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南詔

南詔(8c.~902)]
舎尨-独邏-細奴邏-邏盛炎-炎閤-盛邏皮-雲南王(皮邏閣)-南詔王(閤羅鳳)-南詔王(異牟尋)-尋閣勧-勧龍晟-勧利-豊祐-景荘帝(世龍)-宣武帝(隆舜)-孝哀帝(舜化)
皮邏閣(?~748)
  姓は蒙。盛邏皮の子。父の跡を継ぎ、台登郡王となる。河蛮を逐い、大和城を取った。朝により帰義の名を賜った。六詔を統一し、吐蕃を破った。開二十六年(738)、玄宗朝に入朝して、雲南王に封ぜられた。都を大和城においた。
異牟尋(755?~808)
  南詔王。在位779~808。鳳迦異の子。閤羅鳳の孫にあたる。大暦十四年(779)、閤羅鳳の死後に立った。吐蕃と結んで朝と戦ったが敗れた。のち吐蕃から離反してこれを破った。朝と結んで、南詔王に封ぜられた。吐蕃を攻めて昆城を取り、雲南の諸族を従え、南詔の最盛期をきずいた。
世龍(844?~877)
  酋龍ともいう。南詔の初景荘帝。在位859~877。豊祐の死後、南詔王として立った。大中十三年(859)に帝を称し、国号を大禮とした。咸通十一年(870)には軍を発して成都を包囲し、子女工匠数万人を連行して去った。

[大長和国(902~928)]
桓帝(鄭買嗣)-肅文帝(鄭仁旻)-恭恵帝(鄭隆亶)
鄭買嗣(860~909)
  またの名を昶。大長和国王。聖文武威德桓皇帝。在位902~909。光啓年(886)、南詔の宣武帝(隆舜)のとき、侍中に上った。宣武帝が没すると、子の舜化が幼かったので、摂政にあたった。竜紀年(889)に帝位を簒奪した。乾寧四年(897)、舜化(孝哀帝)に政権を奉還し、国老を自ら任じた。天復二年(902)、孝哀帝が死ぬと、蒙氏八百人を殺して再び簒奪した。国号を大長和国とした。

[大天興国(928~929)]
趙善政(?~?)
  大天興国王。悼康帝。在位928~929。雲南寧北の人。はじめ樵夫をしていたが、鄭氏に仕えて平官となった。天成三年(928)、楊干真が大長和国王の鄭隆亶を殺したのち、国主に擁立された。国号を大天興国とした。翌年、楊干真により廃された。

[大義寧国(929~937)]
楊干真(?~?)
  またの名を干貞。大義寧国王。肅恭帝。在位929~937。雲南和村の人。鄭氏の大長和国に仕えた。東川節度使に上った。天成三年(928)、大長和国王の鄭隆亶を殺して、趙善政を擁立した。翌年、趙善政を廃して自立した。国号を大義寧国とした。在位八年の間、政治は貪虐無道で、内外の恨みを買った。天福年(936)、段思平が起兵すると、敗れて義督に走った。段思平に罪を許され、剃髪して僧となった。また一説に、永昌で自殺したともいう。

