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北宋

北宋(960~1127)]
北宋太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
太祖(趙匡胤)-太宗(趙匡義)-真宗(趙恒)-仁宗(趙禎)-英宗(趙曙)-神宗(趙頊)-哲宗(趙煦)-徽宗(趙佶)-欽宗(趙桓)
趙匡胤(927~976)
  北宋の太祖⇒。
慕容延釗(913~963)
  字は化龍。太原の人。後漢の初年、軍に入った。後周の世宗(柴栄)が即位した後、殿前都指揮使都校となった。顕徳年(954)、高平の戦いにおいて、一軍を率いて北漢の軍の背後にまわり、突撃して勝利を挙げた。功により虎捷左廂都指揮使となり、まもなく殿前都虞侯に転じた。五年(958)、世宗に従って淮南を攻撃し、南唐軍を大いに破った。殿前副都指揮使となり、淮南節度使を領した。恭帝(柴宗訓)が即位すると、殿前副都点検に任ぜられ、まもなく北面行営馬歩軍都虞候となり、真定に駐屯した。の太祖(趙匡胤)が帝位につくと、殿前都点検・同中書門下二品を加えられた。建隆年(960)、軍を率いて李筠の乱を討ち、勝利を挙げて、侍中を加えられた。翌年、山南東道節度使・西南面兵馬都部署に転じた。四年(963)、湖南道行営都部署に任ぜられ、湖南に進軍する名目で荊南に道を借りた。突如、兵を荊南の城下に向け、荊南を降した。さらに水陸を同時に進んで、一挙に湖南を占拠した。功により検校太尉を加えられた。この年の末に没した。
范質(911~964)
  字は文素。大名宗城の人。後唐の長興四年(933)、進士に及第した。戸部侍郎に累進した。後周の太祖(郭威)が鄴から起兵して開封に入ると、范質は戦禍を避けて民間に隠れた。のちに召されて兵部侍郎・枢密副使となった。顕徳四年(957)、朝廷に上書して法令の修訂を建議し、になって完成して「刑統」となった。六年(959)、後周の世宗(柴栄)が病にたおれると、顧命大臣として恭帝(柴宗訓)を補佐するよう遺嘱された。蕭国公に封ぜられた。翌年、北漢と契丹の兵が南下したとき、趙匡胤が禁軍を率いて北上し、橋の兵変によって帝に擁立された。趙匡胤が開封に帰還すると、范質は王溥らの前で剣を抜き、「三軍に主無く、衆まさに議して検点を立てて天子となす。再び異言ある者は斬る」と叫んだ。王溥らはやむなく趙匡胤を天子としていただいた。趙普・呂慶余・竇儀らを棟の臣として推挙した。の乾徳年(963)、国公に封ぜられた。翌年九月、逝去したが、家にはいっさいの余分な蓄えがなかったという。『范公集』。
仁浦(911~969)
  字道済。州汲県の人。後晋の末年、枢密院小吏として任官した。のちに郭威の起兵に参加して、後周が建国されると、枢密承旨・羽林将軍に任ぜられた。顕徳年(954)、世宗(柴栄)が即位すると、枢密副使に任ぜられた。まもなく枢密使に進んだ。六年(959)、中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士に上った。恭帝(柴宗訓)が即位すると、刑部尚書を加えられた。北宋の初年、范質・王溥に次ぐ末相となった。乾徳二年(964)、相を退き、守尚書右僕射となった。開宝二年(969)、太祖(趙匡胤)の北漢征討に従軍して病没した。
欧陽炯(896~971)
  華陽の人。前蜀の後主(王衍)に仕えて、中書舎人となった。前蜀が滅亡すると、いったん洛陽に入った。孟知祥が後蜀を建てると、再びに仕えた。後蜀が滅びると、に帰服し、左散騎常侍にまで上った。『花間集』の序文を書いた詩人。
