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康熙期

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
康熙帝(1654~1722)
  玄燁,の聖祖⇒。
藍瑛(1585~1664)
  字は田叔、号は蝶叟。浙江省銭塘の人。浙江派山水画の全盛期を表する画人。山水のほか、人物・花鳥・蘭竹もよくした。崇禎年間に科挙に応じて上京したが、及第せず、南帰した。復社の活動に参加した。が滅びると、官に仕えず、画をえがくことを楽しんだ。
銭謙益(1582~1664)
  字は受之、号は牧斎、または蒙叟。江蘇省常熟の人。万暦三十八年(1610)、進士に及第した。翰林院監修となった。「東林党」に属したため、攻撃を受け、しばしば投獄された。が滅びて、南京に福王政権が成立して、礼部尚書に迎えられた。しかし軍の包囲を受けると、真っ先に城を開いて降伏し、に仕えて内秘書院学士・礼部右侍郎に任ぜられた。この裏切りのため世間の非難を浴び、後の乾隆帝も彼を憎んで「弐臣伝」に列して、彼の著作を禁書としたという。間もなく官を辞して、郷里に隠棲した。「江左の三大家」のひとり。『牧斎集』、『初学集』。
洪承疇(1593~1665)
  字は亨九、または彦演。福建省南安の人。万暦四十四年(1616)、進士に及第した。崇禎初年、延綏巡撫・陜西三辺総督に累進し、陜西の農民叛乱を鎮圧した。兵部尚書に進み、河南・山西・陜西・湖広の軍務を統轄した。高迎祥や李自成の軍を破った。十二年(1639)、薊総督となった。十四年(1641)、八総兵官・十三万の兵を率いて錦州を救援し、軍に敗れた。翌年、松山で捕虜となり、に降った。軍鑲黄旗に属した。順治年(1644)、秘書院大学士に任ぜられた。翌年、軍務につき、江南諸省の招撫にあたった。十年(1653)、湖広・広東・広西・雲南・貴州を経略し、経略大学士の印を賜り、南明永暦政権への進攻にかかる軍務をつかさどった。十五年(1658)、武英殿大学士に任ぜられた。翌年、眼病を理由に解任帰郷を請うた。十八年(1661)、致仕した。のち、郷里で没した。
アダム・シャール(1591~1666)
  名は湯若望。字は道未。ドイツのケルンの人。ジェスイット会の宣教師となった。万暦四十七年(1619)、海をわたりアモイにいたった。北京にうつって中国語を学び、のちに西安で伝教につとめた。崇禎三年(1630)、徐光啓の推薦を受けて北京の暦局に入り、書物の翻訳や日食月食の計算をおこない、『崇禎暦書』の編纂にあたった。の順治年(1644)、渾天儀・太陽象限儀・望遠鏡などの天文機器を朝廷に献上した。翌年、『西洋法暦書』を成し、「時憲暦」として天下に頒布した。まもなく欽天監正に任ぜられ、太僕寺卿・太常寺卿を加えられた。七年(1650)、北京第一座天主教堂を建てた。十年(1653)、通玄教師の号を賜った。康熙三年(1664)、楊光先の讒言にあって南懐仁とともに投獄された。翌年釈放された。のち北京で病没した。『古今交食考』、『渾天儀説』、『西洋測日暦』、『遠鏡説』、『中国耶蘇会史略』。
巴哈納(?~1666)
  愛覚羅氏。満洲鑲白旗の出身。十七歳のとき、従軍した。崇徳四年(1639)、刑部参政に抜擢された。順治年(1644)、固山額真に上り、直隷・山西・四川を転戦した。五年(1648)、戸部尚書に任ぜられた。八年(1651)、ドルゴンにへつらった罪で、罷免され爵位を奪われた。翌年に刑部尚書として復活し、弘文院大学士・中和殿大学士・秘書院大学士を歴任した。
ソニン(1601~1667)
  索尼。赫舎里氏。満洲正黄旗の人。太祖ヌルハチのとき、一等侍となった。太宗ホンタイジのとき、征戦に従って吏部啓心郎に任ぜられ、三等甲喇章京となった。太宗が崩ずると、順治帝の擁立に力を尽くした。順治五年(1648)、粛親王ホーゲの擁立を図ったと貝子屯に誣告されて、守昭陵に左遷された。順治帝が親政をはじめると呼び戻されて、一等伯に累進し、内大臣・議政大臣に抜擢され、内務府を総管した。順治帝が崩ずると、孝荘皇后の指名によりオーバイ・エビルン・スクサハとともに康熙帝の輔政四大臣のひとりとなる。祖制にしたがい、旧章に復することを主張した。オーバイの鑲黄旗と正白旗の間で土地を交換することに賛同した。康熙六年(1667)、一等公に進んだ。まもなく病没した。
スクサハ(?~1667)
  蘇克薩哈。納喇氏。満洲正白旗の出身。太宗ホンタイジのとき、錦州で著しい戦功を挙げた。順治八年(1651)、摂政王ドルゴンの生前の罪を告発して、議政大臣・巴牙喇纛章京に抜擢された。まもなく湖北・湖南の反乱を鎮圧して、侍内大臣に累進し、太子太保を加えられ、二等子に進んだ。順治帝の死後、遺詔をうけてソニン・エビルン・オーバイらとともに輔政大臣をつとめた。鑲黄・正白両旗の領地交換にあたってオーバイに対抗した。康熙六年(1667)、オーバイに二十四大罪を告発され、殺された。  
