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荊南

五代十国(907~960)]
五代後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
荊南(907~963)]
武信王(高季興)-文献王(高従晦)-貞懿王(高保融)-(高保勗)-(高継沖)
高季興(858~926)
  もとの名は季昌。字は貽孫。荊南の武信王。在位907~928。陝州硤石の人。汴州の富戸李譲の家僮であったが、才能を見込まれて養子となった。成人して朱全忠に仕え、数々の軍功を立てた。天復三年(903)、州刺史に任ぜられた。後梁の開平年(907)、荊南節度使となる。朱全忠の死後、一時歳貢を停止したが、末帝から渤海王に封ぜられた。後唐の同光二年(924)、南平王に封ぜられた。のちに後唐と絶縁し、に服属した。王保義・震・孫先憲らを任用して、江陵城を修築し、治水事業を興し、節賦につとめて、領内は安定した。
高従晦(891~948)
  字は遵聖。荊南の文献王。在位929~948。高季興の長男。後梁の初年に供奉官となり、のちに荊南行軍司馬となった。父が亡くなると、荊南節度使となった。のちに後唐に帰順した。応順年(934)、南平王に封ぜられた。性格は権謀詐術に富み、四方に対して臣を称し、下に賢者を求めて礼を尽くし、刑を省いて賦役を軽くしたので、領内に小康の状態をもたらした。
高保融(920~960)
  字は徳長。荊南の貞懿王。在位948~960。高従晦の三男。父が没すると、位を継いだ。後周の顕徳年(954)、南平王に封ぜられた。後周の世宗(柴栄)が南唐を攻めたとき、呼応して援軍を出した。七年(960)、趙匡胤が北宋を建てると、おそれて一年に三回貢献した。まもなく没した。
高保勗(923~962)
  字は省躬。荊南の国主。在位960~962。高従晦の十男。建隆年(960)、兄の高保融が亡くなると、荊南節度使となった。土木建築を興し、享楽に節度を欠いたため、軍民に憎まれた。孫光憲がしばしば諫めたが、聞き入れなかった。
高継沖(943~973)
  字は成和。荊南の国主。在位962~963。高保融の長男。顕徳六年(959)、荊南節度副使となった。建隆三年(962)、高保勗が亡くなると、荊南節度使を継いだ。ときに荊南は兵三万を越えず、領内の民は苛斂誅求に苦しんでいた。翌年、の太祖(趙匡胤)が湖南討伐を名目に、江陵に道を借り、降伏を迫った。在位数ヶ月で、荊南は滅んだ。の武寧節度使・徐宿観察使に任ぜられた。徐州にあること十年近く、僚佐に恵まれて治績を挙げた。
孫光憲(?~968?)
  字は孟文、号は葆光子。貴平の人。農家に生まれたが、学問を好んだ。後唐に仕えて陵州判官となった。のちに江陵に居を移し、高季興に仕えた。高季興がと決戦しようとしたのを諫めて止めさせたという。荊南に仕えて、荊南節度副使・検校秘書少監を歴任した。乾徳年(963)、高継冲に勧めて、領土をの太祖に献じさせた。この功績で黄州刺史に任ぜられた。『北夢瑣言』。

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