王審琦(925~974)
  字は仲宝。洛陽の人。後周の末年、戦功により、殿前都虞侯に累進した。初に殿前都指揮使となり、太祖(趙匡胤)に従って李筠を討ち、また石守信を助けて李重進の乱を平らげた。建隆二年(961)、太祖と酒杯を交わして軍職を去り、忠正軍節度使となった。為政は寛容簡素であった。開宝二年(969)、北漢征討に従い、御営四面都巡検に任ぜられた。翌年、邸宅を賜り、京師にとどまった。六年(973)、同平章事を加えられた。
韓重贇(?~974)
  磁州武安の人。若くして後周の太祖(郭威)に従って従軍した。広順初年、左班殿直副都知となった。世宗(柴栄)の下で高平の戦いで功績を挙げ、鉄騎指揮使に転じた。淮南征討に参加して、先陣で流矢に当たり、都虞候に転じた。控鶴軍都指揮使・虔州刺史となった。が建国されると、龍捷左廂都校・永州防禦使となった。沢州・潞州の征討に従って、凱旋すると侍馬歩軍都指揮使・江寧軍節度使に進んだ。李重進を討ち、行営馬歩軍都虞候となった。建隆二年(961)、殿前都指揮使・義成軍節度使に転じた。乾徳三年(965)、黄河が決壊すると、数十万人を動員して堤防を修築した。翌年、太祖(趙匡胤)の郊祀において儀仗都部署をつとめた。讒言を受けて太祖の怒りを買ったが、趙普の弁護によって救われた。五年(967)、彰徳軍節度使となった。開宝二年(969)、北漢征討に従い、北面都部署をつとめ、定州に伏兵をしいて契丹軍を撃破した。
僧延寿(904~975)
  俗姓は王、字は仲玄。余杭の人。六歳で法華経を暗誦したという。二十八歳のとき、嘉亭の鎮将となり、三十歳過ぎで出家した。礼四の翠巌を師とし、のちに天台山に上って禅を学んだ。法眼宗の創始者文益の弟子となった。呉越王銭俶の請いを受けて杭州永寺に住持し、十五年を経て、弟子は千七百人に及んだ。禅宗の教義を信仰し、「一心を宗となす」と主張し、「心の外に別仏なく、仏の外に別心なし」と説いた。また浄土宗の実践を重んじ、「行道五百遍、念仏一千声、事業常に此の如くあらば、西方仏自ら成る」といった。華厳・法相・天台の三宗の僧人を召集して質疑をおこない、禅教一致を提唱し、仏教各派間の宗旨の調和をはかった。寂すると、智覚禅師と諡された。『万善同帰集』、『永智覚禅師唯心訣』。
王全斌(908~976)
  并州太原の人。はじめ後唐の荘宗(李存勗)に仕え、内職を歴任した。宗(李嗣源)が即位すると、禁軍列校となった。後晋のとき、功により護聖指揮使となった。後周の初年、龍捷右廂都指揮使となった。顕徳二年(955)、鎮安節度度使向訓に従って州・鳳州を攻め、恩州団練使に任ぜられ、まもなく泗州防御使に転じた。六年、世宗(柴栄)に従ってを攻め、瓦橋関で勝利して、相州留後となった。の建隆年(960)、慕容延釗らとともに李筠の乱を討ち、功により安国軍節度使に進んだ。四年(963)、郭進らとともに北漢を攻め、楽平で勝利した。乾徳二年(964)、忠武軍節度使に転じた。西川行営鳳州路都部署となり、兵三万を率いて後蜀を攻めた。興州を落とし、二十余の寨を奪った。のちに副将崔彦進と分進合撃しての精鋭を大破し、利州を攻め落とした。翌年、主力を剣門に迫らせ、別働隊を軍の背後に迂回させて挟撃し、剣門を落とし、将王昭遠らを捕らえた。軍が城にいたると、後蜀主の孟昶は表を奉じて降った。成都に入城後に掠奪をほしいままにしたため、の軍民の反抗を招き、崇義軍節度観察留後に降格された。開宝九年(976)、武寧軍節度使となり、まもなく没した。
趙匡義(930~997)
  北宋の太宗⇒。
郭忠恕(?~977)
