0o0dグッ

洪武建文期

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)

璋(1328~1398)
  の洪武帝,太祖⇒。
胡大海(?~1362)
  字は通甫。安徽省泗州の人。至正十四年(1354)、朱璋に投じ、先鋒をつとめた。用兵にすぐれ、軍紀は厳正であった。僉枢密院事に上った。浙江で転戦し、寨粮法の廃止を建議した。江南行省参知政事に進み、華に駐屯した。のちに部下にそむかれて殺された。越国公に追封された。
趙汸(1319~1369)
  字は子常、号は東山。休寧の人。春秋の研究に打ち込み、晩年は東山で著述にはげんだ。『春秋集傳属辞』。
常遇春(1330~1369)
  字は伯仁。安徽省懐遠の人。はじめ劉聚の蜂起に従った。至正十五年(1355)、和州で朱璋に帰順。渡江して采石を抜き、進んで太平を取り、総管府先鋒に任ぜられた。のち総管都督に上った。集慶を攻めるのに従い、最も著しい功績を挙げた。徐達に従って鎮江を取り、常州を破った。中翼大帥となった。浙東を攻めて衢州を落とし、僉枢密院事に進んだ。鄱陽湖の戦いでも功績を挙げた。二十四年(1364)、朱璋が王となると、平章政事となった。平江で張士誠を滅ぼした。中書平章軍国事となり、鄂国公に封ぜられた。大将軍・徐達の下で副将軍をつとめ、北伐に従い朝を漠北に逐った。洪武二年(1369)、李文忠とともに開平に北元軍を破った。凱旋中に病没し、開平王に封ぜられた。
陶宗儀(?~1369)
  字は九成、号は南村。浙江省黄岩の人。朝・張士誠・朝から招聘を受けたが、仕官することなく講学と著述に専念した。の掌故・典章・文物を研究し、小説・戯劇・書画・詩詞を論じた。また自身も詩文にたくみであった。『輟耕録』、『南村詩集』。
危素(1295~1372)
  字は太朴、号は雲林。江西省渓の人。の至正年(1341)、大臣の推薦により経筵検討に任ぜられた。国子助教・翰林院編修・太常博士・監察御史・大司農丞・礼部尚書などを歴任した。三史の編纂に参与した。十八年(1358)参議中書省事・経筵官となった。二十年(1360)、参知政事に上った。二十四年(1364)、翰林学士承旨となった。ボロテムルが相となると、嶺北行省左丞として出された。翌年、官を捨てて房山に住んだ。二十八年(1368)、順帝が北に逃れ、淮王テムルブカが監国となると、翰林学士承旨として再び起用された。の兵が大都に入ったとき、兵が史庫に入るのを説得して止めさせた。召しに応じて南京におもむいた。洪武二年(1369)、翰林侍講学士に任ぜられた。翌年、弘文館学士を兼ねた。同年冬、「亡国の臣を重用すべきでない」との御史の弾劾を受けて、罷免され和州含山に住んだ。博学で文辞をよくし、書に巧みであった。『爾雅略義』、『危太朴集』。
王禕(1322~1374)
  字は子充。浙江省義烏の人。若いとき、黄溍・柳貫について学び、文章にすぐれて世に名をあらわした。の至十八年(1358)、朱璋に任用されて中書省掾吏となり、その才は濂に勝ると称せられた。侍礼郎となり、起居注をつかさどった。二十七年(1367)、漳州通判に左遷された。の洪武二年(1369)、『史』の撰修のため召されて、濂とともに総裁官となった。『史』が成ると、翰林待制・同知制誥・国史院編修官に上った。五年(1372)、王を招諭するため雲南におもむき、殺された。『造邦勛賢録』、『王忠文公集』。
