楚
[楚(前11c.~前223)]
⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓
鬻熊-熊麗-熊狂-熊繹-熊艾-熊タン-熊勝-熊楊-熊渠-熊摯紅-熊延-熊勇-熊厳-熊霜-熊徇-熊咢-若敖(熊儀)-霄敖(熊坎)-蚡冒(熊眴)-武王(熊通)-文王(熊貲)-荘敖(熊艱)-成王(熊惲)-穆王(商臣)-荘王(侶)-共王(審)-康王(招)-郟敖(員)-霊王(囲)-新王(比)-平王(熊居)-昭王(珍)-恵王(章)-簡王(中)-声王(当)-悼王(熊疑)-肅王(臧)-宣王(熊良夫)-威王(熊商)-懐王(熊槐)-頃襄王(横)-考烈王(熊元)-幽王(悍)-哀王(猶)-負芻
鬻熊(?~?)
季連の末裔。周の文王(姫昌)の師をつとめたという。楚の国祖にあたる伝説的人物。
熊繹(?~?)
熊狂の子。周の成王のとき、楚子となり、羋姓を賜った。丹陽に住んだ。
熊渠(?~?)
熊楊の子。長江と漢水の間の地を平定し、庸族や楊粤を討って、鄂にいたった。蛮人を自称し、周王に朝覲しなかった。長男の毋康を句亶王に、次男の摯紅を鄂王に、三男の執疵を越章王に封じた。周の厲王のとき、周による征伐を恐れて王号を称するのをやめた。
熊摯紅(?~?)
熊渠の次男。熊渠により鄂王に封ぜられた。熊渠が亡くなると、その跡を継いだ。弟の熊延に殺された。
熊延(?~?)
熊渠の子。熊摯紅の弟にあたる。熊摯紅を殺して立った。
熊勇(?~前838)
在位前848~前838。熊延の子。熊延が亡くなると、その跡を継いだ。
熊厳(?~前838)
在位前838~前828。熊延の子。熊勇の弟にあたる。熊勇が亡くなると、その跡を継いだ。
熊霜(?~前822)
伯霜。在位前828~前822。熊厳の長男。熊厳が亡くなると、その跡を継いだ。
熊徇(?~前800)
季徇。在位前822~前800。熊厳の四男。長兄の熊霜が亡くなると、次兄の仲雪・三兄の叔堪と争い、仲雪は死に、叔堪は濮に亡命して、位を継いだ。
熊咢(?~前791)
在位前800~前791。熊徇の子。熊徇が亡くなると、その跡を継いだ。
若敖(?~前764)
熊儀。在位前791~前764。熊咢の子。熊咢が亡くなると、その跡を継いだ。ときに周王室が衰え、諸侯の力が強まった。
霄敖(?~前)
熊坎。在位前764~前758。楚の若敖(熊儀)の子。若敖が亡くなると、その跡を継いだ。
蚡冒(?~前741)
熊眴。在位前758~前741。楚の霄敖(熊坎)の子。霄敖が亡くなると、その跡を継いだ。
楚の武王(?~前690)
熊通。在位前741~前690。楚の霄敖(熊坎)の子。蚡冒(熊眴)の弟にあたる。蚡冒が亡くなると、蚡冒の子を殺して、跡を継いだ。三十五年(前706)、軍を率いて随を攻撃し、楚の爵位を上げるための工作を随に強要したが、随の仲介にもかかわらず周王は認めなかった。熊通は怒って、自ら王号を名乗った。随と盟を結び、濮の地を領有した。のちに鄧・鄖・絞を討って破り、また権を滅ぼした。楚の強盛はかれの代より始まった。五十一年(前690)、周王が随侯を召して、楚に王号を名乗らせたことを問責した。楚は随が周に寝返ったものと決めつけ、随を攻撃した。その陣中で武王は亡くなった。
楚の文王(?~前677)
熊貲。在位前690~前677。楚の武王(熊通)の子。武王が亡くなると、その跡を継いだ。郢を都とした。二年(前688)、申を攻撃した。六年(前684)、蔡を討ち、蔡の哀侯を捕らえたが、まもなく解放した。十二年(前678)、鄧を滅ぼした。
楚の荘敖(?~前672)
熊艱。在位前677~前672。楚の文王(熊貲)の子。文王が亡くなると、その跡を継いだ。五年(前672)、弟の熊惲を殺そうとして、かえって自分が殺された。
楚の成王(?~前626)