  字は恕先。洛陽の人。幼くして童子試に及第した。後周の広順年間、宗正丞・国子博士となった。北宋が建国されると、事件に連座して乾州司戸参軍に左遷され、官を辞めて各地を放浪した。太宗(趙匡義)が即位すると、国子監主簿として召され、歴字書の校定を命じられた。のちに酒席で誹謗の罪があり、登州に流される途中、亡くなった。山水画をよくし、楼閣を緻密に描いた。文字学に通じ、とくに篆書・隷書に長じた。『佩觽』を著して、文字の変遷をらかにし、伝写の誤りを考証した。
薛居正(912~981)
  字は子平。浚儀の人。後唐泰年間に進士に及第した。後晋後漢後周に歴仕した。開宝六年(973)、吏部侍郎より参知政事・門下侍郎となった。『五代史』を監修した。同平章事に上った。太平興国初年、司空となった。『文恵集』。
王溥(922~982)
  字は物。并州祁県の人。後漢の乾祐年間、進士に及第した。郭威のもとで従事となった。後周のとき、左諫議大夫・枢密直学士に任ぜられた。太祖(郭威)の末年、中書侍郎・平章事に上った。世宗(柴栄)が即位すると、礼部尚書・監修国史を兼ねた。のちに参知枢密院事となった。が建てられると、司空に進んだ。乾徳二年(964)、相を辞し、太子太保となった。五年(967)、太子太傅を加えられた。開宝二年(969)、太子太師に転じた。太平興国初年、祁国公に封ぜられた。『会要』『五代会要』を撰したことで知られる。
高懐徳(926~982)
  字は蔵用。真定常山の人。後晋後漢に仕えて、官は刺史・東西班都指揮使にいたった。後周の世宗の淮南・幽・薊討伐に従い、侍馬軍都指揮使に上った。橋の兵変の後、殿前副都点検に任ぜられた。太祖趙匡胤の妹の燕国長公主をめとり、駙馬都尉を加えられた。石守信らとともに李筠・李重進らの叛乱を平定し、功をもって忠武軍節度使・検校太尉となった。建隆二年(961)、軍職を去り、帰徳軍節度使となった。開宝六年(973)、同平章事を加えられた。太平興国四年(979)、太宗による北漢平定に従い、冀国公に封ぜられた。
石守信(928~984)
  開封浚儀の人。後周のとき、戦功により禁軍殿前都虞侯に累進し、侍都指揮使に転じた。が建国されると、侍馬歩軍副都指揮使に任ぜられ、李筠・李重進らの乱を平定するのに功績を挙げた。同平章事・侍親軍馬歩軍都指揮使を加えられた。建隆二年(961)、太祖が諸将と宴飲し、兵権を手放しを積み子孫に田宅を残すよう諸将に勧めた。翌日、石守信と諸将は、病と称して兵権を解くよう願い出た。かれは天平軍節度使として出向した。太平興国二年(977)、河南尹・西京留守に任ぜられた。四年(979)、范陽への征戦に従って、軍律を失ったかどで、責めを受けて崇信軍節度に任ぜられた。のち州に移鎮した。節度使を歴任し、もっぱら聚斂につとめたので、巨万の私財を蓄えることができた。仏寺を建てるために民を募りながら、給与をおこなわなかったので、人は多くこのために苦しんだ。没すると、尚書令を追贈され、威武郡王に追封された。
楊業(?~986)
  もとの名は崇貴、別名は継業。并州太原の人。または麟州の人。楊信の子。若いころは無頼の徒で、騎射をたしなみ、狩りを好んだ。二十歳のときに、劉崇に召されて仕えた。北漢の将領として名を挙げ、「無敵」と称された。建雄軍節度使に上り、州に駐屯して北辺を防禦した。の太宗(趙匡義)が北漢を滅ぼすと、に帰服し、右領軍大将軍・鄭州節度使に任ぜられた。太平興国五年(980)、が雁門を攻めたとき、軽騎を率いて軍の後背に回り、これを討って大勝した。以来、軍は楊業の軍旗を見ただけで軍を返したという。のち、の攻勢に対して、守りを固くしてこれを防いだ。監軍の王セン沮が出撃を強要したため、寡軍を率いて家口に至り、力戦したが捕らえられ、絶食して死んだ。
