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弘治正徳期

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)
※弘治~正徳期
邱濬(1420~1495)
  字は仲深。広東省瓊山の人。景泰五年(1454)、進士に及第した。弘治帝が即位すると、礼部尚書・掌詹事府事に進んだ。『憲宗実録』の編纂の副総裁をつとめた。弘治四年(1491)、太子太保・文淵閣大学士に上った。『英宗孝宗実録』を編纂し、『大学衍義補』を著した。
姚綬(1423~1495)
  字は公綬、号は丹丘生。浙江省嘉興の人。天順年間に進士に及第した。成化初年に永寧郡守となる。官を解かれて帰郷し、丹丘にあって書画をたしなんだ。の作風に学んで古風な水墨を描いた。『雲東集』。
荘昶(1437~1499)
  字は孔暘、号は定山。江蘇省浦県の人。成化二年(1466)、進士に及第した。翰林検討となる。諫言してかえって杖罰を受け、桂陽の州判官に左遷された。のち官は南京吏部郎中にいたった。草書ならびに山水・花鳥画にすぐれた。『荘定山集』。
献章(1428~1500)
  字は公甫、号は石斎。広東省会白沙里の人。正統十二年(1447)、郷試に及第した。幾度も会試に応じたが、及第しなかった。景泰五年(1454)より与弼に師事し、心学の先駆者とされる。のちに官は翰林院検討に上った。『白沙子全集』。
何喬(1427~1502)
  字は廷秀、号は椒丘。江西省広昌の人。景泰年間に進士に及第した。南京礼部主事・刑部侍郎などを歴任した。原傑が荊襄の流民六万戸あまりを招撫するのを助けた。孝宗が即位すると、南京刑部尚書となった。弘治年(1488)、刑部尚書に進んだ。四年(1491)、排斥を受けて致仕した。『周礼集注』、『椒丘文集』。
寛(1435~1504)
  字は原博、号は匏庵。江蘇省長洲の人。成化八年(1472)、進士に及第した。翰林院修撰となる。『憲宗実録』の編纂に加わり、少詹事・侍読を歴任した。弘治八年(1495)吏部右侍郎に挙げられた。十六年(1503)には礼部尚書に上った。『匏庵家蔵集』。
偉(1459~1508)
  字は次翁、号は小仙。湖北省江の人。幼くして孤児となり、貧窮して常熟へと漂泊し、布政使の銭昕に拾われた。のちに画家として名をなした。成化・弘治年間に二度にわたって京師に召され、錦衣鎮撫の官と百戸を受け、画状の印を賜った。病を理由に辞職し、南京に寓居した。正徳帝が即位するとまた召されたが、途中で病死した。白描をよくし、また山水にもたくみだった。
沈周(1427~1509)
  字は啓南、号は石田。江蘇省長洲の人。沈恒の子。群書に通じ、『左伝』を敬慕し、白居易・蘇軾・黄庭堅の詩を愛した。画にすぐれ、世第一と評された。山水画をよくして門画派の始祖となる。詩書画にすぐれた三絶の第一人者とされた。生涯仕官することがなく、蘇州の市隠に終わった。『客坐聞』、『石田詩選』。
馬文升(1426~1510)
  字は負図、号は雲峰居士。河南省鈞州の人。景泰年間に進士に及第した。はじめ御史となった。成化年間には副都御史に上った。陝西地方を巡撫し、回族の叛乱を鎮圧した。辺境の軍務を歴任して、十一年(1475)には兵部右侍郎・左副都御史となった。弘治二年(1489)、左都御史・兵部尚書に上った。正徳帝が即位すると、辞職して郷里に帰った。『馬端粛公奏議』、『西征石城記』。
劉瑾(?~1510)
  もとの姓は談。陝西省興平の人。宦官として正徳帝に近侍した。太監八虎の筆頭。正徳帝を遊蕩に耽溺させ、朝政を専断した。謀反を起こして自ら帝位につこうと企てたが、張永に告発されて捕らえられ、処刑された。
徐禎卿(1426~1510)
  字は昌穀。国子博士に上ったが、三十二歳の若さで夭逝した。「中の四才子」のひとり。
李東陽(1447~1516)
  字は賓之。号は西涯。湖南省茶陵の人。天順八年(1464)、進士に及第した。翰林院に入って、庶吉士・編修を歴任した。弘治帝のとき文淵閣大学士に上った。正徳帝が即位して劉瑾が専権を握ると、上疏して諫めたが聞き入れられなかった。のち致仕した。『フウ麓堂集』。
何景(1483~1521)
  字は仲黙、号は大復。信陽の人。弘治十五年(1502)、進士に及第した。正徳年間、陝西提学副使をつとめた。十才子のひとり。『大復集』。
寅(1470~1523)
  字は伯虎、号は六如。江蘇省蘇州の人。肉屋の子として生まれた。若いころは無頼の遊蕩生活を送ったが、弘治十一年(1498)に郷試に首席で及第した。このため解と称された。会試受験のため上京したが、試験不正事件に巻き込まれて投獄されて失格となった。失意のうちに郷里に戻り、桃花塢に居を定め、「江南風流第一才子」と称して隠棲し、売文稼業で身を立てた。変装を好むなど、奇行が多かったという。書画詩文に通じ、「中の四才子」のひとりに数えられた。
祝允(1460~1526)
  字は希哲。江蘇省長洲の人。祝顥の孫にあたる。右手の指が六本あったことから枝山と号した。幼いころから群書を博覧した。弘治五年(1492)に郷試に及第した。嘉靖年(1522)に応天府通判となり、南京で一年余を過ごしたのち帰郷した。沈周・寛・文徴らと交遊した。理財に暗く、晩年は困窮した。とくに書にすぐれ、朝第一と称された。「中の四才子」のひとり。『前聞紀』。
郭詡(1456~1526)
  号は狂。泰和の人。
↓次の時嘉靖万暦期

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