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代宗徳宗期


(高祖太宗期,高宗武周期,睿宗玄宗期,代宗徳宗期,憲宗穆宗期,文宗武宗宣宗期,懿宗僖宗期,昭宗昭宣帝期),ウイグル,吐蕃,南詔,渤海
高祖(李淵)-太宗(李世民)-高宗(李治)-中宗(李顕)-睿宗(李旦)-〔周・武則天〕-中宗復辟-睿宗復辟-玄宗(李隆基)-粛宗(李亨)-宗(李豫)-徳宗(李适)-順宗(李誦)-憲宗(李純)-穆宗(李恒)-敬宗(李湛)-文宗(李昂)-武宗(李炎)-宣宗(李忱)-懿宗(李漼)-僖宗(李儼)-昭宗(李傑)-哀帝(李祝)
※中(766~835)
賈至(718~772)
  字は幼幾、または幼隣。洛陽の人。天宝十載(751)、経に及第した。起居舎人・知制詔に至る。安禄山の乱が起こると、玄宗とともにに避難し、帝位を皇太子(粛宗)に譲る詔勅を起草した。その後、一時罪をえて巴陵に流され、李白とともに酒宴に日を送ったこともある。大暦五年(770)には京兆尹・御史大夫となり、右散騎常侍に至った。
結(723~772)
  字は次山、号は漫叟。汝州山の人。天宝十二載(753)、進士に及第した。安禄山の乱を避けて湖北の西塞山中にこもった。史思の乱が起こると、粛宗に召し出されて、乱の討伐にあたった。監察御史・水部員外郎・道州刺史・左将軍などを歴任した。母の死を理由に退官して、隠棲した。死後、礼部侍郎を追贈された。『次山文集』。
僧不空(705~774)
  モーガヴァジュラ。三蔵法師。北インドの人。剛智に師事して訳経に協力した。開二十九年(741)に剛智が没すると、セイロンに渡り、密教経典千二百巻をえて、天宝五載(746)に長安に戻った。玄宗の勅命で鴻臚寺に住持した。粛宗・宗に講義して師と仰がれた。永泰年(765)、特進士鴻臚卿となる。大暦九年(774)、開府儀同三司を加え、粛国公に封ぜられた。
独孤及(725~777)
  字は至之。洛陽の人。天宝十三載(754)、進士に及第した。はじめ華陰の尉となり、宗のとき左拾遺に任ぜられた。太常博士・礼部員外郎から濠州・舒州・常州の刺史を歴任した。『毘陵集』。
劉晏(715?~780)
  字は士安。曹州南華の人。七歳のとき、神童科に挙げられた。はじめ秘書省正宇となった。殿中侍御史・河南尹・京兆尹・戸部侍郎・御史中丞・国子祭酒などを歴任した。粛宗の時に塩鉄使・鋳銭使・転運使などをつとめ、塩の専売制度を確立して、安史の乱の後の財政建て直しに尽力した。宗の宝応年間に、吏部尚書・平章事・領度支塩鉄転運租庸使(宰相)となった。楊炎と合わず、徳宗のになって忠州刺史に左遷されたのち、謀反の冤罪を着せられて殺された。
張渭(721?~780?)
  字は正言。河内の人。はじめ嵩山にこもって読書にふけった。天宝二載(743)、進士に及第した。節度使の幕僚として北辺に鎮したが、罪をえて免官となり、薊門のあたりを放浪した。のちに無実が証されて尚書郎となり、礼部侍郎に上った。のちに潭州刺史に左遷された。
銭起(722~780)
  字は仲文。興の人。天宝十載(751)、進士に及第した。校書郎・藍田尉・考功郎中などを歴任した。大暦年間には太宮使・翰林学士に上った。大暦十才子のひとり。写景詩に長じ、隠逸を望む意志をよく表現した。『銭考功集』。
郭子儀(692~781)
  字も子儀。華州鄭県の人。郭敬之の子。武挙に及第してに仕えた。天宝八載(749)、横塞軍使となった。天徳軍師・九原太守・朔方節度右兵馬使となった。十四載(755)安史の乱が起こると、河東節度使の李光弼とともに河北地方を転戦して、叛乱の討伐に活躍し、雲中・馬邑を収めて、御史大夫に上った。粛宗が霊武で即位すると行在所に赴き、兵部尚書に任ぜられて、朝再建に尽くした。ウイグルの援兵をえて、長安・洛陽を奪回した。のちに宦官の讒言にあって失脚した。宗の時になると、現役に復帰して、吐蕃の侵入を撃退し、僕固懐恩の乱を鎮圧した。そのため太尉・中書令に上り、尚父の称号を受けた。
楊炎(727~781)
  字は公南、号は小楊山人。鳳翔天興の人。はじめ河西節度使・呂崇賁の書記をつとめた。起居舎人として召されたが応じず、父の喪に服した。喪がけたのち、司勲員外郎・中書舎人を歴任した。載の推挙を受けて、吏部侍郎・史館脩撰に上った。しかし載が失脚すると、道州司馬に左遷された。大暦十四年(779)、徳宗の即位とともに門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に上った。翌年、両税法を施行した。廬紀の讒言を受けて崖州司馬に流され、のち殺された。