高啓(1336~1374)
  字は季迪、号は青邱子。江蘇省長洲の人。若くして詩名高く、の詩風を伝え、の詩風を開いた。洪武二年(1369)、洪武帝の招聘に応じて、『史』の編纂に従事した。戸部右侍郎に任ぜられたが、固辞して郷里に帰った。七年(1374)、観の罪に連座して刑死した。初第一の詩人と目される。『高太史大全集』。
劉基(1311~1375)
  字は伯温。諡は文成。処州青田の人。名家に生まれて、経・史・理を学び、天文・地理・兵法・易学に精通した。末に進士に及第して高安県丞・江浙儒学副提挙・江浙行省都事などをつとめた。三度召されて三度官を去った。故郷に帰って十年ほどの間、読書と著述に専念したが、朱璋に招かれて仕えた。以後、朱璋の側近として帷幄の謀を献じた。西の友諒と南の張士誠らと鼎立したとき、西の友諒を先に討つことを進言した。友諒が大軍を率いて応天府(南京)に迫ると伏兵をしいてこれを討つよう勧めた。鄱陽湖の戦いで友諒を敗死させるのにも功があった。年(1367)、太史令に任ぜられ、次いで御史中丞を兼ねた。洪武三年(1370)、弘文館学士となり、誠意伯に封ぜられた。朱璋に言を用いられなくなり、胡惟庸に憎まれた。四年(1371)、病を理由に、郷里に帰って隠棲し、酒と囲碁を楽しんだ。胡惟庸による弾劾にあって、都に弁におもむいたが、そのまま急逝した。『劉誠意伯文集』。
胡惟庸(?~1380)
  安徽省定遠の人。至正十五年(1355)、和州で朱璋に投じた。帥府奏差に任ぜられ、のちに主簿・知県・通判・僉事などの官を歴任した。洪武三年(1370)、中書省参知政事となった。六年(1373)、右丞相に上り、また左丞相に進んだ。右丞相・汪広洋が左遷されると、政務を専断した。十三年(1380)、北元や日本と結んで政権転覆を図ったとされ、謀反の罪で誅戮された。連座するもの三万人に及んだ(胡惟庸の獄)。
濂(1310~1380)
  字は景濂、号は潜渓。浙江省浦江の人。の至正年間に、推薦を受けて翰林院編修に任ぜられたが、固辞して受けなかった。龍門山に隠居して著述し、十余年を過ごした。初に朱璋の召しに応じて応天府(南京)におもむき、江南儒学提挙に任ぜられた。洪武二年(1369)、総裁官となり、『史』編纂にあたった。完成すると、翰林学士となった。国子司業・礼部主事・賛善大夫を歴任した。六年(1373)に侍講学士となり、九年(1376)に学士承旨となった。老齢のため、致仕した。十三年(1380)、胡惟庸の獄に連座して茂州に安置された。翌年、病のため亡くなった。『龍門子』、『浦陽人物記』、『洪武聖政記』、『学士文集』。
(?~?)
  字は則誠、号は東嘉。温州瑞安の人。至正五年(1345)、進士に及第し、処州の録事に任ぜられた。八年(1348)、方国珍の叛乱を討伐する軍に従軍。方国珍はに帰順し、高を幕下に誘ったが従わなかった。のちに官を退き、詞曲の創作に打ち込んだ。朱璋は彼の名声を聞いて招聘しようとしたが、佯狂してこれを避けた。寧波で没した。『琵琶記』。
施耐庵(?~?)
  字は子安。江蘇省興化の人。至順年間に進士に及第した。銭塘の知県をつとめたが、官界に合わず致仕した。以後、郷里で著述に専念した。末に張士誠の乱に参加したともいう。『水滸伝』の作者とみなされている。
羅貫中(?~?)
