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天啓崇禎期

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラト,鄭氏台湾政権,明末農民叛乱
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)
徐鴻儒(?~1622)
  もとの名は誦。山東省巨野の人。山東鄆城に移り住んだ。聞香教主王森の弟子となった。王森の死後、王好賢・于弘志らとともに聞香教を布教した。天啓二年(1622)、蜂起を準備して事前に洩れ、やむなく鄆城で起兵して中興福烈帝を号し、大乗興勝と建し、紅巾をもって同志のしるしとした。鄆城・鄒県・滕県などを落とし、衆数万に達した。兗州・曲阜・郯城を囲んだ。のちに山東巡撫趙彦や山東総兵楊肇基による鎮圧にあい、鄒県に退いた。城破れて捕らえられ、北京で処刑された。
王三善(1565~1623)
  字は尤名。河南省永城の人。万暦二十九年(1601)、進士に及第した。荊州推官に任ぜられた。のちに吏部文選に転じた。泰昌年(1620)、太常少卿。天啓年(1621)、右僉都御史に任ぜられた。貴州の少数民族の安邦彦・奢崇らが反乱を起こすと、王三善は巡撫に任ぜられて鎮圧にあたった。三年(1623)正月、敵陣深くに誘い込まれて、軍は大打撃を被った。王三善は祁継祖・王建中らを派遣して蓮花堡を落とし、八姑蕩に進攻し、二百あまりの村寨を焼かせて、功により兵部侍郎に進んだ。烏江を渡り、漆山にせまって、奢崇・蔡貴・張向極らを捕らえた。のちに戦場で落馬して捕らえられ、殺された。
鍾惺(1574~1624)
  字は伯毅、号は退谷。湖北省竟陵の人。万暦年間に進士に及第した。福建提学僉事に任ぜられた。譚春とともに「竟陵派」を創始し、擬古文に反対した。『隠秀軒集』。
朱国祚(?~1624)
  字は兆隆、号は養淳。浙江省秀水の人。万暦十一年(1583)、進士に及第した。翰林院編修から諭徳に進んだ。豊臣秀吉が朝鮮に侵攻すると、交渉や妥協に反対した。二十八年(1600)、礼部右侍郎として尚書を行し、皇太子後継問題についてたびたび上疏した。天啓帝が即位すると、礼部尚書・東閣大学士に上り、国政に参与した。天啓年(1621)、文淵閣大学士に進んだ。三年(1623)、戸部尚書に転じ、まもなく致仕して帰郷した。諡は文恪。『介石齋集』。
熊廷弼(1559~1625)
  字は飛百、号は芝岡。湖北省江の人。万暦二十六年(1698)、進士に及第した。保定の推官に任ぜられ、御史に抜擢された。三十六年(1608)、東巡按となった。四十七年(1619)のサルフの戦い以後、楊鎬にわって東経略に任ぜられた。軍隊・火器の整備や城壕の修築に尽力したが、まもなく排斥されて職を去った。天啓年(1621)、瀋陽・陽失陥ののち、再び東経略に任ぜられた。守備に力を入れたが、王化貞が敵を軽んじて広寧を失陥し、やむなく関内に退いた。五年(1625)、忠賢による排撃を受け、冤罪によって処刑された。『中書牘』、『熊襄愍公全集』。
左光斗(1575~1625)
  字は遺直、号は浮丘。安徽省安慶の人。万暦三十五年(1607)、進士に及第した。中書舎人に任ぜられ、御史に進み、命を受けて屯田の事務を統括した。北方で治水開墾を進めた。泰昌年(1620)、楊漣らとともに李選侍による権力奪取を阻止し、李氏を幽閉させた。天啓三年(1623)、大理少卿に上った。翌年、左僉都御史となった。のちに楊漣とともに忠賢の二十四大罪を挙げて弾劾し、忠賢と広微の三十二斬罪を上奏した。五年(1625)、忠賢により獄に下され、拷問を受けて亡くなった。
楊漣(1572~1625)
  字は文孺、号は大洪。湖北省応山の人。万暦三十五年(1607)、進士に及第した。左副都御史に累進した。泰昌年(1620)、左光斗らと協力して李選侍による奪権を阻止した。天啓四年(1624)、忠賢の二十四大罪を上疏して、宦官たちの恨みを買った。翌年、忠賢に誣告され、逮捕されて獄に入れられ、拷問を受けたのち死んだ。崇禎初年、名誉回復されて、太子太保・兵部尚書の位を追贈され、忠烈公と諡された。『楊大洪集』。
張問達(?~1625)
  字は徳允。陝西省涇陽の人。万暦年間、進士に及第した。礼科都給事中に累進した。三十年(1602)、李贄(李卓吾)を弾劾して窮死させた。四十七年(1618)、刑部尚書に上った。天啓年(1621)十二月、吏部尚書に転じた。翌年、致仕した。五年(1625)、弾劾に遭い、まもなく亡くなった。
大中(1575~1625)
  字は孔時、号は廓園。嘉善の人。貧家の生まれで、高攀竜に師事して学んだ。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。工・礼・戸・吏各科の給事中を歴任した。天啓年(1621)、楊漣らとともに忠賢の罪を挙げて弾劾した。四年(1624)、弾劾を受けて郷里に帰った。翌年、逮捕されて拷問を受けたのち死んだ。『蔵密斎集』。
高攀竜(1562~1626)
  字は雲従、号は景逸。江蘇省無錫の人。万暦十七年(1589)、進士に及第し、行人に任ぜられた。二十一年(1593)、王錫爵に弾劾されて、掲陽典史に左遷された。郷里に帰り、親の喪を理由に出仕しなかった。顧憲成らとともに、無錫に東林書院を建て、そこで講学した。天啓年(1621)、光禄寺少卿に抜擢され、外戚の鄭国泰・鄭養性を弾劾したため、俸禄を奪われた。四年(1624)、都察院左都御史に上ったが、忠賢の迫害を受け、官を辞めて郷里に帰った。六年(1626)、「東林邪党」と指弾されて、捕らわれる前に投水自殺した。『高子遺書』、『周易易簡説』。
繆昌期(1562~1626)
  字は当時、号は西溪。直隷省江陰の人。万暦四十一年(1613)、進士に及第した。庶吉士に任ぜられた。翰林院検討に進んだが、東林党の人物として、給事中劉文炳による攻撃を受け、病を理由に官を去った。天啓初年に復帰し、左賛善となり、諭徳に進んだ。楊漣が忠賢を弾劾したとき、楊漣の上疏は昌期が起草にあたったと密告する者があって、忠賢はかれを恨んだ。このため昌期は休暇を乞うて帰郷した。まもなく楊漣・左光斗らに連座して、職を奪われ、拷問の末に獄中で没した。南明の福王政権のとき、文貞と追諡された。『従野堂存稿』、『周易九鼎』。
