ原の戦いでは、西軍につき、戦後自刃した。

九戸政実(くのへまさざね)( ?-1591)南部氏の家臣。南部宗家の家督争いに際し、弟実親を推すが、信直が宗家を相続したため、不満を募らせ、反乱を起こしたが豊臣軍の前に鎮圧され、斬首された。

黒田如水(くろだじょすい)(1546-1604)播磨の武将。実名孝高。豊臣秀吉の軍師として各地を転戦。後、豊前を領する。関ヶ原合戦では東軍に属し、北九州を席巻した。

黒田長政(くろだながまさ)(1568-1623)孝高の長子。幼少の頃、織田信長の人質となり、近江長浜で過ごす。成人してからは羽柴秀吉に従い、各地を従軍。朝鮮の役で活躍し、関ヶ原の戦いでは、家康方につき、戦後筑前福岡藩主。大坂冬の陣は江戸の留守居、夏の陣は秀忠机下で活躍。

高坂昌信(こうさかまさのぶ)(1527-1578)武田信玄の重臣。信濃海津城主。「甲陽軍鑑」の作者。

香宗我部親泰(こうそかべちかやす)(1543-1593)長宗我部国親の子。土佐安芸城主。各地を従軍し、戦功を上げた。朝鮮の役に出陣中、病没。

木造具政(こづくりともまさ)( ?- ?)北畠晴具の三男。北畠氏の重臣。のち、織田信長、信雄に仕える。1584年信雄が秀吉と対立したときも奮戦した。

後藤基次(ごとうもとつぐ)(1560-1615)播磨の武将。通称又兵衛。黒田如水、長政に仕える。後、長政と軋轢を生じ出奔。浪人の末、大坂に入城、夏の陣で勇戦するが道明寺の戦いで戦死した。

小西行長(こにしゆきなが)( ?-1600)堺の豪商小西隆佐の子。豊臣秀吉に仕え、肥後半国を領知、宇土城主。朝鮮出兵で先鋒を務めるが、武断派の大名と対立し、関ヶ原の戦いで西軍に属し、処刑された。

小早川隆景(こばやかわたかかげ)(1533-1597)毛利元就の三男。兄の吉川元春とともに、毛利両川といわれ、宗家を助けた。後に、豊臣秀吉にあつく用いられ、伊予、次いで筑前などに所領を与えられた。九州、四国平定、朝鮮出兵などに活躍。五大老の一人。

小早川秀秋(こばやかわひであき)(1582-1602)豊臣秀吉の養子。木下家定の子。丹波亀山城主。後、小早川隆景の養子となる。関ヶ原合戦では、はじめ西軍に属すが寝返って西軍大敗の原因となった。戦後、備前、美作を領するが、死後没収され、断絶。

小早川秀包(こばやかわひでかね)(1567-1601)毛利元就の子。小早川隆景の養子。秀秋が養子に迎えられたとき、別家した。筑後久留米領主。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、改易された。

斎藤竜興(さいとうたつおき)(1548-1573)義竜の子。美濃稲葉山城主。1568年信長に攻められ、開城して伊勢長島に逃れた。のち、越前朝倉氏を頼ったが、朝倉氏の滅亡に際し、敗死。

斎藤道三(さいとうどうさん)( ?-1556)父は長井新九郎規秀。実名秀竜。美濃国守護土岐頼芸に仕え、後追放して実権を握る。美濃稲葉山城主。晩年、嫡男義龍と対立し、長良川の戦いで敗死。

斎藤利三(さいとうとしみつ)(1534-1582)明智光秀の家臣。はじめ斎藤義竜、稲葉一鉄に仕えた。本能寺の変後、山崎で羽柴秀吉と戦い、敗走中近江堅田で捕らえられ斬首。春日局の父。

斎藤朝信(さいとうとものぶ)( ?-1590)越後の国人。上杉謙信に従い、各地に従軍した。謙信の死後は、景勝に仕え、信濃海津城主。

斎藤長竜(さいとうながたつ)( ?-1582)美濃加治多城主。道三の子で、義竜の弟。織田信長に仕えた。本能寺の変で、二条城に篭城、討ち死にした。

斎藤義竜(さいとうよしたつ)( ?-1561)美濃稲葉山城主。斉藤道三の長男。実は、土岐頼芸の子といわれる。1556年長良川合戦で、道三を討つ。織田信長との抗争の最中、急死。

酒井忠次(さかいただつぐ)(1527-1596)徳川家康の重臣。三河吉田城主。徳川四天王の一人。正室は家康の父広忠の妹。家康を補佐し、各地を転戦した。

榊原康政(さかきばらやすまさ)(1548-1609)徳川四天王の一人。数々の戦いに参加し、家康の関東移封後、上州館林城主。

佐久間信盛(さくまのぶもり)( ?-1582)織田信長の重臣。各地を転戦し、武功をあげた。近江長光寺城主。本願寺攻めの不手際から、高野山に追放された。

佐久間正勝(さくままさかつ)(1556-1631)信盛の子。織田信長の家臣。茶人。父とともに追放され、のち織田信雄に仕えた。1590年信雄が改易されたあとは、豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕えた。

佐久間盛重(さくまもりしげ)( ?-1560)織田信秀、信長の家臣。桶狭間の戦いで、丸根砦を守ったが落城、討ち死にした。

佐久間盛政(さくまもりまさ)(1553-1583)佐久間盛次の子。柴田勝家に仕え、加賀尾山城主。賤ヶ岳の戦いで独断で行動し、敗戦を招いた。戦後、捕らえられて斬首。

佐々成政(さっさなりまさ)(1516-1588)織田信長の武将。佐々盛政の子。柴田勝家の与力として、北陸計略に活躍。後、越中富山城主。本能寺の変後、柴田勝家に属し、勝家没後は徳川家康と組んで、秀吉に対抗する。和睦後、肥後に転封され、失政の責任を取らされ、切腹。

里見義尭(さとみよしたか)(1512-1574)里見実尭の子。安房稲村城主。のち、上総久留里城主。1538年足利義明と組んで、下総国府台で北条氏綱と戦った。以後、北条氏と抗争を続け、房総に勢力を拡大した。

里見義弘(さとみよしひろ)(1530-1578)義尭の子。上総佐貫城主。上杉謙信らと組んで北条氏と戦った。1564年下総国府台で北条氏康と戦った。

里見義康(さとみよしやす)(1573-1603)義頼の子。安房館山城主。豊臣秀吉の小田原征伐に遅参し、上総を没収された。関ヶ原の戦いで東軍に属し、加増された。

里見義頼(さとみよしより)( ?-1587)里見義尭の子、義弘の弟。安房岡本城主。北条氏と争い、各地で戦うが急死。

真田信綱(さなだのぶつな)(1537-1575)幸隆の子。信濃上田城主。武田信玄に仕え、上杉謙信と戦う。長篠の戦で討ち死に。

真田信之(さなだのぶゆき)(1566-1656)真田昌幸の長男。はじめ信幸。信州上田、上州沼田城主。本多忠勝の娘を正室に迎えた縁から、関ヶ原の戦いは東軍に組みし、さらに大坂の陣で活躍した。戦後、転封され、初代松代藩主。

真田昌幸(さなだまさゆき)(1547-1611)信濃上田城主。真田幸隆の三男。はじめ武藤氏を継ぐ。長篠の戦いで兄達が戦死すると、真田姓に服し跡を継ぐ。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後、高野山に追放。

真田幸隆(さなだゆきたか)(1513-1574)信濃松尾城主。武田信玄に誘われ、家臣となる。村上義清、上杉謙信と戦い、武功をあげた。

真田幸村(さなだゆきむら)(1567-1615)真田昌幸の次男。信繁。関ヶ原の戦いで西軍につき、敗戦後高野山に蟄居。大坂の陣で、大坂方の誘いに乗り奮戦するが、戦死。

柴田勝家(しばたかついえ)(1521-1583)越前北ノ庄城主。初め織田信行に属し、信長と争ったが敗れると信長の家臣となる。後、宿老として越前北ノ庄城主。北陸方面の軍団長となり、転戦する。本能寺の変後、清洲会議で信長の妹お市の方を室とする。羽柴秀吉との賤ヶ岳の合戦に敗れ、自刃。

柴田勝豊(しばたかつとよ)( ?-1583)柴田勝家の養子。母は勝家の姉。勝家が越前に入部したとき、越前丸岡城主。本能寺の変後、近江長浜城主。勝家と不和となり、羽柴秀吉に付く。賤ヶ岳の戦い後、病没。

柴田勝政(しばたかつまさ)( ?- ?)佐久間盛次の子、盛政の弟。勝家に従い、各地を転戦した。賤ヶ岳の戦い後、金森長近、ついで羽柴秀吉に仕えた。

島勝猛(しまかつたけ)( ?-1600)左近。はじめ筒井順慶、ついで豊臣秀長、秀保親子に仕えた。その後、石田三成に誘われ、関ヶ原の戦いでは、奮戦の末、討ち死にした。

島津家久(しまづいえひさ)(1578-1638)初代薩摩藩主。義弘の子。はじめ忠恒。朝鮮の役で戦功を上げた。関ヶ原の戦いでは、薩摩に在国、戦後家督相続した。1609年琉球に出兵し、これを征服した。

