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[(589~618)]
南北朝,隋末唐初群雄,,突厥,高昌,吐谷渾
文帝(楊堅)-煬帝(楊広)-恭帝(楊侑)-恭帝(楊侗)
楊堅(541~604)
  の文帝⇒。
李徳林(530~590)
  字は公輔。博陵郡安平の人。幼くして五経や古今の文集を暗誦し、文才で知られた。北斉の任城王高湝に召されて州館に入った。武成帝(高湛)のもとで中書舎人・侍郎に累進し、中書侍郎・修国史となった。北周に入って、内史上士となり、詔の起草をつかさどった。楊堅の輔政のもとで、軍機に参与し、布告文の起草にあたって、重用された。が建てられると、高熲とともに律令の修訂にあたった。平定の策を献じ、が滅ぶと、柱国に任ぜられた。郷里制の設置にひとり反対し、のちに改廃が問題になると、朝令暮改をそしって、文帝の怒りを買い、懐州刺史に左遷された。北斉史の編集を命ぜられたが、完成せず、子の李百薬のに『北斉書』として完成した。
韓擒虎(538~592)
  もとの名は豹、字は子通。河南郡安の人。北周に仕えて、安太守・永州刺史・和州刺史を歴任し、しばしば南朝の軍を破った。が建てられると、廬州総管となった。開皇九年(589)、王楊広の下で、軍を率いてを討った。兵五百人を率いて長江を渡り、采石にいたり、南路をとって建康に侵攻し、の後主を捕らえた。凱旋後、賀若弼と功を争い、位は上柱国に進んだ。兵の掠奪を制しなかったため、爵位は加えられず、官は涼州総管となった。のち京師に召され、大興城で病没した。
僧慧可(487~593)
  俗姓は姫。幼名は神光。洛陽武牢の人。はじめ儒学や老荘を学んだ。のちに竜門香山に行き、宝静によって永穆寺で受戒した。正光年(520)に達磨に師事して禅を学んだ。迫害を受けながらも、伝道につとめた。僧弁和に憎まれて、地方官に捕らえられて処刑された。禅宗の第二祖とされる。
僧信行(540~594)
  俗姓は王。州の人。幼いころに出家し、相州法蔵寺・光厳寺に修学した。北周の武帝のときの廃仏に際していったん還俗した。になってふたたび僧となり、やがて三階教団を創立して長安で布教した。その教えは異端視されて禁圧された。
僧智顗(538~598)
  俗姓は、字は徳安。荊州華容の人。起祖の子。はじめ帝(蕭繹)に仕えたが、西魏軍の攻撃でその政権が滅びると、父母を失い江湖をさまよった。人生の無常を悟って、長沙果願寺に出家した。光州大蘇山で慧思に師事し、法華三昧を修めた。建康瓦官寺で法華経を講じ、のちに天台山に上って国寺を開き、修禅にはげんだ。晩年、王・楊広に招かれ、智者大師の尊号が与えられた。『維摩経疏』。
顔之推(531?~604)
  字は介。琅邪郡臨沂の人。幼くして父母を失い、長兄の顔之儀に育てられた。はじめの湘東王蕭繹(のちの帝)に仕えた。帝が即位すると、散騎侍郎に上った。侯景の乱に巻き込まれて、虜囚となった。脱出して、北斉の都・鄴にいたり、北斉に仕えて、文林館待詔・黄門侍郎に上った。北斉が滅んで、北周により関中に連行されて、不遇な生活を続けた。が起こると、太子学士に任ぜられた。『顔子家訓』。
楊勇(?~604)
  字は睍地伐。の文帝(楊堅)の長男。学問を好み、詞賦をよく作った。北周のとき、洛州総管・上柱国・大司馬となり、禁をつかさどった。が建てられると、皇太子に立てられた。国政に参与し、建議することが多かった。猜忌を受けて、弟の楊広に皇太子の位を奪われた。開皇二十年(600)、庶人に落とされた。文帝が崩ずると、死を賜り、房陵王に追封された。
楊諒(?~604)
  字は徳章。の文帝(楊堅)の末子。開皇年(581)、王に封ぜられた。十七年(597)、并州総管として出向した。太子楊勇や王楊秀が廃されるのをみて、禍が身に及ぶのをおそれ、謀反を準備した。突厥に対する防を名目に、民衆を徴発し、器械を修理し、亡命者を受け入れた。仁寿四年(604)、文帝が崩じて煬帝が立つと、粛をおそれて起兵し、十九州が呼応した。煬帝が楊素を遣わして攻めさせたため、窮して降を請うた。宗籍を削られて民とされ、幽閉されて没した。
劉方(?~605)