黄尊素(1584~1626)
  字は直長、号は白庵。浙江省余姚の人。万暦年間、進士に及第した。天啓二年(1622)、御史に任ぜられた。四年(1624)、時政十失を上疏して忠賢にさからい、俸給一年分を奪われた。まもなく再び忠賢を弾劾して、ますます恨まれた。翌年、罷免されて帰郷した。六年(1626)、獄に下され、刑死した。『忠端公集』。
丁紹軾(?~1626)
  池州貴池の人。万暦年間、進士に及第した。礼部侍郎に累進した。天啓五年(1625)、礼部尚書・東閣大学士に上り、国政に参与した。翌年、病没した。
李応昇(1593~1626)
  字は仲達、号は次見。江蘇省江陰の人。万暦四十五年(1617)、進士に及第した。江西南康府司理に任ぜられ、廉なことで知られた。天啓二年(1622)、西台御史に任ぜられた。四年(1624)、忠賢の十六罪状を挙げて弾劾し、閹党の恨みを買った。翌年、免職されて郷里に帰った。六年(1626)、逮捕され、北京の獄中で殺害された。崇禎初年に名誉回復され、太僕寺卿の位を追贈され、忠毅と諡された。『落落斎遺稿』。
葉向高(1559~1627)
  字は進卿、号は台山。福建省福の人。万暦十一年(1583)、進士に及第した。三十五年(1607)、礼部尚書・東閣大学士に上った。たびたび鉱税をやめるよう奏請したが、聞き入れられなかった。四十二年(1614)、官を去った。天啓年(1621)に復帰して、首輔となった。のち東林党の首魁と指弾されて、職を辞し郷里に帰った。『説類』を編纂した。
忠賢(1568~1627)
  河北省隸寧の人。はじめ無頼で学問がなかったので、みずから去勢して宦官となった。天啓帝(熹宗)の乳母・客氏と通じ、秉筆太監に上った。天啓帝の信任を受け、宮廷内に勢力を張った。天啓三年(1623)、東廠提督に上った。東林党を弾圧して権勢を振るい、宦官の閹党には生き神と崇拝されて、全国に生祠が建てられた。崇禎帝(毅宗)が即位すると弾劾されて、鳳陽に流され、自殺した。
広微(?~1627)
  字は顕伯。大名府南楽の人。允貞の子。万暦三十二年(1604)、進士に及第した。庶吉士となり、南京礼部侍郎に累進した。忠賢と同郷同姓のよしみで強く結び、天啓三年(1623)には礼部尚書に上った。忠賢にへつらい、外公と称された。
黄立極(?~?)
  字は中五。大名府城の人。万暦三十二年(1604)、進士に及第した。少詹事・礼部侍郎を歴任し、天啓五年(1625)、忠賢と同郷のために礼部尚書・東閣大学士に上った。翌年、内閣の首輔となった。崇禎初年、忠賢が失脚すると、罷免されて蟄居した。
趙南星(1550~1627)
  字は夢白、号は儕鶴。万暦年間、進士に及第した。吏部考功郎中に累進した。二十一年(1593)、権臣にさからって、官を辞して帰郷した。声望があり、顧憲成・鄒標と名声をひとしくした。天啓初年、左都御史・吏部尚書に任ぜられた。三年(1623)、忠賢にさからい、兵卒に落とされた。州で没した。忠毅と諡された。『趙忠毅公文集』、『味檗齋遺書』、『史韵』。
顧秉謙(1550~?)
  江蘇省崑山の人。万暦二十三年(1595)、進士に及第した。庶吉士から礼部右侍郎に累進した。天啓年(1621)、礼部尚書に進んだ。 三年(1623)、東閣大学士を兼任した。忠賢にへつらい、閹党として活動し、命を受けて楊漣・左光斗らを誅し、『三朝要典』編纂の総裁となった。崇禎初年、忠賢が失脚すると、庶民に落とされた。しかし、故郷には容れられず、老いて他郷をさすらった。
崇禎帝(1610~1644)
  朱由検,毅宗⇒。
米万鍾(?~1628)
  字は仲昭、号は友石。順天宛平の人。万暦二十四年(1596)、進士に及第した。永寧知県に任ぜられ、江西按察使に累進した。崇禎初年、太僕寺少卿に上った。北京海淀に住み、園林を築いて、米家園として知られた。米芾の書法を学んで、行書と草書をよくし、董其昌とともに「南米北董」とならび称された。『米友石先生詩』、『篆隷考訛』。
方従哲(?~1628)
  字は中涵。浙江省徳の人。万暦十一年(1583)、進士に及第した。庶吉士に任ぜられた。国子祭酒に累進した。四十一年(1613)、礼部尚書・東閣大学士に上った。宰相の位にあること七年、性格は臆病で、国政の大事に対応することができなかった。その発言の多くは皇帝の意を汲んでおこなわれ、誤りを諫めようとしなかった。泰昌帝の命に従って鄭貴妃を皇太后とするよう礼部に指令した。泰昌帝が李可灼の送った紅丸を服用して崩じたとき、臣の多くは李可灼を恨んだが、従哲は遺詔に従って李可灼に銀幣を贈った。崇禎帝が立つと、廷臣の多くはかれを弾劾したが、中極殿大学士に上った。死後、太傅の位を追贈され、文端と諡された。
趙率教(1569~1629)
  字は希龍、号は善。河北省薊陽の人。万暦十九年(1591)、武進士に及第した。甘州都司に任ぜられた。展伯営游撃・靖虜参将・延綏参将を歴任した。袁応泰の知遇を受けて、副総兵に抜擢され、典中軍事となった。天啓年(1621)、陽を失陥して逃亡し、斬罪に当たるとされたが、赦された。かれが関外の流民を組織して、若い者は従軍させ、老弱な者は屯田に当たらせると、軍の勢いはほどなく復活した。都督僉事に進んだ。六年(1626)、袁崇煥の命で出撃して勝利を得て、都督同知に進んだ。翌年、左都督に上り、錦州を防して後金の進攻を撃退した。功により太子少傅を加えられた。崇禎二年(1629)、遵化で後金のアジゲと戦い、流れ矢を受けて陣没した。
李流芳(1575~1629)
  字は長衡、号は香海。江蘇省嘉定の人。万暦三十四年(1606)、郷試に及第した。進士となるのをあきらめ、檀園を築き、その中で読書にふけった。詩・書・画にすぐれた。同郷の程嘉燧・時昇・婁堅とともに嘉定四先生とならび称された。『檀園集』。
楊景辰(1580~1629)
