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高宗期

南宋(1127~1279)]
北宋太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
高宗(趙構)-孝宗(趙シン)-光宗(趙惇)-寧宗(趙擴)-理宗(趙昀)-度宗(趙キ)-恭宗(趙ケン)-端宗(趙昰)-王(趙ヘイ)
趙構(1107~1187)
  南宋の高宗⇒。
張邦昌(?~1127)
  字は子能。永静東光の人。政和年間の末年、洪州の知州から礼部侍郎となった。宣和年間に尚書右丞・中書侍郎などをつとめた。欽宗のとき、姚平仲の軍が軍に攻撃をしかけて敗れ、宗望にの背信を責められたが、邦昌は涕泣して宗望に謝を請い許された。この功績で太宰・門下侍郎となった。が再び南侵し、北宋の都開封が陥落したとき、邦昌は朝に捕らえられ、傀儡国・の皇帝に擁立された。しかし、隙を見て退位し、哲宗の皇后だった孟太后に垂簾をとらせた。高宗が即位すると逃亡して、南宋に帰順した。太保・奉国軍節度使に任ぜられ、同安郡王に封ぜられた。李綱らが彼を反逆者呼ばわりしたため、譚州に移され、やがて自殺に追い込まれた。のちに高宗は、張邦昌が朝の陵墓を守った功績があったのに対して、李綱らが無力で非現実的な理想論のみを唱えていたことを批判している。
宗沢(1060~1128)
  字は汝霖。婺州義烏の人。祐年間に進士に及第した。靖康年(1126)、知磁州として城を修繕し、義勇兵を集めての南下をはばんだ。康王趙構(のちの高宗)がとの講和のため送られる途中、磁州に立ち寄ったが、宗沢の勧めを容れて相州に引き返し大帥府を開いた。宗沢は副帥に任ぜられ、軍を率いて京師を救わんとし、孤軍奮戦した。開徳・南で勝利を得た。建炎年(1127)、東京(開封)留守に任ぜられて、王善・楊進らの義軍を招集し、河北八字軍などと連絡し、岳飛を将軍に抜擢して、しばしばを破った。前後二十回あまり上書して、高宗の開封帰還を望んだが、黄潜善らの反対を受けて容れられなかった。黄河を超えて進撃することを求めたが、勅許が得られず、病臥して没した。『宗忠簡公集』。
(1048~1128)
  字は晞古。河陽三城の人。徽宗のとき、画院に入った。建炎年(1127)、南遷して臨安にうつり、画を売って暮らした。再び画院に入って待詔となり、成忠郎に任ぜられた。北宗画の流れをくみ、自然的・写実的描写で山水画の一派をなした。また人物や牛を描くのも得意とした。「万壑松風図」、「文公復国図」、「采薇図」。
誠(1081~1129)
  字は徳父、または徳甫。密州諸城の人。趙挺之の子。李照の夫。若くして前の石刻を蒐集した。太学生となり、蔭官によって官界に入った。崇寧四年(1105)、鴻臚少卿に任ぜられた。大観二年(1108)、妻とともに青州の故居に帰り、長年安居して古器・彝銘・遺碑・刻石を広く求めた。宣和年間、守莱州として出向した。靖康二年(1127)、南渡して知江寧府をつとめた。建炎三年(1129)、知湖州に任ぜられたが、赴任しないうちに建康で没した。石学にすぐれ、『石録』を撰した。
鍾相(?~1130)
