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突厥

突厥(552~8c.)]
突厥(東突厥)]伊利可汗(土門)-乙息記可汗(科羅)-木杆可汗(俟斤)-他鉢可汗-沙鉢略可汗(摂図)-〔三可汗鼎立〕-啓民可汗(染干)-始畢可汗(咄吉)-處羅可汗(俟利弗設)-頡利可汗(咄苾)-〔断絶〕-骨咄禄-黙啜-毘伽可汗(黙棘連)-伊然可汗-苾伽骨咄禄可汗-登利可汗-骨咄葉護-頡跌伊施可汗-烏蘇米施可汗-白眉可汗
[西突厥]大邏便-泥利可汗-曷薩那可汗(達漫)-射櫃可汗-統葉護可汗-屈利俟毘可汗(莫賀咄)-肆葉護可汗(咥力特勒)-咄陸可汗(泥孰)-沙鉢羅咥利失可汗(同俄設)-沙鉢羅可汗(阿史那賀
ブミン(?~553?)
  土門。突厥の初伊利可汗。布民可汗。在位552~553。突厥部阿史那氏の出身。はじめアルタイ地方に住み、突厥部を率いて、柔然の敕連頭兵伐可汗(阿那瓌)に服属していた。大統十二年(546)、鉄勒の侵攻を迎撃して五万余部落をことごとく従属させて、一躍勢力を拡大させた。柔然に辱められて断交し、十七年(551)には西魏と婚を通じた。証聖年(552)に頭兵可汗を破って汗位に就いた。本拠をクチャ北方のユルドゥス渓谷に置いた。
ムカン(?~572)
  俟斤、またの名を燕都。突厥の三木杆可汗。在位554~572。伊利可汗の子または弟とされる。乙息記可汗のあとを継いだ。柔然を滅ぼし、契丹を討ち、キルギスを併せ、伊利可汗の弟のディザブロスを派遣してトルキスタンを経略し、ササン朝ペルシャと結んでエフタルを挟撃した。本拠をウトケン山地方に置き、突厥の最盛期を築いた。
センガン(?~609)
  染干。東突厥の啓民可汗。在位587~609。はじめ突利可汗と号し、東突厥の北部を領した。の宗室にあたる安義公主をめとり、南遷して度斤に鎮した。三可汗鼎立によって突厥は混乱し、都監と達頭が連合したため敗れ、朔州に逃れてに入朝した。このとき意利珍豆啓民可汗の号を授けられた。再び都監に圧迫されて五原に遷った。楊素の北伐に従い、軍が勝利して達頭が吐谷渾に逃れたため、その余衆をたばねて東突厥を固めた。
トクヤブク(617?~630)
  西突厥の統葉護可汗。在位619~628。兄の射匱可汗の跡を継ぎ、西突厥の勢威を発展させた。砕葉に鎮した。玄奘も西天取経のさい、かれに謁見している。叔父の賀咄侯屈利俟昆可汗に殺された。
アシナガロ(?~659)
  阿史那賀。西突厥の沙鉢羅可汗。在位651~657。曳歩利設射匱特勤の子。室点密可汗の五世の孫ともいう。西突厥に仕え、咄陸可汗が立ったとき、タラス河畔に鎮した。咄陸が出奔すると、に服属し各地を転々とした。クチャ征討軍に従って功績を立て、庭州莫賀城を鎮守した。左驍騎大将軍瑤池都督に任ぜられた。しかし永徽年(650)に自立して、沙鉢略可汗(イシュバル・ハーン)を称した。の三回にわたる攻撃を受けて平定された。
クトゥルク(?~694)
  骨篤禄。在位682~694。と薛延陀部に滅ぼされた東突厥を再興し、ウトケン山地方を恢復した。イルテリッシュ・ハーンを称した。
ビルゲ(684~734)
  名は黙矩。東突厥の毘伽可汗。在位716~734。骨篤禄の子。父を早く亡くし、右賢王となった。叔父のカパガン(黙啜)がバイルク部に攻め殺されると、弟のキュルテギンに擁立されて東突厥の可汗となった。と和平を保ち、周辺諸部族を討伐して突厥帝国を中興させた。弟の死とともに勢力を失い、最後は部下の梅録啜に毒殺された。
キュルテギン(685~731)
  闕特勒。骨篤禄の子。東突厥のビルゲ・ハーンの弟にあたる。左賢王として軍権を握り、兄を助けて民衆の信望をえて東突厥の最盛期を築いた。オルコン突厥碑文に彼の業績が讃えられた。
トンユクク(?~?)
  暾欲谷。クトゥルクに仕え、諸族の征討に力を尽くし、ボイラ・バガ・タルハンに任ぜられ重用された。カパガンの死後、ビルゲ・ハーンが立った直後は一時遠ざけられたが、老年にとなって再び用いられ、ボイラ・バガ・タルハンとして返り咲いた。ビルゲが城壁都市を作り仏・道教の寺院を建てようと計画したとき、遊牧民を軟弱にするものとしてこれを排するよう献策した。「深枕にして謀あり、老いてますます知なり」と評された。オルコン突厥碑文にその功績が讃えられた。

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