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嘉靖万暦期

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)
王守仁(1472~1528)
  字は伯安、号は陽。浙江省余姚の人。若い頃は無頼であった。長ずると学問を修め、弘治十二年(1499)に進士に及第した。正徳年(1506)、権臣を弾劾して投獄され、杖刑を受けて貴州省竜場の駅丞に左遷された。のちに許されて諸官を歴任した。官吏としては大家牌法や郷約を実施した。十四年(1519)、寧王・朱宸濠の乱をわずか十四日で鎮定した。南京兵部尚書・建伯に上り、会稽において講学した。のちに都察院左都御史を兼ね、広西の思恩・田州の叛乱を鎮め、八塞・断藤峡を討った。その帰途に江西省南安で没した。知行合一・致良知の哲学を説いて、陽学の祖とされる。陸九淵の哲学を継いで朱子学に反対した。『伝習録』。
余祐(1465~1528)
  字は子積、号は訒斎。江西省波陽の人。弘治十二年(1499)、進士に及第した。南京刑部主事となる。劉瑾に逆らって、官を辞した。劉瑾が誅殺されると、福州知事となり、雲南府布政使に上った。胡居仁に師事し、心性の学を重視した。『性書』。
李夢陽(1475~1529)
  字は獻吉、号は空同。慶陽の人。弘治六年(1493)、進士に及第した。戸部主事を経て、江西提学副使にまで上った。性剛直で免官や下獄を繰り返した。
王寵(1494~1533)
  字は履仁、または履吉、号は雅宣。江蘇省蘇州の人。若くして蔡羽に学び、のちに石湖で読書して暮らした。しばしば科挙を受験して及第せず、諸生より国子監に入った。晩年は常熟虞山白雀寺に住んだ。詩作と画を好み、書は行書・草書を得意とした。『王履吉詩集』。
王艮(1483~1540)
  字は汝止、号は心斎。江蘇省泰州の人。製塩人夫の子として生まれたが、学問を志し、王守仁(陽)に師事した。朱子学を批判して、王幾らと唯心論哲学を樹立。終生官途に就かず、陽学左派に属し、泰州学派を形成した。『王心斎先生集』。
康海(1475~1540)
  字は徳涵、号は対山。陝西省武功の人。弘治十五年(1502)、進士に及第した。正徳初年、李夢陽を獄中から救うために、劉瑾に面会して説き、李夢陽を釈放させた。劉瑾が処刑されると、劉瑾の党与とみなされて罷免された。以後、郷里に隠居して著述に専念した。詩文にたくみで、弾弦唱歌を好んだ。雑劇に『中山狼』や『王蘭卿貞烈伝』があり、詩文に『康対山集』や『武功志』などがあった。
王廷相(1474~1544)
  字は子衡、号は浚川。河南省儀封の人。弘治十五年(1502)、進士に及第した。宦官と対立して幾度も左遷されたが、のちに兵部尚書・左都御史に上った。とくに官界・軍の不正の摘発・綱紀の粛正に力を尽くした。詩文に優れ、古文辞派前七子(弘治の七子)のひとりに数えられた。また朱子学および陽学を批判し、張載・程顥の説をうけて気一論を説いた。『王氏家蔵集』。
淳(1483~1544)
  字は道復、号は白陽山人。江蘇省長洲の人。絵画を好み、文徴を宗とした。山水画を学び、花草を最も得意とした。また楷書・草書をよくした。のちに五経の鏤版を書して、名声が高まった。徐謂(号は青藤)と並んで、青藤・白陽と称された。晩年は東南を遊歴して、山水に情を寄せて暮らした。『白陽集』。
羅欽順(1465~1547)
  字は允升、号は整庵。江西省泰和の人。弘治年間に進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。南京国子監司業などをつとめた。正徳年間に劉瑾の怒りを買って職を奪われ、庶民に落とされた。劉瑾の死後、吏部右侍郎に累進した。官は礼部尚書にまでいたった。朱子学を学び、王陽と論争した。とくに陽『朱子晩年定論』に対する批判は鋭い。『整庵存稿』。
謝時臣(1488~1548)
