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南明

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権,明末農民叛乱
南明(1644~1662)]
福王(朱由崧)-隆武帝(朱聿鍵)-王(朱以海)-紹武帝(朱聿鍔)-永暦帝(朱由榔)
史可法(1602~1645)
  字は憲之、号は道隣。河南省祥符の人。崇禎年間に進士に及第した。西安府推官に任ぜられた。四川の張献忠討伐に功績を挙げ、また李自成の農民軍と戦った。右僉都御史・南京兵部尚書などをつとめた。李自成が北京に迫ったのを知ると、軍を募って長江を渡ったが、北京陥落を知ると、南京の福王政権に参加した。しかし、内紛を嫌って揚州に移り、に対して抵抗を続けたが、戦いに敗れて捕らえられて死んだ。『史忠正公集』。
黄得功(1594~1645)
  もとの姓は王。字は虎山、号は黄闖子。安徽省合肥の人。兵士の出身で勇猛善戦した。東で後金の侵入を防いで功を挙げ、游撃となった。崇禎九年(1636)、副総兵となり、京営を分掌した。十一年(1638)、農民軍を討って、功により総兵に上った。十五年(1642)、定遠に移駐した。十七年(1644)、靖遠伯に封ぜられた。南朝福王政権のもとで、侯に封ぜられ、江北四鎮のひとつとなった。弘光年(1645)、左良玉の兵が東下してくると、命を受けてこれをはばみ、靖国公に封ぜられ、左柱国を加えられ、太平に移駐した。まもなく兵が長江を渡ってくると、南京を守れず、蕪湖にうつった。のちに軍と決戦して重傷を負い、自刎して果てた。
沈猶龍(?~1645)
  字は雲升。江蘇省華亭の人。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。鄞県知県に任ぜられた。天啓年間、陝西・山西・河南の監察御史を歴任した。崇禎四年(1631)には太僕寺少卿となり、六年(1633)、右僉都御史・福建巡撫として出された。江西の張普薇の乱の鎮圧に協力し、功により兵部右侍郎・右僉都御史に進み、総督両広軍務・広東巡撫となった。十七年(1644)、福王に召されたが応じず、親の喪のために帰郷した。翌年、李待問・章簡らとともに壮士数千人を集めて華亭を守ったが、軍に春申浦で敗れ、城は包囲された。脱出を図ったが矢に当たって戦死した。
左懋第(1601~1645)
  字は仲及、号は蘿石。山東省莱陽の人。崇禎四年(1631)、進士に及第した。韓城県令に任ぜられた。戸部給事中に転じた。の滅亡後、南明の福王政権に仕え、兵部右侍郎・右僉都御史に任ぜられた。に対する和議の使者として立ったが、北京の太医院に抑留された。洪承疇が降伏するよう説いたが聞き入れず、ドルゴンの前でも直立してひざまずかなかった。宣武門外で処刑された。
黄道周(1585~1646)
  字は幼平、号は石斎。福建省漳浦の人。天啓二年(1622)、進士に及第した。はじめ庶吉士から翰林院編修へ。崇禎初年に右中允をつとめた。銭龍錫に対する減刑を求めて三度上疏して降職され、五年(1625)に再び上疏して時政を批判したため庶民に落とされた。九年(1629)に故官に復したが、楊嗣昌を批判して、十四年(1634)に広西に左遷された。福王政権のもとで礼部尚書をつとめ、王のもとで武英殿大学士となった。江西に赴き義勇兵を募ろうとしたが、軍に捕らえられ、南京で処刑された。画は山水・人物・松石を描いてすぐれた。詩文にもすぐれ「を歩まず、而も博奧にして黝深、雕鏤古健、風骨は一家を成せり」と賞された。『黄漳浦集』、『易象正義』。
楊文聡(1597~1646)
