歴史・人名

人名あ

青渭神(あおいのかみ) 
この神とは、武蔵国式内社めぐりで稲城市の青渭神社で出会った。
ちなみに、この神社の祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命の三柱であるが、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この地は水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。

それで「渭」という字の意味を調べたが、これがなかなか難しい。
「行く」とか「流水する」とかいう意味にも用いられたらしいが、普通は川の名のことであり、すなわち唐時代の文学に名高い「渭水」または「渭川」のことだと、それで終わり。
なかなか意味の説明にはたどりつかない。

武蔵国には、入間郡にも「国渭地祇神社」という神社がある。
しかし、どうも「渭」という字は難しいようだ。

あるサイトの方が、「渭」の音がヰであるところから、ある学者が、しゃれて「井」の字に変えて使用したのではないかと書いていたが、それが当たっているのではないかと思う。

青渭神社は、論社が三社あって、稲城市の青渭神社の他に、
青梅市の青渭神社は、奥宮のある惣岳山の山頂近くには真名井という霊泉がある。青渭の井とも呼ばれ、社名の由来になったといわれている。
調布市深大寺の青渭神社は、あの辺は湧水の盛んなところで、ご祭神は水波能売大神と青沼押比売命とされているが、いずれも「水神」である。

水神といっても、色々あるが、三社とも地形からみて、「渭水」のような大河に住む水神ではなくて、「井」を守る水神のほうがふさわしい。



青橿城根尊(あおかしきねのみこと)? 
→於母陀流神
 
青橿城根尊(あおかしきねのみこと)? 
→阿夜訶志古泥神
 
青沼馬沼押比売神(あおぬまぬおしひめのかみ)? 
青沼馬野は地名で、押比売は大姫という意味があるという。 『古事記』に登場するのは、「4-5 大国主神の神裔」の段である。 (現代語訳)  さてこの大国主神が、宗像の沖つ宮に鎮まる神の、多紀理比賣命を妻として生んだ子は、阿遅 高日子根(アヂスキタカヒコネノ)神、次に妹の高比賣命で、またの名を下光比賣(シタテルヒメノ)命という。この阿遅 高日子根命は、賀茂の大御神といっている。  大国主神が、また神屋楯比賣(カムヤタテヒメノ)命を妻として生んだ子は、事代主神神である。 (中略) この神が、葦那陀迦(アシナダカノ)神、またの名は八河江比賣を妻として生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(ハヤミカノタケサハヤヂヌミノ)神である。この神が、天之甕主(アメノミカヌシノ)神の女の前玉比賣(サキタマヒメ)を妻として生んだ子は、甕主日子神である。この神が、淤加美神の女の比那良志比賣(ヒナラシビメ)を妻として生んだ子は、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミノ)神である。この神が、比比羅木之其花麻豆美(ヒヒラギノソノハナマヅミノ)神の女の活玉前玉比賣(イクタマサキタマヒメノ)神を妻として生んだ子は、美呂浪神である。この神が、敷山主神の女の青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を妻として生んだ子は、布忍富鳥鳴海(ヌノオシトミトリナルミノ)神である。(以下略) これらの家系三神の神名の由来は、よくわかっていないが、山⇒沼⇒海とあるところから、自然における上から下への流れを描いていることはわかります。 余談ですが、美呂浪神の三代前の神の后が前玉比賣である。この神は「さきたま古墳群」の中にある「前玉神社(延喜式内社)」の祭神である。 そして「前玉」から「埼玉」と字が変化して「埼玉県」となっているわけです。 この神裔からわかることは、「さきたま古墳群」を作り上げた豪族は「出雲族系」ということになります 100m前後の大型前方後円墳は、畿内でも大和地方を除くとそう多くなく、山陰、北陸、四国、東海地域ではほとんど築かれず、千葉・埼玉・群馬の関東地方に多いことがわかりました。 つまり古墳時代には、大和地方と関東地方が突出していたようです。 この神を祭神としている神社ですが、 本居宣長の『古事記伝』に、「武蔵国多摩郡の青渭神社に祀られている。」とあります。 その論社は三社あり、参拝して調べてみると、現在は以下のような祭神となっている。 青渭神社(東京都調布市深大寺元町5丁目17 10)は青沼馬沼押比売神を祭神としています。 青渭神社(東京都稲城市東長沼1054)は「青渭神」を祭神としています。 青渭神社(青梅市沢井3-639)は大国主命を祭神としているが、これは明治になってからこの祭神にしたのでは、と思われます。 また「青沼馬野」について本居宣長は、「甲斐国巨摩郡青沼と信濃国佐久郡青沼あり。」としているので、この二つの地域から出た姫の可能性があります。 この地域でも祀られている可能性があります。
 
青幡佐草日古命(あおはたさくさひこのみこと)? 
八重垣神社宮司の始祖であるという。 出雲の八重垣神社は、障壁画でも、鏡池の縁結び占いでも有名なお宮さんだが、社名にしても祭神にしても変遷があったようだ。 八重垣神社は、須佐之男命が八岐大蛇と戦うに際し、奇稲田姫を隠した「佐久佐女の森」の故地である。 八重垣神社の社名は『古事記』に記載の須佐之男命が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌にちなむといわれ、現在は須佐之男命・奇稲田姫命を祭神とし、合祭神として大己貴命、相殿には青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)を祀っている。 佐久佐女さくさめの森とよばれる奥院の森は、奇稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるために八重垣を築いて避難したところといわれ、また、この森の中にある鏡ノ池は奇稲田姫命が避難した際に飲料に用い、姫命はその水面に姿を映して化粧を行ったと伝える。 このように、八重垣神社は奇稲田姫命との関連を物語るさまざまな伝承を有する神社なのだが、天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』に八重垣の社名がみえない。 『出雲国風土記』は大草郷について「須佐乎命の御子、青幡佐久佐日古命(丁壮命)坐す。故、大草といふ」と記し、同書では意宇郡に「佐久佐社」が、『延喜式』神名帳では意宇郡四八座のうちに「佐久佐神社」がみえる。 八重垣の社名は戦国期から近世にかけて佐久佐社に代わって使用されており(慶安五年「八重垣社領検地帳」佐草家文書など)、八重垣神社が他の地域から移転してきた可能性は充分に想定される。現在の祭神が『古事記』の出雲神話にちなんだ素戔嗚命・奇稲田姫命で、『出雲国風土記』に登場する青幡佐久佐日古命(丁壮命)が相殿となっていることも、社名・社格の変遷を物語っているかもしれない。 近世を通じて八重垣神社の祭神は素戔鳴尊・稲田姫・大己貴命になっていた。ところが 明治に入り、延喜式にない社名では高位の社格を得られないことから、本社と末社の関係を元にもどして 「佐久佐神社」と改め、主祭神を青幡佐久佐比古命として当局に届け出た。 しかし、久しく馴染んできた「八重垣」という社号を伏せておくに忍びず、社号を「八重垣神社」に戻すことを陳情、容れられて祭神も明治以前に復し、現在、青幡佐久佐比古命は合殿神となったということである。
 
吾我津比賣命(あがつひめのみこと)? 
「埼玉縣下 諸社祭神御事 」では、こう書かれている。 吾我津比賣命は、猿田彦神の御女なり、総國風土記に載せたる伊賀國風土記に、次の如き記事見えたり、いはく『猿田彦神始此之國爲伊勢加佐波夜之國時猿田彦神女吾蛾津媛命天照大御神自天上投降給之金鈴知之守給其知守給之御斎處謂加志之和都賀野今時云手柏野者此其言謬也又此神之依知守國謂吾蛾之郡其後清見原天皇御宇以吾蛾郡分爲國之名後改伊賀吾蛾之音轉也』と見えたり、この神の御事蹟、古史に多く傳へざるを以て、委しきことを知る能はず、[古風土記逸文、日本書紀傳] これによると伊賀國風土記では「猿田彦神の娘の吾蛾津媛命が、天照大御神が天上から投降した金鈴を知り守っていた」、「吾蛾が転じて伊賀という国名となった」。(「が」「我」「蛾」は原文のまま。) いままで猿田彦神の系図で知っていたのは、「猿女君」と「太田命」であるが、前の話と結びつくのは「太田命」である。 倭姫命が天照大御神の奉斎地を求めて巡っているとき、五十鈴川の後江で、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」  これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。 それで、倭姫命はこの地に天照大御神を祀ることにして伊勢神宮となったのである。 猿田彦神について 産土神社を調べたら白髭神社である。そこの祭神が猿田彦である。 なにより人目に触れる神でもある。いろいろな神社の神幸祭などの行列では先導役として鉾を持って姿を現す。 そしていま、2016年が高麗郡建郡1300年にあたるので、色々な企画がある。 白髭神社があるのが高麗郡に限られるということに注目している。 もともと白髭神社は高麗神社とのつながりが強いと云われているが、それならどうして祭神が高麗神社と同じ「白髭明神」ではないのか。 猿田彦神の性格を考えるとうなずける面もある。 「天孫降臨」を「征服」と、あるいは「侵入」と、あるいは「転進」と、あるいは「移住」と捉えるのかは立場によって違うだろう。 猿田彦は国津神であって、天孫降臨してくるのを待っていて道案内した神である。 高麗郡建郡も各所に散らばっていた高麗人を集めて作った。 密度は低かっただろうが、先住民が居たはずである。 その中で、積極的に渡来人と関わって、その技術とか文化を取り入れた人たちが居ただろう。 その人たちが崇める神としては、猿田彦神はうってつけの神様であるなあ、と思っている。
 
阿加流比売神(あかるひめのかみ)? 
製鉄、青銅に携わった人たちが祀る神を追跡した、谷川健一氏の「青銅の神の足跡」に登場。 日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女神です。 『古事記』では応神天皇記に記述がある。 『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。 都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。 都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。 『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。 応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。 『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が東アジアに多く伝わっている。例えば扶余族の高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、倭より渡った新羅王族昔氏の伝承、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうである。 *天之日矛(あめのひぼこ): 後に詳しく述べるが、記紀では新羅の王子として、『播磨国風土記』には神として登場する。 この事から、当然渡来系の氏族が奉じる神である。そして製鉄、製銅の地で祀られたり、話に登場することが多い。 *都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=天之日矛の別名
 
阿加流比売(あかるひめのかみ)? 
→阿加流比売神
 
飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)? 
陸路と海路に関わる神。 飽きるほど食べる大人の神。 伊邪那岐神が禊祓の為、放り投げた御冠から出現。
 
飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)? 
伊邪那美命を追いかけて行った黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命は禊祓をします。 古事記の現代語訳:  このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。  それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。 このように、禊ぎ祓えのときに投げ捨てた冠から現れた神の名が、飽咋之宇斯能神です。 『日本の神様読み解き事典』では、「化生する冠はカガフル(被ふる)の名詞形であり、したがって飽咋之宇斯能神の神名は、冠の口が開いていることからアキグイの名があらわれたものである。アキは穢の明けと引っ掛けたものと考えられる。」としている。 他にこういう説がある。 ・食糧を心配する神 ・口を開けて穢れを食う神 ・秋祭りの「あき」は、「飽食(あきぐい)のまつり」を省略した語といわれ、古くはアキグイノウシノカミ・ハヤアキツヒメをおまつりする、飽食の意味をもった祭りだった。つまりイネの収穫を神に存分に食していただき、同時に人間も食して満腹の喜びにひたるという収穫祭のひとつであった。
 
秋篠宮家(あきしののみや)? 1965
文仁親王   生没年:1965-   父:上皇     1965-1990 礼宮     1990- 秋篠宮   妃:川嶋紀子1966-(父:学習院大学教授 川嶋辰彦)     1991- 眞子内親王     1994- 佳子内親王     2006- 悠仁親王
 
秋田実季(あきたさねすえ)? 1576-1659
出羽檜山城主安東愛季の次男。豊臣秀吉から所領安堵され、湊を拠点に領国を経営。関ヶ原合戦後、宍戸に転封。
 
秋月種実(あきづきたねざね) 1545~1596
筑前秋月城主。文種の次男。毛利氏を頼り、大友氏と争う。一時、大友氏に降伏するが、のち反旗を翻す。島津氏の北上に対し降伏、秀吉の九州征伐に対抗するが、まもなく降伏。日向高鍋に転封された。
 
秋毘売神(あきびめのかみ)? 
この神の名が記されているのは、『古事記』の「大国主神」の巻で「大年神の神裔」の段です。 (読み下し文) 「 かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。  上の件の大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、併せて十六神。  羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし子は、若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根神。  上の件の羽山の子以下、若室葛根以前、併せて八神。」 すなわち、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。 若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。 これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる。 秋の稲作の神。あるいは稲の取り入れを行う女性の神格化であろう。 母の大気都比売神は、食物起源神話のヒロイン。 この母親の大気都比売神は、須佐之男命に、殺されてしまいます。 『古事記』(読み下し文) 「 また食物を大気都比売神に乞ひき。ここに大気都比売、鼻・口また尻より種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して、種々作り具へてた進(たてまつ)る時、速須佐之男命その態(わざ)を立ち伺ひて、穢汚(けが)して奉進るとおもひて、すなはちその大宜津比賣神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれ、ここに神産巣日の御祖命、これを取らしめて種ど成したまひき。」 しかし、殺された母神の体から、いろいろな穀物が生えてきました。 その大気都比売神が夏高津日神と秋毘売神の女神を生んで農事に最も大切な季節の夏と秋を守護する力を与えたわけですね。
 
秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)? 
この神については、『古事記』「応神天皇」の巻の、その9「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫」の段で語られる。 現代語訳では: さて、この伊豆志の神の女(むすめ)で、名は伊豆志哀登売神(いずしをとめのかみ)という神がおられた。ところで多くの神々が、この伊豆志哀登売を妻に得たいと望んだが、だれも結婚することができなかった。 ここに二柱の神があって、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)といい、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)といった。そしてその兄が弟に向かって、「私は、伊豆志哀登売を妻に願ったが、結婚できなかった。おまえはこの少女(おとめ)を妻にできるか」と言った。弟が答えて、「たやすく妻にすることができます」と言った。そこでその兄がいうには、「もしもおまえが、この少女を娶る(めとる)ことができるならば、私は上衣と袴を脱ぎ、身の丈を計って、それと同じ高さの甕に酒をかもし、また山や河の産物をことごとくととのえ準備をして賭の物としよう」といった。 そこでその弟は、兄の言ったとおりくわしくその母に伝えると、即座にその母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣・袴および 磯・沓を織り縫い、また弓矢を作って、その上衣や袴などを弟に着せ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせると、その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。そこで伊豆志哀登売はその花を見て不思議に思い、それを持って来るとき、霞壮夫はその少女のあとについて、少女の家にはいるとすぐに契りを結んだ。そして一柱の子を生んだ。そして弟はその兄に、「私は伊豆志哀登売を自分のものにした」と申した。  そこでその兄は、弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて、例の賭の品物を渡そうとしなかった。そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき、母親が答えていうには、「この現世のことは、よく神の教えを見習うべきです。それなのに兄は、現世の人々のやり方に見習ったのでしょうか、その賭の物を償おうとしないのは」といって、その兄である子を恨んで、すぐに出石川の中州に生えている一節竹を取って、編み目の荒い籠を作り、その川の石を取って塩にまぜ合わせてその竹の葉に裹(つつ)んで、弟に呪詛させて言うには、「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせよ。またこの塩の満ちたり干たりするように、生命力が満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように病に沈み臥せ」といった。このように呪詛させて呪いの品を竈の上に置いた。このためにその兄は、八年もの長い間、体はひからびしなえ、病み衰えた。それでその兄が嘆き悲しんで、その母親に許しを乞うと、母親はすぐにその呪いの品を取り返させた。そしてその兄の体は、本どおりに安らかに健康になった。これが「神うれづく」という言葉の起りである。 この話の前に、新羅の王子であり渡来した天日槍(あめのひぼこ)の話を書き、それに続いて帰化人であった出石族が伝承していた説話に基づいて、この話が構成されたとされる。 春秋の自然美の優劣を競うかのような話である。 春山之霞壮夫が弓矢を少女の厠ににかけ、その少女と結婚するというストーリーは、三和の大物主神が丹塗矢となって、厠にいる勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の女陰(ほと)をつく話の変形だと思う。 母親の言葉の中で、神の世界と人間の世界を比較して、人の世になったら約束を履行しなくなった、と言わせている。
 
秋山信友(あきやまのぶとも)? 1531-1575
甲斐武田氏の武将。美濃岩村城を攻略、信長の叔母を室にするが、長篠で武田軍が敗退すると、織田軍の攻撃を受け、殺された。
 
明智秀満(あけちひでみつ)? ?-1582
明智光秀の女婿。丹波福知山城主。光秀に従い、本能寺の変後、近江佐和山城で自刃。
 
明智光秀(あけちみつひで)? 1528-1582
美濃土岐氏の一族、土岐(明智)光綱の子。織田信長に従い、足利義昭の上洛に尽力。後、織田家五大軍団長の一人。本能寺で、信長を自刃させた後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走中農民に殺された。
 
浅井亮政(あざいすけまさ) ?-1542
浅井直種の子。浅井直政の養子となり、宗家を継ぐ。近江小谷城主。京極氏の家臣だったが、主家の内紛に乗じて次第に台頭し、江南の六角氏と争いつつ、戦国大名に成長した。
 
浅井長政(あざいながまさ) 1545-1573
近江小谷城主浅井久政の子。信長の妹お市の方と政略結婚し、領国を拡大する。後、朝倉氏に荷担して信長と敵対、小谷落城に際し自刃。
 
