0o0dグッ

光緒宣統期

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
澧(1810~1882)
  字は蘭甫、号は東塾。広東省番禺の人。道光年間に郷試に及第した。はじめ河源県訓導となり、のちに広州学海堂学長を数十年にわたってつとめた。晩年は菊坡精舎で講義した。天文・地理・楽律・算術・篆隷などを研究し、経史に広く通じ、詩文をよくした。学・学ともに学び、学派の争いに反対した。『東塾読書記』、『声律通考』。
李善蘭(1810~1882)
  字は壬叔。浙江省海寧の人。官は三品卿・戸部郎中に上った。幼くして『九章算術』や『幾何原本』に通じ、数学をきわめた。『対数探源』、『四解』、『麟徳術解』などの書を撰した。またワイリー(偉烈亜力)と協力して『幾何原本』の後半九巻や『微積拾数』、『談天』を翻訳した。またエドキンズ(艾約瑟)を助けて『重学』を翻訳した。『則古昔斎算学』。
趙之謙(1829~1884)
  字は益甫。浙江省会稽の人。趙守礼の子。幼少のころから学問を好み、経史に通じた。名家の生まれであったが、訴訟に敗れて家運が傾き生活に苦しんだ。咸豊九年(1859)、郷試に及第した。郷里が太平天国に占拠されると、温州・福州に逃れて、書画や刻印を売り歩いて生計を立てた。同治年間に上京して三度会試に応じたが及第しなかった。この時期にますます石学や書画篆刻にのめりこんだ。進士になる道を断念して、江南を遊歴し、劉坤一に招かれて『江西通志』の編纂にあたった。晩年はハ陽・奉・南城の知県を歴任して没した。
左宗棠(1812~1885)
  字は季高。または撲存。湖南省湘陰の人。郷試に及第するが、会試に三度挑戦して及第できなかった。大言壮語を好み、自らを諸葛亮に擬していた。咸豊二年(1852)、湖南巡撫張亮基の幕僚となり、長沙で太平天国軍をはばんだ。十年(1860)、曾国藩の推薦で、三品京堂襄弁皖南軍務となった。軍五千人を招募して、江西・浙江での太平天国に対する作戦に従事した。翌年、太平天国軍を楽平で破り、襄弁江南軍務となり、十一月には浙江巡撫に任ぜられた。同治二年(1863)に浙総督に上った。翌年、杭州を落とし、一等恪靖伯爵に封ぜられた。五年(1866)に陝甘総督に転じ、翌年には欽差大臣督弁陝甘軍務となって、捻軍や回民の叛乱鎮圧にあたった。光緒年(1875)、欽差大臣督弁疆軍務となり、ヤクブ・ベクのコーカンド政権を討って、ウルムチ・ホータンなどの地を恢復した。塞防派として「疆が保たれなくては京師が危うい」と主張して、海防派の李鴻章らと対立した。イリ条約に反対して、イリ回復の戦争を準備したため、召還された。京備顧問から軍機大臣に上った。両江総督となり、南洋通商大臣を兼ねた。仏戦争のとき欽差大臣として福建に派遣され、講和成立後病死した。『左文襄公全集』。
パークス(1828~1885)
  名はハリー・スミス。名は巴礼。イギリスの人。外交官となる。道光二十一年(1841)に厦門に渡り、翌年には南京条約の交渉に参与した。二十三年(1843)、広州領事館に在任。翌年から厦門・福州・上海の領事館での通訳を歴任した。咸豊四年(1854)、厦門領事。六年(1856)には広州理領事となった。アロー号事件を機会に、翌年には広州を英仏連合軍で占領させた。十年(1860)、北京条約を交渉して成立させた。翌年、口から黄州におもむき、玉成率いる太平天国軍の武進攻を阻止させた。同治三年(1864)、上海領事。1865年には日本駐在公使となり、治政府を支持した。しかし、治外法権を行使すること多く、不平等条約改正にも反対した。光緒九年(1883)、国公使・朝鮮公使となった。翌々年に北京で没した。
ゴルドン(1833~1885)
  名はチャールズ・ジョージ。イギリスの人。軍人となり、クリミア戦争に参加した。1860年、英仏連合軍の部隊長として天津・北京を占領した。のちにウォードの創立した西洋式部隊の長となる。太平天国の乱では常勝軍を率いて、鎮圧にあたった。のちにスーダンの知事となり、当地の叛乱鎮圧中に戦死した。
