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元帝成帝期

前漢(西)(前206~8)]
楚漢抗争期,高祖呂后期,文帝景帝期,武帝期,昭帝宣帝期,元帝成帝期,哀帝平帝期,,匈奴,,夜郎
高祖(劉邦)-恵帝(劉盈)-少帝恭(劉恭)-少帝弘(劉弘)-文帝(劉恒)-景帝(劉啓)-武帝(劉徹)-昭帝(劉弗陵)-宣帝(劉詢)-帝(劉奭)-成帝(劉驁)-哀帝(劉欣)-平帝(劉カン)-孺子嬰(劉嬰)
石顕(?~前32)
  字は君房。済南郡の人。若いころ、法に触れて腐刑を受けた。のち中黄門となり、推挙を受けて中尚書となった。次いで僕射となった。帝の時になって、弘恭が没すると中書令に上った。帝に信任されて政務を専断した。帝に彼を退けるよう上奏した蕭望之や周堪らを排除して迫害し、望之を自殺させた。また彼の欠点を述べた者を処刑したり、自殺に追い込んだりした。帝が没して成帝が即位すると、中太僕に遷った。匡衡と張譚に旧悪を奏上されて、徒党もろとも罷免され、彼も流されて故郷に帰り、絶食して路傍で死んだ。
許嘉(?~前28)
  許延寿の子。許広の甥にあたる。帝の初年(前48)、中常侍として平恩侯の爵を継いだ。永光三年(前41)、大司馬・車騎将軍に上った。成帝の建始二年(前31)、むすめを皇后として立てた。王鳳が信任されるようになると、特進侯となり政治の一線から退いた。
辛慶忌(?~前12)
  字は子真。隴西郡狄道の人。辛武賢の子。はじめ父の下で右校丞となった。長羅侯常恵に従って烏孫赤谷城で屯田し、烏孫の歙侯と戦って撃退し、功により侍郎となった。校尉となり、吏士を率いて焉耆国に駐屯した。帝のとき、郎中・車騎将軍・張掖太守・酒泉太守を歴任し、名を著した。成帝のとき、光禄大夫として召され、執吾に転じた。子が趙充国の家人を殺した罪に連座して、酒泉太守として出されたが、王鳳の推薦で旧官に復した。のち右将軍諸吏散騎給事中に任ぜられ、さらに左将軍となった。老齢で在官のまま没した。匈奴・西域もかれに親附し、威信を尊敬したという。
王牆(?~?)
  字は昭君。王穣の娘。南郡の人。帝の後宮に入ったが、匈奴との宥和のために、形式上の公主とされ、呼韓邪単于のもとに嫁がされた。寧胡閼氏と称され、一男(伊屠智牙師)を生んだ。呼韓邪が没すると、その子の復株ルイ※1単于が立って、またその妻とされ、二女(須卜居次、当于居次)を産んだ。戯曲『宮秋』の悲劇の主人公。
翟方進(?~前7)
  字は子威。汝南郡上蔡の人。微賎の家に生まれた。『春秋』を学び、射策の甲科に及第して郎となった。経に挙げられ、議郎に進んだ。成帝の河平年間、博士となった。朔方刺史に転じ、しばしば官吏の失態を上奏した。丞相司直となり、前後して慶・涓勲を弾劾して、ふたりの司隷校尉を辞めさせた。京兆尹となって豪強を懲らし、京師の人々は粛然とした。永始二年(前15)、御史大夫に進んだ。一時、執吾に降格されたが、まもなく丞相に上り、高陵侯に封ぜられた。法を守ること厳格で、二十数人の高官を辞任させた。外戚の淳于長とのみ親しくつきあった。淳于長が謀反の罪に連座して誅されると、致仕を請うたが慰留された。綏和二年(前7)、災害凶変のことを成帝に責められて自殺した。

[註]
1.ルイ=ルイ
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