浅井久政(あざいひさまさ) ?-1573
京極、六角氏らの勢力に圧されつつ、朝倉氏の助力によってかろうじて領国を維持した。1560年、長政に家督を譲り隠居したが、1573年小谷落城に際し自刃。
 
朝倉景綱(あさくら かげつな) ????~????
朝倉氏一族。越前・織田城主。1573年当主義景が越前・刀禰坂で敗れた時には、これを見捨てて居城に退却した。主家滅亡後、一向一揆勢に攻められて落城、妻子のみ引き連れて落ち延びたといわれる。
 
朝倉景連(あさくら かげつら) ????~1570
○玄蕃允 ◇父:朝倉玄蕃助景宗 子:朝倉三郎景胤、七郎景泰 越前・朝倉氏一族。一族の重鎮宗滴死後、家臣団をまとめ、一向一揆との戦いに活躍した。1561年当主義景が犬追物を興行した際、景連は500余人の人々を着飾らせて参加し、見物人の目を驚かせたという。
 
朝倉景紀(あさくら かげのり) ????~1573
○孫九郎 九郎左衛門尉 ◇父:朝倉孫次郎貞景 養父:朝倉教景 子:朝倉太郎左衛門景土光、中務大輔景恒、貞紀 越前・朝倉氏一族。越前・敦賀城主。一族の重鎮宗滴の養子となり、共に各地を転戦した。将軍足利義昭が当主義景を頼った際には、敦賀城に迎えた。近江・姉川の合戦にも第2陣の大将として参加している。
 
朝倉景盛(あさくら かげもり) ????~????
○孫六 出雲守 三富氏 ◇父:朝倉左近助(景尚?) 子:朝倉景茂 越前・朝倉氏傍流。朝倉氏は北近江・浅井氏と共に尾張・織田氏らの軍と戦っていたが、不利な戦況の中、景盛はわずかな手勢で単独夜襲をかけ、これを成功をさせる。しかし、この混乱に続く朝倉・浅井軍はなかった為、所詮は局地的な勝利でしかなく、朝倉家はまもなく滅亡した。
 
朝倉孝景(あさくら たかかげ) 1493~1546
◇父:朝倉孫次郎貞景 室:武田元信女 子:朝倉義景 越前・朝倉氏当主。一向一揆と戦いながら越前の領国化を進めた。文武に秀で朝倉政権を盤石なものとし、又、歌道にも通じた風流を解する将でもあった。
 
朝倉教景(あさくら のりかげ) 1477~1555
○小太郎 太郎左衛門尉 宗滴沙弥 ◇父:朝倉小太郎孝景(敏景) 室:朝倉景豊妹(景冬女?) 養子:朝倉景紀  越前・朝倉氏一族。若くして仏門にはいるが、一族景豊の謀反から朝倉宗家を救い、その功で敦賀郡司となる。以後、加賀の一向一揆を相手に戦い、あるいは近江、若狭、美濃と各地を転戦し、朝倉家の重鎮として晩年まで活躍する。1555年、79歳の老躯で総大将として加賀一向一揆と戦い、陣中にて発病、一乗谷にて亡くなった。彼についてはその死後、彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。
 
朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573
○長夜叉丸 孫次郎 延景 左衛門督 ◇父:朝倉孝景 室:細川晴元女、義種女、近衛前久妹、鞍谷刑部大夫嗣知女、斎藤兵部女 子:朝倉阿君丸、愛王丸 越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。
 
朝倉景鏡(あさくらかげあきら)? ?-1574
越前朝倉氏の一族。景職の孫。義景に従い、しばしば大将として、近江、美野などに出陣。1573年義景を裏切り、自害させ、織田信長に降る。1574年一向一揆と対立、敗死した。
 
朝倉景隆(あさくらかげたか)? ?- ?
越前朝倉氏の一族。しばしば、加賀一向一揆と戦う。
 
朝倉景建(あさくらかげたけ)? ?-1575
越前朝倉氏の一族。各地を転戦し、姉川の戦いで総大将。近江坂本では、森可成や信長の弟信治を討ち取る。1573年義景を助け奮戦するが、義景自刃後、信長に降伏。後、一向一揆と対立、配線の責任を問われて自殺。
 
朝倉景恒(あさくらかげつね)? ?-1570
朝倉氏の家臣。教景の孫。足利義昭を織田信長の下に送ったとき、警護した。1570年信長の越前攻めに際し、金ヶ崎城主として奮戦、開城後遁世した。
 
朝倉景連(あさくらかげつら) ?-1570
朝倉氏の家臣。氏景の孫。北陸方面の責任者として加賀一向一揆と戦う。一乗谷の奉行人を勤めた。
 
朝倉教景(あさくらのりかげ) 1477-1555
朝倉氏の一族。孝景の子。宗滴と号す。敦賀郡司。1506年越前一向一揆を鎮圧、加賀一向一揆を破る。1517年丹後、1525年近江、1527年京、1531年加賀に出陣、各地で活躍する。1544年には美濃斎藤氏と組んで、織田信秀を破り、1555年には上杉謙信と組んで、加賀一向一揆を破った。しかし、間もなく陣没。
 
朝倉義景(あさくらよしかげ) 1533-1573
越前一乗谷城主。朝倉孝景の子。足利義昭を迎えるも上洛の意思なく、義昭は信長の元に去り、信長に上洛される。後、浅井長政と組んで信長と争い、滅亡。
 
浅野長晟(あさのながあきら)? 1586-1632
浅野長政の次男。関ヶ原戦後、徳川家康に仕え、1610年備中足守、1613年兄幸長の死去後、紀伊和歌山藩主、次いで1619年安芸広島藩主。
 
浅野長政(あさのながまさ)? 1547-1611
浅野長勝の養子。妻は豊臣秀吉の正室おねの妹。豊臣五奉行の一人。甲斐府中城主。
 
阿佐比古命(あさひこのみこと)? 
記紀には登場しない。 記紀にて「天の岩戸」の場面などに登場する「経津主命」の御子神であり、下總國匝瑳(そうさ)郡の延喜式内社・老尾神社の祭神。 ちなみに下総国一之宮・香取神宮の祭神は経津主命。 経津主神は物部氏の最も主要な奉斎の神であり、物部氏の氏神と表現してもよい。 そして、経津主神を遠祖とする氏に関しては、歴代をあげる系図を伝えるのは下総の香取連くらいとのこと。 匝瑳郡唯一の式内社・老尾神社(匝瑳明神)の祠官家に香取連があること、香取・匝瑳両郡には玉作という郷村があることなどから、物部系の匝瑳連が奉じた神だと思われる。 老尾神社の「老尾」がいまの鎮座地・匝瑳市生尾に通じ、祭神を朝彦命あるいは阿佐比古命(いずれにせよ、麻比古で、安房忌部の祖・大麻比古に通じる)とすることから、原義は「生ひ麻(おひを)」とみられ、匝嵯も「狭布佐(さふさ。細い麻の義)」とみられます。 『下総国旧事考』には、老尾神社の祭神が朝彦命または苗加(なへます)命というと見えるそうで、「苗加命」とは香取連の系図に見える「苗益命」に当たります。 よって、香取神宮に「経津主命」を祀った物部系の氏族「香取連」と同系で、麻に関係の深い物部系の「匝瑳連」が、当地方の守護神として祀った神である。
 
朝比奈泰朝(あさひな  やすとも) ?- ?
今川氏の重臣。1568年武田信玄の駿河侵攻に際し、今川氏真に最後まで従い、相模小田原城に退去。
 
朝比奈泰朝(あさひな やすとも) 1538?~????
○左京亮 備中守 ◇父:朝比奈泰能 子:朝比奈泰基 駿河・今川氏重臣筆頭。遠江・掛川城主。桶狭間の合戦の時は、尾張・鷲津砦を攻略したが、当主義元戦死の報で撤退する。その後も今川氏の為尽力、氏真が駿府城を逐われると掛川城に迎えて戦った。今川氏が滅亡し氏真が相模・北条氏を頼ると、これに従い小田原に赴き、北条氏に仕えて働いた。その後、徳川氏臣酒井忠次に仕えたとも。
 
朝比奈泰能(あさひな やすよし) 1517~1557
駿河・今川氏重臣筆頭。父死後伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江・掛川城主となる。1548年小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣、尾張・織田氏に大勝した。桶狭間の合戦前には没したと思われるが、以後も書にその名は散見される。子泰朝との混同か。
 
旭姫(あさひひめ)? 
豊臣秀吉の異父妹。豊臣秀長と同腹の妹。父は竹阿弥 尾張の百姓家に嫁ぎ、夫は秀吉に取り立てられ佐治日向と名乗る 佐治日向没後に副田甚兵衛に嫁いだ。小牧・長久手の後に徳川家康を上洛させるため離縁され、家康に嫁いだ 家康上洛後に駿府城に住み、駿河御前と呼ばれた 大政所の看病のため上洛し、その後は駿府に戻らず翌年聚楽第で病死した
 
薊瓊入媛命(あざみにいりひめのみこと)? 
記・紀にみえる第11代垂仁(すいにん)天皇の妃。 垂仁天皇の皇后狭穂(さほ)姫が兄狭穂彦の謀反(むほん)に連座して自殺する前に、後宮にいれることを進言した丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)の5人の娘のひとり。 丹波道主命の5人の娘とは、第一が日葉酢媛、次に渟葉田瓊入媛、次に眞研野媛、次に薊瓊入媛、次に竹野媛である。 そして、日葉酢媛命を立てて皇后とし、また渟葉田瓊入媛、眞研野媛、薊瓊入媛を妃とした。唯、竹野媛は容姿が醜かったので本土に帰された。還されることを恥じて葛野の地に到着した時に輿より自ら堕ちて亡くなられた。その地を堕国と言う。今、乙訓と言うのは是が訛ったものである。皇后は五十瓊敷入彦命を生んだ。次に大足彦尊、次に大中姫命、次に倭姫命、次に稚城瓊入彦命を生んだ。 大足彦尊が第12代景行天王となる。 薊瓊入媛の生んだ「五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)は、垂仁天皇の皇子として越国(現在の北陸地方)の開発に尽力した。 ここまで読んで、薊瓊入媛は神様なのか? という疑問をお持ちの方も居るでしょう。 群馬県伊勢崎市の「大國神社(式内社)」のご祭神が大國主命なのですが、配祀されているのが「日葉酢媛命 、渟葉田瓊入媛命、眞砥野媛命、薊瓊入媛命、竹野媛命 」の五人の媛でした。
 
足柄之坂本神(あしがらのさかもとのかみ)? 
倭建命の東征のおりに登場する神々の一柱。 倭建命が足柄峠の頂上で、弟橋比売を思い起こし、「吾妻はや」と長歎息したという話の前後のことである。  命は足柄山の坂本というところに到着した。ここは東海道の古道で、のちにいう足柄道の宿場であり、現在は神奈川県南足柄市関本にあたる。一行がここで食事をしていると、一匹の白鹿が寄ってきた。命はそばにまつわる白鹿を、食べかけていた山蒜の片端で打ちつけた。これが白鹿の目にあたり、その場で死んだが、実はこの白鹿は足柄山の神(坂の神と『古事記』には書かれている)の化身であった。 (足柄山の神とはその地の酋長だろう、と「日本の神様読み解き事典」では解釈している。) そしてその坂の上に立って、三度ため息をついて「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と仰せられた。それで此の国を「阿豆麻(あずま)」という。  命は、この地を発って甲斐国に向かった。そして酒折宮で泊まったときのことである。 命はいささかの疲れと寂莫を感じつつ、 「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」 と詠われた。そのとき、篝火を焚いて夜警に任じていた一人の翁が、 「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」 と即座に次いだ。 命はこの美事な対応をことのほか歓び、翁を東国造にした、と『古事記』にある。 一方で、神奈川県南足柄市苅野にある足柄神社の社伝によると、 「日本武尊が足柄峠を越えようとしたとき、樹木や草が生い茂り、前に進むことが出来ず、道に迷っているときに、白鹿が導くように尊の前方を走ったので、その白鹿に従って進み、ついに難所の足柄峠を越えることができたといい、この白鹿は神霊の化身と考え待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている」とある。 但し、このお宮の祭神は瓊瓊杵尊と日本武尊である。 『古事記』では、日本武尊に抵抗した神となっているが、地元のお宮の社伝では日本武尊を助けた良い神となっている。
 
阿遅 高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿治志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅 高日子神(あじしきたかひこのかみ)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須枳高日子(あじすきたかひこ)? 
この神を阿遅 高日子根神と同神とする説もある。 記紀には阿遅 高日子根神しか登場せず、阿遅須枳高日子は『出雲国風土記』にしか登場しない。 出自を見ると、両神ともオオアナムヂ(=大国主命)と妻の筑紫のタキリビメ(多紀理比賣)の間に誕生したとある。 しかし両神の伝承の内容を見ると、まったく違うので私は別々に挙げておく。 以下の記事は、主として山陰中央新報社の「神話のふるさと」に拠りました。 アジスキタカヒコの名は「立派な鋤を持った高く輝く太陽の子」の意味で、土地を切り開く農業の神や金属の神と考えられてきた。 『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条で、葦原中つ国の国造りを成し遂げたオオアナムヂの御子神で、言葉が話せないアジスキタカヒコ(阿遅須枳高日子)が、聖水を浴びることで災厄をはらい落とすという神話が登場する。 風土記によると、アジスキタカヒコは、顎ひげが長く伸びる大人になるまで昼夜を問わず泣き続け、言葉が話せなかった。そこで、オオアナムヂが泣くわけを知りたいと祈ると、御子神が言葉が話せるようになった夢を見た。夢からさめて御子神に言葉をかけると、その時、初めて 「御沢」と言った。オオアナムヂが場所を尋ねると、アジスキタカヒコは石の多い川を渡り、坂を上った所で止まり「ここです」 と言った。そこに湧き出ている泉で水を浴び体を清め、もろもろの災いのもとを洗い流したので健康な身となった。 この故事から、出雲国造が新任の際、天皇の治世を祝福する神賀詞を奏上するため上京する時は、ここの水をみそぎ初めの水に用いる、と伝える。 この 「御沢」の候補地は三カ所。島根県奥出雲町三沢の三津池と同町三沢の三沢池、雲南市木次町平田の前の舞の古井だ。 要害山三沢城跡保存会会長で三津池と三沢他の双方を清掃し研究する田部英年さんは、「御沢」の候補地三カ所とも、同町三沢に鎮座しアジスキタカヒコを主祭神とする三沢神社を取り巻くように位置することを指摘。「三つのどれかが神話の舞台になったのは間違いないだろう」と話す。 風土記にアジスキタカヒコは、意宇郡や楯縫郡などの五カ所に名が記され、祭神とする阿受伎社などが三十九社もみられる。 神門郡の高岸郷にも、昼夜となくひどく泣くので、オオアナムヂが高い家を建ててはしごをかけ、それを上ったり下りたりして育てた、と出てくる。  風土記研究者の故加藤義成さんは「出雲国風土記参究」 で、三沢郷の神話の裏に、仁多郡産の優秀な鉄を使い農具や利器を作る際、清浄な泉の水で身を清めた厳粛な姿を想起。アジスキタカヒコが高岸から三沢に上った伝承を「製鉄指導者が斐伊川を上って来た面影をしのばせるものであろう」 と推測する。  民俗学者の谷川健一さんも「出雲の神々」で風土記に記されている仁多郡の鉄に注目し、言葉を話せないアジスキタカヒコを「鉱毒により職業病になやまされたたたら師たちのことを暗示している」と考察している。
 
味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)? 
記・紀にみえる神。 大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子。天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき弔問にいったところ,顔がにているため死者が生きかえったとまちがえられ,おこって刀をぬいて喪屋をきりたおしたとつたえる。岐阜県美濃市の喪山はこの喪屋という。「古事記」では阿遅志貴(あじしき)高日子根神。 ---- 『古事記』『日本書紀』や『風土記』にみえる神で大国主命の子。『古事記』では阿遅志貴高日子根神と記す。記紀では友人の天稚彦の葬儀に訪れたとき,その家族から死者が生き返ったと勘違いされたことに怒り,葬儀の建物を切り倒して足で蹴とばし,そのまま飛び去ってしまった。そのとき,ふたつの谷に渡るほど長大な姿で光り輝いたという。また『出雲国風土記』は髭が長く伸びるほどに成長しても,昼夜を分かたず泣いていた(言葉を話さない)と伝える。これらの話のうち,建物を壊して飛び去ったり,いつまでも言葉を話さないというのは雷神としての性格の表れと考えられている。また,ぴかぴか光る長大な姿というのは正体が蛇であることを示しており,神名の「あじすき」は切れ味の良い金属製の鋤(農具)に由来する。これらはいずれも雷と縁のあるもので,この神が農耕の守護神たる雷神であることを示している。 ---- 日本神話にあらわれる神の名。アジスキはアジシキ(シキは (すき)の音転)ともいう。立派な の,高く輝く太陽の子の神の意。《播磨国風土記》には を占居神としてまつる話を載せる。大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たきりびめのみこと)の子。記紀神話では天稚彦(あめわかひこ)の喪を弔い,容貌の類似から遺族に死者と誤られ,それに怒って天に飛び去る。これは雷神の表象である。奈良県御所(ごせ)市高鴨神社にまつり,葛城迦毛大神(かつらぎのかものおおかみ)ともいう。 ---- 大国主命の子。母は田霧姫命(たぎりひめのみこと)で、古事記、日本書紀、出雲国風土記などにみえる。奈良県御所市の高鴨神社の祭神。迦毛大御神(かものおおみかみ)。高賀茂大神。
 