胡遠(1823~1886)
  字は公寿、号は痩鶴。江蘇省華亭の人。上海で画を売って暮らした。画風は豪放で、「松江蟹舎図」、「秋水共長天一色図」は最も力があった。『寄鶴軒詩草』。
度(1821~1887)
  字は次青、号は天岳山樵。湖南省平江の人。道光年間に郷試に及第した。咸豊年間、曾国藩の幕下にあった。郷勇八千人を徴募し、安越軍と号して、太平天国軍と皖・浙で戦った。功により浙江按察使に上った。のち罷免された。光緒年間に復職して、雲南按察使・貴州布政使となった。文章・典故・地理に通じた。辞職して郷里に帰ると、有名人の事跡を集めて、『国朝先正事略』を著した。『平江県志』、『天岳山館文鈔』。
汪士鐸(1804~1889)
  字は振庵、号は悔翁。江蘇省江寧の人。道光年間に郷試に及第した。咸豊三年(1853)、太平天国軍が天京(南京)を占領したとき、逃げそこなって九カ月城にとどまった。のち安徽省の績渓に移って、五年にわたって読書と講義の生活を送った。また湖北に入って、胡林翼の幕下に入って政事を研究した。同治三年(1864)、天京が陥落したため郷里に戻った。光緒十一年(1885)から国子監助教をつとめた。かれの著の『乙丙日記』は太平天国の重要史料として知られる。『悔翁詩鈔』、『水経注釈文』。
奕譞(1840~1891)
  愛覚羅氏。道光帝の七男。咸豊年(1851)、帝が即位すると、醇郡王に封ぜられた。十一年(1861)、辛酉事変に参加して西太后の信任をえて、都統・御前大臣・侍内大臣などに任ぜられた。同治十一年(1872)、醇親王に封ぜられた。同治帝の死後、かれの子の載湉(光緒帝)が帝位を継いだ。光緒十年(1884)、仏戦争が起こると、軍機大臣に上った。空虚な主戦論を唱えたが、適切な防備をなさず、失策を重ねて、講和論に転じた。翌年、総理海軍衙門事務に任ぜられ、洋務運動を推進した。海軍の経費で西太后のために頤和園を建てた。光緒帝の父であったため、西太后の猜疑を受けた。のち病死した。
李桓(1827~1891)
  字は叔虎、号は黼堂。湖南省湘陰の人。李星沅の子。蔭官をもって官に仕え、広東布政使にまで上った。のちに病のため郷里に帰り、著述につとめた。『国朝耆献類徴』、『閏媛類徴』。
洪鈞(1839~1893)
  字は陶士、号は文卿。江蘇省県の人。同治年間に進士に首席で及第した。露・独などの大使をつとめた。光緒十六年(1890)、帰国して兵部左侍郎・総理各国事務衙門大臣に任ぜられた。とくに辺境防の重要性を強固に主張しつづけた。またモンゴル史研究に業績を残した。『史訳文証補』、『西域地志補注』。
陸心源(1834~1894)
  字は剛甫、号は存斎。浙江省帰安の人。咸豊年間に郷試に及第した。同治四年(1865)、広東韶兵備道に任ぜられた。六年(1867)、高廉兵備道となる。光緒年間に福建塩運使に上った。蔵書家として知られ、皕楼を建てて十万巻をおさめた。『儀顧堂文集』、『皕楼蔵書志』、『石粹編続』。
韓邦慶(1856~1894)
  字は子雲、号は太仙。江蘇省華亭の人。ジャーナリストとして上海で活躍した。『海上花列伝』、『太仙漫稿』。
丁汝昌(1836~1895)
  字は禹廷、号は次章。安徽省廬江の人。咸豊三年(1853)、太平天国軍に参加した。曾国藩に投降し、湘軍に編入された。太平軍や捻軍の叛乱鎮圧に参与した。光緒年(1875)、英国に留学し、帰国後は北洋水師の総理となる。十四年(1888)、北洋海軍が正式に成立すると、海軍提督となった。二十年(1894)、日戦争の黄海海戦で負傷を負いながらも督戦したが、李鴻章の命により、威海に退いた。翌年、威海陥落で日本に降伏するのを拒絶して、服毒自殺した。
ウェード(?~1895)
  名はトーマス・フランシス。名は威徳。イギリスの人。道光二十一年(1841)、アヘン戦争に参加。咸豊二年(1852)、上海副領事となった。四年(1854)、英仏米が上海の海関の権利をにぎると、江海関第一任外人税務司に任ぜられた。天津条約・北京条約の締結にあたっては通訳をつとめた。同治五年(1866)、政府に『議略論』を献上した。十年(1871)、イギリス駐華公使となった。光緒二年(1876)、前年のマーガリー事件をきっかけに政府に強く迫り、烟台条約(芝罘条約)を締結した。九年(1883)、帰国した。のちケンブリッジ大学中国語教授となる。ウェード式中国語表記法を案出した。