熊惲。在位前672~前626。楚の文王(熊貲)の子。荘敖(熊艱)の弟にあたる。荘敖に殺されそうになって、随に亡命し、随人の助力をえて荘敖を殺し、位を継いだ。国人に恩恵を施し、諸侯と友好を固め、周王に貢献した。十六年(前656)、斉の桓公の軍が侵入した。成王は楚から周王へ賦を送ることを桓公に約して、斉軍の撤退をさせた。許を討ち、黄を攻め、英を滅ぼした。三十三年(前639)、宋の襄公が諸侯を招集すると、成王も盂にいたり、宋公を捕らえて辱め、宋に送り返した。三十五年(前637)、晋の重耳をもてなし、秦に送り出した。三十九年(前633)、魯の要請を受けて斉に出兵し、穀を落として公子雍を住まわせた。また祝融と鬻熊の祭祀を怠ったことを理由に夔を滅ぼした。宋を攻撃し、晋と城濮で戦って敗れた。四十六年(前626)、太子の商臣を廃そうとして、かえって商臣の兵に包囲された。熊の掌の肉を食べさせてほしいと懇願したが許されず、自縊を強いられた。
楚の穆王(?~前614)
名は商臣。在位前626~前614。楚の成王(熊惲)の子。太子に立てられたが、のちに成王が弟の職を太子にしようとしたため、潘崇の助言を受け、兵を率いて成王を囲み、自殺に追いこんだ。即位し、潘崇を太師に任じて国政を執らせた。三年(前623)、江を滅ぼした。翌年、六と蓼を滅ぼした。八年(前618)、軍を率いて鄭を討ち、次いで陳を攻撃した。鄭・陳を楚に帰附させた。翌年、宋を帰附させて、孟諸で諸侯と狩猟した。同年、謀反の罪で大夫の子西・子家を誅した。十年(前616)、軍を率いて麇を討ち、鍚穴にいたった。翌年、舒の諸国が楚に叛いたので、子孔に兵を率いて鎮圧にあたらせて、舒の君と宗の君を捕らえさせた。次いで巣を囲ませた。
楚の荘王(?~前591)
名は侶。在位前614~前591。楚の穆王(熊商臣)の子。即位して三年の間、無為に過ごし、歓楽をきわめ、諫める者は死罪にすると触れを出した。臣下の伍挙が参内し、荘王に謎かけを出した。「鳥がいて、三年たっても飛ばず鳴かず、これは何の鳥でしょう」。荘王は答えて、「三年間は飛ばなかったが、飛び上がったときには天に届く。三年間は鳴かなかったが、その鳴く声に人は驚く」と答えた。しばらくして、荘王は放蕩をやめ、放蕩を勧めた家臣を粛正し、彼をいさめた家臣を昇進させた。伍挙や蘇従らに国政を分担させた。その後、庸を滅ぼし、宋を攻め、戎を討って、洛水にいたり、周の都に対して兵力を示威した。そのとき、周の定王の使者に周朝に伝わる「鼎の軽重を問う」た。帰国して若敖氏を討ち、舒を滅ぼし、陳・鄭を攻めた。鄭を救援した晋の軍と黄河のほとりで決戦し、大勝した。また、楚の使者を殺した宋の城を包囲したが、宋の華元が食糧が尽きた窮状を訴えると、軍を退いた。
楚の共王(?~前560)
名は審。在位前591~前560。楚の荘王(熊侶)の子。荘王が亡くなると、その跡を継いだ。十二年(前579)、公子罷・許偃に命じて晋の士燮と宋国の西門外で会させ、和平を結ばせた。十六年(前575)、鄭を救援するために出兵し、鄢陵で晋軍と戦った。戦い敗れて、流れ矢が王の目に突き立った。このとき、酒に酔っていた将軍の子反を殺して、兵を引き揚げた。十八年(前573)、鄭とともに宋を攻め、彭城を落とし、晋と呉の連絡を断ち切らせた。臨終にあたって鄢陵の敗戦を楚の恥とし、「霊」もしくは「厲」を諡とするよう遺言したが、守られなかった。
楚の康王(?~前545)
名は招。在位前560~前545。楚の共王(熊審)の子。五年(前555)、令尹の子庚に鄭を攻めさせたが、成果のないまま引きあげた。九年(前551)、令尹の子南が観起を重用し、楚人の評判が悪かったため、子南と観起を処刑した。十三年(前547)、秦と結んで呉を討とうしたが、呉の備えが整っていることを聞いて退いた。次いで鄭を攻めて、これを破った。翌年、宋の華元の周旋で、晋をはじめとした諸侯と弭兵の盟を結んだ。十五年(前545)、亡くなった。
楚の郟敖(?~前541)
