晋
[晋(前11C~前369)]
⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓
晋侯燮-武侯(寧族)-成侯(服人)-厲侯(福)-靖侯(宜臼)-釐侯(司徒)-献侯(籍)-穆侯(費生)-殤叔-文侯(仇)-昭侯(伯)-孝侯(平)-鄂侯(?)-哀侯(光)-小子侯(小子)-晋侯緡(緡)-武公(称)-献公(詭諸)-恵公(夷吾)-懐公(圉)-文公(重耳)-襄公(歓)-霊公(夷皋)-成公(黒臀)-景公(拠)-厲公(寿曼)-悼公(周)-平公(彪)-昭公(夷)-頃公(去疾)-定公(午)-出公(鑿)-敬公(驕)-幽公(柳)-烈公(止)-桓公(頃)
晋侯燮(?~?)
姓は姫、名は燮。またの名は燮父。唐叔虞の子。唐叔虞が亡くなると、位を継いだ。唐に晋水が流れていたので、国号を晋と改めた。
晋の武侯(?~?)
姓は姫、名は寧族。晋侯燮の子。燮が亡くなると、晋の国君の位についた。
晋の成侯(?~?)
姓は姫、名は服人。晋の武侯(寧族)の子。武侯が亡くなると、晋の国君の位についた。
晋の厲侯(?~?)
姓は姫、名は福。晋の成侯(服人)の子。成侯が亡くなると、晋の国君の位についた。
晋の靖侯(?~前841)
姓は姫、名は宜臼。在位前859~前841。晋の厲侯(福)の子。厲侯が亡くなると、晋の国君の位についた。
晋の釐侯(?~前823)
姓は姫、名は司徒。在位前841~前823。晋の靖侯(宜臼)の子。靖侯が亡くなると、晋の国君の位についた。
晋の献侯(?~前812)
姓は姫、名は籍。在位前823~前812。晋の釐侯(司徒)の子。釐侯が亡くなると、晋の国君の位についた。
晋の穆侯(?~前808)
姓は姫、名は費生。在位前812~前808。晋の献侯(籍)の子。献侯が亡くなると、晋の国君の位についた。四年(前808)、斉の公女姜氏を夫人とした。七年(前805)、条の地を討伐した。十年(前802)、千畝の地を討伐した。
殤叔(?~前781)
在位前808~前781。晋の献侯(籍)の子。穆侯(費生)の弟にあたる。穆侯が亡くなると、晋の国君の位についた。甥の仇に殺された。
晋の文侯(前805~前746)
姓は姫、名は仇。字は義和。在位前781~前746。晋の穆侯(費生)の子。太子となった。穆侯が亡くなって殤叔が立つと、出奔した。殤叔四年(前781)、一党を率いて殤叔を襲い、自ら晋の国君の位についた。
晋の昭侯(?~前739)
姓は姫、名は伯。在位前746~前739。晋の文侯(仇)の子。文侯が亡くなると、晋の国君の位についた。元年(前745)、叔父の成師を曲沃に封じた。七年(前739)、大臣の潘父に殺された。
曲沃の桓叔(?~前731)
姓は姫、名は成師。在位前745~前731。晋の穆侯(費生)の子。文侯(仇)の弟にあたる。昭侯元年(前745)、曲沃に封ぜられた。欒賓を相として迎えた。七年(前739)、潘父が昭侯を弑逆したので、晋の都の翼に入ろうとしたが、晋の国人の抵抗にあい、敗れて曲沃に帰った。
晋の孝侯(?~前724)
姓は姫、名は平。在位前739~前724。晋の昭侯(伯)の子。昭侯が潘父に殺されると、国人に推されて晋の国君の位についた。潘父を誅殺した。十五年(前724)、曲沃の荘伯に殺された。
晋の鄂侯(?~前718)
姓は姫、名は?。在位前724~前718。晋の孝侯(平)の子。孝侯が荘伯に殺されると、国人に推されて晋の国君の位についた。
曲沃の荘伯(?~前716)
姓は姫、名は?。在位前731~前716。曲沃の桓叔(成師)の子。桓叔が亡くなると、跡を継いだ。孝侯十五年(前724)、翼で晋の孝侯を殺した。晋の国人たちの攻撃を受け、曲沃に戻った。鄂侯六年(前718)、鄂侯が亡くなると、兵を率いて晋を攻撃した。周の桓王が?に命じて荘伯を討伐させたので、荘伯は逃れて曲沃に立てこもった。