  鼎州武陵の人。はじめ封郷水連村を拠点として布教し、老爺・天大聖などと自称して、農民を集めた。「貴賎等しく、貧富均しく」などの主張を唱え、湖南農民の深い尊崇を受けた。建炎四年(1130)二月、兵が潭州を去ると、人々を集めて官府・寺廟や富豪の家を焼き壊した。官吏・儒生・僧侶・巫医・卜祝や旧怨ある人々を殺した。殺人を行法と称し、の法制を邪法としりぞけ、富豪の財物を奪って「均平」をなすと称した。数十万人を集めて十九県を占領した。王を称し、天裁と建し、百官を置いた。三月、子の鍾昂とともに捕らえられ、処刑された。
楊時(1053~1135)
  字は中立。南剣州将楽の人。若いころから文章をよくし、経史に通じた。煕寧九年(1076)、進士に及第した。程顥・程頤に師事し、理学を学んだ。徽宗のとき、右諫議大夫に上った。三鎮の割譲やとの和議に反対し、蔡京・童貫らを指弾した。高宗が即位すると、工部侍郎・侍読に任ぜられた。晩年は林泉に遊び、著述と講学につとめた。程門四子のひとり。『二程粹言』、『亀山先生語録』。
僧克勤(1063~1135)
  成都の人。はじめ儒教を学んだが、出家して当時の名流に経論を学んだ。瀕死の大病に遭って、その無力を痛感し、禅宗に転じた。臨済宗の五祖・法演に師事して、法を継いだ。臨済宗楊岐派に属した。湖南の夾山霊泉などに住持した。『碧巌録』。
楊幺(?~1135)
  名は太。鼎州龍陽の人。建炎四年(1130)、鍾相が乱を起こしたとき、諸首領の中で最年少であったため、幼少の意味で幺と名乗った。鍾相が敗死した後も、黄誠・誠・周倫らとともに戦いを続けた。紹興三年(1133)、大聖天王を称し、鍾相の末子の鍾儀を太子として、二十数万人を集めた。洞庭湖一帯に寨を結んで拠り、陸に耕し水上で戦い、軍の討伐をはばみ続けた。五年(1135)六月、部下の黄佐・楊欽に裏切られ、岳飛軍に敗れて捕らえられ、殺された。
胡安国(1074~1138)
  字は康侯。建寧崇安の人。紹聖年間に進士に及第した。太学博士・中書舎人兼侍講・宝文閣直学士に任ぜられた。朝政の改革と抗を唱えて「時政論」を献上し、「必ず中原を恢復するを志とす」と高宗に建議した。『春秋』に詳しく、春秋経世の説を借りて時の政治を議論した。程頤の学統を継ぐと自称し、謝良佐・楊時・游酢を三先生として尊崇した。『春秋胡氏伝』、『資治通鑑挙要補遺』。
与義(1090~1138)
  字は去非、号は簡斎。政和三年(1113)、進士に及第した。太学博士に上った。の南渡後に召し出されて、翰林学士から参知政事にいたった。
呂頤浩(1071~1139)
  字は直。滄州楽陵の人。のちに州にうつった。紹聖三年(1096)、進士に及第した。はじめ密州司戸参軍となった。李臣の推薦により汾州教授に任ぜられた。宗子博士・太府少卿・河北転運使などを歴任した。种師道の北伐に従って燕京を回復した。軍の南下に備えて燕山・河北危急五事を上奏したが、徽宗の朝廷に容れられず、左遷された。南宋が建てられると、知楊州に任ぜられた。建炎二年(1128)、同簽書枢密院事・江准両浙制置使となり、京口に駐屯して軍の侵攻を防いだ。同中書門下平章事(宰相)・御営使に上った。苗伝・劉正彦が乱を起こすと、韓世忠・張俊らとともに鎮圧した。また軍の侵攻に遭うと、高宗とともに海上に逃れた。紹興年(1131)、尚書左僕射・同中書門下平章事となった。翌年、李綱や李光諸らを排斥した。宰相を退いたのち、台州の巾子山の東麓に退老堂を築いて隠居した。死後、国公の位を贈られ、忠穆と諡された。『忠穆集』。