[大理(937~1253)]
段思平-段思英-段思良-段思聡-段素順-段素英-段素廉-段素隆-段素真-段素興-段思廉-段連義-段寿輝-段正-(高昇泰)-段正淳-段正厳-段正興-段智興-段智廉-段智祥-段祥興-段興智
段思平(893~944)
  大理国の建国者。太祖聖神文武皇帝。在位937~944。段保隆の子。白族の出身。小府副将より、通海節度使に上った。天福二年(937)、雲南の大義寧国の楊干貞の政権を打倒して、大理国を建国した。翌年、文徳と改した。過酷な法令を除き、冗官を省き、八府四郡三十七部を設けた。仏教を好み、しばしば寺を建立させ、仏万尊を鋳させた。
段思英(?~?)
  大理国主。文経皇帝。在位944~945。段思平の子。神武末年(944)、即位した。翌年、文経と改した。叔父の段思良と争い、廃位されて、出家して僧となった。法名を宏修大師といった。
段思良(?~951)
  またの名を思冑。大理国主。聖慈文武皇帝。在位945~951。段思平の弟にあたる。文経年(945)、甥の段思英を廃して自ら即位した。翌年、至治と改した。「楼石坪碑」を刻ませたという。文武先皇と諡された。
段思聡(?~969)
  大理国主。至道廣慈皇帝。在位951~969。段思良の子。至治六年(951)、即位した。翌年、徳と改した。
段素順(?~986)
  大理国主。在位969~986。順徳二年(969)、即位した。政と改した。三年(971)、三十七部とともに石城に盟誓碑を立てた。
段素英(?~1009)
  大理国主。昭皇帝。在位986~1009。段素順の子。政十八年(986)、即位した。広と改した。
段素廉(?~1022)
  大理国主。宣肅皇帝。在位1009~1022。段素英の子。治末年(1009)、即位した。翌年、啟と改した。
段素隆(?~?)
  大理国主。秉義皇帝。在位1022~1026。段素英の孫にあたる。啟十三年(1022)、即位した。翌年、通と改した。四年(1026)、段素真に位を譲り、出家して僧となった。
段素真(?~1041)
  大理国主。聖德皇帝。在位1026~1041。段素廉の子。通四年(1026)、即位した。翌年、正治と改した。
段素興(?~1044)
  大理国主。天皇帝。在位1041~1044。段素英の孫にあたる。正治十五年(1041)、即位した。天帝を号した。翌年、聖と改した。遊興を好み、広壮な宮室を営んだ。多く植物を集めて植えさせ、その前で昼夜の別なく酒宴を楽しんだ。荒淫にして節度がなく、在位四年に満たずして国人により廃された。
段思廉(?~?)
  大理国主。興宗孝德皇帝。在位1044~1075。段思平の五世の孫にあたる。聖三年(1044)、段素興を廃して自ら即位した。保安と改した。正安年(1053)、儂智高がの郎州で乱を起こして狄青に敗れ、大理に侵入すると、段思廉は儂智高を殺害して開封にその首を送った。岳侯高智昇に楊允賢を討たせ、勝利した。高智昇に太保の位を加え、徳侯に封じ、白崖茹甸の地を賜った。まもなく高智昇を鄯闡侯に進封させ、子孫に世襲させた。保徳末年(1075)、子の段連義に位を譲って僧となった。
段連義(?~1080)
  またの名を廉義。大理国主。上德皇帝。在位1075~1080。段思廉の子。保徳末年(1075)、即位した。翌年、上徳と改した。広安四年(1080)、臣下の楊義貞に殺されて位を奪われた。
段寿輝(?~?)
  大理国主。上皇帝。在位1080~1082。段思平の五世の孫にあたる。広安四年(1080)、鄯闡侯高智昇の子の高昇泰が楊義貞を誅すと、擁立されて即位した。翌年、上と改した。高智昇を布燮とし、高昇泰を鄯闡侯とした。上二年(1082)、段正に位を譲った。
段正(?~?)
  大理国主。保定皇帝。在位1082~1094。段思廉の孫にあたる。上二年(1082)、即位した。保定と改した。天祐末年(1094)、臣下の高昇泰に廃されて、位を奪われた。出家して僧となった。
