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蜀漢

三国時代(220~280)]
,,蜀漢
蜀漢(221~263)]
昭烈帝(劉備)-後主(劉禅)
劉備(161~223)
  蜀漢の昭烈皇帝,先主⇒。
関羽(?~219)
  字は雲長。もとの字は長生。諡は壮繆侯。河東郡解県の人。涿郡に出奔し、劉備の股肱となって転戦した。劉備が平原の相となると、別部司馬となった。劉備が徐州刺史の車胄を殺して徐州を奪うと、関羽は下邳を守備した。建安五年(200)、曹操が徐州を伐つと、劉備は袁紹のもとに逃げたが、関羽は捕虜となった。曹操は関羽を偏将軍に任じて礼遇した。関羽は白馬の戦いで袁紹の部将・顔良を討ちとった。曹操に推挙されて寿亭侯に封ぜられた。しかし、曹操からの賜物を全て封印して、袁紹の軍にいる劉備のもとに奔った。袁紹が敗れると劉備に従って劉表のもとに身を寄せた。劉表が没して曹操が南下の軍を起こすと、水軍を率いて口にいたった。曹操が孫権・劉備の連合軍に敗れると、荊州平定に功績を立て、襄陽太守・盪寇将軍となった。劉備が益州を平定すると、荊州の軍政を統括した。二十四年(219)、前将軍に任ぜられ、節鉞を貸与された。樊城の曹仁を攻撃し、于禁を捕らえ、龐悳を斬った。しかし、麋芳と傅士仁が孫権に寝返り、孫権の軍が江陵を占拠したために孤立し、孫権に捕らえられて斬り殺された。
張飛(?~221)
  字は益徳。諡は桓侯。涿郡の人。関羽とともに劉備に仕え、転戦した。劉備が曹操に従って呂布を破ると、中郎将に任ぜられた。劉備とともに袁紹、次いで劉表のもとに身を寄せた。劉表が没すると曹操は南下の軍を起こして荊州に侵入した。劉備は逃げて、江南に向かったが、曹操軍に長阪で追いつかれた。張飛は殿軍を守って、川を楯にして橋を切って落として、一声名乗りを挙げると曹軍はあえて近づこうとせず、そのため劉備は助かった。曹操が赤壁で敗れ、劉備が荊州南部を平定すると、宜都太守・征虜将軍に任ぜられ、亭侯に封ぜられた。のちに南郡太守となった。劉備が益州に入って、劉璋を攻撃すると、劉璋の部将・厳顔を捕虜とするなど功績を立てた。益州平定後、巴西太守に遷った。曹操が中を奪うと、張郃が巴西を侵したが、これを撃退した。劉備が中王となると右将軍・仮節に任ぜられた。章武年(221)、劉備が帝位につくと、車騎将軍・司隷校尉・西郷侯に上った。部下の張達・范彊に殺害され、その首は孫権のもとに届けられた。
馬超(176~222)
  字は孟起。諡は威侯。扶風郡茂陵の人。馬騰の長男。建安十三年(208)、馬騰が尉として入朝すると、馬超は偏将軍となって馬騰の兵をたばねた。十六年(211)、曹操が鍾繇を遣わして張を討とうとしたとき、韓遂ら関中諸将とともに叛いた。曹操と潼関で戦ったが、曹操の離間策を受けて敗れ、隴上に退いて冀城に鎮した。征西将軍を自称した。十八年(213)、楊阜・姜叙らに逐われて南遷し、中の張のもとに身を寄せた。ともに事を計るに張では不足ありとみて、翌年には成都包囲中の劉備に帰順した。劉備のもとで平西将軍となり、のち驃騎将軍・涼州牧となり、斄郷侯に封ぜられた。
馬良(187~222)
  字は季常。襄陽郡宜城の人。兄弟五人みな才名があり、馬良が最もよく誉れ高く、「白眉」として知られた。劉備が荊州を領したとき、出仕して従事となり、のち左将軍掾となった。劉備の命を受けてに使いし、孫権の敬意あるもてなしを受けた。章武年(221)、劉備が帝を称すると、侍中となった。劉備がを攻めると、武陵に入り、五渓蛮を帰順させた。夷陵の戦いで軍が敗れると、帰路を絶たれて殺された。