王彦超(914~986)
  字は徳升。大名府臨の人。王重霸の子。若くして従軍し、後唐王李継岌の下でに入った。李継岌が李嗣源のために殺されると、鳳翔重雲山に入った。後晋のとき、殿前散指揮都虞侯・蒙州刺史に任ぜられた。後漢のとき、岳州防御使・護聖左廂都校となり、また復州防御使をつとめた。後周が建てられると、武寧軍節度使となり、北漢の劉崇の侵攻を州で撃退し、建雄軍節度使に転じ、劉崇を追撃して霍邑にいたった。河陽三城節度使となり、河中に駐屯した。顕徳年(954)、同平章事を加えられ、再び劉崇の侵攻を撃退し、汾州・石州を占拠した。忠武軍節度使に転じ、侍中を加えられた。世宗(柴栄)が淮南を討つと、彦超は寿州城下で南唐の軍を破った。凱旋したのち、京兆尹・永興軍節度使となった。六年(959)、鳳翔に駐屯した。恭帝が即位すると、検校太尉・西北縁辺副都部署となった。北宋が建国されると、中書令を加えられた。建隆二年(961)、再び永興軍節度使となった。乾徳二年(964)、再び鳳翔に駐屯した。開宝二年(970)、右上将軍・判街杖事となった。太平興国六年(981)、頒国公に封ぜられた。
僧義寂(919~987)
  俗姓は胡。字は常照。永嘉の人。幼くして出家し、天台宗を学んだ。武宗の会昌の弾圧により、天台宗典籍には残缺を生じていたため、呉越王に高麗・日本への遣使を勧めて、経典を求めさせた。天台宗の中興を果たし、「螺渓尊者」と称された。『止観義例』、『法華十鈔』。
希夷(?~989)
  名は摶。号は図南、扶揺子。亳州真源の人。進士をめざして及第せず、武当山・華山に隠棲した。一年二十四節気の運気と人体の気のめぐりを研究し、養生法として活用した。の太宗(趙匡義)により希夷先生の号を賜った。『心相篇』。
王著(?~990?)
  字は知微。成都の人。後蜀のとき、永康県などの主簿を歴任した。後蜀を平定すると、趙州隆平県の主簿を十一年にわたってつとめた。太平興国三年(978)、推薦を受けて尉寺丞となった。六年(981)、太宗の召しを受けて著作佐郎・翰林侍読となった。端拱初年、殿中侍御史を加えられた。書をよくし、とくに草書・隷書に秀でた。『淳化閣帖』。
徐鉉(916~991?)
  字は鼎臣。揚州広陵の人。はじめ南唐に仕えて、翰林学士・吏部尚書に上った。に入って、官は直学院士・給事中にいたった。神怪ばなしを好み、文字学に精通し、小篆・隷書を得意とした。『説文解字』の校注をおこなった。韓煕載とともに、韓徐と並称された。また徐鍇とともに二徐と称された。『方輿記』、『古今文典』、『稽神録』。
趙普(922~992)
  字は則平。諡は忠献。幽州薊県の人。後周のとき、趙匡胤の幕僚となり、掌書記をつとめた。橋の兵変の演出に参与した。北宋初年に右諫議大夫・枢密直学士に任ぜられた。李筠の乱の早期鎮圧を進言し、征討に従って、兵部侍郎・枢密副使となった。乾徳二年(964)、范質にわって相に上った。太祖の統一戦略の策定に参与し、文治軽武の方針を支持し、また兵権・財権の中央集権化につとめた。開宝末年、河陽三城節度使として出された。太宗のとき、再び相となった。太宗と謀って王趙廷美らを獄に下した。淳化三年(992)、老衰を理由に官を辞し、国公に封ぜられた。晩年は『論語』を熟読し、「半部の『論語』が天下を治める」と称したという。
王小波(?~993)
  永康青城の人。もとは茶を生産していた農民。淳化四年(993)、朝による茶の統制に反対して均産一揆を起こし、四川の諸州県を攻略した。同年、流れ矢に当たって死んだ。
李順(?~994?)
