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北魏

[南北朝(386~589)]

北朝北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝,,,),柔然,高昌

[北魏(386~534)]

道武帝(拓跋珪)-帝(拓跋嗣)-太武帝(拓跋燾)-南安王(拓跋余)-文成帝(拓跋濬)-献文帝(拓跋弘)-孝文帝(宏)-宣武帝(恪)-孝帝(詡)-孝荘帝(子攸)-東海王(曄)-前廃帝(恭)-後廃帝(朗)-孝武帝(修)
拓跋珪(371~409)
  北魏の道武帝,太祖⇒。
儀(?~409)
  北魏の宗室。拓跋什翼犍の孫。算略あり、騎射をよくした。九原公に封ぜられた。登国九年(391)、道武帝に従って匈奴の劉辰を討ち、東平公に封ぜられた。命を受けて河北の五原から塞外にいたるまで屯田し、人心を得た。後燕を平らげて、尚書令に上った。のち左丞相となり、王に封ぜられた。高車に対する遠征に従い、西北よりその別部を破った。功におごり寵をたのみ、ついに宜都公穆崇とともに謀反して、まもなく殺された。
拓跋燾(408~452)
  北魏の太武帝,世祖⇒。
長孫嵩(358~437)
  郡の人。鮮卑族の出身。々部落の大人をつとめた。年十四にして父にわって部衆を率いた。登国年(386)、王拓跋珪に帰順した。皇始年(396)、中山征討に従って、冀州刺史に任ぜられ、鉅鹿公に封ぜられた。侍中・司徒・相州刺史に進んだ。帝のとき、奚斤・崔浩ら八人とともに「八公」となり、国政の機密を預かった。太武帝が即位すると、北平王となり、太尉・柱国大将軍に任ぜられた。のちに老として多く京師に留守し、朝堂にあって刑事争訟を裁いた。
寇謙之(365~448)
  字は輔真。上谷郡昌平の人。乱を避けて馮翊郡万年に移住した。幼いころから仙道を好み、張の術を学んだ。華山に入って道を学び、嵩山に隠棲した。神瑞二年(415)には、太上老君に天師の位を授かり、『雲中音誦科之誡』二十巻を賜ったと伝承される。五斗米道の法を除き、仏教の教理を模倣して、道教教理を整理・体系化した。泰常八年(423)、老子の玄孫・李譜に仮託して『録図真経』を著した。のち、平城にいたり、北魏の太武帝にその書を献じた。太武帝に道教を信奉させ、太平真君と改されるにいたった。北魏の天師に任ぜられた。各州鎮に道観を建立し、教団組織を固めた。太平真君七年(446)、崔浩と結んで仏教徒を弾圧した。死後は道士の礼で葬られた。
奚斤(360?~448)
  もとの姓は達奚。郡の人。鮮卑族の出身。皇始初年、越騎校尉に任ぜられ、宿の禁兵をつかさどった。道武帝に従って、高車の諸部を討った。帝が即位すると、左丞相を行し、奚斤・崔浩ら八人とともに国政の機密を預かった。また司空となり、公孫表とともに南征して、南朝の司・兗・豫三州の諸郡を破った。始光三年(426)、軍を率いてを攻め、蒲阪に勝利し、ついに長安を下した。・雍二州の氐・羌族は次々と降った。神カ※1年(428)、上邽を攻めて主の赫連昌を捕らえた。軽騎で軍を深追いして、平涼において敗れ、長安を失陥した。三年(430)、太武帝が平涼に勝利した後に帰還し、赦免されて宰人となった。のちに安東将軍に任ぜられ、弘農王に封ぜられた。老として朝政における諮問に答えた。
崔浩(381~450)
  字は伯淵。河郡武城の人。崔宏の子。若いころから経史に通じた。はじめ直郎に任ぜられた。天興年間に著作郎に転じた。北魏帝のはじめ、博士祭酒に進み、武城子に封ぜられた。太武帝が即位すると、東郡公に改封され、太常卿に任ぜられた。のち司徒に上った。人官僚の推薦をおこない、儒教的国制の確立につとめた。仏教を憎み、寇謙之とともに太武帝に勧めて廃仏を断行した。太平真君十一年(450)、北魏の国史を編纂しようとして、鮮卑族の民族感情を刺激してしまい、誅殺された。
長孫道生(370~451)
  郡の人。鮮卑族の出身。長孫嵩の甥にあたる。道武帝がその慎重さをめでて、軍政の機密を扱わせた。帝が即位すると、南統将軍・冀州刺史に任ぜられた。太武帝のとき、汝陰公に封ぜられ、廷尉卿に進んだ。柔然の征討、赫連昌の討伐に従い、功績により司空・侍中に上り、上党王に進められた。廉で質素な生活を営み、世の人は古の晏嬰に匹敵するとみなした。よく建議をおこなって、多くは時宜にかなったものであった。
拓跋余(?~452)
  太武帝の末子。太平真君三年(442)、王に封ぜられ、のち南安王に改封された。正平二年(452)、太武帝が殺された後、中常侍の宗愛に擁立され、承平と改した。同年、宗愛を誅殺しようとしてかえって殺された。文成帝が立つと、王礼によって葬られた。
伊馛(?~459)
  郡の人。鮮卑族の出身。剛力で弓射をよくした。太武帝のとき、侍郎となり、振威将軍を加えた。北涼の沮渠牧犍を討って功績を挙げ、中護将軍・秘書監に任ぜられた。太武帝が南朝を攻めるのに従い、瓜歩にいたり、鎮軍将軍に進んだ。文成帝の初年、征北大将軍となり、河南公に封ぜられた。興光年(454)、司空に上った。三公となって廉に身を持し、政治は大綱を挙げるのみであった。
尉眷(?~463)
  郡の人。鮮卑族の出身。はじめ大宦令となった。太武帝のとき、前後して柔然征討、征討に従い、功を挙げて漁陽公に進んだ。太平真君年(440)、永昌王拓跋健に従って張掖王禿髪保周を破り、安西将軍を加えられて、涼州に鎮した。のち吐谷渾を破った。北に伊吾を討ち、侍中・太尉に進んだ。爵位は王に進んだ。
司馬之(390~464)
  字は徳秀。河内郡温県の人。の宗室。劉裕がを奪うと、北魏に亡命した。帝により荊州刺史に任ぜられた。太武帝の初年、安南大将軍に進み、将の到彦之を長社で破った。また西は仇池征討に従い、北は柔然を攻撃して、功により雲中鎮大将・朔州刺史に任ぜられた。
僧曇曜(?~?)
