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翟魏

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
翟魏(388~392)]
-翟釗
(?~391)
  翟魏の初天王。在位388~391。丁零族の出身。翟斌の族子。太九年(384)、翟斌らが慕容垂に殺害されると、甥の翟真が衆を率いて逃げ出した。翟は慕容農に敗れて翟真に投じた。翌年、翟真が部下に殺されると、東晋の黎陽太守滕恬之のもとに奔った。十一年(386)、滕恬之を殺して黎陽に拠った。東晋の朱序に攻められたが、泰山太守の張願が郡を挙げて翟に降った。日を追うごとに勢威が高まり、東晋後燕の間に力を蓄えた。翌年、後燕の慕容垂に降り、徐州牧に任ぜられ、河南公に封ぜられた。叛服を繰り返したので、慕容垂はついにその使者を斬った。十三年(388)、天王を自称し、百官を置き、建光と建した。しきりに東晋の河南の地を侵した。建光三年(390)、劉牢之に滑台で大敗した。翌年、病没した。
翟釗(?~393?)
  翟魏の二東郡王。在位391~392。翟の子。建光四年(391)、翟が没すると、跡を継ぎ、定鼎と改した。後燕の鄴城を攻めて、慕容農に敗れた。翌年、慕容垂の征討を受け、黎陽津において大敗を喫した。退いて白鹿山を守ったが、のち単騎逃れて西燕の慕容永のもとに奔った。慕容永により、車騎大将軍・兗州牧に任ぜられ、東郡王に封ぜられた。一年余で、謀反の罪により殺された。

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