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後漢

[後漢(東)(25~220)]

光武中興期,明帝章帝和帝期,安帝順帝期,桓帝霊帝期,献帝期,匈奴
光武帝(劉秀)-帝(劉荘)-章帝(劉烜)-和帝(劉肇)-殤帝(劉隆)-安帝(劉祐)-少帝懿(劉懿)-順帝(劉保)-冲帝(劉炳)-質帝(劉纘)-桓帝(劉志)-霊帝(劉宏)-廃帝(劉弁)-献帝(劉協)
光武帝(前6~57)
  劉秀⇒。
馮異(?~34)
  字は公孫。諡は節侯。潁川郡父城の人。はじめ王莽に従って郡掾となり、父城を守り更始帝の軍に抵抗した。劉秀の軍に捕らえられて帰順した。書記に任ぜられて同郷の人士を劉秀に推薦した。また更始帝の左丞相曹竟らに取り入るよう劉秀に勧めて、河北の地を経略できるよう取りはからった。王郎の乱を鎮圧した功で、偏将軍に任ぜられ、応侯に封ぜられた。自分の功績を誇ることなく、大樹の陰に座って泰然としていたため、「大樹将軍」と称され、兵も馮異の麾下に戦うことを望んだという。引き続き河北平定の軍に従った。更始帝が三十万と称する大軍を洛陽に派遣すると、孟津将軍に任ぜられてこれを防ぐこととなった。馮異は更始帝の将の李軼を調略して味方に引き入れ、蘇茂の軍を破り、朱鮪の軍を追撃して洛陽に迫った。更始三年(25)、僚将たちとともに劉秀を皇帝に推戴した。建武二年(26)、陽侯に封ぜられた。翌年、征西大将軍となり、赤眉を討伐し、四年(28)にこれを破った。さらに関中に割拠する群雄を討った。の公孫述と対峙して、その侵攻をたびたび撃退した。長く前線にいて軍権を握ったため、内臣に讒言されたが、帝は馮異を信じて取りあげなかったという。隗囂を討ち滅ぼし、公孫述を攻めている陣中で没した。帝のとき、功臣として描かれ、雲台二十八将のひとりに列せられた。
寇恂(?~36)
  字は子翼。上谷郡昌平の人。豪族の生まれで、はじめ郡の功曹に任ぜられた。王莽の敗亡後、太守耿況に勧めて、劉秀に帰順し、偏将軍となった。のちに河内太守・行大将軍事となり、軍需物資の調達・輸送に尽力して、劉秀の河北平定を助けた。馮異とともに更始帝の将の蘇茂の侵攻を撃退し、洛陽に迫った。建武二年(26)、穎川太守に任ぜられ、雍奴侯に封ぜられた。翌年、汝南太守に転じ、郷校を修築し、生徒に教授した。七年(31)、執吾となった。光武帝の隴西討伐に従い、隗囂の残党の高峻を討って降した。十二年(36)、没すると、威侯と諡された。帝のとき、功臣として描かれ、雲台二十八将のひとりに列せられた。
(?~44)
  字は子顔。南陽郡宛県の人。はじめ宛県の亭長となった。の王莽の末年、漁陽に亡命して馬をひさいで生業を立てた。更始政権が立てられると、安楽令となった。漁陽太守龐寵に勧めて、劉秀に帰順させた。幽州突騎を率いて劉秀を助け、王郎を討った。偏将軍に任ぜられ、建策侯の号を賜った。大将軍に進み、更始政権の幽州牧苗曾・尚書令謝躬を殺した。諸将とともに劉秀を帝に擁立し、大司馬に任ぜられ、舞陽侯に封ぜられた。銅馬・重連・高湖・檀郷・青犢・五校などの諸部を平定し、豊・劉永・董憲らの割拠勢力を滅ぼすのに、つねに先鋒をつとめた。建武八年(32)、劉秀に従って隗囂を討ったが、苦戦した。十一年(35)、軍を率いてを討ち、翌年に成都を取り、公孫述とその宗族を殺しつくした。性格は質朴で寡黙であり、豪毅忠順でもあったが、麾下の軍紀に問題があり、成都攻略時に屠城を許して光武帝に叱責された。帝のとき、功臣として描かれ、雲台二十八将のひとりに列せられた。
馬援(前14~49)
  字は文淵。諡は忠成侯。扶風郡茂陵の人。十二歳のとき孤児となる。はじめ郡の督郵となった。罪囚を勝手に処分したため、北地に逃げて牧畜を営んだ。王莽の末年、召されて成大尹に任ぜられた。王莽が死ぬと、隴西に難を避けていたが、隗囂に見出されて、綏徳将軍に任ぜられて仕えた。の公孫述を「井の中の蛙」と喝破し、隗囂に光武帝に帰順するよう勧めた。隗囂はいちど光武帝に帰順しながら、再び叛いた。馬援は光武帝に助言して、隗囂は攻め滅ぼされた。太中大夫となり、次いで隴西太守に任ぜられた。羌族を討って、武威太守に遷った。虎賁中郎将に上り、五銖銭の復活を上奏して、施行された。伏波将軍に任ぜられ、交趾(ベトナム)の徴側・徴弐姉妹の叛乱を平定した。このため息侯に封ぜられた。六十歳を過ぎて、武陵五渓の叛乱を平定するための従軍を志願したため、光武帝に「矍鑠たるかな、この翁」と言われた。しかし、この作戦の陣中で病没した。馬援に恨みを持っていた松が報告を改竄して罪に陥れたため、死後爵位を剥奪された。のち、冤は晴らされ葬られた。『銅馬相法』。
班彪(3~54)
  字は叔皮。扶風郡安陵の人。名儒として知られた。王莽が敗死して天下が騒然としてくると、長安を去り、隗囂を頼って安定に赴いた。すぐに隗囂に見切りをつけて、河西の大将軍・竇融の幕下に入って、従事となった。のちに竇融に説かれて光武帝に帰順した。司隷において茂才に挙げられ、徐令に任ぜられた。『史記後伝』を著して、のちの班固『書』の基礎を作った。
桓譚(前24~56)
  字は君山。沛国相県の人。五経を学び、訓詁に通じた。音律を好み、鼓琴をよくした。俗儒を批判したため排撃され、前漢のときは郎官に終わった。王莽のとき、掌楽大夫にいたった。後漢に入って、はじめ給事中となった。重農抑商の政策を取るよう上書し、同じ罪で刑罰が異なることに反対し、俊賢の人を信用するよう建議した。のちに光武帝の前で災異説や讖緯について「奇怪虚誕の事」と述べて禁絶を要求したため、あやうく死罪になりかけた。六安郡丞に左遷され、その道中で没した。天意を否定し、無神論的な合理主義を唱えた。『論』を著したが、亡佚した。
鄧禹(2~58)
  字は仲華。南陽郡野の人。長安に遊学して、劉秀(のちの光武帝)と知り合い親しく交わった。劉秀が河北に進出するとその麾下に参じた。劉秀が薊で王郎に内応した軍に敗れると、その逃避行をともにした。河北の平定や更始帝軍の撃破に功績を立て、光武帝が即位すると大司徒に上った。関中に侵攻して長安に入城。赤眉軍にはしばしば敗れたが、光武帝の信任はゆるがず、東中興の功臣の第一とされた。帝のとき太傅に任ぜられた。
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[五代十国(907~960)]