李綱(1083~1140)
  字は伯紀。邵武の人。政和年間に進士に及第した。太常卿に累進した。宣和七年(1125)、兵が南下して、徽宗が南に逃亡しようと図ると、上疏して太子に位を伝えるように請うた。欽宗が即位すると、兵部侍郎に任ぜられた。靖康年(1126)、対主戦論を唱えて欽宗に罷免されたが、太学生の東らの上書や軍民の圧力があって、尚書右丞として復活した。が南渡して高宗が即位すると、尚書右僕射・中書侍郎に任ぜられた。ここでも頑強な主戦論を唱え、和平派を排撃した。紹興二年(1132)、観文殿学士・湖広宣撫使・知潭州となった。『論語詳説』、『宣撫荊広記』、『渓集』。
岳飛(1103~1141)
  字は鵬挙。相州湯陰の人。岳和の子。母は姚氏。貧農の家に生まれたが、『左伝』や孫の兵法を好み、弓術を学んで極めた。宣和四年(1122)、軍の侵入に際して義勇軍に応じ、康王(のちの高宗)のもとに参じた。背中に「尽忠報国」の四文字を彫り、たびたび戦功を挙げて、承信郎・秉義郎・修武郎を歴任した。神武右軍副統制から神武右軍都統制に上り、高宗は自ら「精忠岳飛」と書いた軍旗を彼に与えたという。紹興四年(1134)には遠軍節度使に上り、翌年には崇信軍節度使・武昌郡開国侯となった。湖北路・荊州・襄州・潭州の制置使として中原回復の機をうかがい、高宗に上奏したが許されなかった。軍が侵入すると、ことごとく撃退。紹興八年(1138)、檜の唱える和議に「人は信ずるべからず」と反対して、檜に憎まれた。十年(1140)、完顔宗弼率いるの大軍が来攻すると、これを撃退して朱仙鎮に兵を進め、開封に迫った。和睦が成立して、鄂州に引きこもった。檜らに冤を着せられて獄につながれ、やがて毒殺された。死後に名誉回復されて鄂王に追封された。『岳忠武王集』。
公輔(1077~1142) 
  字は国佐、号は定庵居士。臨海の人。政和三年(1113)、上舎に及第し、平江府教授に任ぜられた。応天府少尹に累進し、秘書郎となった。靖康初年、右司諫となり、李邦彦らを弾劾した。のちに監台州税に左遷された。高宗が即位すると、左司員外郎に任ぜられた。紹興六年(1136)、左司諫となった。翌年、礼部侍郎に転じ、知処州をつとめた。十二年(1142)、提挙江州太平観となった。
劉光世(1089~1142)
  字は平叔。保安軍の人。劉延慶の子。宣和三年(1121)、父に従って方臘の乱を討ち、鄜延路兵馬鈴轄となった。翌年、征討に従って軍紀に反し、降格された。高宗が即位すると、行在都巡検使となった。建炎三年(1129)春、兵が揚州に迫ると、江淮制置使として兵を率いて迎撃したが、戦わないうちに潰乱し、高宗とともに長江を渡った。まもなく江東宣撫使となって、江州に駐屯し、酒びたりの日々を送った。紹興六年(1136)、江東淮西宣撫使となり、廬州に駐屯した。の軍が濠・寿の間に入ると、廬州を捨てて逃れた。翌年、軍職を去った。浮薄なところが多く、檜に無害な人間とみなされて排斥されなかった。のちに少師に上り、晩年も栄華を失わなかった。
幹(1167~1143?)
