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清初

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
清初
ホンタイジ(1592~1643)
  皇太極,の太宗⇒。
岳託(1599~1639)
  の礼親王ダイシャンの長男。太祖ヌルハチの孫にあたる。はじめ台吉に任ぜられ、征戦に従い、謀勇兼ね備えた。天命十一年(1626)、ヌルハチが逝去すると、父にホンタイジ擁立を勧めた。貝勒に封ぜられ、鑲紅旗の旗主となった。翌年、アミンに従って朝鮮を攻め、講和を受け入れて軍を返すよう力説した。天聡五年(1631)、兵部を主管するよう命を受けて、の降人を安撫するよう上疏した。崇徳年(1636)、和碩成親王となったが、まもなくマングルタイをかばって貝勒に降格された。三年(1638)、揚威大将軍となり、右翼の兵を率いてを攻め、まもなく軍中で没した。多羅克勤郡王に追封された。
アミン(1586~1640)
  阿敏。舒爾哈赤の次男。太祖ヌルハチの甥にあたる。幼くしてヌルハチに養われた。四大貝勒のひとりとなる。序列二位で二貝勒と称された。後金の天聡年(1627)、岳託らとともに兵を率いて朝鮮に攻め入り、仁祖を江華島に逃亡せしめ、和を請わせた。三年(1629)、の国境を侵し、永平などを攻め取った。の援軍が来ると、おびえて戦わず、獲得した四城を捨て、降伏していた人々を殺して、逃げ帰った。太宗ホンタイジはかれを収監して幽閉した。死後、爵位を剥奪された。
労薩(?~1641)
  瓜爾佳氏。満洲鑲紅旗の人。後金の天命・天聡年間にしばしば軍功を立て、驍勇によって知られた。碩翁科洛巴図の号を賜った。崇徳二年(1637)、議政大臣に任ぜられた。六年(1641)、松山の戦いに参加し、ドルゴンに従っての洪承疇を攻めて戦死した。
阿什達爾(1580~1643)
  納喇氏。満洲鑲白旗の人。天命四年(1619)、後金に帰順し、牛禄額真に任ぜられた。六年(1621)、陽攻撃に功あって一等参将を授けられた。天聡年間、蒙古衙門承政となり、モンゴルと朝鮮に対する事務を統括した。の崇徳年(1636)、都察院承政に任ぜられた。
バブハイ(1596~1643)
  巴布海。太祖ヌルハチの十一男。はじめ佐領に任ぜられた。天聡八年(1634)、一等参将となる。崇徳四年(1639)、正黄旗副都統に抜擢され、鎮国将軍をつとめた。七年(1642)、朝政に不満を示して、爵位を奪われ、廃されて庶民に落とされた。翌年、死刑に処せられた。
阿達礼(?~1643)
  の礼親王ダイシャンの孫。穎親王薩哈璘の長男。崇徳年(1636)、多羅郡王の位を継いだ。三年(1638)、モンゴル・ハルハ部に対する征戦に従った。五年(1640)、鄭親王ジルガランに従って義州に駐屯し、の関外の諸城を平らげた。七年(1642)、礼部を管轄し、の国政に参与した。翌年、ドルゴン擁立を謀って、処刑された。
達爾(1590~1644)
  郭絡羅氏。満洲正藍旗の人。太祖ヌルハチの甥にあたる。はじめ牛録額真となり、のちに太祖の娘をめとって額駙となった。天命十一年(1626)、八大臣に列し、固山額真に任ぜられた。しばしば兵を率いてを攻め、戦功を挙げて、一等副将世職に任ぜられた。崇徳年(1636)、一等総兵官に進んだ。六年(1641)、罪をえて罷免され、世職を奪われた。のち病没した。
図爾格(1596~1645)