高昇泰(?~1095)
  大中国主。富有聖徳表正皇帝。在位1094~1095。高智昇の子。広安四年(1080)、楊義貞が大理国の王位を奪うと、高昇泰は東方爨僰の兵を率いて楊義貞を討ち、段寿輝を大理国王に擁立した。鄯闡侯に封ぜられた。天祐末年(1094)、王位を奪い、国号を大中国とした。翌年、上治と改した。段氏に政権を返すよう子の高泰に遺言して薨じた。
段正淳(?~?)
  大理国主。中宗文安皇帝。在位1095~1108。段正の子。上治年(1095)、大中国主高昇泰が亡くなると、高泰により擁立され、即位した。かれ以後の大理国は後理国とも称される。翌年、天授と改した。高泰を相国として、国政を執らせ、高泰運を棚主とした。雄城を築き、高亮を封じた。高泰運を北宋に派遣して経籍六十九家・薬書六十二部を持ち帰らせた。文安四年(1108)、段正厳に位を譲って僧となった。
段正厳(?~?)
  またの名を和誉。大理国主。憲宗宣仁皇帝。在位1108~1147。段正淳の子。文安四年(1108)、即位した。翌年、日と改した。三十七部が叛いたので相国の高泰に平定させた。文治七年(1116)、高泰が亡くなると、子の高泰運に国政を執らせた。翌年、李紫琮・李伯祥らを開封に派遣して、北宋に馬・麝香・牛黄などを献じ、雲南節度使・上柱国・大理国王に封ぜられた。三十七部が再び叛き、鄯闡を奪われ、高が戦死した。高昇泰の甥の高量成を相に立てて、中国公と号させた。紹興十七年(1147)、子の段正興に位を譲って僧となった。
段正興(?~?)
  大理国主。景宗正康皇帝。在位1147~1171。段正厳の子。広運末年(1147)、即位した。翌年、永貞と改した。高量成が引退して甥の高寿貞が相となった。高寿貞が亡くなると、高寿昌が相となり、中国公と号した。在位二十五年、子の段智興に位を譲って僧となった。
段智興(?~1200)
  大理国主。宣宗功極皇帝。在位1171~1200。段正興の子。建徳末年(1171)、即位した。翌年、利貞と改した。李観音が高寿昌の位を奪い、高貞を立てた。阿機が起兵して高貞の位を奪い、再び高寿昌を立てた。高貞は鶴慶に拠って国公を自称した。また高妙音が白崖で起兵して、鄯闡に拠った。
段智廉(?~1204)
  大理国主。享天皇帝。在位1200~1204。段智興の子。安定末年(1200)、即位した。翌年、鳳暦と改した。使者を立ててに『大蔵経』千四百六十五部を求めさせ、五華楼に置いた。
段智祥(?~?)
  大理国主。神宗皇帝。在位1204~1238。段智廉の子。寿末年(1204)、即位した。翌年、天開と改した。高隆を鄯闡王に封じ、高泰祥を相国とし、光日を演習とした。在位三十三年、子の段祥興に位を譲って僧となった。
段祥興(?~1251)
  大理国主。孝義皇帝。在位1238~1251。段智祥の子。仁寿末年(1238)、即位した。翌年、道隆と改した。六年(1244)、モンゴル軍が霊関を出て大理国に侵入したため、高禾に迎撃させた。高禾は奮戦して戦死し、蒙古軍は侵攻の意図をくじかれた。段連祐が南宋に帰順した。
段興智(?~1260?)
  大理国主。在位1251~1253。段祥興の子。道隆十三年(1251)、即位し、天定と改した。天定年(1252)、モンゴルよりたびたび招諭の使者が来たが、全て殺した。相国高泰祥に沙江を守らせた。高泰祥はフビライの軍に敗れて五華楼の下で斬られた。段興智は鄯闡に逃れた。翌年、モンゴルの大将ウリャンハダイの軍に攻められ、さらに昆沢に逃れたが、捕らえられ降った。翌年、蒙古に地図を献上し、雲南諸郡の平定を願い、民を治め賦税を取る法を上奏した。憲宗(モンケ)は、かれを賞賛して摩訶羅嵯(マハラジャ)の号を与えた。ウリャンハダイの軍の先鋒かつ案内役として、雲南諸郡の平定や交趾への侵攻に従った。没後、大理向義王の号を贈られた。