  号は樗仙。江蘇省県の人。山水画にすぐれた。
王九思(1468~1551)
  字は敬夫、号は渼陂。陝西省鄠県の人。弘治年間に進士に及第した。庶吉士となる。翰林院検討・吏部郎中を歴任した。正徳五年(1510)、劉瑾が刑死すると、寿州同知に左遷された。翌年、致仕した。郷里に帰り、康海と交遊して雑劇制作を楽しみ、詩と酒に溺れて没した。歌をよくし、詞曲にたくみだった。「杜子美沽酒遊春」でときの宰相を風刺したという。十才子のひとり。雑劇に「中山狼」、「遊春記」。散曲に『碧山楽府』。詩文に『渼陂集』、『王氏族譜』、『鄠県志』。
フランシスコ・ザヴィエル(1506~1552)
  スペインの人。ナバラ州のザヴィエル城主の子。パリ大学に学び、イグナティウス・ロヨラの感化を受けて、ともにジェスイット会(イエズス会)を設立。1541年以降、東洋伝道をめざしてインドに渡り、ゴアを拠点として布教。マラッカやモルッカ諸島にもいたった。1549年には日本に渡り、鹿児島・平戸・山口・京都・豊後などで布教につとめた。1551年、に渡るべく渡航したが、広東上陸直前に上川島で病没した。
王直(?~1557)
  徽州歙の人。塩業に失敗した後に海上貿易に転じ、禁制品を扱って日本や東南アジアと交易した。とくに日の間の密貿易で莫大な利潤をあげた。嘉靖十九年(1540)ごろには、日本の五島を本拠として浄海王を称した。日本の鉄砲伝来時に、通訳として一役買ったともいう。の海禁政策による取締の強化から海賊行為に走り、平戸・五島を拠点として、いわゆる倭寇として中国沿岸に被害を与えた。征倭総督胡宗憲の謀略にかかって、帰国したところを捕らえられ、杭州で処刑された。
文徴(1470~1559)
  もとの名は璧。字は徴仲、号は衡山。江蘇省長洲の人。文林の子。沈石田に師事して、詩・書・画に通じた。科挙には及第しなかったが、嘉靖二年(1523)にとくに召されて翰林院待詔に上った。『武宗実録』の編纂に参与した。官にいること四年で辞して帰郷し、玉磐山房を築いて文墨三昧の生活を送った。蘇州文苑の長老として尊敬を集め、九十歳で没した。画は緻密で技巧に優れ、文人画の再興に寄与し、後世への影響も大きかった。「中の四才子」のひとりとされる。『甫田集』。
楊慎(1488~1559)
  字は用修、号は升庵。四川省都の人。正徳六年(1511)、進士に及第した。はじめ翰林院修撰に任ぜられた。楽府にたくみで、また雑劇・散曲を創作した。嘉靖帝のとき、経筵講官に任ぜられて帝に学問を講じた。しかし、講義の席で直諫したため、雲南に流された。『升庵集』、『陶情楽府』。
王慎中(1509~1559)
  字は道思、号は遵岩居士。福建省江の人。嘉靖五年(1526)、進士に及第した。礼部主事となった。『遵岩集』。
順之(1507~1560)
  字は応徳、号は荊川。武進の人。嘉靖年間に進士に及第した。右僉都御史に上った。『荊川集』。
厳嵩(1480~1567)
  字は惟中、号は介渓。江西省分宜の人。弘治十八年(1505)、進士に及第した。礼部右侍郎・吏部左侍郎・南京礼部尚書・吏部尚書・少傅・太子太師を歴任した。嘉靖年間に内閣大学士を二十年にわたってつとめ、その首席にあること七年であった。北虜南倭への対応に苦慮し、財政面の苦境を支えることができなかった。晩年は嘉靖帝との間が疎遠となり、子の世蕃が弾劾を受けて殺されると、かれも罷免された。『鈐山堂集』。。
王穀祥(1501~1568)
  字は禄之、号は西室。江蘇省長洲の人。嘉靖年間に進士に及第した。書画に秀でた。廉潔の士として声望があった。
李攀竜(1514~1570)
  字は于鱗、号は滄溟。歴城の人。若いころ、家が貧しく詩歌を好んだ。嘉靖二十三年(1544)、進士に及第した。陝西提学副使・河南按察使などを歴任した。「文は西、詩は盛以降は観るに足るものなし」と主張して詩の復古を唱えた。『詩選』の編者と見なされてきたが、疑わしい。『古今詩冊』、『李滄溟集』。
胡宗憲(?~?)