島津家久(しまづいえひさ)(1547-1587)貴久の四男。日向佐土原城主。九州各地を転戦し、羽柴秀吉の九州平定に際し抵抗。のち降伏したが、毒殺された。

島津貴久(しまづたかひさ)(1514-1571)島津忠良の子。勝久の養子となり、本家を相続。のち、不和となった勝久らと戦い、薩摩を統一、島津氏の基礎を築いた。

島津忠良(しまづただよし)(1492-1568)島津善久の子。島津勝久と実久を追放し、子の貴久を守護職につけた。島津氏中興の祖といわれる。

島津歳久(しまづとしひさ)(1537-1592)貴久の三男。秀吉の九州征伐に最後まで抵抗し、朝鮮出兵にも出陣を拒否した。秀吉の憤激を買い、自害した。

島津豊久(しまづとよひさ)(1570-1600)日向佐土原領主。家久の子。小田原征伐などに戦功があった。関ヶ原の戦いで西軍に付き、義弘の身代わりとなって戦死。

島津義久(しまづよしひさ)(1533-1611)貴久の長男。九州平定に尽力し、各地を転戦。1587年秀吉の九州征伐に抵抗するが、のち降伏。薩摩を安堵された。子が無かったので、弟義弘に家督を譲った。

島津義弘(しまづよしひろ)(1535-1619)島津貴久の次男。兄義久の九州制覇に従い、各地を転戦。後、秀吉の九州平定戦に降伏した義久の後を継ぐ。朝鮮出兵、関ヶ原などで活躍。

清水宗治(しみずむねはる)(1537-1582)備中高松城主。毛利氏の家臣。小早川隆景に属した。織田信長の中国侵攻に抵抗したが、羽柴秀吉の水攻めに遭い、切腹した。

陶晴賢(すえはるかた)( ?-1555)大内氏の重臣。陶興房の子。はじめ隆房。謀反を起こし、大内義隆を殺害、大友家から義長を迎え、大内の家督を継がせた。後、毛利元就との厳島の戦いに敗れ、自刃。

鈴木重秀(すずきしげひで)( ?- ?)紀伊雑賀衆。雑賀孫一。石山本願寺に味方し、織田信長と戦った。後、豊臣秀吉に仕える。

仙石久秀(せんごくひでひさ)(1552-1614)豊臣秀吉の家臣。1580年淡路洲本城主。四国討伐の功で讃岐高松城主となるが、九州征伐で島津軍に大敗、改易された。のち、徳川家康に仕え、信濃小諸城主。関ヶ原の戦いは秀忠軍にあって信濃上田城を攻めた。

宗義智(そうよしとも)(1568-1615)義調の養子。秀吉の九州征伐に従い、本領安堵。朝鮮の役には、反対したが入れられず、外交に尽力した。戦後も徳川家康に国交回復を命じられ、1609年成功させた。初代対馬藩主。

十河一存(そごうかずなが)( ?-1561)三好元長の子、長慶の弟。讃岐十河城主。1549年対立した細川晴元を破り、足利義輝を追放した。1560年には河内を支配下に入れ、岸和田城主。

十河存保(そごうながやす)(1554-1586)三好義賢の子。一存の養子。讃岐十河城主。土佐の長宗我部氏と対抗するも、敗れて大坂に逃げた。豊臣秀吉の四国征伐に参加し、十河城主に復帰。九州征伐にも参加したが、島津勢との戦いで戦死。

太原雪斎(たいげんせっさい)(1496-1555)今川義元の軍師。臨済宗妙心寺派の僧侶。義元の養育をし、補佐役として活躍。

高山右近(たかやまうこん)(1552-1614)摂津高槻、播磨明石城主。キリシタン大名。織田信長、豊臣秀吉に仕えるが、後にキリスト教禁止令により、マニラに追放された。

滝川一益(たきがわいちます)(1525-1586)織田信長の武将。近江甲賀出身。各地を転戦し、伊勢長島城主。1582年武田氏滅亡後、関東管領に任ぜられ、上野厩橋城主。本能寺の変後、北条氏と神無川で戦い、敗戦後伊勢に戻る。後に、柴田勝家や織田信孝と組んで秀吉と争うが和睦、隠居。

滝川雄利(たきがわかつとし)(1543-1610)木造具康の子。滝川一益の養子。織田信雄、ついで羽柴秀吉の家臣。小田原征伐、朝鮮の役に参加するが、秀次事件で除封。のち復活するが、関ヶ原の戦いで西軍に属し、またも除封。1601年常陸片野に入封。

武田勝頼(たけだかつより)(1546-1582)武田信玄の四男。はじめ、諏訪家を継ぎ、高遠城主。信玄没後、武田家を相続するが、長篠の戦いで敗北後、次第に衰退し、織田、徳川、北条軍に攻められ、天目山で自刃。

武田信玄(たけだしんげん)(1521-1573)甲斐国守護。武田信虎の長男。父と対立し、1541年駿河に追放し、家督を相続する。北条、今川氏と同盟し、信濃に侵攻、越後の上杉謙信と川中島で戦う。1568年に今川氏を滅ぼし、1572年には三方ヶ原の戦いで徳川家康を破るが、上洛途中で病死。

武田信廉(たけだのぶかど)( ?-1582)信虎の子、信玄の弟。信濃高遠城主。織田信長の侵攻の際、府中で殺された。

武田信繁(たけだのぶしげ)(1525-1561)信虎の次男、信玄の弟。兄信玄を常に補佐し、活躍したが、1561年川中島の戦いで戦死した。

武田信豊(たけだのぶとよ)( ?-1582)武田信繁の子。信玄、勝頼に仕えた。信濃小諸城主。織田信長の侵攻に際し、家臣に殺された。

武田信吉(たけだのぶよし)(1583-1603)徳川家康の五男。穴山氏の名跡を継いで下総小金城主、ついで佐倉城主。関ヶ原の戦いには江戸城留守居。戦後、常陸水戸藩主。

武田義信(たけだよしのぶ)(1538-1567)武田信玄の嫡男。1561年の川中島の戦い以後、信玄と不和となり、謀反のかどで幽閉、自害した。

竹中重治(たけなかしげはる)(1544-1579)美濃斉藤氏の家臣。竹中重元の子。後、秀吉の家臣となり、軍師として活躍。播磨三木城攻めの最中、陣没。

立花宗茂(たちばなむねしげ)(1569-1642)高橋鎮種の子。立花道雪の養子。大友氏の重臣として活躍。主家滅亡後も柳川城主として存続。関ヶ原の戦いで西軍に属し、改易されるも、後に柳川藩主として復帰。

伊達実元(だてさねもと)(1527-1587)伊達稙宗の三男。陸奥大森城主。父稙宗と兄晴宗の争いには、稙宗に付く。のち宗家を補佐し、輝宗、政宗に仕えた。

伊達成実(だてしげざね)(1568-1646)伊達実元の子。政宗に重用され、各地を転戦。一時、出奔するがのち帰参。亘理城主。

伊達輝宗(だててるむね)(1544-1585)伊達晴宗の次男。米沢城主。盧名氏と友好し、相馬氏と抗争する。畠山(二本松)義継に拉致され、追跡した伊達勢に義継と銃撃された。

伊達晴宗(だてはるむね)(1519-1577)稙宗の長男。出羽米沢城主。父稙宗と対立し、奥羽諸家を巻き込み、結果稙宗を幽閉した。政略結婚で勢力を拡大したが、晩年には子の輝宗と対立した。

伊達政宗(だてまさむね)(1567-1636)出羽米沢城主。伊達輝宗の長男。1590年豊臣秀吉に降伏、米沢に移る。関ヶ原合戦では、東軍に属す。後、仙台に移る。初代仙台藩主。

長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)(1504-1560)兼序の子。父の死後一条氏の庇護を受け、後に旧領を復し岡豊城に帰った。勢力を回復して、土佐統一に尽力するが病没。

長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)(1565-1586)元親の子。織田信長の諱をうける。豊臣秀吉の九州征伐で豊後に出陣するが、島津軍に敗れて敗死。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)(1539-1599)土佐岡豊城主。長宗我部国親の長男。四国平定を目前にして、豊臣秀吉の四国征伐をうける。その後、土佐一国を安堵。

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)(1575-1615)元親の四男。土佐浦戸城主。関ヶ原の戦いで西軍に付き、所領没収。京都で寺小屋の教授となる。のち、大坂の陣で戦い、敗北。捕らえられ、京都で斬られた。

長続連(ちょうつぐつら)( ?-1577)能登畠山氏の重臣。穴水城主。織田信長に通じ、上杉謙信と争うが、七尾城落城の際、討ち死に。

長連龍(ちょうつらたつ)(1546-1619)続連の次男。七尾城落城の際、織田勢に使者に行っており助かった。織田信長、前田利家に従い、前田家の重臣となる。

津軽為信(つがるためのぶ)(1550-1607)出羽大浦城主大浦為則の養子。主家南部氏の内紛につけこみ津軽地方を奪い、独立。秀吉に所領安堵され、後、津軽藩主。

津田信澄(つだのぶずみ)(1555-1582)織田信勝(信行)の子。父が信長に謀殺されたあと、信長の下で養育され、のちに一門衆の有力武将になった。本能寺の変の時、四国遠征の準備のため大坂にいたが、明智光秀の娘を正室にしていた関係から、丹羽長秀、織田信孝に疑われ、殺された。

筒井順慶(つついじゅんけい)(1549-1584)筒井順昭の子。松永久秀に追われ、奈良興福寺で得度。後、織田信長に仕え、大和郡山城主。明智光秀の与力だったが、本能寺の変では、光秀に組みせず、豊臣秀吉に所領を安堵された。

天海(てんかい)(1536-1643)天台宗の僧。南光坊。会津の人。蘆名氏の一族。明智光秀ではないかとの説もある。徳川家康に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた。