  幼くして出家し、北涼の太傅・張潭に師事した。北涼北魏に滅ぼされると、連行されて平城にいたった。太武帝の廃仏のとき、還俗して中山に逃げ隠れた。文成帝が即位すると、召し出されて京師にいたり、第二の沙門統に上った。和平年間(460~)ごろ、孝文帝に奏して雲崗の石窟寺を開鑿した。またインドの僧・吉迦夜らとともに『付法蔵伝』、『浄土経』を翻訳した。
薛安都(410~469)
  字は休達。河東郡汾陰の人。はじめ北魏につかえ、雍二州都統をつとめた。太平真君五年(444)、北魏に叛いて起兵をはかり、事が発覚して南朝に逃れた。嘉二十七年(450)、文帝が北伐し、柳景がかれに陝を攻めさせると、これに勝利し、勇は三軍に冠絶した。嘉末年、太子劉劭が文帝を殺して自立すると、武陵王劉駿に従ってこれを平定した。功により県男に封ぜられた。孝建年(454)、南郡王劉義宣が叛いたとき、爽を殺し、叛軍を破った功により、爵位は侯に上った。太子左率に転じた。前廃帝のとき、平北将軍・徐州刺史となった。泰始二年(466)、安王劉子勛が帝を称すると、冀州刺史崔道固らとともにこれに応じた。劉子勛が敗れると北魏に降り、軍を引き入れての淮北四州および豫州の淮西の地を奪った。北魏により徐州刺史に任ぜられ、河東公に封ぜられた。皇興二年(468)、平城に召し出された。
雲(?~481)
  文成帝の弟。和平五年(464)、任城王に封ぜられた。献文帝のとき、都督中外諸軍事に任ぜられた。帝に従い北伐して柔然を討ち、また西征して仇池氐を平らげた。功により、開府・徐州刺史となった。まもなく冀州刺史に遷り、世間の事情によく通じた。孝文帝にはこれを聞いて嘉し、長安鎮都大将・雍州刺史に遷した。豪強を抑制し、自らは廉潔謹直につとめた。
刁雍(390~484)
  字は淑和。渤海郡饒安の人。伯父の刁逵が東晋で害されると、後秦に亡命した。泰常二年(417)後秦が滅ぶと北魏に投じ、のちに青州刺史となった。征南将軍・徐豫二州刺史に進んだ。太平真君五年(444)、薄骨律鎮将に任ぜられた。在任十余年、渠堰を修築し、城池を造営し、軍糧の輸送を陸運から水運に改めた。このため太武帝から激賞された。『教誡』。
高允(390~487)
  字は伯恭。渤海郡脩県の人。経史・天文・暦数に通じた。とくに『春秋公羊伝』を好んだ。中書博士に任ぜられ、侍郎に進んだ。崔浩とともに『国記』を撰した。また太子・拓跋晃に六経を教えた。崔浩が誅殺されたときも、太子のおかげで罪を免じられた。文成帝のとき、中書令に上った。顕官となってからも廉倹朴で知られた。馮太后の執政のもと、国政の決定に参与した。孝文帝が即位すると、中書監となった。五帝に歴仕し、律令の制定に参与し、また郡国に博士を立てるよう請願した。善政が多かったとされる。『左伝釈』、『公羊伝釈』。
宏(467~499)
  北魏の孝文帝,高祖⇒。
馮太后(442~490)
  北魏の文皇后⇒。
(413~493)
  字は苟仁。郡の人。鮮卑族の出身。文成帝のとき、北部尚書となる。皇興年(467)、将の張永らを破り、淮北四州および豫州の淮西の地を奪った。彭城の兵がこの地を荒らしたので、遠く冀・相・済・兗の四州の粟を送って振るまうよう請願した。鎮東大将軍・徐州刺史に任ぜられた。孝文帝が立つと、淮陽王に封ぜられた。太和十三年(489)、司徒に進んだ。十六年(492)、三老に列せられた。
支酉(?~493)
  北地の人。太和十七年(493)、衆数千を集めて長安城北の石山で起兵し、南朝と結んだ。州の王広が呼応し、刺史劉藻を捕殺した。・雍等七州の民の多くがこれに投じ、衆十万にいたり、堡塁を築いて守った。河南王幹・司空穆亮らの討伐軍を連破した。のち盧淵・薛胤により捕殺された。
禎(447~496)
  皇興二年(468)、南安王に封ぜられた。孝文帝のとき、長安鎮都大将・雍州刺史に累進した。ほしいままに収奪を行ったとして、封爵を削奪され、終身禁錮に処された。のち遷都の議を定めた功により、南安王に返り咲いた。鎮北大将軍・相州刺史となった。
劉昶(436~497)
  字は休道。南朝の文帝(劉義隆)の九男。嘉二十二年(445)、義陽王に封ぜられた。前廃帝のとき、徐州刺史に任ぜられた。帝に叛意を疑われ、やむなく起兵して、北魏に逃れた。北魏により侍中に任ぜられ、丹陽王に封ぜられ、公主をめとった。孝文帝の太和年間、儀曹尚書を兼ね、李冲らとともに衣冠の序列を定めた。中書監に転じ、王の号を加えられた。太和十八年(494)、大将軍に進み、彭城に鎮した。在任中に没した。
恂(483~497)
  字は宣道。北魏の孝文帝の子。太和十七年(493)、皇太子に立てられた。父帝が南征すると、洛陽の留守をつとめた。河南の暑熱に苦しみ、北地に帰らんと望んだ。また胡服の着用を続けたが、高道悦に諫められて、恨みに思っていた。二十年(496)、左右と謀って平城に逃げ込み、高道悦を禁中で斬った。帝はこれを杖打ち、廃して庶人に落とした。御史中尉李彪により謀反をはかっていると密奏され、死を賜った。
李冲(450~498)
  もとの名は思冲。字は思順。隴西郡狄道の人。はじめ中書学生となり、内秘書令に転じた。馮太后に信頼をうけた。北魏の初頭は、人民の多くが地方の豪強の庇護下にあり、賦役の徴集もいちじるしい不均衡が存在した。かれは宗主督護制にえて三長制を導入するよう上奏した。これが容れられたことにより、戸籍が整備され、徴税も公平化がはかられた。中書令に進み、隴西公に封ぜられた。孝文帝が親政をはじめると、律令の制定に参与し、礼制を定め、吏部尚書に累進した。洛陽に遷都した後、都の造営にあたった。孝文帝が南朝を攻めると、留守をあずかり、政務を専断した。のち御史中尉の李彪と対立し、憤懣のうちに没した。
幹(469~499)
  字は思直。献文帝の三男。孝文帝の弟。太和九年(485)、河南王に封ぜられた。兄帝に従って南朝を攻め、都督関右諸軍事となった。十七年(493)、趙郡王に改封され、冀州刺史に任ぜられた。二十一年(497)、再び帝がを攻めると、都督中外諸軍事となった。のち、淫を貪り法を守らないとして御史中尉李彪の弾劾を受け、王位を剥奪された。死後、霊王と追封された。
頤(?~500)
  もとの名は安寿。孝文帝に頤の名を賜り、陽平王に封ぜられた。懐朔鎮大将・都督三道諸軍事に累進した。柔然征討を議し、これを攻めて大破して、朔州刺史に任ぜられた。ときに恒州刺史穆泰が謀反をたくらみ、かれを主に立てようとしたが、従わず、密かに奏聞したので、穆泰らは誅殺された。宣武帝が立つと、青州刺史に遷った。没後、荘王と諡された。
于烈(437~501)
  郡の人。鮮卑族の出身。于栗テイ※2の孫にあたる。若くして羽林中郎に任ぜられ、殿中尚書に進んだ。馮太后が称制すると、洛陽侯に封ぜられた。孝文帝が洛陽に遷都すると、平城に鎮した。宣武帝が即位すると、散騎常侍・車騎大将軍に上った。咸陽王禧が叛乱すると、兵を遣わしてこれを捕らえた。
王粛(464~501)
  字は恭懿。琅邪郡臨沂の人。若くして経史を渉猟した。はじめ南朝に仕え、著作郎となった。永十一年(493)、父の王奐がの武帝に殺されたため、北魏に亡命した。孝文帝に重用され、旧俗の改革を委ねられた。朝儀国典を定め、官品百司を制度化して、南北二系統の儀礼制度を総合した。孝文帝の遺詔により尚書令に上り、宣武帝のもとで咸陽王禧とともに宰輔をつとめた。昌国県開国侯に封ぜられた。のち都督淮南諸軍事・揚州刺史となった。
禧(?~501)
  字は永寿。献文帝の次男。孝文帝の弟。太和九年(485)、咸陽王に封ぜられた。侍中・驃騎大将軍に任ぜられた。持節・開府・冀州刺史として出され、のち司州牧として戻った。胡語を捨て語に改める政策に賛同し、孝文帝に重用された。侍中・太尉に上った。宣武帝が立つと、孝文帝の遺詔により輔政にあたり、宰輔の首となった。驕奢貪淫で政務に親しまず、帝の忌避を買った。宣武帝が親政すると、権力を削られたため、帝を廃して自立しようとしたが、事が洩れて誅殺された。
羽(470~501)