  字は汝貞、号は梅林。績渓の人。嘉靖十七年(1538)、進士に及第した。知県を経て浙江州巡按御史に上り、倭寇の鎮圧に尽力した。謀略をもって徐海・海・葉麻らの切り崩しをはかり、さらに倭寇の首領・王直を懐柔策で投降させたうえで処刑した。その功で兵部右侍郎・右都御史となった。三十九年(1560)、太子太保となった。
帰有光(1506~1571)
  字は煕甫、号は震川。江蘇省崑山の人。嘉靖四十四年(1565)、六十歳にしてようやく進士に及第した。隆慶四年(1570)、南京太僕寺丞となった。古文を尊び、文章はを、詩は盛を範とした。『三水利録』を著し、独自の水利論も発表した。『震川先生全集』。
馮惟訥(?~1572)
  字は汝言、号は沙洲。山東省臨昫の人。馮惟建の弟にあたる。嘉靖年間に進士に及第した。江西左布政使に上った。『風雅広逸』。
万暦帝(1563~1620)
朱翊鈞,神宗⇒。
文彭(1498~1573)
  字は寿承、号は三橋。江蘇省長洲の人。文徴の長男。南京国子監助教となり、国子監博士に上った。詩をよくし、書画篆刻にたくみだった。何震とともに文何とならび称された。『博士詩』。
文伯仁(1502~1575)
  字は徳承、号は五峰。江蘇省長洲の人。文徴の甥にあたる。山水画や人物画をよく描いた。
陸治(1496~1576)
  字は叔平、号は包山子。江蘇省県の人。陸銘の子。包山で育ち、のち蘇州に移住した。しばしば応試したが及第しなかった。古文辞を好み、才行高潔で知られた。弟妹を撫育し、寡婦の姉を助けて、晩年は貧窮した。支硎山に隠棲し、山水画を描き、菊を植えて楽しんだという。『陸包山遺稿』。
王問(1497~1576)
  字は子裕、号は仲山。江蘇省無錫の人。嘉靖年間に進士に及第した。広東按察使僉事に上った。画にすぐれた。病気を理由に官を辞して帰郷し、ふたたび仕えなかった。
兪大猷(1504~1580)
  字は志輔、号は虚江。福建省江の人。嘉靖十四年(1535)、武挙に及第し、千戸を授かり、守御門となった。二十八年(1549)、朱紈の推薦を受けて、備倭都指揮となった。海南島の黎民の反乱を討ち、参将に進んだ。三十一年(1552)、浙東にうつり、王江涇で倭寇を討ち、徐海・東らをたおして、都督僉事を加えられた。三十三年(1554)、副総兵に上った。四十年(1561)、広東の張璉の反乱を鎮圧した。四十二年(1563)、倭寇を福建興化で破った。翌年、広西総兵官となり、海豊で倭寇を破った。福建総兵官にうつった。万暦初年、職を奪われ、また再起して後軍都督僉事となったが、致仕して家で亡くなった。『正気堂集』。
陽(1497~1580)
  字は仁甫、号は中渓。雲南省大理の人。白族の出身。嘉靖年間に進士に及第した。翰林院庶吉士に選ばれたが、礼を議論して合わず、江陰知県に左遷された。水軍の操練に意をもちい、海盗の防備にあたった。監察御史に上り、直言をはばからなかった。父の喪にあって帰郷し、そのまま再び出仕しなかった。楊士雲とともに『大理府志』を撰したほか、『雲南通志』の編纂にあたった。『李中渓全集』。
林鳳(?~?)