晋の哀侯(?~前709)
姓は姫、名は光。在位前718~前709。晋の鄂侯(?)の子。鄂侯が亡くなると、晋の国君の位についた。八年(前710)、?廷を攻撃した。翌年、曲沃と?廷の軍と汾水のほとりで戦って敗れ、捕らえられた。小子侯元年(前708)、曲沃の武公の命を受けた韓万により殺された。
晋の小子侯(?~前705)
姓は姫、名は小子。在位前709~前705。晋の哀侯(光)の子。哀侯が曲沃に捕らえられると、晋の国君に立てられた。四年(前705)、曲沃の武公に誘い出されて殺された。
晋侯緡(?~前679)
姓は姫、名は緡。在位前705~前679。晋の鄂侯(?)の子。哀侯(光)の弟にあたる。小子侯が殺され、曲沃の武公が?仲に攻められて曲沃にもどると、緡が晋の国君に擁立された。二十八年(前679)、曲沃の武公に敗れ、殺された。
晋の武公(?~前677)
姓は姫、名は称。在位前716~前677。曲沃の荘伯(?)の子。荘伯が亡くなると、跡を継いだ。晋の哀侯九年(前709)、晋軍を汾水のほとりで攻撃し、哀侯を捕らえて殺した。小子侯四年(前705)、晋の小子侯を誘い出して殺した。このため周の討伐を受けて曲沃に戻った。晋侯緡二十六年(前679)、晋侯緡を攻め滅ぼし、晋の宝器を周の釐王に献上した。武公は晋の国君に任ぜられ、諸侯に列した。
晋の献公(?~前651)
姓は姫、名は詭諸。在位前677~前651。晋の武公(称)の子。武公が亡くなると、晋の国君の位についた。五年(前672)、驪戎を攻め、驪姫とその妹を得て、ふたりを寵愛した。八年(前669)、士?の進言に従って、晋の公子たちの多くを誅殺した。聚に邑を築いて都とし、絳と名づけた。十二年(前665)、驪姫が奚斉を産むと、太子の申生を曲沃に、公子の重耳を蒲に、公子の夷吾を屈にうつさせた。十九年(前658)、虞に道を借りて?を攻め、下陽を奪った。二十一年(前656)、驪姫に陥れられて、申生は自殺し、重耳は蒲に、夷吾は屈に立てこもった。翌年、重耳は?に出奔した。同年、晋は再び虞に道を借りて?を攻め、?を滅ぼし、帰途に虞を滅ぼした。二十三年(前654)、覃華に屈を攻撃させ、夷吾が梁に逃れた。二十六年(前651)、斉の桓公が主宰する葵丘の会に参加するべく出発したが、途中で病にたおれて帰国した。荀息に奚斉のことを委ねて没した。
晋の恵公(?~前637)
姓は姫、名は夷吾。在位前651~前637。晋の献公(詭諸)の子。献公十二年(前665)、屈にうつった。二十一年(前656)、驪姫に陥れられて、屈に立てこもった。二十三年(前654)、覃華に屈を落とされ、梁に逃れた。二十六年(前651)九月、献公が亡くなると、奚斉が立ったが、まもなく里克らが奚斉を殺した。荀息が奚斉の弟の卓子を即位させたが、十一月に里克が卓子を殺した。夷吾は秦の穆公に河西を割譲することを約束し、秦軍に護衛されて晋に帰国して、即位した。恵公元年(前650)、秦との約束を破って河西の地を渡さず、また里克を自殺させた。?鄭をはじめ七人の大夫を殺したため、国人の心服がえられなかった。四年(前647)、晋は不作となり、秦の穆公に書を送って穀物を貸してもらった。翌年、秦が不作となったため、秦の穆公が穀物を求めたが、恵公は?射の計をいれて穀物を与えず、兵を発して秦を攻めようとした。六年(前654)、秦の穆公が軍を率いて晋を攻めた。晋軍と秦軍は韓原で会戦し、晋軍は敗れて恵公は秦に捕らえられた。恵公の姉が秦の穆公の夫人となっていたので、その取りなしで帰国できることとなり、恵公と穆公は王城で盟を誓った。帰国後、大夫の慶鄭を誅殺した。また太子の圉を秦に送って人質とした。