任頤(1840~1896)
  字は伯年、号は小楼。浙江省山陰の人。幼いころ父に従って画を学んだ。のちに族叔の任熊・任薫を師とした。壮年になって上海に居をさだめ、画を売って生活した。花鳥・山水・人物を描いた。光緒十年(1884)、上海小刀会を題材に「観刀図」を描いた。任熊・任薫とともに三任と称された。「蘇武牧羊図」、「九老図」、「昌碩像」など。
王韜(1827~1897)
  字は仲韜、号は紫銓。江蘇省陽の人。十八歳で秀才となったが、考試に失敗して官途を断念した。道光二十九年(1849)、上海の墨海書院の教師となり、西洋人宣教師たちと交友を深めた。のち太平天国の乱に内通した罪で、香港に亡命した。同治六年(1867)、英・仏・露などを歴訪。十二年(1873)、『循環日報』を香港で創刊し、主筆となった。西洋の近科学技術・外国事情の紹介につとめ、変法を主張した。光緒十年(1884)、李鴻章の黙許をえて、上海に帰った。十二年(1886)に上海格致書院院長となった。また弢園書局をたてて当時の洋務運動の浅薄さを批判するほか、変法自強に関する書物を多く出版した。『弢園文録外篇』、『春秋朔閏考』。
黎庶昌(1837~1897)
  字は蒓斎。貴州省遵義の人。曾国藩の幕下にあり、曾門の四弟子と称された。光緒二年(1876)、出国してヨーロッパ諸国を遊歴し、その見聞を『西洋雑志』にまとめた。また二度にわたって日本に大使として赴いた。このとき、中国では亡失した古籍を日本において蒐集し、『古逸叢書』に集成した。『拙尊園叢稿』。
レッグ(1815~1897)
  名はジェームズ。名は理雅各。イギリスの人。ロンドン伝道会士としてマラッカに渡り、英華書院長となった。1843年から香港に滞在。文による布教書を作成したほか、『詩経』『書経』『左伝』『論語』などの訳注や『老子道徳経』『荘子』の英訳をおこなった。
譚嗣同(1865~1898)
  字は復生、号は壮飛。湖南省瀏陽の人。譚継洵の子。若いころは武術を好み、王船山の著に傾倒した。科挙の受験に六度にわたって失敗した。日戦争の敗北により救亡意識にめざめ、啓超と知り合って変法論に触れ、楊文会に仏法を学んだ。光緒二十三年(1897)、湖南政の運動に奔走し、湖南時務学堂の設立に尽力した。『湘学報』、『湘報』などの雑誌を創刊し、変法を宣伝した。二十四年(1898)二月、南学会を組織して、設立大会で講演した。六月に光緒帝の詔が出されて、戊戌の変法が開始すると、八月に北京に乗り込み、翌月に軍機章京に任ぜられたが、袁世凱の裏切りで捕らえられ、処刑された。死後、遺著『仁学』が公表されたが、反・反君主・反孔子の主張がつらねられ、古来の封建的社会からの変革を主張していた。
奕訢(1833~1898)
  愛覚羅氏。道光帝の六男。武術を愛好し、槍法や刀法を考案したという。咸豊年(1851)、恭親王に封ぜられた。三年(1853)、太平天国軍が天津に迫ると、領侍内大臣弁理巡防に任ぜられた。十年(1860)、アロー戦争後の英仏との講和にさいして全権表となり、英仏露との間に屈辱的な北京条約を締結して署名した。翌年、総理各国事務衙門をつかさどった。同年に咸豊帝が崩ずると、西太后と組んで権力を奪取した(辛酉の政変)。軍機大臣・議政王大臣に上った。対外的には妥協的な政策を打ち出し、太平天国の乱の鎮圧や洋務運動の推進など同治の中興に尽力した。同治四年(1865)、権力の強大さを西太后に忌まれ、罷免された。のちに再び軍機処と総理各国事務衙門を掌握した。光緒十年(1884)、仏戦争が起こると、再び西太后に解任された。二十年(1894)、日戦争が起こると、総理大臣・軍機大臣として軍務を統括し、戦局の指導にあたった。晩年は、変法維の運動に反対した。二十四年(1898)、病没した。