  鈕祜禄氏。満洲鑲白旗の人。額亦都の八男。幼いころからの太祖ヌルハチの征戦に従った。天聡二年(1628)、本旗固山額真となり、八大臣のひとりとなる。四年(1630)、灤州の守りを捨てて逃亡した罪により罷免された。九年(1635)、チャハルを攻め、リンダン・ハーンの子のエジェイを降し、固山額真に再び任ぜられた。崇徳七年(1642)、アバタイらとともにを攻め、州県数十を落とした。功により三等公に進み、まもなく盛京で没した。
鮑承先(?~1645)
  山西省応州の人。末に副将となり、総兵の賀世賢に従って瀋陽を守備し、ヌルハチが瀋陽を落とすと、保寧に退いて守った。しかし敗れて、後金に降った。天聡年間、ホンタイジに従ってを攻め、しばしば軍を破った。に対する離間を仕掛け、袁崇煥謀殺に一役買った。寧遠を下し、湙州を落とし、大凌河を攻めた。崇徳年(1636)、文館を内三院と改め、内秘書院大学士に任ぜられた。三年(1638)、吏部右参政となった。入関後、病没した。
アバタイ(1589~1646)
  阿巴泰。太祖ヌルハチの七男。はじめ台吉に任ぜられ、征戦に従ってしばしば戦功を立てた。天命年間に貝勒となった。崇徳年(1636)、多羅饒余貝勒に封ぜられ、アジゲとともに軍を率いてを攻めた。七年(1642)、奉命大将軍としてを攻め、八十余城を破り、おびただしい捕虜をえた。順治年(1644)、多羅饒余郡王に封ぜられた。翌年、山東を攻め、満家洞の農民軍と戦った。のち病没した。
図頼(1600~1646)
  瓜爾佳氏。満洲正黄旗の人。費英東の子。天聡三年(1629)、軍功により備御に任ぜられ、のちに議政大臣に上った。順治年(1644)、ドルゴンに従って入関し、大順軍の通部を破った。翌年、陜西に入って大順軍を攻め、まもなく江南に下って南明の弘光帝を捕らえて、一等公に進んだ。三年(1646)、浙江・福建に進軍し、南明の隆武帝を捕らえた。まもなく軍中で没した。
羅洛渾(1623~1646)
  岳託の子。の崇徳四年(1639)、多羅貝勒に封ぜられ、鑲紅旗を領した。六年(1641)、太宗ホンタイジに従って松山の軍を破り、粛郡王ホーゲとともにの総督洪承疇を捕らえる功を挙げた。八年(1643)、朝政を批判した罪で爵位を削られた。順治年(1644)、軍に従って入関し、多羅衍禧郡王に進んだ。三年(1646)、粛親王ホーゲとともに四川に入り、大西軍を攻めたが、軍中で没した。
ダイシャン(1583~1648)
  善。太祖ヌルハチの二男。1607年、兄の褚英、叔父の舒爾哈赤とともに海西女真のウラ部を破り、烏拉貝勒博克多を斬った。後金の天命年(1616)、和碩貝勒に封ぜられた。四大貝勒のひとりとなり、序列一位でアンバ・ベイレと称された。十一年(1626)、ホンタイジがハーンに擁立されると、ハーンの権勢を抑えて大貝勒による分権体制を画策した。ホンタイジに兄として尊重され、和碩礼親王に封ぜられた。ホンタイジの死後、諸王・貝勒を集めて議論し、フリンを擁立した。フリン(順治帝)が即位すると、ジルガラン・ドルゴンに輔政にあたらせた。のちに北京で没した。
英俄爾岱(1596~1648)
  他塔喇氏。満洲正藍旗の人。の太祖ヌルハチの孫娘をめとった。勇戦して参将に抜擢された。天聡五年(1631)、戸部承政に任ぜられたほか、やチャハル部に対する征戦に従った。しばしば朝鮮に対する使者に立ち、理財と外交の才で知られた。順治年(1644)、入関後に戸部尚書となり、二等公に進んだ。
