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西涼

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
西涼(400~421)]
太祖(李暠)-後主(李歆)-冠軍侯(李恂)
李暠(350~417)
  字は玄盛。西涼の初太祖武昭王。在位400~417。隴西郡狄道の人。李昶の子。はじめ北涼の敦煌郡の県令となり、刺史の死後に部下から推されて寧朔将軍・敦煌太守となった。北涼昌太守・瑶らが叛くと、推されて冠軍大将軍・沙州刺史・涼公に上った。建初年(405)、大将軍・涼二州牧・涼公を称し、都を酒泉に遷した。農業を振興し、国力微弱ながら、北涼の沮渠蒙遜の侵攻に対抗した。東晋に対して臣を称し、また後秦にも使者を通じた。文武両道にすぐれ、詩賦を好んだという。
李歆(?~420)
  字は士業。西涼の二後主。在位417~420。李暠の次男。父に従って北涼の段業に叛いて起兵した。庚子五年(404)、世子として立てられた。騎兵を率いて北涼軍を破り、その将沮渠百年を捕らえた。建初十三年(417)、位を継いで大都督・大将軍・涼州牧・涼公を称した。東晋に臣を称し、鎮西大将軍に任ぜられ、酒泉公に封ぜられた。刑罰が厳しく、宮城の修築を好み、百姓を疲弊させた。大臣がしばしば諫めたが聞き入れなかった。嘉興四年(420)、北涼の沮渠蒙遜が西秦を討つと偽って、西涼軍をおびき出そうとした。はたして李歆は尹太后や繇らの諫めを聞かず出兵して、北涼の張掖を攻めた。蓼泉において沮渠蒙遜に大敗して殺された。
李恂(?~421)
  字は士誠。西涼の三冠軍侯。在位420~421。李暠の六男。酒泉太守・敦煌太守を歴任した。兄の李歆が北涼の沮渠蒙遜に殺され、国都酒泉を失陥すると、敦煌を捨てて北山に奔った。郡人に迎えられて敦煌に帰り、冠軍将軍・涼州刺史に推された。永建二年(421)、沮渠蒙遜の軍が来攻し、城が水攻めにされ、ついに自殺した。蒙遜が屠城し、西涼は滅んだ。

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