  京兆郡長安の人。北周のとき、軍功によって上儀同となった。韋孝寛に従って尉遅迥を相州で破った。に入って、河陰公に封ぜられた。開皇三年(583)、王楊爽に従って突厥を白道に破り、大将軍に進んだ。甘・瓜州刺史を歴任した。仁寿二年(602)、軍を率いて交州俚帥の李仏子を破った。大業年(605)、歓州道行軍総管に任ぜられ、兵を率いて林邑王梵志の象軍を破り、林邑国都を陥した。凱旋途中で没した。
煬帝(569~618)
  楊広⇒。
楊素(?~606)
  字は處道。弘農郡華陰の人。楊敷の子。北周帝のころに宇文護に重用されていたため、武帝が即位すると家は零落した。かれの父が死後の追封を受けていないことを上訴したため、武帝の怒りを買って処刑されるところだったが、「臣は無道な天子につかえ、死に場所を得ただけだ」と壮語を吐いて、かえって赦免された。初に上柱国・御史大夫に上ったが、妻の鄭氏といさかい、「もし自分が天子となったら、お前は皇后の資格はあるまい」と放言したため、一時免官された。行軍帥となり、四川から水軍を率いて東下し、朝討伐にあたった。功により越国公に封ぜられた。開皇十二年(592)、尚書右僕射に上った。高熲とともに朝政をつかさどった。翌年、仁寿宮の建造にあたった。十九年(599)、行軍総管に任ぜられて、軍を率いて突厥に遠征し、達頭可汗の軍を破った。文帝の晩年、皇太子位をめぐって暗闘があったが、かれは公に態度をはっきりさせなかった。しかし揚勇の悪い流言を流して廃嫡に追い込み、楊広(のちの煬帝)の立太子に協力した。仁壽年(601)、尚書左僕射となり、また雲州行軍帥に任ぜられて遠征し、翌年また突厥を破った。文帝の死後、楊広と共謀して詔書を偽造し、煬帝即位を演出した。王・楊諒の叛乱を鎮圧し、司徒に上り、国公に封ぜられた。しかし煬帝の猜疑を受け、大業二年(606)に憂悶のうちに病没した。
高熲(?~607)
  またの名は敏。字は玄昭。渤海脩の人。高賓の子。はじめ北周に仕えた。北斉との戦いで活躍し、また尉遅迥の叛乱を平定するのに功績を挙げた。が起こると、尚書左僕射に上り、納言を兼ねて、臣最高位に就いた。しかし開皇十九年(599)、文帝が太子楊勇を廃して楊広を立てようとするのに反対したため、尚書右僕射から罷免された。文帝が尉遅迥の娘を寵愛し、それを嫉妬した独孤皇后がこの娘を殺したとき、文帝は「吾貴くして天子となるも自由を得ず」と叫んだが、このとき高熲が「陛下豈に一婦人を以て天下を軽んぜんや」と言ったため、独孤皇后に恨まれて失脚したともいう。煬帝の即位後に、太常卿として再び起用された。大業三年(607)、煬帝の奢侈な生活を諫め、時政を批判したため、人に告発を受けて誅殺された。国人でその死を惜しまないものはなかったという。
賀若弼(544~607)
  字は輔伯。河南郡洛陽の人。賀若敦の子。若くして大志をいだき、驍勇にして弓馬をよくし、書史に博通した。はじめ北周王宇文憲に召されて記室となった。宣帝が即位すると、韋孝寛に従って南朝を攻め、戦功を挙げて、寿州刺史に任ぜられた。に入って州総管となった。を平定することを自分の責務と定め、平十策を上奏した。開皇九年(589)、行軍総管となり、王楊広の節度を受け、軍を率いてを討った。長江を渡り、京口を抜き、北路より建康を攻め、蒋山で軍主力を大破し、将蕭摩訶らを捕らえた。が滅んだのち、韓擒虎と功を争い、上柱国の位を加えられ、右武候大将軍に転じ、国公に封ぜられた。功をほこって楊素・高熲の下に立つのを潔しとせず、文帝の怒りを買って庶民に落とされた。のちに復爵したが、任務を与えられなかった。大業三年(607)、煬帝の北巡に従って楡林にいたり、高熲らとともに朝政を誹謗した罪で処刑された。
薛道衡(540~609)
  字は玄卿。河東郡汾陰の人。はじめ北斉の武帝に召し出され、諸儒と五礼を修定した。ついで北周の武帝に仕えた。にはの征討に功績を挙げて、上開府となった。内史侍郎・司隷大夫を歴任した。煬帝を批判して憎まれ、自殺した。楽府・詩を残した。
劉焯(544~610)
  字は士。信都郡昌亭の人。儒学を修めた。開皇年間に進士に及第した。国子において諸儒と古今の疑義を論じて有名となった。劉炫とともに他の学者を激しく論難したため、恨みを買って官を奪われ庶人に落とされたこともあった。煬帝の即位後、太学博士に上った。『暦書』、『五経述議』。
牛弘(545~611)