[大理総管]
段実(?~1282)
  またの名は信苴日。段祥興の子。段興智の弟にあたる。モンゴルの中統二年(1261)、世祖フビライに謁見し、兄の職を継いで総管となり、虎符を賜り、大理・威・鄯闡・統矢・会川・建昌・騰越などを領した。至年(1264)、妖僧舍利威が威・統矢・鄯闡および三十七部と結んで叛したので、段実はこれを討ち破った。四年(1267)、フビライの五男フゲチが雲南王となり、大理に鎮した。翌年、占城・真臘への遠征に従軍した。七年(1270)、大理路軍民総管府が置かれた。翌年、フゲチが帥宝和丁に殺された。大理三十七部が南北中三路に分けられ、阿忒兒が宣撫のため大理に赴任してきた。十一年(1274)、の宗室の脱忽が雲南王となり、雲南行省平章政事の賽典赤に命じて雲南各衙門を建てさせた。妖僧舍利威がまた叛いたので、段実は石買を遣わして捕らえさせ梟首した。十七年(1280)、エセンテムルが雲南王となった。翌年、子の段阿慶とともに入朝した。十九年(1282)、歯で病没した。武定公と諡された。
段忠(?~1283)
  段祥興の子。段実の弟にあたる。至二十年(1283)、兄の職を継いで大理路総管となった。帥濶木に従って芒部・両林蛮・会川などの叛乱勢力を討った。功により善闡酋とされ、虎符を賜った。雲南王エセンテムルに従って、武定を討った。十二月、亡くなった。
段慶(?~1306)
  またの名は阿慶。段実の子。至十八年(1281)、父に従ってに入朝した。二十一年(1284)、大理路総管となった。二十七年(1290)、皇孫カマラが王となり雲南に鎮した。三十年(1293)、カマラの子の松山が雲南に鎮した。大徳三年(1299)、雲南水西土官の隆済が叛き、貴州知州張懐徳が戦死した。雲南行省麻九兒が隆済を討ち破った。八年(1304)、平雲南碑を點蒼山に立てた。十年(1306)、羅雄土官阿那龍少が叛き、越州に拠った。右丞汪惟能に命じて討たせ、阿那龍少を斬った。この年、亡くなった。
段正(?~1316)
  段実の子。段慶の弟にあたる。大徳十一年(1307)、大理路総管となった。蒙化山中の爨族たちを招撫して戸籍に入れさせた。寧に盤龍寺を建てさせた。
段隆(?~?)
  段慶の子。延祐四年(1317)、大理軍民総管となった。延祐七年(1320)、カマラの孫の王禅が雲南王となった。至治三年(1323)、王禅の子のテムルブカが雲南王となった。至順年(1330)、豫王阿忒思納失里が雲南に鎮した。禿堅が雲南に拠って叛き、廉訪使を殺して雲南王を自称した。枢密テムルが命を受けて禿堅を討ち、捕らえた。至順二年(1331)、引退して子の段俊に位を譲った。
段俊(?~1331)
  段隆の子。至順二年(1331)、大理軍民総管となった。この年、亡くなった。
段義(?~1332)
  段俊の族弟にあたる。至順三年(1332)、大理軍民総管となった。この年、亡くなった。
段光(?~1344)
  段隆の子。年(1333)、段義の跡を継いだが、朝には承務郞・蒙化州知州に任ぜられるにとどまった。番兵が乱を起こしたので、孟州判官李生らが白崖を守り、高蓬が番兵を破って、勝ちに乗じて長駆して河尾関を破った。段光は兵を率いて番兵を大いに破り、多数を斬首した。翌年、張希矯・楊生・張連らを遣わして王把匝剌瓦爾密を攻めさせたが、大敗した。至年(1335)、王が大理を侵したので、段光は自ら軍を率いて昆弥山に戦い、王を破って凱旋した。侍翰楊天甫が「長寿仙曲」を作って祝った。至正年(1341)、段氏の臣下の高蓬が王の招きを断って、料理人に刺殺された。四年(1344)、段光は病没した。
段功(?~1366)
  段隆の子。段光の弟にあたる。至正五年(1345)、段光の跡を継いだが、朝には承務郞・蒙化州知州に任ぜられるにとどまった。翌年、木邦夷思可が叛いた。賈敦熙が雲南路の兵を率いてこれを討ち、段功が先鋒をつとめて戦勝を挙げた。功績により大理総管に任ぜられ、まもなく参政に上った。十三年(1353)、紅巾軍が建昌に流入し雲南の辺境を侵すと、阿次失里がこれを討った。十五年(1355)、の太師トクトが雲南に流されて殺された。二十三年(1363)、紅巾軍の玉珍が李芝麻・李二らに兵三万を率いさせて雲南を攻めさせた。王は雄に逃れ、車力帖木兒が李二を捕らえ、段氏の将の鉄万戸が戦死した。段功は長らく中慶の王府にあったが、妻の高夫人の勧めを容れて大理に帰った。段功は王に疑われるようになった。二十六年(1366)、段功は東寺で王に仏典を講じることとなり、通済橋にかかったところ、段功の馬が逸ったため、王は機会に乗じて番将に段功を殺させた。
段宝(?~1381)
  段功の子。至正二十六年(1366)、父が王に殺されると、平章政事を自称し、大理において立った。王が段氏を族誅しようと図ったので、王と段氏は仇敵となり、鶏廟を境に南は王、北は段氏が領した。洪武年(1368)、段宝は王と和解した。舍興の乱が起こると、王を救援して舍興を破った。四年(1371)、に降った。十四年(1381)、没した。
(?~1381)
  段宝の子。洪武十四年(1381)四月、段宝の跡を継いだ。九月、の洪武帝(朱璋)の命により溥友徳・曹正・王弼・朝興・郭英・張銓らが三十万の軍を率いて雲南を攻めた。諸部の首長は風を望んでに降った。王は敗れて寧に逃れ、投水死した。沐英らが入城し、王の印と図書・戸籍を接収し、民衆を安撫した。十二月、段は亡くなった。
段世(?~?)
  段功の子。段宝の弟にあたる。洪武十五年(1382)、段の跡を継いだ。二月、軍が大理に迫ったので、段世はの正朔を奉じて外臣とならんと伝えたが、溥友徳らに無視され降伏を迫られた。このため軍を挑発する書簡を送ったが、戦い敗れ、大理城を落とされ、子の段苴仁・段苴義とともに捕らえられた。四月、雲南の諸部はによって平定された。翌年、段世と二子は南京に送られた。段氏による大理総管は断絶し、一族の段保が朝により雲龍州土知州に封ぜられたのみであった。

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