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南朝

歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[420~478]
劉裕(363~422)
  字は徳輿。の初武帝(Wudi)。廟号は高祖。在位420~422。彭城の人。劉翹の子。母は趙氏。寒人の出で、若いころは貧しく、遊侠の徒と交際した。はじめ東晋の冠軍司馬をつとめた。隆安三年(399)、輔国将軍劉牢之の参軍となり、孫恩の乱の鎮圧にあたった。年(402)、劉牢之が桓玄と争って敗れると、桓玄の下に属した。桓玄が簒奪して帝を称すると、三年(404)に京口で兵を挙げてこれを討伐し、翌年には安帝を復位させた。鎮軍将軍・都督十六州諸軍事・領青徐兗三州刺史に上り、京口に鎮した。義煕四年(408)、侍中・録尚書事・揚州刺史となった。翌年、山東に出兵して慕容超を討ち、六年(410)には南燕を滅ぼした。次いで盧循の乱を平定して、太尉・中書監となった。また荊州の劉毅を滅ぼし、さらにを平定した。義煕十二年(416)、後秦を討って、洛陽を落とし、長安に攻め入った。翌年には後秦を滅ぼして凱旋。翌年には相国・公に上って、彭城に鎮した。王韶之を遣わして安帝を殺し、恭帝を立てた。年(419)、王に上り、寿陽に移った。翌年、建康に入り、禅譲を受けて帝位に就き、国号をとした。桓温の庚戌土断を継いで、土断法をしいた。また華北出身者と華南土着豪族との差別の撤廃を図った。傅亮、徐羨之、謝晦、檀道済ら寒門を登用して、後事を託し、在位三年で崩じた。
劉義符(406~424)
  の二少帝。在位422~424。武帝(劉裕)の長男。永初年(420)、皇太子に立てられた。三年(422)、帝位につき、景平と改した。遊興に節度がなく、朝政に親しまなかった。滑台・虎牢などの地が、次々と北魏に奪われた。景平二年(424)、徐羨之・傅亮・謝晦らによって廃位され、営陽王に落とされて、郡に幽閉された。まもなく殺された。
劉義隆(408~453)
  の三文帝(Wendi)。廟号は太祖。在位424~453。武帝(劉裕)の三男。東晋末に彭城県公に封ぜられ、荊州刺史に上った。の永初年(420)、宜都王に封ぜられる。景平二年(424)、少帝が廃位され、徐羨之・傅亮らによって擁立された。嘉と改した。嘉三年(426)、廃立の前科を問い、徐羨之・傅亮らを処刑し、荊州刺史謝晦を討ち平らげた。大使を分遣して、天下を巡視させた。六年(429)、彭城王劉義康を司徒・録尚書事・南徐州刺史とし、朝政を総攬させた。江王劉義恭を荊州刺史とし、上游に鎮せしめた。七年(430)、北伐の軍を発し、北魏の河南を奪ったが、まもなく奪回された。この年、はじめて銭署を立て、四銖銭を鋳造した。八年(431)、力田の詔を下し、農事に励む者を顕彰した。十五年(438)、前後して儒・玄・文・史の諸学館を立てた。十七年(440)、劉義康や劉湛らが朋党を結んで対抗したので、劉湛を殺し、劉義康を左遷させた。二十二年(445)、何承天の「暦」を採用して改暦させた。謀反の罪で范曄らを殺し、彭城王劉義康を庶人に落とした。二十七年(450)、大挙して北魏を討ったが敗れた。このとき軍が瓜歩にまで迫り、大いに略奪して引き返した。三十年(453)、太子劉劭が巫蠱を行っていることが発覚し、太子を廃そうとしたが、劉劭が謀反を起こして、ついに殺された。
劉駿(430~464)
  字は休竜。の四孝武帝(Xiaowudi)。廟号は世祖。在位453~464。文帝(劉義隆)の三男。武陵王に封ぜられた。嘉末年、南中郎将・江州刺史となり、軍を率いて西陽蛮を討った。嘉三十年(453)、太子劉劭が文帝を殺して自立すると、起兵してこれを討ち、帝位について、孝建と改した。孝建初年、南郡王劉義宣・臧質・爽らが起兵して叛き、これらをことごとく討って平定した。大初年、土断を行って、雍州三郡十六県を一郡とした。吏部の権限が大きくなったので、尚書を一人増員して、権力を分散した。大三年(459)、竟陵王劉誕が叛くと、これを平定した。五年(461)、民戸が年に布四匹を供出するよう定め、士族と工商雑戸との通婚を禁じた。在位中、群臣と親しみ、諸王を多く排斥した。また宮室を拡張修築し、彫刻装飾に莫大な費用を費やした。財政規模は拡大し、租税の督促は厳しくなった。