ホーゲ(1609~1648)
  豪格。の太宗ホンタイジの長男。はじめ貝勒となった。後金の天命十一年(1626)、モンゴル・ハルハ・ジャルート部に対する征戦に従った。天聡六年(1632)、和碩親王に封ぜられた。の崇徳年(1636)、和碩粛親王に進み、虎口王を称し、戸部をつかさどった。六年(1641)、軍を率いて松山を囲み、洪承疇らを捕らえた。八年(1643)、太宗が崩ずると、帝位を継ごうとはかったが、ドルゴンらにはばまれた。順治年(1644)、爵位を削られたが、まもなく復帰した。三年(1646)、靖遠大将軍に任ぜられ、陜西・四川に入り、大西軍を攻め、張献忠を殺した。五年(1648)、ドルゴンにより幽閉され、爵位を奪われ、宗室の籍から削られて、まもなく憤死した。八年(1651)、順治帝が親政をはじめると、爵位を返した。
ドド(1614~1649)
  多鐸。太祖ヌルハチの十五男。ドルゴンの同母弟にあたる。天命五年(1620)、和碩額真となった。まもなく貝勒となり、正白旗を統括した。天聡二年(1628)、モンゴルのドルト部を討った功で額爾克呼爾の号を賜った。崇徳年(1636)、和碩豫親王に封ぜられた。順治年(1644)、入関して、李自成軍を破り、定国大将軍に任ぜられた。軍を率いて揚州を落とし、江南に下って南明の福王を捕らえた。和碩徳豫親王に進んだ。三年(1646)、揚威大将軍となり、モンゴルのスニト部を平定した。翌年、輔政叔徳豫親王に進んだ。のち病没した。
ドルゴン(1612~1650)
  多爾袞。の睿親王。太祖ヌルハチの十四男。母はウラナラ氏。太祖は彼の資質を愛して、後継者にしたいと考えていた。しかし父の死後、兄の太宗(ホンタイジ)が即位したため、保身につとめた。天聡二年(1628)、太宗に従って出征し、蒙古を討った。崇徳年(1636)、太宗の即位大典を主宰し、和碩叡親王に封ぜられた。八年(1643)、太宗が崩じると、太宗第九子のフリン(順治帝)を擁立し、自身は摂政となった。翌年、山海関を越え、李自成軍を駆逐して、北京に入城。その後も、反勢力を掃討し、朝の基盤を固めた。順治五年(1648)、皇父摂政王に封ぜられた。七年(1650)にハラ・ホトンで狩猟しているところ、急死した。義皇帝と追尊されたが、八年(1651)に謀反を理由に皇籍を剥奪された。乾隆帝の時に名誉回復されて睿親王に復位した。
アジゲ(1605~1651)
  阿済格。太祖ヌルハチの十二男。はじめ台吉に任ぜられた。天命十年(1625)、チャハルのリンダン・ハーン征討に従い、功績により貝勒に封ぜられた。天聡三年(1629)、を攻めた。六年(1632)、再びチャハル部攻撃に従った。崇徳二年(1637)、多羅武英郡王に封ぜられた。四年(1639)、大凌河・錦州攻撃に従った。翌年、の洪承疇の軍を破った。順治年(1644)、入関して、李自成軍を破った。和碩英親王に封ぜられ、靖遠大将軍に任ぜられて、陝西におもむき、李自成を追った。いっとき、郡王に落とされたが、まもなく親王位に復した。八年(1651)、ドルゴンが亡くなると、爵位を奪われて幽閉され、のちに死を賜った。乾隆四十三年(1778)になって名誉回復された。
剛林(?~1651)
  瓜爾佳氏。字は公茂。満洲正黄旗の人。天聡八年(1634)、文で試に応じ、挙人となり、値文館に入った。崇徳年(1636)、国史院大学士に任ぜられ、部院官制と試士の法を定めるよう奏上した。入関後、会試の実施を主導した。順治六年(1649)、『太宗実録』編纂の総裁となり、末の史籍を蒐集し、巴克什の号を賜った。八年(1651)、摂政王ドルゴンにへつらい、国史を改竄したとして罪に落とされ、処刑された。