  字は叔翻。献文帝の五男。孝文帝の弟。太和九年(485)、広陵王に封ぜられた。若くして名声があり、裁判をよくした。大理となった。孝文帝が洛陽に遷都すると、太尉丕とともに平城に留められた。持節・都督青兗光南青四州諸軍事に任ぜられた。宣武帝が即位すると、司州牧に遷り、のちに司徒・司空に上った。夜遊びの最中に仇に撃たれ、傷が重く没した。
穆亮(451~502)
  字は幼輔。郡の人。献文帝のとき、侍御中散となった。中山長公主をめとり、駙馬都尉に任ぜられ、趙郡王に封ぜられた。孝文帝が立つと、征南大将軍・護西戎校尉となって、仇池に鎮した。宕昌王弥機が没し、子の弥博が立ったが、吐谷渾に迫られて仇池に逃れてきた。穆亮は弥博にえて弥承を立て、吐谷渾を討った。楊卜を広業太守に立てると、西辺は静まった。召されて侍中・尚書左僕射となり、のち司空に累進した。帝が洛陽に南遷すると、武大将軍を加えられた。孝文帝が南征すると、録尚書事となり、洛陽の留守を守った。宣武帝のとき、尚書令となり、司空公に転じた。死後、太尉を追贈された。
丕(422~503)
  北魏の宗室。拓跋興都の子。太武帝のとき、帝に従って長江に臨み、興平子の爵位を賜った。献文帝のとき、侍中となった。丞相乙渾の謀反を奏聞して、尚書令に上り、東陽公に改封された。孝文帝が立つと、東陽王に封ぜられ、侍中・司徒公に任ぜられた。のち太尉・録尚書事に遷った。帝が洛陽に遷都すると、広陵王羽とともに平城に留められた。鮮卑の風俗を愛して風に改めなかった。并州刺史となる。のちに子の隆・超が謀反の罪で誅され、連座して平民に落とされた。宣武帝のとき、洛陽に召された。六世に歴仕して七十年におよび、詔により三老に列せられた。
詳(476~504)
  字は季豫。献文帝の七男。孝文帝の弟。太和九年(485)、北海王に封ぜられた。侍中となり、秘書監に転じた。孝文帝が崩じると、司空として輔政にあたった。宣武帝のとき、録尚書事となり、太傅に進み、司徒を領した。財に貪欲で収賄を事とした。のちに尚書令高肇に指弾されて廃され、庶人に落とされた。
嵩(469~507)
  字は道岳。拓跋晃の孫にあたる。はじめ歩兵校尉となり、のち武将軍を兼ねた。太和二十三年(499)、孝文帝に従って南朝を攻め、の太尉顕達を大破し、勇は三軍に冠すと称された。宣武帝のとき、荊州刺史となり、揚州刺史に転じた。南朝の軍をことごとく破った。のち蒼頭の李太伯らに害された。
愉(488~508)
  字は宣徳。孝文帝の子。京兆王に封ぜられた。宣武帝の初年、護軍将軍となり、中書監に遷った。文章を好み、詩賦をものした。四方より儒士賓客数十人を招き礼遇した。仏道を崇信し、驕奢無法にいたった。冀州刺史として赴任した。永平年(508)、謀反して帝を称した。尚書李平に捕らえられて、京師に送られね途中で没した。
勰(?~508)
  字は彦和。献文帝の六男。孝文帝の弟。太和九年(485)、始平王に封ぜられた。のち彭城王に改封され、中書監に任ぜられた。孝文帝に従って南朝を討ち、都督南征諸軍事に任ぜられ、野・南陽での崔慧景・蕭衍の軍を大破した。帝が病に倒れると、軍機を総覧した。宣武帝が立つと、司徒・録尚書事となった。ときに外戚高肇が朝政を牛耳ると、京兆王愉とともに謀反したと誣告され、毒殺された。『要略』を撰した。
英(?~510)
  字は虎児。南安王禎の子。騎射をよくし、音律を解し、医術に通じた。孝文帝のとき州刺史となった。南征の軍に従軍して、安南大将軍に進み、荊州に鎮した。太和二十三年(499)、顕達に敗れて免官された。宣武帝のとき、持節・仮鎮南将軍となって南征し、の曹景宗を破り、義陽を下し、三関に勝った。功により中山王に封ぜられた。正始三年(506)、勝ちに乗じて鍾離を囲んだが、軍に大敗を喫した。死罪となったが罪一等を減じて庶民に落とされた。のち復爵。征南将軍として南征し、将二十六人を捕らえた。尚書僕射に任ぜられた。献武王と諡された。
王顕(?~515)
  字は世栄。陽平郡楽平の人。王安上の子。医術に通じ、文昭皇后高氏が懐妊したことを的確に言い当て、侍御師となった。幼少の宣武帝の診療にあたった。廷尉卿を経て、御史中尉となり、多くの官吏を弾劾したので、百僚粛然としたという。詔を受けて薬方三十五巻を撰し、天下に頒布した。国県伯に封ぜられた。孝帝が立ったのちも寵遇を受け、勢いをたのんで威権をふるい、世人はかれを憎んだ。朔州に流されることとなり、捕らえられるときに冤罪を叫んだが、伊盆生に刀で突かれ、血を吐いて一晩後に没した。
鄭道昭(?~516)
  字は僖伯、号は中岳。滎陽郡開封の人。鄭羲の子。若くして学問を好み、群書に通暁した。はじめ中書学の学生となり、任官して秘書郎となった。太和二十二年(498)、秘書丞・中書侍郎として南征に従った。のち国子祭酒・秘書監・督光州諸軍事・平東将軍・光州刺史などを歴任した。詩賦にたくみで、また書にすぐれ、多くの碑文を残した。
于忠(462~518)
  字は思賢。郡の人。鮮卑族の出身。于烈の次男。孝文帝のとき、武騎侍郎。咸陽王禧の叛乱を鎮圧するのに功績があり、郡開国公に封ぜられた。宣武帝の死後、崔光らとともに孝帝を擁立し、車騎大将軍となり、常山郡開国公に封ぜられた。のち尚書令に上った。胡太后が称制すると、冀州刺史となった。
楊大眼(?~518)
  武都の人。氐族の出身。祖父以来、北魏に従った。孝文帝のとき、武術に優れたため選に応じて軍主となった。のち統軍に進んだ。に対する南征の軍に従軍し、武勇は三軍に冠絶した。妻の潘氏も騎射に通じ、ともに戦場を疾駆したという。宣武帝のとき、直閣将軍に任ぜられ、征虜将軍となり、東荊州刺史に上った。樊秀安を平定し、の将軍・王茂先を破って、平東将軍に任ぜられた。正始四年(504)、の鍾離を囲み、の豫州刺史・韋叡に敗れた。そのため営州に移されて、一兵卒に落とされた。のちに再び起用されて太尉長史・平南将軍となった。孝帝のとき、荊州刺史に任ぜられた。任地で没した。
澄(?~519)
  字は道鏡。任城王雲の子。任城王を襲封した。はじめ征北大将軍となり、柔然を討った。征南大将軍・州刺史に任ぜられ、氐羌に使して帰順させた。開府・徐州刺史に転じ、治績を挙げて中書令に進み、尚書令に上った。孝文帝と洛陽遷都を謀議し、実行に移すと、右僕射を兼ねて平城の留守をつとめた。恒州刺史穆泰の乱を平定した。宣武帝が立つと顧命大臣となったが、輔政の任を外されて揚州刺史となった。南伐に失敗して、鎮北大将軍・定州刺史に転じた。尚書令高肇が専権を握ると、害を受けるのをおそれて終日飲酒にふけり、暗昏を装った。孝帝が即位すると、司空・侍中・尚書令として返り咲き、利国済民のこと十条、墾田収授の制八条を奏上した。死後、文宣王と諡された。
暉(465~519)
  字は景襲。常山王遵の曾孫にあたる。宣武帝のとき、給事黄門侍郎となり、侍中に遷り、右将軍を領した。君寵を受けて吏部尚書に進んだ。貪欲に財貨をためこみ、時人はかれを「飢虎将軍」と称した。冀州刺史に出向して、節度なく収奪したという。尚書左僕射に任ぜられ、儒士を集めて『科録』二百七十巻を撰した。
懌(487~520)
  字は宣仁。孝文帝の四男。河王に封ぜられた。宣武帝の初年、侍中に任ぜられ、尚書左僕射に転じた。孝帝の初年、胡太后が称制すると、太尉に進み、輔政にあたった。叉にねたまれて、謀反をはかっていると誣告された。正光年(520)、叉に殺された。『顕忠録』。
煕(?~520)
  字は真興。中山王英の子。英が戦場に赴くとこれに従い、無辜の民を殺して首級を水増しし、自分の功績にしたという。延昌二年(513)に襲爵し、光禄勳に累進し、のち相州刺史に任ぜられた。河王懌と昵懇だった。正光年(520)、叉が詔をいつわって河王懌を殺すと、煕は叉を討つべく鄴に起兵したが、長史柳章らに捕らえられて、洛陽に送られ殺された。
奚康生(468~521)
  もとの姓は達奚。洛陽の人。鮮卑族の出身。驍勇にすぐれ、よく十石の強弓を引きこなした。太和十一年(487)、柔玄鎮の将の李兜に従って、柔然を討ち、前駆軍主をつとめた。のちに孝文帝が南の鐘離を攻めるのに従い、直閣将軍となった。また西に吐京胡を討ち、南にを攻め、功績により華州刺史・光禄卿・右将軍に累進した。叉と謀って胡太后を廃し、撫軍大将軍に上った。のちに叉と不和となり、胡太后の復辟を謀って、叉に殺された。
雲(?~?)