  もとの姓は尞。字は里仁。安定郡鶉觚の人。牛允の子。鬚貌雄偉で、性格は寛厚、広く学問に通じた。はじめ北周に仕え、中外府記室・内史上士などを歴任し、文章の起草をつかさどった。が建てられると散騎常侍・秘書監に任ぜられた。開皇三年(583)、散逸した典籍を蒐集するよう上表し、民間からの献書の道を開いた。奇章郡公に進んだ。礼部尚書となり、五礼を修定し、蘇威とともに律を定め、刑罰を簡素化した。九年(589)、許善心や虞世基らとともに雅楽を定めた。まもなく吏部尚書にうつり、文才より徳行を優先して官吏を任用した。煬帝のとき、輿服・儀の制度を定めて、「大業律」十八篇五百条を撰した。煬帝に従って江都に下り、そこで没した。『開皇四年書目』。
宇文愷(555~612)
  字は安楽。朔方郡の人。々武将の家に生まれた。が建てられると、営都副監に任ぜられ、大興城の造営・区画割りを取り仕切った。大業年間、営東都副監・将作大匠を歴任し、洛陽城の造営にあたった。工部尚書に上り、民衆を徴用して広通渠を開鑿させた。大業三年(607)、煬帝の北巡にあたって、器械・車輌を動員して、数千人が座ることのできる帳を造作したという。『東都図記』、『堂図議』、『釈疑』などの著があったが、失われた。
楊玄感(?~613)
  弘農郡華陰の人。楊素の子。読書を好み、弓馬に長じた。若くして柱国に任ぜられ、郢州刺史として治績をあげた。鴻臚卿・礼部尚書を歴任し、国公まで上った。煬帝の第二次高句麗遠征のとき、糧食の補給を担当したが、任が果たせず、咎められることをおそれて叛乱を起こした。王・浩を擁立し、洛陽攻略を目指して果たしえず、軍を転じて長安に向かう途中、官軍に包囲されたため弟の楊積善と刺し違えて死んだ。
房彦謙(547~615)
  字は孝冲。州臨淄の人。房玄齢の父にあたる。幼くして孤児となり、尹琳に師事した。五経に通じ、文章を作り、草書・隷書をよくした。北斉に仕えて、州刺史主簿となると、政は簡素で法を守り、州境は粛然とした。北斉が滅ぶと郷里に帰った。の開皇七年(587)、奉承郎に任ぜられ、まもなく監察御史となった。煬帝のとき、黄門侍郎張衡に信書を送り、刑名法制と治乱興衰の策を論じたが容れられず、官を辞して隠居した。のち召されて司隷刺史となった。大業九年(613)、高句麗遠征に従軍して、監軍をつとめた。官は涇陽令のとき、没した。
宇文述(?~616)
  もとの姓は破野頭。字は伯通。郡武川の人。騎射をよくした。北周に仕えて、開府より英果中大夫に累進した。韋孝寛に従って尉遅迥を討ち、上柱国に進んだ。に入って右大将軍となった。南朝を平定する戦に参加し、行軍総管として、三万を率いて六合より出兵し、東の地を平らげた。功により安州総管となった。楊素とともに王楊広が太子位を奪う謀を助けた。煬帝が即位すると、左大将軍に任ぜられ、許国公に封ぜられた。北巡に従って楡林に、西巡に従って張掖におもむき、たびたび吐谷渾の軍を破った。大業八年(612)、煬帝が高句麗を攻めると、扶余道の軍将を任され、戦い敗れて庶民に落とされた。翌年、官爵を復し、再び高句麗を攻めた。まもなく楊玄感の乱が起こると軍を東都に帰し、叛乱を討って楊玄感を斬った。のちに煬帝に従って江都に下り、まもなく病没した。かれは広く賄賂を集めて、宝を収蔵し、家僮は千余人におよんだという。
(?~616)
  大業七年(611)、煬帝の高句麗遠征に反抗して、長白山を拠点として逃亡兵・貧農らを率いて挙兵した。山東・河北の郡県を荒らし、殺掠をほしいままにした。楊義臣率いる軍に攻撃されて敗走。楊善会に捕らわれて磔にかかった。
楊義臣(?~?)
  もとの姓は尉遅。郡の人。の文帝のとき、その父の功により楊姓を賜った。宮中で養われ、成長すると陝州刺史に任ぜられた。騎射をよくし、将才があった。軍を率いて突厥の達頭可汗を破った。仁寿初年、朔州総管となった。仁寿四年(604)、煬帝が即位して、王楊諒が并州で叛くと、これを討伐した。勝利して上大将軍に進み、相州刺史となった。吐谷渾や高句麗への遠征に従った。軍を帰して河北で転戦し、向海・高士達の乱を討った。大業十二年(616)、朝廷に召されて兵権を奪われ、礼部尚書に任ぜられた。在官のまま没した。
張須陀(565~616)
  弘農郡閿郷の人。に仕えて不遇であった。郡の丞を務めていたとき、飢饉が起こり、無断で官庫を開いて民衆に施した。そのため誣告されたが、かえって煬帝に称揚された。王薄・郭方預・左孝友・盧月らの叛乱を討伐するため転戦し、連勝した。河南討捕大使に上った。李密率いる瓦崗寨軍と戦って敗れ戦死した。
王須抜(?~617?)