朱昌祚(?~1667)
  字は懋功、号は雲門。山東省高の人。軍鑲白旗に属した。順治年間、宗人府啓心郎に任ぜられ、浙江巡撫に累進した。康熙四年(1665)、直隷・山東・河南三省総督に上った。翌年、鑲黄旗と正白旗の換地の停止を求めて免職された。のちにオーバイにより処刑された。オーバイが失脚すると、名誉回復された。
オーバイ(?~1669)
  鰲拜。満洲鑲黄旗の出身。天聡八年(1634)、牛録章京となる。戦功を重ねて、公に上った。順治二年(1645)、英親王に従って湖広の安陸一帯で李自成軍を破り、また四川に進んで張献忠を討った。五年(1648)、罪をえてひとたび官を失ったが、順治帝が親政をはじめると議政大臣をつとめた。のち領侍内大臣・少傅となる。康熙帝が即位すると、ソニン・エビルン・スクサハらとともに輔政四大臣のひとりとなる。実際は朝政の大権を掌握していた。康熙八年(1669)、康熙帝に捕らえられ罷免された。のちに獄中で没した。
偉業(1609~1671)
  字は駿公、号は梅村。江蘇省太倉の人。崇禎四年(1631)、進士に及第した。翰林院編修・東宮侍読を経て、国士監祭酒にまで上った。一時は「復社」の表的存在であった。の滅亡後に福王政権に一時仕えたが、官を辞して郷里に帰った。隠棲すること十数年、四十五歳のときに強要されてに仕え、国子監祭酒に任ぜられた。二年にして母の喪を口実にして官を辞して帰郷。二朝に仕えたことを生涯の恥とした。作詩・書画に通じ、また歴史家としても著名。「江左の三大家」のひとり。『綏寇記略』。
耿継茂(?~1671)
  寧省蓋州の人。耿仲の子。崇禎年間、父に従って後金に降り、軍正黄旗に属した。順治六年(1649)、広東攻略に従事し、父が亡くなると、部衆を引き継いだ。八年(1651)、靖南王に封ぜられて、広東に鎮し、王府を建てた。十七年(1660)、福建に移鎮した。呉三桂・尚可喜と並んで三藩と称された。康煕二年(1663)、門・厦門を攻めて下し、鄭経を台湾に逼塞させた。
方以智(1611~1671)
  字は密之、号は曼公。安徽省桐城の人。はじめ復社に参加して、楊廷枢・子龍らと交友した。崇禎十三年(1640)、進士に及第した。翰林院編修となる。李自成が北京を陥すと、一度捕らえられたが脱出し、福王の南京政権に参加。さらに逃れて肇慶の永暦帝政権に加わった。少詹事・翰林院侍講学士となったが、宦官の専横と官吏の党争をみて失望し官を辞した。広西地方を漂泊したのち、兵に捕らえられて、転仕を肯んぜず剃髪して僧となった。以後、の招聘に応じず、著作に専念したが、康煕十年(1671)に官憲に捕らえられ、粤西の流刑地に送られる途中に没した。天文・地理・礼楽・律数・音韻・文学・書画・医薬など、博識で多くの分野に通じた。懐疑主義的な思想立場をとった。四公子のひとり。『物理小識』、『通雅』。
周亮工(1612~1672)
  字は亮。河南省詳符の人。崇禎十三年(1640)、進士に及第した。福建左布政使を経て、戸部右侍郎に上った。福建の海寇を討つのに功績を挙げた。『賴古堂詩鈔』。
琬(1614~1673)
  字は玉叔、号は荔裳。順治年間に進士に及第した。戸部主事に任ぜられ、吏部郎中に累進した。順治十八年(1661)に按察使に上ったが、農民叛乱に連座して獄に下った。康煕三年(1664)、赦されて郷里に帰った。十一年(1672)、再び任用され、四川按察使となった。まもなく病没した。詩文をよくし、施閏章とともに「南施北宋」とならび称された。『安雅堂文集』。
馬驌(1621~1673)
  字は宛斯。山東省鄒平の人。順治年間に進士に及第した。経史に通暁し、とくに左伝の研究に尽くした。左伝を紀事本末体に改編した『左伝事緯』をものした。『繹史』。
蕭雲従(1596~1673)
  字は尺木、号は無悶道人。安徽省蕪湖の人。に入って官に仕えなかった。詩文にたくみで、山水画をよくし、人物画に長じた。かつて采石太白楼の壁に盧山・峨嵋山・泰山・衡山の四大名山を描いて、七日で仕上げたという。『梅花堂遺稿』。
朱国治(?~1673)
  軍正黄旗の出身。順治四年(1647)、貢生から固安知県となった。大理寺卿に抜擢された。十七年(1660)、江寧巡撫に上った。鄭成功を討つべく進言をおこなった。翌年、銭や食糧の供出をこばむ江南の郷紳一万三千五百人を罪に落として、名を知られた。康熙十年(1671)、雲南巡撫となった。十二年(1673)、呉三桂がそむくと、叛軍に降伏するよう脅されたが屈せず、殺された。
張履祥(1611~1674)
  字は考夫、号は念芝。浙江省桐郷の人。末に諸生となった。劉宗周に学び、のちに程朱の学問をもっぱらにした。が滅ぶと、郷里に帰って農耕と講学につとめた。『沈氏農書』を広め、補編として『補農書』を著した。『読易筆記』、『読史偶記』、『言行聞見録』。
