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ジュンガル部

ジュンガル部
ガルタン・ハーン(1645?~1697)
  オイラトジュンガル部の首長。在位1676~1697。バートル・ホンタイジ(巴図爾琿台吉)の子。幼少のころ、パンチェン・ラマ一世やダライ・ラマ五世に師事した。康煕九年(1670)、兄センゲが異母兄たちに殺されると、その仇を討ち、また叔父チョクル・ウバシを倒して、ジュンガル部を制した。十六年(1677)、ホシュート部のオルチド・ハーンを倒して自立。ダライ・ラマ五世によって持教受命王の称号を受けた。十八年(1679)、トルファン・ハミを服属させた。カシュガル・ヤルカンドを支配し、東隣のハルハ部に侵入して、朝の北西を脅かした。三回にわたって康熙帝の親征を受けて、三回目の三十六年(1697)には大敗してついにアルタイ山中で自殺した。
ガルタン・ツェレン(?~1745)
  ジュンガル部の首長。在位1727~1745。ツェワン・アラブタンの子。父の跡を継いでカザフに侵入し、またモンゴル漠北地方に侵入した。雍正九年(1731)には和通泊で傅爾丹率いる軍を破ったが、翌年にツェレン親王率いる軍に大敗し敗走した。乾隆四年(1739)、ハルハ部との境界が確定すると、ふたたびカザフ草原に進出し、タシュケントやトゥルキスタンを占領し、バダフスタンを従属させた。・露間の中継貿易によって栄え、中央アジアに大帝国を築いた。

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