  字は竜友。貴州省貴陽の人。楊師孔の子。万暦四十六年(1618)に郷試に及第したが、その後進士に及第しなかった。天啓年(1621)、安邦義が貴陽を囲んだ際に、父とともに城を守り、名を上げた。四年(1624)に南京に居を遷した。崇禎年間に、華寧県学教諭・青田知県・江寧知県を歴任したが、汚職のために弾劾されて官職を失った。南京に福王政権が成立すると、員外郎・郎中を経て京口監軍となり、京口に駐屯した。さらに兵備副使・右僉都御史・常鎮巡撫となり、沿海の諸軍を督した。軍に敗れて蘇州に敗走し、さらに処州に逃げ、福州の王政権のもとで、兵部右侍郎・右僉都御史に任ぜられた。隆武二年(1646)、福建浦城で軍に殺された。詩文書画をよくし、とくに画は董其昌に学んで山水・花卉にすぐれた。また孔尚仁の戯曲『桃花扇』の登場人物でもある。『洵美堂集』。
馮夢竜(1574~1646)
  字は猶龍、号は姑蘇詞奴。また龍子猶、墨カン斎主人などと号した。江蘇省県の人。崇禎三年(1630)、貢士に任用された。のち、福建の寿寧県の知県となった。に滅ぼされると、節に殉じて死んだ。『三言』、『平妖伝』、『古今談概』、『笑府』など。
阮大鋮(1587~1646)
  字は集之、号は円海。安徽省懐寧の人。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。忠賢の下で働き、光禄卿に上った。忠賢の獄で失脚。福王政権のもとで兵部侍郎となり、兵部尚書にまで上った。のちに降った。戯曲にすぐれた。『燕子箋』。
子竜(1608~1646)
  字は臥子。江蘇省華亭の人。崇禎十年(1637)、進士に及第した。兵科給事中となった。允彝らと結んで「幾社」を結成した。「復社」と呼応して古学の復興を唱え、朝の危機を救おうとした。が関内に侵攻するに及んで、抵抗戦に参加し、戦いに敗れて入水自殺を遂げた。
馬士英(1591~1646)
  字は瑤草。貴州省貴陽の人。万暦四十七年(1619)、進士に及第した。南京戸部主事に任ぜられた。天啓年間に郎中となり、厳州・河南・大同三府の知事を歴任した。崇禎五年(1632)、右僉都御史・巡撫宣府に上った。いちど贈賄事件に連座して失脚したが、十五年(1642)に復帰。兵部右侍郎・右僉都御史に上った。朝が滅びると、江北の四総兵の実力を利用して、福王を南京に擁立した。福王政権のもとで、東閣大学士・兵部尚書・都察院右副都御史となり、朝政を専断した。阮大鋮を起用し、史可法を排斥し、東林党人との間に軋轢を深めた。南京陥落後、浙江に逃げたが、軍に捕殺された。一説によると、浙江の王の軍が敗れたのちに降ったが、福建の隆武帝と消息を通じていたことが漏れて延平で殺されたともいう。
曹学佺(1571~1646)
  字は能始、号は雁沢。福建省侯官の人。万暦二十三年(1595)、進士に及第した。戸部主事をはじめとして、四川按察使に上った。四川の地方史に執心して、『蜀漢地理志補』、『県古今通釈』、『中風土記』など、四川の歴史・地理・風物などについての重要な著作を多数残した。王朱聿鍵が福建で立つと、太常卿となり、礼部尚書に上った。『易経通論』。
王応熊(?~1647)
  字は非熊、号は春石。四川省巴県の人。万暦年間、進士に及第した。天啓年間、詹事を歴任した。崇禎三年(1630)、礼部侍郎に任ぜられた。六年(1633)、温体仁と結んで、礼部尚書・東閣大学士に上り、国政に参与した。八年(1635)、弾劾に遭って帰郷した。十五年(1642)、周延儒の推薦を受けて再び召されたが、復帰しないうちに周延儒が失脚したため、やむなく帰った。南明の福王政権が立つと、兵部尚書に任ぜられ、四川・湖広・雲南・貴州の軍務を統括し、遵義に駐屯した。永暦初年、孫可望に遵義を落とされ、永寧山に逃げこみ、まもなく畢節で没した。