王鐸(1592~1652)
  字は覚之、号は癡山道人。河南省孟津の人。天啓二年(1622)、進士に及第した。翰林院に入り、庶吉士となった。編修・少詹事・保筵講官・東宮侍班を歴任したが、崇禎十二年(1639)に官を辞して懐州に隠棲した。が滅亡する直前、礼部尚書として北京に招かれたが、赴任する前に李自成によって北京は陥落していた。南京の福王政権に仕えて、東閣大学士に任ぜられ、太子太保に上った。順治三年(1646)、南京で降伏すると、に仕えて弘文院学士となり、『史』編纂の副総裁をつとめた。六年(1649)、礼部佐侍郎となり、太子太保を加えられた。八年(1651)、官を辞して帰郷した。翌年、礼部尚書に任ぜられたが、病床にあって赴任できぬまま没した。書にすぐれたが、弐臣の作品として長らく正当に評価されなかったという。『擬山園初集』。
希福(1589~1652)
  赫舎里氏。満洲正黄旗の人。満・蒙・文に通じ、巴克什の号を賜った。しばしばモンゴル各部への使者として立った。崇徳年(1636)、弘文院大学士に任ぜられた。順治年(1644)、『史』『史』『史』を満文訳して、賞賛を浴びた。まもなく摂政王ドルゴンにさからって罷免された。八年(1651)、順治帝が親政をはじめると、大学士となり、国政に参与した。のち病没した。
権(1598~1652)
  字は平、号は雨恭、または園。河南省商丘の人。の天啓年間、進士に及第した。崇徳十七年(1644)、順天巡撫に任ぜられた。のちにに降り、原官に任ぜられた。時政を論じ、田賦の減免を求め、屯田を興した。順治三年(1646)、国史院大学士に上った。七年(1650)に巡按の職を復活させないよう力説したが、翌年ひるがえって巡按を設けるよう述べたため、一貫性のない言動を非難された。まもなく致仕した。
洪綬(1599~1652)
  字は章侯、号は老蓮。浙江省諸曁の人。万暦四十六年(1617)、諸生となる。以後しばしば応試するが及第しなかった。崇禎十五年(1642)捐納により国子監生となった。内廷供奉に任ぜられるが、画師として遇されることを恥じ、翌年致仕して帰郷した。軍が南下して郷里は戦禍をこうむり、僧となって難を避けた。雲門僧・九品蓮台主者などと号した。やがて紹興の徐渭の旧居に住みつき、順治年間に入ると呉越の間を往来。順治九年(1652)、故郷で念仏を唱えつつ没した。画は藍瑛が天授の才と激賞し、十四歳にして売画を生業としたという。とくに人物画にすぐれ、崔子忠と名をひとしくして、南北崔と称された。性は放縦不羈で、酒と女を愛した。『宝綸堂集』。
尼堪(1610~1652)
  愛覚羅氏。太祖ヌルハチの孫にあたる。崇徳年(1636)、貝子に封ぜられ、朝鮮侵攻に従軍した。順治年(1644)、多羅貝勒に進み、ドドに従って陜西・河南の大順軍および南明軍を攻めた。三年(1646)、ホーゲに従って四川の張献忠を攻めた。六年(1649)、定西大将軍となり、大同の叛将姜瓖を攻めた。八年(1651)、和碩敬謹親王に封ぜられた。翌年、定遠大将軍に任ぜられ、湖南に入って李定国の軍を攻めて、衡州で敗死した。
孔有徳(?~1652)