  上谷の人。の大業十一年(615)、起兵してにそむき、十数万の人々を集めて、漫天王を称し、国号を燕とした。北は突厥と結び、幽州を攻掠した。流れ矢に当たって戦死し、部衆は刀児に引き継がれた。一説に竇建徳に敗れて突厥に亡命したともいう。  
刀児(?~618)
  上谷の人。の大業十一年(615)、王須抜に従って起兵し、歴山飛を自称した。十数万の衆を集め、突厥と結び、河北・山西の間で活動した。翌年、部将の甄翟児を遣わして太原を攻めさせ、の潘長文を殺した。王須抜が戦死すると、余衆を率いて深沢に拠り、帝を称した。のちに竇建徳に敗れて殺された。
来護児(?~618)
  字は崇善。江都の人。開皇初年、大都督に任ぜられた。南朝平定の戦に従い、功により上開府に進んだ。開皇十年(590)、楊素に従って高智慧を討ち、戦功を挙げた。泉州・建州・瀛州に鎮した。煬帝のとき、右驍大将軍となった。大業末年、三たび高句麗遠征に従い、左翊大将軍に転じた。楊玄感の乱が起こると、宇文述に従ってこれを撃破した。江都で兵変が起こると、宇文化及に殺された。
王通(584~618)
  字は仲淹、私諡を文中子という。太原の人。王隆の子。幼若のころから勉学に励み六経に通じた。長安に上って文帝に謁し、「太平策」十二を奏した。楊広に異志があるのを見て、郷里に帰った。予見は的中して楊広は父を拭して皇帝として立った。以後、招聘を固辞しつづけ、門人への教育に専念した。『中説』。
沈光(591~618)
  字は総持。興の人。若いころから敏捷で、十数丈の高さまで竿をのぼって縄をかけ、肉飛仙と号された。大業年間、高句麗遠征に従軍して、衝梯で城を攻めるところ、竿をかけて城にとりつき、十数人を殺傷してみせて、煬帝を喜ばせた。その日のうちに朝請大夫に任ぜられ、まもなく折衝郎将となった。のちに江都で煬帝が殺されると、帝の復仇をはかって麦孟才らとともに宇文化及の暗殺をたくらんだが、事が洩れて殺された。
文都(?~618)
  孝則の子。北周のとき、右侍上士となった。の開皇初年、内史舎人に任ぜられた。庫部・考功二曹郎を歴任し、尚書左丞に進み、太府少卿に転じた。煬帝が即位すると、司農少卿・司隸大夫に転じ、まもなく御史大夫となった。事件に連座してひとたび免職されたが、再起して太府卿となった。大業十三年(617)、煬帝が江都に幸すると、段達らとともに東都留守をつとめた。煬帝が宇文化及らに弑されると、王世充・皇甫無逸らとともに東都で越王楊侗を擁立した。内史令・開府儀同三司・光禄大夫・左驍大将軍・摂右翊将軍に上り、国公に封ぜられた。李密の扱いをめぐって王世充と対立し、盧らとともに王世充の排除を謀ったが、先手を打たれて殺害された。
李密(582~618)
  李密⇒。
宇文化及(?~619)
  宇文化及⇒。
王世充(?~621)
  王世充⇒。
蘇威(540~621)
  字は無畏。京兆郡武功の人。蘇綽の子。北周のとき、大冢宰宇文護の娘婿となった。宇文護が殺されたのち、病にかこつけて長らく出仕しなかった。楊堅が大丞相となると、高熲に推挙されたが、楊堅に周を簒奪する意志があるのを知ると、郷里に逃げ帰った。楊堅がの文帝として即位すると、太子少保に任ぜられ、邳国公の爵位を賜った。まもなく納言・民部尚書を兼ねた。節倹と軽徭薄賦を主張して、文帝に重んじられ、高熲とともに朝政をつかさどった。大理卿・京兆尹・吏部尚書などをつとめ、刑律の修訂にあたった。開皇九年(589)、尚書右僕射となった。十二年(592)、朋党の罪で免官された。十四年(594)、納言として復帰。突厥の都蘭可汗への使者に立った。また文帝が京師を離れると、留守を預かった。煬帝のとき、宇文述・裴矩らとともに五貴と称された。農民叛乱が各地に起こったとき、朝臣はあえて帝に報じなかったので、かれは盗賊を赦免して高句麗遠征に従軍させるよう建議した。このため官爵を奪われ庶民に落とされた。のちにまた起用された。煬帝が江都で殺されたのち、宇文化及により光祿大夫に任ぜられた。宇文化及が敗れると李密に降り、李密が敗れると王世充に降って太師に封ぜられた。王世充が敗れると、に投じたが用いられなかった。長安で没した。
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歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[(589~618)] SUI
楊堅(541~604) Yang Jian
  の初文帝(Wendi)。在位589~604。楊忠の子。妻は独孤氏。の楊震の子孫で弘農郡華陰の人とされるが、おそらくは虚伝。父の勲功により北周の随国公となる。宣帝(宇文贇)のころから北周の実権を握り、諸叛乱を鎮圧。静帝(宇文衍)の禅譲を受けて即位した。南朝を滅ぼして、中国を再統一し、開皇律令を制定し、官制を整備し、科挙を創設、中央集権化を進めた。国力は充実して「開皇の治」と讃えられた。長男の揚勇を廃嫡し、次男の楊広を太子としたが、死の直前にその非を悟って楊勇を呼び戻そうとして果たせなかった。楊広(煬帝)による毒殺という説も根強い。