名は員。在位前545~前541。楚の康王(熊招)の子。叔父の子囲・子比・子皙・弃疾らを信任した。四年(前541)、病にかかって床に伏せたところ、令尹の子囲に首を絞められて殺された。
楚の霊王(?~前529)
名は囲。在位前541~前529。楚の共王(熊審)の子。康王(熊招)の弟にあたる。甥の郟敖(熊員)のもとで令尹をつとめた。郟敖四年(前541)、鄭に使者としておもむき、郟敖の病を聞いて急遽帰国。見舞いにかこつけて郟敖を殺した。即位後、虔と改名した。霊王三年(前538)、申の地で会盟を主催した。諸侯の兵を率いて呉を攻め、朱方を落として慶封を捕殺した。七年(前534)、章華台が完成した。翌年、公子弃疾に陳を攻めさせ、これを滅ぼした。十年(前531)、蔡の霊侯を召し、酔わせて殺した。弃疾に蔡を平定させた。翌年、徐を攻めた。十二年(前529)、霊王は乾谿の地を好んで離れなかった。子比が帰国して王位につくと、霊王は人心を失って一人さまよい、飢え、申亥に庇護されたが、まもなく衰弱して死んだ。
楚の新王(?~前529)
名は比。在位前529。楚の共王(熊審)の子。康王(熊招)や霊王(熊囲)の弟にあたる。郟敖に信任された。霊王が即位すると、晋に亡命した。霊王十二年(前529)、蔡にうつり、鄧で弃疾と会見し、帰国して太子禄を殺して、即位した。子皙を令尹とし、弃疾を司馬とした。新王は霊王の帰還をおそれており、霊王が帰還したとする弃疾の流した虚報に惑わされて自殺した。
楚の平王(?~前516)
もとの名は弃疾。在位前529~前516。楚の共王(熊審)の子。康王(熊招)や霊王(熊囲)の弟にあたる。霊王のとき、陳を討ち、蔡を平定した。霊王十二年(前529)、鄧で子比と会見し、帰国させて王位につけた。新王は霊王の帰還をおそれていたので、弃疾が霊王が帰還したとする虚報を流すと、自殺した。楚の王位につき、熊居と改名した。即位にいたる経緯に負い目を感じていたため、人心を失うことをおそれ、人々に恩恵をほどこし、陳・蔡の国を復興させ、鄭に奪った地を返還した。二年(前527)、費無忌を使者として秦に送り、太子建のために秦の公女を迎えさせた。美女であったために奪って妃とした。王は費無忌の讒言によって太子建をうとんずるようになった。六年(前523)、太子建は宋に亡命した。王は費無忌の言に従って、伍奢・伍尚を殺した。伍子胥は呉に亡命した。十年(前519)、国境の紛争から発して呉の卑梁の邑を壊滅させ、呉の怒りを買った。呉の公子光が来攻し、鍾離と居巣を失い、陳・蔡を落とされた。平王はおそれて郢に城壁を築いて備えた。十三年(前516)、亡くなった。昭王十年(前506)、呉軍が郢を陥落させると、平王の屍は伍子胥に鞭打たれ、墓は破壊された。
楚の昭王(?~前489)
名は珍。在位前516~前489。楚の平王(熊居)の子。母は秦の公女で、太子建にとつぐはずだったが、平王に奪われた。太子建が宋に亡命すると、代わって太子に立てられた。平王が亡くなると、その跡を継いだ。元年(前515)、令尹の子常が費無忌を処刑したので、楚の国人は喝采を浴びせた。四年(前512)、呉のふたりの公子が亡命してきたので庇護した。翌年、呉に六と潜の城を奪われた。七年(前509)、子常に呉を討たせたが、豫章で敗れた。十年(前506)、呉王闔閭の軍が来寇し、楚軍は大敗した。都の郢は陥落し、昭王は逃亡した。王は雲夢に逃れ、味方に誤射されて負傷した。鄖城に入り、さらに随に逃れた。翌年、秦の援軍をえて呉軍を破った。呉の王弟夫概が乱を起こしたので、呉軍は帰国した。昭王は呉についた唐を滅ぼして、郢に帰還した。十二年(前504)、呉軍が再び来攻したので、郢を放棄して鄀に都をうつした。二十年(前496)、頓を滅ぼし、胡を滅ぼした。二十七年(前489)、呉軍が陳を攻めたので、救援におもむいて、城父に対峙したが、陣中で病に伏し、弟の子閭に後事を託して没した。
楚の恵王(?~前432)