  字は瑞図。寧省蓋州の人。の登州参将となった。崇禎四年(1631)、東に援軍としておもむくため出発したが、橋で叛乱し、登州を陥した。都帥を自称した。六年(1633)、海を渡って後金に降り、都帥に任ぜられ、その軍を天祐兵と号した。崇徳年(1636)、恭順王に封ぜられ、部衆を率いてを攻めた。のちに軍正紅旗に属した。入関後、陝西の李自成軍を攻め、ついで江南に攻め下った。順治三年(1646)、平南大将軍となり、湖広・広東の制圧にあたった。六年(1649)、定南王に改封され、広西に入った。九年(1652)、桂林で李定国の軍に囲まれ、自殺した。
万寿祺(1603~1652)
  字は介石、号は年少。江蘇省徐州の人。の崇禎三年(1630)、郷試に及第した。が滅ぶと、儒衣僧帽での間を遊歴した。群書に詳しく、数理にるく、禅に通じていた。また碁や琴や剣器や工芸や刺繍や詩書画のほか、通暁していないものはないと言われた多芸の人であった。
瓦克達(1606~1652)
  礼親王ダイシャンの四男。太祖ヌルハチの孫にあたる。天聡・崇徳年間、に対する征戦に従って、しばしば功を挙げた。崇徳八年(1643)、兄の碩託と甥の阿達礼がドルゴン擁立を謀ったため、連座して宗室の籍から削られた。順治三年(1646)、功により宗室の籍を回復した。三等鎮国将軍・鎮国公・多羅郡王に歴封された。六年(1649)、征西大将軍となり、山西平定にあたった。八年(1651)、工部をつかさどり、国政に参与した。翌年、ドルゴン死後の追貶に連座して罷免され、まもなく病死した。
(1601~1654)
  字は百史。江蘇省溧陽の人。の崇禎年間、進士に及第した。修撰・戸兵二科都給事中をつとめた。李自成に降った。順治二年(1645)、に降り、原官に復した。五年(1648)、吏部尚書となった。八年(1651)、ドルゴンの党与として弾劾を受けたが、譚泰の庇護を受けて、失脚を免れた。弘文院大学士に上った。のちに譚泰が処刑されると、免職された。十年(1653)、秘書院大学士・吏部尚書として復活した。翌年、収賄や子弟の非行などを寧完我に弾劾されて、処刑された。『石雲居文集』。
侯方域(1618~1654)
  字は朝宗、号は雪苑。河南省商丘の人。侯恂の子。古文古詩をたしなみ、崇禎十一年(1638)に南京にいたって、方以智・貞慧・冒襄らとともに四公子のひとりに並び称された。当時の名妓・李香君と往来があり、その故事はのちに孔尚任『桃花扇』の題材とされた。が滅ぶと反の義軍に参加した。『壮悔堂文集』。
巴布泰(1592~1655)
  太祖ヌルハチの九男。天命十年(1625)、兄の阿拜らとともに東海フルハ部を攻めて、戦功を挙げた。翌年、理正黄旗事となった。天聡四年(1630)、濼州を失陥して、罷免された。八年(1634)、副都統となり、征の師に従軍したが、過失により再び罷免された。崇徳六年(1641)、三等奉国将軍に封ぜられた。順治年(1644)に入関し、三年(1646)、湖広を攻めた。六年(1649)、累進して鎮国公となった。
ジルガラン(1599~1655)
  済爾哈朗。荘親王シュルガチの子。後金の天命六年(1621)、固山額真に任ぜられ、まもなく貝勒となった。天聡四年(1630)、アミンにわって鑲藍旗を統轄し、八和碩貝勒のひとりとなった。の崇徳年(1636)、和碩鄭親王に封ぜられ、兵を率いてを攻めた。八年(1643)、フリン(順治帝)が擁立されると、ドルゴンとともに摂政王として輔政にあたった。順治年(1644)、信義輔政叔王に封ぜられた。四年(1647)、輔政から退いた。翌年、ホーゲ擁立に賛同したとして、郡王に降格された。まもなく親王にもどり、定遠大将軍に任ぜられ、兵を率いて湖広に入り、南明を攻めた。八年(1651)、ドルゴンが亡くなると、諸王を率いてドルゴンの爵位を削るよう奏請した。翌年、叔和碩鄭親王に進んだ。のち病没した。