甘文焜(1633~1674)
  字は炳如。軍正藍旗の人。順治年間、兵部筆帖式から礼部啓心郎に累進した。康熙六年(1667)、直隷巡撫に任ぜられた。翌年、雲貴総督に転じた。十二年(1673)、呉三桂が乱を起こすと、降伏するよう迫られたが従わず、鎮遠に逃れ、のちに自殺した。
孫奇逢(1584~1675)
  字は啓泰。直隷省容城の人。万暦二十八年(1600)、郷試に及第した。末に乱を避けて易州五公山にこもった。晩年は蘇門の峰に居を移したため、峰先生と称された。学者として理学の大家となる。黄宗羲・李顒とともに清初の三大儒のひとりとされる。『歳寒居文集』。
尚可喜(1604~1676)
  寧省陽の人。末に副将に上った。天聡七年(1633)、後金(のちの)に降った。総兵官に上り、智順王に封ぜられた。順治年(1644)、ドルゴンに従って入関し、農民叛乱軍と各地の反軍の鎮圧にあたった。六年(1649)、平南王に改封された。南明政権に対して攻勢をかけ、広東に鎮し、清初の三藩のひとつとなった。子の尚之信が、呉三桂に呼応して三藩の乱を起こしたが、叛乱に反対して子に幽閉された。幽閉のさなかに没した。自殺させられたともいう。
程正揆(1604~1676)
  字は端伯、号は鞠陵。湖北省孝感の人。崇禎四年(1631)、進士に及第した。に入って官は工部侍郎に上った。官を辞してのちは郷里に帰って書画を楽しんだ。臥遊図六百巻を作ろうとし、繁簡濃淡その致を極めたという。
張爾岐(1612~1677)
  字は稷若、号は蒿庵。山東省済陽の人。末に諸生となった。が滅ぶと隠居し、官に仕えなかった。経籍に専心し、仏典老荘をひもとき、郷里で門人に教授し、著述をおこなった。とくに『儀礼』を詳しく研究した。『儀礼鄭注句読』、『儀礼考注訂誤』。
王鑑(1598~1677)
  字は円照、号は湘碧。江蘇省太倉の人。王世貞の孫にあたる。崇禎六年(1633)に郷試に及第し、八年(1635)に広東の廉州知県となった。十年(1637)、官を辞して郷里に隠棲し、画を楽しんだ。順治八年(1651)、虞山に遊んで王翬を弟子とした。四王惲のひとりとされる。王時敏とともに国初の二王ともいわれる。「染香庵画跋」。
呉三桂(1612~1678)
  字は月所。または長白。江蘇省高郵の人。襄の子。西に生まれた。武挙に及第して、末に東の総兵に上り、平西伯に封ぜられた。山海関に鎮してと対峙していたが、李自成の乱が起こると、と結んで北京を奪い、その功で平西王に封ぜられた。李自成軍を討ち、四川・雲南・貴州を平定し、南明の永暦政権を滅ぼした。雲南に鎮して、藩王となり半独立国を建てた。が統一を完成すると、撤藩を図って藩王に圧迫を加えるようになったため、叛乱を起こした(三藩の乱)。国を起こして周と称し、昭武と建した。まもなく病没した。死後、孫の世潘のに滅ぼされた。
禧(1624~1680)
  字は冰叔、号は裕斎。江西省寧郡の人。兄の祥、弟の礼とともに文名があった。末に諸生となり、が滅ぶと、翠微峰に隠居して、山中で教授し、実学を後進に唱導した。康熙十七年(1678)、博学鴻儒の試に応じるよう推薦されたが、病を理由に固辞した。の遺民志士を題材にした文章を多く残した。『左伝経世』、『日録』、『叔子文集』。
王時敏(1592~1680)
  字は遜之、号は煙客。江蘇省太倉の人。王錫爵の孫にあたる。万暦四十二年(1614)に祖父の蔭官によって尚宝司丞となり、天啓四年(1624)に正卿に上った。崇禎九年(1639)には太常寺少卿に遷った。十二年(1639)、南に使して発病し、このため致仕した。南明の招きにも応ぜず、子弟・後進の教育にあたって郷党に重きをなした。順治三年(1646)には城西十余里の帰村の西田に別墅を築き、西廬老人・帰村老農と自号した。王翬・惲寿平と交遊し、董其昌に師事して画技を磨き、文人画の領袖となった。また詩文や書にもすぐれた。清初六大家の筆頭で、四王惲のひとりとされる。「王奉常書画題跋」。『西田集』。
顧祖禹(1624~1680)
  字は景范、号は宛談先生。江蘇省無錫の人。仕官せず、父の志を継いで『一統志』の欠を補った。のちに『一統志』の編纂にも加わった。『読史方輿紀要』。
李漁(1611~1680)
  字は笠鴻、号は笠翁。浙江省蘭渓の人。晩年に南京から杭州にうつり、西湖のほとりに暮らした。通俗小説や戯曲の作品を多く残した。『肉蒲団』。
固爾瑪渾(1615~1681)
  アミンの三男。の崇徳三年(1638)、ドルゴンに従ってを攻めた。五年(1640)、父の罪に連座して爵位を剥奪され、宗籍より削られた。順治五年(1648)、宗籍に復帰し、輔国公に封ぜられた。翌年、鄭親王ジルガランに従って、湖広に軍を進め、功により固山貝子に進んだ。
顧炎武(1613~1682)