楊広(569~618)
  の二煬帝(Yangdi)。在位604~618。文帝(楊堅)の次男。父の即位とともに王となる。南朝を討滅する軍の行軍帥となり、の中国統一を達成した。文帝と独孤皇后に取り入って、兄の揚勇を廃嫡させることに成功して、皇太子となった。文帝が没すると、揚勇を殺して即位。東京洛陽城の造営や大運河の建設などの大工事をおこなって国力を疲弊させた。北は突厥、西は吐谷渾を服属させ、南方の諸国に朝貢させた。東方は日本・羅なども国書を送ってきたが、高句麗が服属しなかったので、高句麗に三回にわたって遠征軍を送りながら失敗し、その間に民衆叛乱が続発した。晩年、各地の叛乱をよそに、風光媚な江都の離宮に移って奢侈と酒色にふけった。公李淵が挙兵して長安に入り、楊侑(恭帝)を立てたが、北帰の意志をみせず、軍士の不満がつのり、宇文化及らに殺害された。
楊侑(605~619)
  の三恭帝(Gongdi)。在位617~618。徳太子楊昭の子。煬帝(楊広)の孫にあたる。大業三年(607)、王に立てられた。のち王に改封された。長安に鎮した。十三年(617)、李淵が長安に入ると、帝として擁立され、義寧と改した。翌年、李淵に帝位を譲り、酅国公に封ぜられた。
楊侗(?~619)
  字は仁謹。の皇泰主。恭帝。在位618~619。煬帝(楊広)の孫にあたる。大業二年(606)、越王に封ぜられた。煬帝が巡幸すると、つねに東都(洛陽)の留守をつとめた。楊玄感が東都を攻めると、兵部尚書樊子蓋とともにこれをはばんだ。十三年(617)、煬帝が江都にうつると、段達ら七貴とともに洛陽の行政を統括した。翌年、煬帝が殺されると、文都・王世充らに擁立されて帝を称し、皇泰と改した。李密に遣使して招撫し、宇文化及を討たせた。の武徳二年(619)、王世充が鄭帝を称すると、廃されて含涼殿に幽閉された。まもなく縊殺された。

歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[(618~907)] TANG
李淵(566~635)
  字は叔徳。の初高祖(Gaozu)。神堯大聖大光孝皇帝。在位618~626。隴西郡成紀の人。李昞の子。母は独孤氏。煬帝の従兄にあたる。父の国公の位を襲爵した。大業年間に岐州刺史・殿内少監・尉少卿などを歴任した。煬帝の高句麗遠征において糧食の運搬にあたり、楊玄感の乱のときは弘化留守をつとめて、玄感の攻勢を防いだ。大業十一年(615)、山西河東慰撫大使となり、龍門の母端兒を討ち、また突厥の侵入を撃退した。十三年(617)、太原留守に任ぜられ、太原に鎮した。このとき、末の混乱に乗じて挙兵した。長安を陥落させて、王楊侑をの恭帝として擁立した。義寧二年(618)に煬帝が殺害されると、恭帝から禅譲を受けて即位した。武徳と建し、国号をとする。王世充・竇建徳らと争ったが、李世民らの活躍でこれを破り、武徳七年(624)に中国を統一した。在位中、律令格を公布し、均田・租庸調制を定めた。軍府を置き、州県制を復活させた。長男の李建成を皇太子として立てていたが、李世民が李建成と四男李吉の兄弟を殺害する「玄武門の変」が起こり、李淵も幽閉されて、李世民に譲位して太上皇となった。
李世民(598~649)
  の二太宗(Taizong)。文武大聖大広孝皇帝。在位626~649。高祖(李淵)の次男。末の混乱期、太原留守の父を挙兵させ、一軍を率いて四ヶ月で長安を陥落させた。このとき弱冠二十歳であった。李淵が即位すると、王に封じられ、尚書令となる。初の群雄割拠の中で、強大化した王世充・竇建徳の連合軍を虎牢に破り、抜群の功績を挙げた。「天策上将」などの官位を加号された。皇太子・李建成や王・李吉と朝の後継者を巡って争い、武徳九年(626)長安の玄武門において建成・吉の兄弟を殺害した(玄武門の変)。父・李淵を幽閉して即位すると、貞観と年号を改めた。房玄齢・杜如晦をはじめとして広く人材を集めて、適材適所に配置し、三省六部の官制を整えた。その治世は、後世に「貞観の治」と称揚されている。国が安定すると、西域を経略、突厥が降伏・来朝したが、高句麗遠征は人民を疲弊させた。後継者選定に悩み、外戚・長孫無忌の推す暗弱な李治(高宗)を皇太子にしたことは、後に禍根を残すこととなった。
李治(628~683)