馬謖(190~228)
  字は幼常。襄陽郡宜城の人。馬良の弟にあたる。荊州従事として劉備に従って入し、緜竹県令・成都県令・越嶲郡太守などを歴任した。劉備の死後、諸葛亮に重用されて、参軍となった。諸葛亮が西南異民族の討伐に出発したとき、「心を攻めるが上策」と進言した。建興六年(228)、北伐の先鋒として起用された。軍令を守らなかったために、街亭での張郃の軍に大敗した。帰還後に投獄されて、処刑された。「泣いて馬謖を斬る」の故事であるが、この諸葛亮の態度に対する批判は多い。
諸葛亮(181~234)
  字は孔。諡は忠武侯。瑯邪郡陽都の人。諸葛珪の子。幼くして父が死ぬと、従父の諸葛玄とともに荊州の劉表のもとに身を寄せた。諸葛玄が没すると隆中にこもって、農耕を業として「父吟」を歌って暮らした。野にいた劉備が三顧の礼を尽くして隆中を訪問すると、劉備に天下三分を献策して仕えた。曹操が兵を発して荊州を攻めると、劉備は口まで逃げたが、諸葛亮は孫権への使者となって連合を成立させた。曹操は赤壁に敗北し、劉備が荊州南部を平定すると、諸葛亮は軍師中郎将に任ぜられた。益州が平定されると軍師将軍・左将軍府事に上った。建安二十六年(221)、劉備に帝位につくよう説得した。丞相に任ぜられ、張飛の没した後は司隷校尉を兼務した。章武三年(223)、劉備が病臥すると、後事を委嘱された。劉備が崩じて劉禅が立つと武郷侯に封ぜられ、益州牧を兼務した。建興三年(225)、南征の軍を起こして、西南異民族を平定した。五年(227)、「出師表」を上書して北伐を開始した。翌年春、祁山を攻撃したが、馬謖が諸葛亮の命令に背いたため、の張郃に大敗した。馬謖を処刑して、自ら階位を下げるよう上奏して右将軍となった。同年冬、倉を包囲したが、曹真に防がれた。七年(229)、武都・陰平郡を奪い、丞相に復した。九年(231)、また祁山に出撃したが、食糧が尽きて退却した。このとき張郃を射殺した。十二年(234)、また出兵して武功郡五丈原に陣を布いて司馬懿の軍と百日余にわたって対峙したが、軍中で薨去した。司馬懿は「天下の奇才である」と賞讃したという。
蒋琬(?~246)
  字は公琬。零陵郡湘郷の人。はじめ州の書佐となり、劉備の入に従った。広都長に任ぜられたが、酒びたりで仕事をこなさなかったので免官された。しばらくして什仿の令として復活した。劉備が中王を称すると、尚書郎になった。建興年(223)、諸葛亮のもとで東曹掾となり、参軍に進んだ。八年(230)、長史に任ぜられ、撫軍将軍を加えられた。糧食や兵員の補給を担当して、諸葛亮の北伐を助けた。亮の病が重くなると、亮はひそかに後主に上表して、後継を任せるよう遺言した。亮が没すると尚書令に上った。行都護・益州刺史を加えられた。十三年(235)、大将軍・録尚書事となり、安陽亭侯に封ぜられた。延煕年(238)、命を受けて中に鎮し、大司馬を加えられた。興・上庸に進軍しようと計画したが、病のために実行できなかった。九年(246)、費禕・姜維に後事を託して没した。
費禕(?~253)