藤堂高虎(とうどうたかとら)(1556-1630)浅井家の家臣。藤堂虎高の次男。後、秀吉、家康に仕え関ヶ原戦後、伊勢安濃津城主。

土岐頼芸(ときよりあき)(1502-1582)美濃の守護大名。土岐政房の次男。斎藤道三に擁立されて、兄頼純を追放するが、のちに道三と対立、各地を放浪した。最後は、稲葉一鉄に迎えられて美濃で死去。

土岐頼次(ときよりつぐ)(1545-1614)頼芸の次男。美濃を追われた後、松永久秀、豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦い後、徳川家康に仕え、所領を安堵。

徳川家康(とくがわいえやす)(1542-1616)松平広忠の子。幼少より今川氏の人質となる。1560年桶狭間で今川義元が敗死すると独立。1563年織田信長と同盟し、勢力を伸張する。1582年武田氏滅亡後、駿遠三三州を領し、信長の死後、甲信地方を加えた。1584年豊臣秀吉と小牧長久手で争った後、臣従。1590年小田原北条氏滅亡後、関東に移される。秀吉死後、1600年関ヶ原で勝利、1603年征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた。1605年将軍職を子の秀忠に譲り、大御所となり秀忠を後見した。1614年大坂冬の陣、1615年大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼして、翌年死去。

徳川信康(とくがわのぶやす)(1559-1579)家康の長男。桶狭間の戦い後、岡崎にはいる。家康が浜松に移ったあと、岡崎城主。信長に謀反の疑いをかけられ、自害させられた。

徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579-1632)家康の三男。関ヶ原の戦いに遅参し、叱責された。1605年家康の後を受け、征夷大将軍。1616年に家康が死ぬまで、駿府と二元政治が展開されたが、実権は家康が握っていた。1623年隠居し、大御所として家光を後見した。

徳川義直(とくがわよしなお)(1600-1650)家康の九男。1603年甲府藩主、1607年兄松平忠吉の後を受け、尾張藩主。

徳川頼宣(とくがわよりのぶ)(1602-1671)家康の十男。1603年兄武田信吉の後を受けて水戸藩主。1609年駿府藩主。大坂の陣に参加。1619年紀伊藩主。

徳川頼房(とくがわよりふさ)(1603-1661)家康の十一男。1605年下妻藩主。1609年兄頼宣の後を受け水戸藩主。

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1568-1595)三好吉房の子。秀吉の甥、養子。賤ヶ岳の戦いで戦功を上げるが、小牧長久手の戦いで大敗、叱責される。その後、四国平定、小田原征伐と従軍し、1591年秀吉の養子、関白。のち、高野山に追放され、切腹。

豊臣秀長(とよとみひでなが)(1541-1591)豊臣秀吉の弟。兄秀吉に従い、各地を転戦。豊臣政権下で、千利休とともに政務に携わる。大和郡山城主。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)(1537-1598)初め織田氏の武将。信長のもとで、頭角をあらわし、五大軍団長の一人。近江長浜城主。毛利氏との対戦中、本能寺の変が起こり、すばやく明智光秀を討ち、主導権を握る。1583年柴田勝家を破り、翌年徳川家康を臣従させ、1587年まえに西国を平定、1590年小田原征伐、奥州仕置きにより、天下統一を完成させた。大坂城主。関白。しかし、1593年からの朝鮮出兵の最中、1598年伏見で死去。

豊臣秀頼(とよとみひでより)(1593-1615)秀吉の次男。大坂城主。関ヶ原の戦い後、一大名に転落。大坂の陣で幕府に攻められ、落城、自害した。

鳥居元忠(とりいもとただ)(1539-1600)徳川家康の重臣。各地を従軍する。関ヶ原の戦いで伏見城に篭城するが落城、自害した。

直江兼続(なおえかねつぐ)(1560-1619)上杉景勝の家老。実綱の跡を継ぐ。景勝の会津120万石移封後、米沢30万石を領する。関ヶ原の戦いで、西軍についた主家のため奔走し、上杉家は米沢30万石で存続が認められた。兼続自身は6万石を領した。

直江実綱(なおえさねつな)( ?-1577)越後与板城主。上杉謙信の重臣。謙信に従い、各地を転戦。春日山城の留守居を勤めたこともある。

長尾為景(ながおためかげ)( ?-1536)越後守護代。越後の国政を掌握したが、戦乱の中病死。上杉謙信の父。

長尾晴景(ながおはるかげ)( ?-1553)越後守護代。為景の長男。上杉謙信の兄。春日山城主。家臣の統制が出来ず、弟景虎(謙信)に家督を譲る。

中川清秀(なかがわきよひで)(1542-1583)摂津茨木城主。織田信長、羽柴秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いで戦死。

鍋島直茂(なべしまなおしげ)(1538-1618)鍋島清房の子。龍造寺氏の重臣。龍造寺隆信とは義兄弟に当たる。隆信の敗死後、実権を握った。関ヶ原合戦では東軍に属し、肥前一国を安堵された。後に、龍造寺家の家督を相続、肥前佐賀藩主となる。

南部信直(なんぶのぶなお)(1546-1599)南部高信の長男。南部晴継の死後、本家を相続。九戸政実の反乱後、三戸から盛岡に移る。

南部晴継(なんぶはるつぐ)(1570-1582)晴政の子。父の死後、家督を相続するが、暗殺された。

南部晴政(なんぶはるまさ)(1517-1582)南部安信の子。陸奥三戸城主。領国拡大のため、各地を転戦した。

丹羽長秀(にわながひで)(1535-1585)織田信長の武将。本能寺の変の時、大坂におり、秀吉とともに明智光秀を討った。賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方にあって柴田勝家や滝川一益と戦った。

温井景隆(ぬくいかげたか)( ?-1582)能登畠山氏の家臣。1577年上杉謙信の侵攻に対して降伏。のち、七尾城を占拠して織田信長に属す。長連続と和解できず、越後に走る。本能寺の変後、能登に入るが、織田方の佐久間盛政に殺された。

乃美宗勝(のみむねかつ)(1527-1592)毛利氏の家臣。小早川隆景に従い、水軍を統率した。

長谷川秀一(はせがわひでかず)( ?-1594)織田信長、羽柴秀吉に仕えた。小牧長久手の戦いをはじめ、各地を転戦した。朝鮮の役で出陣中、病没。

支倉常長(はせくらつねなが)(1571-1622)伊達政宗の家臣。政宗の命を受けて、スペインに渡欧した。

蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)(1526-1586)尾張の豪族。豊臣秀吉に仕え、各地を転戦し播磨龍野城主。四国平定により阿波一国を与えられ、嫡子家政に譲る。

蜂屋頼隆(はちやよりたか)(1534-1589)はじめ土岐氏、斎藤氏に仕え、織田信長に従う。各地を転戦し、本能寺の変後は山崎で明智光秀の軍勢と戦う。戦後、秀吉に仕え、越前敦賀城主。

服部正成(はっとりまさなり)(1542-1596)半蔵。徳川家康の家臣。家康に従い、各地を転戦した。のち、家臣のために横死した。

馬場信房(ばばのぶふさ)( ?-1575)信春とも。甲斐武田氏の重臣。信濃攻略に貢献。信玄没後、勝頼を補佐するが、長篠の戦いで戦死。

林秀貞(はやしひでさだ)( ?- ?)通勝とも。織田氏の家臣。平手政秀とともに信長の家老。信長の弟、信勝を擁立して信長と戦うが敗北するが許された。以後、信長に従い各地に従軍するが、1580年追放された。

原田直政(はらだなおまさ)( ?-1576)塙重友。備中守。織田信長の家臣。信長に従い、各地を転戦する。1576年石山本願寺攻めの際、討ち死に。

平手政秀(ひらてまさひで)(1492-1553)織田信秀の家臣。信長が那古野城主となった際、林通勝とともに家老となる。信長の振る舞いにたびたび諫言したが入れられず、自害。

福島正則(ふくしままさのり)(1561-1624)豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の筆頭。その後も各地を転戦し、尾張清洲城主。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、安芸広島藩主となるが、後に減封され信濃川中島藩に移された。

不破光治(ふわみつはる)( ?-1580)土岐、斎藤氏に仕える。信長の岐阜入城に従い、家臣となる。柴田勝家の与力となり、越前に移る。

北条氏勝(ほうじょううじかつ)(1559-1611)北条氏繁の子。相模玉縄城主。羽柴秀吉の小田原攻めに際し、伊豆山中城を守ったが落城。戦後、徳川家康に従う。下総岩富藩主。

北条氏邦(ほうじょううじくに)(1541-1597)氏康の三男。武蔵鉢形城主。北条氏の外交を担当。小田原攻めの際、前田利家に攻められ降伏。利家に従い、金沢に赴き、同地で死去。

北条氏繁(ほうじょううじしげ)(1536-1578)北条綱成の子。相模玉縄城主。父綱成と同様、武勇に優れた。

北条氏綱(ほうじょううじつな)(1486-1541)北条早雲の子。相模小田原城主。1524年伊勢氏から北条氏に改姓。相模から武蔵に勢力を伸ばした。

北条氏照(ほうじょううじてる)(1540-1590)氏康の次男。武蔵八王子城主。北関東経略の総大将。羽柴秀吉の小田原征伐の際、交戦派だったことから、降伏後切腹を命じられた。

北条氏直(ほうじょううじなお)(1562-1591)氏政の子。本能寺の変後、織田領に出兵。徳川家康と対陣したが、和睦して家康の娘を正室に迎えた。小田原征伐後、高野山に追放されたが、後に許されて河内に所領を与えられた。

