度宗期以後
[南宋(1127~1279)]
⇒北宋(太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋(高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
高宗(趙構)-孝宗(趙シン)-光宗(趙惇)-寧宗(趙擴)-理宗(趙昀)-度宗(趙キ)-恭宗(趙ケン)-端宗(趙昰)-衛王(趙ヘイ)
賈似道(?~1275)
字は師憲。台州天台の人。賈渉の子。姉が理宗の貴妃となったため、恩蔭により藉田令に任ぜられた。宴遊にふけって、まじめに仕事をしなかったため、中央を追われて地方官を歴任した。淳祐六年(1246)、孟キョウの跡を継いで京湖制置使となり、襄陽に鎮した。のちに、参知政事・枢密使も兼ねた。モンゴルの鄂州侵攻に対して、和議を成立させた。このとき北帰するモンゴルのウリャンハダイの軍の殿軍を討って、朝廷には大勝利と報告し、右宰相に上った。以後、宋朝内で権勢を振るい、蟋蟀宰相と称された。大勝利の虚報が露見するのを恐れて、モンゴルの国信使を抑留するなど、モンゴル側を挑発した。また高達・曹世雄・向士璧らの宋の良将を殺したり陥れたりした。元軍は再び侵攻し、襄陽を囲んだが、五年にわたって奮戦した宋将呂文煥を援助することがなかった。至元十二年(1275)、自ら出陣して丁家洲に元軍を迎え撃ったが、大敗した。官を免ぜられ、循州、さらに漳州に流されて殺された。
江万里(1198~1275)
字は子遠、号は古心。江西都昌の人。江燁の子。父に朱熹の学説を学び、とくに『易経』に通じた。隆興府の東湖書院に遊学して、朱熹の弟子の林夔孫に師事して学んだ。宝慶二年(1226)、進士に及第した。吉州太守・著作佐郎などを歴任した。景定二年(1261)、権吏部尚書・同簽書枢密院事に進んだ。五年(1264)、知福州・本路安撫使となった。度宗が即位すると、同知枢密院事として召され、参知政事に上った。徳祐元年(1275)、元軍が饒州を落とすと、池に飛び込んで水死した。文忠と諡された。
汪立信(1201~1275)
字は誠甫、号は紫源。婺源の人。淳祐七年(1247)、進士に及第した。烏江簿に任ぜられ、知桐城県・判建康荊湖制置使を歴任した。景定三年(1262)、知江州・沿江制置副使となった。まもなく江西安撫使に進み、湖南安撫使に転じた。咸淳九年(1273)、兵部尚書・荊湖安撫制置使となり、知江陵府をつとめた。ときに元兵の南侵の形勢が明らかとなると、長江に沿って兵を分置するよう賈似道に献策したが、賈似道に忌まれて排斥された。徳祐元年(1275)、元兵が長江に沿って東進し、建康に迫ると、端明殿学士・沿江制置江淮招撫使として再び起用された。江上の諸郡から兵を募って建康への援軍に赴いた。建康が陥落すると、高郵に転進した。賈似道が蕪湖で敗れ、宋臣の多くが元に降りまたは遁走して、大勢の挽回しようがないことを知ると、慷慨悲歌してまもなく憤死した。死後に光禄大夫を追贈され、太傅を加えられた。
李庭芝(1219~1276)
字は祥甫。随州の人。嘉煕末年、孟珙に江防の策を献じて、権知建始県となった。淳祐初年に進士に及第した。恩人の孟珙が亡くなると三年の喪に服した。開慶元年(1259)、権知揚州となった。咸淳五年(1269)、京湖制置大使として襄陽への援軍となったが、襄陽が陥落すると官を退いた。徳祐元年(1275)、元が揚州を攻めると、参知政事・知枢密院事として、軍民を団結させ、城を堅守した。二年(1276)、臨安が陥落し、謝太后が二回にわたって降伏するよう諭したが、かれは堅く拒絶して使者を射殺した。揚州の食糧が尽き、姜才とともに東に海に入ろうとしたが、泰州で元軍に追いつかれ捕らえられた。屈服を拒否し、揚州で処刑された。
葉夢鼎(1200~1279)
字は鎮之、号は西澗。寧海上宅の人。若くして鄭霖・趙逢龍に師事した。嘉熙元年(1237)、太学の上舍試で優秀な成績をおさめ、信州軍事推官に任ぜられた。淳祐三年(1243)、秘書省正字に任ぜられた。六年(1246)、軍器少監・兵部郎官に転じた。のちに知袁州・知吉州・知建康府・知隆興府などを歴任した。景定元年(1260)、召されて太子詹事となった。三年(1262)、兵部尚書となった。翌年、吏部尚書に転じた。五年(1264)、参知政事に進んだ。まもなく知慶元府・沿海制置使として出向した。咸淳三年(1267)、右丞相・枢密使に上った。翌年、判福州・福建安撫大使として出向した。端宗が即位すると、少師として召されたが、道をはばまれて帰り、二年後に亡くなった。
陸秀夫(1238~1279)
