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寧宗理宗期

南宋(1127~1279)]
北宋太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
高宗(趙構)-孝宗(趙シン)-光宗(趙惇)-寧宗(趙擴)-理宗(趙昀)-度宗(趙キ)-恭宗(趙ケン)-端宗(趙昰)-王(趙ヘイ)
朱熹(1130~1200)
  朱子と称される。字は晦、または仲晦、号は晦庵。諡は文公。徽州婺源の人。朱松の三男。南剣州に生まれた。父が没すると、胡憲に師事した。紹興十八年(1148)、科挙に及第した。泉州同安県の主簿となるが、わずか四年で退官した。李延平に師事し、儒学を学んだ。周東來と『近思録』を共著し、学を大成した。程伊川の理気二論を受け継ぎ、これを体系化した。朱子学の祖。『資治通鑑綱目』、『詩経集伝』、『名臣言行録』など著作多数。
周必大(1126~1204)
  字は洪道、号は平園老叟。吉州廬陵の人。紹興二十一年(1151)、進士に及第した。給事中・中書舎人などを歴任した。枢密使に上った。淳煕末年には左丞相をつとめた。益国公に封ぜられた。『玉堂類稿』。
袁枢(1131~1205)
  字は機仲。建寧建安の人。隆興年(1163)、礼部の試に応じ、詩賦第一で合格した。温州判官に任ぜられ、教授興化軍をつとめた。乾道九年(1173)、厳州教授のとき、『資治通鑑』の再編に着手し、編年体の構成のため話としてつかみづらい通鑑本文を一連の挿話ごとに整理し、まとめた一話ずつに標題をつけ、『通鑑紀事本末』に著した。ここに史書の紀事本末体が創始された。のちに太府丞・国史院編修官、工部侍郎・国子祭酒、知江陵府などを歴任した。国史院編修官のとき、章惇の子孫から同郷のよしみで章惇の伝を文飾してくれるよう頼まれたが、「わたしは史家で、書法は裏をもたない。たとえ郷里の人にそむくとしても、天下後世公議にそむくことはできない」と答えた。ときの人は「いにしえの良史にも恥じるところがない」と感嘆したという。
楊万里(1127~1206)
  字は廷秀、号は誠斎野客。吉州吉水の人。紹興二十四年(1154)、進士に及第した。はじめ贛州司戸に任ぜられ、永州零陵県丞に転じた。永州で張浚の知遇をえて、孝宗朝で張浚が宰相に上ると、万里は推薦を受けて臨安府教授となった。国子博士・太常丞・将作少監を歴任した。太子侍読から宝謨閣学士に至った。のちに致仕した。詩をよくし、その風格は淡雅で、恤国恤民の作を多くなした。南宋四大家のひとり。『誠斎集』。
辛棄疾(1140~1207)
  字は幼安、号は稼軒居士。諡は忠敏。歴城の人。軍が采石磯の戦いに敗れて動揺するさなか、二千人を集めて起兵し、耿京の下で掌書記となり、軍に抗戦した。耿京が張安国に殺されると、営を急襲して張安国を捕らえ、南京に連行してこれを斬った。乾道四年(1168)、建康通判に任ぜられた。のち江西の提点刑獄となり、頼文西率いる茶民の暴動を鎮圧した。湖北・湖南・江西の安撫使を歴任した。対主戦論を唱えたため、和平派に憎まれて讒言を受け、退官して信州に隠棲した。晩年にまた起用されて、浙東安撫使・鎮江知府に上ったが、彼の抗戦論は韓侘冑に無視され、憂死した。『稼軒詞』。
韓侘冑(?~1207)