  字は載甫、号は侗陔。福建省江の人。万暦四十一年(1613)、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。天啓二年(1622)、会試典試官をつとめ、のちに詹事府少詹事・翰林院侍読学士に進んだ。六年(1626)、礼部侍郎となり、『三朝要典』編纂の副総裁をつとめた。崇禎年(1628)、光禄大夫・左柱国・少保・太子太保・礼部尚書・文淵閣大学士に上った。しかし、忠賢の党与とみなされて失脚し、郷里に帰るよう命じられた。翌年、病没した。
毛文龍(1576~1629)
  字は振南。浙江省仁和の人。の万暦末年、都司として朝鮮への援軍となり、東に駐屯した。天啓年(1621)、海道より逃げ帰り、後金の鎮江守将を襲って殺した。功により総兵官に進んだ。皮島に駐屯し、左都督に上った。袁崇煥にその専横を憎まれ、その罪を列挙されて殺された。
楊鎬(?~1629)
  字は汝京、号は鳳筠。河南省商丘の人。万暦八年(1580)、進士に及第した。右僉都御史に累進した。二十五年(1597)、日本軍が朝鮮に二度目の進攻(慶長の役)をおこなうと、命を受けて朝鮮への援軍におもむいた。翌年、軍が蔚山で大敗すると、軍を棄てて逃亡し、免職された。三十八年(1610)、東安撫にあたったが、まもなく帰休を請うた。四十六年(1618)、兵部左侍郎・東経略となった。翌年、四路に分かれて後金を攻め、大敗した。獄に下され、のちに殺された。
奢崇(?~1629)
  四川省永寧の人。彝族の出身。奢尽忠の子。万暦年間、永寧宣撫使を継いだ。天啓年(1621)、東への援軍のため、兵を準備する機会をとらえて、にそむいて起兵した。重慶に拠り、遵義・瀘州・内江などの地を落とし、進んで成都を囲んだ。国号を大とし、丞相以下の官を置いた。部将羅乾象にそむかれ、軍に敗れて、水西の安邦彦に投じた。崇禎二年(1629)、兵敗れて殺された。
袁崇煥(?~1630)
  字は素、号は自如。広東省東莞の人。万暦四十七年(1619)、進士に及第した。天啓二年(1622)、兵部職方主事となり、単騎出関して東を視察し、帰京後に東の守備を志願した。寧前兵備僉事に抜擢されて、孫承宗を助けて、寧遠を築き、寧錦に防柵を設けた。六年(1626)、後金のヌルハチ(の太祖)が寧遠を攻撃したときには、ポルトガルから輸入した大砲(紅夷砲)を駆使して、軍を敗北させた。功績により東巡撫となった。翌年、ホンタイジ(の太宗)を寧錦で破った。崇禎年(1628)には兵部尚書・右副都御史に上り、薊・登莱・天津の軍務を統括しつつ、寧遠に鎮した。翌年、叛将の毛文龍を殺した。ホンタイジがモンゴル経由で北京に迫ろうとしたため、急遽駆けつけたが、後金の反間策に惑わされた崇禎帝によって処刑された。『袁督師遺集』。
李之藻(1569~1630)
  字は振之、号は淳庵居。浙江省仁和の人。万暦年間、進士に及第した。太僕寺少卿に上った。マテオ・リッチに従い、徐光啓らとともに洗礼を受けてキリスト教徒となった。西洋の天文・数学・暦学を学び、暦法の改正やユークリッド『幾何原本』の翻訳などにつとめた。『天学初函』。
官惟賢(?~1630)
  万暦末年、甘粛裴家営守備となった。天啓二年(1622)、都司僉書署鎮番参将事から宣府游撃・延綏西路参将を歴任した。五年(1625)、オルドス部の侵入を撃退した。翌年、パンチラマダイチ(班記刺麻台吉)らが侵入すると、これを破った。七年(1627)、銀定・賓兔・矮木素らの侵入を受けると、また戦功を挙げた。崇禎年(1628)、山海北路副総兵となった。三年(1630)、後金軍と鳳凰店で戦い、後金軍が撤退をはじめると追撃して、遵化で矢を受けて陣没した。
春(1586~1631)
  字は友。竟陵の人。天啓末年に郷試に及第した。『岳帰堂稿』。
王化貞(?~1632)
  字は肖乾。山東省諸城の人。の万暦四十一年(1613)、進士に及第した。はじめ戸部主事となり、右参議に進んだ。広寧に鎮し、モンゴルの炒花諸部を安撫した。天啓年(1621)、後金軍が陽・瀋陽を落とすと、右僉都御史に進んだが、東経略熊廷弼との間に不和をきたした。翌年正月、西平堡で敗れ、部将の孫得功に叛かれて、広寧を失陥し、関内に逃げ込んだ。罪をえて逮捕され、のちに殺された。
朱国禎(?~1632)
  字は文寧、号は平涵。浙江省湖州の人。万暦年間に進士に及第した。翰林院編修・国子祭酒などを歴任し、のちに病のため郷里に帰った。均田をおこない、検地をおこなって税役を定めるよう浙江巡撫に上書して、災いをまねき、居室を焼かれてしまった。天啓三年(1623)、礼部尚書・東閣大学士に任ぜられ、国政に参与した。翌年、葉向高・韓爌らの後をうけて内閣の首輔となった。忠賢らにさからい、弾劾を受けて、病を称して致仕した。『涌幢小品』、『皇史概』、『大政記』。
徐光啓(1562~1633)
  字は子先、号は玄扈。江蘇省上海の人。若いころから科挙に失敗を重ねた。マテオ・リッチにキリスト教の教えを受けて、万暦三十一年(1603)に洗礼を受けた。洗礼名はパウロ。翌年、ようやく進士に及第し、翰林院庶吉士に任ぜられた。三十六年(1608)、徐家匯に天主堂を創建した。天文・暦学・地理・数学を学び、西洋学術の輸入・翻訳に努力した。少詹事・河南御史・礼部右侍郎・礼部尚書・東閣大学士などを歴任し、崇禎六年(1633)には文淵閣大学士に上った。『幾何原本』、『農政全書』、『崇禎暦書』。
鄭以偉(?~1633)
  字は子器、号は方水。江西省上饒の人。万暦二十九年(1601)、進士に及第した。翰林院庶吉士から編修を経て、詹事府少詹事に転じた。泰昌年(1620)、礼部右侍郎となった。天啓年(1621)、左侍郎・協理詹事府となった。四年(1624)、忠賢と合わず、ひとたび官を辞して帰郷した。崇禎二年(1629)、礼部尚書・東閣大学士に上った。太子少保に進んだ。
賀虎臣(?~1633)
  保定の人。天啓初年、天津海防游撃・登莱参将を歴任し、兗州にうつった。六年(1626)、延綏副総兵となった。楊肇基に従って、オルドス部の侵入を防いだ。崇禎二年(1629)、寧総兵に進んだ。四年(1631)、保安で農民軍を囲んだ。張応昌と合流して、保安を奪回した。翌年、合水を囲み、農民軍を破った。六年(1633)、千騎を率いて霊州を守ったが、衆寡敵せず、戦死した。
馬世龍(?~?)