  字は仲宗、号は蘆川居士。福州長楽の人。李綱の下で属官となった。将作少監まで上った。四十一歳で致仕し、郷里の三山に寓居した。檜を激しく非難した胡銓と交友したため、官籍を剥奪された。『蘆川帰来集』。
朱勝非(1082~1144)
  字は蔵一。蔡州汝陽の人。崇寧二年(1103)、上舍第に登った。靖康年(1126)、東道副総管となり、権知応天府をつとめ、趙構(高宗)に帝位につくよう勧進した。建炎年(1127)、中書舍人・権直学士院となった。翌年、尚書右丞に任ぜられ、中書侍郎に転じた。三年(1129)、尚書右僕射・御営使に進んだ。苗伝・劉正彦の乱が平定されると、国政から退いて、観文殿大学士・知洪州となった。ついで江西安撫大使・知江州となった。紹興年(1131)、馬進が江州を攻め落とすと、責任を問われて分司南京に降格された。翌年、呂頤浩の推薦により侍読となり、まもなく尚書右僕射・同中書門下平章事に上り、知枢密院事を兼ねた。戦守四事を奏上して、知湖州などをつとめた。檜が宰相に上ると、政策が合わず、八年にわたって蟄居した。『紺珠集』。
呂本中(1084~1145)
  字は居仁、号は東莱先生。呂好問の子。蔭官によって承務郎に任ぜられた。紹聖年間、祐党人(旧法党)の子弟として免官された。紹興六年(1136)、進士出身を賜り、中書舎人・侍講・権直学士院となった。檜と対立し、弾劾を受けて罷免された。詩を黄庭堅・師道に学び、李白・蘇軾を重んじ、おもに南渡後の悲憤慷慨を詠んだ。『童蒙訓』、『紫微詩話』、『江西詩杜宗派図』、『東莱先生詩集』。
趙鼎(1085~1147)
  字は鎮、号は得全居士。解州聞喜の人。崇寧五年(1106)、進士に及第した。洛陽令・開封士曹などを歴任した。南宋が建てられると、尚書左僕射・同中書門下平章事・枢密使に上った。岳飛や韓世忠らを推挙し、対主戦論を唱えた。檜らに疎まれ、紹興八年(1138)に知紹興府として出された。まもなく潮州に左遷され、さらに吉陽軍にうつされた。孝宗のとき、忠簡と諡された。『忠正徳文集』。
牛皐(1087~1147)
  字は伯遠。汝州山の人。南宋の初年、抗の戦いに投じた。北方が失陥すると、劉予のに降った。紹興三年(1133)、再びに帰順した。岳飛の下に属し、中軍統制・左軍統制などをつとめた。翌年、襄六郡を恢復する戦いで、戦功を挙げた。五年(1135)、岳飛に従って、楊幺の乱の鎮圧にあたり、楊幺を捕らえた。岳飛の北伐に従って、開封近くまで兵を進め、しばしば戦功を立てた。官は承宣使に上った。岳飛が横死した後、の間の和議に反対した。十七年(1147)三月、檜の命により毒殺された。
范同(1097~1148)
  字は択善。江寧の人。政和五年(1115)、進士に及第した。高宗のとき、檜とともに対和議を主張した。紹興八年(1138)、太常少卿を行し、接伴使をつとめた。まもなく中書門下検正諸房公事・実録院修撰となり、給事中に転じた。十一年(1141)、韓世忠・張俊を枢密使とし、岳飛を枢密副使として、その兵権を削るよう檜に助言した。翰林学士となり、参知政事に進んだ。のちに檜に憎まれ、筠州に流された。十八年(1148)、知太平州となったが、まもなく没した。
王次翁(1079~1149)
  字は慶曾、号は両河先生。済南の人。太学に入り、礼部別頭試に及第し、恩州司理参軍に任ぜられた。知道州・知処州・広西転運判官などを歴任した。檜にへつらい、紹興十年(1140)には御史中丞となり、参知政事に進んだ。十三年(1143)、資政殿学士・提皋洞霄宮となり、州に住んだ。翌年致仕した。 
老(?~?)