  広東省潮州の人。嘉靖年間、澎湖を拠点に海師を率いて福建・広東沿岸を荒らした。万暦二年(1574)、軍に敗れて戦船六十二隻と二千人を率いてフィリピンにうつった。現地の華僑らと連合して、スペイン人勢力を攻撃し、二度にわたってマニラを包囲した。まもなくパンガシナンに退いた。翌年、包囲を突破していずこかへ去った。一説にシャムに逃れたという。
承恩(1500?~1582)
  字は汝忠、号は射陽山人。江蘇省淮安の人。科挙に挑戦したが、四十五歳で貢士となったのみで、郷試にも合格しなかった。六十歳ごろ長興県丞に任官したが、不遇で一年あまりで致仕した。『西遊記』、『射陽山人存稿』。
張居正(1525~1582)
  字は叔大、号は太岳。湖北省江陵の人。嘉靖二十六年(1547)、進士に及第した。はじめ翰林院庶吉子に任ぜられた。穆宗のとき、礼部右侍郎・吏部左侍郎・礼部尚書と累進した。隆慶二年(1568)には、「大本急務六事」を上奏して政治改革の実現を求めた。神宗が即位するころには、内閣をほぼ独裁していた。北方のモンゴルと和平を結んで軍費を削減し、冗官をはぶき、税制・一条鞭法を導入した。黄河の治水に尽力。戸口調査と検地を全国的に行って、地主の横暴を防ぎ、内政を革した。既得権を侵された人々の恨みを買い、死後すぐに文忠の諡や官位を剥奪され、家産は没収され、遺族は流刑となった。
文嘉(1501~1583)
  字は休承、号は文水。江蘇省長洲の人。文徴の次男。諸生から烏程の訓導となり、和州正学に挙げられた。詩書画をよくした。書は小楷にすぐれ、画は山水にすぐれた。『和州詩』。
王畿(1498~1583)
  字は汝中、号は龍渓。浙江省紹興の人。王陽に師事した。嘉靖十一年(1532)、進士に及第した。南京兵部主事・郎中などをつとめたが、陽学に加えられた禁圧のために辞職し、四十年にわたって江南の各地で講学した。『龍渓全集』。
銭穀(1508~1584)
  字は叔宝、号は罄室。江蘇省長洲の人。五代呉越王の裔だが、家は貧しかった。文徴の門に遊学し、学問画技を学んだ。詩文書法をよくし、画は山水蘭竹にすぐれた。
海瑞(1514~1587)
  字は汝賢、または国祥、号は剛峰。広東省瓊山の人。回族の出身。嘉靖年間に郷試に及第した。はじめ南平教諭となり、淳安知県に遷った。嘉靖四十五年(1566)、戸部主事のとき、嘉靖帝の道教への傾倒ぶりを上疏して諫めたため投獄された。張居正の死後、南京吏部右侍郎、南京右僉都御史に上った。『備忘集』、『祐党人碑考』。
戚継光(1528~1588)
  字は敬、号は南塘、または孟諸。山東省蓬莱の人。嘉靖年間に父の跡を継いで登州となる。当時、倭寇が浙江・福建の沿岸を荒らしていたので、その鎮圧を命じられた。浙江の勇士三千人を訓練して、倭寇を鎮定した。また、北辺の防備にまわってアルタン・ハーンやトモン・ハーンの軍を撃退し、左都督にまで上った。宰相の張居正の信任が厚かったが、居正が没すると弾劾されて失脚した。『紀効書』、『練兵実紀』。
善(1554~1589)
  字は子長、号は虎丘。江蘇省長洲の人。文嘉の子。書画をよくし、山水木石を描いた。
王世貞(1526~1590)
  字は美、号は弇州山人。江蘇省太倉の人。嘉靖二十六年(1547)、進士に及第した。刑部主事に任ぜられ、員外郎・郎中に進んだが、父が厳嵩の誣告のために獄死すると官を去った。のち再び任官して南京兵部右侍郎・南京刑部尚書などを歴任した。詩をよくし古文を好んで、復古派の重鎮とされ、李攀竜とともに当時の詩壇に君臨した。『嘉靖以来首輔伝』ほか。『瓶梅』はかれの作ともいう。
汴(1525~1590)