  もとの名は絳。字は寧人、号は亭林。江蘇省崑山の人。顧同応の子。幼いころ天然痘により左眼を失した。郷試にたびたび失敗した後、経世の学問に専念することを決意した。の滅亡後、福王政権に従い、南京兵部司務に任ぜられた。故郷の崑山守備にも加わったが、敗れて逃れた。のちに天下を周遊して、石文や歴史の実証学的研究を行い、考証学の創始者とされる。晩年は陝西省華陰に住んだ。朝に招聘を受けたが固辞しつづけた。『天下郡国利病書』、『日知録』。
図海(?~1682)
  馬佳氏。字は麟洲。満洲正黄旗の人。順治年間、弘文院大学士となり、議政大臣に列し、刑部を管轄した。康熙初年、中和殿大学士となり、都統・定西将軍に任ぜられ、鄖襄の李来亨率いる農民軍を鎮圧した。三藩の乱が起こると、康煕帝の命を受けて徴発と兵站を担当し、戸部尚書を領した。康熙十四年(1675)、信郡王鄂札を助けてチャハルのブルニの乱を平定した。翌年、撫遠大将軍となり、叛臣王輔臣に投降をせまり、陜西・甘粛を安定させた。功績により三等公に封ぜられた。十八年(1679)、畢力克図・王進宝・趙良棟らとともに興安・中を奪い、四川を攻め、呉三桂軍を大いに破った。二十年(1681)、北京に帰り、まもなく病没した。
耿精忠(?~1682)
  寧省蓋州の人。耿継茂の長男。康煕十年(1671)、父の跡を継いで、靖南王となった。の撤藩政策に反対して、十三年(1674)に呉三桂らとともに挙兵し、三藩の乱を引き起こした。十五年(1676)、敗北して降った。三藩の乱が平定されると、北京で刑死した。
施閏章(1618~1683)
  字は尚白、号は愚山。安徽省宣城の人。順治年間に進士に及第し、刑部主事、湖西道参議などを歴任した。康煕年間に入って侍講学士となり、『史』の編纂に参加し、侍読学士に進んだ。詩文にすぐれた。『学余堂詩文集』。
姚啓聖(1624~1683)
  字は煕止、号は憂庵。浙江省会稽の人。末に諸生となった。順治年間に自ら軍のために働き、軍鑲紅旗に属した。香山知県に任ぜられたが、海禁を破ったため免職された。康熙十三年(1674)、私財を散じて兵を募り、康親王傑書に従って耿精忠の乱を討った。十五年(1676)、福建布政使に任ぜられた。十七年(1678)、福建総督に進み、賚塔・黄芳泰らとともに鄭経の軍を破り、福建沿海を制圧した。十九年(1680)、兵部尚書に上ると、海の交通を開き、民業を復し、降伏した兵士に荒れ地を開墾させるよう請願した。二十二年(1683)、厦門に赴任して兵糧を管理し、施琅が台湾を攻めるための軍需に供した。まもなく福州で病没した。『憂畏軒奏疏文告』、『憂畏軒遺集』。
呂留良(1629~1683)
  字は用晦、号は晩村。浙江省石門の人。が滅びると、家財を散じて復を企図した。事敗れたのち、隠れて医者となった。朝は科挙に応じるよう求めたが応じず、のち剃髪して僧となった。法名を耐可と称した。華夷の別を弁じ、強烈な民族意識を有したため、その遺著は曾静らの反運動の思想的武器として利用された。曾静の乱の後、墓が暴かれて屍を戮され、著作は廃棄された。『晩村文集』。
兆騫(1631~1684)
  字は槎、号は季子。江蘇省江の人。順治十五年(1658)、南闈の科挙試験場の事件により、北方の寧古塔に流され、軍役につくこと二十三年にわたった。かれの詩集『秋笳集』は、北方の風物と現地の軍民のロシアとの抗争を描いた。『帰来草堂尺牘』。
傅山(1607~1684)
  もとの名は鼎臣。字は青主、号は白石道人。山西省陽曲の人。累の学者の家に生まれた。天啓五年(1625)、廩生となる。崇禎七年(1634)、袁継成の冤罪を訴えて知られた。の入関後、官途につこうとせず、顧炎武・閻古古らと交友した。順治十一年(1654)、謙の反計画に連座して獄に下り、拷問を受けたが屈しなかった。康煕十七年(1678)、博学鴻詞に応じるよう推挙されたが、拒絶した。朝は特に免試で中書舎人を授けたが、郷村を離れず、民を自称した。経史・諸子・仏道・医学に通じ、山水画や墨竹をよくし、詩文や篆刻にたくみで、音韻・訓詁などにも造詣が深かった。また理学を批判し、経史不分を唱えた。『双紅龕集』。
沈荃(1624~1684)
  字は貞ズイ、号は繹堂。江蘇省華亭の人。順治年間に進士に及第した。翰林院編修から侍読学士に上った。『充斎集』。
顧見竜(1606~1684)
  字は雲臣、号は門画史。江蘇省太倉の人。
納蘭性得(1655~1685)
  字は容若。満州正黄旗の出身。珠の長男。康煕年間に進士に及第した。三等侍に任ぜられ、一等に累進した。命を奉じてたびたび辺境の防塞を守った。文学を好み、詞作を最も得意とした。辺塞生活の写生的叙述にすぐれた。『欽水詞』、『通志堂集』。
フェルビースト(1623~1688)
