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渤海

渤海(698~926)]
高王(大祚栄)-武王(大武芸)-文王(大欽茂)-廃王(大義)-成王(大華璵)-康王(大嵩璘)-定王(大瑜)-僖王(大言義)-簡王(大忠)-宣王(大仁秀)-和王(大彝震)-安王(大虔晃)-景王(大玄錫)-大瑋瑎-末王(大諲譔)
大祚栄(?~718)
  渤海の初高王。太祖。在位698~718。粟末靺鞨の出身。乞乞仲象の子。が高句麗を滅ぼすと、父とともに営州に移されての監視下にあったが、万歳通天年(696)の契丹人の叛乱を機に脱走した。聖暦年(698)、靺鞨人や高句麗の遺衆を統合して、太白山一帯にいたり、自立して震国王と称した。先天二年(713)、朝より左驍大将軍・渤海郡王に封ぜられ、渤海を国号とした。都を忽汗城に置いた。前後6回にわたってに遣使した。
大武芸(?~737)
  渤海の二武王。光宗。在位718~737。大祚栄の長男。祚栄が没すると渤海王に即位した。仁安と改した。靺鞨全部を支配下に入れるべく各地を転戦した。ただ黒水靺鞨のみが従わなかった。黒水靺鞨はの保護を求めた。弟の大門芸に出兵を命じたが、門芸は出兵の愚を説いて諫めた。兄弟の間は険悪となり、門芸はに亡命した。武芸は水軍での登州を攻撃し、登州刺史の韋俊を殺した。渤海羅による挟撃を受けるところだったが、積雪のため羅軍が北上を阻まれ、の玄宗は渤海攻撃を断念した。のちに玄宗の斡旋で武芸と門芸の兄弟は和解した。
大欽茂(?~793)
  渤海の三文王。世宗。在位737~793。大武芸の次男。仁安二十年(737)、武芸が没すると渤海王に即位した。大興と改した。大興三年(739)以後、日本と通交した。十八年(754)に上京龍泉府に遷都した。二十六年(762)、朝より渤海国王に封ぜられ、検校太尉に任ぜられた。のちに、東京龍原府に遷都した。在位中、四十九回のへの遣使を行い、十一回の日本への遣使を行った。
義(?~794)
  渤海の四廃王。在位793~794。大興五十七年(793)、大欽茂が没すると、子の大宏臨は夭逝していたため、族弟のかれが渤海王に即位した。猜疑心が強く、在位一年足らずで、国人に殺された。
大華璵(?~794)
  渤海五代成王。仁宗。在位794。大宏臨の子。大義が殺されると、国人に推されて渤海王に即位した。中興と改した。都を上京龍泉府に戻した。在位一年足らずで、没した。
大嵩璘(?~808)
  渤海の六康王。穆宗。在位794~808。大華璵の叔父、あるいは弟ともいう。中興年(794)、大華璵が没すると渤海王に即位した。正暦と改した。
瑜(?~812)
  渤海の七定王。穀宗。在位808~812。大嵩璘の子。正暦十五年(808)、大嵩璘が没すると渤海王に即位した。永徳と改した。
大言義(?~817)
  渤海の八僖王。康宗。在位812~817。大嵩璘の子。大瑜の弟にあたる。永徳五年(815)、大瑜が没すると渤海王に即位した。朱雀と改した。
忠(?~818)
  渤海の九簡王。哲宗。在位817~818。大嵩璘の子。大言義の弟にあたる。朱雀六年(817)、大言義が没すると渤海王に即位した。太始と改した。
大仁秀(?~830)
  渤海の十宣王。聖宗。在位818~830。大祚栄の弟の大野勃の四世の孫にあたる。太始二年(818)、大忠が没すると、迎えられて渤海王に即位した。建興と改した。在位中、十三回のへの遣使を行い、六回の日本への遣使を行った。南に羅との国境を定め、北に海北諸部を討ち、黒水靺鞨を服属させて、国勢を拡大した。
大彝震(?~857)
  渤海の十一和王。荘宗。在位830~857。大仁秀の孫。建興十三年(830)、大仁秀が没すると渤海王に即位した。翌年、咸和と改した。
大虔晃(?~871)
  渤海の十二安王。順宗。在位857~871。大彝震の弟にあたる。咸和二十七年(857)、大彝震が没すると渤海王に即位した。
大玄錫(?~894)
  渤海の十三景王。宗。在位871~894。大虔晃の子、あるいは孫ともいう。大虔晃が没すると渤海王に即位した。
大瑋瑎(?~905)
  渤海の十四の王。在位894~905。大玄錫の子。大玄錫が没すると渤海王に即位した。
大諲譔(?~?)
  渤海の十五代末王。哀王。在位905~926。大瑋瑎の子。大瑋瑎が没すると渤海王に即位した。二年(907)、王子を派遣して後梁に入朝させた。十三年(918)、契丹に遣使して朝貢した。翌年、日本に対して最後の渤海使を派遣した。二十一年(926)、契丹の耶律阿保機の攻撃を受けて降った。ここに渤海国は滅亡した。

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