  字は節夫。相州安陽の人。韓琦の孫にあたる。紹煕五年(1194)、趙汝愚とともに光宗を廃し、寧宗を擁立した。宜州観察使・枢密都承旨より少師に累進し、平原郡王に封ぜられた。擁立の功を争って、右丞相の趙汝愚を失脚させた。また、朱熹と彼の学徒を官界から追放した(慶の党禁)。太傅を経て、平章軍国事に上った。韓世忠廟を立て、岳飛を鄂王に追封し、檜の爵位を奪った。開禧二年(1206)、北伐の兵を起こし、と戦端を開いた。緒戦は勝利したが、徐々に利を失い、軍の攻勢にさらされた。史弥遠と楊皇后の共謀により、玉津園で殺された。その首はに送られた。
項安世(1129~1208)
  字は平甫、号は平庵。括滄の人。のちに江陵に移住した。淳熙二年(1175)、進士に及第した。紹興府教授となった。紹熙四年(1193)、秘書省正字に任ぜられた。翌年、校書郎・実録院検討官となった。慶年、池州通判として出向し、のちに重慶府通判に転じた。慶の党禁に遭って、江陵の家に帰り、『左伝』や『周易』の研究に打ちこんだ。開禧二年(1206)、知鄂州として起用され、戸部員外郎・湖広総領に転じた。翌年、事件に連座して免職された。三たび起用されて湖南転運判官となったが、赴任しないうちに罷免された。嘉定年(1208)、没した。『易玩辞』、『項氏家説』、『平庵悔稿』。
陸游(1125~1210)
  字は務観、号は放翁。越州山陰の人。十二歳にして詩文をよくし、蔭官をもって郎に任ぜられた。対主戦論を唱え、檜に疎まれて、進士に及第できなかった。檜の死後、進士出身を賜った。寧徳県の主簿をはじめとして、地方官を歴任したが、たびたび免職となった。范成大とは官位の差を越えて交友した。晩年、渭南伯に封ぜられた。南宋四大家のひとり。『南唐書』、『老学庵筆記』。
史達祖(1155~1220?)
  字は邦卿、号は梅渓。開封の人。慶年間、韓侘冑に仕え、文書をつかさどって信用が篤かった。開禧三年(1207)、韓侘冑が北伐に失敗して処刑されると、彼も罪を負って黥刑に処せられた。『梅渓詞』。
黄幹(1152~1221)
  字は直卿、号は勉斎。福州県の人。はじめ劉之に師事したが、のちに朱熹の門下となった。朱熹も「直卿、志堅く、思い苦しむ。これと処れば、はなはだ益なり」と賞讃した。『黄文粛公文集』。
姜夔(1155?~1221?)
  字は堯章、号は白石道人。饒州鄱陽の人。進士に及第せず、生涯仕官しなかった。若いころは長江に沿って客遊して過ごした。紹煕年(1190)、紹興の白石洞に居を構えた。慶三年(1197)、「大楽議」を献上して、雅楽を論じた。范成大や楊万里・辛棄疾らと親交があった。張鑑の援助を受けて暮らしたが、張鑑が死ぬと生活は窮迫の一途をたどり、やがて没した。音律に精通し、自作の詞にみずから曲をつけたという。『白石道人歌曲』。
葉適(1150~1223)
  字は正則、号は水心。温州永嘉の人。淳煕五年(1178)、進士に及第した。対主敵論を支持したが、力量に見合わない無謀な行動を控えるよう主張した。韓侘冑に重んじられたが、開禧の北伐の失敗後はかえって職を奪われた。理や性命についての空談を排し、経世済用に役立つ学問をおこなうよう主張した。浙東学派の重鎮のひとり。『学習紀言序目』。
淳(1159~1223)
  字は安卿、号は北渓。漳州龍渓の人。朱熹に師事した。とくに致知の思想を究め、かれが浙東で講学すると、多くの人が朱子学に転向したという。嘉定年間、泉州安渓主簿に任ぜられたが、赴任しなかった。『北渓先生文集』、『北渓字義』。
蔡沉(1167~1230)
