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宋(南北朝)

[南北朝(386~589)]
北朝北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝,,,),柔然,高昌
[(420~478)]
武帝(劉裕)-少帝(劉義符)-文帝(劉義隆)-(劉劭)-孝武帝(劉駿)-前廃帝(劉子業)-帝(劉彧)-後廃帝(劉昱)-順帝(劉准)
劉裕(363~422)
  の武帝,高祖⇒。
孔琳之(369~423)
  字は彦琳。会稽郡山陰の人。孔廞の子。若いころから、文章を好み、音律に通じ、草隷の書をよくした。桓玄が太尉となったとき、西閤祭酒として召された。尚書左丞・揚州従事・尚書吏部郎などをつとめた。劉裕が王となると、国侍中に任ぜられた。永初二年(421)、御史中丞となり、法を破ったかどで尚書令の徐羨之を弾劾した。顕位に対しても節を曲げなかったので、あえて禁を犯すものはいなくなったという。官は祠部尚書に終わったが、家産を増やすことをせず、生活は貧を保った。
徐羨之(364~426)
  字は宗文。東海郡郯県の人。若いとき、東晋の太子少傅主簿となった。安帝のとき、劉裕とともに桓脩のもとで撫軍中兵参軍をつとめた。興三年(404)、劉裕の起兵に従って、桓玄を討ち、鎮軍参軍に任ぜられた。義煕十二年(416)、劉裕が関中を攻めると、劉穆之の下で留守を預かった。劉穆之が没すると、吏部尚書・丹陽尹となった。末には尚書僕射に上った。に入って南昌県侯に封ぜられ、司空・録尚書事・散騎常侍・揚州刺史に上った。武帝の遺命を受け、傅亮らとともに少帝を補弼した。景平二年(424)、傅亮・謝晦らとともに少帝を廃殺し、文帝を迎え、司徒に上った。のちに文帝に弑逆の罪を問われて自殺した。
傅亮(374~426)
  字は季友。北地郡霊州の人。傅咸の玄孫にあたる。経史に精通し、文辞をよくした。はじめ東晋の建威参軍となった。義煕十二年(416)、劉裕が関中を攻めるのに従軍した。に入って、建城県公に封ぜられた。中書監・尚書令に進んだ。永初三年(422)、武帝の遺命を受け、徐羨之らとともに少帝を補弼した。景平二年(424)、徐羨之・謝晦らとともに少帝を廃殺し、劉義隆を文帝として擁立し、散騎常侍・左光禄大夫・開府儀同三司を加えられた。のちに文帝に弑逆の罪を問われて殺された。
謝晦(390~426)
  字は宣郡陽の人。はじめ東晋の建武府中兵参軍をつとめた。ついで太尉の劉裕のもとで参軍となった。刑罰の裁定をよくしたので、刑獄賊曹に任ぜられた。のち豫州治中従事に転じた。義煕九年(413)、土断を行い、揚州・豫州の民戸を判別した。太尉主簿となった。劉裕の北伐に従軍し、軍内外の要務を果たした。に入って、右将軍・侍中に上った。次いで領軍将軍・総統宿などをつとめた。少帝が即位すると、領中書令を加えられ、徐羨之らとともに輔政にあたった。景平二年(424)、傅亮とともに少帝を廃殺し、荊州刺史として出た。嘉三年(426)、文帝により少帝弑逆の罪を追求され、徐羨之らが殺された。討伐軍を派遣してきたため、抗戦を決意して巴陵に進軍したが、檀道済らの軍に敗れて、建康に連行されて処刑された。
陶潜(365~427)
  字は淵、または亮。号は五柳先生。諡は靖節。潯陽郡柴桑の人。陶侃の曾孫にあたる。若い頃は経世済民の志をもったが、門閥の壁が厚く、また戦乱や天災にあって鬱々と日を送った。二十九歳のとき、はじめて仕官して江州祭酒に任ぜられた。孫恩が乱を起こすとその鎮圧に活躍した。官界の醜悪な人間関係に飽きて、四十一歳のとき、彭沢県令を最後に退官して田園に隠棲した。晩年に檀道済から仕官を勧められたが拒絶した。周続之・劉遺民とともに潯陽三隠と称された。また隠逸詩人、田園詩人とよばれる。「帰去来辞」「桃花源記」など詩文を多く残した。