黄以周(1828~1899)
  字は同、号は敬季。浙江省定海の人。黄式三の子。幼くして父の学問を継いだ。同治年間に郷試に及第した。光緒十六年(1890)、潘衍桐の推薦により、処州府教授に任ぜられた。のちに江蘇学政黄体芳に招かれて、十五年にわたって講義した。また寧波の弁志精舎で講義した。『礼書通故』を撰した。『子思子輯解』、『経訓比義』、『黄帝内経集注』。
馬建忠(1845?~1899)
  字は眉叔。江蘇省丹徒の人。幼いころ郷里が太平天国の占領下にあり、科挙受験の機会を失った。上海に出て英・仏・ラテン・ギリシャ語などを習得し、西洋史・地理・自然科学に通じた。光緒年(1875)、李鴻章の命で仏に留学。帰国後、李鴻章の下で洋務運動に参画した。七年(1881)、アヘン問題をめぐる英交渉のため訪印。翌年、朝鮮と英・米・独の間の通商条約締結を仲介した。『適可斎記言』、『同記行』。
剛毅(?~1900)
  字は子良。光緒帝のとき、軍機大臣として保守派の中心となり、改革に反対した。朝が義和団を支持したので、その統率を命ぜられた。北京陥落後に病没。死後、義和団の外国に対する責任を負わされた。
王懿栄(1845~1900)
  字は康生。山東省福山の人。光緒六年(1880)、進士に及第した。官は翰林院に入り、侍読を経て、祭酒に上った。尚書学・石学にすぐれ、光緒二十五年(1899)には弟子の劉鶚とともに甲骨文字を発見した。義和団事件が起こると団練大臣となったが、難に殉じた。
才常(1867~1900)
  号は仏塵。湖南省瀏陽の人。譚嗣同らとともに長沙で変法思想の普及につとめた。戊戌の変法が失敗に終わると、日本に渡って孫文・康有為・啓超らと交友した。光緒二十五年(1899)、「自立会」を組織して自立軍の編成に着手した。義和団事件に乗じて口で革命蜂起を企図したが、事前に漏れて失敗し処刑された。
李鴻章(1823~1901)
  字は少荃、号は儀叟。諡は文忠。安徽省合肥の人。道光二十七年(1847)、進士に及第した。はじめ翰林院に入った。太平天国の乱が起こると、湘軍に投じて曾国藩の幕僚となった。同治年(1862)、故郷で義勇兵を募り、淮軍を組織した。江蘇巡撫となり、上海に駐屯して諸外国と交渉し、英・仏軍や常勝軍の協力をえて江蘇の太平天国軍を破った。太平天国の乱が鎮定された後も、淮軍を解散せず、軍の近化を図った。同治九年(1870)、曾国藩の後任として直隷総督・北洋大臣に上った。富国強兵策を取り、北洋艦隊を創設し、洋務運動を推進した。対外的には穏健で、仏戦争では早期に講和してベトナムの宗主権を放棄。日本の朝鮮駐留兵力増強を座視して、日戦争では大敗した。光緒二十一年(1895)、下関条約を結んで帰国した後に、いったん政界を去った。しかし翌年には復帰して、ロシアと秘密条約を結び、日本を牽制した。二十五年(1899)に義和団の乱が起こると、再び直隷総督・北洋大臣となった。二十七年(1901)、全権大臣として講和を担当。その二カ月後に病死した。粛毅伯に封ぜられた。
大澂(1835~1902)
  字は卿、号は恒軒。江蘇省県の人。同治年間に進士に及第した。翰林院編修となり、陝西学政として出された。光緒七年(1881)、太僕寺卿となり、ついで弁北洋軍務をつとめた。十年(1884)、左副都御史に任ぜられた。翌年、吉林に赴いて、ロシアとの国境紛争を処理した。十二年(1886)、広東巡撫に任ぜられ、マカオの帰属問題をポルトガルと争った。十四年(1888)、東河総督となり、黄河の決壊をせきとめた。十八年(1892)、湖南巡撫となった。日戦争が起こると、湘軍を率いて関外で戦った。二十一年(1895)、東で敗れた。二十四年(1898)、罷免されて、官を退いた。以後、石学や古文字学の研究に没頭した。鍾鼎・璽印・陶器・貨幣などの文字を蒐集し、『説文古籀補』を撰した。古文字学の成果として、『字説』を撰した。各種青銅器の銘文拓本を『愙斎集古録』に集めた。歴度量衡制度を『権衡度量実験考』にまとめた。
劉坤一(1830~1902)