  永康青城の人。王小波の妻の弟にあたる。淳化四年(993)、王小波が均産一揆を起こすとこれに従い、王小波の死後はその指導者となった。五年(994)に成都を占領して、大王を称した。北は剣門、東は巫峡に勢力がおよび、数十万の衆を集めた。同年のうちに軍に成都を奪回され、捕らえられた。その後脱出して再び捕らえられたともいわれる。
李昉(925~996)
  字は遠。深州饒陽の人。後漢の乾祐年間に進士に及第した。後漢後周に仕えて三度翰林に入った。の太宗のとき、平章事に上った。北征の失敗後、の故事を引き合いに出して、契丹()と修好を結ぶようつとめた。『太平御覽』『太平広記』の編纂を行った。
蘇易簡(958~997)
  字は太簡。錦州塩泉の人。太平興国五年(980)、進士に及第した。将作監丞・通判升州をつとめた。八年(983)、知制誥となった。雍煕三年(986)、翰林学士に転じた。淳化二年(991)、同知京朝官考課をつとめ、翰林学士承旨となった。知審官院・審刑院を歴任し、吏部の選挙をつかさどった。四年(993)、参知政事となった。至道年(995)、鄧州・州の知事として出向した。『続翰林志』、『文房四譜』。
柳開(947~1000)
  もとの名は肩愈。字は仲塗。大名の人。若くして韓愈・柳宗の文章を好み、古文の復興を志した。開封年間に進士に及第した。太宗が北漢を滅ぼしたとき、八州の軍糧の輸送を監督した。のちに常、邠二州の知事をつとめ、監察御史に任ぜられた。真宗のとき、州の知事となり、西夏に対する防を重視して、無駄な費用を減らすよう上表した。咸平二年(999)、が大挙してに来攻すると、かれは真宗に親征を請い、自分に先鋒を任せるよう願い出た。翌年、病没した。『河東先生集』。
曹彬(932~1000)
  字は国華。諡は武恵。真定霊寿の人。後周の姻戚であった。後周の世宗のとき、州兵馬都監となった。の乾徳年(963)、契丹・北漢を討った功により、左神武将軍・枢密承旨となった。翌年、後蜀を攻めて、都監に任ぜられ、峡中の郡県を取った。乾徳の末年、開宝の初年、二度にわたって北漢を討った。開宝六年(973)、検校太傅に進んだ。翌年、昇州西南路行営馬歩軍戦櫂都部署に任ぜられて南唐を攻めた。采石磯に浮き橋を架けて長江を渡った。八年(975)、陵を囲み、南唐を滅ぼした。凱旋すると、枢密使・検校太尉・忠武軍節度使に任ぜられた。太宗(趙匡義)が即位すると、同平章事を加えられた。雍煕三年(986)、を攻めて幽州道行営前軍馬歩水陸都部署に任ぜられ、固安・涿州を破ったが、のちに耶律休哥に敗れた。責めを負って右驍上将軍に降格した。真宗が即位すると、再び検校太尉・同平章事となり、枢密使となるが、まもなく病没した。軍を率いては軍紀に厳しく、略奪や殺戮を厳にいましめた。
王禹偁(954~1001)
  字は之。済州鉅野の人。太平興国八年(983)、進士に及第した。召試に応じて右拾遺に上り、左司諫・知制誥などを歴任した。淳化二年(991)、誣告を受けた徐鉉を擁護したため、商州の団練副使に左遷された。のちに許されて中央に戻り、翰林学士となった。孝章皇后が崩じて、その梓宮を遷す問題で、群臣と争論して誣告を受け、工部郎中に貶せられ、さらに左遷されて地方の知事を歴任した。真宗が即位すると、知制誥となったが、再び地方に出されて知事を歴任した。『小畜集』、『外集』。
↓次の時北宋真宗仁宗期

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