阿泥素企多伽避顧禰神(あじすきたかひこねのかみ)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)? 
雷神、農業神  鋤という文字からも連想されるとおり、阿遅鋤高日子根神は農業の神である。あの大国主命を父に持つという点から見ても、それは間違いあるまい。また、穀霊の天若日子神と非常に親しい友人であったという点も見逃せない。 天若日子神が死んだときに、わざわざ天上から地上に弔問に訪れるほどであったという。そのときに死者と間違われて非常に怒ったという話が残っている。その話は天若日子神を参照していただくとして、重要なのはこの2人が非常によく似ているという点だ。なにしろ実の父や妻でさえも見間違えるというのだから相当だ。  神話において、姿形の似ている神というのは、その神としての性質もよく似ていることが非常に多い。この2神の場合は、生者が死者と間違われるという点で、本質的な同一神であることを示す象徴性が感じられる。つまり、この2神はいずれも穀霊だということである。そこから、この話は一般に穀物の死と再生という農民の信仰がもとになったものと考えられている。また、この話の中で生者の立場をとる阿遅鋤高日子根神は、春に芽を出してすくすくと育つ生命力を象徴していると言えるだろう。  古代において、鋤という道具は、単なる道具である以上に田の神を祀るときの呪具としても用いられた。阿遅鋤高日子根神の字を見ても分かるとおり、もともとはこの鋤を御神体とする農業神として祀られたものであろう。さらに、「日本霊異記」の道場法師のエピソードに興味深いものがある。昔、農夫が畑で鋤柄の金杖を持って立っていると、突然雷雨が襲ってきて彼の前に落雷した。そのあとを見ると頭に蛇を巻き付けた奇妙な姿をした子供が立っていた。その子供は、後に元興寺の童子となり、出家して道場法師と名乗った。そして、元興寺の田が渇水に悩まされていたときに鋤柄の杖を水門の口におき、たちまち田に水を引き入れたという。  この話は、鋤が神霊の依り代と考えられていたことを如実に物語っており、この鋤に宿る神霊は雷神(=水の神)である。道場法師の出現とその霊力の発揮は、農耕を助ける鋤と雷神の霊力を結びつけたものといえる。このような文献が残っているくらいだから、鋤と雷の密接な関係は農民の間でもかなり一般的な信仰としてあったのだろう。  阿遅鋤高日子根神は本来は穀霊であるが、この穀霊がすくすくと成長するためには雷(水の神)との密接な結びつきは欠かせないものである。稲の無事な成長を願う農民は鋤と雷が通じ合うことを切実に願った。そういった信仰から、次第に阿遅鋤高日子根神は雷神を呼ぶ神、ひいては雷神と同様の霊力を発揮する農業神として信仰されるようになったのであろう。 ---- 大国主神が胸形三神の奥津宮に坐す多紀理毘売命を娶って生れた御子が、阿遅鋤高日子根神と、その妹神・高比売命(下光比売命)。 阿遅鋤高日子のまたの名を迦毛大神。 迦毛は鴨・賀茂であり、『姓氏録』に「賀茂朝臣、大神朝臣同祖、大国主神之後也」。 『続日本紀』に、「高鴨神」が大和の葛城山で、大泊瀬天皇(雄略天皇)と獲物を争い、 怒った天皇は、高鴨神を土佐に流したとある。 高鴨神は、はじめ、幡多郡の賀茂社へ流され、次いで土佐神社へ移り祀られた。 天平宝字八年(764)、高鴨神は、加茂朝臣田守を遣わして、大和国葛城へ復祀した。 この高鴨神を阿遅鋤高日子根神とする説がある。 『出雲国造神賀詞』に、大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を「葛城」に、 事代主命を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。 妹神・下光比売命は、天若日子の妻。阿遅鋤高日子神は天若日子と非常に似ており、 天若日子の死に際し天若日子の親族により間違われて騒動が起きた。
 
味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)? 
農業神。武神。賀茂大神。
 
阿遅須伎高日古尼命神(あじすきたかひこねのみこと)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須伎高孫根乃命(あじすきたかひこねのみこと)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須岐高日古尼命(あじすきたかひこねのみこと)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須岐高孫根乃命(あじすきたかひこねのみこと)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)? 
阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)は所造天下大神(大国主)の子であり、『記紀』に登場する阿遅鋤高日子根神(アヂスキタカヒコネ)と同神とされ、葛城の賀茂氏の祖神であるとも云われている尊い神とされています。 なお、『古事記』では天照大御神(アマテラス)と並んで「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と称され、アマテラスの他に端から「大御神」と称された唯一の神です。 『古事記』においては、大国主神(オオクニヌシ)と宗像三女神の一柱である多紀理毘売命(タキリビメ)の間に生まれたとされ、同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)が居るとされています。 『記紀』においては「葦原中国平定」に登場し、そこでは高天原から遣わされてタカヒメと結婚したアメノワカヒコと親友となったとされていまが、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコと容姿が酷似していたとされています。 『出雲国風土記』においては妻子や幼少期の説話も記されており、そこでは『記紀』に見られるスサノオや垂仁天皇の皇子・譽津別王(ホムツワケノミコト)の説話に類似した内容が見られます。 →阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅須伎神(あじすきのかみ)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
蘆名盛氏(あしな もりうじ)? 1521~1580
会津・蘆名氏16代当主。会津黒川城主芦名盛舜の子。領内の反乱を治め、会津盆地を平定し、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。
 
蘆名盛舜(あしな もりきよ)? 1490~1553
兄民部少輔盛滋に当時子がなかった為、その跡を継いで会津・蘆名氏15代当主となる。一族猪苗代氏が謀反を起こした時、これを鎮めて打ち倒す。陸前・伊達稙宗の葛西氏攻略に協力して勢力を拡張した。
 
蘆名盛重(あしな もりしげ) 1576~1631
11歳で後嗣絶えた会津・蘆名氏に迎えられて20代当主となるが、家臣の内訌が続いた。その為、1589年摺上原の戦いでは、離反者を出して陸奥・伊達氏に敗れ、常陸・佐竹氏に戻る。翌年、豊臣秀吉から、常陸・江戸崎に4万5千石を得るが、関ヶ原の戦い不参加の為に、徳川家康より所領没収された。以後兄義宣に従い、秋田にて56歳で没。
 
足名椎命・手名椎命(あしなづちのみこと・てなづちのみこと)? 
川越氷川神社の祭神です。 氷川神社なので、当然主祭神は素盞鳴尊ですが、加えて脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)。さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神である奇稲田姫命。そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫の大己貴命(おおなむちのみこと)の五柱の神様が祭神となっています。 『古事記』では「足名椎命」・「手名椎命」と表記、『日本書紀』では「脚摩乳尊」・「手摩乳尊」と表記する。 『古事記』の記述で、「天照大御神と須佐之男命」の巻の「八俣の大蛇」を、長いですが<読みくだし文>でみましょう。 「かれ避追(やら)はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。この時、箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋ね覓ぎ上り往きたまへば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣けり。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまひき。かれ、その老夫答へ言さく、「僕は国つ神大山津見神の子なり。僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が名は櫛名田比売と謂ふ」とまをしき。  また「汝の哭く由は何ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「我が女は本より八稚女ありしを、この高志の八俣のをろち年ごとに来て喫へり。今そが来べき時なるが故に泣く」とまをしき。ここに「その形は如何に」と問ひたまへば、答へて白さく、「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿と檜・椙と生ひ、その長(たけ)は谿八谷・峡八尾に度りて、その腹を見れば悉に常に血に爛れたり」とまをしき。 ここに赤かがちと謂へるは、今の酸醤(ほおずき)なり。 ここに速須佐之男命、その老夫に詔りたまはく、「この汝の女は、吾に奉らむや」とのりたまへば、「恐し。また御名を覚らず」と答へ白しき。ここに答へて詔りたまはく、「吾は天照大御神のいろせなり。かれ、今天より降りましぬ」とのりたまひき。ここに足名椎・手名椎白さく、「然坐さば恐し。立奉らむ」とまをしき。ここに速須佐之男命、すなはちゆつ爪櫛にその童女を取り成して、御みづらに刺して、その足名椎.手名椎神に告りたまはく、「汝等八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八門を作り、門ごとに八さずきを結ひ、そのさずきごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待て」とのりたまひき。 かれ、告りたまひし随(まにま)に、かく設け備へて待ちし時、その八俣のをろちまことに言の如来つ。すなわち船ごとに己が頭を垂れ入れて、その酒を飲みき。ここに飲み酔ひて留まり伏し寝ねき。ここに速須佐之男命、その佩かせる十拳剣を抜きて、その蛇(をろち)を切りはふりたまひしかば、肥河血に変りて流れき。かれ、その中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀(か)けき。ここに恠(あや)しと思ほして、御刀の前もちて刺し割きて見たまへば、都牟羽の太刀あり。かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀なり。  かれ、ここをもちてその速須佐之男命、宮造るべき地を出雲国に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまはく、「吾ここに釆て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮を作りて坐しき。かれ、そこは今に須賀といふ。この大神、初め須賀宮を作りたまひし時、そこより雲立ち騰りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。その歌に白はく、     八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を (一)  ここにその足名椎を喚びて、「汝はわが宮の首に任けむ」と告りたまひ、また名を負せて稲田宮主須賀八耳神と号(なづ)けたまひき。」 要約すると、アシナヅチはオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。 スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。
 
飛鳥井家(あすかい)? 
飛鳥井家  羽林家 旧家 内々    928石 藤原氏北家師実流難波支流 伯爵 居所・日御門通北行当り(京都市上京区)
 
阿須波神(あすはのかみ)? 
「座摩巫祭神五座」のうちの一柱の神 延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神(いかすりのみかんなぎにまつるかみ)五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。 平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。座摩神はそれらのうち座摩巫(いかすりのみかんなぎ、坐摩巫)によって祀られた神々である。 「いかすり」は「居処領(いかしり)」または「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる。生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々であるが、井泉をもって宮殿の象徴とする様は『万葉集』の「藤原宮御井歌」にも見える。波比祇神・阿須波神については具体的には明らかでないが、宮中の敷地を守る神々とされる。『古語拾遺』では、これら座摩神を「大宮地の霊(おおみやどころのみたま)」と記している。 座摩神について『延喜式』では祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞・神名帳に記述が見えるが、いずれも大御巫8神に次ぐ2番目に位置づけられている。また『延喜式』臨時祭の御巫条・座摩巫条によると、他の御巫は庶民から選んで良かったのに対して、座摩巫だけは都下国造一族の7歳以上の女子から選ぶと規定されている。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、宮中神36座のうちに「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」として、大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている。 座摩神含む神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかしながら、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。 宮中諸神では、大御巫の祀る8神の祭祀は神殿(宮中三殿の1つ)に継承されているが、座摩神含む他の諸神もこの神殿の「天神地祇」のうちに含まれると考えられる。 阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。
 
阿多盛淳(あた もりあつ) ????~1600
薩摩・島津氏家臣。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がす為義弘を名乗って、追いすがる東軍井伊、藤堂、朽木勢と戦い討ち死にした。
 
安宅清康(あたぎ きよやす) ????~1581
阿波・三好氏一族。1578年兄信康の死により家督を継ぐ。安芸・毛利氏に和する動きを見せたことから、織田信長の攻撃を受け、1581年信長臣羽柴秀吉の攻撃を受けて開城降伏。信長を安土に訪れ、帰国後病死した。
 
安宅信康(あたぎ のぶやす) 1549~1578
三好三人衆、石山本願寺と結び、織田信長と戦うが、1575年敗れて帰順。その後、織田氏の水軍の将となり、1577年安芸・毛利氏の水軍と戦う(第1次木津川口の合戦)。
 
安宅冬康(あたぎ ふゆやす) 1528~1568
元は紀伊・安宅荘に興った淡路水軍安宅氏一族。阿波・三好氏一族とも、安宅氏から三好氏に入嗣後に復姓したとも言われ、定かでない。安宅水軍を統括して淡路海域の制海権を抑えると共に、和泉・岸和田城にも進出して、陸海戦共に兄三好長慶の畿内制圧を助けた。だが、重臣松永久秀の讒言により、長慶から謀反を疑われ、河内・飯盛城に誘殺された。和歌を嗜み、書を能した教養人でもあった。
 
阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)? 
友人である天若日子の喪を弔いに出向いた際、阿遅志貴高日子根の容貌が天若日子と酷似しており、天若日子の親族から天若日子と間違われたため怒って喪屋を破壊し、飛び去った。 アヂは可美(ウマシ)の意の美称、スキは 、タカヒコネは敬称、農具を神格化した名という。一方、アヂを味鴨、スキを村の意の朝鮮語と見る説、アヂを多数の意、スキを刃の意味と見る説もある。シキの場合は石木、石城、或いは大和国の地名とも。シキとスキの関係にも、音の交替説、またキの甲乙違いで別語とする説があり、名義ともに一定しない。神格としては、農耕神・水神・蛇神・雷神・剣神など諸説ある。出雲系の神とされるが、記に「迦毛大御神」、出雲風・意宇郡に「坐葛城賀茂社」、祝・出雲国造神賀詞に「葛木乃鴨乃神奈備尓坐」、神名式・大和国葛上郡に「高鴨阿治須岐託彦根神社四座」とあり、この神の本縁は大和国葛城地方、鴨氏の祭神と思われる。「大御神」は、記では他に「天照大御神」、「伊耶那岐大御神」、「伊勢大御神宮」に用いられるのみであり、記の神への敬称・尊称としては最高のものであり、この敬称をこの神が持つことは、この神とこの神を祭った氏族との、ある時期における勢力の強大さを物語っているとする説、出雲風・意宇郡に神戸が賀茂の阿遅須枳高日子命のために設置されているとしており、大和王権において極めて重要な神であったことと呼応しているという説が存在する。 →阿遅鋤高日子根神
 
阿泥素企多伽避顧禰(あぢすきたかひこね)? 
→阿遅鋤高日子根神
 
阿遅 高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)? 
古事記』では阿遅 高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名、迦毛大御神(かものおおみかみ)。 『出雲国風土記』に登場する阿遅須枳高日子(あじすきたかひこ)を同神とする説もあるが、両神の伝承の内容を見ると、まったく違うので私は別々に挙げておく。 大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。 農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)、鴨神社(岡山県玉野市長尾)などに祀られている。 別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。 『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。 神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。 『古事記』では、葦原中国平定において登場する。 天照大御神から葦原中国平定を二番目に命じられた天若日子が、大国主神の娘下照比賣と結婚してしまい復命しない。そして高木神の返し矢で天若日子は死んでしまう。 それに続く話である。 (現代語訳) さて天若日子の妻の下照比賣の泣く声が、風の吹くにつれて響いて天上に届いた。そこで天上にいる天若日子の父の天津国玉神神や、その妻子がこれを聞いて、降って来て泣き悲しみ、やがてそこに喪屋を作り、川雁を食物を運ぶ係とし、鷺を掃除係の箒持とし、翡翠を御饌の係とし、雀を米つき女とし、雉を泣き女とし、このように葬儀の役目を決定して、八日八夜の間歌舞して死者を弔った。 そのとき、阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子の喪を弔問するとき、天上から降って来た天若日子の父、またその妻がみな泣いて、「わが子は死なずに生きていたのだ。わが夫は死なずに生きておられたのだ」と言って、手足に取りすがって泣き悲しんだ。 このように阿遅志貴高日子根神を、天若日子と間違えたわけは、この二柱の神の顔や姿がたいへんよく似ていたから、それで間違えたのである。そこで阿遅志貴高日子根神はひどく怒って言うには、「わたしは親しい友だちだから、弔問にやって釆たのだ。なんだってわたしを汚らわしい死人に見立てるのか」と言って、身につけておられた十拳剣を抜いて、その喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。これが美濃国の藍見河の川上にある喪山という山である。そのとき手にして喪屋を切った大刀の名は大量(おおはかり)といい、またの名は神度剣(かむどのつるぎ)という。そして、阿遅志貴高日子根神が怒って飛び去ったとき、その同母妹の高比売命は、兄神の御名を明かそうと思った。そして歌った歌は、天上にいるうら若い機織女が、頸にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つを越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根神である。 歌った。この歌は夷振(ひなぶり)の歌曲の歌である。
 
小豆島(あづきしま)? 
「国生み」から生まれた国 淡路島の西にある小豆島
 
阿閉貞大(あつじ さだひろ)? ????~1582
もと浅井氏の臣。 1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を攻める先手を命じられたのに、信長に遅れをとってしまい、厳しく叱責される。 1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。 1578年8月信長主催の安土の相撲に奉行として参加。永田正貞・阿閉貞大の強力を聞き及んでいた信長は二人の相撲を所望。まず堀秀政・蒲生賦秀・万見重元・布施公保・後藤高治と対戦した後二人で対戦し、永田の勝ちとなる。 1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに甲賀口先手として参戦。 1582年の本能寺の変後明智光秀に与力し、長浜城を攻撃。光秀の死後居城の山本山城を宮部継潤・中村一氏に包囲され、捕らえられ殺される。
 
阿閉貞征(あつじ さだゆき)? ????~1582
阿閉氏は京極氏被官であったが、北近江の実力者浅井氏に台頭を見てこれに臣従する。貞征は姉川の合戦では第3陣として戦っている。しかし浅井氏は敗れ、落目となっていく中、尾張・織田氏家臣木下秀吉の諜略を受けこれに寝返った。浅井氏滅亡後は織田氏家臣明智光秀の部将となり、山崎の合戦では先鋒の一手を担ったが敗戦、一族共に殺された。
 