劉子業(449~465)
  五代前廃帝。在位464~465。孝武帝(劉駿)の長男。孝武帝が即位すると、皇太子に立てられた。大八年(464)、帝位につき、永光と改した。近臣の戴法興を重用したが、まもなくこれを殺した。尚書令の柳景や左僕射の顔師伯らが、帝を廃して劉義恭を立てようとして、事が洩れてことごとく殺された。帝は凶暴さをますます増し、誅殺されるものが相次いで、百官は保身が難しくなった。寿寂之・姜産之らがついにかれを殺した。
劉彧(439~472)
  字は休炳。の六帝(Mingdi)。廟号は太宗。在位465~472。文帝(劉義隆)の十一男。はじめ淮陽王に封ぜられ、のち湘東王に改封された。鎮東将軍・雍州刺史を経て、将軍・南豫州刺史となった。景和年(465)、前廃帝(劉子業)が殺されると、帝に即位して、泰始と改した。即位当初は四方を敵としており、沈攸之を派遣して安王劉子勛を平定したのち、孝武帝の二十八人の子をことごとく殺した。徐州刺史薛安都が軍を引き入れて南下すると、連年にわたって軍を派遣して北を討ったが、実効を挙げられなかった。泰始五年(469)、北魏が青州東陽を落とすと、淮北四州と豫州の淮西の地はことごとく領となった。在位中、寵臣阮佃夫らが権力をふるい、賄賂が横行した。北辺の増兵や湘宮寺の建立など、濫費が多く財政は枯渇し、百官の俸禄の支給も難しくなった。晩年は忌諱すること多く、諱の文字を犯した者を殺すなど、迷信を好むようになった。また太子が幼弱だったので、諸弟の多くを殺した。
劉昱(463~477)
  字は徳融。の七後廃帝。在位472~477。帝(劉昱)の長男。泰始二年(466)、皇太子に立てられた。泰豫年(472)、十歳にして帝位につき、翌年に徽と改した。徽二年(474)、桂陽王劉休範が尋陽で謀反の兵を挙げたので、蕭道成に命じてこれを平定させた。蕭道成を中領軍とし、軍政を決裁させた。四年(476)、南徐州刺史劉景素が京口に拠って叛いたが、まもなく鎮圧された。帝は出遊を好み、従者に矛を持たせて、通行人を殺すというような暴行をしていた。五年(477)、蕭道成を除こうと謀って失敗し、殺された。蒼梧王に追封された。
劉準(469~479)
  字は仲謨。の八順帝(Shundi)。在位477~479。帝(劉昱)の三男。はじめ安成王に封ぜられた。徽五年(477)、蕭道成が後廃帝(劉昱)を殺して、かれを迎えて帝位につけた。昇と改した。蕭道成が政務を専断した。昇三年(479)、汝陰王に落とされた。「後世に生まれ変わるなら帝王の家には生まれるまい」と泣いて宮殿を出た。まもなく殺され、は滅んだ。蕭道成がを建てた。

[479~501]
蕭道成(427~482)
  字は紹伯。の初高帝(Gaodi)。廟号は太祖。在位479~482。蕭承之の子。蕭何の二十四世の孫と称した。南蘭陵郡蘭陵の人。嘉二十三年(446)にの雍州刺史の蕭思話のもとで、左軍中兵参軍となり、北魏と戦って功績を挙げた。帝のときに、驍騎将軍・西陽県侯に進み、南兗州刺史となった。帝の遺詔により右将軍・尉となった。後廃帝の徽二年(474)、桂陽王劉休範が叛いて建康に殺到すると、これと戦って撃退し、平定した。中領軍となり軍政を統べ、五州の軍事を都督し、公に上った。五年(477)、後廃帝を廃殺し、順帝を立てて、侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。荊州刺史沈攸之が江陵で叛き、袁粲・劉秉らが呼応したが、これらをことごとく討ち平定した。昇三年(479)、相国となり十郡に封ぜられ、王となり九錫を加えられて、順帝の禅譲を受けて帝位についた。国号は。質素倹約を旨として統治につとめた。学問や書にも優れたという。
蕭サク(440~493)