丁魁(?~1647)
  字は光三。河南省永城の人。崇禎年間、兵部右侍郎・右僉都御史に累進し、薊・保定の軍務を総督した。兵が入関すると、防ぐことができず、兵卒に落とされた。南明の弘光帝が立つと、馬士英に賄して故官に復し、両広を総督した。隆武年(1645)、南明隆武帝に仕えて、平粤伯に封ぜられた。瞿式耜らとともに桂王朱由榔(永暦帝)を肇慶に擁立し、東閣大学士に進み、軍務を統轄した。まもなく兵が肇慶に迫ると、永暦帝を捨てて、ひとり資産をたずさえて岑渓に逃れ、将の李成棟に捕殺された。
張家玉(1615~1647)
  字は玄子、号は芷園。広東省東莞の人。崇禎年間、進士に及第した。南明の隆武帝が立つと、僉都御史となった。隆武二年(1646)、軍が江西に来攻すると、広東で兵数万を集めて救援におもむこうとしたが、隆武帝が亡くなったのを聞き、東莞に引き返した。まもなく軍が広州を落とし、永暦政権が危地に陥ると、東莞で起兵してに抵抗し、永暦帝により兵部尚書に任ぜられた。安・博羅・帰善の諸城を回復した。子壮・邦彦と広州を攻めようとしたが、事が洩れ、軍と増城で激戦して敗れ、投水死した。子壮・邦彦とともに広東三忠と称された。
子壮(?~1647)
  字は集生、号は秋涛。広東省南海の人。万暦年間、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。忠賢にさからって失脚した。崇禎初年、旧官に復し、礼部右侍郎に累進した。郡王の子孫に官職を授けるのに反対し、そのため誣告を受けて獄に下され、罪を贖って帰郷した。南明の永暦帝が肇慶で立つと、東閣大学士・兵部尚書に任ぜられた。のちに邦彦とともに広州を攻め、軍に敗れて捕らえられ、屈することなく死んだ。張家玉・邦彦とともに広東三忠と称された。『南中集』、『練要堂稿』。
邦彦(1602~1647)
  字は令斌、号は巌埜。広東省順徳の人。南明の弘光帝が立つと、「中興政要三十二策疏」を上書したが、用いられなかった。隆武帝のとき、監紀推官・兵部職方主事に任ぜられた。隆武二年(1646)、軍が広州に入ると、かれは高で起兵し、余龍の軍と合流し、海から珠江に入り、将李成棟を広州に撤退させた。子壮と広州を攻めようと図ったが、事が洩れて失敗した。のちに兵を率いて三水を下り、胥江に拠り、諸軍と連携して数城を占拠し、義軍のうちで最強といわれた。まもなく敗れて捕らえられ、屈することなく死んだ。子壮・張家玉とともに広東三忠と称された。
文従簡(1574~1648)
  字は彦可、号は枕烟老人。江蘇省長洲の人。文善の子。崇禎十三年(1640)、抜貢。に入ってからは仕えなかった。王蒙および三趙を学んで山水画にすぐれ、書は李邕を宗としてその書法を継いだ。
銭粛楽(1606~1648)
  字は希直、号は止亭、または虞孫。浙江省鄞県の人。崇禎十年(1637)、進士に及第した。太倉知州に任ぜられた。十五年(1642)、召されて刑部員外郎となった。のちに母の喪につき郷里に帰った。軍が寧波に迫ると、寧波同知の朱之葵がに降伏することを決めたため、絶食してへの忠誠を示し、王家勤・張夢錫・華・陸宇火鼎・毛聚奎らとともに起兵した。南明王政権のもとで太僕寺少卿となり、のちに僉都御史を加えられた。浙江では十戦十勝して軍に恐れられた。吏部尚書・理戸部となり、温州にうつった。のちに福に避難して隠居した。再び召されて兵部尚書となり、興化・福・連江・長楽・羅源などを奪回し、福州を囲んだが、謝三賓の裏切りで打撃を受けた。連江を奪われたことを知り、悲憤のために伏し、瑯江船上で病没した。『銭忠介公集』。