  字は為善。の三高宗(Gaozong)。天皇大聖大弘孝皇帝。在位649~683。太宗(李世民)の九男。母は長孫皇后。貞観五年(631)、王に封ぜられた。十七年(643)、太子となる。二十三年(649)、太宗が崩ずると、帝位についた。永徽二年(651)、律(永徽律)を公布した。四年(653)、『律疏』を修訂した。永徽の政は、太平がつづき、貞観の遺風があった。六年(655)、王皇后を廃して、武皇后(武照)を立て、褚遂良ら老を左遷した。顕慶五年(660)ごろから朝政のいっさいは武后が決裁するようになった。在位中、西突厥を平定し、高句麗を破り、安西四鎮を廃止した。三たび太子を変え、武后が執政するようになると、年号を十四たび変えた。泰山で封禅をおこない、各地を巡幸した。晩年、頭痛に苦しみ、眼を失して崩じた。
李顕(656~710)
  またの名を哲。の四中宗(Zhongzong)。大和大聖大昭孝皇帝。在位683~684、705~710。高宗(李治)の七男。永隆年(680)、章懐太子李賢が廃されると、わって太子に立てられた。弘道年(683)、高宗が崩ずると、帝位についた。翌年二月、韋玄貞を侍中にしようとして、武后の怒りを買い、廃されて廬陵王となり、房州にうつされた。聖暦年(698)、再び太子となった。武則天の病が重くなると、宰相の張柬之に擁立されて復位し、国号をに戻した。国政は皇后韋氏・安楽公主・武三思らに専断され、功臣の多くは粛され、官爵は濫発された。のちに韋后に毒殺された。
李旦(662~716)
  もとの名は旭輪。五代睿宗(Ruizong)。玄真大聖大興孝皇帝。在位684~690、710~712。高宗(李治)の八男。母は武則天。学問を好み、草書・隷書をよくし、文字訓詁をもっとも愛した。はじめ王に封ぜられた。のちに相王・豫王に移封された。嗣聖年(684)、武后によって中宗が廃されると、帝に立てられたが、政治に参与できなかった。天授年(690)、武后が立って国号を周と改めると、皇嗣に降ろされ、武姓を賜った。聖暦年(698)、廬陵王(李顕)が太子となると、再び相王に封ぜられた。神龍年(705)、中宗が復辟すると、司徒・右羽林大将軍となった。景玄年(710)、韋后が中宗を毒殺すると、息子の臨淄王李隆基が韋氏や武氏を誅したので、復位することができた。姚崇・璟を相とし、中宗朝の斜封官をやめさせたが、政令の多くは太子李隆基や太平公主から出された。やがて太平公主が朝政を専断し、政治が乱れてきた。先天年(712)、位を李隆基(玄宗)に伝え、自らは太上皇となった。翌年、玄宗が太平公主の党を誅殺すると、大権を帝に帰した。
武照(623~705)
  の高宗の武皇后(武周皇后)。則天武后。周の武則天(Wu Zetian)。在位690~705。并州文水の人。武士彠の次女。母は楊氏。十四歳で太宗(李世民)の後宮に入って、才人となった。太宗の死後に出家し、いったん尼となる。高宗の即位後、還俗して後宮に入り、昭儀となった。王皇后に自分の娘を殺害した冤を着せて失脚させ、取ってわって皇后となった。朝政に加わり、長孫無忌ら反対派を粛し、一族を登用して実権を握った。高宗の死後、中宗(李顕)・睿宗(李旦)を相次いで立てたが、廃し、嗣聖七年(690)にはみずから聖神皇帝となった。国号は周。中国唯一の女帝となる。武力反抗を平定して、周制を復興。密告を奨励して、酷吏・寵臣を専横させたが、彼女の時に登用された人材が玄宗の「開の治」で活躍したことは評価されている。長安四年(705)、宰相の張柬之らが彼女に退位を迫り、中宗が復位してが復活した。同年、上陽宮で没した。
李隆基(685~762)
  の六玄宗(Xuanzong)。至道大聖大孝皇帝。皇。在位712~756。睿宗(李旦)の三男。二歳のとき王に、八歳で臨淄王に封じられた。中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺して帝位につこうとしたとき、挙兵して韋一族を誅殺し、父の睿宗を帝位につけた。先天年(712)、父から譲位されて帝位についた。翌年、太平公主らを打倒して、全権を握り、開と改した。姚崇・璟らを登用して、官制を改革、外征を抑制して農民の生活を安定させ、戸口も増加し産業も発展して「開の治」を現出させた。晩年は、宰相の張九齢を左遷して李林甫を登用し、楊貴妃と歓楽にふけって、政務を怠ったため、朝政は乱れた。李林甫が没すると、楊国忠と安禄山が争い、天宝十四載(755)には安禄山の乱をまねくこととなった。安禄山の軍が長安に迫ると、に避難したが、その途中で帝位を皇太子(粛宗)に譲り、上皇となった。反乱が鎮圧されて長安に帰還した後、粛宗と不和となり、宮城内に幽閉されて、不遇な晩年を送った。
李亨(711~762)