王華(385~427)
  字は子陵。琅邪郡臨沂の人。はじめに住んだ。東晋末に劉裕に仕えて北主簿となった。初、宜都王劉義隆に従って江陵に鎮した。西府司馬・南郡太守に累進した。景平二年(424)、徐羨之、傅亮らが少帝を廃殺し、劉義隆を迎えようとした。劉義隆は少帝が殺されたので、疑ってあえて行こうとしなかった。王華は劉義隆に固く勧めて入京させた。劉義隆が帝位につくと、侍中・右将軍となった。嘉三年(426)、徐羨之、傅亮を殺し、護軍将軍に進んだ。
王曇首(394~430)
  琅邪郡臨沂の人。王珣の子。王弘の末弟。兄弟と財産を分けたとき、ただ図書のみを取ったという。はじめの琅邪王大司馬属をつとめた。のちの宜都王劉義隆に従って、冠軍府功曹・鎮西府長史を歴任した。ときに少帝は遊興に節度なく、徐羨之・傅亮らが廃立を謀り、劉義隆に江陵より東下を勧め、帝として擁立した。嘉初年、侍中となり、徐羨之・傅亮を誅殺し、謝晦を討ち平らげるはかりごとに参与した。太子詹事に進んだ。
僧求那跋摩(367~431)
  功徳鎧。インドのカシミールの人。カシミールの王であったが、出家して仏教を学んだ。ジャワに渡り、嘉八年(431)に建康に渡来。祇園寺で法華経・十地経を講じ、大乗戒法を伝えた。『優婆塞五戒略論』、『優婆塞二十四戒』。
王弘(379~432)
  字は休。琅邪郡臨沂の人。王珣の子。東晋の丞相王導の曾孫にあたる。はじめ東晋の会稽王司馬道子のもとで驃騎参軍主簿をつとめた。ときに喪に服していて桓玄の乱の難を免れた。劉裕に召されて鎮軍府諮議参軍となった。太尉左長史となり、北伐に従った。が建国されると、尚書僕射掌選となり、彭城太守を領した。謝霊運が桂興を殺した事件を弾劾して、免官させた。のち江州刺史に遷った。景平二年(424)、徐羨之らが少帝の廃立を謀ると、召されて入朝した。文帝が即位すると、司徒・揚州刺史・録尚書事に累進した。嘉五年(428)、旱害に遭い、引責して将軍に降格した。旧制で十三歳で半役、十六歳で全役であったのを、十五から十六歳で半丁、十七歳で全丁と改めるよう上奏し、文帝はこれに従った。九年(432)、太保に進み、中書監を領した。『書儀』。
謝霊運(385~433)
  字は宣郡陽の人。謝玄の孫にあたる。はじめ、東晋の琅邪王参軍となった。義煕年間に劉裕のもとで相国従事中郎・太子左率をつとめた。のち事件に連座して免官された。が建国されると登用されたが、国の枢機に参与できないことにいつも憤慨していた。少帝のとき、朝政を誹謗したかどで永嘉郡太守に左遷された。病と称して官職を捨て、会稽に移って山水を楽しんだ。このころ「山居賦」を作った。嘉年間に召されて、秘書監となり、宮中の蔵書を整理して、目録を作った。侍中に上ったが、日夜遊宴にふけったため免官された。謝恵連・何長瑜・荀雍・羊濬之らいわゆる四友とともに詩賦や文章の創作鑑賞を楽しんだ。臨川郡内史となったが、讒言にあって広州に流され、殺された。嘉の三大家のひとり。『游名山志』。
謝恵連(394~433)
  郡陽の人。謝霊運の従弟にあたる。嘉七年(430)、彭城王・劉義慶のもとで法曹行参軍をつとめた。詩賦にたくみで、謝霊運に対して小謝と称された。
檀道済(?~436)