五代後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢

[後漢(947~950)]

高祖(劉知遠)-隠帝(劉承祐)
劉知遠(895~948)
  後漢の高祖⇒。
杜重威(?~948)
  朔州の人。後晋高祖(石敬瑭)の妹婿にあたる。禁兵をつかさどり、潞:州節度使・同平章事となった。成徳節度使安重栄が謀反すると、これを討ち平らげ、成徳節度使に任ぜられて、鎮州に駐屯した。民に重税を課し、府州の財物を私物化した。契丹に近いことを恐れたため、鄴都留守にうつされた。開運三年(946)、帥となって恒州で契丹の侵攻を防いだが、善戦した王を見捨て、帝となることを許した契丹の甘言に乗って降伏した。契丹に従って汴京に入り、大同年(947)に太宗(耶律徳光)が汴京に入ると、鄴都に帰らされた。劉知遠が後漢を建てると、帰徳に移鎮を命ぜられたので、叛乱を起こした。食糧が尽きたため降伏し、中書令に任ぜられた。出かけるたびに道行く人に罵声を浴びせられ、瓦礫を投げつけられたという。劉知遠が亡くなると殺されて、市民が争ってその肉を食らったという。
李守貞(?~949)
  兵卒の出身で、後晋の高祖(石敬塘)の征戦に従って重んじられるようになった。後晋の少帝(石重貴)が帝位を継ぐと、守貞は杜重威とともに契丹に投降し、のちに杜重威は誅殺された。趙思綰が長安を占拠すると、李守貞は王を自称した。劉知遠が帝を称して後漢を建てると、守貞は河中にうつった。乾佑年(948)、守貞は永興の趙思綰と鳳翔の王景崇と結んで叛乱を起こした。郭威に河中城を包囲されて兵糧攻めを受けた。翌年、河中を落とされて子城に退き、妻子とともに自ら火を放って死んだ。
史弘肇(?~950)
  字は化。鄭州滎沢の人。驍勇にして寡黙な人物であった。後梁の末年に徴兵されて従軍した。後晋のとき、控鶴小校となった。劉知遠が禁兵をつかさどると、その下で軍校となり、武節指揮・雷州刺史となった。軍を率いて規律があり、かれの兵は各地を転戦して、秋毫も犯すことがなかった。忠武軍節度使・侍歩軍都指揮使に累進した。後漢の乾祐年(948)、帰徳軍節度使・同平章事となった。高祖(劉知遠)の臨終にあたって、蘇逢吉・楊邠らとともに遺命を受けた。のちに中書令に任ぜられた。政治にあたっては酷刑を好み、微罪でも極刑で臨んだ。また文人と折り合いが悪く、「禍乱を定めるのは長槍大剣であり、どうして毛筆を用いようか」と放言した。とくに蘇逢吉との間柄は水火のごとく相容れなかった。専横のことを隠帝に憎まれ、参内の途中に楊邠・王章らとともに斬り殺された。
蘇逢吉(?~950)
  京兆長安の人。蘇悦の子。劉知遠が河東に鎮すると、節度判官となった。刑獄裁判を担当して、罪の軽重や理非曲直にかかわらず、囚人をことごとく殺したので「静獄」と称された。後漢が建国されると、中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士に任ぜられ、朝廷の大事はみな彼から出た。李崧を陥れてその一族を滅ぼし、州刺史葉仁の不法をかばうなど、非行が多かった。後漢が滅亡すると、自殺した。
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