  の七粛宗(Suzong)。文武徳大聖大宣孝皇帝。在位756~762。玄宗(李隆基)の三男。開二十六年(738)、太子に立てられた。天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、翌年玄宗に従って西行し、途中で別れて北上し、霊武で即位した。郭子儀・李光弼らを任用し、回紇に兵を借りて叛乱の鎮圧をはかった。至徳二載(757)、広平王李俶・郭子儀らが長安・洛陽を収復した。乾二年(759)、宦官の魚朝恩を観軍容使とし、郭子儀ら九節度を統括して、安慶緒を討たせたが、史思の軍に大敗した。また宦官の李輔国に禁兵をつかさどらせ、国政を専決させたため、百官でかれの意に逆らう者は失脚した。功臣を猜疑し、張皇后と李輔国が政治を専断し、子の建寧王李倓は冤罪で死んだ。張皇后が李輔国の排斥をはかり、かえって李輔国が張皇后を捕らえると、驚愕のあまり粛宗は病を悪化させて崩じた。
李豫(727~779)
  もとの名は俶。の八宗(Daizong)。睿文孝武皇帝。在位762~779。粛宗(李亨)の長男。広平王に封ぜられた。粛宗のとき、天下兵馬帥に任ぜられ、郭子儀らとともに長安・洛陽の収復にあたった。即位後、再び回紇兵の助けを借りて史朝義を討ち、安史の乱を平定した。叛軍の降将を河北諸鎮の節度使に任じた。前後して李輔国・程振・魚朝恩といった専権をふるった宦官を除去した。広徳初年、吐蕃が来寇し、長安を失陥して、陝州に逃れた。のち郭子儀を起用して長安を回復した。劉晏を任用して、塩の専売を確立し、財政の立て直しをはかった。仏教に傾倒し、諸僧に護国仁王経を誦させたほか、閣寺を建立して巨費を費やした。節度使の力を抑えることができず、藩鎮割拠の形勢がつくられた。
李适(742~805)
  の九徳宗(Dezong)。神武聖文皇帝。在位779~805。宗(李豫)の長男。宗の初年、天下兵馬帥となり、史朝義を討ち、河北を平定した。即位当初、旧弊を改めんと志し、四方からの貢献を停止させ、宮女を削減した。租庸調制を廃止し、両税法を施行した。自ら恃むところの強い帝は、盧杞・趙瓚を任用し、劉晏を冤罪で殺してしまった。建中四年(783)には京師で兵変が起こって奉天に避難し、翌年には李懐光に叛かれた。のち李晟らの力戦により長安を収復した。帝は功臣を猜疑し、藩鎮の抑制をはかり、宦官に禁軍を統べさせた。陸贄・陽城・韓愈らを排斥し、裴延齢を重用して政治の腐敗は進んだ。
李誦(761~806)
  の十順宗(Shunzong)。至徳弘道大聖大安孝皇帝。在位805。徳宗(李适)の長男。大暦十四年(779)、宣王に封ぜられた。同年末、太子となった。貞二十一年(805)、徳宗が崩ずると即位した。王伾・王叔文らが輔政にあたった。病のため言語が通じず、宮中にいて王伾が消息を伝えた。在位八カ月にして宦官倶文珍らに退位を迫られた。位を太子の李純(憲宗)に伝え、太上皇となった。翌年、病死した。
李純(778~820)
  もとの名は淳。の十一憲宗(Xianzong)。昭文章武大聖至神孝皇帝。在位805~820。順宗(李誦)の長男。貞二十一年(805)四月、太子に立てられた。同年八月、宦官倶文珍らに擁立された。順宗のの政令をことごとく改廃し、王叔文を左遷し、柳宗ら八人を遠方の司馬とした。杜黄裳・皇甫鎛・李吉甫らが執政にあたり、律令を修訂し、科挙を整え、官吏を減員した。藩鎮勢力の削減に着手し、和十四年(819)までに淄青十二州を収復して、宗以来の藩鎮跋扈の風がしばしおさまり、和中興と称される。晩年、長生を求めて丹を服用したため、怒りっぽくなり、宦官をしばしば罪に落として殺した。やがて宦官弘志により殺された。
李恒(794~824)
  もとの名は宥。の十二穆宗(Muzong)。睿聖文恵孝皇帝。在位820~824。憲宗(李純)の三男。建安郡王に封ぜられ、のち遂王に進んだ。和七年(812)、太子に立てられた。憲宗が殺されると、王守澄らに擁立された。即位後、宴遊にふけり、国事に意をもちいなかった。佞臣に親しみ、忠臣をしりぞけ、法制は乱れた。両税と専売によって百姓の負担は増大した。朝廷内の朋党の争いは日増しに激しくなり、外では幽州・相州・鎮州で兵変が起こった。朱克融・王庭湊が定州・蔚州・貝州などを乱した。藩鎮の割拠が進み、財政は悪化した。長慶年(821)、吐蕃と和議を結び、長慶会盟碑を立てて記念し、辺境が静まったことのみは評価されている。宦官の王守澄と宰相の李逢吉が結んで、国事を専制し、政治の腐敗は進んだ。帝は丹を服用して死にいたったという。
李湛(809~826)
  の十三敬宗(Jingzong)。在位824~826。睿武昭愍孝皇帝。穆宗(李恒)の長男。はじめ景王に封ぜられた。長慶二年(822)、太子に立てられた。穆宗が崩ずると即位した。遊宴・打毬・奏楽・角抵を好んで、芸人を近づけ大臣を遠ざけた。側近の小罪をとがめては責め打っていたので、恨みを買い、宦官の劉克に殺された。
李昂(808~840)