  名はフェルディナント。名は南懐仁。字は勛卿、または敦伯。ベルギーの人。ジェスイット会の宣教師となる。順治十六年(1659)、にいたり、西安で布教した。翌年、アダム・シャール(湯若望)の推薦で北京に召され、欽天監となった。康煕三年(1664)、アダム・シャールに連座して獄に下った。七年、楊光先のもとで暦の誤りを正し、欽天監副となって天文観測儀器の製作にあたった。十二年、儀器が完成し、欽天監正に上った。翌年、三藩の乱にさいし、大小の砲を製造した。十五年、ロシアの大使ニコライが北京に来たとき、通訳にあたった。工部侍郎に累進し、北京で没した。『康煕永年暦法』、『赤道南北星図』、『坤輿全図』、『煕朝定案』。
龔賢(?~1689)
  字は半千、号は半畝。江蘇省昆山の人。江寧の涼山に流寓し、半畝園を築いた。山水画をよくし、董源・鎮を宗とした。墨を用いること重厚で、濃鬱蒼潤、山水画に生面を開いた。陵八家のひとり。『画訣』、『香草堂集』。
岳楽(?~1689)
  愛覚羅氏。アバタイの子。ヌルハチの孫にあたる。はじめ鎮国公に封ぜられた。順治三年(1646)、ホーゲに従って四川の張献忠軍を討った。六年(1649)、貝勒に封ぜられた。八年(1651)、父の爵位を継いで安郡王と改めた。翌年、工部をつかさどり、議政に参与した。十二年(1655)、宗人府をつかさどった。親王に進んだ。康熙十三年(1674)、定遠平寇大将軍となり、三藩の乱討伐に向かった。十九年(1680)、京師に帰還した。のちに病没した。
汪琬(1624~1690)
  字は苕文、号は鈍翁。江蘇省長洲の人。順治十二年(1655)、進士に及第した。戸部主事・刑部郎中などを歴任した。満族の官吏の腐敗を指弾したため、しばしば反撃を受けた。康煕十八年(1679)、翰林院編修となり、『史』の編纂に加わった。
王武(1632~1690)
  字は勤中、号は忘庵。江蘇省県の人。詩書のほか蹴鞠や騎射などさまざまな技芸に通じ、究めざるものなしと賞された。
惲格(1633~1690)
  字は寿平、号は南田、または雲渓外史。貧家に生まれ、画を売って暮らした。はじめ山水画を描いたが、花鳥画に転じ、水彩を用いた没骨法で花鳥を描いた。絵画に生面を開き、常州派と称された。また詩・書にもすぐれ、三絶と称された。四王惲のひとりとされる。『鴎香館集』。
巴泰(?~1690)
  氏。軍鑲藍旗の出身。の太宗(ホンタイジ)のとき、従軍して戦功があり、一等侍に任ぜられた。順治初年、摂政王ドルゴンにさからって爵位を削られた。順治帝が親政をはじめると、復職して内大臣となった。康熙六年(1667)、『世祖実録』編纂の総裁官にあてられ、中和殿大学士・吏部尚書・正黄旗軍都統に累進した。二十三年(1684)、致仕した。
王夫之(1619~1692)
  字は而農、号は船山・薑斎など。湖南省衡陽の人。王朝聘の子。七歳で十三経を読み、父より学問の手ほどきを受けた。また匡社に加わって、政治や文学を論じた。崇禎十五年(1642)、郷試に及第し、会試のため上京しようとしたが、張献忠らの軍にさえぎられて帰郷した。が滅ぶと、涕泣して食を絶つこと数日、「甲申悲憤詩一百韻」を作った。順治五年(1648)、郷里で反の義軍を起こしたが失敗。七年(1650)、広東省肇慶の南明永暦政権のもとに投じたが、党の腐敗を弾劾して、冤罪で処刑される寸前にまでいたった。このような朝廷内の権力闘争に嫌気がさして、幽棲を志して官を辞した。常寧・南岳・湘西と居を転じ、康煕十四年(1675)以後は衡陽の石船山に隠居して、講学と著述に専念した。『論』、『読通鑑論』など。
顧祖禹(1631~1692)
  字は景范。江蘇省無錫の人。顧柔謙の子。父の志を継いで、史学を研究した。二十余年をかけて正史における地理の比定・考証を行い、『読史方輿紀要』にまとめた。
笪重光(1623~1692)
  字は在辛、号は江上外史。江蘇省句容の人。順治年間に進士に及第した。官は御史となった。大学士珠による弾劾を受けて、辞職して隠居した。詩書画に通じ、山水・蘭竹にすぐれた。『書筏』、『画筌』。
冒襄(1611~1693)
  字は辟疆、号は巣民。江蘇省如皋の人。モンゴル族の末裔。末に副貢生となり、方以智・貞慧・侯方域とともに四公子と称された。東林党と密接な往来があり、南明の弘光帝が立つと、阮大鋮に憎まれて厳しい迫害を受けた。に入って仕えず、著述に専念した。『水絵園詩文集』。
鄭簠(1622~1693)
  字は汝器、号は谷口。上の人。医者。
徐乾学(1631~1694)
  字は原一、号は健庵。江蘇省昆山の人。康煕九年(1670)、進士に及第した。はじめ翰林院編修となった。康煕二十一年(1682)、『史』の総裁官となった。のちに侍講学士・詹事などをつとめ、内閣学士に上った。『一統志』、『大会典』などの編纂にあたった。さらに礼部侍郎・左都御史・刑部尚書などを歴任した。高士奇らの珠党と政権を争い、解職されて江南に帰った。郷里にあって利殖に走り、さらに弾劾を受けたという。『澹園集』。
