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西周

西周(前1046?~前770)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,蔡,曹,鄭,燕,,越,趙,,韓
武王(姫発)-成王(姫誦)-康王(姫釗)-昭王(姫瑕)-穆王(姫満)-共王(姫繄扈)-懿王(姫囏)-孝王(姫辟方)-夷王(姫燮)-厲王(姫胡)-〔共和〕-宣王(姫静)-幽王(姫涅)
周の文王(?~前1057?)
  姓は姫、名は昌。季歴の子で、古公亶父の孫にあたる。岐の人。仁に篤く、老人を敬い、幼少の者を慈しんだので、多くの人士が彼のもとに帰属した。の西伯となる。あるとき崇侯虎に讒言され、紂王によって羑里に捕らえられた。閎夭らが心配して、美女や駿馬を献上して許された。このとき弓矢斧鉞を賜って、諸侯征伐の権が与えられた。犬戎・密須・耆国を破り、崇侯虎を討った。豊邑を造営して、都とした。紂王が妲己に迷って、人心を失うと、討の兵を挙げ、王号を名乗ったともいう。途半ばにして病没した。
周の武王(?~前1043?)
  姓は姫、名は発。在位前1046?~前1043?。周の文王(姫昌)の次男。父の業を継いで、討のため盟津に兵を進め、八百の諸侯を集めたが、「天命はまだから去っていない」と言って引き返した。紂王の暴虐がますますつのってくると、再び兵を挙げて牧野に紂王の軍と決戦し、を滅ぼした。朝歌で祭祀を行い、天命を受けて天子となったことを宣言した。鹿台の銭を散じ、親族や功臣を諸侯を封じたのち、西帰した。豊邑の東に鎬京を造営して、都とした。まもなく病没した。
周公旦(?~?)
  姓は姫、名は旦。周の文王(姫昌)の四男。武王(姫発)の弟。周の武王・成王を補佐した賢臣。孔子が理想とした君子。武王によってに封じられ、子の伯禽を下向させた。国の祖。武王が没し、成王(姫誦)が即位すると、摂政となり、叛乱を起こした管叔(姫鮮)・蔡叔(姫度)・武庚(の紂王の子)らを討伐した。洛邑を造営して成周とし、鎬京を宗周とした。井田制を推進して、経済基盤を固めた。また「太誥」「微子之命」「帰禾」「嘉禾」などの文章を作った。政治を執ること七年、成王に政権を返して、群臣の地位についた。彼の統治時に周の天下は安定したという。
召公奭(?~?)
  姓は姫、名は奭。周の王族。はじめ召に封じられた。武王によって北燕に封じられた。燕国の祖。成王の時になると洛邑を造営し、陝を二分してその西の地方の政治を管轄した。周公旦が成王から天子の位を奪うのではないかと疑ったが、周公旦が「君奭」を作って与えたので満足した。成王が親政すると、太保に任ぜられた。成王が崩ずると、諸侯を説いて康王(姫釗)に従わせた。陝西をよく治め、民衆にしたわれたという。文では燕は匽と書かれる。実際の燕の封建は成王年間か康王初年のことで、召公奭の一族が封ぜられたらしい。
呂尚(?~?)
  本来の姓は姜。もとの封地の名を取って呂姓。日本では太公望呂尚として知られる。中国では姜子牙が通名。また師尚父ともいう。東海のほとりの人。周の文王・武王に仕え、その師となり、を滅ぼすのに貢献した。周の伝説的軍師。武王によっての営丘に封じられた。国の祖。亡くなったときは、百余歳だったという。文王と出会うとき、釣り糸を垂れていた挿話より、太公望は釣り愛好家の名詞である。『封神演義』の主人公。
周の成王(?~前1021?)
  姓は姫、名は誦。在位前1043?~前1021?。周の武王(姫発)の子。年少で即位し、周公旦が摂政にあたった。管叔(姫鮮)・蔡叔(姫度)・武庚の乱が起こったが、周公が兵を発して乱を鎮圧した。微子をに封じ、康叔をに封じた。周公が政権を返すと、東は淮夷を討ち、奄国を滅ぼした。周官を作り、周の礼楽を興したので、人民は太平を讃えたという。
康叔封(?~?)
  姓は姫、名は封。周の文王(姫昌)の九男。武王(姫発)の弟。はじめ康に封じられた。成王の時、武庚の叛乱が鎮圧されると、の旧都・朝歌の近辺が与えられた。国の祖。成王が親政すると、司寇に任ぜられた。
叔虞(?~?)
  姓は姫、名は虞。字は子于。周の武王(姫発)の子。成王(姫誦)の弟。成王の時に叛乱が起こってこれを周公旦が平定した。このとき、成王が戯れに桐の葉を削って珪をつくり、「これをもって汝を封ずる」と姫虞に言った。その後、周の太史の史佚は、成王に対して吉日を選んで姫虞を分封するように請うた。成王は「あれは戯れのつもりだった」と渋ったが、史佚は「天子に戯言はありません」と諫めて、姫虞をに封ぜしめた。国の祖とされる。
周の康王(?~前996?)
  姓は姫、名は釗。在位前1021?~前996?。周の成王(姫誦)の子。即位後、召公奭や畢公高らが輔政にあたり、成王の業を継いで、「天下安寧で刑錯が四十余年用いられない」と称された。
盂(?~?)
