南唐
[五代十国(907~960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周)
⇒十国(呉,南唐,前蜀,後蜀,南漢,楚,荊南,呉越,閩,北漢)
[南唐(937~975)]
烈祖(李昪)-中主(李璟)-後主(李煜)
李昪(889~943)
徐知誥。字は正倫。南唐の初代烈祖。在位937~943。徐州の人。李栄の子。幼くして孤児となり、江淮に流寓して楊行密に養われた。のちに徐温の養子となり、徐知誥と姓名を改めた。天祐八年(911)、功により呉の升州刺史となった。農耕養蚕を奨励し、刑法を寛め、節倹につとめて、治績を挙げた。十四年(917)、潤州刺史にうつった。翌年、揚州で乱が起こると、長江を渡って乱を静め、人心を掌握して、強固な勢力を築いた。徐温が呉の国政を握ると、斉王に封ぜられた。升元元年(937)、呉帝の楊溥を廃して自立した。姓を李に復し、名を昪と変え、唐室の後裔を自称した。国号を唐とし、都を金陵に置いた。荒れ地を開墾し、「升元条格」を公布し、外戚・宦官の影響力を排除した。国内は安定し、経済は発展し、人材は雲霞のごとく集まり、南方の大国として繁栄した。晩年は方士を妄信して金丹を服用し、怒りっぽくなり、人心を失った。
李璟(916~961)
もとの名を景通。字は伯玉。南唐の二代中主元宗。在位945~961。南唐の烈祖(李昪)の長男。昇元三年(939)、烈祖が呉から独立すると、斉王に封ぜられた。保大元年(943)、烈祖の死後に即位。保大四年(946)に閩を滅ぼして福建を併せ、九年(951)には楚を滅ぼして湖南を併せた。しかし後周に圧迫されて、江北十四州を失陥した。このため帝号を去り、国主と称して、領土の保全を図った。文学を愛し、多くの詞を残した。南唐二主のひとり。
李煜(937~978)
もとの名を従嘉。字は重光。南唐の三代後主。在位961~975。南唐の元宗(李璟)の六男。はじめ安定郡公に封ぜられ、のちに鄭王に封ぜられた。建隆二年(961)、中主の死後、金陵で即位した。詞や音曲を愛し、国費を遊興にかたむけた。唐の国号を去り、宋に入貢して臣従の姿勢をしめしたが、開宝八年(975)に曹彬率いる宋の南征軍によって滅ぼされた。開封に連行され、違命侯に封ぜられた。太宗の時代になって隴西公となったが、まもなく死去した。毒殺説も根強い。南唐二主のひとり。
馮延巳(903~960)
字は正中。諡は忠粛。広陵の人。南唐の烈祖に見えて秘書郎に任官した。李璟の元帥府に入って、掌書記となり、諫議大夫・同平章事に上った。保大四年(946)、福州の敗戦を擁護した罪で弾劾されたが、太子少傅にとどまった。翌年には昭武軍節度使に上り、十年(952)には左僕射・同平章事となって、中主から庶政の一切を委ねられた。翌年には湖南の失陥の責を負って退いたが、十三年(955)には知平章事となった。十五年には江北の失陥の責を負って退いたが、再び同平章事となった。南唐が後周の正朔を奉じるようになると、ようやく宰相を退いた。以後は太子太傅をつとめて、李煜に仕えて没した。宰相としては無定見だったが、文人として優れ、中主に愛された。
董源(?~962?)
字は叔達。鍾陵の人。南唐の李煜に仕えて北宛使となった。平淡な山水画を描いた。「瀟湘図」、「龍袖驕民図」。
韓熙載(902~970)
字は叔言。濰州北海の人。韓光嗣の子。後唐の同光年間に進士に及第した。父が李嗣源に殺されたため、南唐に亡命した。中書侍郎、光政殿学士承旨などをつとめた。夜ごとに宴を開き、声妓を侍らせ、賓客を招いて、放蕩にふけったという。文章をよくした。『擬議集』、『定居集』。
徐鍇(920~974)
字は楚金。広陵の人。南唐の中主(李璟)のとき、秘書郎を初任として、右拾遺・虞部員外郎に進んだ。後主(李煜)のとき、集賢殿学士・右内史舎人・兵吏部選事などをつとめた。「南唐の蔵書、天下に冠たり」と称されたのはかれの力が大きい。兄の徐鉉とともに二徐と称された。『説文通釈』、『方輿記』、『古今国典』、『歳時広記』、『説文隠音』はすでに佚した。『説文解字篆韵譜』、『説文解字系伝』などが伝わる。
周文矩(?~975)
句容の人。南唐烈祖(李昪)のとき、宮中に入って画を描いた。後主(李煜)のとき、翰林待詔に任ぜられた。人物画をもっぱらとし、宮廷の貴族や文士の生活を題材に描いた。画風は唐代の周昉に学んでさらに繊細華麗なものに高めた。震えるような「戦筆」の技法を多用した。「宮中図」、「蘇武李陵逢聚図」、「重屏会棋図」、「琉璃堂人物図」、「太真上馬図」。
伍喬(?~?)
廬江の人。幼くして廬山の国学に入り、詩文をもっぱらとした。南唐の保大元年(943)、「八卦賦」によって、進士に及第した。官は歙州通判・考工員外郎をつとめた。かれの詩の多くは散逸し、『全唐詩』に一巻が残るのみである。
巨然(?~?)
鐘陵の人。出家して開元寺の僧となり、董源に師事して山水画を学んだ。南唐滅亡後、汴京にうつり、開宝寺に住持した。学士院で「烟嵐暁景」の壁画をものして賞賛を受けた。「秋山問道図」、「層岩叢樹図」。
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