  字は文偉。江郡ボウ※1県の人。族父に従ってに入り、劉備に仕えた。董允とともに太子舎人となり、劉禅が即位すると黄門侍郎に遷った。諸葛亮に重用されて、昭信校尉に任ぜられ、に使いした。道理正しく篤実な態度で詭弁に屈しなかったので、孫権にも高く評価された。侍中・丞相参軍・中護軍・司馬などを歴任した。楊儀と延が争ったとき、両者の間に割って入って諫めた。亮の死後、後軍師に任ぜられ、また蒋琬にわって尚書令に上った。蒋琬を継いで、大将軍・録事尚書となった。延煕七年(244)、を退ける功績を立て、成郷侯に封ぜられ、益州刺史となった。十六年(253)、宴会で酒に酔っているところを、からの降将・郭脩に刺殺された。
姜維(202~264)
  字は伯約。天水郡冀県の人。はじめに仕え、中郎になり、天水郡の参軍をつとめた。建興六年(228)、の諸葛亮がを攻めるため祁山に向かったとき、天水郡太守に疑われて孤立し、に帰順した。倉曹掾に任ぜられ、奉義将軍を加えられ、当陽亭侯に封ぜられた。亮はその胆力や識才を重んじ、中監軍・征西将軍に任じた。亮が没すると涼州刺史・将軍に累進し、延煕十年(247)には費禕とともに録尚書事をつとめた。この年、の郭淮・侯覇らと戦った。十二年(249)、西平に出陣したが、功を挙げることなく帰還した。かれは大軍を動かすことを望んだが、費禕がいつもそれを阻んだ。十六年(253)に費禕が没すると、軍を出して南安を包囲したが、の雍州刺史・泰が来援したため撤退した。十八年(255)、の雍州刺史・王経を破り、狄道を包囲したが、の援兵がいたって退いた。翌年、大将軍に進み、兵を率いて祁山に出たが、段谷においての鄧乂に敗れた。このため後将軍・行大将軍事に降格された。景燿年(258)、再び大将軍に上った。五年(262)、軍を率いて侯和に出たが、また鄧乂に敗れ、沓中に鎮した。翌年、の鍾会・鄧乂が大軍を率いてを攻めたため、剣閣を守って鍾会と対峙した。鄧乂が陰平・緜竹を経て迂回して成都にいたり、後主がに降ったため、命により鍾会に降伏した。のちに鍾会がに叛乱しようとした計画に参与して、これに借りて蜀漢を復興しようとした。しかし事前に漏れての将兵に殺された。
黄皓(?~?)
  宦官として蜀漢に仕えた。後主(劉禅)の深い信任を受けた。尚書令董允としばしば対立し、董允が生きている間は、黄門丞の位にとどまった。祇が董允にわって侍中となると、祇と結託して政務に関与するようになった。中常侍・奉車都尉に累進した。景燿五年(262)、大将軍姜維を廃して、わりに閻宇を立てようと画策した。姜維は後主に訴えて黄皓を処刑するよう請願したが、聞き入れられなかったため、姜維は成都に帰還しなくなった。翌年、陽安関と陰平橋頭を固めての侵攻に備えるよう姜維が後主に上表したとき、黄皓は鬼巫の言葉を借りて姜維の言を取りあげないよう後主に勧めたが、群臣はこのことを知らなかった。はたして軍は姜維の懸念した道を通ってに侵入した。の鄧艾が成都に入ったとき、捕らえられて処刑されそうになったが、鄧艾の側近に厚く賄賂して免れた。
譙周(201~270)
  字は允南。巴西郡西充の人。経学に通じた。蜀漢の建興年間に、諸葛亮のもとで勧学従事に任ぜられた。亮が没すると、蒋琬のもとで典学従事に転じた。太子僕・太子家令・中散大夫を歴任し、後主(劉禅)の遊興をいさめた。また祇と論争して『仇国論』を著した。のちに光禄大夫に上った。炎興年(263)、鄧乂が成都を囲んだとき、後主に投降を勧めた。により陽城亭侯に封ぜられた。西晋により散騎常侍に任ぜられたが受けず、病没した。

[註]
1.ボウ=ボウ
↓次の時西晋

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