熱田大明神(あつただいみょうじん)? 
熱田大神
 
熱田大神(あつたのおおかみ) 
三種の神器の1つ草薙剣の神霊、剣神、戦神。 熱田大神は、三種の神器のひとつである草薙剣を祀る熱田神宮の祭神である。 草薙剣についてはその項を参照していただくとする。しかし神話研究では、本来三種の神器の宝剣と熱田の御神体とは別々のもので、あとから日本武尊の伝承が付け加えられて混同されるようになったとも考えられている。 草薙剣が熱田大神として祀られるようになった経緯は、「古事記」に次のように記されている。 日本武尊は父、景行天皇の命を受けて東国討伐に出かけることになり、その前に伊勢神宮に参拝した。そこで斎王となっていた叔母の倭姫(ヤマトヒメ)から授かったのが草薙剣だった。やがて無事東国を平定して尾張国まで戻ってきた日本武尊は、そこで尾張国造の娘、宮簀姫(ミヤズヒメ)と結婚した。その後、姫に大事な護身の剣を預けて伊吹山の邪神を退治に出かけるが、逆に邪神の毒気に当たって病気になり、無念の死を迎えてしまった。それを悲しんだ宮簀姫は、尾張一族の祭場だった熱田の地に社を建て神剣を祀ったという。 さて、このことに関して、「尾張国風土記」逸文には、次のように記されている。 日本武尊が宮簀姫と結婚し、その館に泊まった夜、草薙剣が不思議な輝きを放っているのを見る。それで剣の神気を感じた尊は、姫に対して「この剣を大切に祀って私の御影としなさい。」と言った。その言葉に従って、姫は尊の亡き後社を建ててこの剣を祀ったのだという。 この逸文の中心的なテーマは日の御子と熱田神宮を代々奉祀した尾張氏の祖である宮簀姫との神婚だ。神婚というのは、神とそれに奉仕する巫女との結婚であるから、宮簀姫というのは尾張一族が奉斎した太陽神に仕える巫女だったと考えられる。ということは、熱田の地でもともと祀られていたのは、伊勢と並ぶ有力な太陽神だったのである。 また、この太陽神と草薙剣については、尾張国と皇室との結びつきを表すともいえる。皇室の支配を象徴する草薙剣と尾張の太陽神の結合、神格化は、尾張の有力な地方神が大和朝廷を支える重要な神となったことを指す。以来、皇室に重く崇敬されることになり、熱田大神は伊勢神宮に次ぐ由緒を持つことに至ったのである。熱田大神が草薙剣を御霊代とする天照大神であるという説があるのも、この神が持つ太陽神としての性格の故である。 太陽神というのは、本来農業の神であるわけだが、剣の神というのは戦神である。熱田大神はその両方の性格を兼ね備えているわけだが、今日、一般に信仰されている神様としての機能は、戦神日本武尊の性格を反映した部分だけのようである。
 
安並和泉守(あなみ いずみのかみ) ????~????
土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆の攻撃をうけて奮戦するも討たれた。
 
淡道之穗之狹別島(あはぢのほのさわけのしま)? 
「国生み」から最初に生まれた国、淡路島のことです。
 
阿部家(あべけ)? 

 
安部家(あべけ)? 
***安部家(岡部藩) [#teec4afa]
 
天合尊(あまあい)? 
第3世独天神
 
尼子(あまご) 

 
尼子元知(あまご )? ????-1622

 
尼子興久(あまご おきひさ) 1497~1534
出雲・尼子氏一族。武に優れ、父をよく扶けた。やがて父より西出雲の要衝塩冶3千貫を任されるが、これを不服として重臣亀井秀綱を通じ、さらに加増を要求。しかし認められなかった為、秀綱が讒言したものと思ってこれを討とうとし、秀綱を庇う経久と衝突する。結局敗れて、叔父の備後・山内大和守直通の下へ逃亡し、やがて自害に追い込まれた。その首を見た経久は怒りを忘れ悲しんだという。
 
尼子勝久(あまご かつひさ) 1553~1578
出雲・尼子氏新宮党誠久五男。新宮党が当主晴久と対立して謀殺された時、匿われ京・東福寺の僧となった。しかし、尼子氏が安芸・毛利氏に滅ぼされると、山中幸盛らの旧臣に擁されその再興を図る。織田信長の支援を受け毛利氏宇喜多氏を攻め、播磨・上月城を攻略した。その後、信長による戦線の転換により、上月城からの撤退を命ぜられるが、これを拒否。毛利氏の猛襲の前に敗れて降伏、自害した。
 
尼子清定(あまご きよさだ) 1410-1477
応仁の乱以来の国内反乱を鎮圧、出雲東部一帯に尼子氏の支配権を確立する。後年京極氏からの自立を図るようになるが、その晩年は定かではない。
 
尼子国久(あまご くにひさ) 1492?~1554
一時期塩冶氏に入るがやがて戻る。新宮党初代。国久の一族はその居・新宮谷から新宮党と呼ばれ、家中一の剛勇の集団として中枢を担い、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献する。しかし、新宮党の台頭を恐れた当主晴久と不和になった。これに乗じた安芸・毛利氏の謀略を受け、毛利氏に内通した疑いで誅殺され、新宮党は滅ぼされた。
 
尼子敬久(あまご たかひさ) ????~1610
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし新宮党の武力を恐れる安芸・毛利氏の謀略により、新宮党と不和であった当主晴久に、居を襲われ滅ぼされた。
 
尼子高久(あまご たかひさ) 1363-1391
近江の守護大名・京極氏の一族。 はじめて近江尼子郷に住み、尼子氏を称した。尼子氏初代。  尼子高久は、尼子氏の初代であり、近江(滋賀県)の大名・京極高秀の子です。高秀の嫡男は高詮といい、これが京極氏を継ぎますが、高久はその弟にあたります。  京極氏は、宇多天皇を祖とする佐々木氏の庶流で、近江の北半分を領していました。南半分はおなじく佐々木一族の六角氏が治めていました。  高久は、父・高秀より領地として尼子郷を与えられ、この地に住みます。そして在地名をとって尼子を名乗り、備前守を称しました。  高久が尼子郷を領したのには、次のようないきさつがありました。  高久の祖父で、バサラ大名として知られる京極高氏(道誉)は、康安四年(1345)、戦功の賞として将軍・足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられます。この甲良荘に尼子郷があり、これを高久(秀久)に与えるように置文を残し、世を去りました。  高氏には長男・秀綱、次男・秀宗、三男・高秀と、3人の子がいました。  しかし長男、次男とも高氏に先だって相次いで死亡し、残る高秀とは確執を深めるなど、不遇の晩年を過ごしたと言われています。  跡を継いだ高秀は、内訌をさけたのか、それともひとかどの人物であったのか、ともかく父のこの置文を守ります。そして応永五年(1398)、高詮の代にいたって高久に尼子郷を給与されます。  このとき高久に与えられた領地は、尼子郷のほか、出雲国大原郡(島根県雲南市)の一部も含まれていたと言われています。 ●尼子氏発祥異説  一般には上記ごとく高久こそが尼子氏の初代であるとされていますが、『羽衣石南条記』という書物によれば、尼子氏は塩冶高貞を祖とする、ということになっています。  どういうことなのか、くわしく見てみましょう。  塩冶高貞は京極氏・六角氏と同じく佐々木氏の一族です。  高貞は足利尊氏に仕えて室町幕府成立に貢献し、出雲国守護に任じられました。ところが、尊氏の執事・高師直と不仲になったために讒言され、山名時氏によって討伐されてしまいます。  『南条記』によると、高貞の嫡男はこのとき高貞とともに死にましたが、次男はひそかに逃れ、長じて南条貞宗を名乗ったとされています。  さらに、この貞宗の三男・経時を「尼子経時」とし、その子孫が尼子経久である、と記されているのです。  つまりこの説によれば、尼子氏初代は高久ではなくて経時、ということになります。  さらに、興味深いのは『出雲私史』に出てくる記述です。  この史料では、『南条記』の記述と同じく塩冶高貞の次男は山名時氏の追っ手を逃れます。彼は楠木正成の子・正行にひきとられ、その後、出雲国守護となった山名氏の庇護を受け、元服して玄貞を名乗ります。  そして玄貞はやがて近江に赴いて京極高秀のもとに身を寄せ、人々から『出雲殿』と呼ばれた、とあるのです。  『出雲私史』にはちゃんと尼子高久が登場しますが、強引に解釈すれば玄貞=高久という説も出てきます(ホント強引かも)。  これらの説の信憑性はあまり高くないと思われるので、ここでは異説もある、ということだけを述べるにとどめておきます。  が、この異説どおり、出雲にゆかりの塩冶氏の家系が出雲に返り咲いたとすれば、なかなか興味深いものがありますね。
 
尼子経久(あまご つねひさ) 1458~1541
出雲守護代尼子氏当主。出雲月山富田城主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ一代で“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。大内家との戦いの最中、死去。
 
尼子倫久(あまご ともひさ) 1546-1623
出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。やがて許されて、毛利氏に仕え、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加し、その後は僧となった。
 
尼子豊久(あまご とよひさ) ????~1548
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし、橋津川の合戦で戦死。
 
尼子晴久(あまご はるひさ) 1514~1560
尼子経久の孫。 父政久は早くに戦死しており、祖父経久に従い、緒戦に活躍。1537年家督を譲られた。将軍足利義晴より諱を受け晴久と名乗る。舅国久率いる新宮党に援けられ、山陰を中心に8ヶ国に勢力を伸ばすが、やがて新宮党を疎ましく思うようになる。結果、安芸・毛利氏毛利元就の謀略に乗せられ、新宮党を滅ぼしてしまい、自ら力を弱め、尼子氏の弱体化を招いた。その後も毛利氏相手に奮闘したが、48歳で病死した。
 
尼子久幸(あまご ひさゆき) 1473-1541
出雲・尼子氏一族。智勇に優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続に賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸・毛利氏が離反して周防・大内氏に与した時、これを攻めようとした当主晴久に反対し諫めたが聞き入れられず、むしろ“臆病野洲”と罵られた。結果毛利氏の郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め、最期は“臆病野洲の最期を見よ”として敵中突撃のうえ討死したという。 「尼子氏が毛利家の本拠・吉田郡山城を攻めた「郡山合戦」で討死した尼子家の重臣で,兄はかの有名な尼子経久ですから,重臣中の重臣といえます。 経久が1537年に若い孫の詮久(晴久)に家督を譲ると,補佐役に任じられたとかで,そもそもこの時期に毛利家を攻めることに久幸は反対だったとか。 経久かた詮久(晴久)への代替わりの直後だけに,もう少し毛利周辺の安芸・国人衆を固めてからでも遅くないとの考えもあったのではないでしょうか。 結局,郡山合戦は大内氏が毛利を支援したこともあり失敗。撤退戦の混乱の中で討死し,この地に埋葬された。
 
尼子秀久(あまご ひでひさ) ????~1609
出雲・尼子氏一族。当主である兄尼子義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて以後、佐々木氏を名乗って毛利氏に仕えた。
 
尼子政久(あまご まさひさ) 1488~1518
出雲・尼子経久嫡男。武勇、思慮に長けた智勇兼備の将として、父経久の期待は大きかった。又軍略のみならず、詩歌管弦にも高い評価を得ており、花実相の大将と評された。1518年出雲・麻石山城に籠城する桜井宗的を囲んで兵糧攻めにした際、厭戦を慰労し、城兵の士気低下を図るため、宴を催して政久自身も得意の笛を吹いていたところ、笛の音めがけて放たれた矢が見事に政久に命中、31歳の若さで亡くなったという。61歳の経久はこれを聞き、“瞋れる眼に紅の涙流し”深く悲嘆したという。尚、この後経久は麻石山城の強襲を命じ、宗的は自害、城兵は皆虐殺された。
 
尼子誠久(あまご まさひさ) ????~1554
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の中心として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし己の武功を誇り、傍若無人な振る舞いが目立った為、同僚の反感を買う。また、新宮党内の内訌もあって、やがて新宮党は当主晴久に滅ぼされる。誠久もその際殺された。
 
尼子持久(あまご もちひさ) 1381-1437
京極高詮の命で、出雲国守護代となる。雲州尼子氏初代とされる。  尼子持久は、高久の子にあたります。  高久には二人の子がおり、長男は詮久(満秀)、次男が持久です。持久は上野介を称しました。  『佐々木系図』には、注として長男・詮久を「江州尼子」、次男・持久を「雲州尼子」と記述してあります。このことから、詮久が近江の本領を継ぎ、持久が出雲国にはいったことがわかります。  つまりこの持久が雲州尼子氏の祖となるのです。  持久は、京極氏の守護代として出雲に入国しました。  京極高詮が、明徳の乱(1391)によって没落した山名氏に代わって出雲・隠岐の守護に任ぜられましたが、高詮は自らは赴任せず、持久に任せたのです。  室町時代、多くの守護大名は、このように自らは任地に赴任せず、守護代を置いて領国を治めていました。  京極氏もこの例に漏れなかったわけですが、京極氏の場合、室町幕府の侍所所司といった要職にあったため、赴任したくても赴任できない、という事情もあったようです。  ただ、高詮と他の多くの守護大名との違いは、諸大名が任地の有力国人(豪族)を守護代に任じていたのに対し、高詮は自分の一族を守護代として送った、ということです。  隠岐には左衛門尉清泰、出雲には、はじめ隠岐五郎左衛門、のち尼子持久を守護代として送った、とされています。  高詮が、このように一族を守護代に送ったのには、理由がありました。  かつて、高詮の祖父・高氏も出雲国守護を任じられたのですが、このときは在地の国人・吉田厳覚という者をあてて守護代としました。  ところが、出雲は本拠・近江から離れていることもあり、出雲までは京極氏の影響力は及びにくく、また出雲地方は寺社領などが複雑に入り組んだきわめて治めにくい土地であったため、守護代・吉田厳覚の力だけではどうしても支配力が弱かったのです。  そのために隣国の山名氏の侵入を許してしまい、出雲は山名氏に抑えられてしまいました。  この苦い経験を繰り返さないためにも、京極氏の存在を出雲に浸透させる必要性がありました。そのために自分の一族を守護代にあてることになったのです。  なお、出雲に守護代として入国したのは持久ではなく高久だ、とする説もあります。  『多胡外記手記』に「高詮の弟高久、江州尼子に居り候を目代として富田へ遣わし、出雲・隠岐の仕置しなされ候」とあるのがその根拠です。  いずれにしても、京極氏の守護代として尼子氏が出雲に入国した、という事実だけは確かで、雲州尼子氏歴史はここからはじまるのです。
 
尼子義久(あまご よしひさ) 1540-1610
父の死により、20歳で出雲・尼子氏当主となる。安芸・毛利氏の攻略を受け戦うが、次第に圧迫されていく。1565年月山富田城に籠城するが、近臣大塚与三右衛門の讒言に惑わされて多くの家臣を失う。翌年ついに防ぎきれず切腹を申し出て降伏、命は助けられ安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて毛利氏に従った。義久には子がなかった為、甥・元知が養子となり後を継ぎ、以後佐々木氏を名乗って続いた。
 