  字は蒼。寧の人。武人の家に生まれ、宣府遊撃となった。天啓二年(1622)、永平副総兵となった。孫承宗に見出されて都督僉事・三屯営総兵官に任ぜられた。四年(1624)、袁崇煥に従って東巡し、右都督を加えられた。崇禎年(1628)、王在に憎まれて逮捕された。翌年、喬允升の上申により功によって罪を贖うこととされた。三年(1630)、左都督に進んだ。東の四城を回復した功により、太子少保を加えられた。六年(1633)、寧総兵となった。オルドスが賀蘭山を侵すと、これを挟撃して破った。
王永光(?~?)
  字は有孚、号は射斗。大名府長垣の人。万暦年間に進士に及第した。天啓初年、南京右僉都御史に抜擢され、まもなく南京都察院事をつかさどった。のちに東林党人の排斥に遭い、官を辞して郷里に帰った。天啓五年(1625)、兵部尚書として召された。翌年、忠賢につかず、病と称して帰った。崇禎年(1628)、戸部尚書に任ぜられ、まもなく吏部にうつった。四年(1631)、弾劾を受けて致仕した。
于廷(?~1634)
  字は孟諤、号は定軒。江蘇省宜興の人。万暦年間、進士に及第した。知県に任ぜられ、御史に進んだ。泰昌年(1620)、太常少卿となった。吏部左侍郎に上った。天啓四年(1624)、忠賢にさからって罷免された。崇禎初年、南京右僉都御史として復活した。四年(1631)、左都御史に転じた。翌年、帝の意にさからって罷免され、帰郷した。『定軒稿』。
劉鴻訓(1561~1634)
  字は黙承、号は青岳。山東省長山の人。万暦年間、進士に及第した。天啓年間、少詹事に進んだが、忠賢に逆らって免職された。崇禎年(1628)、復職し、礼部尚書・東閣大学士に上り、国政に参与した。翌年、賄賂を受け取って勅書を改竄したとして、罷免されて州で軍役につけられた。のちに配所で没した。『四素山房集』。
朱延禧(?~?)
  字は允修。山東省聊城の人。万暦年間、進士に及第した。翰林院検討から礼部右侍郎に累進した。宮中で講義をつとめた。天啓三年(1623)、礼部尚書として入閣した。まもなく太子太保・文淵閣大学士に進んだ。五年(1625)、吏部尚書・建極殿大学士を加えられた。楊漣・左光斗らを救おうとして、忠賢に逆らい、弾劾に遭って罷免され、帰郷した。『畸斎詩文集』。
李日華(1565~1635)
  字は君実、号は竹懶。浙江省嘉興の人。万暦二十年(1592)、進士に及第した。太僕少卿に上った。書画にたくみで、博物君子と称した。『官制備考』、『姓氏譜纂』、『恬致堂集』。
曹文詔(?~1635)
  山西省大同の人。はじめ熊廷弼・孫承宗らに従って東で従軍し、游撃に累進した。袁崇煥の死後、馬世龍に従って参将となった。崇禎三年(1630)、延綏東路副総兵に任ぜられ、陜西の農民軍と戦った。翌年、王嘉胤を滅ぼして、功により臨洮総兵となった。相次いで点燈子・李老柴・一条龍・掃地王などの首領を討った。杜三・楊老柴らを捕らえ、紅軍友を斬った。七年(1634)、後金軍が西進し、懐仁・井坪堡・応州を包囲すると、曹文詔は懐仁を固く守った。包囲が解けると、追撃したが、敗れた。山西巡撫甡の推挙により援剿総兵官となった。洪承疇と合流して農民軍を追撃し、山陽・鎮安から中に入った。さらに商州を経て嶺川にいたった。高迎祥・李自成らの伏兵に遭って包囲下に陥り、重傷を負って自刎した。
高迎祥(?~1636)
  ⇒高迎祥
董其昌(1555~1636)
  字は宰、号は思白。江蘇省松江の人。万暦十七年(1589)、進士に及第した。湖広副使、礼部右侍郎などの官を歴任し、南京礼部尚書に上った。詩書画にすぐれた。南宗画を強調して、末画壇を指導した。書も行草に優れた。『容台文集』。
文震孟(1574~1636)
  もとの名は従鼎。字は文起、号は湛持。江蘇省長洲の人。文徴の曾孫にあたる。天啓二年(1622)、首席で進士に及第し、翰林院修撰に任ぜられた。忠賢にさからい、杖刑を受けて罷免され、郷里に帰った。崇禎年(1628)、召されて侍読となり、左中允にうつった。忠賢の余党の王水光を弾劾して、官を去った。八年(1635)、復職した。まもなく礼部侍郎・東閣大学士に抜擢された。温体仁による排斥を受け、また官を去り隠居した。病没し、諡を文粛といった。『姑蘇名賢小記』、『薬園文集』。
仁錫(1581~1636)
  字は卿。江蘇省長洲の人。天啓二年(1622)、進士に及第した。翰林院編修に任官した。忠賢におもねらず、罷免されて帰郷した。崇禎年(1628)に復職し、神宗・光宗両朝の実録編纂に参与した。南京国子祭酒に上った。『皇世法録』、『四書語録』、『周礼句解』、『無夢園集』。
宗達(?~1636)
  字は上宇、号は青門。江蘇省武進の人。万暦年間、進士に及第した。翰林院編修より国子監祭酒に累進した。崇禎年(1628)、礼部尚書に上った。三年(1630)、東閣大学士を兼ね、国政に参与した。温体仁に頼ることが多かった。八年(1635)、致仕して帰郷した。『渙亭存稿』。
侯良柱(?~1637)
  字は朝石。四川省南渓の人。天啓年(1621)、四川副総兵に任ぜられた。永寧の奢崇が乱を起こし、遵義を攻め落とすと、良柱は起兵して乱の鎮圧にあたった。三年(1623)、遵義を奪回し、奢崇の部将の安銮を降した。六年(1626)、四川総兵の理となり、永寧に鎮した。崇禎二年(1629)、劉可訓・鄧紀らを率いて、奢崇と五峰山で決戦し、大勝をおさめた。七年(1634)、左都督に上り、正式に四川総兵に任ぜられ、広に駐屯した。十年(1637)、李自成軍の四川入りを阻止しようとして、梓撞で敗死した。
孫承宗(1563~1638)