  字は峴荘。湖南省寧の人。廩生の出身。咸豊五年(1855)、団練を率いて軍に従い、太平天国軍と戦った。のち族甥の劉長佑に従って、湘軍に編入され、江西・湖南・広西を転戦した。十一年(1861)、広東按察使となった。同治年(1862)、広西布政使にうつった。翌年、黄鼎鳳の叛乱軍を攻囲して、碩勇巴図の号で賞された。十三年(1874)、両江総督に上った。光緒年(1875)、両広総督となった。五年(1879)、両江総督にうつった。九年(1883)、仏のベトナム侵攻進攻に対して派兵を請い、また黒旗軍との連合を建議した。十七年(1891)、弁海軍事務をつとめた。二十年(1894)、日戦争が起こり、州・旅順が陥落すると、欽差大臣となって山海関に鎮した。翌年、河戦役で全軍潰走した。二十五年(1899)、西太后が光緒帝の廃位を画策すると、上疏して諫止した。翌年、太子太保を加えられた。義和団事件のとき、張之洞らとともに列強と結んで排外運動を弾圧した。洋務派官僚のひとりとして政治・軍事の改革に尽力した。『劉忠誠公遺集』。
栄禄(1836~1903)
  姓は瓜爾佳。西太后の甥、光緒帝の従兄にあたる。文淵閣大学士・直隷総督・北洋大臣を歴任。戊戌の政変では、西太后を助けて戊戌の六君子を処刑したほか、変法派を朝廷から一掃した。軍機大臣に転じ、保守派の重鎮として勢威をふるった。義和団事件では、排外政策に反対して、平和的解決に努力したが、西太后の意向を抑えられなかった。北京が連合軍に落とされると、留京辧事大臣として善後処理にあたった。
黄遵憲(1848~1905)
  字は公度、号は人境盧主人。広東省嘉応州の人。光緒二年(1876)、進士に及第した。翌年、駐日公使館参賛に任ぜられて、日本の東京に赴任した。このころ『日本雑事詩』を出版した。八年(1882)、サンフランシスコ総領事として渡米。さらに駐英参賛官などを経て帰国した。上海強学会に加入し、汪康年や啓超らとともに『時務報』の創刊にあたった。湖南長宝塩法道などの官をつとめた。啓超が南学会を長沙に設立するのに参与し、『湘報』の刊行を助けた。戊戌の政変の後、官を免ぜられて、郷里で著述に専念した。『日本国志』、『人境盧詩草』。
天華(1875~1905)
  字は星台、号は思黄。湖南省化の人。光緒二十九年(1903)に日本に留学し、弘文学院に籍を置いた。反の革命運動に加わって、華興会創立に参加した。『猛回頭』を執筆して革命蜂起を鼓舞。長沙起義が失敗すると、ふたたび渡日し、『警世鐘』を著した。華興会と興中会の合同による中国同盟会の創立に尽力した。とくに書記部工作と『民報』編集にあたった。三十年(1904)、留日学生の革命風潮におびえた国政府の要請に応えて日本政府が出した「国人留学生取締規則」に憤激し、「絶命書」を残して大森海岸に自殺した。
兪越(1821~1906)
  字は蔭甫、号は曲園。浙江省徳の人。道光三十年(1850)、進士に及第した。提督河南学政に上った。のち官をやめて郷里に帰り、蘇州の紫陽学院で学を講じた。晩年は杭州の詁経精舎で講学した。『七侠五義』。
李宝嘉(1867~1906)
  字は伯言。江蘇省武進の人。若くして文才を謳われたが、科挙に及第できなかった。光緒二十二年(1896)に上海に出て、『指南報』『遊戯報』『上海世界豪華報』などの聞を発行して、ジャーナリズムの先駆となった。随筆・詩・小説・ゴシップ記事などをよく書いた。晩における官僚世界の暗黒面を暴露したが、革命には反対し、改良主義の立場を取った。『官場現形記』、『文小史』。
秋瑾(1877~1907)
  字は競雄、号は鑑湖女侠。浙江省紹興の人。福建省厦門に生まれた。光緒十六年(1890)、祖父とともに原籍地の紹興にうつった。二十年(1894)、父とともに湖南にうつった。二十二年(1896)、王廷鈞と結婚し、のち二児を生んだ。二十六年(1900)、義和団の乱に際する連合軍の横暴に憤激して救国を志した。三十年(1904)、日本に留学した。翌年初頭、一時帰国中に徐錫麟と知り合って光復会に参加。七月に日本に戻ると、孫文らの中国同盟会にも入会した。日本政府が出した国人留学生取締規則に反対して、年末に帰国。翌年、紹興で女学校の教師をつとめたが、数ヶ月で去った。三十三年(1907)一月、上海で『中国女報』を発刊し、朝打倒の革命と女権回復を主張した。わずか二号で停刊となると、紹興に戻って大通学堂の堂長となった。七月、徐錫麟が安徽巡撫暗殺事件を起こすと、連座して逮捕され処刑された。「秋風秋雨人を愁殺す」の七文字を書き残したという。
