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南燕

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
南燕(398~410)]
世宗(慕容徳)-北海王(慕容超)
慕容徳(336~405)
  字は玄南燕の初世宗献武帝。在位398~405。昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。前燕の慕容皝の末子。前燕の烈祖(慕容儁)のとき、公に封ぜられた。幽州刺史・左将軍を歴任し、幽帝(慕容暐)のとき、安北将軍に上り、范陽王に改封された。建煕十年(369)、慕容垂とともに枋頭で桓温を破った。前燕が滅ぶと前秦に服属し、張掖太守・奮威将軍をつとめた。慕容垂が自立して後燕を建てると、車騎大将軍に任ぜられ、范陽王に復した。侍中・尚書令・司徒を歴任した。後燕の烈宗(慕容宝)のもとで都督六州諸軍事・冀州牧に任ぜられ、鄴に鎮した。烈宗が北魏に敗れると、丞相に上った。永康三年(398)、滑台に移って燕王を称した。翌年、北魏の圧迫を受けて広固に東遷した。さらに翌年、帝を称し、建平と建した。建平四年(403)、四十万の兵を率いて東晋に遠征しようとしたが、病に倒れたため止んだ。のち病没した。
慕容超(385~410)
  字は祖南燕の二北海王。在位405~410。慕容納の子。羌中で生まれ、成長すると東帰して叔父の慕容徳を頼った。北海王に封ぜられ、侍中・驃騎大将軍・司隷校尉をつとめた。慕容徳に子がなかったため、太子に立てられた。建平六年(405)、慕容徳が病没すると、位を継ぎ、太上と改した。遊猟を好み、宗室大臣を虐めることを喜んだ。王侯や州刺史たちは、あるいは没し、あるいは逃げた。肉刑酷法を復活しようとして、衆議の反対に遭った。太上五年(409)、東晋の劉裕が来攻し、臨昫で迎撃して敗れ、広固に逃げ帰って包囲された。翌年、城破れて捕らえられ、南燕は滅んだ。建康に送られて処刑された。

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