  はじめ東京(開封)に住んでいたが、靖康の乱に遭って江南に逃れた。紹興十七年(1147)、崇寧年間から宣和年間にいたる開封の城市の風貌・習俗・文化を活写した『東京夢華録』を著した。
韓肖冑(1075~1150) 
  字は似夫。相州安陽の人。韓治の子。蔭官により承務郎となり、開封府司録をつとめた。徽宗により同上舍出身を賜り、尉少卿に任ぜられた。給事中としてに使いした。宣和年(1119)、知相州となった。建炎二年(1128)、知江州に転じた。召されて祠部郎となり、左司にうつった。紹興二年(1132)、吏部侍郎に進んだ。翌年、端殿学士・同簽書枢密院事に任ぜられた。通問使としてに使いした。のちに知温州・知紹興府をつとめた。死後、穆と諡された。
米友仁(1072~1151)
  字は暉、号は懶拙道人。太原の人。のちに襄陽にうつった。米芾の長男で、小米と称される。若くして書画の才能で名を知られた。宣和四年(1122)、選に応じて書学博士となった。紹興年間に兵部侍郎・敷文閣学士に上った。書は行書をよくした。山水画は意を写すことを重んじ、父の技法を発展させた。「雲山得意図」、「潚湘奇観図」などの画が後世に伝わった。『陽春集』。
韓世忠(1089~1151)
  字は良臣、号は涼居士。延安の人。十八歳のとき募兵に応じて従軍。西夏と戦って功を挙げた。宣和二年(1120)、偏将として王淵のもとで方臘の乱の平定に従った。軍が真定を陥れると、包囲された王淵を救った。北宋の滅亡後は、康王(のちの高宗)の幕下に加わり、軍と戦った。高宗が即位すると、光州観察使・平寇左将軍となった。建炎三年(1129)、武勝・昭慶軍節度使に任ぜられた。完顔宗弼が率いる十万の軍が江南に侵入すると、翌年に八千の手勢を率いて宗弼の退路を阻み黄天蕩で撃破した。四年(1134)、大儀鎮で軍を大いに破った。十一年(1141)、檜により軍権を剥奪され、枢密使に上った。岳飛が捕らえられるとその無罪を主張したが容れられず、官を辞めて隠棲した。妻の紅玉も戦場でともに戦ったことで知られる。
何鑄(1088~1152) 
  字は伯寿。余杭の人。政和五年(1115)、進士に及第した。州県の官を歴任した。紹興五年(1135)、諸王宮大小学教授となった。秘書郎・監察御史・御史中丞などを歴任した。十一年(1141)、簽書枢密院事に任ぜられ、国に対する使者をつとめた。岳飛の冤罪を訴えて、檜の忌避を買い、知徽州に左遷され、さらに提挙江州太平観に流された。
照(1084~?)
  号は易安居士。済南の人。李格非の娘。学者の家に生まれ、幼い頃から詞作を好んだ。建中靖国年(1101)、趙誠にとついで、ともに詞作した。趙誠の父・趙挺之が蔡京との政争に敗れて失脚すると、夫とともに青州で隠遁生活を送った。そのころ膨大な書籍を校勘・分類し、書画骨董を収集した。しかし、軍が南下して北宋を滅ぼすと、書籍や骨董を抱えて江南へ向かったが、夫は建康で没した。洪州に親類を頼ったが、軍の襲撃を受けて家蔵の古物のほとんどを失った。張汝舟と再婚したが、夫の横領を告発して離別。不遇な晩年を送った。第一の女流詞人とされる。『漱玉詞』。
張俊(1086~1154)
  字は伯英。成紀の人。建炎年(1127)、御営司統制官となった。三年(1129)、州城を守り、兵の来攻をはばんで、高橋の勝利をえた。まもなく完顔宗弼が大軍を率いて南下すると、城を棄てて逃れた。紹興初年、江淮招討使となり、各地の叛乱を鎮圧し、叛将李成を討った。紹興五年(1135)、淮西を宣撫し、の劉猊の攻勢をくじいた。十年(1140)、部将の王徳を北上させ、亳州に勝利したが、高宗・檜の意を迎えて軍を引き、寿春に駐屯した。翌年、和議に賛同し、軍権を返上して、枢密使に任ぜられた。晩年、河郡王に封ぜられ、太師に上った。高宗の寵遇を受け、死後に循王に追封された。劉錡を排斥し、岳飛殺害の謀に参与したため、後世の誹りを受けた。