  字は稚縄、号は愷陽。保定高陽の人。万暦年間、進士に及第した。天啓年(1621)、左庶子として日講官にあてられ、少詹事に進んだ。翌年、兵部尚書・東閣大学士に任ぜられた。自ら志願して関外の軍を監督した。逃亡した将を処分し、軍紀を粛正した。関外にあること四年、大城九・堡四十五を修復し、兵十一万を鍛錬し、地四百里を拓き、屯田五千頃を開き、歳入十五万に及んだ。のちに忠賢にさからって、致仕を請うた。崇禎二年(1629)、復職し、通州・山海関で後金の侵攻をふせいだ。功により太傅を加えられたが、固辞した。四年(1631)、再び関外に出て、松山・錦州の軍務を担当した。部将の祖大寿がに降ったため、病と称して帰郷した。しばしば召されたが出仕しなかった。十一年(1638)、家人を率いて高陽城を守ったが、後金軍に城を破られて、自縊した。諡は文正。『高陽集』、『督師全書』。
朱燮(1566~1638)
  字は懋和、号は衡岳。浙江省山陰の人。万暦年間、進士に及第した。大理寺評事を経て、四川左布政使となった。天啓年(1621)、四川永寧宣撫使奢崇と貴州水西土目安邦彦がそむくと、兵部侍郎を加えられ、四川・湖広および荊・岳・鄖・襄・陜西中の五府の軍務を総督し、四川巡撫の任も兼ねた。成都を百余日のあいだ固守し、良玉らに重慶・永寧を奪回させた。四年(1624)、兵部尚書として貴州・雲南・広西の軍務を総督し、遵義に移鎮した。崇禎二年(1629)、水西を破り、奢崇・安邦彦を殺した。流民を招撫し、道路を修復して駅を築き、広く屯田を開いて、西南を安定させた。『督疏草』、『朱襄毅疏草』。
温体仁(?~1638)
  字は長卿。浙江省烏程の人。万暦二十六年(1598)、進士に及第した。二十八年(1600)、翰林院編修に任ぜられた。四十四年(1616)、少詹事に進み、南京翰林院印をつかさどった。天啓二年(1622)、礼部右侍郎・協理詹事に進んだ。翌年、左侍部となった。七年(1627)、南京礼部尚書に任ぜられた。崇禎三年(1630)、礼部尚書・東閣大学士に上った。太子太保を加えられ、文淵閣大学士に進んだ。五年(1632)、少保・太子太保を加えられ、戸部尚書・武英殿大学士となった。六年(1633)、周延儒にわって内閣の首輔となった。十年(1637)、病と称して辞職し、郷里に帰った。
継儒(1558~1639)
  字は仲醇、号は眉公。江蘇省松江の人。昆山のふもとに隠棲して、著述にはげんだ。詩書画をよくした。『読書鏡』、『眉公十集』。
郝敬(1558~1639)
  字は仲輿、号は望。京山の人。万暦十七年(1589)、進士に及第した。『小山草』。
程国祥(?~1639)
  字は仲若、号は我旋。応天府上の人。万暦年間、進士に及第した。知県を経て礼部主事となった。天啓四年(1624)、吏部四司主事を歴任し、忠賢にさからって排斥された。崇禎二年(1629)、復職し、戸部尚書に累進した。軍糧の需給に貢献して崇禎帝の賞賛を受け、礼部尚書・東閣大学士に上って、国政に参与した。十二年(1639)、排斥を受けて帰休を請い、まもなく病没した。
銭象坤(1569~1640)
  字は弘載、号は麟武。浙江省会稽の人。万暦年間、進士に及第した。庶吉士に任ぜられた。銭龍錫・銭謙益・銭士升らとともに四銭と称された。天啓年間、礼部右侍郎に累進したが、忠賢による排斥にあって辞職した。崇禎年(1628)、礼部尚書として召された。翌年、京城を守った功により、東閣大学士を兼ね、国政に参与した。四年(1631)、周延儒による排斥にあって致仕して帰郷した。
熊文燦(?~1640)
  貴州永寧の人。万暦三十五年(1607)、進士に及第した。崇禎年(1628)、福建巡撫に任ぜられた。鄭芝龍が廈門から銅山を攻めると、文燦は芝龍を招撫して、海防游撃に任じた。のちに海賊の李魁奇・劉香らを討って功を挙げ、楊嗣昌の推挙を受けた。十年(1637)、兵部尚書・右副都御史となった。王家禎にわって南畿・河南・山西・陝西・湖広・四川の軍務を総理し、軍備を増強して農民軍を包囲した。軍は連勝して、農民叛乱は停滞に陥った。翌年、張献忠が偽降すると、これを受け入れた。十二年(1639)、張献忠が再起して、軍を立て続けに破ると、文燦は責任を問われて処刑された。
蔡国用(?~1640)
  字は正甫、号は静原。江西省臨川の人。万暦年間、進士に及第した。中書舎人を経て御史に進んだ。天啓年間、東林党人として忠賢による排斥を受けた。崇禎年(1628)、復活し、工部右侍郎に累進した。十一年(1638)、京城を修築した功により、礼部尚書に上った。まもなく戸部尚書・文淵閣大学士にうつった。在官のまま没した。『後楽堂集』、『周易匯解』。
薛国観(?~1641)
  字は廷賓、または家相。陝西省韓城の人。万暦年間、進士に及第した。天啓年間、戸科給事中に進んだ。崇禎年(1628)、辞職して帰郷したが、まもなく兵科給事中として呼び戻され、左僉都御史に累進した。十年(1637)、礼部左侍郎・東閣大学士に上り、国政に参与した。十二年(1639)、内閣の首輔となり、帝の意にさからって、外戚の李国瑞に死を迫った。翌年、賄賂を通じたとして逮捕され、自殺させられた。
張瑞図(1570~1641)
  字は長公、号は二水。福建省江の人。万暦年間に進士に及第した。天啓六年(1626)、忠賢にへつらい、礼部尚書・東閣大学士に進み、国政に参与した。書法にすぐれ、董其昌・米万鍾と名声をひとしくした。忠賢の生祠の碑文は多くかれの手によって成った。崇禎初年、忠賢が処刑されると、連座して徒刑となるところ、贖って民となった。『白毫庵集』。
徐宏祖(1586~1641)
  名は弘祖とも書く。字は振之、号は霞客。江蘇省江陰の人。末の混乱のため、官途につくことを断念し、中国各地を遊歴した。その旅程は前後三十年におよび、溶岩石地帯を歩いたり、長江の源流をきわめるなどの探検をおこなった。その旅行記『徐霞客游記』は、古今紀游第一の佳作と賞され、地理・地質・植物学にとっても貴重な文献となった。
楊嗣昌(1588~1641)