  名は本、号は湖海散人。山西省太原の人。『三国志通俗演義』、『志伝』、『残五代史演義』、『三遂平妖伝』などを書き、『水滸伝』の成立にも参与したといわれる。また、雑劇『風雲会』、『蜚虎子』、『連環珠』の作者でもあった。
李文忠(1339~1384)
  字は思本。江蘇省鳳陽の人。末に紅巾軍に加わり、朱璋の養子となった。舎人として親軍を統領し、驍勇は諸軍に冠絶した。しばしば軍を破り、枢密院僉事に上った。至正二十二年(1362)、華の乱を平定し、浙東行省左丞に任ぜられた。二十六年(1366)、杭州を取り、栄禄大夫・浙江行省平章政事を加えられた。の洪武二年(1369)、常遇春に従って塞外に出征した。常遇春が亡くなると、わって軍を率いた。翌年、徐達と道を分かれて北進し、応昌を攻め、北元の太子マイダリバラを捕らえ、玉璽を得た。大都督府左都督となり、曹国公に封ぜられた。四年(1371)、におもむき、成都城を築いた。十二年(1379)、提督大都督府参賛軍国事・領国子監となった。晩年、太祖を諫めたため、責めを受けた。まもなく病没した。岐陽王に追封された。
徐達(1332~1385)
  字は天徳。安徽省濠州の人。朱璋と同郷で農家に生まれた。至正十一年(1351)に紅巾の乱が起こると、その翌年朱璋の麾下で濠州の蜂起に参加した。十六年(1556)に集慶(南京)を陥す一翼をになった。鎮江に進撃して、常州・常熟を抜き、張士誠の勢力を弱体化させた。二十三年(1363)、友諒との間の鄱陽湖の戦いでは先鋒をつとめ、猛火の中を勇戦して敵を撃退した。翌年、朱璋が王として自立すると左相国に任ぜられ、二十六年(1366)には大将軍に上った。張士誠を討って江南を平定した。翌年から征虜大将軍として大軍を率いて北伐し、山東・河南を降し、洪武年(1368)には大都を攻め陥して、河北を平定した。以後、連年北伐してココティムールの軍と戦った。国公に封ぜられ、死後に中山王を追贈された。朝開国の功臣の第一とされる。
王蒙(?~1385)
  字は叔。湖州の人。黄鶴山に隠棲して詩文書画に親しんだ。とくに画にひいで、山岳描写を得意とした。のちに張士誠に仕えた。になって、泰安の知州に任官した。しかし、胡惟庸の乱に連座して獄死した。黄公望・倪サン・鎮とともに末の四大家のひとりといわれる。「泉声松韻図」、「古木含秋図」など。
克(1327~1387)
  字は仲温。江蘇省蘇州の人。南宮里に住んだため、南宮生と号した。若くして武芸を習い、呉越の間に遊んだ。張士誠に招かれたが、官に就かなかった。郷里に帰り、文物を蒐集し、書法をきわめることに意をつくした。洪武四年(1371)、鳳翔同知に任ぜられ、任地で没した。『七姫権厝志』、『急就章』。
何真(?~1387)
  字は邦佐。東莞の人。若くして書と剣を好んだ。の至正初年、河源県務副使となり、淡水場管勾に転じたが、官を捨てて帰郷した。末に叛乱が続発すると、人々を集めて郷土の防にあたった。十四年(1354)、王成・仲玉らの乱を帥府に報告したが、賄賂を受けた府がかえって何真を捕らえた。居坭岡に逃れて挙兵し、王成を攻めたが勝てなかった。王仲剛・黄常の乱を討って、功により恵陽路同知・広東都帥に任ぜられた。海賊の邵宗愚を討って、広東分省参政に進み、右丞に抜擢された。熊天瑞・仲玉・王成らを次々と撃破して、嶺表・沿海地方を制圧した。の洪武年(1368)、の廖永忠の説得を受けて降った。山東参政・山西右布政使・浙江布政使などを歴任した。
李善長(1314~1390)
  字は百室。安徽省定遠の人。朱璋が滁陽を攻略したとき、出仕して掌書記となった。朱璋の深い信任を受け、帷幕に参与した。朱璋が巣湖の水軍を得たとき、渡江を勧め、集慶を陥すのに奇謀を献じた。帥府都事・江南行中書省参議・参知政事などをつとめた。朱璋が王に上ると、右相国に任ぜられ、宣国公に封ぜられた。劉基とともに大律の制定にあたった。洪武三年(1370)、光禄大夫・左柱国・太師・中書左丞相に上り、韓国公に封ぜられた。翌年、病のため致仕した。二十三年(1390)、胡惟庸の獄に連座して殺された。
徐賁(1335~1393)
  名は幼文、号は北郭生。江蘇省毗陵の人。のち平江(蘇州)にうつった。詩文にたくみで、画をよくし、山水を五代の董源に私淑して、中四傑のひとりに数えられた。また高啓らとともに北郭十友と号された。末に張士誠に召されたため、湖州山に居を避けた。朱璋が平江を落とすと、臨濠にうつり、呉越の間を往来しながら、詩文をもって友人らと交遊した。洪武七年(1374)、推挙を受けて南京に上り、給事中・刑部主事・広西参議・河南左布政使を歴任した。十二年(1379)、軍隊への賞賜が不公正だったため、獄に下され、衰弱して没した。『北郭集』。