晋の懐公(?~前637)
姓は姫、名は圉。在位前637。晋の恵公(夷吾)の子。恵公が梁にいたとき生まれた。恵公が晋に帰国して即位すると、太子となった。恵公八年(前643)、人質して秦に出された。十三年(前638)、秦から脱出した。翌年、恵公が亡くなると、晋の国君の位についた。重耳が秦の援助をえて帰国すると、欒枝・郤穀らが内応し、懐公は高梁で殺された。
晋の文公(前697~前628)
姓は姫、名は重耳。在位前637~前628。晋の献公(詭諸)の子。若いころから、趙衰・狐偃・華佗・先軫・魏武子などの賢臣を従えていた。献公には申生・重耳・夷吾の三人の有力な公子があった。献公は驪戎を攻めて得た驪姫を寵愛し、その子の奚斉を太子にしようと望んだ。三人の公子は、驪姫に陥れられて、申生は自殺し、重耳は狄に、夷吾は梁に出奔した。献公の病没後、晋では叛乱が起こって奚斉は殺されたため、秦の援助をえた夷吾が即位した(晋の恵公)。国人の信服が得られない恵公は、狄の重耳のもとに刺客を送り込んだ。重耳は斉を目指し、放浪の旅に出た。衛の五鹿では、空腹のあまり農民に食物を乞うたが、土を盛って差し出された。重耳は怒ったが、趙衰が「封土を得るということです」といさめたため、拝礼してそれを受けた。重耳は斉に着くと、桓公(小白)にもてなされ、妻としてめあわされた斉の公女を愛して安逸を貪った。動こうとしない重耳に業を煮やした臣下たちは、斉の公女の協力を得て、重耳を酔いつぶし、出発させた。曹では共公が重耳を冷遇し、その一枚肋を見物しようとした。宋では襄公により重耳は手厚くもてなされた。鄭の文公は重耳に冷ややかだった。楚は重耳を諸侯の格式でもてなした。重耳は戦場で「三舎を避く」ことを楚に約束した。恵公十四年(前637)、晋の恵公が病床につくと、重耳は秦の援助をえて晋に帰国し、国君として立てられた。このとき六十二歳。国内を平定し、功臣に行賞をあたえた。楚が宋を攻めたときは、宋を救った。また楚が追撃戦をしかけると「三舎を避く」の約を守った上でこれを撃破した。衛・曹・鄭など、冷遇した国々には、仇を返した。文公は周王によって覇者に任ぜられた。
晋の襄公(?~前621)
姓は姫、名は歓。またの名を驩。在位前628~前621。晋の文公(重耳)の子。文公が亡くなると、晋の国君の位についた。元年(前627)、秦が鄭・滑を攻めたので、襄公は喪服を黒く染めて、秦軍と?山で戦って勝利した。母の文?の言を容れて、三軍を解体した。三年(前625)、秦に汪を奪われた。翌年、秦の穆公が大軍を発し、黄河を渡って王官を奪った。晋軍は守りを固めて出なかった。五年(前623)、秦を攻撃して新城を奪った。翌年、趙衰が亡くなり、趙盾が政務にあたった。七年(前621)、新軍を廃止し、三軍を復活した。
晋の霊公(?~前607)
姓は姫、名は夷皋。在位前621~前607。晋の襄公(歓)の子。襄公が亡くなると、晋の国君の位についた。奢侈を好み、宮室を増築させ、増税でそれらをまかなった。弾丸を庶民に撃ちかけ、楼閣の上から見物してそれを楽しんだ。熊の掌が煮えていないという理由で料理人を殺し、その遺体を婦人に運ばせて朝廷の前を通りすぎた。趙盾や随会らがしばしば諫めたが聞き入れなかった。趙盾を殺そうとはかり、伏兵をしいたが、察知された。趙盾が亡命しようと国境を越える直前、趙盾の従兄の子の趙穿が霊公を殺した。
晋の成公(?~前600)