尼子氏(あまごし) 
尼子氏の発展 守護京極氏の守護代として出雲に勢力を拡大。  尼子氏京極氏の守護代として出雲に入国した持久以後、守護代職を世襲し、京極氏の出雲支配を助けた。しかし、応仁の乱以来、京極氏は出雲を不在にし、領国の政治は尼子氏に任せた。  持久の子清定は応仁以来の乱世のなかを隣国の山名氏の出雲侵入を撃退し、また、国内の反京極勢力の平定に従事し、京極氏の勢力安泰に努めた。 ●尼子清定の活躍  応仁の乱が起こると守護京極持清は、東軍の有力武将として京都・近江に転戦し、出雲は守護代尼子清定に全面的に一任せざるを得なかった。  清定の妻は出雲仁多郡の豪族真木上野介の娘であった。かれは、「出雲タタラ」の本拠地である仁多郡を押さえる真木氏と結び、また、出雲美保関の代官職として山陰・北陸方面との貿易を利用し勢力を固め、一方、京極氏の守護代として京極家臣を統率、次第にその勢力を強化していった。応仁の乱以前の出雲大社・日御埼神社 の社領紛争では、京極家臣を統率してその解決につとめた。  応仁二年(1468)六月、安来庄の十神山城を根拠とする松田備前守が富田庄堺村に攻め込んだ。出雲東部きっての豪族松田氏の富田城攻撃は西軍の山名氏の後押しによったらしい。こうして、広瀬月山富田城と安来十神山城の合戦がはじまった。清定は名ある被官ら数名が負傷したが、松田勢を撃退することができた。この松田氏の先制攻撃により清定は兵を動かす名目ができた。いよいよ、尼子清定の領国形成のための制服戦が開始されることになる。  手始めに十神山城の攻略にかかり、応仁二年七月の戦で出雲・伯耆・隠岐の国人ら百余人を討ち取った。ついで岩坂・外波の諸城を攻め、三沢氏の代官福頼十郎左衛門を討ち取ったが、出雲郷の春日城攻略は失敗し、神保・西木らの被官を失った。八月、矛先を転じて再び十神山城を攻め、八幡・富尾の両城を陥れた。  九月、清定は一隊を大原郡に派遣して馬田城を攻略し、自らは出雲郷に出陣して春日城を落とした。さらに湯郷の岩屋城の糧道を断って孤立無縁とし、山名六郎や松田備前守らの立て篭る十神山城を陥落させた。ついで、美保関に出陣し、山名党を蹴散らした。まさに東奔西走、神出鬼没の大奮戦であった。  この尼子清定の健闘に対し、守護京極持清は、兵糧を貯えて富田城を厳重に守備せよ、と命じ、しきりに感状を発し、 さらに恩賞として飯石郡多久和庄知行分、島根郡生馬郷、能義郡利弘庄、同中次闕所分、同郡舎人保内松田備前守 買得田畠屋敷、松田備前守買得分、安来庄領家分代官職、能義郡奉行職、美保関代官職といった所領・所職を与えた。 ここに尼子氏の戦国大名への道が開けたのである。 ・奥出雲の強豪-三沢氏が拠った三沢城址 ●戦国大名への途  明くる文明元年(1469)も清定の国内制服戦は続行される。七月、尼子軍は牛尾一族を主力として大東草尾に進軍したが大敗北を喫した。そこで清定は軍忠状を上申し、牛尾一族に京極持清からの感状をもらってやった。同月、大東野田原に戦い、八月中城進山では清定自ら軍配をふるい、名ある出雲・伯耆の武士数十人を討ち取った。清定の要求により、持清が感状を与えたのはいうまでもない。  翌年、仁多郡横田庄地頭で横田藤ケ瀬城を本拠とする三沢対馬守が与党を集めて国一揆を起こした。これに対し清定は三沢一味の知行差押えを持清に要求した。その結果、知行を押さえられた国人は、三沢をはじめ多胡・山佐・佐方・飯沼・下笠・野波・小境の各氏で、これから仁多・大原・能義・八束の各郡にわたる広範な地域的連合の一揆であったことがわかる。清定はこの国一揆を守護京極持清の権威を背景に鎮圧したのである。  文明二年八月守護持清が没したが、長男勝秀はすでに亡く孫の孫童子が京極の主となり、叔父政経が後見した。しかし、孫童子は病弱であったようで、翌文明三年政経は、出雲・隠岐・飛騨の三国の守護、文明五年近江守護を加え、京極氏の実権を握った。  この間尼子清定は、伯耆境松の合戦、美保関の合戦、井尻の難波城の戦いと連戦した。そして、伯耆の山名党は清定の奮戦の前に月山富田城を奪うことはできなかったのである。  文明六年、清定は長男の又四郎を上洛させ、これまでの所領を京極政経に確認してもらった。同時に主家の実力を打診させたのであろう。又四郎はのちの経久で、ときに十七歳であった。  出雲にあっては、文明八年の四月から五月にかけて、能義郡土一揆が富田城を急襲した。これは、美保郷の領有問題で争い、不利になった松田三河守を張本人とする国一揆であったようである。このとき守護京極政経は、前年十月末、江北の一戦に敗北したため出雲に下向していた。清定は政経に一揆征伐の感状を要求している。そして、清定は一揆征伐の戦功により、美保関代官職を安堵された。しかし、いまだに清定の背後に守護京極氏の権威のあることは見逃せない。  文明九年、又四郎二十歳のころ、民部少輔経久と名乗り家督を継ぎ、京都から帰国したようである。おそらく、この前後に清定は没したものと思われる。そして、尼子氏はこの経久の時代に戦国大名化をとげることになるのである。 ■参考略系図 尼子氏系図に併せて、尼子氏の被官となった出雲佐々木氏流諸氏の系譜を掲載。
 
天多彌伎命(あまたのねぎのみこと)? 
天種子命(アメノタネノミコト)と同神?
 
天津彦根神(あまつひこねのかみ) 
→天津日子根命
 
天津日子根命(あまつひこねのみこと)? 
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では 速日命を加えた六柱)を生んだ。 鬘の珠から化生した神が天津日子根命。火か日に関係ある神か。 『日本書紀』一書では、天照大御神の首の珠を建速須佐之男命が口に含んで左の腕に生まれたとある。 天津日子根命は、凡川内国造(河内国)、額田部湯坐連(北茨城国造額田部連等)、 茨城国造(常陸国茨城郡)、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、 馬来田国造(上総国望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、 周芳国造(周防国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、 蒲生稲寸(近江国蒲生郡)、三枝部造の祖。 ***天津彦根神 [#rb405451] アマツヒコネノカミ 別称:天津日子根命、北伊勢大神(多度神)性別:♂系譜:天照大神と素盞鳴尊との誓約の際に3番目に生まれた神神格:日の神、海の神、風の神神社:多度大社  天津彦根神といえば、三重県多度町の多度大社の祭神で、特に雨乞いの神として有名である。同時に風の神(台風の神)としてその神威を発揮すると信じられている。また、天照大神の子であるということから、多度大社は伊勢神宮に対して北伊勢大神宮とも呼ばれた。  天津彦根神は、数多くの氏族の祖神としても祀られている。それらの氏族は天皇家に忠誠を誓う各地の有力者と考えられ、その分布は近畿から関東まで広がっている。このことから、天津彦根神というのは各地の氏族が信奉していた土着の神、産土神の集合体であると推測できる。数多くの氏族を従えるために、「君らの信仰している神様は実は天照大神の子供の天津彦根神だったんだよ。なかなか血筋のよい神様だよねえ。」と吹き込んだわけである。そういう意味で、土地の守り神であり、農業、漁業の守り神だったり、産業開発もしていたりと、各地の土着の神が持つ様々な霊力を備えているといえるだろう。  また、多度大社には、別宮に立派な一目連神社が祀られている。一目連神というのは、天津彦根神の子の鍛冶の神、天目一箇神のことである。このような神を子に持ち、さらに一緒に祀られているということから、金属工業の神としても厚く信仰されているのである。  天津彦根神は前述の通り、雨乞いの神であり、台風の時には風の神としての神威を発揮して風水害を防いだりするという神である。こういった霊力は、山の神としての性格から来ているようである。というのも、多度大社の背後の多度山には、昔、一つ目の龍が棲んでいたという伝承がある。龍は海神であると同時に水の神でもあり、一般に雨の神としても信仰されている。この竜神を祀ったのが多度大社の始まりという伝承もある。とすると、多度大社の祭神はもともと一目連神であったことになる。記紀神話の成立以後、あとから主祭神となった天津彦根神は、古くから信仰されていた一目連神の霊力をも包含した神霊として祀られるようになったのであろう。海も陸も広くカバーする神威を発揮するのは、そういった理由からかもしれない。
 
天津彦根命(あまつひこねのみこと)? 
→天津日子根命
 
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)? 
→邇邇芸命
 
天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)? 
→邇邇芸命
 
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)? 
→邇邇芸命
 
天津甕星・香香背男(あまつみかぼし・かがせお)? 
天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。 『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。 本文では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。 第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。 平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。 星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。 全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。 茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。 葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
 
御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)? 
→大倭豊秋津島 天の空に蜻蛉が群れを飛ばす男性という意味
 
天照大御神(あまてらすおおみかみ)? 
天にましまして照りたもう神。 伊邪那伎神が左の目を洗った時に出現。
 
天照大神(あまてらすおおみかみ) 
太陽神、高天原の主神、皇祖神、日本の総氏神、八百万の神々の中でもトップに位置する女神。 伊耶那岐神が御祓をしたときに、光を表す左目から生まれたとされる三貴神の一柱。 あらゆる生命にとって必要な太陽を象徴する神である。日本では古くから太陽を「日の神」として信仰し、天照大神ももともとはそうした太陽信仰から発展した神霊である。ただ、ほかの信仰と違い、古代日本人は太陽神そのものを信仰するほかに「日の神」に民族の祖神というイメージを重ねて祀った。そうした二重の性格を備えた神が天照大神である。 天照大神についての神話としては、「天岩戸隠れ」が有名である。天照大神が岩戸に隠れたために、世の中は光を失い、悪霊が満ち、災いが起こる。このことは日照時間が減ることによる不作、あらゆる生命の衰弱、そのことによる飢饉、餓死、疫病などを指しているのだろう。さらに「太陽が隠れる」ことには、古代の人々は冬至の頃とイメージを重ねていたようだ。その時期には、人々は太陽の再生を願って神祭りを行った。これは太陽の”死と再生”の儀式でもあった。「天岩戸隠れ」には、こうした農耕儀礼が反映されている。このことから、天照大神は大地の豊穣性を体現する母なる女神ともいえる。 一方、地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓を手にした。そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇したのである。弓矢というのは、古来軍事力を象徴する道具であった。天照大神は、男性的な側面もある軍事を象徴する神でもあったといえるだろう。 天照大神   生没年:   父:伊邪那岐命   子:     天忍穂耳尊     天穂日命(出雲氏へ)     天津彦根命     活津彦根命     熊野 樟日命 #html{{ <STYLE TYPE=  text/css  > <!-- body,tr,td,th { font-size: 9pt } a:hover { color: #000000 } a:visited { color: #000000 } a { color: #000000 } big { font-size: 12pt } small { font-size: 9pt } span { font-size: 8pt } --> </STYLE> }}
 
天照神(あまてるかみ)? 

 
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)? 

 
天照玉神(あまてるたまのかみ)? 

 
天照御魂神(あまてるみたまのかみ)? 

 
天野元政(あまの もとまさ) 1559~1609
毛利氏 千虎丸 少輔次郎 六郎左衛門尉 掃部頭 讃岐守 右田氏 ◇父:毛利元就 養父:天野元定、右田隆量 室:天野元定女、阿曾沼広秀女 子:毛利孫四郎元倶、天野元以、阿曽沼元信、天野元雅、就員、毛利元嘉  安芸・毛利元就七男。安芸・米山城主天野元定の婿養子となって天野氏を名乗る。関ヶ原の戦いの後、周防・三丘さらには周防・右田に領地を得て、右田(天野)毛利家の祖となった。
 
天石戸別神(あまのいわとわけのかみ)? 
天石門別神
 
天之忍許呂別(あまのおしころわけ)? 
→隱伎之三子島
 
天穂日命(あまのほひのみこと・あめのほひのみこと)? 
天穂日命 出雲国造家の先祖
 
天之水分神(あまのみくまりのかみ)? 
山から麓へと流れる水を分配する神。
 
天御中主神(あまのみなかぬしのかみ) 
天之御中主神
 
阿麻毘舎卿(あまひさ) 
阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。 21雄略天皇・19允恭天皇朝の人? 中臣阿麻毘舎卿(なかとみあまひさ) 子・ 中臣阿麻毘舎卿の子・・・中臣阿毘古 ???~??? 阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。
 
阿麻比舎命(あまひさ)? 
阿麻毘舎卿
 
天石門別神(あめのいわとわけのかみ) 
天孫降臨に随伴する神々の一柱。天太玉神から生まれた子神格:山の神、石の神、門の神 神話には、「この神は御門を護る神さまなり」とある。 神名の石門は文字通り岩でできた扉を意味し、これに天がつくと、天上界の入り口にある堅固な門というふうに解釈される。天孫邇邇芸命が地上に降臨するときに、天照大神は、まず随伴する主立った神々を指名したあとで、知恵の神である思兼神、天岩戸の扉を怪力で開けた天手力男神とともに天石門別神を加えた。その役割は、天孫が地上で政治を行うときに、その宮殿の出入り口に在って天孫に奉仕し、悪霊の進入を防ぐというものであった。 実際に天石門別神は、古来、天皇の宮殿の四方の門に祀られていた。天皇が住む宮殿、宮中、内裏の中には、天皇家の始祖に関する神をはじめ、御膳の神や託宣の神といった様々な神が祀られていた。そうした主だった神とは別に、宮殿に付属する井戸の神や竈の神なども祀られていたが、その中で御門の神として祀られていたのが天石門別神と同一神とされる櫛石窓神・豊石窓神であった。 この神の原像は、神名にもあるように岩と関係が深いようである。日本のみならず、世界各地でも石に神霊が宿るという信仰がある。各地の石神信仰や巨石信仰は今も生き続けている。当然、神社にも巨石、巨岩を御神体として神霊を祀っているところが多くある。天石門別神を祀る神社もそうしたもののひとつである。「石座(イワクラ)」ともいわれるように、神秘を感じさせる巨石や御神体山の上にある石などは、神の依り憑くところと考えられたのである。山の上にいる石の神、それは普段は気配しか感じられない山の神が、人間に見えるような形をとった依り代でもある。 万葉集に「河内王を豊前国(=大分県)の鏡山に葬る時」という題のつけられた「豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし」という歌がある。河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。古来から日本では他界に去った死者の霊は山の神となって生者の守り神となると考えられていた。つまり、このときの岩戸は生と死の境目を意味しているといえる。 天石門別神は、そういった理由で家の門、村の境など、あらゆる境界を司る神と考えられ、さらに他界から進入しようとするあらゆる災厄を防ぎ、人間の平穏な生活を守護する神とされたのである。石造りかどうかに関わらず、どこの門にでも宿っているという点で、マイナーな名前にも関わらず、身近な神であるといえるだろう。
 
天岩間別神(あめのいわとわけのかみ)? 
天石門別神
 
天宇受売(あめのうずめ)? 
→天鈿女神
 
天鈿女(あめのうずめ)? 
→天鈿女神
 
天鈿女神(あめのうずめのかみ)? 
巫女の元祖。道祖神。 天岩戸の前に集まった神々の一柱。猿田彦神の妻ともいわれる。猿女氏の氏神神格:芸能の神(演劇・俳優の神、舞楽の神)神社:椿岸神社、芸能神社、千代神社 神話に興味のない方は聞き覚えもないだろうが、日本神話において実に有名な神である。三貴神をはじめとする強力な血筋を持った神ならばいざ知らず、神話の有名な場面に決定的な役割をもって2度も登場するのである。日本神話では、ある特定の場面にその場限りで出場する神が多い中、異例のことである。 はじめに登場するのが、天岩戸事件の時だ。天岩戸に隠れてしまった天照大神を呼び戻すために、決定的な役割としての舞を舞ったのがこの神である。日本書紀に「巧みに俳優(ワザオギ)をなし」と記されているのがその場面である。詳しくは天岩戸隠れを参照していただくが、ここでの天鈿女神の踊りは、洞窟に隠れたくなるような天照大神の失意や怒りといったものをなぐさめ、和らげることを意味している。その役割は、弱った日の神を回復させることであり、そこから、神を祀りなぐさめるために神前で舞を奉じる神楽の始まりとされ、天鈿女神がその祖神とされている。神楽の語源は「神座(カミクラ=神が宿る場)」であるといわれ、これは神を招き、降臨してきた神を歓迎し祝福するために、神座において踊りを捧げることである。同時に神楽には、神の心を楽しませ和らげる「神遊び」の意味も含まれている。そうした神楽から日本のさまざまな芸能が派生したことから、天鈿女神は、我が国における芸能の源流の神ともされているのである。 また、天鈿女神が神懸かりして踊る様子を「俳優なして」と記されていることから、俳優のルーツともいわれる。「わざ」とは神のわざ(所作、行為、技)のことで、神が乗り移ったような振る舞いを指す。「おぎ」は招くという意味である。つまり、「俳優」とは、神霊を招いておもしろおかしい振る舞いを演じて、なぐさめ、楽しませることをいう。また、古代において「俳優をなす」ことは、神を奉祀するだけでなく、一般の人々を楽しませる娯楽的な面も強くもっていたのである。 さて、2度目に登場するのは、邇邇芸命の天孫降臨の時だ。天下ってきた邇邇芸命が下方に赤く光る妖しい光を見つけ、天鈿女神を偵察に出した。その光は猿田彦神で、天孫の道案内に赴いたというのがその筋である。詳しくは天孫降臨を参照されたい。さて、その後に、天鈿女神は猿田彦神と結婚し、共に伊勢の五十鈴川の上流に落ち着き、ここで猿田彦神の名を取って「猿女」と名乗ったとある。この子孫とされるのが猿女一族で、古くから朝廷の祭祀と深く結びついていた一族である。また、猿女君の祖であるともいわれている。猿女君とは、宮廷祭祀において神楽を舞うことを務めとする神祇官の役職名である。 猿女一族は、踊りによって神々を喜ばせて関心を引き、踊りを通じて神々の託宣を聞くという呪力を駆使するシャーマニスティックな女性が中心の集団だったようである。その踊りは非常に熱狂的かつエロチックで、女性たちが神懸かりして踊りを神に捧げ豊穣を祈る姿は、民衆の目には特殊な魔術を駆使する超能力者の集団と映ったらしい。ようするに、彼らは神と人との間を媒介する一種の巫女の集団だったといっていい。天鈿女神は、神々に踊りを捧げて豊穣を祈願する、超能力的な巫女集団のパワーが神格化された存在ということができるだろう。
 