名は章。在位前489~前432。楚の昭王(熊珍)の子。昭王が臨終にあたって、王位を弟の子申に譲ろうとしたが拒絶され、子結に譲ろうとしたが拒絶され、子閭に譲って辞退すること五度、引き受けさせた。しかし子閭は、子西・子綦らと図って、章を王位につかせた。二年(前487)、建の子の勝を呉から呼び戻して、巣の大夫に任じ、白公と称させた。六年(前483)、白公勝が旧怨ある鄭を攻めるよう上申し、令尹の子西は許可したが、実行されなかった。八年(前481)、鄭が晋に攻められて、楚に救援を求めた。子西は鄭を救援し、鄭から賄賂を受けた。白公勝は怒って、勇士を率いて宮廷に乗り込み、子西・子綦らを殺した。恵王は昭王の夫人の宮に逃げ込んで難を逃れた。白公勝は自ら立って王を称した。葉公が来援すると、恵王は白公勝を討ち滅ぼして、復位した。十三年(前476)、呉王夫差が来攻した。四十二年(前447)、蔡を滅ぼした。四十四年(前445)、杞を滅ぼし、秦と和睦した。五十七年(前432)、亡くなった。
楚の簡王(?~前408)
名は中。在位前432~前408。楚の恵王(熊章)の子。恵王が亡くなると、その跡を継いだ。元年(前431)、莒を討って滅ぼした。十九年(前413)、魏を攻めて、上洛にいたった。二十四年(前408)、亡くなった。
楚の声王(?~前402)
名は当。在位前408~前402。楚の簡王(熊中)の子。簡王が亡くなると、その跡を継いだ。六年(前402)、盗賊のために殺された。
楚の悼王(?~前381)
名は疑。在位前402~前381。楚の声王(熊当)の子。声王が殺害されると、その跡を継いだ。二年(前400)、韓・魏・趙の来攻を受け、乗丘まで攻め込まれた。四年(前398)、周を攻めた。九年(前393)、韓を攻撃して負黍を落とした。十一年(前391)、韓・魏・趙の来攻を受け、大梁と楡関で敗れた。のちに呉起を任用して変法に成功し、北に魏を破り、南に揚越を服せしめた。二十一年(前381)、亡くなった。
楚の肅王(?~前370)
名は臧。在位前381~前370。楚の悼王(熊疑)の子。悼王が亡くなると、その跡を継いだ。四年(前377)、蜀に攻められ、茲方を落とされた。扞関を造って、蜀に備えた。十年(前371)、魏の攻撃を受けて、魯陽を奪われた。翌年、亡くなった。
楚の宣王(?~前340)
名は良夫。在位前370~前340。楚の悼王(熊疑)の子。肅王(熊臧)の弟にあたる。肅王が亡くなると、その跡を継いだ。秦・魏・斉の強盛に苦しめられた。三十年(前340)、亡くなった。
楚の威王(?~前329)
名は商。在位前340~前329。楚の宣王(熊良夫)の子。宣王が亡くなると、その跡を継いだ。六年(前334)、出兵して越を討ち、越王無疆を殺し、越を滅ぼした。翌年、斉の田嬰が楚を欺いたので、楚は軍を発して斉を攻め、徐州で斉軍を大いに破った。田嬰を放逐するよう斉に要求したが、張丑の説得を受けて要求を取り下げた。十一年(前329)、亡くなった。
楚の懐王(?~前296)
名は槐。在位前329~前299。楚の威王(熊商)の子。威王が亡くなると、その跡を継いだ。六年(前323)、柱国の昭陽を遣わして魏を襄陵で破り、八邑を得た。さらに斉を攻めた。斉が陳軫を遣わして昭陽の軍中で説かせると、楚は撤兵した。十一年(前318)、六国が合従して秦を討つこととなり、合従の長となったが、楚は出兵せず、韓・魏・趙の兵が函谷関にいたったが、利を失って撤退した。十六年(前313)、張儀が秦より楚に入国し、商於六百里の地を割譲するとの虚言をえさに、楚が斉と断交して秦と結ぶよう勧めた。懐王は張儀の言に従った。翌年、秦が土地を割譲しなかったために、兵を発し、秦と丹陽で戦って大敗し、甲士八万を失い、大将七十余人が捕らえられた。漢中の地を失った。まもなく国中の兵ことごとくを動員して秦を攻め、藍田で戦ったが、また大敗した。十八年(前311)、秦が漢中の半分を割譲することで、楚と和平を結ぶよう申し出た。