光緒帝(1871~1908)
  載湉,の徳宗⇒。
西太后(1835~1908)
  葉赫那拉氏。咸豊帝の皇后。満州鑲黄旗の出身。十七歳で咸豊帝の後宮に入り、二十二歳の時に載淳(のちの同治帝)を産んだ。そのため懿太后に上った。咸豊十一年(1861)、咸豊帝が病死し、同治帝が帝位を継ぐと、聖母皇太后とされ、慈禧と徽号を受けた。同年、恭親王奕訢らと辛酉事変を起こして、八人の大臣を抹殺。慈安(東太后)とともに垂簾政治を行った。同治十三年(1874)、同治帝が亡くなると、妹の子にあたる載湉(光緒帝)を立てた。保守排外的な政策に終始して、光緒二十四年(1898)には戊戌の変法を弾圧した。義和団の乱においては、叛乱勢力を攘夷に利用しようとして、諸外国の介入を招いた。光緒帝の死の翌日、溥儀(宣統帝)の即位を遺言して、死去した。
孫詒譲(1898~1908)
  字は仲容。浙江省瑞安の人。同治年間に郷試に及第した。刑部主事となった。経学・訓詁・文に通じた。また甲骨文研究の嚆矢となり、研究の基礎を築いた。『周礼正義』、『古籀拾遺』。
皮錫瑞(1850~1908)
  字は鹿門。湖南省善化の人。光緒年間に郷試に及第した。桂陽の竜潭書院や南昌の経訓書院で講じた。日戦争後、変法運動を支持した。光緒二十四年(1898)、南学会の会長となった。中国と西洋の学問の融合をはかり、変法自強を宣揚した。戊戌の変法の失敗後、挙人の名号を去り、著述と講学に専念した。群書に通じ、とくに『今文尚書』を尊んだ。『五経通論』、『経学歴史』。。
張之洞(1837~1909)
  字は孝達、号は香濤。直隷省南皮の人。同治二年(1863)、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。浙江郷試副考官・湖北学政・四川学政・翰林院侍読・右春坊右庶子・山西巡撫などを歴任。光緒十年(1884)、両広総督に上り、任地に広東水師学堂を設置した。翌年、仏戦争に従軍したが、敗れた。早くから洋務の重要性に気づき、幕下に開的知識人を集め、陽鉄廠・大冶鉄山・萍郷煤鉱・京鉄路などを設けた。また科挙制度の廃止、学校制度の実施に尽力した。ほか北京強学会や上海強学会を資的に支援した。光緒三十三年(1907)、軍機大臣に上った。『勧学篇』。
劉鶚(1857~1909)
  字は鉄雲。江蘇省丹徒の人。数学・音楽・医学・治水などの西洋の学問を修めた。河南巡撫大徴や山東巡撫張曜のもとで幕僚をつとめ、治水で功績を挙げた。外資を借りて鉱業・鉄道などの実業にを興すことを主張して、官を辞め民業の世界に入った。光緒二十六年(1900)、八カ国連合軍が北京に侵攻したとき、ロシア軍が略奪した穀物を買いつけて、平糶局を設けて売り出し、被害を受けた民衆の救済にあたった。三十四年(1908)、官倉の穀物を私的に売り出したことを指弾されて、疆に流され、翌年病死した。石・甲骨を蒐集し、甲骨文字を研究したことでも有名。『老残遊記』。
敦崇(1854~1911)
汪康年(1860~1911)
  字は穣郷、号は恢伯。浙江省銭塘の人。光緒年間の進士。光緒十六年(1890)、張之洞の幕下に入った。二十一年(1895)、上海強学会に参加。翌年、黄遵憲・啓超らとともに『時務報』を創刊し、変法自強を目指して改革運動の宣伝に尽力した。二十四年(1898)の戊戌の政変の失敗後は、改良主義に転じた。三十年(1904)、内閣中書に上った。『汪穣郷遺書』
端方(1861~1911)