  敦煌の人。北魏の王伏子統をつとめた。神亀年(518)、胡太后の命を受け、仏典を求めて、恵生とともに出国した。吐谷渾・ホータン・カルガリクを経て、北インド諸国を巡歴した。正光二年(521)ころ帰国。その旅行記として『国巳西十一国事』を著した。
志(?~524)
  字は猛略。河間王の子。若くして群書を博覧し、文才があった。孝文帝のとき洛陽令に任ぜられた。帝に従って南征し、帝を貫こうとした矢を一身をもって阻み、そのため片目を失った。宣武帝が立つと、荊州刺史に任ぜられた。孝帝のとき、揚州刺史に遷り、建忠伯の爵位を賜った。雍州刺史に転じ、奢侈に溺れて名声を損なった。正光五年(524)、西征都督となって莫折念生を討ったが、岐州で敗れて捕らえられ、莫折念生のもとに送られて殺された。
匡(?~525)
  字は建扶。孝文帝が匡の名を賜った。宣武帝が即位すると、黄門侍郎となった。帝が親政すると、肆州刺史に任ぜられた。のち恒州刺史に遷り、度支尚書となり、広平王に封ぜられた。ときに尚書令高肇が北魏朝の専権を握っており、棺を用意して高肇の罪悪を論じた。御史中尉王顕の誣告により、光禄大夫に降格され、兗州刺史として出された。孝帝の初年、御史中尉として戻り、厳しく糾弾にあたった。尚書令に上ったが、任城王澄に怨まれ、罪状三十余条を奏上された。死罪に当たるとされたが、とくに赦され、官爵を削奪されるにとどまった。のち青州刺史となり、関右都督にいたった。
叉(486~526)
  字は伯儁。江陽王継の長男。拓跋珪の玄孫にあたる。宣武帝のとき員外郎となる。孝帝が即位し、胡太后が垂簾政治を行うと、太后の妹婿として信任を受けた。散騎侍郎・光禄卿・侍中・領軍将軍などを歴任した。禁軍を掌握して、ますます驕傲となり、収賄にふけった。正光年(520)、輔政の任にあった河王懌を殺害し、政務を専断した。しかし高陽王雍の建義により、輔政の任を外された。謀反を企てていると告発され、処刑された。
融(?~526)
  字は永興。はじめ秘書郎となる。宣武帝のとき章武王に封ぜられた。正始三年(506)、の北徐州刺史昌義之が城を攻め落とすと、これを迎撃した。功により并州刺史となる。のち中護軍・河南尹に進んだ。性は貪婪残酷で、ほしいままに収奪を行い、官爵を削られた。征東将軍として復活し、汾州・州の山胡を討ったが、戦敗した。孝昌二年(526)、車騎将軍に任ぜられ、広陽王淵らとともに、鮮于修礼を討った。葛栄が自立すると白牛邏においてこれと戦い、外援なく終日苦戦し、大敗して殺された。
淵(?~526)
  字は智遠。広陽王を襲封した。孝帝のとき、恒州刺史となった。正光四年(523)、北道大都督となり、尚書令李崇に従って破六韓抜陵を討った。洛陽に帰って侍中・右将軍となった。孝昌二年(526)、大都督となり、章武王融・相州刺史裴衍らとともに鮮于修礼を討った。鮮于修礼が部下の洪業に殺されると、葛栄が洪業を殺して自立したので、兵を率いてこれを追った。融が葛栄に敗れたため、定州に退き、楊津に追われてさらに退いた。博陵において葛栄の部衆に捕らえられ、殺された。
破六韓抜陵(?~?)
  破六汗抜陵ともいう。匈奴の出身。はじめ北魏の懐朔鎮の兵となった。正光四年(523)、沃野鎮で部衆を率いて叛乱し、鎮将を殺した。臨淮王彧を五原で、撫軍将軍崔暹を白道で破った。敕勒諸部が北魏に叛いて彼に帰順した。孝昌年(525)、懐朔鎮を陥し、広陽王深を五原に囲んだが、柔然の頭兵可汗に敗れた。二年(526)、敕勒の首長の胡琛を殺した。のち柔然に殺されたという。また終わるところを知らずともいう。
酈道(466?~527)
  字は善長。范陽郡涿県の人。太和年間に、尚書主客郎・治書侍御史などを歴任した。延昌年間に東荊州刺史に転任した。のち河南尹に上った。蕭宝寅に殺害された。『水経注』。
鑒(?~527)
  字は長久。安楽王長楽の子。安楽王を襲封し、相州刺史に任ぜられた。北討大都督となり、葛栄を討った。のち鄴に鎮し、葛栄に降った。源子邕らに破れ、斬首されて京師に送られた。
琛(?~527?)
  字は曇宝。河間王を襲封した。宣武帝のとき定州刺史となり、利を貪ったため、胡太后により廃された。のち侍中の劉騰に賄賂を贈って、州刺史として復活した。収斂きわまりなく、高陽王雍と富を競い合った。孝昌二年(526)、長孫稚とともに鮮于修礼の乱の鎮圧にあたった。鄴にいたって大都督に任ぜられた。鮮于修礼の軍が長孫稚を襲ったが、救援に赴かず、敗れた。のち、汾の胡族・の諸族を討ち、陣中に没した。
胡太后(?~528)
  北魏の霊皇后⇒。
順(487?~528)
  字は子和。河南洛陽の人。宣武帝のとき給事黄門侍郎となったが、叉にうとまれて恒州刺史・州刺史に転出させられた。鬱怏として楽しまず、酒におぼれた。のち入朝して、侍中に累進した。また城陽王徽と隙があり、護軍将軍・太常卿として出され、東阿県開国公に封ぜられた。「蝿賦」を作って、病のふりをした。のち官は右光禄大夫・左僕射に上った。河陰の変のとき、鮮于康奴に殺された。
僧達磨(?~528?)