高爾儼(?~1655)
  字は中孚。河間静海の人。の崇禎年間、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。の入関後に降り、礼部・吏部侍郎を歴任し、吏部尚書に抜擢された。順治九年(1652)、弾劾を受けて致仕を請うた。まもなく弘文院大学士に任ぜられた。
祖大寿(?~1656)
  字は復宇。東の人。の崇禎年(1628)、寧遠防の功により前鋒総兵官に抜擢され、錦州に駐屯した。三年(1630)、孫承宗らと合流して永平の四城を奪回した。翌年、大凌河で軍に囲まれ、食糧が尽き援軍もなく、やむなくに偽降した。まもなく逃げて錦州を固めた。太宗ホンタイジにたびたび降伏を勧められたが従わなかった。十五年(1642)、軍に長らく錦州を囲まれ、洪承疇の援軍も敗れたため、ついにに降った。総兵官に任ぜられ、軍正黄旗に属し、厚遇されたが重用はされなかった。のちに北京で病没した。
項聖謨(1597~1658)
  字は孔彰、号は易庵。浙江省秀水の人。項汴の孫にあたる。家蔵の書画を見て画技を磨いた。軍が嘉興に入ると南方に逃れ、売画を生業とした。とくに松の描写を得意とし、項松と称された。『朗雲集』。
阿爾津(?~1658)
  伊爾根覚羅氏。満洲正藍旗の人。後金の天聡年間、の崇徳年間、しばしば攻戦に従って功を挙げた。議政大臣に列し、巴牙喇纛章京を領した。順治年(1644)に入関して、潼関を陥し、江南を平らげ、四川の大西軍を攻めた。九年(1652)、西安将軍に任ぜられた。十二年(1655)、寧南靖寇大将軍となり、大西軍の李定国と湖南で戦った。十五年(1658)、雲南を攻めて、軍中で没した。
王永吉(1600~1659)
  字は修之。江蘇省高郵の人。の天啓年間に進士に及第した。薊総督に上った。のちにに降り、大理寺卿に任ぜられた。順治八年(1651)、戸部侍郎となり、兵員を減らすよう上奏した。十年(1653)、兵部尚書に上った。翌年、秘書院大学士に進んだ。のちに国史院大学士・吏部尚書となった。十五年(1658)、甥の王樹徳が事件を起こし、太常寺少卿に左遷された。
拜音図(1603?~1660)
  巴雅喇の子。はじめ副将となる。天命十一年(1626)、正黄旗佐管大臣に任ぜられた。天聡八年(1634)、固山額真に任ぜられた。崇徳初年、や朝鮮に対する攻撃に従軍した。崇徳六年(1641)に弟の罪をかばって免職されたが、翌年復職した。順治二年(1645)、豫親王ドドに従って江南に攻め下り、功により鎮国公に封ぜられ、多羅貝勒に進んだ。九年(1652)、ドルゴンに追従したとして、爵位を奪われて幽閉され、宗室の籍から削られた。
阿済格尼堪(?~?)
  他塔喇氏。満洲正白旗の人。達音布の子。はじめ父の職を継いで三等甲喇章京となり、甲喇額真に任ぜられた。のちに巴牙喇纛章京に抜擢され、若くして征戦に従い、しばしば軍を破った。崇徳六年(1641)、ジルガランに従っての錦州外城を攻め取り、一等参将に進んだ。順治年(1644)に入関し、西安を破り、浙江・福建を平定し、湖南・広東を攻めた。正白旗満洲都統に上り、議政大臣に任ぜられ、三等伯に進んだ。
王秀(?~?)