天宇受売神(あめのうずめのかみ)? 
→天鈿女神
 
天鈿女命(あめのうずめのみこと)? 
→天鈿女神
 
天宇受賣命(あめのうずめのみこと)? 
古事記』、『日本書紀』など日本神話に登場する女神。 一説に別名「宮比神」(みやびのかみ)、「大宮能売命 」(おおみやのめのみこと)。 稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。 『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。 東京都府中の大國魂神社境内・宮乃咩神社、三峯神社境内・猿田彦神社、島根県熊野大社境内・伊邪那美神社、京都の大田神社にて参拝した。 『古事記』では「天岩戸」の場面、「天孫降臨」の場面、「猿田彦と天宇受賣命」の話に登場する。 『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「天の石屋戸」の段 岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。 その一環として、天宇受売命が、天の香具山の日陰蔓を襷にかけ、眞拆鬘を髪に擬い、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおし下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑った。  そこで天照大御神はふしぎに思われて、天の石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここにこもっているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういうわけで天宇受売は舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にもまさる貴い神がおいでになりますので、喜び笑って歌舞しております」と申しあげた。こう申す間に、天兒屋命と布刀玉命と布刀玉命が、その八咫鏡をさし出して、天照大御神にお見せ申しあげるとき、天照大御神がいよいよふしぎにお思いになって、そろそろと石屋戸から出て鏡の中をのぞかれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手を取って外に引き出し申した。ただちに布刀玉命が、注連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内にもどっておはいりになることはできません」と申しあげた。こうして天照大御神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなった。 『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神」の段 天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、天宇受賣神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それで天宇受賣神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名は猿田毘古神と申します。私がここに出ているわけは「天つ神の御子が天降っておいでになる、と聞きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」 と申し上げた。 『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神と天宇受賣命」の段  さてそこで、邇邇芸命が天宇受賣命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕した 猿田毘古大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。こうして 女君(さるめのきみ)たちは、その猿田毘古の男神の名を負うて、女を 女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。さてその猿田毘古神は、阿耶訶(あざか)におられるとき、漁をしていて、ひらぶ貝にその手をはさまれて、海水に沈み溺れなさった。それで海の底に沈んでおられるときの名は、底どく御魂といい、その海水が泡粒となって上るときの名は、つぶたつ御魂といい、その泡が裂けるときの名は、あわさく御魂という。  さて天宇受賣命は、猿田毘古神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おまえたちは、天つ神の御子の御膳としてお仕え申しあげるか」 と問いただしたとき、多くの魚がみな 「お仕え申しましょう」 と申しあげた中で、海鼠(なまこ)だけは答えなかった。そこで天宇受賣命が海鼠に向かって、「この口は答えない口か」と言って、紐小刀でその口を裂いた。だから今でも海鼠の口は裂けている。こういうわけで、御代ごとに志麻国から初物の魚介類を献上する時に、獲女君たちに分かち下されるのである。 猿女君・稗田氏の祖とされ、稗田氏の氏神である賣太神社では、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。 芸能・技芸全般の神として信仰されており、千代神社(滋賀県彦根市)、芸能神社(京都市右京区)、椿大神社(三重県鈴鹿市)、鈿女神社(長野県北安曇郡松川村)などで祀られている。 鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められており、最寄駅の大糸線北細野駅は信濃鉄道の駅として開業した際「おかめ前駅」と呼ばれていた。国営化に当たって改称。 天孫降臨の地、高千穂より天の岩戸が飛来したと伝えられる長野県の戸隠神社には天の岩戸開神話に功績のあった神々(天手力雄命・天八意思兼命)が祀られており、そのうちの一社、火之御子社には天鈿女命が祀られている。また、岩戸開神話に基づいた神楽が古来より受け継がれている。 宮崎県西臼杵郡の高千穂町には、アメノウズメがサルタヒコと結婚した場、荒立宮の後と伝わる荒立神社があり、国際結婚・安産の神として、ウズメとサルタヒコが神体となっている。 村境や道路の分岐点などに立てられる道祖神は、サルタヒコとアメノウズメであるともされる。
 
天之忍男(あめのおしお)? 
威力のある天の男神という意味 →知訶島
 
天押雲(あめのおしくも) 
神武東制に従った天種子命の父とされている。天孫降臨で雲を押し分けたイメージの神格化か? 天押雲根命が同神だとすると、春日大社・摂社 若宮神社に祭られている神様。 天児屋根命の御子神である
 
天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)? 
天押雲
 
天押雲命(あめのおしくものみこと) 
天押雲
 
天忍穂耳神(あめのおしほみみのかみ)? 
天照大神と素盞鳴尊との誓約の際にはじめに生まれた神で、天照大神の養子。 稲穂の神、農業神 れっきとした天照大神から神武天皇までと続く神々の系譜の中に存在する神である。あまりに聞き覚えがないが、名目上の天照大神の長男である。 天照大神と素盞鳴尊との誓約の際にはじめに生まれた神なので、実質上は素盞鳴尊の子供になるのかもしれない。 皇室の祖神の系統に連なる神であるから、本来は稲穂の神である。「忍」は威力あるもののこと、「穂」は文字通り稲穂であり、「耳」は実をいっぱいつけて頭を垂れる稲穂の様子から、俗にお金が貯まる耳とされる福耳を連想したものであろう。その意味で、「立派に実った大きな稲穂」をたたえた呼び名といえよう。 さて、天孫降臨の項でも述べたが、天忍穂耳神は本来天孫降臨の主役となっていてもおかしくないほどの血筋をもっている。しかしこの役目を自分と栲幡千々姫命との子、邇邇芸命に譲ってしまった。命じられるままにしておけば地上の大きな権力を手にすることができたのだが、自らそれを放棄してしまった彼の行動は、不自然な主役交代劇として神話の中での謎とされている。 この神の別称に正哉吾勝勝速日天忍穂耳神というのがある。これは、彼が生まれた誓約の際に、実父素盞鳴尊が誓約を勝ち取ったことに大喜びして、最初の子につけた名である。「まさにわれ勝てり、勝つこと昇る日のごとく速し」という勝利の感激そのままである。占いもある意味賭け事のようなもので、これに勝った素盞鳴尊は有頂天になって高天原で狼藉の限りを尽くし、天照大神を困らせて天岩戸に隠れさせてしまう。こんな素盞鳴尊の行為は、大穴を当てて舞い上がり、羽目を外しすぎて大失敗をやらかすギャンブラーと似ている。そういった理由で、ギャンブルに限らず、この神は勝運、授福の神として信仰されている。 ---- 天照大御神の御子。天孫瓊々杵尊の父。 根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では 速日神を加えた六柱)を生んだ。 天照大御神の左の御みづらの八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠から生まれた神。 正勝吾勝は、須佐之男命が誓約を勝ちとったことを誇る意味。 耳は身と同じ意味で、忍はおほし(大)穂は秀。 天忍穂耳尊高木神の娘・萬幡豊秋津師比売命との間に、天火明命と天津日高日子番邇邇芸命の二柱の神が生まれた。 『先代旧事本紀』には、天火明命の代わりに饒速日命となっており、天火明命=饒速日命という説がある。 『古事記』によると、天照大御神と高木神は、 はじめ父神である天忍穂耳命に「お前が葦原中国へ降臨して治めよ」と命じた。 ところが、忍穂耳命は「自分の子の邇邇芸命の方が適当だと思う」と申されたので、 改めて邇邇芸命に天孫降臨・国土統治の神命が下された。
 
天之尾羽張(あめのおはばり)? 
威勢のあって雄々しい刀であることを意味する。 →十拳剣
 
天鏡尊(あめのかがみのみこと、あめかがみのみこと、あまのかがみのみこと、あまかがみのみこと)? 
→天合尊
 
天香久山神(あめのかぐやまのかみ) 
天火明神の子で天照大神の曾孫。尾張氏など多くの氏族の祖神。 農業神、倉庫の神 天香久山神は、天孫降臨の際に邇邇芸命に従って地上に下った神々の中の1神で、その後紀伊国の熊野に住んだとされ、神武東征神話に登場する高倉下神と同一視されている。 神武天皇が熊野に侵攻した際、現れた大きな熊の発する毒気に冒されて兵が失神して倒れてしまった。これを見て、天照大神高御産巣日神は軍神武甕槌神を援軍として差し向けようとしたが、武甕槌神は自分の代わりに布都御魂剣を降らせた。霊剣は高倉下神の倉の屋根を突き破って床に突き立ち、朝、目覚めた高倉下神がこれを見つけて神武天皇に献じると、たちまち天皇も軍隊も回復した。その後、熊野の豪族も霊剣の力もあって斬り従えられ、無事大和平定が成ったという。 この話で重要なのは、霊剣布都御魂剣が高倉下神のもとに降ってきたという部分が、天から神霊が降ってきて何かに憑依する、という古代の人々の宗教儀式の観念を象徴しているということだ。つまり高倉下神は、高天原の最高神の意志を受けて、神武天皇の大事業をサポートしたというわけである。 その後、神武天皇即位4年に、高倉下神は越後開発の命を受けて弥彦の地に移住した。今で言う出向とか単身赴任といったところだが、なぜ越後だったのかはよく分かっていない。とにかく、越後に赴任してからの方が本来の霊力を発揮したようで、住民に対して農耕、漁労、製塩、酒造などを教えて、産業興隆を大いに助けたと伝わる。以来、越後鎮護の神、開発の神として祀られ、今でも厚く信仰されている。それが弥彦神社の祭神となっている天香久山神としての姿である。 高倉下神の名は、神を祀る高い倉の主の意味である。倉というのは、古代において収穫した穀物を貯蔵する場所であった。「倉庫」という言葉は後世に生まれたもので、「庫」は武器庫を意味している。高床式の建物の模型や写真を見たことがあると思うが、これがここでの倉にあたる。穀物は命をつなぐ大事な食料であり、それを保存する倉は、人々にとってむやみに出入りしてはならない神聖な場所だった。当然、そこには倉の霊が宿ると考えられ、大切な食料を守ってもらうことを願って神として祀るようになった。そうして神格化されたのが高倉下神というわけだ。 倉の神というのは、穀物の豊かさを保証する神でもあった。だから、倉の神を祀ることは倉の中が穀物でいつもいっぱいになるように願うことでもあった。そうした意味では、高倉下神は、穀物の豊作をもたらす神でもあったわけだ。そういう農業神としての性格を備えていたからこそ、天香久山神として越後へ移ったあとも、国土開発の守護神として活躍できたのである。
 
天香児山神(あめのかぐやまのかみ)? 
天香久山神
 
天香山神(あめのかぐやまのかみ)? 
天香久山神
 
天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)? 
山の水をくみ上げる神。
 
天熊人・天熊大人(あめのくまひと・あめのくまのうし)? 
『日本書紀』、『先代旧事本紀』では、天熊人、又は天熊人命。 神楽に登場する際は、天熊大人の名前となっていることが多いようだ。 この神は、有名な「農耕・養蚕・畜産の生成」話に登場する。 『日本書紀』では、このように登場する。 天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。 天照大神が保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。 『古事記』では、この話は素盞鳴尊が大気津比売神を殺す記述になっており、登場人物が違っているが、このことから天熊人命=素盞鳴尊とする説もある。 『但馬故事記』には、饒速日命の田作りを手伝った天熊人命として登場する。 『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。 『但馬故事記』では、このように書かれている。 「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。豊受姫命はこれを見て大いに歓喜びて曰し給わく「あなに愛やし。命これを田庭に植えたり」と。然る後豊受姫命は天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの御業を補佐けしめ、而して後高天原に上り給う。その後天火明命は五穀蚕桑の道を顕国(うつしくに)に起こし、大いに蒼生を幸い給う。 (以下略) (但馬故事記:吾郷清彦著より引用)
 
天之暗戸神(あめのくらとのかみ)? 
山頂にほど近いところにある渓谷の神。
 
天之事代主神(あめのことしろぬしのかみ)? 
→事代主神
 
天児屋根命(あめのこやね) 
③中臣連祖。大鳥連祖? ④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。 祝詞の祖神、言霊の神。 ・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。 ⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。 ⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。 ---- 父・興台産霊  天照大神(あまてらすおおみかみ)も、うっとりと聞き惚(ほ)れて惚れて、ついに天の岩戸を開けてしまったという美声の持ち主。 天下一品の祝詞(のりと)奏者 天児屋根命(あめこやねのみこと)は、高天原(たかまがはら)で専(もっぱ)ら祭祀(さいし)をつかさどる興台産霊神(こことむすびのかみ)(天照大神の子)の子で、 天照大神の侍臣(じしん) として仕えていた。命名の由来はよくわからないらしい。  天美津玉照比売命(あまみつたまてるひめのみこと) を妻として、一子をもうけたが名は知られていない。神武天皇(じんむてんのう)の東征(とうせい)に加わって働いた天種子命(あめのたねこのみこと)は、この天児屋根命(あめこやねのみこと)の孫である。  天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩戸隠れをしたとき、八百萬(やおよろず)の神々が、天の安河原(あめのやすかわら)に集まって会議をした結果、それぞれの役割を決めた。 天児屋根命(あめこやねのみこと)は、非常な美声の持ち主であったため、天の岩戸の前で祝詞(のりと)を奏する役を担当したのである。  後に天孫瓊杵尊(てんそんにぎのみこと)の降臨に従い、常に国政に参与して、国土経営に大きく貢献したが、主な任務は祭祀(さいし:神と人との中を取り持ち、仕える役)をつかさどることであった。後世の中臣氏(なかとみうじ:藤原氏の遠祖)の祖神でもある。
 