  南インドの人またはペルシアの人。海路より中国に入り、洛陽近郊で布教をおこなった。晩年、嵩山に住んで禅法を説いた。洛陽で寂した。一説に毒殺されたともいう。中国禅宗の祖とされる。
葛栄(?~528)
  鮮卑族の出身。はじめ北魏の懐朔鎮将をつとめた。孝昌二年(526)、鮮于修礼の起兵に従った。修礼が洪業に殺されると、洪業を殺してその兵を引き継いだ。章武王融率いる北魏軍を博野において撃破し、融を殺した。皇帝を称して、国号をとし、広安と建した。また広陽王淵らを殺した。武泰年(528)、杜洛周を破ってますます強盛となり、冀・定・滄・瀛・の五州を支配した。百万と号する大軍を率いて鄴を囲んだが、北魏の大将軍・爾朱栄に敗れて捕らえられ、洛陽に送られて斬られた。
継(487?~528)
  字は世仁。南平王霄の次男。江陽王を襲封した。孝文帝のとき、都督北討諸軍事となり、高車首長を招降するのに功績があった。宣武帝が立つと、青州刺史に任ぜられ、恒州刺史に転じ、度支尚書となった。胡太后が称制すると、子の叉が太后の妹の婿となり累進した。そのためかれも京兆王に封ぜられ、司徒公に上った。また録尚書事・大都督西道諸軍に任ぜられた。子の権勢に依存して苛斂誅求やむなく、天下を広く苦しめた。叉が処刑されると、家を廃された。のち太師・司州牧として復活した。
雍(?~528)
  字は思穆。献文帝の子。孝文帝の弟にあたる。はじめ穎川王に封ぜられ、のち高陽王に改封された。宣武帝のとき司空に累進し、律令を議して定めた。孝帝の正光年(520)、丞相に上り、叉とともに庶政を決した。富貴は一国に冠し、一食数万銭におよび、僮僕六千、使女五百人を使用し、河間王琛と富を競い合った。孝荘帝の初年、爾朱栄が河陰の変を起こすと、殺された。
顥(495~530)
  字は子。北海王詳の子。北海王を襲封した。若いころから慷慨のくせがあり、壮志を抱いていた。ときに関中隴西において多事多難で、西道行台となって軍を率いて鎮定し、車騎大将軍に進んだ。のち相州刺史となって、葛栄と対峙した。武泰年(528)、爾朱栄が孝荘帝を擁立すると、太傅に上った。爾朱氏の横暴に耐えかねてついに南朝に奔った。武帝はかれを主として立て、慶之に兵を率いて送らせた。永安二年(529)、国城南において帝を称し、進軍して洛陽に入った。驕奢淫佚で朝野の失望を買い、爾朱栄に敗れて臨穎で殺された。
万俟醜奴(?~530)
  鮮卑の出身。六鎮の乱が起こると、胡琛の下で部将となった。胡琛が死ぬと、残部を率いて首領となった。孝昌年(525)、衆を率いて涇州を攻め、北魏の征西将軍崔延伯を敗死させた。建義年(528)、天子を称し、百官を置き、神獣と建した。永安三年(530)、爾朱天光・賀抜岳に敗れ、捕らえられて洛陽で殺された。
爾朱栄(493~530)
  字は天宝。北秀容川の人。契胡族の出身。北魏に仕え、孝帝のとき、遊撃将軍となった。正光年間、六鎮の乱の平定にあたった。車騎将軍に累進し、大都督に上った。太原に駐屯して勢威を張った。武泰年(528)、胡太后の専横を除くよう孝帝の密詔を受けたが、帝は太后のために毒殺された。爾朱栄は君側の奸を除くと称して挙兵、軍を率いて洛陽に侵入し、胡太后を殺害した(河陰の変)。孝荘帝(子攸)を擁立し、自ら都督中外諸軍事・大将軍・尚書令・領軍将軍に任じ、太原王を称した。帝位をうかがったが果たせず、陽に帰還した。葛栄らを滅ぼし、北鎮の乱を平定した。翌年、北海王・顥を破って、天柱大将軍を号した。横暴がひどく、孝荘帝によって殿中で誅殺された。
天穆(?~530)
  長生の子。高涼王拓跋孤の六世の孫にあたる。はじめ員外郎となった。六鎮の乱のとき、太尉掾として北討諸軍を慰労した。秀容において爾朱栄と義兄弟の契りを結んだ。并州刺史に任ぜられた。建義年(528)、太尉に進み、上党王に封ぜられた。のち大将軍に上った。ときに北海王顥が兵に擁されて北上すると、孝荘帝を河内に迎えて保護した。太宰を加えられた。人徳人望がなく、爾朱栄が丞相に上ると、財貨珍宝を私蔵した。のちに爾朱栄とともに孝荘帝に殺された。
(?~530?)
  安豊王猛の子。安豊王を襲封した。博識で知られ、はじめ大中大夫となった。孝帝のとき、豫州刺史となり、治績があって侍中に上った。詔を受け、侍中崔光とともに服制を定めた。徐州刺史法僧が乱を起こすと、東道行台となってこれを討った。徐州刺史に遷った。孝荘帝のとき、尚書令・大司馬を兼ねた。北海王顥が兵に擁されて北上し、洛陽を落とすと、これに加担した。顥が爾朱栄に敗れるとに奔った。江南で没した。『五経宗略』、『詩礼別義』、『列仙伝』を撰した。
彧(?~531)
  もとの名は亮。字は仕。済南王を襲封し、のち臨淮王に改封された。宣武帝のとき、前軍将軍に任ぜられる。侍中・尚書右僕射に累進した。六鎮の乱が起こると、兵を率いて鎮圧に向かったが失敗した。爾朱栄が河陰の変を起こすとに逃亡した。北海王・顥の北帰とともに尚書令に任ぜられた。永安三年(530)、司徒に上った。爾朱兆が洛陽に攻め入ると、殴殺された。
徽(?~531)
  字は顕順。城陽王鸞の子。宣武帝のとき、城陽王を襲封し、河内太守に任ぜられて、治績があった。孝帝のとき、并州刺史に進み、官倉を開いて窮民にふるまい救恤にあたった。洛陽に戻って度支尚書・吏部尚書・尚書令を歴任した。のち胡太后におもねったため、識者の非難を受けた。爾朱栄が入洛し孝荘帝を立てると、司州牧に任ぜられ、のち大司馬・太尉に進んだ。孝荘帝による爾朱栄を誘殺する企てに加担したが、爾朱氏の諸将が洛陽になだれ込むと、帝を捨てて逃げ出し、路上で害された。
楊昱(?~531)
  はじめ広平王懐の左常侍をつとめた。義を弾劾してかえって誣告を受けたが許された。のちに北鎮飢民二十余万を分散して食を与えた。北海王・顥が兵に擁されて洛陽に入ると、南道大都督として滎陽に鎮した。城を陥され、顥に捕らえられた。顥が敗れると前官に復した。のち爾朱天光に殺された。
劉霊助(?~531)
  北魏の人。陰陽占卜を好んだ。爾朱栄に仕え、卜筮を的中させて功曹参軍となり、撫軍将軍・幽州刺史に上った。爾朱栄が孝荘帝に殺されると燕王を称して自立した。のちに叱列延慶らに固城で斬られた。
爾朱世隆(500~532)
  字は栄宗。北秀容川の人。孝帝のとき、前将軍となった。孝荘帝が立つと、侍中・領軍将軍に任ぜられ、楽平郡開国公に封ぜられた。のち尚書左僕射に上った。爾朱栄が誅殺されると、爾朱栄の妻を奉じて北方の建州に逃げた。爾朱度律とともに長広王曄を擁立して陽に都した。曄に人望がなかったためまもなく廃し、広陵王恭(節閔帝)を擁立した。尚書令として朝政を専断した。のちに部将の賈智・張勧らに殺された。
爾朱兆(?~533)
  字は万仁。北秀容川の人。契胡族。爾朱栄の甥にあたる。北魏に仕え、はじめ歩兵校尉となる。爾朱栄に従って入洛し、累進して中軍将軍・驃騎大将軍となった。爾朱栄が誅されると、汾州より陽にいたり、洛陽に取って返して孝荘帝を弑した。普泰年(531)、節閔帝が立つと、侍中・柱国大将軍・都督十州諸軍事・并州刺史となった。翌年、爾朱天光・爾朱度律らとともに兵二十万を率い、高歓と韓陵山に大戦して敗れ、秀容に逃れた。のち赤松嶺において高歓の軍に囲まれて自縊した。
悦(?~533)
  北魏の孝文帝(宏)の子。仏経を読むのを好み、書史を博覧した。汝南王に封ぜられ、開府儀同三司に累進した。煕平二年(517)、殺人に連座して免官された。領軍将軍叉が専権を握ると、叉に近づいて侍中・太尉となった。太保に上り、徐州刺史となった。爾朱栄が入洛すると、南朝に奔り降った。の武帝により主に立てられ、更興と建した。のち洛陽に帰還した。孝武帝の初年に侍中・大司馬となった。のち殺された。
賈思勰(?~?)