藍玉(?~1393)
  安徽省定遠の人。常遇春の妻の弟にあたる。はじめ常遇春の麾下に従い、功績を重ねた。朱璋のもとで推挙されて管軍鎮撫となり、大都督府僉事に上った。傅友徳に従って征の戦に、徐達に従って北伐に、沐英に従って西蕃討伐に、転戦して功を挙げた。洪武十二年(1379)、永昌侯に封ぜられた。二十年(1387)、大将軍に上り、蘇州に鎮した。翌年、北元を攻めてトグス・テムルを破り、涼国公に封ぜられた。洪武帝はかれを青やの李靖と比して讃えたという。功績にたのんで驕慢な行いが多く、私田を蓄え、多くの仮子を迎えるなどした。二十六年(1393)、謀反の罪で殺された。連座するもの一万五千人に及んだ(藍玉の獄)。
湯和(1326~1395)
  字は鼎臣。安徽省濠州の人。朱璋と同郷で少年のころから友となった。至正十二年(1352)、郭子興の濠州蜂起に参加した。朱璋の下で、定遠・滁州・和州と転戦し、渡江して野先を捕らえ、集慶(南京)を陥す一翼をになった。徐達に従って鎮江を取り、統軍帥・枢密院僉事に進み、常州に鎮した。張士誠討滅に従い、また征南将軍となって方国珍・友定を討った。また北伐に従って、ココティムールを破った。洪武十一年(1378)、信国公に封ぜられた。十八年(1385)、朱璋が諸将の兵権を解こうとはかったので、先んじて郷里に帰った。のち倭寇に対する防禦のため、沿海の築城にあたった。病没し、東甌王に追封された。
黄子澄(1350~1402)
  名は湜。子澄は字。洪武年間に進士に及第した。翰林院編修・翰林院修撰・太常寺卿を歴任した。建文帝が即位すると、翰林学士を兼ね、泰とともに国政に参与した。諸王領の削減をはかり、燕王朱棣(のちの永楽帝)に奸臣と名指しされた。燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、軍務をつかさどり、耿炳文にえて李景隆を推薦して燕王を討たせた。李景隆が敗れて軍を失ったため、黄子澄は勤王の兵を募るため、出向した。南京が陥落すると、嘉興に逃れたが、告発を受けて捕らえられ、一族とともに殺された。
泰(?~1402)
  もとの名は徳。字は徳洪。江蘇省溧水の人。洪武年間に進士に及第した。洪武帝の命により改名した。兵部左侍郎に上った。建文帝が即位すると、黄子澄とともに国政に参与し、諸王削藩の策を実行し、前後して周・・湘・・岷の五王を廃した。建文年(1399)、燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、燕王により奸臣の首と名指しされた。四年(1402)、燕軍が南京を破ると、捕らえられて屈せず、死んだ。
鉄鉉(1366~1402)
  字は鼎石。河南省鄭州の人。の洪武年間、太学生から礼科給事中となり、都督府断事に任ぜられた。建文初年、山東参政となり、済南に鎮した。燕王の兵を破った功により、兵部尚書に上った。燕王朱棣(永楽帝)が南京を落とし、帝位につくと、鉄鉉は捕らえられて惨殺された。
方孝儒(1357~1402)
  字は希直、号は正学。浙江省寧海の人。濂に師事し、学識の高さで有名だった。はじめ洪武帝に召され、中府教授などをつとめた。建文帝が即位すると、翰林院侍講となり、ついで侍講学士となった。燕王朱棣(のちの永楽帝)が起兵すると、強硬な大義名分論を唱えて建文帝の戦意をあおった。燕王が靖難の変に勝利したため、捕らえられた。燕王は彼に即位の詔勅の草案を作らせようとしたが、拒絶して「燕賊簒位」と書いた。激怒した永楽帝により親族や門人らとともに処刑された。
李景隆(?~?)
  江蘇省盱眙の人。李文忠の子。読書して典故に通じた。父が没すると爵位を継ぎ、左軍都督府事となり、太子太傅を加えられた。建文帝が即位すると、重く信任された。建文年(1399)、燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、耿炳文にわって大将軍となり、燕軍と戦ったがしばしば敗れた。四年(1402)、燕軍に講和を打診したが成らず、燕兵が長江を渡って川門を攻めると、降伏した。永楽帝が即位すると、光禄大夫・左柱国に進んだ。永楽二年(1404)、群臣の弾劾にあって爵位を削られた。永楽末年に凍え飢えて死んだ。
↓次の時永楽宣徳期

人物事典トップへもどる