檜(1090~1155)
  字は会之。諡は忠献。江寧の人。進士に及第して、御史中丞に上った。軍が開封を占領すると、朝の虜囚となった。燕山・大定府を経て韓州に移された。朝の政治機構や軍隊をつぶさに観察して、その認識を改めた。の完顔宗翰や撻懶の身辺に近づき、和平についての合意をえて、脱出。越州にいた高宗のもとに帰参した。和平を説いて帝に信任され、謁見の翌日には礼部尚書に任用された。次いで参知政事に上り、翌年に臨安に都を遷すと、右僕射・同中書門下平章事(宰相)・枢密院事となった。一時、主戦派の呂頤浩のために追われて、観文殿学士となった。やがて朝政に復帰し、資政殿学士・温州知事・紹興府知事・行宮留守と累進し、枢密使となった。紹興八年(1138)、右僕射・同中書門下平章事に復した。十年(1140)、完顔宗弼率いるの大軍が来攻すると、岳飛が軍を撃ち破り、開封に迫った。一日に十二度も召還の字牌を送ってその進軍をとどめた。翌年、との和平を成立させ、和平策の邪魔になった岳飛親子に冤罪を着せて殺した。十二年(1142)、両国公に封ぜられた。二十五年(1155)、病臥して高宗の見舞いを受け、建康郡王を贈られたが返上した。死後、申王に追封された。
僧宗杲(1084~1158)
  俗姓は奚、号は妙喜。宣州寧国の人。十二歳のとき、出家した。諸家の語録を好んで読み、宗門の語をかたるのを喜んだ。郢州に遊学し、曹洞の宗旨を学んだ。汴京の天寧寺におもむき、克勤に『臨済正宗記』を授けられた。臨済宗楊岐派の人として名が京師に広まった。紹興十一年(1141)、檜により触法犯とされ、衡州・梅州で十余年にわたって軍役につかされた。二十六年(1156)、大赦に遭い、僧籍を恢復した。翌年、径山に住持し、径山宗杲を称した。三十二年(1162)、大慧禅師の号を賜った。畜生驢馬や庭前の柏の樹にも仏性が備わっていると認識し、飲酒食肉は菩提の障害にはならず、行盗行淫は般若を妨げないと主張した。禅宗の公案に詳しく、『正法眼蔵』に集められた。ほか『大慧普覚禅師宗門普説』、『大慧普覚禅師宗門武庫』などが弟子によって編まれた。
鄭樵(1102~1160)
  字は漁仲。興化軍莆田の人。若いころは科挙に応じず、夾漈山の上に草堂を築き、三十年にわたって読書生活を送った。書を訪ねて十年、蔵書家に出会うと本を借りに行き、読み尽くすと去った。名山大川に広く遊歴し、実地調査をおこなった。経史、礼楽、天文、地理、草木、虫魚、文字、音韻に広く通じた。紹興十九年(1149)、著書十八種百四十巻を携えて臨安におもむき、朝廷に献上すると、高宗は秘府に蔵するよう詔した。王綸・賀允中の推薦により、高宗の謁見を受け、右迪功郎・礼兵部架閣に任ぜられた。御史葉義に弾劾されて監潭州南岳廟に左遷された。歴の典籍を網羅貫通した『通志』を著して献上し、枢密院編修官となった。『通志』は五代以前の文献を総ざらえし、「天下の書を集めて一書となす」といい、「一家の言を成す」といった。学問研究は実事求是を要すると主張し、実際知識を重んじて図譜・文物の研究を進めた。ほか『夾漈遺稿』、『爾雅注』など。
劉錡(1098~1162)