  字は文弱。湖南省武陵の人。楊鶴の子。万暦三十八年(1610)、進士に及第した。杭州府教授・南京国子博士・戸部郎中などを歴任した。天啓三年(1623)、閹党による排斥を受け、病と称して辞職し、郷里に帰った。崇禎年(1628)、河南副使として再起し、右参政を加えられた。のちに右僉都御史に任ぜられ、永平巡撫となった。山海関を修復して、後金の侵入を防いだ。七年(1634)、兵部右侍郎・右僉都御史に任ぜられ、宣府・大同・山西の軍務を総督した。十年(1637)、農民叛乱が中原を席捲すると、兵部尚書に進み、李白成を商洛山に逼塞させ、張献忠をひとたび招撫することに成功した。翌年、礼部尚書・東閣大学士に上った。十二年(1639)、張献忠が再起すると、各地の農民軍の活動は活発化し、楊嗣昌は鎮圧に奔走することとなった。十四年(1641)、湖北の沙市で没した。
張溥(1602~1641)
  字は天如、号は西銘。江蘇省太倉の人。徐光啓に師事し、学問をたしなんだ。読書しては必ず七遍手写したので、書斎を名づけて七録斎といった。詩文にたくみで同郷の張采とならび称されて、婁東二張と号した。崇禎四年(1631)、進士に及第し、翰林院庶吉士となったが、親の喪に服すため辞職した。六年(1633)、復社の虎丘大会を主催した。晩年は温体仁に排斥された。『七録斎稿』、『史紀事本末』、『史紀事本末』。
何如寵(1569~1642)
  字は康侯、号は芝岳。安徽省桐城の人。万暦二十六年(1598)、進士に及第した。庶吉士に任ぜられたが、父の病のため帰郷した。三十九年(1611)、復官して中允となり、右庶子に転じた。天啓年(1621)、礼部左侍郎となった。左光斗と同郷で親しかったため、閹党による弾劾を受けて、職を奪われた。崇禎帝が即位すると、吏部右侍郎に任ぜられた。さらに礼部尚書に上った。劉鴻訓を弁護して、死罪を流罪に改めさせた。また袁崇煥の冤罪をそそぐべく尽力したが、帝に聞き入れられなかった。少保・戸部尚書・武英殿大学士を加えられた。のちに陵の官邸で死去した。『奏疏』、『後楽堂稿』。
張至発(?~1642)
  字は対鵠、号は憲松。山東省淄川の人。万暦二十九年(1601)、進士に及第した。玉田・遵化の知県や礼部主事、河南按察御史などを歴任した。党争を厭って病と称して辞職した。天啓年(1621)、大理寺丞として再起した。三年(1623)、再び辞職して郷里に帰った。崇禎五年(1632)、順天府丞となり、光禄卿に進んだ。八年(1635)、礼部尚書・東閣大学士として入閣し、国政の機密に参与した。太子太保・文淵閣大学士・戸部尚書などを歴任した。十年(1637)、温体仁にわって内閣の首輔となった。ときに李自成の農民軍の勢力が伸張し、王朝の命運は風前の灯火であったが、政権を維持することに汲々として、抜本的な対策を講ずることができなかった。翌年、宰相の位を退いて、郷里に帰った。十四年(1641)、再び任用を求められたが、固辞した。翌年、病没して、少保の位を贈られた。
楊文岳(?~1642)
  字は斗望。四川省南充の人。万暦四十七年(1619)、進士に及第した。天啓五年(1625)、兵科給事中に抜擢された。崇禎二年(1629)、江西右参政として出向し、湖広按察使・広西按察使を歴任した。十二年(1639)、兵部右侍郎となり、保定・山東・河北の軍政を総督して、農民蜂起の鎮圧にあたった。十四年(1641)、李自成が洛陽を破り、開封に迫ると、文岳は援軍を率いておもむき、農民軍の将の一条龍を殺した。陜西総督の傅宗龍と合流したが、河南蔡で敗れた。翌年、李自成が三たび開封を囲むと、文岳は丁啓睿・左良玉・虎大威らを従えて救援に向かったが、朱仙鎮で大敗した。汝寧で農民軍のために殺された。
傅宗龍(?~1642)
  字は仲綸。雲南省昆の人。万暦三十八年(1610)、進士に及第した。銅・巴県知県に任ぜられた。戸部主事に転じた。天啓四年(1624)、貴州巡撫・監軍に任ぜられた。六年(1626)、安邦彦を破り、西南を平定した。太僕少卿を加えられた。崇禎三年(1631)、右僉都御史・巡撫順天となった。十年(1637)、楊嗣昌の推挙により、四川巡撫となった。十二年(1639)、兵部尚書に上ったが、崇禎帝と合わず、解職され、二年にわたって獄に下った。十四年(1641)、甲の推薦により、出獄して兵部右侍郎・副都御史となり、陝西三辺総督となって農民軍を討った。しかし李自成・羅汝才らに包囲され、孤軍力戦したが捕らえられ、屈することなく殺された。太子少保に追封され、忠壮と謚された。
汪喬年(?~1642)
  字は歳星。遂安の人。天啓二年(1622)、進士に及第した。刑部・工部・按察使を歴任した。崇禎十四年(1641)、右僉都御史・陝西巡撫に任ぜられた。傅宗龍が捕殺されると、「傅公死して、賊を討つに人無し!」と嘆きつつ、陜西総督の任を継いだ。李自成の祖先の墓を暴き、軍を発して李自成を討った。三万人を集めて賀人龍に率いさせたが、賀人龍は戦わずして敗走した。翌年、李自成・羅汝才の軍に襄城を攻められ、城落ちて汪喬年は捕らえられた。屈することなく殺された。
賀人龍(?~1642)
  陝西省米脂の人。万暦年間に武進士に及第した。はじめ延綏巡撫の洪承疇に従って、陜西の農民軍の鎮圧にあたり、賀瘋子と称された。のちに奇瑜・楊嗣昌に従って、都司企事より参将・副総兵・総兵と累進した。崇禎七年(1634)、隴州で李自成を包囲した。十三年(1640)、楊嗣昌・左良玉らとともに張献忠を瑪瑙山で破った。十五年(1642)、襄城で戦わずして敗走し、城を失陥し、総督の汪喬年が殺されたため、崇禎帝の怒りを買い、陝西総督の孫伝庭に斬首された。
姜名武(?~1642)
  字は我揚。保徳州の人。天啓二年(1622)、武進士に及第し、大同威遠守備に任ぜられた。崇禎初年、大水峪遊撃に転じた。杏山城の築城に功があり、宣府西城参将となった。宣府右となり、通州副総兵に抜擢された。諸陵を守って功があり、保定総督楊文岳の下で典中軍となり、忠勇営団練事を兼ねた。十五年(1642)、李自成軍が開封を包囲すると、援軍におもむき、朱仙鎮で戦死した。
