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チベット

チベット
ツォンカパ(1357~1419)
  宗喀巴。青海のツォンカの人。旧来の紅帽派(シャマル派)の堕落を排し、独身禁欲の戒律主義に立つ黄帽派(ゲルク派)ラマ教を創始した。
ダライ・ラマ三世(1543~1588)
  達賴三世。ソェナム・ギャンツォ。黄帽派によりゲンドゥン・ギャンツォの化身として認定された。十歳のときデプン寺の貫主となり、十六歳のときセラ寺の貫主を兼ねた。万暦六年(1578)、アルタン・ハーンと会談して、ダライ・ラマの称号を贈られた。漠南のモンゴル領主たちに招かれて布教をつづけた。朝にも招聘を受けたが、果たさぬままモンゴルで没した。
グシ・ハーン(1582~1655)
  顧実汗。固始汗。名はトロバイフ(図拜琥)。チベット王。在位1642~1655。オイラト族ホシュート部の出身。ハーナイ・ノヨン・ホンゴル(哈尼諾顏洪果爾)の子。1606年、モンゴルのハルハ部とオイラトの争いを調停。1636年、チベット・ゲルグ派の求めに応じて青海遠征。翌年、ハルハのチョクト・ホンタイジの軍を撃破。ダライ・ラマ5世より持教法王の号を賜り、ハーンを称した。1639年、東チベット・カムを征服。1641年、西チベット・ツァン政権を滅ぼして、全チベットを統一。翌年、チベット王として即位した。カルマ派やサキャ派の諸寺院を弾圧して、ダライ・ラマをチベット仏教の教主に擁立した。
ダライ・ラマ五世(1617~1682)
  達賴五世。本名はガワン・ロサン・ギャンツォ(阿旺羅桑嘉措)。ダライ・ラマの転生と認定され、黄帽派のデプン寺で養育された。モンゴル・ハルハ部左翼のチョクト・ホンタイジが青海を占領して黄帽派を弾圧したため、オイラトに救援を求めた。それに応えてグシ・ハーンが青海に遠征して、チョクト・ホンタイジを倒した。1642年、グシ・ハーンのもと全チベットは統一され、五世は首に推戴された。朝にたひたび入朝を要請されたため、1653年北京を訪問した。かえって朝に対する警戒心を強め、雲南の呉三桂と結んで牽制しようとしたが、は三藩の乱に敗れた。ジュンガル部のガルタン・ハーンを支援して外モンゴルの統一を策したが、まもなく没した。その死は十年近く秘密とされた。

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