字は君実。楚州塩城の人。宝祐四年(1256)、進士に及第した。はじめ李庭芝の幕下にあった。徳祐元年(1275)宗正少卿・起居舎人に抜擢された。翌年、礼部侍郎として使者となり元軍に和議を申し入れたが成らず、福州に入って、陳宜中・張世傑らとともに端宗を擁立し、端明殿学士・答書枢密院事に任ぜられた。景炎三年(1278)、端宗が死ぬと、張世傑とともに衛王を奉じて、左丞相となった。祥興二年(1279)、厓山に元軍と決戦して敗れ、幼い衛王とともに入水して殉死した。
張世傑(?~1279)
范陽の人。はじめ金の張柔に従っていたが、罪を犯して南渡し、南宋の臣下となった。はじめ小校となり、呂文徳の麾下に入って転戦して頭角をあらわした。咸淳四年(1268)、五千人を率いて鄂州を守り、力戦して元軍の南下を防いだ。保康軍節度使となる。徳祐元年(1275)、杭州臨安府に入って防戦して功を挙げた。翌年、杭州陥落後は、益王(端宗)を福州で擁立し、枢密副使となった。端宗が没した後も衛王を奉じて奮戦し、枢密副使・少傅に任ぜられた。祥興二年(1279)には厓山において元軍と決戦を行って敗れ、なおも逃れようとしたが、船が大風で転覆して没した。
徐宗仁(?~1279)
字は求心。淳祐十年(1250)、進士に及第した。国子監主簿・考功郎・崇政殿説書・国史編修・実録院検討・吏部侍郎、中書門下検正諸房公事などを歴任した。権礼部尚書・益王府賛読に上った。祥興二年(1279)、厓山で海に身を投げ、宋朝の滅亡に殉じた。
文天祥(1236~1282)
字は宋瑞、または履善、号は文山。吉州吉水の人。二十歳のとき、科挙に状元(首席)の成績で及第した。賈似道の専横を謗って、辞職を迫られ野に下った。徳祐元年(1275)、元が南宋に攻め入り、天下に勤皇の詔が下ると、私財を擲って義勇軍を組織して臨安に赴いた。翌年、元に降伏した宋朝の中で右丞相・枢密使に上った。元との和議の席で、元の宰相・伯顔と争い、拘禁された。鎮江へ護送される途中で脱走し、艱難の末に温州にたどりついた。江西の地で遊撃戦を展開し、たびたび元軍を破った。元の大軍が来襲すると、衆寡敵しえず抗戦しながら逃げていたが、五坡嶺でついに捕らわれた。大都(北京)に護送され、フビライが自ら帰仕するよう説得したが、彼は拒絶し続けた。獄中で「正気の歌」を詠んだ。四年後に刑死した。フビライをして「真男子」と嘆息させたという。
馬廷鸞(1223~1289)
字は翔仲。饒州楽平の人。淳佑七年(1247)、進士に及第した。池州教授に任ぜられた。開慶元年(1259)、校書郎として召された。景定四年(1263)、中書舎人に進んだ。翌年、礼部侍郎に転じた。咸淳元年(1265)、簽書枢密院事となった。五年(1269)、右丞相・枢密使に上った。八年(1272)、賈似道と対立し、九たび致仕を請うた。翌年、浙東安撫使・知紹興府として出向した。十年(1274)、職を辞した。『玩芳集』、『木心集』。
謝枋得(1226~1289)
字は君長、号は畳山。信州弋陽の人。宝祐四年(1256)、進士に及第した。呉潜に呼応して民兵を募り、元朝の侵攻に抵抗した。考官に任ぜられたが、賈似道に排斥されて失脚した。咸淳三年(1267)、赦された。徳祐元年(1275)、江西詔諭使・知信州となった。元軍に城を落とされると、姓名を変えて建寧の唐石山中に隠遁し、のちに建陽にうつって、卜占と講学で生計を立てた。宋が滅ぶと、閩中に寓居した。元朝にしばしば仕官の誘いを受けたが、固辞し、大都(北京)に連行されたが屈せず、絶食して死んだ。『文章軌範』。
危昭徳(?~?)
字は子恭。昭武の人。南宋の宝祐元年(1253)、進士に及第した。咸淳元年(1256)、知寧波府となった。翌年、秘書郎となり、監察御史に転じた。権工部侍郎に上った。『春山文集』。
陳宜中(?~?)
字は与権。温州永嘉の人。宝祐年間、太学にあって黄鏞らとともに丁大全を非難する上書を行い、「六君子」のひとりとなった。このため建昌軍に左遷された。景定三年(1262)、廷試に第二位で及第した。紹興府推官・秘書省正宇・校書郎を経て、監察御史・礼部侍郎・中書舎人・刑部尚書と累進した。咸淳十年(1274)、簽書枢密院事・権参知政事に任ぜられた。徳祐元年(1275)、賈似道が蕪湖で敗れると、賈似道の罪を鳴らして、誅殺するよう奏請した。まもなく右相・枢密使に上った。賈似道が失脚すると左丞相となり、政権を掌握したがもはや為すすべがなかった。元兵が臨安に迫ると、郷里に逃げ帰った。陸秀夫が温州に入ると、これに合流して福建で端宗を擁立した。再び左丞相となったが、井澳で敗れると、援軍を求める名目で占城(チャンパ)に向かい戻らなかった。至元十九年(1282)、元軍が占城を攻めると、暹羅(シャム)に逃れてそこで客死した。
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