朱泚(742~784)
  幽州昌平の人。弟の朱滔とともに盧龍節度使李懐仙の部将となった。朱希彩がわって盧龍節度使となると、深く信任を受けた。大暦七年(772)、朱希彩が部下に殺されると、人々に推されて留後となり、朝廷により盧龍節度使に任ぜられた。九年(774)、長安に入朝して、弟に節度使の職務を行させた。十二年(777)、隴右節度使となった。建中三年(782)、朱滔がにそむくと、朱泚は免職されて長安に抑留された。翌年、涇原で兵変が起こり、徳宗が奉天に逃亡すると、兵変を起こした兵士たちは朱泚を擁して帝位につけ、国号をとし、応天と建した。翌年、国号をと改め、天皇年とし、朱滔と呼応した。兵を奉天に進めようとしたが、李晟に敗れて、涇州に逃亡した。のちに寧州彭原で部下の廷芬のために殺された。
顔真卿(709~785)
  字は臣。琅邪郡臨沂の人。顔之推五世の孫にあたる。開二十二年(734)、進士に及第した。はじめ監察御史・武部員外郎などをつとめた。楊国忠に嫌われ、平原太守となった。安禄山が乱を起こすと、従兄の顔杲卿とともに義兵を起こして抵抗した。粛宗のもとに駆けつけ、の再建に尽力した。直言をはばからなかったので、疎まれることが多く、概して不遇であった。蒲州・華州・饒州・湖州の刺史を歴任し、戸部侍郎・吏部侍郎・尚書右尚などをつとめた。淮西で叛乱を起こした李希烈の説得に赴いたが捕らわれ、三年の幽閉ののちに殺された。王羲之以来の書の名手として知られる。
盧杞(734?~785)
  字は子良。渭州霊昌の人。建中初年に御史中丞となった。御史大夫を経て、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に上った。楊炎を失脚させて政務を専断した。賢能の人士を忌み遠ざけ、酷刑を濫用したので吏民の恨みを買った。李懐光の乱のために、罪をえて州司馬に流され、さらに吉州長史に貶された。最後は澧州別駕として任地で没した。
劉長卿(709?~785?)
  字は文房。河間の人。若い頃は嵩山にこもって読書し、のちにハ陽に移住した。開二十一年(733)、進士に及第した。至徳年間に監察御史から検校祠部員外郎・転運使判官を歴任し、知淮西岳鄂転運留後となった。のち無実の罪で投獄され、南巴の尉に左遷された。ある人が弁してくれたので、睦州司馬に移り、随州刺史にいたった。五言詩にすぐれ、「五言の長城」と自称した。『劉随州集』。
李希烈(?~786)
  燕州西の人。の徳宗のとき、淮西節度使に任ぜられた。建中二年(781)、李惟岳・田悦・崇義らがにそむいて起兵すると、李希烈は詔を奉じて討伐にあたり、南平郡王に封ぜられ、南・北兵馬招討使を兼ねた。崇義を追撃して自殺させた。翌年、平廬・淄青節度使を兼任し、淄青の李納を討つよう命を受けたが、かえって李納と通じ、河北の朱滔・田悦らと結んで、天下都帥・建興王を自称した。興年(784)、汴州に攻め入って、まもなく帝を称し、武成と建した。しかし劉洽に敗れて蔡州に逃げ帰った。貞二年(786)、部将の仙奇に毒殺された。
韓滉(723~787)
  字は太冲。長安の人。韓休の子。宗のとき、尚書右丞・戸部侍郎・判度使となった。のち浙江東西観察使・鎮海軍節度使に遷った。徳宗のとき、藩鎮の乱が相次ぎ、朝廷を支援して、糧食を供給した。貞初年、宰相に上り、江淮転運使を兼ねた。画にたくみで人物画・田園画にすぐれた。「文苑図」、「五牛図」が伝わった。
僧馬祖(709~788)
  俗姓は馬。名は道一。大寂禅師。州什邡の人。幼いときに出家した。開年間に衡山の伝法院に禅を学び、懐譲に師事した。建陽・臨川・南康で禅法を伝えた。のち洪州開化寺に住持した。「心の外に別仏なく、仏の外に別心なし」を宗旨とし、禅宗の「棒喝」の先駆となった。
戴叔倫(732~789)
  字は幼公。壇の人。永泰年(765)、進士に及第した。翌年、戸部尚書劉晏の幕下で仕えた。劉晏の推挙で湖南転運留後に任ぜられた。撫州刺史・容管経略史などを歴任した。晩年、出家して道士となった。『戴叔倫詩集』。
李端(732~792)
  趙州の人。李嘉祐の甥にあたる。若いころは盧山に住み、皎然に師事して学んだ。大暦五年(770)、進士に及第した。校書郎となったが、多病のため辞任して、終南山の草堂寺に住んだ。その後、杭州司馬に任ぜられたが、俗務を好まず、ついに衡山に移住し、衡岳幽人と称して隠者の生活を送った。大暦十才子のひとり。
道玄(?~792)
  小吏として地方を転々としたが、玄宗に認められて宮廷に入り、内教博士にまで上った。人物・鬼神・鳥獣・草木などを描いて巧みであった。山水画に立体感を与える画法を生み出した。
景浄(?~?)