  字は宣遠。の二武帝(Wudi)。廟号は世祖。在位482~493。高帝(蕭道成)の長男。はじめの尋陽国侍郎となり、のちに贛県の令となった。安王劉子勛の乱が鎮圧されると、広興の相となった。徽四年(476)、煕王劉燮のもとで鎮西長史・江内史となり、郢州の行政を行した。順帝が立つと、劉燮が揚州刺史に移ったので、劉燮とともに揚州に下った。荊州刺史沈攸之が起兵すると、湓口城に拠って備え、別軍を派遣して郢を救援させた。父の蕭道成がの皇帝として立つと、皇太子に立てられた。建四年(482)、即位し、永と改した。永三年(485)、寓之が富陽において叛乱を起こし、三の地方が呼応したので、翌年に兵を派遣して鎮圧した。八年(490)、戸籍を調査して、実態を偽っているものを捕らえて辺境防に当たらせた。政治の実権は四人の中書舎人に握られ、政令は苛酷なものが多く、賦役は重かったという。
蕭昭業(473?~494)
  字は尚(Yuanshang)。の三鬱林王(Yulinwang)。廃帝。在位493~494。文恵太子(蕭長懋)の長男。父が亡くなると、皇太孫に立てられた。武帝(蕭サク※3)が崩ずると、帝位につき、隆昌と改した。蕭子良・蕭鸞が輔政にあたった。賞賜を濫発し、財物の浪費が多かったと伝えられる。蕭子良の死後は、鎮軍大将軍蕭鸞が専権を握った。のちに蕭鸞を西州に左遷しようと謀ったが、蕭鸞が先手を打って兵を宮中に入れ、昭業を殺した。のちに蕭鸞は廃立を追認する太后の令を出させ、鬱林王に追封した。
蕭昭文(480~494)
  字は季尚(Jishang)。の四海陵王(Hailingwang)。廃帝。諡号は恭王。在位494。文恵太子(蕭長懋)の次男。永四年(486)、臨汝公に封ぜられた。兄の蕭昭業が即位すると、中軍将軍となり、安王に封ぜられた。隆昌年(494)、揚州刺史となった。尚書令蕭鸞が昭業を廃殺すると、帝に擁立され、延興と改した。在位四月にして、蕭鸞が皇太后の令を出させて、昭文を廃し、海陵王に落とした。まもなく殺された。
蕭鸞(452~498)
  字は景栖。五代帝(Mingdi)。廟号は高宗。在位494~498。蕭道生の子。幼くして孤児となり、高帝(蕭道成)に育てられた。武帝(蕭サク※3)の遺詔により侍中・尚書令となった。蕭昭業が即位すると、大将軍・中書監・開府儀同三司となった。蕭子良と対立し、蕭子良の死後、蕭昭業を廃して蕭昭文を立て、録尚書事に進んだ。高帝・武帝の諸子孫を殺した。皇太后の令を出させて、昭文を廃し、海陵王とした。帝を称し、建武と改した。宗室を抑圧し、典籤・主師を派遣して諸王を督察した。節倹を尊び、遠近の献上の礼をやめさせ、諸工を休息させた。道教を崇拝し、身につける衣裳は赤を尊んだ。
蕭宝巻(483~501)
  もとの名は賢、字は智蔵。の六東昏侯(Donghunhou)。廃帝。在位498~501。帝(蕭鸞)の次男。建武年(494)、皇太子に立てられた。永泰年(498)、帝位につき、永と改した。政務を群小の官に委ね、大臣を誅殺した。出遊を好み、乱行はなはだしく、人民をしばしば害した。仙華・神仙・玉寿の諸殿を建て、濫費はなはだしく、財政は枯渇して、民財をほしいままに奪った。永三年(501)、蕭衍が建康を囲んだので、宮中に閉じこもった。王珍国・張稷が兵を率いて宮殿に入り、かれを殺した。
蕭宝融(488~502)
  字は智昭。の七和帝(Hedi)。在位501~502。帝(蕭鸞)の八男。永年(499)、南康王に封ぜられ、荊州刺史となった。翌年、長史の蕭穎冑がかれを奉じて挙兵し、雍州刺史の蕭衍を持節・都督前鋒諸軍事に任じた。蕭衍はかれに帝位につくよう勧めた。侯亶が建康より江陵にいたり、宣徳太后の令を伝えた。三年(501)、江陵で帝位につき、中興と改した。東昏侯(蕭宝巻)はまもなく殺された。翌年、蕭衍に帝位を譲って巴陵王となった。これによりは滅んだ。まもなく殺された。

[502~556]
蕭衍(464~549)