北条氏規(ほうじょううじのり)(1545-1600)氏康の四男。伊豆韮山城主。秀吉との交渉にあたったが、決裂し小田原征伐を招いた。戦後、氏直に従い高野山に上った。後、許されて河内国内で所領を与えられた。

北条氏政(ほうじょううじまさ)(1538-1590)氏康の長男。相模小田原城主。北関東へ勢力を拡大。秀吉の上洛命令を無視し、小田原征伐を招いた。開城後、切腹を命じられた。

北条氏盛(ほうじょううじもり)(1577-1608)氏規の子。豊臣秀吉から所領をあてがわれ、関ヶ原戦後、徳川家康に所領を安堵された。河内狭山藩主。

北条氏康(ほうじょううじやす)(1515-1571)北条氏綱の子。相模小田原城主。武田信玄、今川義元と同盟、南関東を制し、北条氏の全盛時代を築いた。

北条綱成(ほうじょうつななり)(1515-1587)福島正成の子。氏綱の娘を正室に迎え、北条氏を名乗る。相模玉縄城主。武勇の誉れ高く、各地を従軍した。

北条長綱(ほうじょうながつな)(1493-1589)早雲の子。幻庵と号す。箱根権現別当。北条氏の重鎮として、活躍。文人としても有名。

細川忠興(ほそかわただおき)(1563-1645)細川藤孝の子。明智光秀の娘(ガラシャ)を正室に迎えるが、本能寺の変では、羽柴秀吉に付く。丹後宮津城主。小田原征伐、朝鮮出兵など各地を転戦する。関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、豊前中津、ついで小倉藩主。

細川幽斎(ほそかわゆうさい)(1534-1610)三淵晴員の子。管領細川元常の養子。実名藤孝。明智光秀と足利義昭を奉じて、将軍にする。織田信長のもとで、明智光秀の与力に付けられる。本能寺の変で、出家し、幽斎と号する。関ヶ原の戦いで、丹後宮津城に籠城するが、朝廷の仲介によって開城。当代一流の文化人で、千利休高弟の一人。

堀秀政(ほりひでまさ)(1553-1590)はじめ、斎藤氏に仕え、後に織田信長、羽柴秀吉の家臣。近江長浜城主。中国征伐の羽柴秀吉に付けられる。賤ヶ岳の戦い後、近江佐和山城に移され、四国征伐後、越前北ノ庄城主。小田原征伐に従軍中、病死。

本多忠勝(ほんだただかつ)(1548-1610)徳川四天王の一人。通称平八郎。本多忠高の子。家康に従い、各地を転戦、上総大多喜城主、次いで伊勢桑名城主。

本多正信(ほんだまさのぶ)(1538-1616)佐渡守。徳川家康の重臣。1563年の三河一向一揆で一揆方に加わり、出奔。のち帰参した。関ヶ原の戦いでは秀忠軍に軍監として参加。幕府の初期政策に貢献した。

前田玄以(まえだげんい)(1539-1602)織田信長の子、信忠に仕える。本能寺の変では京都にいたが、岐阜に逃れる。丹波亀山城主。京都所司代。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦いは、西軍に付くが、東軍に内通しており、戦後所領安堵。

前田利家(まえだとしいえ)(1538-1599)尾張国荒子の領主。織田信長に仕え、後に兄利久の後を受け、家督を相続する。北陸方面の攻略戦のため、柴田勝家の与力として活躍。賤ヶ岳の戦いでは、戦いに参加せず、そのため秀吉から加賀、能登100万石を与えられた。豊臣政権の五大老の一人として、徳川家康を牽制。豊臣家の行く末を憂慮しつつ、死去。

前田利大(まえだとしおき)( ?-1612)滝川益氏の子。前田利久の養子。利家の義理の甥。通称慶次。慶長の頃、前田家を出奔、その後上杉家に仕える。奇矯な振る舞いが多く、かぶき者といわれた。米沢で死去。

前田利常(まえだとしつね)(1593-1658)利家の四男。兄利長の養子。大坂の陣で戦功をあげる。加賀藩主。

前田利長(まえだとしなが)(1562-1614)利家の長男。父とともに織田信長、豊臣秀吉に仕える。1599年利家の死去により、五大老に就任。関ヶ原の戦いで東軍に付き、加賀金沢藩主。

前田利久(まえだとしひさ)( ?- ?)尾張荒子城主。前田利昌の子。利家の兄。織田信長の命により、利家に家督を譲った。

松平忠輝(まつだいらただてる)(1592-1683)徳川家康の六男。越後高田藩主。長沢松平氏を継ぐ。大坂の陣で遅参し、後に改易された。飛騨高山、信濃諏訪などに配流。

松平忠吉(まつだいらただよし)(1580-1607)徳川家康の四男。尾張清洲藩主。東条松平氏を継ぐ。関ヶ原の戦いで、先陣を切り、島津勢と戦って負傷。

松永久秀(まつながひさひで)(1510-1577)大和信貴山城主。多聞城主。三好長慶の家宰として、権勢を振るう。三好三人衆と、将軍足利義輝を暗殺後、三人衆と対立し、奈良の大仏を焼き討ちする。織田信長の上洛に際し、降伏するが、二度にわたって反抗、滅ぼされた。

松前慶広(まつまえよしひろ)(1548-1616)蠣崎季広の子。秀吉の奥州仕置きで認められ、九戸政実の乱、朝鮮出兵などに活躍。蝦夷松前藩主。

松浦鎮信(まつらしげのぶ)(1549-1614)松浦隆信の子。海外貿易を積極的に行い、勢力を伸張した。肥前平戸城主。

水野信元(みずののぶもと)( ?-1575)水野忠政の子。徳川家康の生母、於大の方の兄。三河刈谷城主。早くから織田信長に通じ、今川氏と戦う。三方が原の戦いにも参陣。後、武田氏への内通の疑いで殺された。

溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)(1548-1610)丹羽長秀、ついで織田信長に仕える。賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付き、戦功を上げる。戦後、加賀大聖寺城主。朝鮮の役は、肥前名護屋に駐留、関ヶ原の戦いで東軍に属す。越後新発田藩主。

宮部継潤(みやべけいじゅん)( ?-1599)はじめ比叡山の僧。のち、浅井長政の家臣。浅井氏滅亡後、羽柴秀吉に仕える。因幡鳥取城主。

三好長治(みよしながはる)(1553-1577)三好義賢の子。阿波勝瑞城主。粗暴な振る舞いが多く、一族、家臣の反感を買う。後、謀反により自刃。

三好長慶(みよしながよし)(1523-1564)三好元長の長男。摂津芥川城主。管領細川晴元を追放し、幕府の実権を握った。晩年は、松永久秀の謀略によって、一族を疎外し三好氏の衰亡を招いた。

三好康長(みよしやすなが)( ?- ?)三好長秀の子。長慶の叔父。三好三人衆と組んで、畿内を転戦する。織田信長の上洛に抵抗するも、四国に逃亡した。のち、和解し阿波一国を領する。本能寺の変後は、羽柴秀吉に仕え、一時秀次を養子にした。

三好義賢(みよしよしかた)(1527-1562)三好元長の次男。河内高屋城主。実休。兄長慶を助けて、各地を転戦する。和泉久米田で畠山高政と戦って討ち死に。

三好義興(みよしよしおき)(1542-1563)長慶の子。摂津芥川城主。幕府相伴衆に列する。松永久秀に毒殺された。

村井貞勝(むらいさだかつ)( ?-1582)織田信長の家臣。信長上洛後、京都所司代。本能寺の変で、二条城に篭城して戦死。

村上武吉(むらかみたけよし)(1526-1604)能島村上水軍の武将。村上隆勝の子。毛利氏と提携し、瀬戸内海で活躍するが、豊臣秀吉に追われ、屋代島和田内入で死去。

村上義明(むらかみよしあき)( ?-1623)戸田氏繁の子。村上義清の養子。はじめ、丹羽長秀の家臣。のち、羽柴秀吉に仕え、小田原征伐、朝鮮出兵と参陣。越後本庄藩主。関ヶ原の戦いで東軍に付き、本領安堵。のち、家中騒動で改易。

村上義清(むらかみよしきよ)( ?-1573)北信濃の武将。武田信玄の信濃攻略線に最後まで抵抗し、2度にわたって信玄を破るほどの実力者だったが、真田幸隆の謀略で居城を奪われ、越後の上杉謙信を頼る。

毛利隆元(もうりたかもと)(1523-1563)毛利元就の長男。大内氏の人質として、山口に滞在。家督相続のため帰国してからは、父元就に従って各地を転戦。尼子氏との対戦中、急死。

毛利輝元(もうりてるもと)(1553-1625)隆元の長男。祖父元就の後見を受け、元就死後は叔父の吉川元春、小早川隆景の補佐で勢力を拡大。織田信長と対立するが、本能寺の変後は羽柴秀吉に付き、豊臣政権の五大老。関ヶ原の戦いは、西軍総大将に祭り上げられるが、大坂から動かず、帰国する。戦後、減封され、長門萩に築城して移る。

毛利秀就(もうりひでなり)(1595-1651)輝元の長男。関ヶ原の戦い後、家督相続。初代萩藩主。大坂の陣では幕府方として参加。

毛利秀元(もうりひでもと)(1579-1650)穂井田元清の子。輝元の養子。朝鮮の役で、輝元に代わり指揮を取る。初代長府藩主。

毛利元就(もうりもとなり)(1497-1571)毛利弘元の次男。安芸吉田郡山城主。大内氏と尼子氏の間で勢力を伸張させ、1555年厳島の戦いで陶氏を破り、1557年大内氏を滅ぼす。さらに、1568年尼子氏を滅ぼして、中国地方最大の戦国大名に成長。織田信長との戦いを予感させる1571年死去。