  字は仲黙。建州建陽の人。蔡定の子。父が道州に左遷されるとき、従って同行し、父が亡くなると喪を守って郷里に帰った。九峰に隠居し、終生官途につかなかった。学者として九峰先生と号した。朱熹に私淑し、学を興した人物のひとりであった。表作の『書集伝』は、科挙の依拠する解釈にも採用され、の士人の必読書となった。
史弥遠(1164~1233)
  字は同叔。州鄞県の人。史浩の子。淳煕年間に進士に及第した。大理司直・枢密院編修・提挙浙西常平・起居郎などを歴任した。開禧二年(1206)、韓侘冑の対出兵に反対して上書した。翌年、礼部侍郎・同修国史となり、楊皇后の支持のもと、韓侘冑を殺してその首を朝に送って和を請うた。嘉定年(1208)、右丞相・枢密使に上った。檜・趙汝愚・朱熹らの名誉回復を行った。十七年(1224)、寧宗が崩ずると、理宗を擁立し、朝政を専断した。
岳珂(1183~1234)
  字は粛之、号は亦斎。相州湯陰の人。岳霖の子。岳飛の孫にあたる。嘉定年間、知嘉興府として赴任し、府の西北の佗坊に居をかまえた。戸部侍郎・淮東総領制置使・宝謨閣学士などを歴任した。詩文にたくみで、辛派の詞人として知られた。『棠湖詩稿』、『愧郯録』。
真徳秀(1178~1235)
  字は景、または景希。諡は文忠。建州浦城の人。慶五年(1199)、進士に及第した。開禧年(1205)、博学宏詞科に及第した。江東転運副使・知泉州・知潭州・知福州などを歴任した。端平年(1234)に翰林学士となり、翌年には参知政事に上った。朱熹の学統を継ぎ、『大学章句』の理解を助けるために『大学衍義』を撰した。『西山文集』。
洪咨夔(?~1236)
  字は舜兪、号は平斎。于潜の人。嘉定二年(1209)、進士に及第した。はじめ如皐の主簿をつとめた。知竜州のとき、漕運司を置いて民衆の辺戌や運糧の苦役を除くよう請願した。都に召されて秘書郎・部員外郎・考功員外郎を歴任した。監察御史に任ぜられ、理宗に「権は人主に帰し、政は中書に出る」よう上書した。刑部尚書・翰林学士・端殿学士などを歴任した。淮東の幕中にあったときは、軍の揚州への侵攻を未然に防いだ。「今の宰相は権を招き賄賂を納め勢によって威張るだけである」と書いた文を史弥遠に上書して憎まれたという。『春秋説』、『平斎文集』。
了翁(1178~1237)
  字は華父、号は鶴山。邛州蒲江の人。幼いころ、一読したものは忘れず、神童と称された。慶五年(1199)、進士に及第した。知嘉定府となった。白鶴山に室を築き、門生を集めて理学を講じた。理宗のとき、端殿学士に上った。湖南・浙東・福建などの路安撫使をつとめた。『鶴山集』、『九経要義』。
張洽(1161~1237)
  字は徳、号は主一。若くして朱熹の学問を学び、群書を博覧した。嘉定年間に進士に及第した。袁州司理参軍・知永県・通判池州を歴任し、治績を挙げた。のちに白鹿洞書院の長となり、講学につとめた。端平初年、直秘閣に任ぜられ、建康崇禧観の主管をつとめた。『春秋集注』、『春秋集伝』。
喬行簡(1156~1241)
  字は寿朋。婺州東陽の人。呂祖謙に師事して学んだ。紹熙四年(1193)、進士に及第した。嘉定三年(1210)、秘書省正字・枢密院編修となった。翌年、知通州として出向した。淮南転運判官・浙西提点刑獄・提挙常平・知鎮江府などを歴任した。十四年(1221)、国子司業となった。理宗の紹定五年(1232)に参知政事に進み、端平年(1234)には知枢密院事を兼ねた。朝廷で三京を奪回する計画が議論されると、内政を優先するよう説いて北伐に反対した。翌年に右丞相に進み、三年(1236)には左丞相・枢密使に上った。嘉熙三年(1239)、平章軍国重事に任ぜられ、粛国公に封ぜられた。翌年、少師・保寧軍節度使を加えられ、国公に封ぜられた。死後、文恵と諡された。『周礼総説』、『孔山文集』。