徐枋(1623~1694)
  字は昭法、号は俟斎。江蘇省県の人。崇禎年間に郷試に及第した。『居易堂集』。
黄宗羲(1610~1695)
  字は太沖、号は黎州、または南雷。浙江省余姚の人。黄尊素の子。父は東林党に属して、忠賢を弾劾して獄死した。宗羲は劉宗周に師事して学問を修め、復社に参加した。郷試を数度受験したが、及第しなかった。が滅ぶと、紹興の王の軍に加わってに抵抗した。順治六年(1649)、老母のために郷里に帰ったが、逮捕令が下ったため、逃亡して各地を転々とした。康熙帝の時に入って、の招請を受けたが、これを固辞しつづけた。研究・講学に専念し、経世のための経学・史学を説いた。陽学右派の立場で実証的な思想史研究をおこなった。官僚や法律は天下万民のためにあると主張したため、後世にいたって民主思想の先駆者・中国のルソーと評価された。『夷待訪録』、『儒学案』。
施琅(1621~1696)
  字は涿公。福建省江の人。はじめ鄭芝竜の部下として左沖鋒をつとめた。に降ってのち、同安副将・同安総兵・福建水師提督を歴任し、内大臣に任ぜられ、軍鑲黄旗に属した。康熙三年(1664)、靖海将軍となった。二十年(1681)、福建水師提督に再任した。二十二年(1683)、軍を率いて澎湖を攻めて勝ち、台湾を討って鄭克爽を降伏させた。功により靖海侯に封ぜられた。『靖海紀事』。
巴海(?~1696)
  瓜爾佳氏。満洲鑲藍旗の出身。順治十六年(1659)、寧古塔総管となった。翌年、ロシア軍を黒龍江で破った。康熙年(1662)、黒龍江将軍に任ぜられた。満洲を寧古塔にうつし、康煕帝に賞された。二十二年(1683)にいったん罷免されたが、翌年に復職し、鑲藍旗蒙古都統となり、議政大臣に列せられた。
査士標(1615~1698)
  字は二瞻、号は梅壡。安徽省休寧の人。揚州に流寓した。末に諸生となったが、が滅ぶと科挙受験の道を捨てて、書画の業に専念した。青銅器やの書跡を多く蒐集し、批評にすぐれた。書は米芾を宗とし、画は倪雲林を宗とした。同郷の孫逸・汪之瑞・僧弘仁とともに海陽四大家と称された。『種書堂遺稿』。
姜宸英(1628~1699)
  字は西溟、号は湛園。浙江省慈渓の人。黄宗羲に師事した。経史に通じ、とくに掌故に詳しかった。となると官途につかず、康熙帝のときに鴻博に挙げられたが、固辞した。無官の布衣のまま史館に入り、刑法志の撰を担当し、徐乾学の『一統志』の編纂を助けた。のちに順天郷試副考官となり、科挙の不正事件により獄に下されて没した。死後に門人が私諡して、貞文ともいう。朱彝尊・厳繩孫とともに江南三布衣のひとり。『歴史表』、『儒林宗派』。
阿蘭泰(?~1699)
  富察氏。満洲鑲黄旗の人。はじめ兵部筆帖式・郎中に任ぜられた。三藩の乱が起こると、軍にあって檄文をものして、博覧強記で知られた。『平定三逆方略』の編纂に参与した。康熙二十年(1681)、内閣学士に進んだ。工部・兵部・吏部の尚書を歴任した。二十八年(1689)、武英殿大学士となり、国史館総裁にあてられた。康煕帝がジュンガル征討におもむくと、紫禁城の宿直を命ぜられ、奏章を管轄した。三十六年(1697)、『平定朔漠方略』編纂の総裁官にあてられた。
銭曾(1629~1701)
  字は遵王、号は述古堂。常熟の人。銭裔粛の子。『読書敏求記』、『述古堂書目』。
万斯同(1638~1702)
  字は季野、号は石園。浙江省鄞の人。経史に通じ、掌故に詳しかった。に入って官に仕えず、康煕十七年(1678)、博学鴻儒に挙げられたが固辞した。のちに布衣の身で史局に参じた。『史稿』の纂定にあたった。『歴史表』、『儒林宗派』。
厳繩孫(1623~1702)
  字はソン友、号は藕蕩漁人。江蘇省無錫の人。『史』の編纂に参加した。『秋水集』。
ゼルビヨン(1654~1703)
  名はジャン・フランソワ。名は張誠。字は実斎。フランスの人。ジェスイット会の宣教師となった。康煕二十六年(1687)、ルイ14世を受けて、ブーヴェ(白)らとともに渡した。翌年、北京にいたった。西洋の天文器具や書籍多数をもたらした。満州語に熟達し、数学を康熙帝に講じた。二十八年(1689)、ネルチンスク条約締結の際、ポルトガルの宣教師ペレイラ(徐日昇)とともに通訳の任にあたった。のち中国布教長に就任した。康熙帝に随行して八度にわたって東北およびモンゴルの各地を巡った。北京で没した。『韃靼紀行』、『実用幾何学』、『満文字典』。
閻若璩(1636~1704)
  字は百詩、号は潜邱。山西省山陽の人。科挙に失敗した後、北京に滞在して『一統志』の編纂に参加した。考証学に優れており、主著『古文尚書疏証』で古文尚書(書経)二十五篇がの偽作であることを実証した。ほかに『四書釈地』『潜邱剳記』。
(1635~1704)