  字は子京、号は墨林。浙江省嘉興の人。国子監生となった。書画を自らたしなみ、また蒐集を好んで天籟閣を建てた。収蔵した書画をもとに『天籟閣帖』が刊行された。晩年は仏教に傾倒した。『墨林山堂詩集』。
徐渭(1521~1593)
  字は文長、号は青藤。浙江省山陰の人。諸生となったが、科挙に及第しなかった。嘉靖三十六年(1557)、浙総督胡宗憲に招かれ、その幕府書記をつとめた。徐海・王直の乱を平定するのに策を献じた。胡宗憲が獄に下ると、禍をおそれて佯狂して富陽に逃れた。隆慶年(1567)、妻を殺した罪で処刑されるところ、同郷の翰林の尽力で一命を救われた。万暦二年(1574)、釈放された。晩年は宣化・東・南京・北京などを遊歴した。詩文・書画をよくし、雑劇をものした。とくに草書は書法第一を自称するほどすぐれ、また水墨も一品であった。『南詞叙録』。
李時珍(1518~1593)
  字は東璧、号は瀕湖。湖北省蘄州の人。李言聞の次男。々儒医の家柄に生まれた。幼いころから医学書を読むのを好み、薬物学に通じた。郷試にたびたび落第したため、家業を継いで医者となった。三十八歳のとき、王に召されて武昌に赴いた。四十一歳のとき、王の推薦を受けて上京して太医院につとめた。万暦六年(1578)、薬学の知識を集大成して『本草綱目』を完成させた。
周天球(1514~1595)
  字は公瑕、号は幼海。江蘇省太倉の人。父に従って県に移り住んだ。府学の諸生となり、しばしば科挙に挑戦したが、及第しなかった。文徴と交友し、書にすぐれ、大小篆・古隷・行・楷をよくした。
林兆恩(1517~1598)
  字は懋勛、号は竜江。福建省甫田の人。嘉靖年間、しばしば科挙に挑戦したが、及第しなかった。嘉靖三十年(1551)、陽学にもとづいて儒・仏・道の三教融合を説き、三一教を創始した。彼の精神修養法である艮背法は異端とされた。『聖学統宗』、『林子三教正宗統論』、『林子全集』。
李如松(?~1598)
  字は子茂。諡は忠烈。寧省鉄嶺の人。李成の長男。万暦二十年(1592)、提督陝西討逆軍務総兵官となり、寧のボバイ(哱拜)の乱を鎮圧した。同年の日本の朝鮮侵攻に対し、軍務提督に任ぜられて、朝鮮への援軍を率いて遠征した。翌年、平壌に拠る小西行長軍を攻撃して同地を奪回した。後に朝鮮の首都の城府の回復を目指して、披州から碧蹄に入るが、小早川隆景軍の逆襲に遭って敗退した。平壌に引き揚げ、和議による事態収拾を図って帰国した。二十五年(1597)、東総兵官に上った。翌年、蒙古挿部における作戦中、伏兵に遭って戦死した。
董一(?~?)
  直隷省宣府の人。武官の家に生まれ、嘉靖年間には薊鎮游撃将軍をつとめた。のちに石門寨参将に転じた。隆慶初年、副総兵として古北口に鎮した。万暦十一年、都督僉事・昌平総兵官となった。以後、宣府・薊州・西寧・西川などの各地で軍務にあたった。二十五年(1597)、日本の朝鮮再侵攻に際して、参賛軍事に任ぜられて、朝鮮への援軍となった。まもなく禦倭総兵官に上った。翌年、中路将として慶尚道泗川に向かい、島津義弘の軍に攻撃をかけたが、撃退された。
楊応龍(1551?~1600)
  四川省播州の人。楊烈の子。隆慶五年(1571)、父の跡を継いで播州宣慰使となった。万暦十四年(1586)、都指揮使に進んだ。のちに驃騎将軍を加えられた。二十年(1592)、日本の朝鮮出兵の虚をついて叛乱を起こした。二十八年(1600)、敗戦がらかとなると、ふたりの妻とともに自殺した。
茅坤(1512~1601)
  字は順甫、号は鹿門。帰安の人。嘉靖十七年(1538)、進士に及第した。広西兵備僉事などを歴任した。『八大家文鈔』を編纂した。『白華楼蔵稿』。
胡応麟(1551~1602)