  本名はアダムズ。長安の大寺に住持し、景教(キリスト教ネストリウス派)を広めた。経典三十種を翻訳した。また大景教流行中国碑の碑文を撰した。
粛(753~793)

僧寒山(?~793?)
  経歴不詳。天台山の翠屏山に隠居し、国寺の僧の拾得と交友した。癲狂な詩僧として知られた。寒山と拾得の間の友情は、和合二聖(和合二仙)といわれて後世に主題としてしばしば取り上げられた。また寒山文殊・拾得普賢と併称された。『寒山詩集』。
李観(767~795)
  洛陽の人。の乾年間、朔方節度使の郭子儀に従い、策を献じた。坊州刺史伷の下で防遏使をつとめた。広徳初年、吐蕃の攻撃に対して郷里の子弟を率いて黒水の西を守備すると、吐蕃もかれをはばかって避けたという。嶺南節度使楊慎微の知見をえて、偏将となり、広州の軍政を総覧した。広州で徐浩・李勉らに歴仕した。馮崇道の乱や朱泚の乱の平定に功を挙げ、大将に進んだ。李勉が滑州にうつると、推挙をうけて試殿中監・開府儀同三司となり、右龍武将軍となった。建中末年、涇の軍がそむくと、千余人を率いて奉天に駐屯し、諸軍を訓練した。興年(784)、四鎮北庭行軍涇原節度使・検校兵部尚書となり、治績を挙げた。少府監・検校工部尚書となり、まもなく病没した。
僧懐素(?~?)
  俗姓は銭。字は蔵真。永州零陵の人。銭起の従甥にあたる。貧家に生まれ、幼くして出家した。酒を飲むと筆をふるい、張旭と並んで「張顛素狂」と称され、破天荒な草書の書風で知られた。晩年は洛陽に住んだ。
陸羽(733?~803?)
  字は鴻漸、号は東崗子。復州竟陵の人。三歳のとき、孤児となり僧院で育てられた。やがて役者となり、一座の座長に上った。のち苕渓に隠居し、文人・学者と交遊した。茶を好み『茶経』を著した。中国茶道の祖として貴ばれた。
韋応物(737~804?)
  京兆杜陵の人。若い頃は任侠を好み、玄宗の護となったが、帝の死後は行状をあらためて読書に志した。宗のとき洛陽丞となり、累進して櫟陽の令となったが、辞職して都に帰り、善福寺精舎に住んだ。建中二年(781)、比部員外郎に任じられ、江州刺史・左司郎中などを歴任したが、同僚にそねまれ、蘇州刺史に転出させられた。文宗のとき、太僕少卿・御史中丞、諸道塩鉄転運江淮留後に任ぜられ、退官後永定精舎に住んだともいうが、真偽は疑わしい。『韋蘇州集』。
韓翃
  字は君平。南陽の人。天宝十三載(753)、進士に及第した。淄青節度使侯希逸に招かれて幕下に入ったが、辞任する。十年間の浪人生活の後、宣武節度使・李勉に招かれて幕僚となった。その後、徳宗に認められて駕部郎中・知制誥に任ぜられて、中書舎人に至った。大暦十才子のひとり。『韓君平詩集』。
賈耽(730~805)
  字は敦詩。滄州南皮の人。宗のとき、汾州刺史・鴻臚卿・山南西道節度使を歴任した。徳宗のとき、東都留守・滑州刺史などをつとめた。貞九年(793)、右僕射・同中書門下平章事に上った。宰相位にあること十三年に及んだ。国公に封ぜられた。地理や辺境情勢に通じ、資料を収集分析して「海内華夷図」を作った。また『古今郡国道県四夷述』を著した。
陸贄(730~805)
  字は敬輿。蘇州嘉興の人。十八歳のとき、進士に及第した。華州鄭県の県尉・渭南県主簿・監察御史などを歴任した。徳宗が即位すると、翰林学士となった。帝の不興も恐れず、帝の重用していた盧杞の罪を鳴らしてやまなかったという。建中四年(783)、朱泚が叛乱を起こすと徳宗に従って奉天に避難した。官は考功郎中に遷った。朱泚が大皇帝を名乗って勢威をほこったため、陸贄は徳宗に己を罪する詔を下すことを勧めた。その方策はあたって、罪を許された藩鎮が帰順したので、危機は去った。李懐光が叛乱したときも、徳宗は州に逃れたが、陸贄は諫議大夫としてこれに従った。貞八年(792)、中書侍郎・同門下同平章事(宰相)に上った。両税法の改革を推進した。十年(794)、裴延齢の讒言を信じた徳宗により宰相職を罷免され、太子賓客に任ぜられた。翌年、旱害や辺境防備について上疏したところ、かえって誣告を受けて忠州別駕に左遷された。忠州にあること十年、順宗が呼び戻そうとしたが、詔書が届く前に病没した。『陸氏集験方』。
↓次の時憲宗穆宗期

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