  江蘇省江都の人。『揚州十日記』。
マルチン・マルチニ(1614~1661)
  名は匡国。字は済泰。オーストリアの人。幼いころから数学・神学を学んだ。崇禎十六年(1643)、ジェスイット会の宣教師として、渡海しアモイに至った。浙江の蘭渓で伝教にいそしみ、活動を江南に広げ、さらに北京に遊歴した。順治七年(1650)に典礼問題の報告のために帰国したが、十五年(1658)に再び中国に赴いた。翌年、北京から杭州に赴いて、天主教堂を建て、中国と西洋間の文化交流に心をくだいた。コレラに感染して杭州で病没した。『韃靼戦記』、『中国地図冊』、『天主理証』。
巴思哈(1632~1661)
  岳託の五男。崇徳四年(1639)、鎮国将軍に封ぜられた。順治六年(1649)、多羅貝勒に進んだ。十一年(1654)、尼堪に従って大西の李定国を攻め、敗れたため罪に問われ、爵位を削られた。翌年、鑲紅旗満洲都統に上り、鎮国公に封ぜられた。十五年(1658)、南明永暦政権に対する征討に従い、民間に騒擾を起こさせたため、鎮国将軍に降格された。雲南を平定すると、北京に帰った。
劉正宗(?~1661?)
  字は可宗。山東省安丘の人。の崇禎年間、進士に及第した。の順治二年(1645)、翰林院編修に任ぜられた。十年(1653)、弘文院大学士に上った。十六年(1659)、終日詩文にふけり、廷議をおのれの意のままにしようとしたとして、順治帝に排斥された。翌年、弾劾を受けて罷免され、家産を没収された。
(1614~1663)
  図倫の次男。の崇徳年間、に対する征戦に従い、戦功があった。順治年(1644)、貝子に封ぜられた。ドドに従って陜西の大順軍を攻め、江南に下った。鑲藍旗満洲都統に任ぜられた。六年(1649)、多羅貝勒に封ぜられた。十年(1653)、定遠大将軍となり、李定国を攻めた。翌年、尼堪が衡州で敗没した罪に連座して、爵位を剥奪された。十五年(1658)、雲南に入り、南明の桂王を攻めた。のちに北京で病没した。
馬光遠(?~1663)
  順天府大興の人。末に建昌参将となった。崇禎三年(1630)、に降り、梅勒額真に任ぜられ、軍鑲黄旗に属した。天聡七年(1633)、旧軍を統轄し、一等総兵官に進んだ。翌年、出兵を奏請して、を攻めた。崇徳年(1636)、朝鮮を攻めた。四年(1639)、を攻めて過失があり、免職された。のちに軍正黄鑲黄二旗固山額真に封ぜられた。順治四年(1647)、致仕した。
寧完我(1593~1665)
  字は公甫。陽の人。はじめ後金軍に捕らえられて奴隷とされ、のちに軍正紅旗に属した。天聡三年(1629)、値文館に入り、巴克什の号を賜った。しばしば軍政の方針に意見を述べ、六部を設置するにあたって多くかれの意見が採り上げられた。十年(1636)、酒を嗜み賭け事を好むとして免職された。順治年(1644)に弘文院学士となり、翌年に大学士に上った。十一年(1654)、大学士を弾劾して排除した。十五年(1658)、致仕した。
范文程(1597~1666)
  字は憲斗、号は輝岳。寧省瀋陽の人。若くして学問を好み、経史に広く通じた。天命三年(1618)、ヌルハチが撫順を陥落させると、帰順して後金政権に参加した。軍鑲黄旗に属した。太宗ホンタイジの謀士として、対外関係の調整や人官僚の招撫につとめた。順治年(1644)、李自成が北京を陥落させると、軍の早期の入関と人心の収攬を求めて上奏した。九年(1652)、議政大臣に任ぜられ、少保・太子太保に進み、太傅・太子太師に上った。死後、文粛と諡された。
之遴(1605~1666)
  字は彦升、号は素庵。浙江省海寧の人。の崇禎年間、進士に及第した。弘光年(1645)、に降った。侍読学士・礼部侍郎・尚書を歴任した。順治九年(1652)、弘文院大学士に任ぜられた。翌年、戸部尚書に転じた。十二年(1655)、再び弘文院大学士となったが、順治帝の怒りを買って、盛京への移住を命じられた。まもなく呼び戻された。十五年(1658)、内監良輔への賄賂が発覚して、家産を没収され、盛京に流された。のちに開原尚陽堡の配所で亡くなった。『浮雲集』、『旋吉蕫集』。
↓次の時康熙期

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