  周の康王に仕えた臣。鬼方討伐に活躍した。康王から徳を慎むよう命ぜられて「大盂鼎」を賜ったという。
周の昭王(?~前977?)
  姓は姫、名は瑕。在位前996?~前977?。周の康王(姫釗)の子。南方計略に力をそそぎ、十六年に荊を討ち、十九年に六軍を水に失って、自らも水に没して死んだという。
周の穆王(?~前922?)
  姓は姫、名は満。在位前977?~前922?。周の昭王(姫瑕)の子。年五十にして即位した。伯臩を太僕に任じて、国政は安定した。西のかた犬戎を討ち、南は九江にいたった。また甫侯に刑罰の体系を作らせた。西晋のとき、汲家から『穆天子伝』が出土し、かれの西遊の伝説が記されていた。
祭公謀父(?~?)
  周の穆王に仕えた臣。穆王が犬戎を征伐しようとしたのを諫めたが、聞き入れられなかった。穆王のころに最も西周の武威は輝いたが、王道衰微せりと後人を嘆かせた。
甫侯(?~?)
  周の穆王に仕えた臣。五刑・五罰・五過の刑罰の体系を作ったとされる。
周の共王(?~前900?)
  恭王。姓は姫、名は繄扈。伊扈ともいう。在位前922?~前900?。周の穆王(姫満)の子。昭王・穆王の領土拡大策をやめ、法息民につとめた。
周の懿王(?~前892?)
  姓は姫、名は囏。堅ともいう。在位前900?~前892?。周の共王(姫繄扈)の子。王室は衰微し、しばしば玁狁の侵入を受けた。
周の孝王(?~前886?)
  姓は姫、名は辟方。在位前892?~前886?。周の穆王(姫満)の子。共王(姫繄扈)の弟にあたる。一説に懿王(姫囏)の弟ともいう。懿王が崩ずると立った。非子を王室の牧馬とし、邑に封じた。
周の夷王(?~前878?)
  姓は姫、名は燮。在位前886?~前878?。懿王(姫囏)の子。孝王の死後、諸侯に擁立されて立った。虢公に命じて太原戎を討った。
周の厲王(?~前828)
  姓は姫、名は胡。在位前878?~前841。周の夷王(姫燮)の子。栄の夷公を卿士に任じて、国政は乱れた。厲王は暴虐驕慢なため、国人たちに王位を追われ彘に逃れたという。実際は諸侯の権限を抑制したため、追放されたらしい。このため玉座が空位となり、有力な大臣(召公・周公)による共同統治が行われたとされる。いわゆる「共和」だが、実際は共伯和による統治であった。厲王は共和十四年に没した。太子の静が宣王として即位した。
共伯和(?~?)
  子龢父、師和父とも称される。周の厲王が国人たちに王位を追われたのち、玉座が空位となったため、国政を握った。一説にはの武公のことだという。
周の宣王(?~前782)
  姓は姫、名は静。在位前827~前782。周の厲王(姫胡)の子。国人が厲王を追放すると、召穆公の家にかくまわれた。厲王が彘で死んだのちに、大臣により擁立された。治政に精励し、西北に玁狁を逐い、東南に荊徐淮の地を開拓した。申伯を謝に封じ、弟の姫友を鄭に封じた。晩年、の公位継承に関与し、の武公の末子を太子として立てようとしたため、諸侯の不満を引き起こした。また姜戎と千畝で戦い、国力を消耗させた。
尹吉甫(?~?)
  姓は兮、名は甲。字は吉父。周の宣王に仕え、その中興を支えた賢臣。北方の玁狁の侵入を撃退した。また南に淮夷を討った。
仲山甫(?~?)
  樊穆仲、樊仲山父ともいう。周の宣王に仕えた臣。宣王のとき、西戎との戦いに南方諸侯国の兵力を消耗したため、王自らが戸口調査をして徴兵しようとしたのを諫めたが容れられなかった。また、の公子ふたりが入朝したとき、宣王は弟の戯を気に入っての太子に立てさせようとしたので、これを諫めたが聞き入れられなかった。
太史籒(?~?)
  周の宣王に仕え、太史となった。籒文(大篆)を作ったとされる。
周の幽王(?~前771)
  姓は姫、名は涅。在位前782~前771。周の宣王(姫静)の子。虢石父を執政として任用し、政治は腐敗した。また辺境は動揺し、地震や旱害は頻発して、民生は不安定になった。後宮において褒姒を寵愛した。申后と太子宜臼を廃し、褒姒を后に立てた。笑わない褒姒を笑わせるため、たびたび狼煙を挙げて諸侯を集めてみせて喜ばせたという。諸侯の信を失い、申侯や犬戎・西夷が都に攻めてきたとき参集した諸侯がいなかった。鎬京は落城し、幽王は驪山のふもとで殺された。申侯が宣臼(平王)を立てて王とし、洛邑に都を遷した(周の東遷)。幽王以前の周を西周といい、平王以後を東周という。
褒姒(?~?)
  褒姒⇒。
周の携王(?~?)
  攜王。姓は姫、名は余、または余臣。幽王と伯服が殺されたのち、虢公翰によって擁立された。洛邑に立った平王とともに二王並立することになった。
↓次の時東周
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