  郡益都の人。北魏に仕えて、高陽太守となった。『民要術』を著した。
賀抜岳(?~534)
  字は阿斗泥。神武尖山の人。高車族の出身。はじめ広陽王淵のもとで軍主となった。のち爾朱栄に投じ、葛栄討伐や北海王顥の平定に従った。永安三年(530)、左廂大都督に任ぜられた。爾朱天光に従って関隴を討ち、万俟醜奴を捕らえた。車騎将軍・涇北豳二四州諸軍事を加えられ、水郡公に進んだ。普泰二年(532)、三雍三二岐二華諸軍事を加えられ、雍州刺史に任ぜられた。ときに孝武帝の密命により丞相高歓を除こうと計画していた。永煕三年(534)、高歓の離間策をうけて州刺史の侯莫悦に幕中で誘い殺された。
侯莫悦(?~534)
  郡の人。父に従って河西にうつり、そこで成長した。騎射をよくした。はじめ爾朱栄に従い、都督に進んだ。孝荘帝の初年、征西将軍に任ぜられた。爾朱天光が関西を討つとき、右廂大都督となり、白水郡公に封ぜられた。普泰年間に州刺史となった。永煕三年(534)、高歓の離間策をうけて関中大行台の賀抜岳を殺した。水洛城に拠ったが、部下の多くは離散した。霊州刺史の曹泥を頼ったが、宇文泰の追撃を受け、野において自縊した。
法僧(454~536)
  法儒の弟。孝帝のとき、太尉行参軍となり、益州刺史に累進した。暴虐で殺戮を事とし、州の人士を召して兵卒に落としたりしていたため、士民ともに反し、外寇を招いた。のち光禄大夫・兗州刺史・徐州刺史に任ぜられた。驕恣は改まらず、叛逆をたくらみ、張文伯を殺した。行台高諒を殺し、彭城に拠って叛し、帝号を称した。北魏の征討を受けるとに奔った。の武帝により侍中・司空・始安郡公に封ぜられた。のち王に改封された。
亶(?~537)
  河王懌の子。孝文帝の孫にあたる。河王を襲封した。孝武帝のとき司徒に上った。永煕三年(534)、高歓により大司馬に任ぜられ、帝位を継がせる意図が伝えられた。しかし、高歓はかれの子の善見を帝に立てたため、怒って南走したが、連れ戻された。一説に高歓に毒殺されたという。

[註]
1.カ=カ
2.テイ=テイ
↓次の時東魏,西魏

歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,

[北魏(386~534)] Northern WEI(Later WEI)

拓跋珪(371~409) Toba Gui
  北魏の初道武帝(Daowudi)。廟号は太祖。在位386~409。鮮卑族拓跋部の出身。拓跋寔君の子。王拓跋什翼犍の孫にあたる。太年(376)、拓跋什翼犍は前秦に敗れて没し、は崩壊。当時六歳だった拓跋珪は、独孤部の劉庫仁のもとに身を寄せた。のちに母方の親戚の賀蘭部に移った。前秦が淝水の戦いで東晋に敗れて国勢が衰えると、拓跋珪は中川で旧民を糾合し、太安二年(386)、王の位につき、登国と建した。同年、盛楽に都を定め、国号をと改めた。庫莫奚・高車・匈奴を破って、鮮卑各部を統一した。皇始二年(397)には後燕を破って燕都・中山を抜き、天興年(398)には平城に遷都して、帝を称した。北方の旧俗を捨て、官制・律令を定め、北方人も人と同じく戸籍に編入し、いわゆる化政策を取った。五年(402)には後秦の姚興を破った。晩年は寒食散を嗜んで性が粗暴苛酷となり、しばしば大臣を殺したため、朝野の危惧を買った。天賜六年(409)、次男・拓跋紹に殺害されて崩じた。
拓跋嗣(392~423) Toba Si
  北魏の二帝(Mingyuandi)。廟号は太宗。在位409~423。道武帝(拓跋珪)の長男。天賜六年(409)、十八歳で即位した。族の士人を籠絡することに意をそそぎ、各地に使者を送って俊彦と先賢を求めさせた。農業生産を重視して、たに帰属した民を大寧川に移住させ、農具を支給して耕させた。神瑞二年(415)、崔浩の策に従い、雲中・郡の貧民を冀・定・相州に分けて、食にありつかせた。泰常七年(422)、を攻めて、兗・青二州を占領させた。柔然を防ぐため、赤城から五原にいたる二千余里の長城を修築して、鎮戌を設けさせた。史伝を好み、劉向の『序』『説苑』の欠けたところを補い、『書』を撰した。
拓跋燾(408~452) Toba Tao
  字は仏理。北魏の三太武帝(Taiwudi)。廟号は世祖。在位423~452。帝(拓跋嗣)の長男。十六歳のとき、父が崩じて即位。はじめはと修交し、華北の統一に意をそそいだ。北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破り、また親征して高車族三十余万を帰服させた。北燕北涼を滅ぼして、太延五年(439)には華北を統一した。崔浩を信任して、人官僚の首席とし、尚書省の下に八部を編入した。太平真君十一年(450)、を討つために親征し、に大勝した。この南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めたという。長江を渡る直前に引き返して、凱旋した。内政においては法の厳格な適用をつらぬいた。寇謙之の道教を重んじて、仏教を大弾圧した。晩年、宦官の宗愛の言を容れて、皇太子のふたりの重臣を処刑したため、皇太子は衝撃を受けて病没した。責任を問われるのを恐れた宗愛によって、帝は殺された。
拓跋濬(440~465) Toba Jun
  北魏の四文成帝(Wenchengdi)。廟号は高宗。在位452~465。太武帝(拓跋燾)の孫にあたる。正平二年(452)、中常侍宗愛が太武帝を殺して南安王拓跋余を立て、また拓跋余も殺した。殿中尚書源賀・南部尚書陸麗らが宗愛を捕殺し、拓跋濬を擁立した。ときに齢十三で、陸麗らが輔政にあたった。民力休養につとめ、たびたび巡幸して吏治を監察し、開墾植産を奨励した。仏教弾圧をやめさせ、沙門統の曇曜の上奏を容れて僧祇戸・仏図戸を設けた。また詔を下して、異なる身分間の通婚を禁じた。南朝に遣使して通交を保ち、北方の柔然を攻撃した。馮氏を皇后に立てた。
拓跋弘(454~476) Toba Hong
  北魏五代献文帝(Xianwendi)。廟号は顕祖。在位465~471。文成帝(拓跋濬)の長男。太安二年(456)、皇太子に立てられた。和平六年(465)、十二歳にして帝位についた。はじめ丞相の乙渾が専権をふるったが、母の馮太后が乙渾を殺して称制した。鎮東大将軍尉らを遣わして南朝を討ち、淮北の青・冀・徐・兗州と豫州の淮西の地を奪った。皇興三年(469)、子の宏を皇太子とし、親政をはじめた。三等九品の制を定め、九品混通の制を行った。黄老・仏教を好んだ。五年(471)、位を譲り、太上皇帝を自称した。馮太后の寵愛する李奕を殺したため、太后に憎まれて毒殺されたという。
宏(467~499) Yuan Hong