  字は陶斎、号は橋。満州正白旗の出身。光緒年間の進士。はじめ工部主事に任ぜられた。のち山東按察使となった。戊戌の変法のとき、光緒帝の信任を受けた。光緒二十五年(1899)、陝西布政使に任ぜられた。翌年、八カ国連合軍が北京を攻めたとき、西太后が西逃するのに奉侍して、その信任をえた。湖北・江蘇・湖南巡撫を歴任し、湖広総督となり、さらに両江・直隷総督に上った。光緒三十一年(1905)から翌年にかけて、各国を視察後、立憲予備運動を指導した。政策を進めたが、宣統年(1909)に失脚。三年(1911)、越・川鉄路大臣に任ぜられ、保路運動を鎮圧するため軍を率いて四川に入り、資州で鄂軍により殺害された。石学に精通し、所蔵品も多かった。『蔵石記』。
楊守敬(1838~1914)
  字は惺吾、号は谷睦。湖北省宜都の人。同治年(1862)、二十四歳で挙人となった。光緒六年(1880)に黎庶昌に従って来日して、日本に残存した古書籍を集めて『古逸叢書』『日本訪書志』を編集した。帰国後、会試に応じたが失敗。中国の歴史・地理の考証にすぐれ、著作多数。とくに『水経注』の研究に力を尽くした。書家としても有名。
盛宣懐(1849~1916)
  字は杏生、号は次沂。江蘇省武進の人。同治九年(1870)、李鴻章の幕下に入った。光緒六年(1880)中国電報局総辧をつとめた。以後、官営や官民合弁の洋務企業の設立に多く参与し、中国産業の近化に尽くした。二十八年(1902)工部左侍郎。宣統二年(1910)中国紅十字会会長。翌年皇族内閣が成立すると、郵伝部大臣に上った。鉄道国有化を企図していたが、辛亥革命が起こると失脚した。冶萍公司。『愚斎存稿』。
王先謙(1842~1917)
  字は益吾、号は葵園。湖南省長沙の人。同治四年(1865)、進士に及第した。国史館、実録館の纂修・起居注館・国子監察酒などを歴任し、その間各省の郷試正考官を兼任した。啓超らの維変法に反対し、『湘報』の廃刊や康有為の即時処刑を迫った。光緒二十六年(1900)、自立軍の蜂起の失敗後、湖南の維人士たちの情報を密告した。また革命運動にも反対する立場を取った。辛亥革命後は改名して隠棲し、経書や史書の校正・註釈・刊行にたずさわった。『書補注』、『荀子集解』、『東華録』、『東華続録』、『日本源流考』など。
劉永福(1837~1917)
  字は淵亭。広東省欽州の人。貧農の家に生まれ、早くに両親を失った。咸豊七年(1857)、天地会に身を投じて朝と戦った。太平天国の乱が終息すると、追求を避けて潜伏した。同治四年(1865)にベトナムに入り、六年(1867)には黒旗軍を組織して阮朝と協力して地盤を築いた。十二年(1873)、仏軍がハノイを占領してさらに進軍してくると、黒旗軍を率いてゲリラ戦を展開し、仏軍を撃滅した。光緒九年(1883)、仏軍が再侵攻すると、これも撃退した。しかし、阮朝が仏に屈すると、追放されてに戻った。朝のもとで仏戦争を戦った。二十年(1894)、日戦争後に台湾に進駐してくる日本軍に抵抗した。二十八年(1902)、広東碣石鎮総兵となった。辛亥革命後、広東民団総長に推されたが、辞職して郷里に帰った。1915年の日本の二十一カ条要求に憤激して、抵抗戦争を準備したが、病没した。
奕劻(1836~1918)
  愛覚羅氏。字は輔廷。満洲鑲藍旗の出身。綿性の子。乾隆帝十七男の慶親王永璘の孫にあたる。道光三十年(1850)、輔国将軍を継いだ。同治十一年(1872)、御前大臣。光緒十年(1884)、総理各国事務大臣に任ぜられ、慶郡王に封ぜられた。二十年(1894)、慶親王に封ぜられた。二十六年(1900)、八カ国連合軍が北京に侵入すると、李鴻章とともに全権大臣となり、講和の折衝にあたった。翌年、辛丑条約が締結された。総理各国事務衙門が外務部と改められると、その総理をつとめた。二十九年(1903)、軍機大臣となった。三十三年(1907)、陸軍部の総理を兼任した。近的海軍の建設や立憲政治の準備に貢献した。袁世凱の武力に頼り、私財を蓄えて奢侈にふけったので、たびたび弾劾された。宣統三年(1911)の三月に、皇族内閣の総理大臣となったが、同年に辛亥革命が起こると辞職した。天津に隠棲し、病没した。
善耆(1866~1922)