最上家親(もがみいえちか)(1582-1617)義光の次男。出羽山形藩主。関ヶ原の戦いで東軍に付き、信濃上田城を攻めた。のち、叔父の楯岡光直に殺された。

最上義光(もがみよしあき)(1546-1614)出羽山形城主。最上義守の子。小田原参陣により秀吉から所領安堵される。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、加増され初代山形藩主。

最上義守(もがみよしもり)(1521-1590)最上氏庶流中野義清の子。最上氏相続の際、騒動が起こった。のち、長男義光と対立。

最上義康(もがみよしやす)( ?-1611)義光の長男。父義光と不和となり、高野山に篭る。のち、帰国したところを殺された。

森長可(もりながよし)(1558-1584)可成の次男。織田信長に仕え、美濃金山城主。本能寺の変後、羽柴秀吉に仕え、長久手の戦いで討ち死に。

森可成(もりよしなり)(1523-1570)織田信長の家臣。美濃侵攻を前に、美濃金山城主。のち、近江征伐に際し、近江宇佐山城を守備するが、浅井、朝倉勢の攻撃を受け、討ち死に。

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(1571-1646)宗厳の子。徳川家康の家臣。関ヶ原の戦いに参陣、将軍家剣術指南役。大和柳生藩主。

柳生宗厳(やぎゅうむねよし)(1527-1606)はじめ戸田一刀斎、ついで上泉信綱に師事。三好長慶足利義輝、織田信長、徳川家康に仕える。徳川将軍家の剣術指南を勤める。

山岡景隆(やまおかかげたか)(1526-1585)近江勢田城主。はじめ足利氏に仕え、織田信長の上洛後、織田氏に仕えた。本能寺の変で勢田を死守し、羽柴秀吉に付く。賤ヶ岳の戦いで柴田方に付き、戦後所領没収。

山県昌景(やまがたまさかげ)( ?-1575)甲斐武田氏の重臣。はじめ飯富源四郎、後、実兄飯富虎昌の謀反事件により、山県三郎兵衛尉と改める。赤備えで有名。今川氏滅亡後、駿河江尻城主。長篠の戦いで戦死。

山中幸盛(やまなかゆきもり)(1545-1578)尼子氏の家臣。通称鹿之助。主家滅亡後、織田信長を頼り、尼子勝久を擁して再興を目指すが、毛利氏に敗れ殺された。

山内一豊(やまのうちかずとよ)(1546-1605)織田信長、豊臣秀吉に仕え、遠江掛川城主。関ヶ原の戦いで、東軍に付き、戦後、土佐高知藩主。

山本晴幸(やまもとはるゆき)(1493-1561)甲斐武田氏の武将。通称勘助。築城の名人。1561年川中島の戦いで戦死。

結城晴朝(ゆうきはるとも)(1534-1614)小山高朝の子。結城政勝の養子。下総結城城主。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、本領安堵。徳川家康の次男、秀康に家督を譲り、関ヶ原戦後、越前に赴き、同地で死去。

結城秀康(ゆうきひでやす)(1574-1607)徳川家康の次男。後、豊臣秀吉、結城晴朝の養子。関ヶ原の戦いでは、上杉氏の押さえとして関東に残り、戦後、越前北ノ庄城主、後福井藩主。

遊佐続光(ゆさつぐみつ)( ?-1581)能登畠山氏の家臣。温井紹春との抗争に敗れて、出奔するが後に、帰参した。上杉謙信の侵攻に内応し、謙信没後、七尾城を占拠し織田信長に通じた。

竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(1529-1584)肥前の戦国大名。大友、島津と並ぶ九州の三大勢力の一つにまで、龍造寺家を押し上げた。しかし、島津義弘との沖田畷の戦いで戦死、没落する。

六角定頼(ろっかくさだより)(1495-1552)六角高頼の次男。兄氏綱に代わり家督相続。足利義稙に近侍し、細川氏と争った。足利義晴も援助し、管領に準ずる待遇を受けた。

六角義賢(ろっかくよしかた)(1521-1598)定頼の子。承禎と号す。足利義晴、義輝を庇護し、三好氏と争った。織田信長の上洛に抵抗するが敗れる。浅井、朝倉氏と結んで信長と戦ったが、降伏。

六角義治(ろっかくよしはる)(1545-1612)義賢の子。織田信長の上洛に抗したが敗北し、甲斐武田氏を頼って逃げた。武田氏滅亡後は羽柴秀吉の家臣となり、秀頼の弓の師範となった。