  高平郡郷の人。檀凭之の甥にあたる。東晋末、劉裕の起兵に従って、桓玄を討つのに功績があり、太尉主簿・諮議参軍に累進した。義煕十二年(416)、劉裕の北伐の先鋒をつとめ、許昌・洛陽・潼関を抜き、長安を平定し、後秦を滅ぼした。征虜将軍・琅邪内史に進んだ。が建国されると永脩県公に封ぜられ、南兗州刺史に任ぜられた。景平二年(424)、少帝を廃して文帝を擁立する挙に参与し、征北将軍に任ぜられた。嘉三年(426)、荊州刺史・謝晦の乱を平定する功績を挙げ、征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史となった。八年(431)、軍を率いて北伐し、連戦して北魏の軍を多く破り、歴城にいたったが、兵糧が尽きて退却した。司空に上り、潯陽に鎮した。文帝が病に伏せたとき、その威名を恐れられ、召還されて殺された。捕らえられたとき、頭巾を地に投げ捨てて「汝の万里の長城を壊すのか!」と叫んだという。
劉湛(392~440)
  字は弘仁。南陽郡涅陽の人。史伝に通じた。末、劉裕の下で太尉行参軍をつとめた。が建国されると、彭城王劉義康のもとで長史となり、郡・歴陽太守をつとめた。法令を用いるに厳格で、百銭以上を着服した官吏はみな処刑した。嘉八年(431)、文帝に召されて太子詹事となり、ついで領軍将軍となった。のち景仁と対立した。旧主の劉義康と結んで、景仁を追い落としたため、文帝に憎まれ、のちに処刑された。
景仁(390~440)
  またの名を鉄。郡長平の人。若いころから大成が期待され、司徒の王謐が娘をめあわせた。東晋の末、劉毅のもとで後軍参軍をつとめ、劉裕のもとで太尉行参軍をつとめた。に入って、秘書郞・中書侍郎を歴任し、太子中庶子となった。文帝のとき、王華・王曇首・劉湛とともに侍中となり、世人にもてはやされた。尚書僕射・中書令・護軍将軍を歴任した。劉湛が彭城王劉義康と結んでかれを失脚させたため、病と称して五年のあいだ世に出なかった。帝とひそかに書簡をやりとりし、朝政のさまざまなことを了解していた。帝が劉湛を処刑すると、劉義康にわって揚州刺史となった。まもなく病没した。
羊欣(370~442)
  字は敬。泰山南城の人。羊不疑の子。王献之に師事し、とくに隷書をよくした。桓玄の輔政のとき、平西主簿をつとめた。義煕年間、劉裕の知遇をえて、右軍・劉藩の司馬をつとめた。のちに安太守。臨川王のもとで輔国長史、廬陵王のもとで車騎諮議参軍を歴任し、再び安太守となり、義興太守・中散大夫などをつとめた。書のほか、黄老を好み、服薬し符水を飲んだ。医術にも通じ『薬方』を撰したという。
劉義慶(403~444)
  長沙王劉道怜の次男。武帝(劉裕)の甥にあたる。永初年(420)、臨川王に封ぜられ、侍中に上った。丹楊尹・尚書左僕射などを歴任した。嘉九年(432)、荊州刺史に任ぜられた。十六年(439)、江州刺史に転じた。翌年、南兗州刺史となった。『世説語』、『集林』。
范曄(398~446)
  字は蔚宗。南陽郡順陽の人。范泰の四男。若いころから学問を好み、経史に通じ、文章をよくし、隷書に秀で、琵琶の演奏を得意とした。洒脱を好み、奇行が多かったという。東晋末に劉裕の相国掾をつとめた。が建国されると、尚書吏部郎に上った。彭城王劉義康に逆らって、宣城太守に左遷された。このころ『後漢書』を撰した。左将軍・太子詹事に累進した。のちに孔煕先らとともに劉義康を帝に擁立しようとして、捕らえられて処刑された。
劉義康(409-451)
  の武帝(劉裕)の四男。永初年(420)、彭城王に封ぜられた。南豫州刺史・南徐州刺史を歴任した。嘉三年(426)、荊州刺史をつとめた。六年(429)、司徒・録尚書事・南徐州刺史として召され、王弘とともに朝政を輔けた。王弘が亡くなると、わって揚州刺史を兼ね、朝政を総覧した。ときに文帝が病床にあることが多く、太子詹事の劉湛らと朋党を結び、帝を害そうとした。十七年(440)、文帝が劉湛を処刑すると、江州刺史として出され、豫章に鎮した。二十二年(445)、范曄らがかれをまつりあげて謀反し、捕らえられて庶人に落とされた。安成郡に流され、のち殺された。