  愛覚羅氏。満州鑲白旗の出身。二等鎮国将軍を経て、粛親王の位を継いだ。立憲君主制の実現を主張した。義和団事件に際して御前大臣となる。民政部尚書・民政大臣・理藩大臣を歴任した。辛亥革命が起こると、強硬論を主張した。朝滅亡後は、宗社党を組織して朝再興を目指し、共和派に反対し、また袁世凱の逼宮要求にも抵抗した。1916年には日本の支持を取り付け、宣統帝復辟のために勤王軍を組織した。
林紓(1852~1924)
  字は琴南、号は畏廬。福建省県の人。小商人の子に生まれた。光緒八年(1882)、郷試に及第した。上京したが、『巴黎茶花女遺事』(デュマ『椿姫』)が売れたため、任官せず西洋小説の翻訳につとめた。京師大学堂の教師をつとめた。辛亥革命後は朝の遺老を自ら任じ、文学革命に反対した。多くの著作・詩・翻訳を残した。『畏廬文集』。
康有為(1858~1927)
  字は広厦、号は長素。広東省南海の人。光緒二十一年(1895)、会試のために上京し、下関条約反対・遷都抗戦・変法自強を唱えた「公車上書」を上奏して、日本の治維に倣った国家体制の改変を求めた。これが光緒帝に容れられて戊戌の政となったが、西太后のクーデターによって阻まれて百日で挫折し、日本へ亡命。東南アジア・インド・ヨーロッパ・北アメリカを転々として、保皇会を組織して立憲君主制の運動を続けた。辛亥革命の後に帰国して、上海に孔教会を設立して国学を講義した。復辟運動に関係して朝の再興を図ったが失敗した。五四運動では学生支持を表したという。不遇のうちに病没した。『学偽経考』や『孔子改制考』を著して、古文による伝統儒教を偽学と断じ、今文経典を重んじて、孔子の思想と西洋思想を結びつけた。また『大同書』を著して人類平等の大同思想を説いた。
葉徳輝(1863~1927)
  字は煥彬、号は観古堂。湖南省湘潭の人。光緒年間に進士に及第した。はじめ吏部主事に任ぜられた。吏部員外郎となって致仕し、以後は著述に励んだ。「上に天子なければ下に紀綱なし」と主張して、康有為や啓超らの民権平等の説を攻撃した。1927年に殺害された。『観古堂詩集』、『書林話』。
スタイン(1862~1943)
  名はオーレル。ハンガリーのブダペストの人。のちに英に移住した。考古学を学んだ。1888年、ラホールの東洋学校の校長としてインドに渡った。1900年から翌年にかけて、中央アジアを探検し、ホータンを調査した。1906年に第二回の中央アジア探検を開始し、ホータン・ニヤ・ローランを調査し、翌年、敦煌の莫高窟に赴き、仏画・仏典・古文書を持ち帰り、大英博物館に送った。1914年の第三回探検でも敦煌文書の一部を入手したという。功労によりSirの称号を贈られた。『ホータン』、『セリンディア』。
ペリオ(1878~1945)
  フランスの人。東西交渉史・モンゴル史・キリスト教布教史を研究した。1906年から08年にかけて、中央アジア探検隊を率いてカシュガル・トゥムシュク・クチャなどを踏査した。敦煌の千仏洞から古写本五千巻余を持ち帰った。
載澧(1877~1952)
  愛覚羅氏。醇親王奕譞の三男。醇親王を襲封した。西太后の信任厚く、光緒二十七年(1901)には義和団事件の謝罪使として訪独。帰国後、立憲政治施行の準備にあたった。三十四年(1908)、長男の溥儀が即位すると、監国摂政王として親貴内閣(皇族内閣)を作った。袁世凱を憎んで彼を追放し、刺客を放って殺させようとまでしたが、武昌起義が勃発すると周章狼狽して袁に組閣させてみずからは下野した。のち、溥儀が満州国皇帝として立てられたとき、ともに満州に行った。
ヘディン(1865~1952)
  名はスヴェン。名は斯文・赫定。スウェーデンの人。ストックホルム大学を卒業。ベルリン大学に留学し、リヒトホーフェンに師事した。1885年以降、イラン・メソポタミア地方をはじめとして、中央アジアのサマルカンド・カシュガル・ロブノールなどを探検した。その探検により、楼蘭の遺跡を発見したほか、トランス・ヒマラヤの発見なども有名。
溥儀(1906~1967)
  宣統帝⇒。
↓次の時中華民国

人物事典トップへもどる