  字は瑞、号は石羊生。浙江省蘭渓の人。万暦四年(1576)、郷試に及第した。官は員外郎に終わった。のち、山中にこもって著述に専念した。『少室山房筆叢正集』、『少室山房類稿』。
李贄(1527~1602)
  号は卓吾。福建省江の人。貿易商の子として生まれ、儒学と老荘を学んだ。二十六歳のとき、郷試に及第した。国士官教官・礼部司務・南京刑部員外郎・雲南姚安府知府などを歴任した。五十の半ばに官を辞し、黄安・麻城に寓居して典籍を耽読した。王陽の良知説を発展させ、童心説を唱えた。西湘記や水滸伝などの俗文学を絶賛し、孔孟などの儒教思想を攻撃した。その思想は同時の儒者や官憲の忌むところとなり、張問達に弾劾されて投獄され、獄中で自殺した。『焚書』、『蔵書』、『初潭集』。
旭(1525~1605)
  字は初哂、号は石門山人。法名は祖玄。浙江省嘉興の人。広く経典を学び、禅に通じた。山水画・人物画をよくした。「万山秋色図」、「羅図」、「平沙落雁図」。
屠隆(1542~1605)
  字は長卿、号は赤水。万暦五年(1577)、進士に及第した。潁上の知県となった。礼部主事に遷った。晩年は官を辞め、売文によって暮らした。『白楡集』。
馮応京(1555~1606)
  字は可大、号は慕岡。万暦年間に進士に及第した。戸部主事をつとめ、湖広僉事に抜擢された。廉潔をもって知られた。税監・奉の九大罪を暴いたが、かえって誣告され、投獄された。『六家詩名物疏』、『経世実用編』。
顧允成(1554~1607)
  字は季時、号は涇凡。江蘇省無錫の人。顧憲成の弟にあたる。万暦十四年(1586)、進士に及第した。のちに南京教授をつとめ、礼部主事に累進した。のちに大臣の張位に逆らったため、光州判官に左遷された。『小辨斎偶存』。
安疆臣(?~1608)
  貴州水西の人。彝族の出身。安国亨の子。万暦二十六年(1598)、父の跡を継いで貴州宣慰使となった。播州の楊応龍の乱が起こると、恩の麾下に加わって乱の鎮圧にあたった。乱の平定後、布政司・左参議を加えられ、懐遠将軍に任ぜられ、定遠侯に封ぜられた。水西土司の勢力はかれのにもっとも盛んとなった。
マテオ・リッチ(1552~1610)
  名は利瑪竇。イタリアのマチェラータの人。1568年にローマにうつり、1571年にジェスイット会(イエズス会)に入会した。ローマ学院に学んだ。宣教師となり、1578年にインドのゴアに赴いた。中国への布教を志して、万暦十年(1582)にはマカオに到着。翌年に広東省肇慶府に入った。韶州・南京・南昌などを転々として布教につとめた。二十九年(1601)には「貢献土物表」を万暦帝に捧げて、北京在住が許可された。翌年、城内に会堂の建設を許された。『天主実義』、『幾何原本』を著した。また「坤輿万国全図」は当時としては精巧な世界地図として名高い。
袁宏道(1568~1610)
  字は中郎、号は石公。公安の人。万暦二十年(1592)、進士に及第した。県の知県として名声があり、礼部主事などを歴任した。詩にすぐれ、李攀竜らの擬古文に反対して、詩を作るには格式に捕らわれず自己の霊性を発揮すべしと主張した。『袁中郎全集』。
孫克宏(1533~1611)
  字は允執、号は雪居。江蘇省常熟の人。蔭官によって、応天治中に任ぜられ、知陽府に上った。水墨画や篆刻にすぐれた。
王穉登(1535~1612)
  字は百谷、号は広長庵主。江蘇省長洲の人。四歳にして対句を作り、十歳にして詩を作ったという。若くして文徴の門に遊んで詩文・書にすぐれた。『郡丹青志』。
顧憲成(1550~1612)