和田惟政(わだこれまさ)( ?-1571)足利義輝、義昭の家臣。摂津高槻城主。三好氏と争う。池田知正と戦って討ち死に。

秋月種実(あきづき たねざね) [1545~1596]
筑前秋月城主。毛利氏を頼り、大友氏と争う。一時、大友氏に降伏するが、のち反旗を翻す。島津氏の北上に対し降伏、秀吉の九州征伐に対抗するが、まもなく降伏。日向高鍋に転封された。
日本
秋山信友(あきやま のぶとも) [1531~1575]
甲斐武田氏の武将。美濃岩村城を攻略、信長の叔母を室にするが、長篠で武田軍が敗退すると、織田軍の攻撃を受け、殺された。
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甲斐源氏流。甲斐・武田氏臣。若くして抜擢され一手の将となる。武勇のみでなく知略に優れており、美濃・岩村城を謀略にて無血開城させて城代となった。この時城主の未亡人(織田信長の叔母)を娶っている。三方ヶ原の戦いでは"武田の猛牛"と呼ばれて怖れられた。しかし長篠の敗戦後、岩村城は孤立して織田軍が度々来攻したが、堅守して陥ちなかった。しかし5ヶ月の籠城の末、信長の提示した和議に応じ、城を出たところを捕らえられ、岐阜で磔にされた。兵も皆、山道で焼き殺されたという。49歳。
日本
明智秀満(あけち ひでみつ) [?~1582]
明智光秀の女婿。丹波福知山城主。光秀に従い、本能寺の変後、近江佐和山城で自刃。
日本
明智光秀(あけち みつひで) [1528~1582]
美濃土岐氏の一族、織田信長に従い、足利義昭の上洛に尽力。後、織田家五大軍団長の一人。本能寺で、信長を自刃させた後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走中農民に殺された。
日本
浅井亮政(あざい すけまさ) [1491~1542]
浅井直種の子。浅井直政の養子となり、宗家を継ぐ。近江小谷城主。京極氏の家臣だったが、主家の内紛に乗じて次第に台頭し、江南の六角氏と争いつつ、戦国大名に成長した。
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近江・浅井氏庶流の出だが、本家直政の娘婿となり跡を継ぐ。北近江半国守護京極氏の被官として力をつけていく。京極家中の実力者であった上坂信光(泰舜斎)が専横を強めると、反上坂派をまとめ信光を打ち破った。その後、小谷城を拠にして独立性を強めていくが、浅井氏強大化をおそれる南近江・六角氏の侵攻を再三受ける。一時は越前に逐われたこともあったが、越前・朝倉氏と結びその来援を得て危機を逃れ、戦国大名浅井氏の地盤を築いた。
日本
浅井長政(あざい ながまさ) [1545~1573]
近江小谷城主浅井久政の子。信長の妹お市の方と政略結婚し、領国を拡大する。後、朝倉氏に荷担して信長と敵対、小谷落城に際し自刃。
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南近江・六角氏に臣従する父久政を隠居させ、若くして近江・浅井家を継ぎ、六角氏に敵対。来襲した倍する六角軍を野良田合戦にて撃破する。その後、周辺国人を制圧しつつ六角氏、美濃・斎藤氏らと再三争った。また、尾張・織田信長と、その妹市を娶って同盟を結び、これに協力する。しかし、信長が浅井の同盟国越前・朝倉氏に無断で攻め込んだことから反旗を翻した。姉川の合戦において数に勝る信長軍をあと一歩のところまで苦しめるが、及ばず敗北。最期は小谷城を囲まれ、妻と娘らを信長に託し、自害して果てた。
日本
浅井久政(あざい ひさまさ) [?~1573]
京極、六角氏らの勢力に圧されつつ、朝倉氏の助力によってかろうじて領国を維持した。1560年、長政に家督を譲り隠居したが、1573年小谷落城に際し自刃。
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父亮政の死後、北近江・浅井家を継ぐ。父のような覇気はなく、能や鷹狩に熱中して積極的に戦を行うことはなかったが、内政にはそれなりの手腕があった様で、結果的に国は富んだ。しかし南近江・六角氏の侵攻を防ぎきれず、その傘下となる。これを不服とした子賢政(長政)により、六角の支配から脱するが久政は隠居の身となった。その後、浅井氏は尾張・織田氏と結び勢力を拡大するが、織田氏に敵対する将軍足利義昭の御内書を受けた久政が、政治に口出しするようになり、結果的に浅井氏は織田氏に滅ぼされ、子の長政と共に小谷城にて自害した。
日本
朝倉景鏡(あさくら かげあきら) [????~1574]
越前朝倉氏の一族。朝倉景職の孫。義景に従い、しばしば大将として、近江、美野などに出陣。1573年義景を裏切り、自害させ、織田信長に降る。1574年一向一揆と対立、敗死した。
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越前・朝倉氏一族。一族の筆頭として大きな力を持ったが、朝倉家滅亡の際には、主君義景を自害に追い込み、その首を持参して織田信長に降伏。翌年、景鏡も蜂起した一揆勢に襲われ、主従3騎になるまで戦い、果てには多数の敵中に突撃して戦死した。
日本
朝倉景隆(あさくら かげたか) [????~????]
越前・朝倉氏庶流。越前朝倉氏の一族。1555年、1564年と2回にわたり、大将として加賀一向一揆と戦っている。
日本
朝倉景建(あさくら かげたけ) [?~1575]
越前朝倉氏の一族。各地を転戦し、姉川の戦いで総大将。近江坂本では、森可成や信長の弟信治を討ち取る。1573年義景を助け奮戦するが、義景自刃後、信長に降伏。後、一向一揆と対立、配線の責任を問われて自殺。
日本
朝倉景恒(あさくら かげつね) [?~1570]
朝倉氏の家臣。教景の孫。足利義昭を織田信長の下に送ったとき、警護した。1570年信長の越前攻めに際し、金ヶ崎城主として奮戦、開城後遁世した。
日本
朝倉景連(あさくら かげつら) [????~1570]
朝倉氏の家臣。氏景の孫。北陸方面の責任者として加賀一向一揆と戦う。一乗谷の奉行人を勤めた。
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越前・朝倉氏一族。一族の重鎮宗滴死後、家臣団をまとめ、一向一揆との戦いに活躍した。1561年当主義景が犬追物を興行した際、景連は500余人の人々を着飾らせて参加し、見物人の目を驚かせたという。
日本
朝倉教景(あさくら のりかげ) [1477~1555]
朝倉氏の一族。宗滴と号す。敦賀郡司。1506年越前一向一揆を鎮圧、加賀一向一揆を破る。1517年丹後、1525年近江、1527年京、1531年加賀に出陣、各地で活躍する。1544年には美濃斎藤氏と組んで、織田信秀を破り、1555年には上杉謙信と組んで、加賀一向一揆を破った。しかし、間もなく陣没。
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越前・朝倉氏一族。若くして仏門にはいるが、一族景豊の謀反から朝倉宗家を救い、その功で敦賀郡司となる。以後、加賀の一向一揆を相手に戦い、あるいは近江、若狭、美濃と各地を転戦し、朝倉家の重鎮として晩年まで活躍する。1555年、79歳の老躯で総大将として加賀一向一揆と戦い、陣中にて発病、一乗谷にて亡くなった。彼についてはその死後、彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。
日本
朝倉義景(あさくら よしかげ) [1533~1573]
越前一乗谷城主。朝倉孝景の子。足利義昭を迎えるも上洛の意思なく、義昭は信長の元に去り、信長に上洛される。後、浅井長政と組んで信長と争い、滅亡。
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越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。
日本
浅野長晟(あさの ながあきら) [1586~1632]
関ヶ原戦後、徳川家康に仕え、1610年備中足守、1613年兄幸長の死去後、紀伊和歌山藩主、次いで1619年安芸広島藩主。
日本
浅野長政(あさの ながまさ) [1547~1611]
浅野長勝の養子。妻は豊臣秀吉の正室おねの妹。豊臣五奉行の一人。甲斐府中城主。
日本
浅野幸長(あさの よしなが) [1576~1613]
豊臣秀吉に仕え、各地を転戦。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後、紀伊和歌山城主。
日本
朝比奈信置(あさひな のぶおき) [1528~1582]
今川氏真に仕え、今川氏の没落後は武田信玄に仕える。武田氏の滅亡後、降伏するが殺された。
日本
朝比奈泰朝(あさひな やすとも) [1538?~????]
今川氏の重臣。1568年武田信玄の駿河侵攻に際し、今川氏真に最後まで従い、相模小田原城に退去。
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駿河・今川氏重臣筆頭。遠江・掛川城主。桶狭間の合戦の時は、尾張・鷲津砦を攻略したが、当主義元戦死の報で撤退する。その後も今川氏の為尽力、氏真が駿府城を逐われると掛川城に迎えて戦った。今川氏が滅亡し氏真が相模・北条氏を頼ると、これに従い小田原に赴き、北条氏に仕えて働いた。その後、徳川氏臣酒井忠次に仕えたとも。
日本
朝比奈泰能(あさひな やすよし) [1517~1557]
朝比奈泰煕の子。遠江掛川城主。
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駿河・今川氏重臣筆頭。父死後伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江・掛川城主となる。1548年小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣、尾張・織田氏に大勝した。桶狭間の合戦前には没したと思われるが、以後も書にその名は散見される。子泰朝との混同か。
日本
足利晴氏(あしか がはるうじ) [1508~1560]
はじめ、北条氏と組んで国府台合戦で勝利するが、後に上杉憲政に与して、北条氏に敵対、捕らえられて幽閉、死去。
日本
足利義昭(あしかが よしあき) [1537~1597]
15代将軍。一乗院門跡となっていたが、兄義輝暗殺後、織田信長を頼り、1568年に将軍職を継ぐ。後、信長と不和となり、1573年京を追放され毛利氏を頼る。晩年、豊臣秀吉から捨扶持を貰い、京に戻って出家し昌山と号した。
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将軍家足利氏一族。幼少の頃、近衛家の猶子となって大和・興福寺一乗院へ入る。1565年松永久秀らに実兄の将軍義輝を殺害され、義昭自身も幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで近江・和田惟政の下に逃れ、さらに越前・朝倉義景を頼る。1568年尾張・織田信長に担がれ上洛し、室町幕府 15代将軍に就くが、傀儡に過ぎず、信長と不仲になる。御内書を濫発して反信長勢力の挙兵を再三行うが、1573年には信長に京都を逐われ、後に安芸・毛利氏に身を寄せてからも、反信長勢力の決起を謀り続けた。豊臣秀吉による天下統一後は、山城・槇島城に1万石を得た。
日本
足利義氏(あしかが よしうじ) [1541~1582]
北条氏の庇護の下、鎌倉に住した。後、古河に戻り、最後の古河公方。
日本
足利義維(あしかが よしつな) [1509~1573]
12代将軍義晴の弟。阿波平島に住し、平島公方と呼ばれた。
日本
足利義輝(あしかが よしてる) [1536~1565]
13代将軍。将軍権力の回復を図り、三好三人衆、松永久秀と対立、暗殺された。
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1546年元服して室町幕府第13代将軍となる。三好長慶らと対立し、管領細川晴元と共にしばしば近江に逃れる。その後和解し入京、積極的に御内書を出して大名の同士の調停をする等、将軍家の権力回復を図る。しかし、傀儡将軍として足利義栄を擁立した松永久秀、三好三人衆らに二条御所を急襲されて、自ら太刀を取って奮戦するが、殺害された。塚原卜伝に秘伝“一ノ太刀”を授けられた剣豪将軍。
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足利義晴(あしかが よしはる) [1511~1550]
12代将軍。管領細川高国に擁立され、将軍となる。後、三好元長に京を追われ、元長の死後京に戻るが細川晴元と対立、近江坂本に逃げ、同地で死去。
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将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。
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足利義栄(あしかが よしひで) [1540~1568]
14代将軍。義輝死後、三好氏によって擁立されたが、まもなく織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると阿波に逃れ、まもなく死去。
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蘆名盛氏(あしな もりうじ) [1521~1580]