  字は渾然、号は習斎。直隸省博野の人。はじめ放蕩無頼の生活を送った。ついで学に傾倒して修養につとめた。しかし養祖母の服喪の経験で、朱子家礼の服喪規定が人の性情に違うことに疑問を抱いた。のちに朱子学をはじめとする静坐読書の学を批判し、三事・六府・六徳・六行の生産的習行実践を基本とする学問を高唱した。労作教育の先駆者とされる。『四存論』、『四書正誤』。
邵長衡(1637~1704)
  字は子湘、号は青門。江蘇省武進の人。諸生となった。のちに除名され、まもなく太学に入った。江蘇巡撫犖の幕下に客となった。『青門集』。
高士奇(1645~1704)
  字は澹人、号は瓶廬。浙江省銭塘の人。礼部侍郎に上った。『経進文稿』。
洪昇(1659~1704)
  字は昉思、号は稗畦。浙江省杭州の人。王漁洋に師事し、文名を馳せた。はじめ詩を作っていたが、のちに戯曲に転じた。玄宗と楊貴妃の悲恋の物語を『長生殿』として完成させた。船で友人を訪れた帰途に足をすべらせて水に落ちて死んだ。
文点(1633?~1704)
  字は与也、号は南雲山樵。江蘇省長洲の人。文震孟の孫にあたる。『南雲詩文集』。
甄(1630~1704)
  もとの名は大陶。字は鋳万、号は圃亭。四川省達州の人。父について広東へ向かう途中に朝が滅び、紹興に避難した。のち江に移った。順治十四年(1657)、郷試に及第した。康煕十年(1671)、長子県の知県となったが、わずか十カ月で免職となり、各地を転々として、蘇州に落ち着いた。『潜書』。
李顒(1627~1705)
  字は中孚、号は二曲。陝西省盩厔の人。幼くして孤児となり、苦学して経史釈道の書を通読した。末に貧家から理学の巨儒となった人々の事跡を『観感録』に編んで、自らの励みにした。四十になって江南・関中で講学した。孫奇逢・黄宗羲とともに三大儒と称された。の朝廷にしばしば招聘されたが固辞した。『二曲集』。
朱耷(1626~1706?)
  号は八大山人。法名は伝綮、法号は伝崛。江西省南昌の人。の寧王・朱権の後裔にあたる。県試に応じて及第して生員となったが、が滅亡したため、故郷から逃亡して奉山に入り、禅僧となった。潁学弘敏に師事して曹洞宗を学んだ。飲酒と狂逸を好み、「一日の間、顛態百出す」といわれた。詩書画にすぐれた。画風は軽快・大胆・磊落で、山水画を得意とした。
珠(1635~1708)
  納喇氏。字は端范。満洲正黄旗の人。はじめ侍に任ぜられた。康熙七年(1668)に刑部尚書となり、のちに兵部にうつった。十二年(1673)、撤藩を強く主張して、康熙帝に重んじられた。十六年(1677)、武英殿大学士に任ぜられ、康熙帝が三藩の乱を平定するのを助けた。二十七年(1688)、大学士余国柱らと党派を結び、僉都御史郭琇らの弾劾を受けて、大学士を罷免された。まもなく内大臣となり、康熙帝のジュンガル遠征に従った。
孔尚任(1648~1708)
  字は聘之、号は東塘。また云亭山人と称した。山東省曲阜の人。孔子六十四世の孫という。国士監博士・戸部員外郎を歴任した。朝の亡国を傷んで、戯曲『桃花扇』を作った。博学で文名高く、洪昇とともに「南洪北孔」と併称された。『岸堂集』、『湖海集』。
朱彝尊(1629~1709)
  字は錫鬯、号は竹ダ。浙江省秀水の人。若いころから官途を志さず、長年にわたって各地を遊歴し、古学を究めた。康煕十八年(1679)、博学鴻詞科の試に応じ、翰林院検討に任ぜられた。『史』の編纂に参加した。詩人として、王士禎とともに「南朱北王」と併称された。
奕禧(1648~1709)
  字は文一、号は香泉。浙江省海寧の人。山西省安邑丞・戸部郎中・貴州省石阡知府などを経て、江西省南安知府となった。『虞州集』。
姜実節(1647~1709)
  字は学在、号は鶴澗。江蘇省県の人。『焚余草』。
王士禎(1634~1711)
  もとの名は士禛。字は貽上、号は阮亭、または漁洋山人。山東省城の人。順治十五年(1658)、進士に及第した。推官・主事・侍講・侍郎・左都御史などを歴任した。刑部尚書にまで上った。の王維や孟浩然を崇敬し、神韻説を唱え、物我一如の境地を詩に求めた。兄の王士禄・王士祐とともに三王といわれた。詩人として、朱彝尊とともに「南朱北王」と併称された。『池北偶談』、『漁洋詩集』。
犖(1634~1713)
  字は牧仲、号は漫堂。河南省商丘の人。権の子。康煕三年(1664)、黄州通判となった。二十七年(1688)、江西巡撫に進み、兵変を平らげた。のち江蘇巡撫にうつり、十四年間つとめた。康熙帝の三回の南巡を迎えて供応した。四十四年(1705)、京師に入って吏部尚書に上った。詩をよくし、家には蔵書が多かった。『西陂類稿』、『筠廊偶筆』。
胡渭(1633~1714)
  字は朏、号は東樵。浙江省徳の人。幼いころ父を失い、母に従って戦乱を避け山村に住んだ。太学に入り経史を学び、とくに地理学に詳しかった。『大清一統志』の編纂に参加した。また『易図辨』、『洪范正論』などを撰した。
蒲松齢(1630~1715)