ジュリオ・アレニ(1582~1649)
  名は艾儒略。字は思及。イタリアの人。ジェスイット会の宣教師となった。万暦三十八年(1610)、中国に渡り、アモイの神学院で数学を講義した。四十一年(1613)、北京にうつり、まもなく上海・揚州などに行って伝教につとめた。また陝西・山西・杭州などで活動した。天啓五年(1625)、福州で伝教した。崇禎十一年(1638)、放逐されてアモイに帰った。翌年、また福建に入った。福州で亡くなった。西洋の学問や世界の地理知識の紹介につとめた。画に「万国全図」があった。『職方外記』、『西学凡』。
何騰蛟(1592~1649)
  字は雲従。貴州黎平の人。天啓年間、郷試に及第した。崇禎年間、南陽知県となり、農民叛乱を討った功で右僉都御史に累進し、湖広の巡撫にあたった。南明の福王政権のもとで、兵部右侍郎を加えられ、湖広・四川・雲貴・広西の軍務を総督した。弘光年(1645)、左良玉が東下してくると、これをはばんだ。まもなく大順軍の残部を招撫した功により、隆武帝により東閣大学士・兵部尚書に任ぜられ、定興伯に封ぜられた。湖広に十三鎮を設けて、に抵抗した。永暦政権が立つと、武英殿大学士に進んだ。永暦年(1647)、軍が湖広を攻めて長沙を占拠すると、かれは兵を率いて広西に退いた。翌年、声桓・李成棟がにそむいて南明に帰順すると、諸軍を率いて湖南の失地を回復した。しかし諸鎮の軋轢により、多くの地をまもなく棄てることとなった。三年(1649)、湘潭におもむき、軍に敗れて捕らえられ、屈することなく死んだ。
邦伝(?~1652)
  字は霖寰。浙江省紹興の人。南明の隆武帝のとき、平蛮将軍・都督同知に任ぜられた。永暦初年、永暦帝擁立の功により、慶国公に封ぜられ、馬吉翔・王化澄らとともに朝政を専断した。朝臣たちは党派を結んであい争っていたので、忠貞営を潯南に駐屯させ、李錦・高一功の力を借りようとしたが、実現しなかった。また孫可望と結び、詔といつわり孫可望を王に封じた。五年(1651)、軍が梧州を落とすと、宣国公焦璉を潯州で誘殺して、将孔有徳に降伏した。兵を南寧に引き入れて攻めさせた。翌年、李定国が桂林を回復すると、捕らえられ磔刑に処せられた。
馬進忠(?~1658)
  ⇒馬進忠
(1599~1659)
  字は子、号は潜古。江蘇省常熟の人。科挙を受験したが及第せず、郷里に帰って古書を蒐集した。約八万四千冊を集めて汲古閣に収蔵した。十三経・十七史・六十家詞などを印刷して、四方に流布させた。『津逮秘書』、『毛詩陸疏』。
ボイム(1612~1659)
  名は卜弥格。字は致遠。ポーランドの人。ジェスイット会の宣教師となり、永暦年(1647)に中国に渡った。四年(1650)、広西にいたり、南明の永暦帝の宮中で布教にあたった。翌年、皇太后の命を受け、教皇インノケンティウス10世への書簡を携えて帰国した。十年(1656)、教皇アレクサンデル七世の親書をたずさえて再度中国に渡ったが、この親書は永暦政権に届くことなく、十三年(1659)に百色で病没した。景教の碑文をラテン語に翻訳したことでも知られる。『中華植物志』。
聖嘆(1610?~1661)
  もとの名は采、改名して人瑞。字は若采、号は聖嘆。江蘇省県の人。『荘子』『辞』『史記』『杜詩』『西廂記』『水滸伝』の六部を中国文学の傑作と位置づけ、才子書と名づけた。評論を発表して、毀誉褒貶が激しかった。朝に仕えることを拒んで、罪に問われて刑死した。
李定国(1621~1662)
  ⇒李定国
黄景昉(1596~1662)
