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桓帝霊帝期

後漢(東)(25~220)]
光武中興期,明帝章帝和帝期,安帝順帝期,桓帝霊帝期,献帝期,匈奴
光武帝(劉秀)-帝(劉荘)-章帝(劉烜)-和帝(劉肇)-殤帝(劉隆)-安帝(劉祐)-少帝懿(劉懿)-順帝(劉保)-冲帝(劉炳)-質帝(劉纘)-桓帝(劉志)-霊帝(劉宏)-廃帝(劉弁)-献帝(劉協)
冀(?~159)
  字は伯卓。安定郡烏氏の人。商の子。妹の氏が順帝の皇后となったため、黄門侍郎・侍中虎賁中郎将・越騎歩兵校尉・執吾を歴任し、河南尹に上った。父が死ぬと後を継いで大将軍に上った。順帝・冲帝・質帝の間、朝廷の専権を握り、暴虐の限りを尽くした。質帝が冀のことを「跋扈将軍」と呼んだので、質帝を毒殺した。桓帝(劉志)の時にも、直節名臣の李固を殺すなど、反対者を粛しつづけた。ただ恐妻家で妻の孫寿には頭が上がらず、孫一族を優遇したため、一族に不和を生んだという。桓帝は単超ら宦官と結んで、冀ら一族をことごとく誅殺した。
王符(85?~162?)
  字は節信。安定郡臨経の人。若いころから学問を好み、名利を求める心が薄く、時風や世俗に従わなかった。生涯、官途につかなかった。気を万物の根源と論じ、農業や養蚕を富国の本と強調した。『潜夫論』。
馬融(79~166)
  字は季長。右扶風郡茂陵の人。安帝の永初四年(110)、校書郎に任ぜられた。鄧太后にさからって「広成頌」を上書したため、禁錮にあった。太后の死後、郎中として召され、のち議郎・武都太守・南郡太守などを歴任した。『易経』、『論語』、『毛詩』、『尚書』、『三礼』の註釈を書き、古文経学を成熟させた。また『列女伝』、『淮南子』、『老子』に註した。『馬季長集』。
蕃(?~168)
  字は仲挙。汝南郡平輿の人。十五歳のとき、天下の掃除人たることを自らに課した。楽安太守・尚書令・太尉・太傅を歴任した。零陵・桂陽の山民の叛乱が、現地の官吏の苛斂誅求に因があることを上疏した。また不義の者が封邑を受け、功績がない者が官位を授かり、爵位が賄賂の多寡によって決まり、後宮が数千の人員を抱えているといった弊政を桓帝に諫言した。このため、太学生や流派人士に高い名声があった。のちに竇武らとともに宦官一掃を謀ったが、事前に機密が洩れて、獄に下され殺された。
僧安世高(?~?)
  名は。世高は字。パルティアの王太子として生まれた。王位を叔父に譲って仏教修学を志した。諸国を遍歴したのち、建和二年(148)ごろ洛陽に来て帰化した。以後、小乗経典の翻訳に従事して、中国の仏教の基礎を作った。
僧支婁迦讖(?~?)
  大月氏国の人。桓帝の末年に洛陽にいたった。霊帝の光和・中平年間に、「般若道行品経」「首楞厳経」「般若三昧経」などの大乗経典の翻訳にあたった。大乗般若学を宣布した最初の僧として知られる。
李膺(110~169)
  字は礼。潁川郡襄城の人。李益の子。孝廉に推挙され、青州刺史に上った。漁陽太守・護烏桓校尉・度将軍などを歴任した。延熹二年(159)、河南尹に任ぜられた。横領を告発してかえって罪に問われて免職となったが、許されて司隷校尉となった。党錮の禁が起こると投獄され、次いでまた免職になって、郷里に帰った。蕃が太傅に上ると、召されて長楽少府に任ぜられたが、宦官一掃を図って失敗し、拷問の末に処刑された。「登龍門」。
何休(129~182)
  字は邵公。任城郡樊の人。太傅蕃に召されて政治に参与した。蕃が失脚すると、党人として党錮の禁に遭った。党錮が解かれると、司徒・議郎・諫議大夫などを歴任した。六経の研鑽につとめ、今文諸経にくわしかった。公羊三世説(太平世・昇平世・衰乱世)を唱えて、後世の今文経学家の議論の重要な論拠となった。『春秋公羊解詁』。
張角(?~184)
  鉅鹿郡の人。太平道の教祖として「大賢良師」と称し、病の治療に借りて布教につとめ、八州にわたって数十万の信徒を獲得した。光和七年(184)の三月に洛陽で蜂起する計画を立てたが、事前に漏れたため決起した(黄巾の乱)。自ら天公将軍を名乗り、弟の張宝を地公将軍、張を人公将軍に任じて、叛乱を起こした。その年の十月に病死した。
↓次の時後漢献帝期

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