  北魏の六孝文帝(Xiaowendi)。廟号は高祖。在位471~499。献文帝(拓跋弘)の長男。五歳のとき、父から譲られて即位した。はじめ祖母の馮太皇太后に政権を握られた。このころ北魏は、人官僚の活躍によって、儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。太和十四年(490)、馮太皇太后が没すると親政を開始し、さらに急激な化政策を進めた。十七年(493)、都を平城から洛陽に遷し、胡服・弁髪を廃し、言語を語とすることを定めた。また、北族の姓を風に改め、みずから帝室の姓をと改めた。これらの急激な改革は、北族に不満をつのらせ、皇太子・恂の叛乱を誘発した。また、帝の死後の北鎮の乱の遠因ともなった。
恪(483~515) Yuan Ke
  北魏の七宣武帝(Xuanwudi)。廟号は世宗。在位499~515。孝文帝(宏)の次男。太和二十三年(499)、十六歳にして帝位につき、咸陽王禧・尚書令王粛らの輔政を受けた。景二年(501)、親政をはじめた。宗室を遠ざけ、外戚の高肇に政治を委ねた。禧・勰・愉らの諸王を誅殺した。在位中、国家財政は傾き、政治は腐敗し、仏教が隆盛をきわめた。売官が横行し、貴族は奢侈に溺れ、南にを攻めて失敗を重ねた。州主簿呂苟児の乱・冀州の僧法慶の乱など、蜂起が相次いだ。
詡(510~528) Yuan Xu
  北魏の八帝(Xiaomingdi)。廟号は粛宗。在位515~528。宣武帝(恪)の次男。延昌四年(515)、六歳にして即位し、母胡太后が称制し、高陽王雍らの輔政を受けた。正光年(520)、侍中叉が政権を奪うと、叉を叔父と呼んで尊んだ。孝昌年(525)、胡太后・雍らが再び政権を奪回すると、鄭儼・徐紇を重用した。胡太后・鄭儼らの権勢に不満を抱き、母子間の軋轢は日増しに深まった。ついに武泰年(528)、爾朱栄に密詔を下して、太后を掣肘しようとしたが、鄭儼・徐紇らによって毒殺された。
子攸(507~530) Yuan Ziyou
  北魏の九孝荘帝(Xiaozhuangdi)。廟号は敬宗。在位528~530。彭城王勰の三男。孝昌二年(526)、長楽王に封ぜられ、侍中・中軍将軍に任ぜられた。武泰年(528)、胡太后が孝帝を毒殺すると、爾朱栄により擁立された。爾朱栄が朝政を専断したため、永安三年(530)にこれを除くため殿中で誅殺した。爾朱兆が復仇の軍を起こしたため、これに敗れて三級仏寺で縊り殺された。
曄(?~532) Yuan Ye
  字は華興。北魏の十東海王。在位530~531。はじめ起居郎となり、通直散騎常侍に進んだ。孝荘帝のとき、長広王に封ぜられた。太原太守として出され、行并州事となった。永安三年(530)、天柱大将軍爾朱栄が孝荘帝に殺されると、領軍将軍爾朱世隆・汾州刺史爾朱兆らが并州に奔って、曄を帝に擁立した。翌年、廃された。節閔帝が即位すると、東海王に改封された。孝武帝のとき殺された。
恭(498~532) Yuan Gong
  字は修業。北魏の十一前廃帝。節閔帝(Jiemindi)。在位531~532。広陵王羽の子。正始年間に広陵王の位を継ぎ、給事黄門侍郎に任ぜられた。义が専権を握ると、病気で口がきけなくなったと称して、竜花仏寺に暮らした。建二年(531)、爾朱世隆に擁立されて普泰と改した。翌年、高歓により廃されて崇訓仏寺に幽閉され、まもなく殺された。
朗(512?~532) Yuan Lang
  字は仲哲。北魏の十二後廃帝。在位531~532。章武王融の三男。永安二年(529)、肆州郡王・後軍府録事参軍・儀同開府司馬となった。建二年(531)、冀州の渤海太守となる。ときに丞相高歓が起兵して爾朱氏を討ち、朗を擁立して帝位につけ、中興と改した。翌年、高歓は朗が北魏の宗室の中でも傍流だったことを理由に譲位を迫り、廃されて修が立った。安定王(Andingwang)に封ぜられたが、のち殺された。
修(510~534) Yuan Xiu
  字は孝則。北魏の十三孝武帝(Xiaowudi)。出帝。在位532~534。広平王懐の三男。十八歳のとき、汝陽県公に封ぜられた。永安三年(530)、平陽王に封ぜられた。のち侍中・尚書左僕射を加えられた。中興二年(532)、丞相の高歓が爾朱氏を破り、節閔帝と後廃帝を廃すると、修を擁立して帝位につけた。高歓は陽にあって洛陽の朝政に容喙した。永煕三年(534)、を討つ名目で兵を集め、高歓を討とうとした。高歓の軍二十万が洛陽に迫ると、洛陽を捨てて関西大行台の宇文泰を頼った。のち宇文泰に毒殺された。

[東魏(534~550)] Eastern WEI
善見(524~551) Yuan Shanjian
  東魏の孝静帝(Xiaojingdi)。在位534~550。河王亶の子。永煕三年(534)、孝武帝が宇文泰のもとに逃れると、鄴で丞相高歓に擁立されて帝位につき、天平と改した。史上、東魏と称される。武定五年(547)、宗室寵臣らと共謀して高澄を誅殺しようとしたが、事が洩れて幽閉された。八年(550)、丞相高洋に位を譲り、中山王に封ぜられた。北斉の天保二年(551)、毒殺された。

[西魏(534~556)] Western WEI
宝炬(507~551) Yuan Baoju
  西魏の初文帝(Wendi)。在位535~551。京兆王愉の子。正光年間に直閣将軍に任ぜられた。永安三年(530)、南陽王に封ぜられた。太昌年(532)、太尉に任ぜられ、侍中を加えられた。永煕三年(534)、中軍四面大都督となる。孝武帝が宇文泰を頼って長安に逃れると、太宰・録尚書事に任ぜられた。閏十二月、孝武帝が宇文泰に毒殺されると、帝位につき、大統と改した。これが西魏のはじめである。朝政の実権は宇文泰に握られた。
欽(?~554) Yuan Qin
  西魏の二廃帝(Feidi)。在位551~554。文帝(宝炬)の長男。大統年(535)、皇太子に立てられた。十七年(551)、即位した。廃帝三年(554)、ひそかに宇文泰を殺そうと謀って、事が洩れて廃された。まもなく毒殺された。
廓(?~556) Yuan Kuo
  西魏の三恭帝(Gongdi)。在位554~556。文帝(宝炬)の四男。大統十四年(548)、王に封ぜられた。廃帝三年(554)、宇文泰に擁立されて、帝位につき、姓を拓跋に戻した。恭帝三年(556)、宇文泰が没すると、宇文覚に禅譲を迫られて、帝位を譲った。これにより西魏は滅んだ。公に封ぜられ、まもなく殺された。

[北斉(550~577)] Northern QI
高洋(529~559)