孟珙(?~1246)
  字は璞玉、号は無庵居士。絳州の人。孟宗政の子。のちに隨州棗陽にうつった。嘉定十年(1217)、父に従って棗陽で兵を破った。十六年(1223)、功により承信郎に任ぜられた。父の死後、父の忠順軍を引き継いで統括し、京西の兵馬の官位を累進した。紹定六年(1233)、モンゴル軍とともに蔡州での哀宗を囲んだ。端平年(1234)、先頭に立って南門を攻め破り、を滅ぼした。以後、モンゴルとの戦いに戦功を重ね、襄陽・信陽・樊城などの地を恢復した。棗陽・秭帰・口一帯で大規模な屯田を興した。寧武軍節度使・四川宣撫使・知夔州に任ぜられ、東郡侯に封ぜられた。荊襄の地に鎮座し、中原遺民の招撫につとめた。江陵で没した。『易経』に詳しく、また仏学に通じた。『警心易賛』。
之(1176~1251)
  はじめの名は燮。字は徳源。鄞の人。嘉定十年(1217)、進士に及第した。峡州教授に任ぜられた。十六年(1223)、国子学録となった。史弥遠らによる理宗擁立に協力して功績を挙げた。宝慶年(1225)、起居郎となった。紹定年(1228)、簽書枢密院事。三年(1230)、参知政事に進んだ。六年(1233)、史弥遠が死去すると、右丞相兼枢密使に上った。端平二年(1235)、左丞相となった。嘉熙二年(1238)、申国公に封ぜられた。淳佑四年(1244)、国公に進んだ。七年(1247)、再び右丞相兼枢密使に任ぜられ、越国公に封ぜられた。まもなく辞任して湖山を流浪し、僧寺に寓居した。九年(1249)、左丞相として復帰した。『安晩堂集』。
余玠(?~1253)
  字は義夫。分寧の人。若いとき白鹿洞で学んだ。功名心が強く、大言壮語を好んだという。人を殴り殺して、襄・淮に逃げ、淮東制置使・趙葵の幕下に投じた。淳祐二年(1242)、文武をともに重んじ、四川を治めるのに自分を当てるよう建言した。兵部侍郎・四川安撫大使・知重慶府に任ぜられた。汚官の弊害を除き、成都に屯田を布いた。また合州に釣魚城を築いて蒙古の侵入を防いだ。のちに賈似道に殺された。
史嵩之(?~1256)
  字は子由。鄞県の人。嘉定十三年(1220)、進士に及第した。光化軍司戸参軍に任ぜられた。宝慶三年(1227)、通判襄陽府となった。権知棗陽軍・大理卿兼刑部侍郎・知隆興府兼江西安撫使などを歴任した。嘉熙年(1237)、京西荊湖安撫制置使となった。翌年、参知政事に進んだ。三年(1239)、右丞相・枢密使・都督両淮四川京西湖北軍馬に上った。淳祐四年(1244)、父の喪がけて、官に復帰しようとしたが、和平を主張したため容れられず、十三年にわたって蟄居した。宝祐四年(1256)に死去し、国公に追封された。諡は荘粛。『野楽篇』。
僧慧開(1183~1260)
  銭塘の人。はじめ天竜曠に師事して出家した。のちに万寿寺の月林師観に参じた。師観のもとで、六年間にわたって「趙州無字」の公案を工夫し、睡魔に襲われると禅堂の柱に頭をぶつけて修行するなど、刻苦精励してついに開悟した。嘉定十一年(1218)に安吉山報国寺に住持したのをはじめ、諸寺を歴住。淳祐六年(1246)、護国仁王寺の開祖となった。『無門関』。
方岳(1199~1262)