裴松之(372~451)
  字は世期。河東郡聞喜の人。東晋に仕えて、殿中将軍に任ぜられた。尚書祠部郎に上った。劉裕が司州刺史のとき、州主簿をつとめた。に入って、国子博士となった。のち中書侍郎に転じた。嘉六年(429)、勅命を受けて、寿の『三国志』に注を付した。のち、永嘉太守・太中大夫を歴任した。ほか『紀』を著したが散佚した。
劉劭(426~453)
  の文帝(劉義隆)の長男。嘉六年(429)、皇太子となる。二十七年(450)、北魏の太武帝が大軍を率いて瓜歩にいたると、石頭に出陣して水軍を統率し、よく防御にあたった。のち巫女の厳道育を宮中に入れ、天師と称して彼女を敬った。謀議して巫蠱をおこない、文帝の像を玉に刻んで殿前に埋めた。事が洩れたが、文帝はかれを罰するに忍びなかった。三十年(453)、廃されるのをおそれて父帝を殺し、自ら帝を称し、太初と改した。まもなく武陵王劉駿(のちの孝武帝)に捕らえられ、殺された。
卜天与(?~453)
  興郡余杭の人。弓射をよくし、の文帝はかれを皇子たちの教師とした。のちに広威将軍に進んだ。嘉三十年(453)、太子劉劭が父文帝を殺して自立したとき、殿中で劉劭を射抜き、劉劭の部衆に殺された。
蕭思話(406~455)
  南蘭陵郡の人。嘉三年(426)、青州刺史に任ぜられた。八年(431)、檀道済の北伐ののち、北魏軍の来寇を恐れて、任地を捨てて平昌に逃げた。十年(433)、州・南州刺史となったが、氐王・楊難が侵入して、中を失陥した。のち雍州刺史・吏部尚書を歴任した。三十年(453)、太子劉劭が文帝を殺して自立すると、劉駿(孝武帝)に応じて挙兵し、中書令・丹楊尹・江州刺史・郢州刺史となった。
顔延之(384~456)
  字は延年。琅邪郡臨沂の人。若いころから無頼奔放で酒豪であった。劉裕の北伐を慶賀する詩を書いたために、見出されて舎人として仕えた。に入って、尚書儀曹郎・太子中舎人となった。少帝のとき、始安太守となった。文帝の嘉年間、太子中庶子・領歩兵校尉に任ぜられた。のち、紫光禄大夫に上った。傲慢な言動と酒乱のため、しばしば事件を起こした。劉湛に恨まれるところとなって、免官された。謝霊運と並び称される詩人。嘉の三大家のひとりとされる。『顔光禄集』。
戴法興(414~465)
  会稽郡山陰の人。戴碩子の子。家は貧しく、若いころから葛を売って生業とした。学問を好んだ。のちに尚書倉部令史となった。彭城王劉義康のもとで記室令史となり、劉義康が失脚すると、武陵王劉駿のもとで征虜撫軍記室掾となった。江州にうつって南中郎典籤となった。劉駿が劉劭を討つのに従った。劉駿(孝武帝)が即位すると南台侍御史・中書通事舎人となり、戴宝とともに重用された。賞罰の選定に参与し、賄賂を多く受け取ったので、家産は千をかさねた。前廃帝が即位すると、越騎校尉となり、詔勅や尚書の事務のことごとくを決裁した。宦官の華願兒が「法興こそ真の天子」と市井で謡われていると讒言したので、帝はついに法興の官位をことごとく剥奪し、まもなく死を賜った。
景(406~465)
  字は孝仁。河東郡解県の人。曾祖父のから襄陽に住んだ。若いころから弓馬を習い、父に従って南方の少数民族を討った。嘉年間、江王劉義恭に召されて中軍将軍をつとめた。嘉二十七年(450)、北魏を攻めると、建威将軍を加えられ、軍を率いて盧氏・弘農・潼関などで勝利した。別軍の王玄謨が敗れたため、命により軍を返した。孝武帝のとき、劉劭の乱などを平定した功により、巴東郡公に封ぜられた。侍中・驃騎将軍・南兗州刺史となった。帝により前廃帝(劉子業)を補佐するよう遺嘱され、尚書令・丹陽尹に進んだ。のちに顔師伯らとともに帝を廃して太宰劉義恭を立てようとしたが、事が洩れて殺された。