  字は叔達。小字は練児。の初武帝(Wudi)。廟号は高祖。在位502~549。蕭順之の子。南蘭陵郡中都里の人。の皇族にあたり、はじめの巴陵王・南中郎法曹行参軍となった。丹陽尹となり、蕭子良と交友して「竟陵の八友」のひとりとなる。給事黄門侍郎を経て、帝の建武年間には雍州刺史に上り、襄陽に鎮した。永三年(501)、の廃帝(蕭宝巻)が暴恣で人心が離反し、蕭衍の兄が帝に害されると挙兵した。首都・建康を落とし、和帝(蕭宝融)を擁立して、実権を握った。翌年、禅譲を受けて、帝位に就いた。国号は。治世の前半は、沈約、范雲、周捨、徐勉らの名族を宰相に登用して、政治に精励し、寛仁君主として知られた。治世の後半になると、仏教への傾倒はなはだしく、捨身は三度におよび、そのたびに群臣は寺院に一億銭でもって皇帝の身を請け戻した。菜食を守り、厳しい戒律生活を営んで、皇帝大菩薩と称された。政治に飽き、寒人の朱异らを重用するようになった。東魏の将軍・侯景がに帰順しようとして拒絶されたのを怒り、乱を起こして建康を陥落させた。帝は幽閉されて没した。
蕭綱(503~552)
  字は世纘。の二簡文帝(Jianwendi)。廟号は太宗。在位549~551。武帝(蕭衍)の三男。天監五年(506)、安王に封ぜられた。幼いころから詩文をたしなんだ。中大通三年(531)、昭太子が亡くなると、皇太子に立てられた。庾肩吾・徐摛らの文士を引き立てた。太三年(549)、侯景が台城を陥し、武帝が憂死すると、侯景により帝に立てられた。大宝二年(551)、侯景の兵が巴陵で敗れると、侯景は建康に帰って帝を廃した。まもなく殺された。詩は軽艶で、宮体と称された。『昭太子伝』。
蕭棟(?~552)
  字は吉。の豫章王(Yuzhangwang)。在位551~552。豫章郡王蕭歓の子。大宝二年(551)、侯景が簡文帝を廃すると、帝に立てられ、天正と改した。在位四ヶ月にして廃位され、淮陰王に落とされた。弟の蕭橋・蕭樛とともに密室に幽閉され鎖につながれた。承聖年(552)、侯景が敗走すると、兄弟ともに助け出された。のちに帝の手の者により水に沈められたという。
蕭紀(508~553)
  字は世詢。の武陵王。在位551~553。武帝(蕭衍)の八男。天監十三年(514)、武陵王に封ぜられた。大同三年(537)、益州刺史となる。州にあって南は建寧・越雟を開墾し、西は資陵・吐谷渾と通商して、貨殖につとめた。太三年(549)、侯景が台城を陥すと、世子の蕭円照に三万の兵を率いさせ、侯景を討たそうとした。湘東王蕭繹が蕭円照を白帝にとどめさせた。武帝の死の報がに届くと、兵を率いて東下しようとしたが、蕭繹がまたこれをはばんだ。大宝三年(552)、において帝を称し、天正と改した。まもなく軍を率いて東下したが、侯景の乱が平定されたと聞いて、江陵を攻めようとした。翌年、西陵まで進んだ。後方の成都を西魏に奪われ、前面の蕭繹に敗れて、死んだ。
蕭繹(508~554)
  字は世誠。帝(Yuandi)。廟号は世祖。在位553~554。武帝(蕭衍)の七男。天監十三年(514)、湘東王に封ぜられ、江陵に鎮した。太年(547)、荊州刺史となる。ときに侯景の乱が起こり、大軍を擁しながら東下をためらい、桂陽王蕭慥を殺し、河東王蕭誉を湘州に討った。大宝二年(552)、侯景の乱が平定され、武陵王蕭紀がで帝を称すると、かれもまた江陵で即位した。翌年、武陵王が軍を率いて東下し、西陵にいたると、これを撃破した。承聖三年(554)、雍州刺史蕭詧が西魏の軍を引き入れて来攻すると、江陵を囲まれ、図書十万巻を焼いて、城を落とされ殺された。『孝徳伝』、『懐旧志』、『楼子』。
蕭淵(?~556)
  字は靖通。の貞陽侯。在位555。長沙王蕭懿の子。貞陽侯に封ぜられた。太年間に、豫州刺史となった。ときに侯景がに降ると、命を受けて東魏を攻めて、軍が敗れて捕らえられた。後に帝(蕭繹)が西魏に敗れて殺されると、承聖四年(555)、北斉の文宣帝(高洋)が上党王高渙に命じて蕭淵主として建康に送らせた。王僧弁が東関を守らず、蕭淵を帝に擁立し、天成と改した。その年の冬、覇先が王僧弁を襲って殺し、蕭方智を帝に立て、蕭淵は司徒・建安公となった。翌年、北斉が身柄の返還を求めたので、覇先はかれを送ろうとしたが、病没した。