甲(?~1642)
  四川省長寿の人。定州知県などを歴任した。崇禎年(1628)、刑部員外郎となった。七年(1634)、右僉都御史に抜擢された。十三年(1640)、兵部尚書に上り、傅宗龍や孫伝庭らの将軍を任用した。十五年(1642)、松錦の戦いで軍が大敗し、洪承疇がに降ると、甲は過失を糾弾され、辞任を願い出たが許されなかった。崇禎帝はひそかにかれに対講和を図らせようとしたが、甲の家童が誤って漏らしたため、群臣の激昂を買った。甲は獄に下され、市で斬られた。
林日瑞(1586~1643)
  もとの名は日烺。字は浴。詔安の人。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。天啓五年(1625)、戸部河南司主事となった。崇禎四年(1631)、湖広司郎中となり、浙江右参政に転じた。杭州湾の「捍海塘」を改修して、潮害を防いだ。七年(1634)、江西参政に転じ、湖東道を守り、城垣を改修整備した。十一年(1638)、浙江提刑按察使となった。翌年、広東右布政使となった。十四年(1641)、陜西左布政使に転じた。翌年、甘粛巡撫・都察院右副都御史となった。十六年(1643)、李自成の部将の賀錦が蘭州を攻め落とし、甘州に迫った。日瑞は半月にわたって城を守ったが、ついに陥落し、捕らえられた。屈することなく、磔にかけられた。
孫伝庭(1593~1643)
  字は伯雅、号は白谷。州振武の人。万暦年間、進士に及第した。天啓年間、吏部主事に累進したが、忠賢の専横を避けて、帰休を請うた。崇禎九年(1636)、陜西巡撫に抜擢された。盩厔黒水峪で高迎祥を捕らえた。十一年(1638)、洪承疇と合流して李自成軍を大いに破った。のちに北京に入って、後金に対する防にあたった。翌年、楊嗣昌による排斥を受け、獄に下った。十五年(1642)、兵部右侍郎・陜西総督として復帰。河南に兵を進めたが、郟県で李自成軍に敗れた。翌年、朝命により決戦をうながされ、再び河南に進軍して、汝州で大敗し、潼関に退いて陣没した。『白谷集』、『孫伝庭疏牘』。
麟徴(1593~1644)
  字は来皇、号は磊斎。浙江省嘉興の人。天啓二年(1622)、進士に及第した。建昌推官に任ぜられた。崇禎五年(1632)、吏部給事中に抜擢され、太常少卿に進んだ。性格は剛直で、直諫をもって知られた。吏部尚書の田唯嘉の不法を弾劾して免官された。十七年(1644)、李自成の大順軍が北京を囲むと、西門を守り、土石で城門を塞ぎ、決死の士を募って抗戦した。李自成が北京を攻め落とすと、麟徴は自殺した。のちに兵部右侍郎の位を追贈され、忠節と諡された。『家誡要言』。
璐(1593~1644)
  字は玉汝、号は鴻宝。浙江省上虞の人。天啓二年(1622)、進士に及第した。翰林院庶吉士に任ぜられ、翰林院編修に進んだ。しばしば上書して『三朝要典』の廃棄を請願した。崇禎八年(1635)、国子祭酒に上った。大学士温体仁の排撃を受けて離職した。十五年(1642)、兵部右侍郎・侍読学士として召された。翌年、戸部尚書に任ぜられた。李自成軍が北京を落とすと、自ら縊死した。行書・草書をよくし、画は山水竹石を得意とした。『倪文貞集』。
周延儒(1593~1644)
  字は玉縄。江蘇省宜興の人。万暦年間に進士に及第した。崇禎二年(1629)、礼部尚書・東閣大学士に上った。翌年から内閣の首輔となる。温体仁に攻撃されて、六年(1633)には病を理由に引退した。十四年(1641)、再び召されて内閣首輔となり、吏部尚書・中極殿大学士をつとめた。十六年(1643)年、軍が京畿に迫ったのに怯えて、あえて戦わなかった。しかし軍が退却したのを自分の功績のように見せかけて賞を受け、事が露見して崇禎帝に自殺を命じられた。
孔貞運(?~1644)
  字は開仲、号は玉横。安徽省建徳の人。孔子の六十三の孫にあたる。万暦四十七年(1619)、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。泰昌年(1620)、『神宗実録』と『六朝奏章』の編纂にあたった。天啓帝が立つと、『光宗実録』の編纂にあたった。ときに忠賢が専権をふるったが、かれは忠賢におもねろうとしなかった。崇禎年(1628)、国子監祭酒に任ぜられた。九年(1636)、礼部尚書・文淵閣大学士に上った。まもなく太子太保を加えられた。
方岳貢(?~1644)
  字は四長、号は禹修。湖広省穀城の人。天啓年間、進士に及第した。戸部主事から郎中に進んだ。崇禎年(1628)、松江知府として出向した。まもなく山東副使・右参議となり、江南の糧運をつかさどった。十六年(1643)、左副都御史・東閣大学士に上った。翌年、李自成が北京を落とすと、捕らえられて自殺した。『国瑋集』。
凌濛初(?~1644)
  字は玄房、号は初成。また即空観主人とも称した。浙江省烏程の人。上海県尉・知県理などを経て、征州通判に上った。李自成の軍が迫ったとき、悲憤のあまり血を吐いて死んだという。『二拍』、『顛倒因縁』。
李自成(1606~1645)
  ⇒李自成
劉宗周(1578~1645)
  字は起東、号は念台。浙江省紹興の人。万暦二十九年(1601)、進士に及第した。礼部主事・太僕寺少卿・工部左侍郎・都察院左都御史などを歴任した。陽学右派の理論家で、東林党に属した。南京の福王政権が滅び杭州が陥落すると、断穀して餓死し、王朝に殉じた。
練国事(1582~1645)