姓は姫、名は黒臀。在位前607~前600。晋の文公(重耳)の子。襄公(歓)の弟にあたる。霊公が趙穿に殺されると、趙盾に周から迎えられて帰国し、晋の国君の位についた。成公元年(前606)、卿の嫡子を公族とし、田邑を分与した。三年(前604)、楚が鄭を攻めると、荀林父を派遣して鄭を救わせた。六年(前601)、趙盾に代えて郤缺に執政させた。翌年、荀林父に諸侯の軍を率いさせ陳を攻めさせた。
晋の景公(?~前581)
姓は姫、名は拠。またの名を?。在位前600~前581。晋の成公(黒臀)の子。成公が亡くなると、晋の国君の位についた。元年(前599)、鄭が楚についたため、宋・衛・曹と結んで鄭を攻め、鄭を再び晋につかせた。三年(前597)、荀林甫が晋軍を率いて、?で楚と戦い、大敗した。翌年、先穀が?と図って晋を攻めようとしたため、その一族を滅ぼした。十一年(前589)、郤克・?書・韓厥らに斉を攻めさせ、斉軍を鞍で大いに破った。翌年、晋の六軍を編成した。十四年(前586)、虫牢で諸侯と会し、盟を結んだ。十六年(前584)、馬陵で諸侯と会し、盟を結んだ。のちに病にかかり、秦の名医緩の治療を受けたが、そのかいなく薨じた。
晋の厲公(?~前573)
姓は姫、名は寿曼。またの名を州蒲。在位前581~前573。晋の景公(拠)の子。景公が亡くなると、晋の国君の位についた。元年(前580)、秦の桓公と黄河をへだてて盟を交わした。秦の桓公が帰国すると、盟約を破った。六年(前575)、鄭を攻めた。鄭を救わんとする楚軍を?陵で破り、威は諸侯に鳴り響いた。のちに驕奢淫逸にふけり、多くの夫人をめとり、大夫たちとは疎遠になった。大夫の郤錡・郤?・郤至らを殺し、代わって寵姫の兄弟たちを重用した。ついに?書・荀偃らに拭された。
晋の悼公(前586~前558)
姓は姫、名は周。またの名を糾。在位前573~前558。晋の恵伯談の子。襄公(歓)の曾孫にあたる。?書・荀偃が厲公を殺害すると、迎えられて晋の国君の位についた。文公の覇業を恢復せんと志し、賢者を任用し、内治を整え、諸侯と会盟し、戎狄と和を結んだ。たびたび鄭や楚を攻めて戦った。十一年(前562)、諸侯とともに鄭を攻め、鄭に盟を誓わせた。秦が鄭の救援を名目に侵攻してくると、晋軍は櫟で戦って秦に敗れた。十四年(前559)、櫟の敗戦に報復するため、諸侯を率いて秦を攻めたが、功なくして兵を退いた。征戦に明け暮れるあいだに、国内では卿族の力が増大していた。
晋の平公(?~前532)
姓は姫、名は彪。在位前558~前532。晋の悼公(周)の子。悼公が亡くなると、晋の国君の位についた。元年(前557)、諸侯と会し、?・?がしばしば魯を侵したので、?君と?君を捕らえた。まもなく荀偃・?黶らを派遣して楚を攻めさせ、湛阪で楚軍を破った。三年(前555)、諸侯を率いて斉を攻め、斉都を囲んだ。翌年、諸侯と督揚で会し、大国が小国を侵略してはいけないと取り決めた。五年(前553)、また諸侯と?淵で盟を交わした。十二年(前546)、弭兵の盟に参加した。賦税を重くし、淫逸を好んだ。晩年、?祁宮を建てて民力を消耗し、六卿の権門が政治を掌握するようになった。
晋の昭公(?~前526)
姓は姫、名は夷。在位前532~前526。晋の平公(彪)の子。平公が亡くなると、晋の国君の位についた。二年(前530)、荀呉(中行穆子)に肥を滅ぼさせ、また鮮虞を攻めさせた。翌年、諸侯と平丘で会し、叔向の計を容れて兵車四千乗で威を示した。知氏・趙氏・魏氏・韓氏・范氏・中行氏の六卿の勢力が強く、晋の公室は弱体化した。
晋の頃公(?~前512)