顔師伯(419~465)
  字は長淵。琅邪郡臨沂の人。幼少のころ孤児となり、貧苦に耐えた。嘉年間、雍州刺史の劉道彦のもとで輔国行参軍となった。太子劉劭が文帝を弑すると、武陵王劉駿の起兵に従って、参謀をつとめ、功により平都県子に封ぜられた。大二年(458)、輔国将軍・青冀二州刺史となった。ときに北魏に侵攻すると、軍を率いて北魏の軍を破り、征虜将軍に進んだ。召されて侍中となり、吏部尚書・尚書右僕射などを歴任した。孝武帝が亡くなると、遺命により前廃帝を補佐した。長く顕官にあって、家産を蓄えた。のちに柳景らとともに帝の廃立を謀り、事が洩れて殺された。
劉義恭(413~465)
  の武帝(劉裕)の五男。嘉年間に江王に封ぜられた。徐州・荊州・南兗州などの刺史を歴任した。嘉十七年(440)、召されて司徒・録尚書事となり、朝政をたすけた。太子劉劭が文帝を弑すると、太保として召されたが、武陵王劉駿のもとに逃げ込み、劉駿に帝位につくよう勧めた。孝武帝が劉劭を平らげると、太傅・大司馬に上った。前廃帝のとき、中書監・太宰・太尉・録尚書事にいたった。柳景らとともに帝の廃立を謀り、失敗して殺された。
沈慶之(386~465)
  字は弘先。興郡武康の人。若くして勇気と腕力があった。年三十にして寧遠中兵参軍となる。武帝(劉裕)のとき、殿中員外将軍に任ぜられた。嘉年間、雍州刺史の劉道彦が亡くなると、雍州の諸族が蜂起したので、建威将軍に任ぜられて征討にあたった。沔水のほとりや沔北で諸族を大いに破り、捕らえた諸族を都や町に移して戸籍に編入した。太子歩兵校尉に進んだ。太子劉劭が文帝を弑すると、孝武帝(劉駿)に従って劉劭を討ち平らげ、鎮軍将軍・南兗州刺史となった。孝建二年(455)、老年を理由に引退を願い出て、許されて始興公として屋敷に入った。のち、南郡王の乱や竟陵王の乱の平定にあたり、司空に上った。楼湖に移住し、家財は千万を重ね、奴僕は千をかぞえた。孝武帝が亡くなると、遺命により柳景らとともに前廃帝を補佐した。泰始年(465)、江王劉義恭を立てて帝を廃そうと謀った柳景らを告発して、柳景・劉義恭らは殺された。帝をしばしば諫めたが、不興をかい、ついに死を賜った。
謝荘(421~466)
  字は希逸。郡陽の人。謝弘微の子。はじめ始興王劉濬のもとで法曹行参軍となった。太子・劉劭が父・文帝を殺して自立すると、司徒左長史に任ぜられた。武陵王劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、檄文を改作して京邑に宣布した。孝武帝(劉駿)が即位すると、吏部尚書に任ぜられた。帝のとき、中書令に上った。「木方丈図」を作り、中国で最も古い木刻地形図として知られた。また詩文をよくした。『謝光禄集』。
鮑照(405~466)
  字は遠。東海郡の人。嘉年間に臨川王・劉義慶に見出されて出仕し、国侍郎・海虞令・太学博士・中書舎人などを歴任した。のちに臨海王劉子ギョクに仕えて前軍刑獄参軍事となり、臨海王の乱に参加して、敗れて荊州で殺された。嘉の三大家のひとり。「蕪城賦」、「河頌」など。『鮑氏集』。
劉子勛(456~466)