  字は子進。北斉の初文宣帝(Wenxuandi)。廟号は顕祖。在位550~559。渤海郡蓨県の人。高歓の次男。高澄の弟にあたる。東魏のとき、太原公に封ぜられ、尚書令などを歴任した。武定七年(549)、高澄が蘭京らに殺されると、高洋は叛乱者らを殺して、相国・王の位を受け継いだ。八年(550)、孝静帝から禅譲を受けて帝位についた。国号は。天保と建した。侯景の乱に乗じてに出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。また西魏と争って江陵を奪った。北伐して、契丹・突厥柔然など諸民族を破り、百八十万人を動員して長城の修築にあたった。また楊愔らの学者を登用して内治につとめた。次第に酒乱粗暴がひどくなり、理由なく臣下や人民を殺したり、宮殿造営のため濫費したりするようになった。またの宗族をことごとく殺して、その死体を川に投じたという。陽で暴死した。
(545~561)
  字は正道。北斉の二廃帝。在位559~560。文宣帝(高洋)の長男。天保年(550)、太子に立てられた。李宝鼎・邢峙らに講学を受けた。学問を好み、文化に傾倒した。父により自分に似ていないとして、廃されて太原王に落とされた。十年(559)、文宣帝が崩じると、楊愔らに擁立されて位を継ぎ、乾と改した。大工事を中止し、賦役を軽くし、叔父の常山王高演や長広王高湛の権限を削ろうと図った。翌年二月、高演・高湛が勳貴と結び、太皇太后婁氏の命令をえて、楊愔らを殺し尽くした。八月、帝位を廃されて済南王となった。太寧年(561)、陽で殺された。
高演(535~561)
  字は延安。北斉の三孝昭帝。在位560~561。高歓の六男。高澄・高洋の弟にあたる。天保初年、常山王に封ぜられた。廃帝のとき、太傅・録尚書事に任ぜられて、朝政に参与した。乾年(560)、尚書令楊愔らに排斥され、権勢を日々削られたので、弟の高湛と謀って楊愔らを殺し、帝を廃して自ら立ち、皇建と改した。翌年、落馬して重傷を負い、陽で崩じた。
高湛(537~568)
  北斉の四武成帝。廟号は世祖。在位561~565。高歓の九男。高澄・高洋の弟にあたる。文宣帝のとき、長広王に封ぜられた。尚書令・司徒に任ぜられ、太尉に遷った。天保十年(559)、廃帝と楊愔らが宗室諸王の権勢を削ろうと図ったので、常山王高演や賀抜仁らとひそかに謀って、乾年(560)には政変を発動して楊愔を殺し、帝を廃して、高演を帝に立てた。翌年、孝昭帝が亡くなると、位を継いで大寧と改した。詔を下して均田制を徹底させ、高叡・趙秀深・収らに律十二篇を制定させた。翌年、和士開らの奏議を受け、太子の高緯に位を譲り、自らは太上皇帝となって政治をみた。のち病没した。
高緯(556~578)
  字は仁網。北斉五代後主。在位565~576。武成帝(高湛)の長男。河四年(565)、武成帝より位を譲られ、天統と改した。天統四年(568)、父が亡くなると親政をはじめた。穆提婆・高阿那肱らを寵愛して、宗室や外戚・大臣たちを誅殺し、朝政を腐敗させた。自ら無愁の曲を作って歌い、無愁天子の称があった。隆化年(576)、位を譲った。承光年(577)、幼主とともに北周の軍に捕らえられ、温国公に封ぜられた。のち謀反の罪で殺された。
高延宗(?~577)
  北斉の安徳王。在位576。高澄の五男。幼いころから叔父の高洋に養われ、安徳王に封ぜられた。武平七年(576)、北周の軍に平陽を攻められ、北斉の軍の多くが潰走したとき、ひとりその部隊を保全した。後主により相国・并州刺史に任ぜられ、山西の軍事を担当し、北周の進攻を防いだ。并州の将帥に帝として擁立され、徳昌と改した。陽において北周に大敗し、城が陥落して捕らえられ、長安に送られた。翌年、謀反をはかったと誣告され、自殺した。
高恒(570~578)
  北斉の七幼主。在位577。後主(高緯)の長男。守国天王。隆化二年(577)、位を継ぎ、承光と改した。ときに北周の大軍が鄴に迫り、東のかた済州に逃亡した。任城王高湝に位を譲って、自分は守国天王を自称した。青州にて周将の尉遅勤に捕らえられて長安に送られた。翌年初頭に殺された。

[北周(557~581)]Northern ZHOU
宇文覚(542~557) Yuwen Jue
  字は陁羅尼。北周の初孝閔帝(Xiao Min Di)。在位557。郡武川の人。宇文泰の三男。西魏の恭帝三年(556)、安定公世子となる。同年、宇文泰が没すると、太師・大冢宰を継ぎ、周公に封じられた。翌年、恭帝から禅譲を受けて天王位についた。国号は周。天王年を称した。朝廷で実権を握っていた中山公宇文護を除こうとして、大臣の李植・孫恒らと密謀していたが、事洩れて、宇文護に廃殺された。
宇文毓(536~560) Yuwen Yu
  北周の二帝(Min Di)。在位557~560。廟号は世宗。宇文泰の長男。西魏の大統十四年(548)、寧都郡公に封ぜられた。恭帝三年(556)、大将軍に任ぜられて、隴右に鎮した。翌年、北周の孝閔帝が宇文護に廃殺されると、天王に立てられ、宇文護に政務を専断された。帝三年(559)、親政をはじめ、年号を武成と定めた。武成二年(560)、食中毒により崩じた。
宇文邕(543~578) Yuwen Yong
  字は祢羅突。北周の三高祖武帝(Wu Di)。在位560~578。廟号は高祖。宇文泰の四男。幼年のころより敏で、宇文泰に「我の志をなす者は必ずこの児なり」と称された。帝が即位すると大司空に上った。武成二年(560)に即位。はじめ宇文護が大冢宰・都督中外諸軍事として専権をふるっていた。天和七年(572)、宇文護を誅殺して親政した。建徳三年(574)、仏・道の二教を禁じ、経像を破壊し、沙門・道士に還俗を強要して、弾圧した。翌年に北斉攻撃の軍を起こし、六年(577)に鄴を陥落させ、北斉後主(高緯)を捕らえて滅ぼした。翌年、突厥に親征して雲陽にいたり、病を発して帰還途中に没した。
宇文贇(559~580) Yuwen Yun
  字は乾伯。北周の四宣帝(Xuan Di)。在位578~579。武帝(宇文邕)の長男。宣政年(578)、父の武帝の死により、位を継いだ。杖の痕をなでて「死おそし」とののしったという。武帝時の旧臣を粛し、刑経聖制とよばれる刑法を制定した。大成年(579)、四輔官を置き、越王宇文盛を大前疑とし、公尉遅迥を大右弼とし、申公李穆を大左輔とし、随国公楊堅を大後承とした。山東諸州の兵を発して洛陽宮を改修させ、に匹敵する規模とした。二月、太子の宇文衍に位を伝えて、自ら天皇帝を称し、制・詔を天制・天詔と改めた。洛陽に遷都した。五人の皇后を置き、酒色と奢侈にふけった。
宇文衍(573~581) Yuwen Chan
  北周五代静帝(Jing Di)。在位579~581。宣帝(宇文贇)の長男。大成年(579)、王に封ぜられ、皇太子に立てられた。父の宣帝より位を譲られて帝となった。大象二年(580)、太上皇が亡くなると、随国公楊堅に政務を専断された。翌年、楊堅に位を譲り、介国公となって臣籍に下った。ここに北周は滅んだ。まもなく楊堅により殺害された。
歴代皇帝(南朝)

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