  字は叔時、号は涇陽。江蘇省無錫の人。万暦八年(1580)、進士に及第した。吏部文選郎中に上ったが、万暦帝の皇太子冊立問題で内閣派と対立して免職された。故郷に帰って東林書院を起こし、在野の同志とともに講学に専念した。その活動はしばしば政治論議を引き起こした。かれの死後の天啓帝のときに東林党は政権を握ったが、偏狭な理想主義に走って閹党との不毛な党争を繰り広げた。『小心斎剳記』、『涇コウ蔵稿』。
邢侗(1551~1612)
  字は子愿、号は方山道民。山東省臨の人。万暦年間に進士に及第した。南宮知県・山西道監察御史・陝西行太僕少卿・寧河東兵糧道按察司僉事を歴任した。万暦十五年(1587)、病と称して郷里に帰り、来禽館を古黎丘に築いて隠居し、著述に専念した。行書・楷書にたくみで、蘭竹の画を描くのを得意とした。『来禽館帖』を刻して世間に広まった。『武定州志』、『来禽館集』。
李成(1526~1615)
  字は汝契。寧省鉄嶺の人。々鉄嶺指揮僉事をつとめた家柄だったが、没落して官職を継ぐことができず、四十歳にしてようやく諸生となった。のちに功績を重ねて東険山参将となった。隆慶年(1567)、副総兵に進んだ。四年(1570)、都督僉事・東総兵に上った。東に鎮すること二十二年、前後十回の大勝をおさめ、寧遠伯に封ぜられた。万暦十九年(1591)に解職されたため、十年間にわたって東北辺境の防備はゆるんだといわれる。二十九年(1601)、復職して再び東に鎮した。のちに太傅を加えられた。
梅鼎祚(1549~1615)
  字は禹、号は勝楽道人。安徽省宣城の人。若くして父に従って南北二京で遊び、名だたる公卿と交友した。しばしば科挙に挑戦したが、落第を続けた。申時行が官に推挙しようとしたが、受けなかった。万暦十九年(1591)、南に帰り、科挙をあきらめた。家に天逸閣があって蔵書に富み、読書を好み、終生著述にけ暮れた。『玉合記』、『長命縷』、『崑崙奴』といった伝奇を著し、また詩文に『鹿裘室全集』があった。
湯顕祖(1550~1617)
  字は義仍、号は若士。江西省臨川の人。若い頃から文名が高かった。二十一歳のとき、郷試に及第した。しかし、張居正と不和になったため、会試に及第できず、迫害された。三十四歳になってようやく進士に及第し、南京太常寺博士・礼部主事などを歴任。しかし、朝政を批判したことが罪に問われて、広東省徐聞に流された。のちに赦されて、浙江省遂昌の知県となった。善政を讃えられたが、五年で弾劾を受けて官を去り、故郷に帰って戯曲の創作に専念した。愛する子供たちに先立たれ、晩年は不遇だった。『邯鄲記』、『牡丹亭還魂記』。
呂坤(1536~1618)
  字は叔簡、号は吾、心吾。寧陵の人。万暦二年(1574)、進士に及第した。山西巡撫を経て、刑部侍郎となった。宇宙の本源を気とみなし、天地万物は気の集散あるのみと説いた。朱熹の理気を二物説として排斥した。『去偽斎文集』、『呻吟語』。
杜松(?~1619)
  字は来。陝西省延安の人。はじめ舎人として従軍し、功により寧守備に累進した。のちに東路副総兵に進んだ。まもなく孤山副総兵となり、都督僉事に抜擢された。万暦三十六年(1608)、東に駐屯した。総兵官に上り、山海関にうつった。四十七年(1619)、東経略楊鎬に従い、四路に別れて後金を攻めたが、薩爾滸で後金軍に敗れて戦死した。
劉綎(?~1619)
  字は省吾、号は草堂。江西省南昌の人。の万暦十一年(1583)、游撃将軍に任ぜられ、雲南におもむき、騰沖を守備した。翌年、岳鳳らを捕らえ、副総兵となった。大将行署を蛮莫に建て、孟養・木邦・猛密・隴川などの諸土司と血をすすって誓い、「威遠営誓衆碑」を立てた。十三年(1585)、蛮莫安撫司を立てた。翌年、羅雄の土官者氏を破り、広西参将にうつった。まもなく四川にうつった。二十年(1592)、日本の朝鮮侵攻にあたって、朝鮮への援軍におもむき、四川総兵官をつとめた。二十五年(1597)、再び朝鮮におもむき、都督同知をつとめた。四十六年(1618)、左府僉書左都督として、雲南諸土司の兵九千八百余を率いて援におもむいた。翌年、東経略楊鎬に従い、四路に別れて出陣したが、阿布達里崗で後金軍に敗れて戦死した。
