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高祖呂后期

前漢(西)(前206~8)]
楚漢抗争期,高祖呂后期,文帝景帝期,武帝期,昭帝宣帝期,元帝成帝期,哀帝平帝期,,匈奴,南越,,夜郎
高祖(劉邦)-恵帝(劉盈)-少帝恭(劉恭)-少帝弘(劉弘)-文帝(劉恒)-景帝(劉啓)-武帝(劉徹)-昭帝(劉弗陵)-宣帝(劉詢)-帝(劉奭)-成帝(劉驁)-哀帝(劉欣)-平帝(劉カン)-孺子嬰(劉嬰)
劉邦(前247~前195)
  前漢の高祖⇒。
韓信(?~前196)
  淮陰の人。はじめは貧乏で、志を抱きつつ、股くぐりの恥辱にも耐えた。項が挙兵すると、その軍に加わり、項羽にたびたび進言したが、取りあげられなかった。から逃亡し、劉邦が中に入ると、これに従った。はじめ連敖に任ぜられた。罪を犯して、侯嬰に見出され、治粟都尉に任ぜられた。劉邦に評価されないので、逃亡すると、蕭何によって連れ戻された。蕭何が劉邦に強く推薦したため、韓信は大将軍に抜擢された。まず三を平定して、次にを討った。彭城で項羽に大敗したが、滎陽に残兵を集めて軍を撃退した。韓信は別働隊を率いてを平定した。趙(余)と争ったとき、従来の兵法に反する背水の陣をひいて大勝した。燕を服従させ、に進軍しようとした。はすでに劉邦の使者・酈食其の説得によりに帰属していたが、蒯通の進言を容れて韓信はそのままを攻撃して平定した。韓信はの仮の王になりたいと申し出て、劉邦は激怒したが、張良・平の諫めを容れて、韓信を王に封じた。蒯通は韓信に天下三分を説いて、の間の自立した勢力になるよう勧めたが、韓信はそれを聞き入れなかった。劉邦・韓信の軍は、項羽を垓下に追いつめ、烏江で自刃させた。劉邦による天下平定が成ると、韓信はに国替えされた。の高祖の六年(前201)、韓信は謀反の罪で告発された。捕らえられて、劉邦の前で「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵う、敵国破れ謀臣亡ぶ」と言い放った。一命は許されたが、淮陰侯に落とされた。不満を抱いて、豨と結んで叛乱を計画した。豨が叛乱を起こして、劉邦が討伐に向かった隙を狙ったが、呂后と蕭何が韓信の参内を請うたため、参内したところを捕らえられて斬首された。
蕭何(?~前193)
  諡は文終侯。沛の豊邑の人。法律に通じていたため、沛の功曹掾に任ぜられた。草莽で無頼の生活を送っていた劉邦を、役職を利用してたびたび援助した。またの泗水卒史をつとめた。劉邦が兵を挙げて、沛公となると、丞として庶事を取りしきった。劉邦の軍が南の武関を抜けてを降し、咸陽に到達すると、諸将が先を争って宮殿の財宝庫に殺到したのに、蕭何のみはの役所に入って法令文書や地図・戸籍簿などを接収した。劉邦が王になると、丞相に任ぜられた。劉邦は中に封じられて、不満を抱いており、項羽を伐つ策を蕭何に相談した。蕭何は、韓信を将軍に任用するよう強く推薦した。劉邦が起兵して、項羽と三年間にわたって争うと、蕭何は後方を担当して関中を鎮撫し、軍兵を徴して前線に送り、兵糧の補給を絶やさなかった。天下が平定されると、蕭何は功績第一とされ、酇侯に封ぜられた。の高祖の十一年(前196)、蕭何は相国に上った。劉邦が晩年になって、韓信・黥布らの功臣の粛を行うと、蕭何も粛を恐れて、わざと田地の掛け買いをして自分の名声を貶めた。しかし、御苑を民衆のために開放する嘆願をしたため、劉邦の怒りを買って、投獄された。しかし王尉の諫言をうけて、劉邦は蕭何を許した。曾参を後継者に指名して、病没した。
曹参(?~前190)