姓は姫、名は去疾。在位前526~前512。晋の昭公(夷)の子。昭公が亡くなると、晋の国君の位についた。元年(前525)、荀呉(中行穆子)に陸渾の戎を討たせて滅ぼした。六年(前520)、周の景王(姫貴)が崩じ、諸王子が位を争ったので、晋の六卿が出兵して王室の紛争をおさめ、敬王(姫?)を立てさせた。九年(前517)、諸侯と黄父で会した。翌年、兵を率いて周の敬王を?邑に送った。十二年(前514)、祁氏・羊舌氏が六卿に滅ぼされた。趙朝・韓固らを大夫とし、六卿が強盛となり、公室の勢力は弱体化していった。十三年(前513)、刑鼎を鋳造し、范宣子の定めた刑書を頒布した。
晋の定公(?~前475)
姓は姫、名は午。在位前512~前475。晋の頃公(去疾)の子。頃公が亡くなると、晋の国君の位についた。二年(前510)、諸侯を率いて成周(洛邑)の城を修築した。六年(前506)、諸侯と召陵で会し、楚を攻めることを決めたが、荀寅(中行文子)が蔡の昭侯から賄賂を取ろうとして得られず、また士鞅(范献子)が出兵を断るよう勧めたので、晋は諸侯の信頼を失った。十五年(前497)、趙鞅(趙簡子)が趙午の背約を責めて殺すと、趙稷が邯鄲に拠って叛き、范吉射(范昭子)と荀寅が趙鞅を攻めた。荀?(知文子)・韓不信(韓簡子)・魏曼多(魏襄子)が定公を奉じて范吉射と荀寅を攻めた。范吉射と荀寅は敗れて朝歌に逃れた。翌年、斉・魯・衛が范氏と中行氏の乱を支援して出兵し、晋都の絳にいたったが、利なく撤退した。この晋の内戦は、范吉射と荀寅が斉に亡命する二十二年(前490)まで続いた。三十年(前482)、呉王夫差・魯の哀公・周の単平公らと黄池で会した。呉と血をすする順番を争い、盟約がまとまらないまま終わった。
晋の出公(?~?)
姓は姫、名は鑿。在位前475~前452。晋の定公(午)の子。定公が亡くなると、晋の国君の位についた。このころ公室の力が弱まり、知氏・趙氏・魏氏・韓氏・范氏・中行氏の六卿が国政を握っていた。十七年(前458)、知伯が趙氏・魏氏・韓氏とともに范氏と中行氏を滅ぼし、その地を分け取りにした。出公は怒って、斉・魯の出兵を請い、四卿を討とうとしたが、かえって四卿に撃ち破られて、斉に逃れた。のちに帰国したが、公の勢力はさらに弱まっていた。二十二年(前453)、趙氏・魏氏・韓氏が知伯を殺し、その地を三分して、晋の三分の形勢ができあがった。翌年、出公は楚に逃亡した。
晋の哀公(?~前434)
晋の懿公とも。姓は姫、名は驕。在位前452~前434。晋の姫忌の子。昭公の曾孫にあたる。出公(鑿)が亡くなると、晋の国君の位についた。晋の国政は知伯に専断されており、哀公は口をはさむことができなかった。四年(前453)、趙襄子・韓康子・魏桓子が協力して知伯を殺し、その領土を分割した。
晋の幽公(?~前416)
姓は姫、名は柳。在位前434~前416。晋の敬公(驕)の子。敬公が亡くなると、晋の国君の位についた。公室は衰微し、幽公はおそれて、趙氏・魏氏・韓氏の朝に出仕した。公はわずかに絳と曲沃を保持するのみで、ほかは趙・魏・韓の領するところであった。のちに夜に外出して婦人と密会していたところ、盗人のために殺された。一説に夫人の秦?に殺されたという。
晋の烈公(?~前389)
姓は姫、名は止。在位前416~前389。晋の幽公(柳)の子。一説に幽公の弟ともいう。幽公が殺されると、晋の国君の位についた。十三年(前403)、周の威烈王が趙・魏・韓を諸侯として認めた。
晋の桓公(?~前369)
姓は姫、名は頃。在位前389~前369。晋の烈公(止)の子。烈公が亡くなると、晋の国君の位についた。趙・魏・韓の三卿がすでに諸侯となり、桓公は三卿の朝に出仕した。二十年(前369)、韓と趙により屯留にうつされ、ここに晋国は滅んだ。
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