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(前2070?~前1600?)]
帝禹(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康-中康-帝相-少康-帝杼-帝槐(芬)-帝芒(荒)-帝泄-不降-帝扃-帝厪(胤甲)-孔甲-帝皋-帝発(敬)-桀王(履癸)

禹(帝禹)() (?~?)
姓は姒、名は文命。后氏。鯀の子。父のあとをうけて十三年の歳月をかけて、黄河の治水をおこなった。舜のに司空となる。舜に後継者として指名された。舜帝の死後、舜の子の商均に譲って陽城に移ったが、諸侯がみな商均のもとを離れて禹のもとに来たので、ついに天子となった。王朝をひらき、九州・九道・九川・九山を治めた。東方に巡狩して会稽に崩じたという。
后)

帝禹(?~?)
  姓は姒、名は文命。后氏。鯀の子。父のあとをうけて十三年の歳月をかけて、黄河の治水をおこなった。舜のに司空となる。舜に後継者として指名された。舜帝の死後、舜の子の商均に譲って陽城に移ったが、諸侯がみな商均のもとを離れて禹のもとに来たので、ついに天子となった。王朝をひらき、九州・九道・九川・九山を治めた。東方に巡狩して会稽に崩じたという。
益(?~?)
  舜に仕えて虞官をつとめ、山沢をつかさどった。禹が立つと、禹が天下をおさめるのを助けた。禹が崩ずると、禹の遺言によって帝となったが、三年の喪がけると禹の子の啓に位を譲り、箕山の南に隠棲した。
帝啓(?~?)
  帝開、后開ともいう。禹の子。禹は臣下の益を後継者に指名していたが、益は禹の喪がけると啓に位を譲ったので、啓はの天子となった。一説には啓が益を殺して天下を奪ったともいう。同姓の有扈氏が叛いたので、これを討った。以後、天下の諸侯はみなに入朝した。また西河を攻めたという。
太康(?~?)
  啓の子。啓の跡を継ぎ、の天子となった。酒色に溺れて政治を顧みなかった。東夷の有窮氏の后羿がこの機に乗じての都の斟尋を攻めたため、国外に逃げてまもなく没した。
中康(?~?)
  啓の子。太康の弟にあたる。太康の跡を継ぎ、の天子となった。
帝相(?~?)
  中康の子。中康の跡を継ぎ、商丘で即位した。年、淮夷を攻めた。二年、風夷や黄夷を攻めた。七年、于夷が入朝してきた。寒浞の子の澆に殺されたという。
少康(?~?)
  帝相の子。父が澆に殺されたので、母の実家である有仍氏に育てられた。成人して有仍氏の牧正となった。澆の追捕を逃れて、有虞氏のもとに身を寄せた。庖正となり、有虞氏の娘をめとった。の旧臣を集めて、の再興を計画した。の遺臣の伯靡が斟灌氏や斟尋氏の残党を集めて、寒浞を攻め滅ぼすと、王に立てられた。の天子となる。さらに澆を過で滅ぼし、の中興の主となった。帝相の殺害事件と少康の中興の記事は『左伝』に見えるのみで、『史記』や『竹書紀年』に見えないため、異論も多い。
帝杼(?~?)
  少康の子。少康の跡を継ぎ、の天子となった。はじめ原におり、老丘にうつった。杼の子が東海と王寿を攻め、九尾の狐を得たという。
帝槐(?~?)
  后芬ともいう。帝杼の子。帝杼の跡を継ぎ、の天子となった。三年、九夷が来朝してきた。
帝芒(?~?)
  后荒ともいう。帝槐の子。帝槐の跡を継ぎ、の天子となった。
帝泄(?~?)
  帝芒の子。帝芒の跡を継ぎ、の天子となった。二十一年、畎夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷らに領地と官職を授けた。
帝不降(?~?)
  帝泄の子。帝泄の跡を継ぎ、の天子となった。六年、九苑を攻めた。
帝扃(?~?)
  帝泄の子。帝不降の弟にあたる。帝不降の跡を継ぎ、の天子となった。
帝厪(?~?)
  またの名は胤甲。帝扃の子。帝扃の跡を継ぎ、の天子となった。西河に都した。かれの治世に十個の太陽が同時にのぼったという。
孔甲(?~?)
  帝厪の子。帝厪の跡を継ぎ、の天子となった。鬼神のことを好み、荒淫にふけった。徳が衰え、諸侯がそむいたという。
劉累(?~?)
  陶氏の子孫。竜をならすことで、帝孔甲に仕えた。御竜氏という姓を与えられ、豕韋の跡を継いだ。竜の牝の肉を后氏に食わせたが、美味だったため、さらに所望され、恐れて逃亡したという。
帝皋(?~?)
  孔甲の子。帝孔甲の跡を継ぎ、の天子となった。
帝発(?~?)
  后敬、または発恵ともいう。帝皋の子。帝皋の跡を継ぎ、の天子となった。年、諸夷が王門に来朝した。
桀王(?~?)
  名は履癸。王朝の最後の天子。帝発の子。妹喜との情におぼれて、百官を殺傷し、民を苦しめた。の湯王の軍に敗れて、天下の実権を奪われた。鳴条に逃げたが、歴山に放逐されて死んだ。
↓次の時
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