天児屋根神(あめのこやねのかみ) 
天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣氏の祖神 (のち藤原氏) 神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神  神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。  その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。  天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。  言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。  天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。  祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。 ***天児屋根命 [#eb965e78] 市千魂命━━━興台産霊神━━━天児屋根命━━━天押雲命━━━天多祢伎命                              (天種子命) ***天児屋根命 [#uef663fd] 天児屋命 名称 天児屋命(あめのこやねのみこと)、天児屋根命興台産霊(こごとむすひ) 子 天押雲根命 子孫 中臣連 神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。 岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は思兼神と同一神であるとしている。 居々登魂命━━━天児屋根命━━━天押雲命| 天児屋根命──天押雲命──天種子命──宇佐津臣命──大御気津臣命──伊香津臣命梨津臣命─┼神聞勝命──久志宇賀主命─┬国摩大鹿島命──巨狭山命──雷大臣命─├大小橋命 伊達家 ---- 天児屋根神 アメノコヤネノカミ 別称:天児屋命、天之子八根命性別:♂系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社  神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。  その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。  天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。  言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。  天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。  祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。 ---- 天児屋根命(あめのこやね) ①父:興澄魂  母:許登能麻遅姫 異説:浅加姫 ②妻:天万拷幡比売(天背男命女)異説:武甕槌命女 子供:天押雲命 別名:八意志兼命、天児屋命、天小屋根命、天之子八根命 ③中臣連祖。大鳥連祖? ④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。 祝詞の祖神、言霊の神。 ・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。 ⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。 ⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。 ***天児屋根神 [#ie2e6623] 天児屋根神 父:居々登魂命(こごとむすび) 妻:天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと) 天児屋根神 アメノコヤネノカミ 別称:天児屋命、天之子八根命性別:♂系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社  神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。  その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。  天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。  言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。  天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。  祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。 概要 神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。 岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は思兼神と同一神であるとしている。 信仰 中臣連の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。祝詞の神、出世の神ともされる。中臣神社(京都市山科区)、枚岡神社(大阪府東大阪市)、春日大社(奈良県奈良市)、吉田神社(京都市左京区)などに祀られている。また、全国の大鳥神社に祀られる「大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)」は天児屋命と同神とされることがある。 伊達家
天児屋命(あめのこやねのみこと) 
(天照神話~天孫降臨神話の頃) 中臣氏の祖先神。八意志兼命?天児屋根命?天小屋根命? 天照大神が岩戸に隠れたときに、岩戸の前で榊を立て祝詞を奏して祭祀を行った。 ニニギの天降りの時も五部神の一人として従ったと伝わる。 枚岡神社、春日大社などの祭神。 →天児屋根神
天之子八根命(あめのこやねのみこと)? 
天児屋根命
天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)? 
山頂に出来る霧の神。
天之狭土神(あめのさづちのかみ)? 
山頂についての土地の神。
天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)? 
→津島 霊的な力がよりつく天の女性という意味
天下春命(あめのしたばるのみこと)? 
天下春命(あめのしたばるのみこと) 記紀には登場しないが、高天原の知恵袋といっても良い存在である思金(おもいかね)神の御子神である。 ※思金神が活躍した話で最も有名な話では、「岩戸隠れ」の際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。 『先代旧事本紀』(「天神本紀」)によると、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神の1柱。 同じく随従した天表春(あめのうわはる)命の弟神と見られ、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。 また大伴部氏の祖ともいわれる。 なお『高橋氏文』に「知々夫(秩父)国造の上祖、天上腹、天下腹人」と見える人名は、この両神に関係があると見られている。 ※高橋氏文(たかはしうじぶみ): 日本の歴史書、古記録である。 宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。 しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。 伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。 天下春命は開墾の神として祀られる事が多い。 私が参拝した、天下春命を祭神とする神社 ・東京都多摩市・小野神社 ・東京都府中市・小野神社 ・神奈川県厚木市・小野神社 ・滋賀県長浜市木之本町・伊香具神社境内社 また、天下春命の7代目の知知夫彦が秩父国造りとして秩父を開拓、「秩父神社」の祭神として天思兼命と共に祀られています。
天底立神(あめのそこたちのかみ)? 
天之常立神
天手力男神(あめのたぢからおのかみ) 
力の強い神。天岩戸の前に集まった神々の一柱。天照大神をこの世に戻した。  天手力男神は、天岩戸隠れのときに天岩戸の扉を開けて天照大神を引き出す役目で活躍した神として知られる。名前の通りに手の力(腕力)の象徴、つまり人間の筋力に宿る霊を神格化した神である。  強力な肉体的なパワーを所有したいという欲求は、人間の永遠に持ち続ける夢といえよう。それを擬似的な空想の世界で実現しているのがスーパーマンやアニメのキャラクターといったものだ。天手力男神の姿には、そうした人間の肉体的なパワーへのあこがれが反映されているといっていいだろう。神話では、怪力ばかりが強烈にイメージされるが、この神は一般にスポーツの守護神としても信仰を集めている。筋力を鍛え、それを生かす技術を含めたパワーを与えてくれる霊力を備えた神さまでもある。  この剛力のイメージを持つ神の姿というのは昔から庶民には人気があったようで、それをうかがわせるのが日本の各地に伝わる神楽である。たとえば、全国的にもよく知られている宮崎県高千穂町の夜神楽があるが、そのなかに天手力男神が主役となって舞われる「戸取舞(トトリノマイ)」というのがある。この神がその怪力で岩戸を投げ飛ばしたという伝承に基づいたもので、力感的で勇壮な舞は夜神楽のなかでも特に人気を博している。そのほか、里神楽のなかの「岩戸神楽」と呼ばれるものも、天手力男神が主役の「岩戸開き」の場面に重きを置いて演じられる神楽のひとつである。  日本の昔話や民俗伝承には、しばしば怪力を誇る怪異なキャラクターが登場する。要するに妖怪の類に近い存在なのだが、多くは人々に親しまれている。国技の相撲に象徴されるように、日本人は剛力のイメージに対して独特な嗜好があるように思える。そういう感覚があるから、神楽などでも天手力男神の力強い踊りが人気になるともいえよう。
天種子(あめのたね) 
神武東征に従う。この時筑紫国宇佐にいたり、菟狭津媛を妻に賜った。(紀) 参考「菟狭津彦」菟狭(豊後国宇佐郡)国造祖。神武東征時菟狭津媛とともに饗を奉った。 高魂尊の孫(国造本紀)
天種子命(あめのたねのみこと)? 
→天多彌伎命
天角凝魂神(あめのつぬごりたまのかみ)? 
天之常立神
天角凝命(あめのつぬごりのみこと)? 
天之常立神
天之常立神(あめのとこたちのかみ) 
天地開闢の神々の一柱。 『古事記』では、八百万神に先駆け、天之御中主神高御産巣日神神産巣日神の 造化三神の次に宇摩志阿斯訶備比古遅神が生まれ、次に生まれた天之常立神を加えて、別天神という。 『日本書紀』の一書では、天地が分かれた時、葦の芽のように空の中に最初に生まれた神とある。 天地の軸のような神で、『先代旧事本紀』では天之御中主神と同神とある。
天之登許多知神(あめのとこたちのかみ)? 
天之常立神
天常立尊(あめのとこたちのみこと)? 
天之常立神
天鳥船(あめのとりふね)? 
→鳥之石楠船神
天饒石国饒石天津日高日子火瓊瓊杵命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)? 
→邇邇芸命
天饒石国饒石天津日高日子火瓊瓊杵命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)? 
→邇邇芸命
天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ) 
天岩戸の前に集まった神々の一柱 織物の神、機織りの祖神 天羽槌雄神は、機織りの祖神として信仰されている神である。名前の「羽」は布帛(フハク=木綿や絹織物)を表している。神話では、天岩戸隠れの際に集まった神々の一柱として登場する。この時に天照大神の関心を引き、外に誘い出すためにいろいろと活躍した神々は、それぞれ知恵、芸能、祝詞、あるいは鍛冶や金工、玉造り、鏡作りなど、諸業の祖神とされるようになった。天羽槌雄神もこの時木綿と麻の布を生み出したのである。 詳しくは天岩戸隠れを参照していただくが、この時は天太玉神が天香久山の榊の大枝を切り出して太玉串とし、これを各職能神たちがそれぞれの技能を持ち寄って飾り付けた。この時天羽槌雄神が織り出したのは、倭文(シズ)の綾織りというものだったという。倭文とは、古代の織物の一種の倭文織りのことで、楮(コウゾ)や麻などを材料として布を織るときに、横糸を赤や青い色に染めて乱れ織りにしたものである。古代において、美しい織物は神を祀るときの最高の供物のひとつだった。そういう貴重な織物を生み出す機織りの作業を司るのが天羽槌雄神ということである。 天羽槌雄神は、別名倭文神とも呼ばれる。鳥取県東伯群島号長に織物業の祖神を祀る倭文神社があるが、昔、この地方には織物を生業とする倭文族が住んでいて、彼らが信仰する神を祀ったのが始まりとされている。そのほかにも、倭文織りの産地を示すものとして「続日本紀」に、「諸国の神への供え物のうち、倭文は常陸国(茨城県)から奉献される」と記されている。当時、常陸国あたりが倭文織物の特産地として有名だったことがうかがえる。
天羽槌雄神・建葉槌命(あめのはづちのおのかみ・たけはづちのみこと)? 
天羽槌雄神は『古語拾遺』に登場し、建葉槌命は『日本書紀』に登場する。 全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。 私は、群馬県伊勢崎市・倭文(しとり)神社、埼玉県上里町・長幡部神社、茨城県那珂市・静神社(建葉槌命)で参拝した。 ★天羽槌雄神 『古語拾遺』に登場する。天照大神を天の岩戸から誘い出す際に、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。 同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。 また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。 信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。 系譜: 神産巣日神の5世孫の天日鷲命の子で、委文宿祢、県犬養氏、美努宿祢、鳥取部連、大椋置始連の祖神とされる。 『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少名毘古那神と天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲命(少名毘古那神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。 ☆建葉槌命 別名と同一視されるのは建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)である。 建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。 織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、 1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。 この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。 2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。 『日本書紀』第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、『日本書紀』第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。 他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。
天羽雷命(あめのはづちのみこと)? 
天羽槌雄神
天之日矛神(あめのひぼこ)? 
天日槍神
天日槍(あめのひぼこ)? 
アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播磨国風土記』には神として登場する。 『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。 この神については、伝承が残る地域が広く、例えば谷川健一氏の『青銅の神の足跡』では、細かい字で330ページもある本の半分以上が天日槍に費やされている。 だから、この記事でも全貌を伝えるのは難しいが、私が注目しているのは古代鉄が製造された場所にこの神が祀られていることが多いということ。 渡来人の持参した技術を生かして、実に広範なところを開発していったのは、弘法大師空海と似たようなところがある。 『古事記』では、「応神天皇」の巻、「天之日矛」の段 (現代語訳)  また昔、新羅の国王の子で、名はアメノヒホコという者がいた。この人がわが国に渡って釆た。 渡来したわけはこうである。新羅の国に一つの沼があって、名は阿具奴摩といった。この沼のほとりに一人の賤の女が昼寝をしていた。このとき太陽の輝きが、虹のように女の陰部を射した。また一人の賤の男がいて、その有様を不審に思って、いつもその女の行動をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時から妊娠して、赤い玉を生んだ。そこでその様子をうかがっていた賤の男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。  この男は、田を谷間に作っていた。それで耕作する人夫たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中にはいって行くとき、その国王の子のアメノヒホコに出会った。するとヒホコがその男に尋ねていうには、「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷にはいるのか。おまえはきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」といって、すぐその男を捕えて牢屋に入れようとした。その男が答えていうには、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」といった。けれどもヒホコはやはり赦さなかった。そこで男は、その腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。それでアメノヒホコは、その賤の男を赦して、その赤玉を持って釆て、床のそばに置いてぉくと、玉はやがて美しい少女に姿を変えた。それでヒホコは少女と結婚して正妻とした。そしてその少女は、常々いろいろのおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。 ところが、その国王の子は思いあがって妻をののしるので、その女が言うには、「だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」といって、ただちにひそかに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。これは難波の比売碁曾神社に坐すアカルヒメという神である。  そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡って来て、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行くてをさえぎって難波に入れなかった。それで、またもどって、但馬国に停泊した。ヒホコはそのまま但馬国にとどまり、但馬のマタヲの女のマヘツミという名の人と結婚して、生んだ子がタヂマモロスクである。この人の子はタヂマヒネであり、その子はタヂマヒナラキである。この人の子は、タヂマモリ、次にタヂマヒタカ、次にキヨヒコの三人である。このキヨヒコが、タギマノメヒと結婚して生んだ子が、スガノモロヲ、次に妹のスガクドユラドミである。そして上に述べたタヂマヒタカが、その姪のユラドミと結婚して生んだ子が、葛城のタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラシヒメノ命の御母である。そして、そのアメノヒホコの持って渡って釆た宝物は、玉つ宝といって珠の緒二連、それから浪を起こす領巾・浪を鎮める領巾、風を起こす領巾・風を鎮める領巾、および沖つ鏡・辺つ鏡、合わせて八種である。これらは伊豆志神社に祭る八座の大神である。 ここで、オキナガタラシヒメノ命というのは神功皇后のことである。 よって、系図に整理すると、このようになる。 天日槍は、皇統の外祖先ということになる。 『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、羽太の玉(はふとのたま) 1箇、足高の玉(あしたかのたま) 1箇、鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇、出石の小刀(いづしのかたな) 1口、 出石の桙(いづしのほこ) 1枝、日鏡(ひのかがみ) 1面、熊の神籬(くまのひもろき) 1具 を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。 同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、葉細の珠(はほそのたま)、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、 出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の大刀(いささのたち) を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守(たじまもり)を儲けたという。 田道間守は菓子の神・菓祖として信仰されている。 『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。 これは、先述の谷川健一氏の『青銅の神の足跡』によれば、大国主命(葦原志許乎命)を奉じる出雲族との主として鉄資源を巡る覇権争いと説明されている。(伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神)は同神とみなされている。) ○揖保郡揖保里 粒丘条: 客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か[7])の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命に宿所としての土地を求めると、志挙乎は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙乎はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという。 ○宍禾郡比治里 奪谷条: 葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという。 ○宍禾郡柏野里 伊奈加川条: 葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという。 ○宍禾郡雲箇里 波加村条: 伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという。 ○宍禾郡御方里条: 葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。 ○神前郡多駝里 粳岡条: 伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする。 最後に、現在は、天日槍は個人ではなく、集団であろうとの意見が大方を占めていて、中には一回きりの集団の渡来ではなく、数次にわたる渡来を一つの話としているのだ、と主張する向きもあることを述べておく。
天日槍神(あめのひぼこのかみ) 
新羅から渡来した神。韓人系の出石民族の祖 太陽神、農業神 天日槍神は、新羅国の王子として生まれたが、後にひとりの美しい女性を追って朝鮮半島から渡来したとされる神である。日本神話の中で、はっきりと海外から訪れた神というのはほとんど見あたらず、そういった点で特異な神さまである。ただし、これはあくまで日本の神話であり、朝鮮半島の方にそういった神話は残っていない。その理由については後ほど説明しよう。「古事記」の中に彼に関する記述があるので、書いておく。「日本書紀」の中にも登場するのだが、特に大差はないのでこちらは省略する。 天日槍神は、新羅国にいたとき、赤い玉から化身したという美しい女と結婚していた。その赤い玉は、ある時沼のほとりで昼寝をしていた女の陰部に日光がさし、それで女が懐妊して産み落としたものだ。これを天日槍神が偶然手に入れると、玉は女に化身し、妻となった。妻の名は阿加流比売神(アカルヒメノカミ)といって、夫によくつくしたが、あるとき心おごった夫からののしりを受けると、「自分の祖のもとへ帰る」と言って小舟に乗って日本へ渡ってしまった。彼女が日本で住んだのは比売許曾(ヒメコソ)神社(大阪府東成区に現存)だという。 天日槍神は、自らの行為を悔やみ、妻のあとを追って日本に渡り、妻のいる難波(大阪府)に向かったが、海上の守護神に行く手を阻まれかなわなかった。そこで、やむなく但馬(兵庫県出石地方)に上陸してとどまり、やがてその地の女性と結婚して子をなした。但馬は、渡来計民族の影が濃い地である。 天日槍神は、まだほとんど開拓されていなかったこの地を拓いた。特に鉄器や土器など、新羅の新技術を伝えることによって農耕を発展させ、食料を豊かにし、農業神としての霊威を発揮した。このため、兵庫県出石町の出石神社に「国土開発の祖神」として祀られているのである。 「日矛(槍)」の日は太陽であり、矛は武器である。だが、この場合の矛は、武器というよりも太陽神を奉祀する呪具としての性格が強い。天日槍神は日本に渡ってくるときにさまざまな貴重な神宝を携えてきた。これらは「日本書紀」で羽太玉(ハフトノタマ)、足高玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬(ヒモロギ)の一式、七種と紹介されている。神籬について解説を加えよう。神籬とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものである。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬である。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないだろうか。残念ながら、ここでの「熊」の意味は分かっていない。 さて、これら七種の神宝セットが持つテーマは、いずれも太陽神を祀る呪具ということである。三種の神器と同じ構成である玉、鏡、刀に加えて矛、そして神籬である。この中でも矛とは、天岩戸隠れのときに天鈿女神が持って踊ったのが「日矛」という矛であることから考えても、太陽神との関係が深い。この呪具と同じ神名の天日槍神は、本来、太陽神を祀る呪具に宿る神霊であり、ひいては太陽神の一種とも受け取れる。太陽神は農業の一番中心的な守護神であるから、国土開発の神としても信仰されるわけである。 ところで、「古事記」ではこの神宝は「八種の宝物」とされ、内容も玉がふたつ、波振比礼(ナミフルヒレ)、波切比礼(ナミキルヒレ)、風振比礼(カゼフルヒレ)、風切比礼(カゼフルヒレ)、奥津鏡、辺津鏡(ヘツカガミ)となっている。「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールである。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。もう一度これら宝物の名前をよく見ていただけるとわかりやすいが、四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いものである。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、天日槍神は海とも関係が深いといわれている。 おそらくこうした性格は、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、天日槍神の信仰が結びついたものであろう。こうした性格は福井県敦賀市の気比神社の気比神と共通のものであり、「日本書紀」においては天日槍神がその地に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれている。 いろいろと複雑な性格を示し、それだけに謎の多い神さまでもある天日槍神には、もう一つ、「槍」の名の通りに民族的な守護神としての武神のイメージもある。「播磨国風土記」宍禾群(シサワグン)の条に、天日槍神は葦原色許男神(アシハラシコノオノカミ=大国主命)と国土をめぐって力を競う強力な神として登場する。これは土着の出雲民族と渡来系の出石民族の勢力争いの記憶をとどめる物語というのが定説になっているようである。このとき争った土地は、中国山地の揖保川や千草川の流域で、かつては砂鉄の産地であったところである。ここから、天日槍神が古代の製鉄技術と密接に関係していることもうかがえる。 但馬国に定着した天日槍神は、土地の娘と結婚して子孫を残したが、その中に多遅麻毛理神(タジマモリノカミ=田道間守)がいる。彼は垂仁天皇の命で常世の国に渡り、非時香菓(トキジクノカグノコノミ)と呼ばれるいつでも実をつけている香りのよい果物を持ち帰った。これは、現在の橘ともいわれている。この功績にちなんで、彼は菓子の祖神として菓子業者の信仰を集めている。
天之吹上男神(あめのふきおのかみ)? 
屋根葺きの神。 家宅六神の1柱。
天太玉神(あめのふとだまのかみ)? 
天岩戸の前に集まった神々の一柱、忌部氏(イムベ)の祖神 占いの神、神事・祭具の神  日本の神々には、人間が神を祀るという行為そのものをルーツとする神格も多い。天太玉神もそうした種類の神さまといえるだろう。つまり、今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われるいっさいの神祭用具を管理する神、というのが天太玉神の本来の役割なのである。こうした天太玉神の性格は、この神が活躍する天岩戸隠れの神話に表されている。天岩戸に隠れてしまった天照大神を誘い出すため、天太玉神は、洞窟の前で卜占をし、枝葉の茂った榊に勾玉、鏡などを下げたらして太玉串を作った。そして、天太玉神はそれを捧げ持ち、同時に天児屋根神天照大神を賛美する祝詞(ノリト)を奉じて、大神の出現を祈ったのである。  玉串とは、榊の枝に紙垂(シデ=紙を細長く切ったもの)をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく布を使っていた。これを捧げることによって、神の意志に従う気持ちを表し、神とのコミュニケーションを確認するという意味がある。今日でも神社で神主に祈祷をしてもらうとき、あるいは家を建てるときの地鎮祭などでは玉串を捧げたりする。これは、神道用語では「玉串奉奠」と呼ばれ、頭を下げて礼儀正しく丁寧に玉串を捧げる行為を指す。神を崇敬し家の安全や繁栄を守護してもらおうというものだ。  このように祭具というのは、今日でも神と人間とが交信するための大変便利で重要なアイテムである。それを最初に作り出したのが天太玉神であるといわれている。また、太玉串を作るときに楮(コウゾ=和紙の原料となる植物)や麻の糸で織った布が用いられた。それが楮や麻の守護神としての信仰の起源にもなっている。  この天太玉神は、「日本書紀」に忌部氏の遠祖と記されている。忌部氏というのは、代々宮廷における祭祀の執行を統括することを専門に担当した氏族で、宮廷での宗教儀式に使うさまざまな祭具を作る部門の管理なども担当していたと考えられている。神話で天太玉神が太玉串を作る場面は、そうした忌部氏の役割を象徴したものだろうといわれているのである。  さらに、天太玉神は注連縄(シメナワ)のルーツともいわれている。その起源も天岩戸隠れにある。 天岩戸隠れを参照していただきたい。天太玉神は機転を利かせて、天照大神が再び洞窟にこもってしまわないように、天照大神を止める境界を示すアイテムをも考案したわけである。  注連縄は、神社の入口や社殿、他にもご神木や石などの御神体、あるいは神域とされる領域に張り巡らされたりする。注連縄が張られた内側は、神の降臨する空間(依り代)を示す。そして、神の宿る場所は神聖であるから、注連縄の境界の中には不浄なものの立ち入りは厳禁されるのである。このように清浄と不浄を分かつ注連縄にも当然、なんらかの霊力が宿ることになる。注連縄にも玉串と同様に紙垂を垂らすが、この紙垂は神の依り代ともされている。古代においては、これも玉串と同様に楮糸や麻糸織りの布が用いられていたようである。  以上のように、玉串にしろ注連縄にしろ、要は神を祀る道具である。それを生みだした天太玉神は、神を祀る機能の神格化といえるだろう。特に注連縄に関しては、境界であると同時に悪霊を打ち払うバリアーのような機能を備えているといえる。だから、これをはじめに作った天太玉神は悪霊のもたらす災いを退ける霊力を中心的なパワーとしているといえよう。  ついでだが、天太玉神は、木匠神ともいわれる。木匠とは木工職人のことで、その祖神というわけである。 天岩戸隠れ事件において、天太玉神が鏡作り、木綿作り、鍛冶などの祖神となった神々をリードして、立派な玉串を工作したことにちなんでいる。そのほかにも、あまり一般的には知られていないが、屋根の神、畳屋の神、建具の神など、工作全般の神としての信仰がある。
天火明神(あめのほあかりのかみ) 
日本書紀に見える神。瓊瓊杵尊ににぎのみことの子。尾張連おわりのむらじなどの祖先。 「播磨国風土記」に見える神。大己貴神おおあなむちのかみの子。あまりの気性の激しさに、この神のもとを逃げ出そうとした大己貴神の船を破壊した。 母の木花開耶姫が皇孫の子であることを明らかにするために室に火を放って生んだ三神の一つ。 ---- 邇邇芸命の兄。神尾張氏の祖神太陽神。 別名の「天照」の字から天照大神の名を連想するように、この神は太陽を神格化したものと考えられる。太陽信仰は原始時代から各地にあったもので、古代においても天照大神が高天原の最高神に祀られる以前は各地の有力氏族がそれぞれ独自の太陽神を崇拝していた。そのころの神々は、特別な名前もなく氏族の祖神、氏神として素朴に祀られていた。天火明神もそうした太陽神のひとつであったが、その中でも有力な存在であったことから記紀神話に独自の神として登場したと考えられる。そこから、天照大神の原型だったのではないかという推測も生まれているのだ。 そういう推測はともかくとして、とりあえずはっきりしていることは、天火明神を祖神として信奉していたのが古代の中部地方に勢力を張っていた尾張氏である。この神の気性の激しさや強力なパワーは、太陽のエネルギーに他ならない。だから、尾張一族の人々はそうした日の神の霊威を崇め、開拓の神、農業の守護神として信仰していたのである。 素盞鳴尊に代表されるように、若いときに乱暴者だった神というのはその後の変身によってなかなか味のある魅力的な存在となるようだ。天火明神もそういう面をもっている。兵庫県地方の古代の伝承を記した「播磨国風土記」に描かれているこの神の姿をみると、もともとは異常に気性が激しく暴力的だった。 昔、大己貴命(オオナムチノミコト(播磨国風土記では父神となっている))が、息子の天火明神と一緒に旅をしていたとき、息子の気性の剛直さに心を痛め、仕方なくだまして置き去りにしようとした。息子を水汲みにやり、その間に船を出したのである。やがて戻った息子は、去っていく船を見てだまされたことを知り、大いに激怒した。すぐさまものすごい風と波を起こして船を追いかけさせ、たちまち父親の乗る船を破壊し沈没させてしまった。 ここに描かれた天火明神の怒りのパワーは、なんとも凄まじいものである。これだけのパワーを発揮するのだから、相当な霊力を秘めている存在だということがうかがえる。しかし、記紀神話では、天孫という系譜が知れるだけで、その一方では海幸彦、山幸彦と兄弟とされたり、饒速日尊と同一と見られたり、なにかと謎の多い神でもある。とはいえ、その本来の姿は、農業を守護するエネルギッシュな日の神であることは確かだ。
天火明命(あめのほのあかりのみこと) 
あまのほあかり‐の‐みこと【天火明命】 日本神話で、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。尾張連(おわりのむらじ)の祖神。 天火明命 あめのほのあかりのみこと 記・紀にみえる神。 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子。尾張氏の祖先とされる。炎があかるくなったときに生まれたという。別伝では天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子。火明命ともいう。 天火明命 『日本書紀』の一書(別伝)および『古事記』によれば,天忍穂耳尊の子で,天皇家の始祖として天降った瓊瓊杵尊の兄に当たる。格別な事績はみられない。名称は,使われている文字からすると火の明るいことを示しているようだが,「火」はホという音を表しているだけで,本来は稲穂の「穂」の意味で,稲穂がよく実って色づいた様子を表現した名と思われる。なお『播磨国風土記』の餝磨郡の記事に,親神をひどい目に遭わせる火明命という名の神がみえるが,同名異神と考えたほうがよい。 あまのほあかりのみこと【天火明命】 記紀神話の神。天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことの子。尾張連おわりのむらじの祖神。 あまのほあかり‐の‐みこと【天火明命】 記紀などに見える神。天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)の子神。尾張連の祖神。天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)。天照玉命(あまてるたまのみこと)。 天火明命    生没年:   父:天忍穂耳尊     別名:火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天照国照彦天火明尊、天照国照彦火明命、彦火明命、膽杵磯丹杵穂命   妻:天道日女命     天香山命   妻:御炊屋姫     宇摩志麻治命     穂屋姫命(夫:天香山命)
天穂日神(あめのほひのかみ) 
出雲族・武蔵族などの祖神。 農業神、稲穂の神  天穂日神が生まれたのは、天照大神と素盞鳴尊が誓約をしたときである。順番でいうと天忍穂耳神に次ぐ2番目である。神名のホは「秀」に、ヒは「火」にも通じ、生命力が火のように燃えさかる他より秀でた稲穂ということになる。  国譲りの際に登場する天穂日神は、天照大神の命で地上の統治者大国主命のもとに交渉役として遣わされる。ところが、彼を説得するどころか逆に大国主命に心服して地上に住み着き、3年経っても高天原にはなんの連絡もしなかった。こうした話からすると、天穂日神はよく言えばけっこう柔軟な感覚の持ち主とも言えようが、やっぱり意志が弱く、だから役目をサボることになった不忠者というイメージが強い。まあ、どうとらえるかは読者の感覚や学生時代の過ごし方によっても左右されるところであろう。とまあ、これが「古事記」に記されている姿である。  ところが、これとは逆のイメージを伝えるものもある。天穂日神を祖神とする出雲氏に関係する「出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカムヨゴト)」に、やはりこの神が天照大神から地上の悪心を鎮めることを命じられたことが記されている。このとき天穂日神は、自分の息子の天夷鳥神と剣神経津主神を派遣し、見事に地上の乱れを平定したというのである。こちらでは、決していい加減な性格ではなく、天孫降臨に先立って地上の地ならしをし、露払いの役目を果たした偉大な神であることが強調されている。  天穂日神を祖神とする出雲一族は、出雲東部の意宇群を支配する豪族である。一般に各地の豪族の祖神とされる神は、その各地の国土開発、産業振興の神としての性格を持ち、さらに人々の生活全般の守護神として信仰されていることが多い。この神もそうしたことから考えれば、偉大な業績を成し遂げた神としてのイメージの方が本来の姿に近いといっていいだろう。実際、農業をはじめ養蚕、絹糸、木綿の神として産業開発の面でその霊力を大いに発揮している。
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)? 

