0o0dグッ

南漢

五代十国(907~960)]
五代後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
南漢(917~958)]
烈祖(劉隠)-高祖(劉龑)-殤帝(劉玢)-中宗(劉晟)-後主(劉鋹)
劉隠(874~911)
  南漢の烈祖と追尊された。また南平襄王ともいう。上蔡の人。劉謙の長男。父の跡を継いで封州刺史となり、行軍司馬・節度副使を歴任。広州の兵乱を鎮定して兵権を握った。朱全忠に遣使して、海節度使に上った。後梁の建国後は、静海節度使・安南都護・中書令を兼ね、南平王に封じられ、広東・広西地方を支配し、中原の戦乱を逃れてきた名士を登用して、南漢の基礎を築いた。乾化年(911)、南海王に封じられたが、同年のうちに没した。
劉龑(889~942)
  もとの名は巌、または陟。南漢の高祖。在位917~942。劉謙の庶子、劉隠の弟にあたる。兄を助けて嶺南の平定に尽くし、盧延昌や馬と抗争した。劉隠が海節度使となると副使となった。開平四年(911)に劉隠が亡くなると、わって立った。翌年、海節度使を継ぐ。南海王となり、のち後梁と断交した。貞三年(917)、帝を称し、国号を大越とし、乾亨と建した。翌年、国号をと改称。官制は制にならい、また刺史はすべて文官を当てた。部将を派遣して交州を攻め、さらに占城に遠征して財貨を掠奪した。財宝と酷刑を好んだという。
王定保(870~?)
  南昌の人。の光化年間、進士に及第した。末の乱を避けて湖南にいたり、容管の巡官に任ぜられた。海節度使の劉隠に招かれて幕下に仕えた。貞三年(917)、劉巌が帝を称しようとしたとき、かれをはばかって荊南に使いさせ、その隙に称帝したという。南漢の寧遠軍節度使に任ぜられた。同光二年(924)、南宮が建てられると、「南宮七奇賦」を献じてこれを称揚した。天福五年(940)、趙損の後をうけて南漢の中書侍郎・同平章事となった。『遮事』。
劉玢(920~943)
  もとの名は宏度。南漢の殤帝。在位942~943。劉龑の三男。王に封ぜられた。光天年(942)、父が没すると、位を継いだ。ときに循州で張遇賢の乱が起こって、嶺東地方は乱れた。かれは遊女とともに夜に微行し、遊興酒色にふけり、臣下をみだりに殺したので、人心を失った。のちに弟の劉晟に殺された。
劉晟(920~958)
  もとの名は宏煕。南漢の中宗。在位943~958。劉龑の四男。王に封ぜられた。乾和年(943)、兄の劉玢を殺し、位を奪って即位した。人心が得られないことをおそれて、峻厳な刑法をもって統治しようとした。三年(945)、弟の宏雅を殺し、劉思潮・道庠らの功臣を殺した。五年(947)、弟の宏弼、宏道、宏益、宏済、宏簡、宏建、宏暐、宏昭を殺し、その妻たちを後宮に入れた。の内乱に干渉して、湖南の五州を奪い、また南唐を郴州で破った。南宮・大・昌華などの諸宮を置き、夜ごと深酔して人事不省となった。宦官の林延遇や宮人の盧瓊仙を重用して政治は乱れた。顕徳五年(958)、後周が江北を平定すると、おそれて遣使修貢しようとしたが、人にはばまれた。同年、憂愁のうちに没した。
劉鋹(943~980)
  もとの名は継興。南漢の後主。在位958~971。劉晟の長男。王に封ぜられた。大宝年(958)、父が没すると位を継いだ。宦官の龔澄枢・延寿・李托や巫女の樊胡子に政治を委ねて、淫楽奢侈にふけった。讒言を信じて、名将の邵廷琄を殺し、人心は離反した。十三年(970)、の潘美が来攻してきて、湖南を失陥した。翌年、軍が広州に迫ったので、宮殿府庫を焼いて海上に逃れようとしたが、船を奪われて未遂におわり、白田でに降った。ここに南漢は滅んだ。開封に護送されて、左千牛大将軍となり、恩赦侯に封ぜられた。死後、南越王に追封された。

人物事典トップへもどる