蕭方智(542~557)
  字は慧相。の敬帝(Jingdi)。在位554~557。帝(蕭繹)の九男。太三年(549)、興侯に封ぜられた。承聖年(552)、安王に進んだ。二年(553)、江州刺史として赴任した。三年(554)、西魏が江陵を落とし、帝(蕭繹)が殺されると、王僧弁と覇先により、太宰として建康に迎えられた。ときに北斉が貞陽侯蕭淵主として建康に送ると、王僧弁が蕭淵を帝に擁立し、蕭方智は皇太子となった。覇先が王僧弁を殺すと、蕭淵を廃して蕭方智を立て、紹泰と改した。太平二年(557)、覇先が自ら立って帝となると、廃されて江陰王となった。これによりは滅んだ。外邸において没した。

[557~589]
覇先(503~559)
  字は興国。の初武帝(Wudi)。廟号は高祖。在位557~559。興郡長城の人。はじめ郷里の里司となり、建康に出て油庫吏となった。喩侯蕭暎の伝授となり、次いでその下で広州刺史参軍となった。交州の李賁の乱の平定に加わり、振遠将軍・西江督護・高陽太守に任ぜられた。太二年(548)、侯景が都を攻めると、広州刺史景仲がこれに通謀したため、を殺して蕭勃を刺史として迎えた。大宝年(550)、侯景討伐のため、兵三万を率いて北上し、王僧弁の軍と会し、侯景軍を破った。乱の平定後、京口に鎮した。承聖四年(555)、北斉が蕭淵帝とするよう要求し、王僧弁もこれに応じたため、王僧弁を攻めて殺し、蕭方智を擁立して敬帝とした。翌年、来攻した北斉軍を倪塘において撃破し、太平二年(557)には太傅に進み、王に封ぜられた。この年、敬帝を廃して自ら即位した。国号は。永定と建した。
(?~566)
  字は子華。の二文帝(Wendi)。廟号は世祖。在位559~566。始興昭烈王道譚の長男。侯景の乱のとき、伯父の覇先を助けた。はじめ興太守となる。敬帝の紹泰年(555)、周文育とともに王僧弁の部将の杜龕・張彪を討ち平らげた。会稽太守にうつった。覇先が即位してを建国すると、臨川王に立てられた。のち軍を率いて南皖に駐屯した。永定三年(559)、武帝(覇先)が崩ずると、宣皇后と中書舎人の蔡景暦らが計を定めて喪を発せず、蒨を召しだして帝に立てた。天嘉と改した。北斉を撃退し、湘州の王琳・臨川の周迪・豫章の熊曇朗・東陽の留異・建安の宝応の乱を次々に平らげた。賦税を軽くし、節倹につとめた。
伯宗(554~570)
  字は奉業。の三廃帝。在位566~568。文帝(蒨)の長男。天嘉年(560)、皇太子に立てられた。天康年(568)、文帝が崩ずると、即位した。翌年、光大と改した。政権は安成王頊に握られた。頊は宣太后の命を受けて帝を廃し、臨海王(Linhaiwang)に落とした。
(528~582)
  字は紹世。の四宣帝(Xuandi)。廟号は高宗。在位569~582。始興昭烈王道譚の次男。帝のとき、直閣将軍・中書侍郎に累進した。西魏が江陵を落とすと、長安に連行された。の天嘉三年(562)、南に身柄を返された。官は司空・尚書令にいたり、安成王に封ぜられた。廃帝(伯宗)のとき、太傅・司徒となり、軍政を総攬した。光大二年(568)、宣太后の命を受けて帝を廃し、自ら帝位について、太建と改した。租税を減免し、民力の休養をはかり、徹を派遣して、北斉に奪われていた淮南の地を奪回した。太建十年(578)、北周と徐・兗の二州を争い、呂において敗れて、淮南の地をことごとく失った。
叔宝(553~604)
  字は秀。五代後主(Houzhu)。在位582~589。頊(宣帝)の長男。母は柳皇后。太建年(569)、皇太子に立てられた。十四年(582)、宣帝が病没すると、即位した。すでにの国力は傾いていたが、沈客卿・施文慶らの佞臣を重用し、みずから宴遊酒色と詩賦音曲にふけって、その衰亡を早めた。禎三年(589)、軍により建康を陥され、張・孔の二妃とともに宮中の井戸に隠れていたが、捕らえられて長安に送られた。洛陽で没した。長城県公に追封された。
歴代皇帝(隋・唐)

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