  字は孝徳。の孝武帝(劉駿)の三男。大四年(460)、安王に封ぜられた。八年(464)、江州刺史となる。泰始年(465)、前の撫軍諮議参軍の何邁が前廃帝を殺して劉子勛を立てようとした。事が洩れて何邁は殺された。前廃帝は劉子勛にも死を賜ろうとしたため、長史の鄧琬がかれを奉じて起兵した。前廃帝が殺されて帝が立っても、兵をおさめようとしなかった。二年(466)、鄧琬により尋陽で帝に擁立され、義嘉と改した。乱は半年におよんだが、沈攸之により殺された。
卜天生(?~466)
  興郡余杭の人。兄の卜天与が劉劭の乱によって難に遭い、このため孝武帝に知られるところとなった。西陽王劉子尚のもとで撫軍参軍となった。大三年(459)、沈慶之に従って竟陵王劉誕の乱の平定にあたり、のち弋陽太守となった。泰始初年、豫州刺史琰とともに安王劉子勛の乱に従って敗死した。
僧求那跋陀羅(394~468)
  中インドの人。仏僧となり、大乗を学んだ。嘉十二年(435)、広州に渡来し、雲峯寺に住持した。のちに文帝に召されて建康に迎えられ、祇園・東安の諸寺に住持した。華厳経を講じて、門徒は七百人余に及んだ。弟子の宝雲とともに小乗・大乗の仏典を翻訳した。北宗禅の第一祖とされる。「勝鬘経」を翻訳した。
王彧(413~472)
  字は景文。琅邪郡臨沂の人。王僧朗の子。帝の王皇后の兄にあたる。言理を好み、若くして謝荘と名声を等しくした。はじめ太子太傅主簿となった。孝武帝のとき、司徒左長史となった。のち侍中となり、射声校尉・左将軍を領し、給事中・太子中庶子を加えた。景和年(465)、尚書右僕射に上った。帝が立つと、左将軍・丹陽尹を加えた。江州刺史・揚州刺史を歴任した。官は中書監にいたり、太子太傅・散騎常侍・揚州刺史を領した。かれの一門はあまりに強盛だったため、帝は自身が危篤に陥ると、後難をおそれてかれに死を賜った。
劉休範(448~474)
  の文帝(劉義隆)の十三男。はじめ順陽王に封ぜられ、のち桂陽王に改封された。大三年(459)、江州刺史となった。帝が劉子勛の乱を平定すると、南徐州刺史とし、のちまた江州刺史とした。凡庸で木訥な言動のため、兄弟たちが殺されても、粛を免れた。帝が崩ずると、遺詔により司空に進んだ。蒼梧王劉昱が即位したが、寒門の専横のため入京を妨げられ、叛逆を企てた。徽二年(474)、尋陽で起兵し、建康に迫ったが、右将軍の蕭道成らに敗れて殺された。
袁粲(420~477)
  字は景倩。郡陽の人。袁淑の甥にあたる。はじめ揚州従事となった。帝の末年、累進して尚書令・領丹陽尹に上った。帝の遺命を受けて後廃帝を補佐し、吏部尚書・侍中をつとめた。徽二年(474)、桂陽王劉休範が叛乱したとき、母の喪中で蟄居していたが、宮中に上がって社稷と存亡をともにする事を示し、諸軍を叱咤した。順帝の初年、中書監に進み、石頭に鎮した。蕭道成を打倒する計画に参加して、事がもれて殺された。
阮佃夫(427~477)
  会稽郡諸曁の人。寒門の出で卑官から出発し、嘉年間に台小史となった。孝武帝に補内監として召された。前廃帝のとき湘東王劉彧のもとで主衣となり、後に請われて世子の師をつとめた。泰始年(465)、劉彧の奪権に協力して、彼を帝として擁立した。その功績で蘭台侍御史に任ぜられ、建城県侯に封ぜられた。帝の信任を受けて累進した。司徒参軍・太子歩兵校尉・南郡太守・陵太守・驍騎将軍・黄門侍郎などを歴任した。帝の信任を恃んで専横のことが多く、賄賂を好み、邸宅の華美豪奢さを諸王と競ったという。帝が崩ずると、子の後廃帝(蒼梧王劉昱)に仕えた。中書通事舎人・南豫州刺史・歴陽太守などをつとめた。升年(476)、後廃帝を雉射ちに連れ出したところ、政変が起こって安成王劉準(順帝)が立てられたため、後廃帝によって殺された。
↓次の時
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