  字は敬伯。平陽侯。諡は懿侯。沛の人。はじめ沛の獄掾をつとめた。劉邦が起兵すると、ともにと戦った。中涓・七大夫・五大夫を経て、の懐王に封じられて執帛の爵をえて、戚県の県令となり、建成君と号した。劉邦が王となると、建成侯となり、将軍・中尉となった。三を平定し、項羽と戦うのに功績をあげた。の高祖の二年(前205)、仮左丞相に任ぜられ、韓信とともにを平定し、趙を破った。右丞相となって韓信の下でに進軍した。劉邦によって天下が平定されると、王・劉肥の相国となった。王の下で豨や黥布の叛乱を討伐して功績をあげた。恵帝の年(前194)、諸国の相国が廃されたため、の丞相となった。恵帝の二年(前193)、蕭何が死ぬとの相国に上った。蕭何の政治の手法を変更せず、民生は安定した。相国としてあること三年で没した。
張良(?~前189)
  字は子房。留侯。諡は文成侯。韓の人。張平の子。韓がに滅ぼされたため、復仇を誓って始皇帝の暗殺を計画した。始皇帝が東方巡行して博浪沙にいたったとき、怪力の士に百二十斤の鉄槌を投げさせて狙撃した。しかし、失敗して逃亡・潜伏していたとき、黄石老人に太公の兵書(六韜)を授けられて軍法を学んだ。勝・広の乱が起きると、劉邦に従ってその厩将となり、たびたび進言した。項が韓王成を立てると、張良は韓王の下につき、韓の申徒となった。韓の旧領を攻略して数城を獲得した。劉邦が西進すると、その軍に合流し、たびたび献策して、劉邦が咸陽に入るのに功績があった。鴻門の会では旧友の項伯にとりなしを頼んで、劉邦の一命を救った。劉邦が王となると、韓王成のもとに戻った。しかし、韓王成が項羽により殺害されると、逃亡して劉邦のもとにたどりついた。劉邦により成信侯に封ぜられた。劉邦が彭城に敗れると、張良は彭越・黥布と結ぶよう進言した。また韓信が王を称そうとしたとき、劉邦を説得して怒りをおさめさせた。劉邦が項羽を滅ぼし、天下を平定すると、功臣を王侯に封じた。劉邦はの地の三万戸を張良に与えようとしたが、それを断り、留の地をもらった。そのとき、功臣の叙封が遅れて諸臣の不満がたまっていることを諫言したり、関中(長安)に都と置くよう勧めたりした。その後、断穀して仙道をめざし、俗世を離れていた。劉邦が戚夫人を寵愛して、その子如意を帝に立てようとしたため、危機感にかられた呂后が張良を脅迫して策を請うた。劉邦が招請できない四人の賢者を、太子(劉盈、のちの恵帝)が呼び寄せれることができれば、廃嫡はありえないと答えた。そのとおりにすると、劉邦も太子を変えることを言い出せなくなったという。
樊噲(?~前189)
  舞陽侯。諡は武侯。沛の人。はじめ犬の屠殺を生業としていた。劉邦が囚人護送の任について、盗賊に転じたとき、ともに身を隠した。劉邦が起兵すると、ともにと戦った。舎人・国大夫・列大夫・上間・五大夫・卿を経て、封爵をえて、賢成君と号した。鴻門の会では、宴席に乗り込んで項羽に直言し、酒肉を賜ってその態度が項羽に気に入られた。おかげで劉邦は一命を助かった。劉邦が王となると、臨武侯にのぼり、郎中に任ぜられた。項羽と戦端が開かれると、劉邦につき従って転戦。郎中騎将となった。天下が平定されると、舞陽に転封され、舞陽侯となった。臧荼・韓信・韓王信・盧綰らの叛乱を平定するのに功績があった。恵帝の六年(前189)に没した。呂后の妹・呂須を妻としていたため、舞陽侯家は子の樊伉のに呂一族とともに粛されていちど断絶した。樊噲の庶子が継いだが、景帝の時に平民に落とされた。
呂皇后(前241~前180)
  呂雉,の高皇后⇒。
平(?~前178)