  字は巨山、号は秋崖。歙州祁門の人。紹定五年(1232)、進士に及第した。調南康軍・滁州教授などをつとめた。嘉熙年間、淮東安撫司幹官となった。史嵩之にさからって四年にわたって蟄居した。淳祐五年(1245)、太学正・景献府教授に任ぜられた。翌年、宗学博士に転じた。七年(1247)、秘書郎となり、宗正丞・督視行府参議官にうつり、知南康軍・知邵武軍を歴任した。賈似道にさからって罷免された。宝祐年間、程鳳が宰相となると、知袁州として起用され、吏部尚書左郎官に任ぜられた。丞相の丁大全にさからって罷免され、帰郷した。詩をよくし、農村の生活や田園の情景を描いた。『秋崖集』。
丁大全(?~1263)
  字は子万。鎮江の人。嘉煕年間に進士に及第した。内侍の盧允昇・董臣にへつらって、蕭山尉から太府寺簿となった。右司諫にうつり、殿中侍御史となった。宝祐四年(1256)、丞相董槐を弾劾して失脚させた。左諫議大夫となり、専権をほしいままにした。太学生劉黻・宜中ら六君子に批判され、六君子をことごとく辺地に飛ばした。簽書枢密院事に進み、馬天驥とともに政権を担当した。またそのころ閻貴妃が帝の寵愛を受けており、「閻馬丁当、国勢将亡」の八字が朝門に掛けられるという事件があった。六年(1258)、右丞相・枢密使に上った。開慶年(1259)、軍情を隠匿した罪で、相を罷免された。翌年、南安軍に移送された。のちに州に移されることとなり、舟が藤州を過ぎたところ、水中に突き落とされて死んだ。
劉克荘(1187~1269)
  字は潜夫、号は後村居士。諡は文定。莆田城廂の人。はじめ蔭官によって、将仕郎となり、靖安主簿に任ぜられた。真徳秀に師事し、落梅の詩を作って史弥遠を風刺し、その怒りに触れて潮州通判に左遷された。淳祐四年(1244)、江東提刑となって、「貧民を恤れみ流民を処するを最も急となす」と上書した。理宗に認められて、特に同進士出身を賜った。崇政殿説書・権工部尚書などを歴任し、竜図閣直学士に上った。『後村大全集』。
鳳(1200~1269)
  字は申甫、号は訥斎。歙県槐塘の人。紹定二年(1229)、進士に及第した。淳祐年間、太学博士。理宗のとき、秘書丞に進み、著作郎に転じ、監察御史をつとめた。宝祐年間、侍読を兼ね、吏部侍郎に進んだ。宝祐四年(1256)、右丞相・枢密使に上った。度宗が即位すると、少保に進んだ。咸淳三年(1267)、再び右丞相・枢密使となった。翌年、観文殿大学士として致仕した。死後、文と諡された。『訥斎集』
姚希得(?~1269)
  字は逢原、または叔剛。潼川の人。嘉定十六年(1223)、進士に及第した。小溪主簿に任ぜられた。嘉定府司理・知蒲江県・通判太平州・通判福州・国子監丞などを歴任した。淳祐七年(1247)、秘書丞に転じた。江西提刑・知静江府・知慶府・知建康府などをつとめた。景定五年(1264)、兵部尚書に上った。度宗が即位すると、同知枢密院事兼権参知政事に転じ、まもなく参知政事に任ぜられた。『橘州文集』。
馮去非(1192~?)
  字は可遷、号は深居。南康軍都昌の人。淳佑年(1241)、進士に及第した。淮東転運幹弁となった。宝祐四年(1256)、宗学諭として召された。丁大全と対立して、翌年致仕し、廬山に隠棲した。景定三年(1262)、范晞文の『対床夜語』に序文を附し、「深居之人」と署名した。 
↓次の時南宋度宗期以後

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