  字は留仙、号は柳泉。山東省淄川の人。幼いときから文才で知られ、官吏として世に立つ希望を抱いた。県試・府試・院試を抜群の成績で突破したが、科挙の本試験に幾度となく挑戦して及第できなかった。三十歳を過ぎから、畢際有の庇護を受けて家塾の講師となった。才能を認めない社会への憤りを抱きつつ、鬱積した寂寥感を著述にそそいだ。『聊斎志異』。
王原祁(1642~1715)
  字は茂京、号は麓台。江蘇省太倉の人。王時敏の孫にあたる。康煕九年(1670)、進士に及第した。戸部侍郎・供奉内廷などを歴任し、戸部尚書にまで上った。祖父より画を学び、四王惲のひとりとされる。詩・書・画をともによくして、芸林の三絶といわれた。「雨窓漫筆」、「麓台跋画録」。
チャンジャ・フトクト(1652~1715)
  章嘉呼図克図。名は阿旺洛桑却丹。青海省章嘉の人。ラマ教黄帽派に帰依し、僧となった。康煕四十年(1701)から内蒙古トルノールの匯宗寺および北京の嵩祝寺に住持した。四十四年(1705)、「呼図克図」「灌頂普善広慈大国師」の称号を受け、内蒙古のラマ教の事務をつかさどった。五十二年(1713)、康熙帝のトルノール巡幸に随行した。五十四年(1715)、トルノールで寂した。
毛奇齢(1623~1716)
  字は大可、号は西河。浙江省蕭山の人。康煕十八年(1679)、博学鴻儒科に挙げられ、翰林院検討に任ぜられた。『史』の編纂に加わり、のち会試の考官となった。閻若璩が『古文尚書疏証』で古文尚書(書経)を偽作と論じたのに反論して、『古文尚書冤詞』を著して真作と弁護した。ほか音律に通じ、詩文をよくした。『春秋毛氏伝』、『放偸記』、『買家記』。
禹之鼎(1647~1716?)
  字は上吉、号は慎斎。江蘇省揚州の人。幼いころ藍瑛に師事したとも、興化の李氏の青衣となり画を学んだともいう。康煕二十年(1681)に鴻驢寺序班となり、翌年には琉球冊封使に随行した。王士慎・徐乾学らと交遊し、画の創作にうちこんだ。晩年は洞庭湖の風景を愛し、湖畔に隠棲した。「鍾印図冊」、「城南雅集図巻」。
歴(1632~1718?)
  字は漁山、号は墨井道人。江蘇省常熟の人。瑚のもとで科挙の学問を学び、銭謙益のもとで詩を学んだ。妻子を失って仏教に傾倒するが、のちキリスト教徒となった。王時敏の門で画を学び、のちに西洋画を修めた。晩年は嘉定・上海で布教に従事し、上海で没した。清初六大家・四王惲のひとりとされる。『墨井詩鈔』、『墨井画跋』。
李光地(1643~1718)
  字は卿、号は厚庵。福建省安渓の人。康煕九年(1670)、進士に及第した。翰林院編修・侍読学士・兵部右侍郎・工部左侍郎・直隷巡撫を歴任した。吏部尚書・文淵閣大学士に上った。靖南王・耿精忠の乱の鎮圧や台湾平定において、よく献策した。康熙帝の深い信任を得て、「朕はかれのことを最も正しく知っていて、朕を知ることまた光地に過ぎるものはない」と言わしめた。『周易通論』、『洪范説』、『工程遺書』。
王翬(1632~1720)
  字は石谷、号は耕烟。江蘇省常熟の人。王拳龍の子。はじめ張珂に師事して山水画を学んだ。順治八年(1651)、王鑑と虞山において出会い、かれに師事した。翌年、染香庵に招かれ、王時敏に従って研究を積んだ。康煕二十四年(1685)、納蘭成徳の招きで北京に向かったが、到着前に納蘭成徳は没しており、権貴の引き留めにも関わらず滞在二日で南帰した。二十九年(1690)、北京に召されて康熙帝の南巡図を描き、画院に南宗画を導入した。南宗画と北宗画を融合して、画聖と称された。四王惲のひとりとされる。「暉画跋」。
梅文鼎(1633~1721)
  字は定九、号は勿庵。安徽省宣城の人。幼いころから天文観察を好んだ。倪観湖に師事して、中算・西学に通じた。暦学の歴史的研究をおこなった。とくに古算法を解した。『暦算全書』、『梅氏叢書輯要』。
貝和諾(1647~1721)
  富察氏。満洲正黄旗の人。工部筆帖式から戸部主事に転じた。陜西巡撫・四川巡撫・兵部侍郎を歴任した。康熙四十四年(1705)、雲貴総督に上った。翌年、兵を率いて李天極らを討ち、捕殺した。四十九年(1710)、礼部尚書に転じた。のちに在任中に没した。
允礽(1674~1724)
  胤礽。の康熙帝(玄燁)の次男。母は孝誠皇后。康熙十四年(1675)、皇太子に立てられた。康熙帝がジュンガル征討のため親征すると、北京の留守を預かり、国事を処理した。遊興に節度なく、朋党を作り、有力者の請託を受けて政治をゆがめたため、康熙帝の失望を買った。四十七年(1708)、謀反の罪で廃位され、幽閉された。翌年、再び皇太子に立てられた。五十一年(1712)、再び廃され、禁錮を受けた。雍正二年(1724)、薨去した。死後、理密親王に封ぜられた。
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