  もとの名は涵。の十四文宗(Wenzong)。聖昭献孝皇帝。在位826~840。穆宗(李恒)の次男。江王に封じられたが、兄の敬宗(李湛)が宦官の劉克に殺されたため、王守澄・守謙らに擁立された。劉克を殺して帝位についた。『貞観政要』を好み、政道に励んだが、官僚の間の「牛李の党争」に翻弄され、宦官の台頭に悩まされた。大和九年(835)、李訓・鄭注らが宦官誅殺をはかったが失敗し、宦官の仇士良らは宰相の王涯を誅したのをはじめ、李訓ら十余家を族誅した(甘露の変)。以後、宦官勢力に掣肘され、「周の赧王、の献帝は強臣に制せられたが、朕は家奴に制せらる」と嘆いたという。開成初年、『石壁九経』を建て、儒家諸経典の誤謬を正した。
李炎(814~846)
  の十五代武宗(Wuzong)。至道昭粛孝皇帝。在位840~846。穆宗(李恒)の五男。はじめ穎王に封ぜられた。兄の文宗(李昂)が崩ずると、宦官の仇士良・魚弘志らが太子の李成美を廃して、かれを擁立した。宰相の李徳裕を信任して、李党によって政権は牛耳られた。会昌三年(843)、劉沔を派遣して回鶻の烏介可汗を破り、大和公主を迎え帰国させた。五年(845)、仏像の廃棄や僧尼の還俗を命じ、寺院の土地や奴婢を没収した(会昌の仏教弾圧)。方術神仙を尊び、道士趙帰真ら八十一人を禁中に召し、法籙を受けた。丹を服用し、中毒死したという。
李忱(820~859)
  もとの名は怡。の十六宣宗(Xuanzong)。聖至成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝。在位846~859。憲宗(李純)の十三男。はじめ光王に封ぜられた。武宗の病が重くなると、宦官の馬贄らにより皇太叔に立てられた。即位後、李徳裕の党を排斥し、牛僧孺の党を任用した。廃仏をやめ、趙帰真らを殺し、州県の官を増置して、前の政風から一変させた。裴休を任用して、運河の水運を改善したほか、内政につとめた。「大中刑法統類」を撰した。吐蕃が内紛で弱体化し、張議潮が河湟十一州の地をもって帰順してきた。晩年、神仙に凝って服薬し、それがもとで崩じた。小太宗と称される治績を挙げたが、の衰勢を止めることはできなかった。
李漼(833~873)
  もとの名は温。の十七懿宗(Yizong)。昭聖恭恵孝皇帝。在位860~873。宣宗(李忱)の長男。はじめ鄆王に封ぜられた。宣宗の病が重くなると、左神策軍中尉の王宗実らが詔と偽って太子に立てた。宣宗が崩ずると即位した。在位中、政務を怠り、遊宴に節度がなかった。仏教を篤く信じ、仏骨を鳳翔に迎えた。咸通年(860)、裘甫の乱が浙東で起こった。九年(868)、龐勛が桂林で起兵した。藩鎮がしばしば兵乱を起こし、南詔がたびたび辺境を騒がせた。政治は混乱し、民衆の負担は増大した。帝の死後、王仙芝・黄巣の乱として不満が爆発することとなる。
李儇(862~888)
  もとの名は儼。の十八僖宗(Xizong)。恵聖恭定孝皇帝。在位873~888。懿宗(李漼)の五男。王に封ぜられた。懿宗が崩ずると、宦官の劉行深らに擁立されて帝となった。即位すると、宦官の田令孜を重用し、阿父と呼び、政治の一切を委ねた。ときに南詔との戦いは日ごとに激しさを増し、軍費は増大し、財政は悪化していた。加えて連年、水害・旱害・蝗害が起こり、賦税の負担は重く、人民は苛斂誅求に苦しんだ。乾符初年、王仙芝・黄巣の乱が山東で勃発し、瞬く間に広がりをみせた。広年(880)、黄巣が洛陽・長安を攻め落としたため、帝は田令孜とともにに逃亡した。中和五年(885)、長安に帰還した。田令孜と王重栄が塩の利権をめぐって争い、河東節度使の李克用らが長安に迫ったため、再び都落ちした。ときに江淮の地方の賦税は関中に届かず、各地の諸藩は気ままに攻伐を繰り返した。室は名のみ存して、実質の力を持たなかった。
李曄(867~904)
  もとの名は傑。のちに敏と改名した。の十九昭宗(Zhaozong)。聖穆景文孝皇帝。在位888~904。懿宗(李漼)の七男。はじめ寿王に封ぜられた。兄の僖宗が崩ずると、宦官の楊復恭らによって帝に擁立された。宰相の崔胤が藩鎮の兵を借りて宦官を誅殺しようと謀り、ひそかに汴州の朱全忠を呼び寄せた。帝は神策軍中尉の韓全晦によって鳳翔に連れ去られ、李茂貞のもとに拠った。朱全忠は鳳翔を囲み、李茂貞が降って、帝も長安に帰還した。朱全忠が宦官を殺しつくし、朝政を専決した。朱全忠が崔胤を殺し、洛陽遷都を決行すると、帝は各藩鎮に朱全忠討伐の密勅を送った。まもなく帝は殺された。
李祝(892~908)
  もとの名は祚。の二十哀帝(Aidi)。昭宣光烈孝皇帝。在位904~907。昭宗(李曄)の九男。乾寧四年(897)、輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を殺すと、詔と偽って太子に立てられ、にわかに即位した。朱全忠が朝政を専断しており、完全な傀儡であった。天祐四年(907)、朱全忠に帝位を譲り、曹州にうつされて、済陰王に封ぜられた。翌年、朱全忠に殺された。ここには滅んだ。後唐宗により昭宣帝と追諡された。
歴代皇帝(五代)