蘆名氏16代。会津黒川城主芦名盛舜の子。会津盆地を平定し、さらに近隣の諸大名を従属させ蘆名氏の全盛時代を築いた。
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会津・蘆名氏16代当主。会津黒川城主芦名盛舜の子。領内の反乱を治め、会津盆地を平定し、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。
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蘆名盛興(あしな もりおき) [1547~1575]
蘆名氏17代。会津黒川城主。盛氏の子。佐竹氏との戦いの中、父に先立って没した。
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会津・蘆名氏17代当主。父隠居によりその後を継ぐ。1566年松山城横田氏攻略、これを捕縛。しかし29歳の若さで亡くなり後嗣なかった為、再び老父が政務を執り、後継者を二階堂氏から迎えることになった。一説には、常陸・佐竹氏との抗争にて討死したとも。
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蘆名盛隆(あしな もりたか) [1561~1584]
蘆名氏18代。会津黒川城主。二階堂盛義の子。蘆名盛興の養子。家臣に暗殺された。
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父は会津・須賀川城主。人質として蘆名氏の黒川城にあったが、当主盛興が夭折した為、その娘を娶って会津・蘆名氏18代当主となる。しかし、人質から当主となった盛隆に家臣団は反発。1584年、留守中を、松本、栗原氏による謀反を受けて黒川城を占拠された。同年、奪取し返した黒川城内にて、寵臣大庭三左衛門に殺された。24歳。その後遺児も夭折
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穴山信君(あなやま のぶきみ) [1541~1582]
(1541-1582)信友の子。江尻城主。梅雪と号す。武田信玄、勝頼につかえた。親類衆筆頭。勝頼の代に、徳川家康に降伏。後、本能寺の変に際し、堺からの帰路、伊賀越えの途中で土民に殺された。
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甲斐・武田氏親族衆筆頭。風雅を解し、又、内政に優れ民心を得ていたという。武田氏滅亡の際、家名存続の為、徳川家康に通じて本領安堵を得た。織田信長に謁見の為上京中、堺において本能寺の変を知り、引き返す途上の山城・宇治田原にて土民に殺される。42歳。徳川家康と一緒に堺にいたのに、なぜか一緒に逃げませんでした。一緒に逃げてればねぇ…。
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穴山信友(あなやま のぶとも) [?~1560]
正室は武田信虎の娘。信濃諏訪氏との戦いに活躍。
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尼子勝久(あまご かつひさ) [1553~1578]
新宮党尼子誠久の子。新宮党が滅ぼされた後、上洛して東福寺の僧となる。山中幸盛らに擁立され、織田信長に頼り、毛利氏と戦う。播磨上月城落城により自刃。
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出雲・尼子氏新宮党誠久五男。新宮党が当主晴久と対立して謀殺された時、匿われ京・東福寺の僧となった。しかし、尼子氏が安芸・毛利氏に滅ぼされると、山中幸盛らの旧臣に擁されその再興を図る。織田信長の支援を受け毛利氏宇喜多氏を攻め、播磨・上月城を攻略した。その後、信長による戦線の転換により、上月城からの撤退を命ぜられるが、これを拒否。毛利氏の猛襲の前に敗れて降伏、自害した。
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尼子国久(あまご くにひさ) [1492?~1554]
経久の子。新宮党初代。領国拡大に貢献したが、晴久と対立し、新宮党の勢力を恐れた晴久によって一族滅ぼされた。
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一時期塩冶氏に入るがやがて戻る。新宮党初代。国久の一族はその居・新宮谷から新宮党と呼ばれ、家中一の剛勇の集団として中枢を担い、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献する。しかし、新宮党の台頭を恐れた当主晴久と不和になった。これに乗じた安芸・毛利氏の謀略を受け、毛利氏に内通した疑いで誅殺され、新宮党は滅ぼされた。
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尼子経久(あまご つねひさ) [1458~1541]
出雲月山富田城主。一代で山陰、山陽十一カ国の太守に上り詰めた。大内家との戦いの最中、死去。
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出雲守護代尼子氏当主。出雲月山富田城主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ一代で“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。大内家との戦いの最中、死去。
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尼子晴久(あまご はるひさ) [1514~1560]
尼子政久の子。経久の孫。毛利元就の謀略で新宮党を滅ぼし、尼子氏の弱体化を招いた。
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尼子経久の孫。
父政久は早くに戦死しており、祖父経久に従い、緒戦に活躍。1537年家督を譲られた。将軍足利義晴より諱を受け晴久と名乗る。舅国久率いる新宮党に援けられ、山陰を中心に8ヶ国に勢力を伸ばすが、やがて新宮党を疎ましく思うようになる。結果、安芸・毛利氏毛利元就の謀略に乗せられ、新宮党を滅ぼしてしまい、自ら力を弱め、尼子氏の弱体化を招いた。その後も毛利氏相手に奮闘したが、48歳で病死した。
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尼子義久(あまご よしひさ) [1540-1610]
晴久の子。毛利氏に攻められ、月山富田城に篭城するが、降伏。後、毛利氏に仕える。
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父の死により、20歳で出雲・尼子氏当主となる。安芸・毛利氏の攻略を受け戦うが、次第に圧迫されていく。1565年月山富田城に籠城するが、近臣大塚与三右衛門の讒言に惑わされて多くの家臣を失う。翌年ついに防ぎきれず切腹を申し出て降伏、命は助けられ安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて毛利氏に従った。義久には子がなかった為、甥・元知が養子となり後を継ぎ、以後佐々木氏を名乗って続いた。
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荒木村重(あらき むらしげ) [1536~1586]
はじめ池田勝正に仕え、後織田信長に属す。1578年信長に背き、篭城の後、追放。信長の死後堺に住し、豊臣秀吉に仕えた。茶人、利休七哲の一人。
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有馬晴信(ありま はるのぶ) [1567~1612]
肥前領主。有馬義貞の次男。龍造寺隆信を沖田畷の戦いで討って、肥前島原を統一。また、ローマに少年使節を送った。関ヶ原の戦いでは東軍に属したが、岡本大八事件で斬罪となる。
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安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) [?~1600]
安芸銀山城主武田信重の子。安芸安国寺、京都東福寺住職。毛利家の外交僧として、豊臣秀吉との仲を仲介。後、秀吉の側近として伊予国内で六万石の大名。関ヶ原の戦いで、西軍につき処刑された。
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安芸守護武田信重の遺児(といわれる)。武田家滅亡時に逃れ、竺雲恵心の元で僧となる。安芸・安国寺、備前・安国寺の住持となり、後に京・東福寺住持となる。恵心が安芸・毛利氏の外交僧をしていたことから、恵瓊も毛利氏の外交僧となり、主に小早川隆景の元で働いた。羽柴秀吉の攻略を受けた際は、講和をまとめ、以後秀吉の側近ともなる。朝鮮出兵の際には従軍僧として渡海するが、同じ毛利氏臣の吉川広家と意見の齟齬があった。関ヶ原の戦いにおいて西軍として毛利輝元を総大将に担ぎ上げるが、東軍に内通する広家を説得しきれず、結果毛利氏は動かず敗戦する。この責任をとって京・六条河原にて斬首された。その野心家ぶり等から“妖僧”と囁かれる程の者であった。
日本
安東愛季(あんどう ちかすえ) [?~1587]
出羽秋田城主。安東舜季の子。安東尭季の養子。
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安藤守就(あんどう もりなり) [?~1582]
美濃北方城主。美濃三人衆の一人。斎藤氏の重臣、後織田信長に仕える。1580年武田氏と通じたとして追放された。本能寺の変に乗じて挙兵するが、敗死。
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美濃・北方城主。美濃・斎藤氏に仕え、“西美濃三人衆”と呼ばれた豪族の1人。女婿竹中重治の稲葉山城奪取の際にはこれに協力。しかし、尾張・織田氏が美濃を奪った際には、この西美濃三人衆が織田方に内通し、これに協力した。その後、織田氏家臣として近江・姉川の合戦では勇戦し、近江、伊勢と各地を転戦したが、1579年嫡子尚就が甲斐・武田氏に内通した罪で、3人の息子共々粛正され、遠国流罪を宣せられた。本能寺の変後、旧領回復の為蜂起するが、稲葉良通に討たれる。
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井伊直政(いい なおまさ) [1561~1602]
徳川四天王の一人。家康の関東入国により、上野国箕輪城主。関ヶ原の戦いでの功績から、近江佐和山城主。しかし、そのときの傷が元で間もなく死去。なお、武田氏の赤備えは直政の下に再編成され、井伊の赤備えとして怖れられた。
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父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。長久手の合戦には先鋒として参加し活躍。関ヶ原の合戦においても活躍するが、この時の戦傷が元で亡くなった。徳川四天王の1人。
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池田勝正(いけだ かつまさ) [?~ ?]
摂津池田城主。管領細川氏の家臣。三好氏、松永氏と争う。織田信長に抵抗後、降伏し各地を転戦した。
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池田恒興(いけだ つねおき) [1536~1584]
信輝とも。織田信長の家臣。信長とは乳兄弟。池田恒利の子。本能寺の変の時、大坂にいて秀吉と合流、明智光秀を討った。後、美濃大垣城主となるが、徳川家康との小牧長久手の戦いで戦死。
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池田輝政(いけだ てるまさ) [1564~1613]
池田恒興の次男。織田信長に仕え、本能寺の変後は、豊臣秀吉に属した。小牧長久手の戦いで、父恒興と兄之助が戦死した後家督を相続する。後、三河吉田城主。関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後、播磨姫路藩主。徳川家康の女婿。
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池田之助(いけだ ゆきすけ) [1559~1584]
恒興の長男。織田信長に仕え、各地を転戦。本能寺の変後、羽柴秀吉に仕え岐阜城主。小牧長久手の戦いで戦死。
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生駒親正(いこま ちかまさ) [1526~1603]
讃岐高松城主。織田信長、次いで羽柴秀吉に仕える。各地を転戦し、戦功をあげる。関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦後隠退。後、子の一正のもとで死去。
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石川家成(いしかわ いえなり) [1535~1609]