懐王は土地の代わりに張儀の身柄を要求した。張儀が楚にやってくると、身柄を拘束したが、靳尚と寵姫の鄭袖の言を聞き入れて張儀を釈放した。二十五年(前304)、秦の昭王と黄棘で盟約を結び、太子を人質として送り、上庸の地を返還された。二十八年(前301)、太子横(のちの頃襄王)が秦の大夫を殺して帰国すると、それを口実に秦は斉・韓・魏とともに楚を攻め、楚将の唐昧を殺した。翌年、また楚は秦の侵攻を受け、将軍景缺が斬られた。三十年(前299)、秦の昭王と武関で会することを約束し、秦に入国して拘束され、藩臣として待遇された。土地の割譲を求められたが、認めなかった。のちに秦で亡くなった。
楚の頃襄王(?~前263)
名は横。在位前299~前263。楚の懐王(熊槐)の子。太子に立てられた。懐王二十六年(前303)、人質として秦に送られた。翌年、秦の大夫と諍いを起こし、大夫を殺して逃げ、帰国した。二十九年(前300)、秦の攻撃を受けて楚が大敗すると、斉との和睦のため、人質として送られた。翌年、懐王が秦に抑留されると、斉から帰国して王位についた。頃襄王元年(前298)、秦軍の攻撃を受けて、十五城を奪われた。三年(前296)、懐王が秦で亡くなった。七年(前292)、秦と和睦した。十四年(前285)、秦の昭王と宛において会見して盟を結んだ。翌年、秦・韓・魏・趙・燕とともに斉を討ち、淮北を攻め取った。十六年(前283)、秦の昭王と鄢において、次いで穣において会見した。十八年(前281)、六国の再びの合従を企てて、秦の来攻を受けた。また周を滅ぼそうとして、西周武公の説得を受け、取りやめた。翌年、秦に敗れて、上庸と漢水の北の地を奪われた。二十年(前279)、秦の白起に西陵を奪われた。翌年、郢を落とされ、夷陵が焼き払われた。王は陳城に逃げ込んで守りを固めた。二十二年(前277)、巫郡・黔中郡を奪われた。翌年、秦に奪われた十五邑を奪回した。二十七年(前272)、韓・魏・趙が燕を討つのを助けて三万の兵を送った。秦と再び和睦した。三十六年(前263)秋、病没した。
楚の考烈王(?~前238)
名は元。一説に完ともいう。在位前263~前238。楚の頃襄王(熊横)の子。太子に立てられた。頃襄王二十七年(前272)、人質として秦に送られた。三十六年(前263)、黄歇の助力をえて秦から逃亡して帰国した。頃襄王が亡くなると、その跡を継いだ。黄歇を令尹とし、呉に領地を与えて春申君と称せしめた。考烈王元年(前262)、州の地を秦に割譲して和睦した。五年(前258)、秦軍が趙の邯鄲を包囲したので、景陽に楚の軍を率いさせて趙を救援させた。七年(前256)、魯を滅ぼし、魯の頃公を卞邑にうつした。二十二年(前241)、諸侯とともに秦を攻撃したが、利あらず撤退した。都を東の寿春にうつし、郢と称させた。二十五年(前238)、亡くなった。
楚の幽王(?~前228)
名は悍。在位前~前228。楚の考烈王(熊元)の子。考烈王が亡くなると、その跡を継いだ。即位後まもなく、李園が春申君を殺した。三年(前235)、秦と魏の軍に攻撃を受けた。十年(前228)、亡くなった。
楚の哀王(?~前228)
名は猶。また郝ともいう。在位前228。楚の考烈王(熊元)の子。幽王(熊悍)の同母弟にあたる。幽王が亡くなると、その跡を継いだ。即位わずか二ヶ月にして、庶兄の負芻の一党に襲殺された。
負芻(?~?)
在位前228~前223。楚の考烈王(熊元)の子。哀王(熊猶)の庶兄にあたる。かれの党与が哀王を殺し、擁立された。二年(前226)、秦の攻撃を受けて十余城を失った。四年(前224)、秦の王翦の軍のために楚軍は大敗して、楚将の項燕が殺された。翌年、秦の王翦・蒙武に都を落とされ、楚王負芻は捕らえられた。これをもって楚は滅んだ。
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