天之御影神(あめのみかげのかみ)? 


天三降尊(あめのみくだりのみこと、 あまのみくだりのみこと) 
天三下尊
天三下尊(あめのみさがち) 
第2世独天神
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 
天の中心にいる神様 『至高の根源』を司る神 「古事記」には造化三神として天御中主神が最初に現れ、その後高御産巣日神神産巣日神が現れすぐに姿を隠したとある。すべて性別の無い独り神である。 江戸時代の国学者平田篤胤は『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。 ---- 忌部氏の文書である『古語拾遺』には、天御中主神を始源神とし、 高皇産霊神を長男、津速産霊神を次男、神皇産霊神を三男として天中に存在したとされる。 ---- 古事記-------------------天之御中主神 古語拾遺-----------------天御中主神 日本書紀・先代旧事本紀----天御中主尊 伊勢国風土記逸文・住吉大社神代記--天御中主尊 新撰姓氏録・続日本紀----天御中主命 ---- 造化三神の一柱で、別天神(コトアマツカミ)五神の第一神神格:宇宙の根源神  天之御中主神は天地開闢(カイビャク)神話で宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。 その名が示すとおり宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置づけられている。 そういう偉い神なのだが、その姿はほとんど神秘のベールに包まれているといっていい。 なぜなら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」からである。 顔も姿も現さなければ、語ることもなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。 本来が「その姿を知らしめない」という日本の神さまの典型ともいえる。 仏像のような偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすればなんとも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそういうものなのである。  そんなふうに人間界と隔絶した感じのする神さまであるが、だから何もしなかったというわけではない。 要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神は、その後に登場してくる多くの神々による一切の創造的な作業を司令することがその役割だったといえる。 つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。  以上のように宇宙の真ん中に位置する全知全能の神という考え方から、天之御中主神は神社信仰や神道をきちっとした体系としてとらえようとする、いろいろな神道説のなかでも中心的な神として位置づけられたりしている。 たとえば、伊勢神宮外宮の神官の度会(ワタライ)氏が創始した神道説に基づく度会神道や、朝廷の神祇官を務めた卜部家の子孫、吉田兼倶(カネトモ)が大成した神道説に基づく吉田神道などがそうである。 また、江戸時代の国学者によって提唱された復古神道(仏教や儒教の影響を排除した古代からの純粋神道を唱える神道説)などでも中心的な神格とされている。  天之御中主神が一般に馴染みのある姿を現しているのが「妙見さん」である。 神話では「古事記」の冒頭と「日本書紀」の一書第四にしかこの神の名は登場しない。 それだけでなく、平安時代初期の全国4132の主な神社が載っている「延喜式」の神名帳などにも、この神を祀る神社が見あたらない。 そんなふうに、中世までは庶民の信仰に顔を出さなかった天之御中主神であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つようになる。  そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰などがベースになって成立したものと考えられている。 そこから、室町時代以降、日蓮宗において盛んに信仰されるようになった妙見信仰と習合したのである。 妙見信仰は北斗妙見信仰ともいい、北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は北極星の神格化されたものである。 天のはるか高みに隠れていた天之御中主神は、妙見菩薩と同一視されるようになったことによって、庶民の信仰レベルに降りてきたわけである。 (河) →造化三神、別天神 ---- 日本書紀・古事記に記された神々の系譜の最初の神。別名:妙見尊星王。 天御中主神、天御中主命とも。 古事記神話の造化三神のうちの1人。 高御産巣日神(タカミムスビ)、神産巣日神(カミムスビ)と共にこの世の最初に出現したとされている。 中国古典の北極星の神、元始天王と同一神か?? この神様の5世孫にイザナギ、イザナミがいたりします。 伊達氏神話の時代まで遡ると、この神様に行きつきます。 と・・・言うか、渡来系を除いたほぼ全ての姓がここに行きつくのですが(笑) しかし・・・こんな所まで知りたいと思う人っているのかな(爆)
天御中主命(あめのみなかぬしみこと) 
天之御中主神
天御中主尊(あめのみなかぬしみこと) 
天之御中主神
天御柱神(あめのみはしらのかみ)? 

天之八重言代主神(あめのやえことしろぬしのかみ)? 
→事代主神
天八百日尊(あめのやおひ) 
第4世独天神
天八下尊(あめのやさがち) 
第1世独天神。 先代旧事本紀。
天八十万魂(あめのやそよろだま)? 
→百日萬魂
天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)? 
→栲幡千千姫命
天若日子(あめのわかひこ)? 
アマノジャクのルーツ?。
天若日子神(あめのわかひこのかみ)? 

天一根(あめひとつね)? 
天に接するひとつの根、という意味 →女島
天比登都柱(あめひとつばしら)? 
→伊伎島 天に接しているひとつ柱という意味
天両屋(あめふたや)? 
天空にかかる二つの屋根という意味 →両児島
吾屋惶城根尊(あやかしきねのみこと)? 
→阿夜訶志古泥神
吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)? 
→阿夜訶志古泥神
阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)? 
地開闢の神々の一柱。 『古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第六の神。 淤母陀流神と阿夜訶志古泥神は、男女の神。 『日本書紀』では、天地の最初に生まれた国常立尊、国狭槌尊、豐雲野尊、 土 尊・沙土 尊、大戸之道尊・大苫辺尊に続いた神世七代の第六代の神。 神から人への橋渡しとして、人体の完成を表わす神とする説、 整った容貌に対する畏怖を示すとする説、 神の言葉の神格化とする説、 あるいは、防塞守護の神とする説などいろいろ。 一般には青橿城根尊は阿夜訶志古泥神の別名だが、 『先代旧事本紀』では、青橿城根尊の別名は面足尊、沫蕩尊とあり、淤母陀流神としている。 『日本書紀』の一書では、青橿城根尊が伊弉諾尊・伊弉冉尊の親と書かれている。 また、他の一書では、国常立尊の子が天鏡尊、天鏡尊の子が天万尊、天万尊の子が沫蕩尊、沫蕩尊の子が伊弉諾尊と書かれている。 記紀ともに神世七代の第六の神であることから、 仏教(修験道)で信奉される天界最高位である第六の魔王・第六天に擬せられ、本地垂迹に説かれる場合がある。
綾惶根尊(あやかしこねのみこと)? 
→阿夜訶志古泥神
吾忌橿城神(あゆかしきのかみ)? 
→阿夜訶志古泥神
荒脛巾神(あらはばきがみ)? 
アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。 この神については、諸説あり、その要約をWikipediaから転載しておく。 ○民間の俗説/足腰の神説 「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から「長脛彦」を祀るともされた。 ○吉野裕子/蛇神説 吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説で唱えられているもの。 吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。 伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく 。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。 ○谷川健一/塞の神説 宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川は述べている。 さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」であり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけたともいっている。 ○近江雅和/製鉄民説 先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。 近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。 ○真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる。 荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。 これは、「客人神」の記事で説明している。 また当然かもしれませんが、所沢市三ヶ島の「中氷川神社」に摂社「八坂神社(祭神:須佐之男命)」があり、 ここに、「荒脛社(あらはばきしゃ)」を合祀してあり、ご祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)、足摩乳命(あしなづちのみこと)と説明されている。 ○「客人神」の記事のなかで、「荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある」と書いておきましたが、それは折口信夫氏の説です。 折口信夫氏は、次のように述べている。 「地主神みたいな、神杜以前の土着神―おそらく土地の精霊―を、かえって客神として取り扱う。だからあべこべに、ほんとうの後来神または、時あって来る神を客神、客人権現などいう名で示していないのだと思います」つまり、客人神というのは、後来の神ではなくて、神社の建つ前の地主神、もしくは土着神」だというのである。 この説明が、しっくりくる。
淡島(あわしま)? 
水蛭子(ひるこ)の次に伊邪那美神と伊邪那岐神から生まれた子供、子供として数えないことにした。
淡島様(あわしまさま)? 
→淡島明神。
淡島明神(あわしまみょうじん)? 
婦人病に霊験あらたか。 全国の淡島神社に祭られる女性を婦人病から守る女神。「淡島明神(あわしまみょうじん)」、「粟島大明神(あわしまだいみょうじん)」とも呼ばれる。しかし、淡島神社の本社である和歌山県にある加太神社の祭神は元来少名毘古那神である。淡島様信仰は江戸元禄時代に淡島願人と呼ばれる乞食行者が、淡島様の小宮をたずさえたり、背負ったりして、その由来を語り、門付けをして諸国を行脚していたことで広まった。それによれば、淡島様は元々住吉神社の女房神だったが、「帯下の病(帯下とは女性性器からの分泌物のこと。婦人病の一種のことだと思われる)」に罹ったため、大社の門扉に乗せて海に流され、和歌山に流れ着き女性の守り神となったという。婦人病、縁結び、安産の神として信仰を集め、花柳病(性病のこと)や婦人病に罹った女性が淡島様に腰布を奉納して平癒を祈願することもあった。 淡島様が婦人病などの関連視されるに至った理由は、おそらく「日本書記」の「及至産時、先以淡路洲爲胞(産む時に至るに及びて、先ず淡路洲(あわじしま)を以て胞(え)とす)」という記述からと思われる。また俗に淡島様は婆利塞女(はりさいにょ)で、住吉の神に嫁ぐにあたり人形を作り夫婦の道を学んだという謂れが伝わっている。
粟田真人(あわたのまひと) ????~719
奈良時代の公卿。 生年不詳-養老3.2.5 (719.2.28) 粟田氏は春日、大宅、小野、柿本氏らとともに、古くは和珥(和邇とも書く)氏の同族氏族である。 天武10(681)年小錦下の位を受け、同13年朝臣の姓を与えられた。 持統3(689)年には筑紫大宰としてみえ、文武天皇の時代には大宝律令の編纂にも参加した。 大宝1(701)年直大弐の位で、民部尚書の職にあり遣唐執節使に任命されたが、この年は天候に恵まれず翌2年6月唐へ出発した。 同行者には僧道慈や万葉歌人の山上憶良らもいたという。 翌3年、唐の長安(西安)に至って則天武后に謁見、経史をよく読み、容姿温雅だとして司膳員外卿に任命されたという。 慶雲1(704)年に帰国、その功績によって大和国(奈良県)に水田20町、穀1000石を与えられた。 同2年中納言に任命され、政局に参加。 和銅1(708)年に大宰帥に再任。 遣唐使としての功績は、白村江の戦(663)以来初めての遣唐使として、直接唐との正規の外交を樹立し、外交政治上も重要な任務を果たしたことである。 天武14年には位を父(春日粟田臣百済か)に譲ろうとするなど性質は温雅で経史にも詳しかったから、律令の編纂にも参加させられ、ひさびさの遣唐使の大任もまかされたのであろう。
沫那藝神(あわなぎのかみ)? 
河口の陸側の水面の神。 水面が穏やかであることの神。
沫蕩尊(あわなぎのみこと)? 
→於母陀流神
沫那美神(あわなみのかみ)? 
河口の海側の水面の神。 水面が泡立っていることの神様です。