  諡は献侯。陽武の人。若いころ、貧乏であったが、学問に励んだ。家にいたとき、兄嫁と密通していたといわれる。富豪の張氏の孫娘をめとって、交際を広げた。勝が乱を起こすと、王咎に仕えて、太僕となった。讒言されたため、逃亡して項羽に仕え、を破るのに功績をあげた。そのため卿となった。王・劉邦が三を平定し、項羽に叛旗をひるがえすと、平は信武君とされ、項羽に命じられて王・司馬叩を討伐に向かった。討伐に成功して都尉に任ぜられたが、間もなくは劉邦に攻め落とされたため、平は粛を恐れて逃亡し、劉邦に投降した。劉邦に気に入られて、同じく都尉として登用された。次将に取り立てられて、韓王信の軍に属して戦った。不倫・不義の行いが多く、諸将には讒言されたが、劉邦は彼の能力を信任した。護軍中尉に上って諸将を監督し、に間者を放って項羽との諸将との間を裂いた。劉邦が天下を平定すると、戸牖侯として封じられた。高祖の六年(前201)に韓信が謀反の罪で告発されたとき、韓信を捕らえるため、策を献じた。また平城で劉邦が匈奴に包囲されたとき、策を献じて劉邦を脱出させた。豨・黥布討伐でも奇策を進言したといわれる。劉邦が死の間際に樊噲を死罪にするよう命じたが、平は時間稼ぎをして、その命を救った。劉邦が死ぬと、郎中令となり、恵帝の傅となった。恵帝の六年(前189)、曹参が死ぬと左丞相となった。王陵が呂太后の専横に反発して辞職すると、右丞相に上った。呂太后が呂氏を王に立てようとすると、平はわざとそれに同意した。呂太后が没すると、周勃と共謀して呂氏一族を滅ぼした。文帝が即位すると、自ら右丞相の位を周勃に譲って左丞相に下った。周勃が辞職するとひとり丞相となった。文帝の二年(前178)、病没した。
周勃(?~前169)
  絳侯。諡は武侯。沛の人。はじめ蚕を織るのを生業とした。劉邦が起兵すると、ともにと戦った。中涓・五大夫を経て、虎賁令となった。劉邦が王となると、威武侯となり、将軍となった。三を平定し、項羽と戦うのに功績をあげた。八千余戸を与えられて、絳侯とされた。臧荼・韓王信・豨・盧綰らの叛乱を平定するのに功績があった。恵帝の六年(前189)、太尉に任ぜられた。呂太后が没すると、平と図って呂氏一族を誅滅し、文帝(劉恒)を擁立した。右丞相に任ぜられたが、辞職した。平が没すると、丞相に返り咲いたが、またすぐ免職されて領国に赴いた。叛乱を計画していると讒言されて、逮捕された。薄昭に財物を与えて取りなしを頼み、薄太后が文帝に意見したので、周勃は釈放された。再び領国に赴き、そこで亡くなった。
賈誼(前201~前169)
  賈生ともいう。洛陽の人。若い頃から詩経を熟読し、文才で名高かった。河南の太守・某に見出されて、その側近となった。文帝に召し出されて博士となり、皇帝の質問にはことごとく答えたといわれる。一年余で、太中大夫にまで上った。正朔を改め、官服の色を変え、官名を一定にし、礼楽を興すことを建議したが、文帝が即位したばかりで実行できなかった。諸臣にねたまれて讒言され、長沙王の太傅に左遷された。不満を胸に抱きつつ、湘水のほとりで賦を作って屈原を弔った。長沙王のもとにあること四年余で都に呼び戻されて、の懐王(劉楫)の太傅に親任された。諸侯を削封するよう進言したが、文帝は聞き入れなかった。の懐王が落馬して死に、責任を感じた賈誼は悲しみ号泣すること一年にして没した。『書』『治安策』。
陸賈(?~?)
  の人。高祖に仕えて弁舌で知られた。南越に使いして南越王・趙佗に臣従を約さしめた。太中大夫に上り、高祖に詩書を説いた。呂氏が朝廷を専断すると、官を辞したが、平・周勃らとともにひそかに呂氏掃滅を謀った。文帝が即位すると、再び太中大夫となり、また南越に使いした。『語』。
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