喬一琦(1571~1619)
  字は原、号は伯圭。上海県西郷の人。体力絶倫で、撃剣や弓射をよくした。万暦三十一年(1603)、武挙に及第し、把総となった。東の広寧の守備にあたった。まもなく山海関にうつり、関の東の崖に「鎮星之精」と大書して刻んだ。四十六年(1618)、東の鎮江の游撃に進んだ。翌年、楊鎬が四路に分かれて後金を攻めると、一琦は南路右翼の先鋒をつとめて進撃し、数十度にわたって戦った。しかし、朝鮮軍の投降と南路右翼軍の潰滅によって、孤立して後金軍に包囲され、降伏するのを潔しとせず、崖に身を投じて死んだ。
焦竑(1541~1620)
  字は弱侯、号は澹園。山東省日照の人。耿定向、ついで羅汝芳に師事した。群書に通じ、古文をよくした。万暦十七年(1589)、進士に及第した。翰林院修撰に任ぜられた。皇長子の教師をつとめた。たびたび時政を批判したため、憎まれて弾劾を受け、福寧州同知に左遷された。以後、講学と著述につとめ、耿定向・李贄らと交友した。『澹然集』。
袁応泰(?~1621)
  字は大来。陝西省鳳翔の人。万暦二十三年(1595)、進士に及第した。臨漳知県に任ぜられ、漳水の治水にあたり、長堤四十余里を築いた。ほか二十五堰を作り、ために灌漑した畑が数万頃に及んだ。工部主事に転じたが、病のため退いた。のちに河南右参政として起用され、按察使として永平の兵を整備し、関外の軍需にこたえた。泰昌年(1620)、兵部右侍郎に進み、東巡撫をつとめ、まもなく東経略となった。天啓年(1621)、後金の兵に陽を攻められて敗れ、城が陥落して自縊した。
黄守魁(1551~1621)
  もとの名は一。字は国参、号は哲斎。福建省江の人。幼いころ嘉靖の倭寇の侵掠を避けて南安の白鶴山に移住した。万暦十七年(1589)、進士に及第した。南京浦子口の守備に任ぜられ、河南都司僉事に進んだ。四川都司となって、楊応龍の乱の鎮圧に功績を挙げた。大同参将・福寧参将などを歴任した。四川正総兵官に進んだ。天啓年(1621)、南京五軍右府・驃騎将軍に任ぜられ、東救援を命ぜられて、南京大総督となった。援兵を準備していたところ、奢崇の乱が起こり、重慶の舟中で討たれた。
道南(1550~1623)
  字は会甫、号は曙谷。江西省崇仁の人。万暦年間、進士に及第した。翰林院編修から礼部右侍郎に累進した。四十一年(1613)、礼部尚書として入閣した。宦官の濫費を上疏して、憎まれた。のちに弾劾を受けて、自ら官を去った。『文恪公集』、『河渠志』。
僧憨山(1546~1623)
  俗姓は蔡、名は徳。字は澄印。十二歳のとき、出家して南京報恩寺に入り、無極法師に師事した。のちに五台山に入って、太子降生の祈祷をおこない、五台憨山の秀と認められ、これを法号とした。山東牢山に遊歴し、海印寺を建てた。釈道儒三教合一の説を広め、禅・華厳二宗の調和を主張した。万暦二十三年(1595)、寺院を私造した罪で広東雷州に流され、のちに曹渓宝林寺に住持した。天啓初年に赦され、東は呉越に遊び、盧山五乳峰に隠れ住んだ。蓮池・紫柏・蕅益とともにの四大高僧として並び称された。晩年、また曹渓にもどり、座禅のさなかに、寂した。『法華経通義』、『剛決疑』、『老子道徳経注』、『荘子内篇注』、『憨山夢游集』、『憨山語録』。
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