  字は君豫。永城の人。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。沛県知県・山陽知県を歴任した。天啓二年(1622)、監察御史に進んだ。忠賢に憎まれ、東林党として職を削られ、民とされた。崇禎年(1628)、監察御史として再び起用された。翌年、太僕寺少卿となり、山西の食糧輸送を監督した。三年(1630)、僉都御史・陝西巡撫となり、農民叛乱の鎮圧にあたった。翌年、農民軍の李老柴・一条龍を捕らえて京師に送った。五年(1632)、軍を督戦して農民軍の六十余人の首領を捕らえた。七年(1634)、奇瑜の恨みを買って、の過失をなすりつけられて逮捕され、兵卒として広西に送られた。十六年(1643)に赦されて、原職に復帰した。南明の福王政権で戸部左侍郎に任ぜられ、まもなく兵部左侍郎に転じた。病のため職を去り、没した。
文震亨(1585~1645)
  字は啓美。江蘇省長洲の人。天啓年間に貢生となり、中書舎人に任ぜられた。が滅ぶと絶食して亡くなった。書画をよくした。また『長物志』は中国造園文献のひとつとして知られた。『秣陵竹枝』、『詠』。
左良玉(1599~1645)
  字は昆山。山東省臨の人。はじめ兵卒として東での後金との戦いに従軍し、罪をえた。のちに総督侯恂に認められて副将に抜擢され、東で戦い、戦功を挙げた。関内にうつって農民叛乱の鎮圧にあたり、李自成・張献忠らと戦った。総兵に上り、軍勢は数十万にいたった。平賊将軍に任ぜられ、寧南伯に封ぜられ、武昌に駐屯した。南明の弘光帝が立つと、侯に進んだ。弘光年(1645)、君側をめるとの名目で馬士英を撃つべく檄を飛ばし、挙兵して武昌から東下したが、九江にいたって病没した。
銭龍錫(1579~1645)
  字は稚文、号は機山。江蘇省華亭の人。万暦年間、進士に及第した。礼部右侍郎に累進した。天啓年間、忠賢による排斥を受けて官を去った。崇禎初年、復職して礼部尚書・東閣大学士に上った。二年(1629)、袁崇煥が毛文龍を殺した事件に連座して、辞職した。四年(1631)、黄道周を通して定海に兵を送るよう上疏した。『競余存稿』。
奇瑜(?~1645)
  字は玉鉉。山西省保徳の人。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。崇禎五年(1632)、右僉都御史・巡撫延綏に任ぜられ、農民叛乱の鎮圧にあたった。七年(1634)、総督陜西・山西・河南・湖広・四川軍務に抜擢されて、均州に進軍し、諸将を糾合して農民軍を討った。李自成らの偽降策にかかって包囲からの脱出を許し、宝鶏・鳳翔を失陥したため、朝廷での弾劾を受けた。南明王政権が立つと、東閣大学士として召されたが、赴くことができず、まもなく病没した。
方震孺(1585~1645)
  字は孩未。桐城の人。万暦四十一年(1613)、進士に及第した。はじめ沙県知県となり、のちに御史として召された。忠賢にさからい、閹党に憎まれた。巡按東・監紀軍事をつとめ、後金の侵入を防いだ。崇禎八年(1635)、農民軍から寿州を守り、功により右僉都御史・広西巡撫に進んだ。南明の福王政権に参加したが、馬士英らと合わず、帰郷して憂憤のうちに没した。
張献忠(1606~1646)
  ⇒張献忠
李若星(?~1646)
  字は紫垣。息県の人。万暦三十二年(1604)、進士に及第した。棗強知県に任ぜられ、真定知府に転じた。天啓年(1621)、尚宝司卿・大理寺少卿などをつとめた。翌年、河西巡撫として出向し、オルドスを討った。忠賢に憎まれて讒言を受け、五年(1625)に免職され、翌年には廉州に流された。崇禎帝が即位すると呼び戻され、工部右侍郎・右僉都御史として起用され、河道のことを総理した。黄河を浚渫して堤防を修築した。農民軍を討って功を挙げ、兵部右待郎に転じた。崇禎十一年(1638)、総督両湖川雲貴五省軍務となり、貴州巡撫を兼ねた。南明の福王政権のとき、帰休を乞い、貴州の黔陽に寓居した。桂王政権が立つと、吏部尚書として召されたが、赴く前に乱兵のために殺された。
良玉(1574?~1648)
  四川省忠州の人。石砫宣撫使馬千乗の妻。騎射をよくし、文章に通じ、常に男装した。万暦二十七年(1599)、夫とともに播州の乱を討って功績を挙げた。馬千乗が事件に連座して獄死すると、その職を継ぎ、石砫宣撫使に任ぜられた。その部衆は白杆兵と称し、勇敢なことで知られた。天啓年(1621)、援の戦におもむき、後金軍と戦った。また奢崇の乱の平定に参与した。功により都督詹事に任ぜられ、総兵官となった。崇禎年間に入って、しばしば農民軍と戦い、十七年(1644)には張献忠の侵入をはばんだ。のちに病没した。
応星(1587~?)
  字は長庚。江西省奉の人。万暦四十三年(1615)、郷試に及第した。崇禎七年(1634)に江西分宜教諭となり、十一年(1638)に福建汀州府推官に任ぜられた。十四年(1641)に南京亳州の知事となったが、十七年(1644)に官を辞して郷里に帰り、以後仕官しなかった。『天工開物』。
鄭三俊(?~?)
  字は用章。建徳の人。万暦二十六年(1593)、進士に及第した。氏知県に任ぜられ、南京礼部郎中・帰徳府・福建提学副使などを歴任した。天啓初年、光禄少卿として召され、太常に転じた。忠賢に逆らって徐大相・李三才らを救おうと奔走し、忠賢に憎まれた。崇禎初年、南京戸部尚書に任ぜられ、のちに吏部尚書に転じ、太子少保を加えられた。さらに刑部尚書をつとめた。十五年(1642)、吏部尚書となった。崇禎帝の死後、山中に影庵を築いて、巣雲老人を号し、隠棲した。『巣雲影庵』。
范復粹(?~1657)
  字は王坡、号は六。山東省黄県の人。万暦四十七年(1619)、進士に及第した。開封府推官・河南道御史・礼部左侍郎・大礼寺丞・東閣大学士などを歴任した。崇禎十三年(1640)、内閣首輔に上った。翌年、太子太傅となった。の滅亡後、に仕えず、南廬山に隠棲した。
↓次の時,南明

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