  字は信叔。徳順軍の人。建炎年間に、隴右都護となり、西夏人におそれられた。張浚が陝西を宣撫すると、涇原計略使となった。紹興六年(1136)、宿の親兵を統括した。十年(1140)、の間で和議が成ると、東京副留守に任ぜられて、兵を率いて赴任した。途中、順昌を過ぎるとき、の完顔宗弼が和約を破って来攻すると、城を守って侵攻を防ぎ、撃退した。翌年、張浚・楊沂中と合流して、淮西を援護し、柘皐で軍を破った。檜・張俊に憎まれて、兵権を奪われ、知荊南府に任ぜられた。三十一年(1161)、の完顔亮の軍が南下すると、江淮浙西制置使となって、淮東を守った。老病のため任務に耐えず、鎮江に退いた。翌年、憂憤のうちに没した。
胡宏(1106~1162)
  字は仁仲、号は五峰。胡安国の末子。湖南の衡山のふもとで学問に励み、官に就かなかった。已発未発の説を唱え、人の察識と涵養を重んじた。湖南学を大成し、朱子学に影響を与えた。『胡子知言』、『五峰集』。
張浚(1097~1164)
  字は徳遠、号は紫岩。州緜竹の人。政和年間に進士に及第した。建炎三年(1129)、苗劉の変が起こると、勤王復辟の功あって、知枢密院事に任ぜられた。四川・陝西の経営を建議して、川陝宣撫処置使に任ぜられて赴任した。富平の戦いで利を失ったが、人を適材適所に任用して、地を保った。紹興五年(1135)、尚書右僕射・同中書門下平章事・知枢密院事となり、江・淮諸路の軍を率いて北伐した。兵変のため、責任を問われ罷免された。檜の執政のもと二十年近く排斥され続けた。三十一年(1161)、の完顔亮の軍が南下すると、再び起用された。隆興年(1163)、枢密使となり、北伐したが、将軍の間の不和が原因で、符離の戦いで敗れた。のちに講和派のため排斥された。『中興備覧』。
湯思退(1117~1164)
  字は進之、号は湘水。処州の人。の紹興十五年(1145)、進士に及第した。秘書省正字に任ぜられた。二十五年(1155)、端殿学士・簽書枢密院事となり、病にたおれた檜に後事を託され、黄千両を贈られたが固辞した。二十七年(1157)、尚書右僕射に上った。三十年(1160)、俊卿に弾劾されて免職された。隆興年(1163)、北伐が失敗すると、再び宰相に返り咲いた。海・泗・・鄧四郡をに割譲しての和平を推進したが、主戦派の台頭を招き、罷免されて永州に左遷される途中、病没した。
康伯(1097~1165)
  字長卿。弋陽港口の人。の宣和三年(1121)、進士に及第した。はじめ長洲主簿となった。高宗の建炎末年、通判衢州に転じた。紹興五年(1135)、太常博士として召された。八年(1138)、枢密院大計議官をつとめた。十三年(1143)、軍器監に転じ、知泉州、知州として出向した。二十七年(1157)、吏部尚書となり、参知政事に進んだ。二十九年(1159)、尚書左僕射・同中書門下平章事に上った。孝宗が即位すると、枢密使を兼ねた。乾道年(1165)、没した。『文恭公集』。
楊存中(1102~1166)
  もとの名は沂中。字は正甫。州崞県の人。祖父と父は抗の戦いで戦死した。建炎三年(1129)、兵が州を攻めると、張俊に従って高橋で奮戦し、御前中軍統制に任ぜられた。紹興六年(1136)、軍を藕塘で破り、保成軍節度使に進んだ。十一年(1141)、張俊・劉錡とともに淮南に侵攻した完顔宗弼の軍を撃破した。殿前都指揮使に上った。檜の専権のもとで、檜の命に諾々と従い、権貴にのぼった。同安郡王に封ぜられた。
茅子(?~1166)
  はじめ天台宗の僧として名を上げた。のちに弥陀念仏を唱え平易に仏教教理を教えて多くの信者を獲得した。白蓮教の開祖とされる。紹興三年(1133)、教団の解散を命じられて、江州に流された。のちに許されて慈照宗主の号を贈られた。「円融四土図」。
↓次の時南宋孝宗光宗期

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