  字は太穉、号は東厓。福建省江の人。天啓年間、進士に及第した。翰林院庶吉士に任ぜられた。詹事・掌翰林院に進んだ。崇禎十五年(1638)、礼部尚書・東閣大学士に上り、国政に参与した。翌年、崇禎帝の意にさからい、帰休を請うた。南明の紹武年(1646)、王政権の礼部尚書に任ぜられた。鄭芝龍による排斥を受け、まもなく辞職した。家郷にあること十数年して、病死した。『甌安館集』、『国史唯疑』。
張煌言(1620~1664)
  字は玄箸、号は蒼水。浙江省鄞県の人。の崇禎十五年(1642)、郷試に及第した。南明の弘光政権の滅亡後、銭肅楽らとともに王朱以海を監国として擁立し、浙東を守った。権兵部尚書・右僉都御史に上った。監国二年(1647)、松江提督勝兆がにそむくと、張名振の水軍を監督して援軍におもむいたが、崇にいたって颶風に遭って船が転覆し、単身で逃れた。のち王に従って舟山に退いた。六年(1651)、舟山が陥落すると、福建に逃れ、鄭成功を頼った。永暦八年(1654)、張名振の水軍を監督して長江に攻め入り、京口を落とし、南京をおびやかした。十二年(1658)、永暦帝により兵部尚書・東閣大学士に任ぜられた。翌年、鄭成功とともに再び長江に入り、瓜洲を落とし、江浦を取り、蕪湖を下し、江南の州県に檄を飛ばして、四府三州二十四県を回復した。鄭成功が南京を囲むあいだ、孤軍別行動を取り、銅陵で敗れ、浙東に退いた。のちに流寓して象山南田島にいたった。康熙三年(1664)、軍に捕らえられ、屈することなく杭州で殺害された。『張蒼水集』、『奇零草』、『探微吟』。
黄士俊(1583~1665?)
  字は亮垣、または象甫、号は振宇。広東省順徳の人。万暦年間、進士に及第した。修撰に任ぜられた。崇徳二年(1629)、礼部尚書に任ぜられた。九年(1636)、入閣して国政に参与した。翌年、致仕を請うた。南明の永暦四年(1650)、大学士に任ぜられたが、その年のうちに老齢を理由に退いた。のちに病没した。
贇(1587~1671)
  字は羲都、号は既白山人。浙江省杭州の人。天啓年(1621)、福建総兵使節に随行して日本に渡った。崇禎十一年(1638)には日本に居を定めた。尾張名古屋藩主に招聘されて顧問となり、また江戸国正寺で武術教師をつとめた。詩・画・書・建築・陶芸・医薬・針灸・茶道に精通し、音韻学や典章制度に造詣が深かった。日中間の文化交流に貢献した。日本の学者らによって「先哲」と称された。『老子経通史』。
僧隠(1592~1673)
  泰昌年(1620)、福州黄檗山で出家し、鑑源・宏雲に師事した。のち、費隠の法を継いだ。順治十一年(1654)に渡日。十五年(1658)に四将軍家綱より寺地をうけ、山城国宇治に万福寺を開山した。朝風の念仏禅を行い、黄檗宗の開祖となった。『黄檗語録』『広録』。
張岱(1597~1689?)
  またの名は維城。字は宗子、号は石公。浙江省山陰の人。江南の大家に生まれ、科挙は受けず、文人や妓女などを集めて風流生活を送った。が滅びるとき、抗の軍に身を投じたが、敗残の身を会稽山中に隠し、著作に没頭した。『石匱書』、『石匱書後集』、『快園道古』、『陶庵夢録』。
朱之瑜(1600~1682)
  字は嶼、号は舜水。崇禎末年、しばしば官に召されたが、固辞した。の滅亡後、南明王政権に仕えた。朝の復興を策して、日本・安南・暹羅などを往来した。永暦十二年(1659)、鄭成功と張煌言らの抗活動に参加したが、敗れて日本に亡命した。長崎、ついで江戸に住んだ。水戸藩主徳川光圀に招かれて、以来水戸に住した。水戸学に大きな影響を与えた。『朱舜水集』。
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