徳川家康の家臣。今川氏の滅亡後、遠江掛川城主。
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石川数正(いしかわ かずまさ) [? ~1592]
徳川家康の重臣、三河譜代。内政、外交面で活躍。後、豊臣秀吉のもとに出奔。豊臣政権下で信濃松本城主。
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石田三成(いしだ みつなり) [1560~1600]
豊臣秀吉に仕え、後、豊臣五奉行の一人。徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いで敗戦、捕らえられ処刑。
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伊丹親興(いたみ ちかおき) [?~1574]
細川晴元、織田信長に属す。各地を転戦するが、信長と不和となり、伊丹城落城に際し、自害。
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稲葉一鉄(いなば いってつ) [1515~1588]
土岐、斉藤氏の家臣。美濃三人衆の一人。実名良通。稲葉通則の子。美濃曽根城主。斉藤氏滅亡後は信長、秀吉に仕え各地を転戦した。
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稲葉貞通(いなば さだみち) [1546~1603]
織田信長に仕え、各地を転戦。関ヶ原の戦いではじめ西軍、後東軍に転じた。戦後、豊後臼杵藩主。
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稲葉正成(いなば まさなり) [1571~1628]
小早川秀秋の重臣。関ヶ原の戦いで、秀秋を東軍に味方させる。後、秀秋の下を退去。1607年徳川家康に召されて下野真岡藩主。後妻は春日局。
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今川氏真(いまがわ うじざね) [1538~1614]
駿河の戦国大名。義元の跡を継ぐが、徳川家康、武田信玄に攻められ降伏。北条氏政、徳川家康に養われた。
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父戦死後、駿河・今川氏当主となるが、蹴鞠(達人級?)華道に没頭する。内政面ではそれまでの政策を受け継いで、検地、楽市等を行うが、武将としての器に欠け、家臣の離反が相次ぎ、独立した徳川家康に攻められ大敗、相模・北条氏の下に走った。舅氏康死語、北条氏を逐われると、今度は家康を頼り、後に上洛、仇織田信長にも謁見している。以後京に居住し、1612年駿府城にて家康訪問後は江戸品川に下向、77歳で没。
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今川氏親(いまがわ うじちか) [文明5(1473)~大永6(1526) ]
父の死後、従兄弟小鹿範満が執政となり、家中内乱を起こす。範満滅亡後、斯波氏、小笠原氏と抗争し、領国を遠江まで拡大、戦国大名への転換に成功した。
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今川義忠の嫡子で幼名は竜王丸。母は義忠の正室・北川殿(伊勢早雲の姉妹)である。
 応仁の乱が勃発すると、父・義忠は東軍の細川勝元につき、西軍の山名宗全についた遠江守護・斯波氏と戦った。文明7(1475)年春、遠江の国人衆・横地四郎兵衛、勝間田修理亮らが西軍につくと、義忠は久野佐渡守、奥山民部少輔、杉森外記、三浦次郎左衛門、岡部五郎兵衛らを率い敵城を攻略した。しかし凱旋の途上、流れ矢に当たり討死してしまったのである。
 このとき竜王丸はわずか6歳であったため、義忠の従兄弟・小鹿範満が今川家の家督簒奪に乗り出した。こうして今川家は竜王丸支持派と、範満支持派に分裂したのである。
 範満が駿府館を占拠したため、竜王丸は伯父・伊勢長氏(早雲)の指示で母・北川殿とともに駿河志太郡小河郷の小川法栄のもとへ避難した。この間に長氏は扇谷上杉家の威を借り、竜王丸が正嫡であることと、範満が竜王丸成人までの家督代行であることを範満に認めさせ、一応の決着をみた。しかし竜王丸が17歳になっても範満は家督を返さなかったため、長氏は駿府館の範満を攻め滅ぼし、竜王丸に家督を継承させた。そして、当主となった竜王丸は氏親と名乗ったのである。
 氏親は遠江守護・斯波氏、信濃守護・小笠原氏と戦って撃破し、永正3(1506)年からは長氏を三河へ侵攻させた。この侵攻作戦は失敗に終わったが、同年7月には遠江守護に任じられ、永正14(1517)年8月には引馬城を陥れ遠江一国を平定した。
 また、氏親は大永4(1524)年領内で検地を行い、大永6(1526)年には分国法・今川仮名目録33ヶ条を制定し、戦国大名今川氏の基礎を固めた。同年6月氏親は没したが、14歳の嫡子・氏輝への家督相続は円滑に行われている。
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1470~1528 別:龍王丸 彦五郎 上総介 治部大夫 修理大夫 父:今川義忠 室:中御門宣胤女、福島氏女 子:今川氏輝、彦五郎、良真、義元、氏豊  駿河守護今川氏当主。父は応仁の乱で東軍に付き、遠江攻略後、塩月坂にて不慮の戦死。氏親4歳の時であり、一族範満との間で家督争いが生じて堀越公方足利氏、関東管領上杉氏の介入を招いた。これは客分にあった伯父伊勢長氏(後の北条早雲)の仲裁で争いは鎮まり、乱を逃れていた氏親も駿府に戻る。この縁で北条氏との同盟を結んで、1517年引馬の戦いにて遠江一円を攻略、三河、尾張に勢力を伸ばした。武勇に優れた一方、領国経営にも手腕を見せて検地、知行制度の確立、1509年には分国法「今川仮名目録」33ヶ条を制定している。
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今川氏輝(いまがわ うじてる) [1513~1536]
家督相続時、幼少のため母寿桂尼の後見をうけた。武田氏と争うが、若くして病死。
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父の病死で、14歳で駿河守護今川氏当主となる。母寿桂尼の輔佐を受け国政を行い、商業振興、旗本馬廻衆設置などに取組むが、甲斐・武田信虎との戦傷が元で若くして急死。次弟彦五郎も同時に死んでおり、謀殺されたともいわれる。
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今川氏豊(いまがわ うじとよ) [?~ ?]
義元の弟。尾張名古屋城主。織田信秀に城を奪われた。
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今川義元(いまがわ よしもと) [1519~1560]
兄氏輝の死後、家督を相続。武田信玄、北条氏康と同盟して西方へ勢力拡大を図ったが、尾張桶狭間で織田信長に敗れ討ち死に。
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僧籍にあったが兄急死後、兄良真との家督争い(花倉の乱)に勝ち、駿河・今川氏当主となる。太原雪斎を軍師に迎えて相模・北条氏、尾張・織田氏に侵攻し勢力を拡大、後には甲相駿三国同盟を結んで地盤を確実なものとした。内政についても父からの領国経営を継承して検地を徹底、直臣の強化を図ると共に、「仮名目録追加」21ヶ条を出している。今川氏は全盛期を迎え、“海道一の弓取り”とうたわれた。1560年、2万7千の大軍を率いて上洛を図る(尾張攻略のみとも)が、桶狭間において雨の中休息中、尾張・織田信長に奇襲を受け、自ら太刀を振るって戦うが、その臣毛利新介に討たれた。享年42歳。義元は京風文化に憧れ、顔に化粧を施し、又、肥満していた為、行軍時は輿に乗っていたという。
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岩成友通(いわなり ともみち) [?~1573]
三好三人衆の一人。織田信長と争い、各地で戦った。足利義昭の挙兵に応じ、山城淀城に拠るが落城、討ち死にした。
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上杉景勝(うえすぎ かげかつ) [1555~1623 ]
母は上杉謙信の姉。謙信の養子となり、1579年家督を継ぐ。豊臣政権下で五大老の一人。会津若松城主、120万石。関ヶ原合戦で西軍に属し、戦後30万石に減封され、出羽米沢に移された。
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上田長尾氏政景の二男(兄夭折)であり、子のない謙信の養子となる。謙信死後、同じ養子で姉婿の景虎との争い(御館の乱)に甲斐・武田氏の援けを受けて勝利、家督を得る。後豊臣秀吉に降って朝鮮の役等に出陣、五大老の一人となって会津120万石を得た。関ヶ原の戦いの際には、西軍方として徳川家康と争うが、西軍敗北の報に降伏。米沢30万石に減封されるが、家臣は禄が減っても景勝の下を去ろうとしなかった。69歳で没。寡黙な質で、生涯に見せた笑顔は一度切りといわれる。
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上杉景虎(うえすぎ かげとら) [1552~1579]
北条氏康の子。1570年越相同盟の成立にともない、上杉謙信の養子となる。景勝との家督争いで敗死。
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相模・北条氏康七男。甲駿相三国同盟成立の際には、甲斐・武田氏に人質として送られるが、同盟破綻後帰る。越相同盟が成立した際にも越後・上杉謙信の下に赴き、気に入られて養子となる。謙信死後、同じ養子の景勝と争い(御館の乱)、初め北条氏、武田氏の支援を受け状況は有利であったが、武田氏が景勝方についたことから不利となり、敗走。相模・小田原城に戻る途中立ち寄った鮫ヶ尾城で、城主堀江宗親の謀反に遭って自害した。享年28歳。なんでもかなりの美形だったとか。
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上杉景信(うえすぎ かげのぶ) [?~1578]
一門筆頭として、謙信を補佐した。謙信の死後、景虎を推して景勝と争うが、討ち死に。
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上杉謙信(うえすぎ けんしん) [1530~1578]
長尾為景の末子。兄晴景の後を継ぎ、越後守護代。後、上杉憲政の養子となり、関東管領職を継ぐ。武田信玄と数度にわたって、川中島合戦を行う。1577年手取川合戦で織田軍を破るが、翌年脳溢血で死去。
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当主の兄長尾晴景と争って勝ち、越後守護代を譲られる。関東管領上杉憲政や信濃の諸豪族を援け、利よりむしろ義を通して各地を転戦し、相模・北条氏、甲斐・武田氏等の強敵と度々争った。特に武田氏との5度にわたる川中島の戦いは有名。又、2度上洛して天皇、将軍に謁見献納している。1561年上杉氏に改姓して、憲政より関東管領職を譲られた。一方北陸方面にも勢力を拡大して加賀能登を制し、1577年には織田信長軍を加賀・手取川に敗っている。兵の総動員を発して上洛を図るが、出陣を前にして49歳で急死。毘沙門天を崇拝し、一生不犯を通したといわれている義将。
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宇喜多直家(うきた なおいえ) [1529~1581]
興家の子。備前岡山城主。浦上氏に仕えたが、1577年には主家を追放し、大名となる。羽柴秀吉に従い、毛利氏と争う。
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祖父、父は備前守護代浦上氏家臣として備前・砥石城主であったが、直家幼少時に浦上氏家臣島村氏に攻められ落城。祖父は自害し、父と共に備前・福岡に隠遁するが、やがて再び浦上宗景に家人として仕え、旧臣を集めて宇喜多家を再興した。その後、謀略を駆使して舅中山信正、祖父の仇島村盛実等、諸城を攻略して備前、備中、美作に亘る勢力を築き、浦上家中最大の実力者となる。さらには、東方より進出してきた織田信長と結んだ宗景に対し、直家は安芸・毛利氏と結んで宗景から独立、1577年宗景を攻めて追放した。その後毛利氏と共に侵攻する織田軍と戦うが、後に織田氏に通じて今度は毛利氏攻撃に参加した。53歳岡山城にて病没。
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宇喜多秀家(うきた ひでいえ) [1572~1655]
関ヶ原合戦では西軍に属し、敗戦後薩摩島津氏を頼る。3年後、幕府に出頭し八丈島に流された。
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氏家卜全(うじいえ ぼくぜん) [?~1571]
美濃三人衆の一人。実名直元。斉藤氏の家臣だったが、後に織田信長に降る。伊勢長島城攻めの際、討ち死に。
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