0o0dグッ

孝宗光宗期

南宋(1127~1279)]
北宋太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
高宗(趙構)-孝宗(趙シン)-光宗(趙惇)-寧宗(趙擴)-理宗(趙昀)-度宗(趙キ)-恭宗(趙ケン)-端宗(趙昰)-王(趙ヘイ)
張孝祥(1133~1170)
  字は安国、号は于湖居士。歴陽烏江の人。紹興二十四年(1154)、進士に及第した。はじめ承事郎に任ぜられ、鎮東節度判官となった。岳飛の潔白を上書して、檜の忌避を買った。のち累進して、中書舎人に上った。汪澈に弾劾を受けて官を辞めた。のち知撫州として復活し、平江府・建康留守・静江府・広西経略安撫使・知潭州などを歴任した。荊南荊湖北路按撫使のときに築いた「守堤」のおかげで、以後荊州では水災から免れたという。ほか詩詞にたくみだった。『于湖居士集』。
曹勛(1098~1174)
  字は公顕。陽翟の人。はじめ承信郎に任ぜられた。宣和五年(1123)、同進士出身を賜った。靖康の変で徽宗が北方に連行されると、燕山にいたり、密旨を受けて康王趙構のもとを訪れた。建炎年(1127)、南京にいたった。紹興十一年(1141)、劉光遠がに対する使者として立つと、その副使となった。十三年(1143)、枢密副都承旨を兼ねた。二十五年(1155)、知閤門事・幹弁皇城司となった。二十九年(1159)、再びへの使者として立った。翌年、提挙万寿観となった。乾道七年(1171)、提挙皇城司となった。『松隠集』。 
王十朋(1112~1171)
  字は亀齢、号は梅渓。温州楽の人。紹興二十七年(1157)、進士に及第した。はじめ紹興府簽判となり、三十年(1160)、秘書省校書郎に任ぜられた。まもなく建王府小学教授を兼ねた。翌年、著作佐郎・大宗正丞に転じた。台州崇道観の主管となることを願い出て、容れられた。孝宗が即位すると、司封員外郎・国史院編修官となった。国子司業・起居舍人に転じ、侍講・詩御史をつとめた。張浚の北伐を支持し、対講和派が強くなると、辞職した。隆興二年(1164)、知饒州として出向した。乾道年(1165)、知夔州に転じた。三年(1167)、知湖州に転じた。翌年、知泉州となった。七年(1171)、太子詹事となり、龍図閣学士として致仕した。同年七月に没した。忠文と諡された。『梅渓前後集』。
洪遵(1120~1174)
  字は景厳。饒州鄱陽の人。洪晧の次男。蔭官により承務郎に任ぜられた。紹興十二年(1142)、博学宏詞科に及第し、秘書省正宇に任ぜられた。父がより帰ると、檜により左遷され、洪遵もまた外州の通判として出された。檜が没すると、秘書省正宇に返り咲き、翰林学士に進んだ。三十一年(1161)、知平江府となった。李宝が水軍を率いてと戦ったとき、軍資・軍糧を供出して支援した。隆興年間、翰林学士承旨に任ぜられ、同知枢密院事にうつった。乾道六年(1170)、知太平州となり、堤防四百五十五カ所を工事し、すこぶる治績を挙げた。歴の貨幣を蒐集するのを好み、朝廷の有職故実に通じた。『泉志』、『翰苑群書』。
虞允文(?~1174)
  字は彬甫。隆州仁寿の人。紹興十三年(1143)、進士に及第した。中書舎人に上った。三十一年(1161)、海陵王率いる軍が南下したとき、迎撃した南宋の将軍・王権は、一戦もせずに采石磯まで退いてしまった。南宋陣営が色を失う中、江淮軍の参軍として従軍していた虞允文は、水軍を叱咤し、海鰌船と呼ばれる巨艦を敵船に体当たりさせて撃破した(采石磯の戦い)。乾道年(1165)、参知政事・知枢密院事に上った。五年(1169)、相となった。陝西の回復を唱えるなど、対強硬論を取ったが、受け入れられることはなかった。四川宣撫使などを歴任した。
張拭(1133~1180)
  字は敬夫、号は南軒。州緜竹の人。張浚の子。吏部侍郎・右文殿修撰などを歴任した。『南軒易説』、『癸巳論語解』。
胡銓(1103~1180)
  字は邦衡、号は澹庵。吉州廬陵の人。建炎年間に進士に及第した。枢密院編修官に任ぜられた。紹興八年(1138)、檜の専権を痛訴して、檜を斬り北伐の軍を起こすよう上疏した。そのため、嶺南に流された。隆興年(1163)には秘書少監・起居郎をつとめ、翌年には国子監酒を兼ね、兵部侍郎に任ぜられた。張浚の北伐を助けた。符離の戦いに敗れ、の世宗が和を迫ったとき、朝臣の大半が講和論者の中、ひとり和議に反対したという。乾道年間に工部侍郎となり、資政殿学士をもって致仕した。『澹庵集』。
牧渓(?~1180)
  名は法常。本姓は李。の人。臨安の長慶寺で雑役をつとめた。水墨画に優れ、日本画にも大きな影響を与えた。「白衣観音」、「猿啼鶴唳」。
陸九齢(1132~1180)
  字は子寿。撫州渓の人。陸九淵の兄にあたる。乾道五年(1169)、進士に及第した。郷里の義社を主宰し、門生を率いて武事をみがき、湖南の茶民の叛乱の進入を防いだ。興国軍教授となり、教学につとめた。二程子を尊崇し、その学問を広めた。陰陽・星暦・五行・卜筮に通じた。全州教授に任ぜられ、赴任する前に没した。『復斎集』。
楷(?~?)
  号は白楽風子。東平の人。銭塘に住んだ。南宋の嘉泰年間に、画院待詔となり、帯を賜ったが受けなかった。人物画や山水画を描き、減筆体による飄逸な描写にすぐれた。日本画にも影響を与えた。
呂祖謙(1137~1181)
  字は伯恭、号は東莱。寿州の人。はじめ蔭官により官界に入り、のちに隆興年間に進士および博学宏詞科に及第した。太学博士を経て、著作郎・国史院編修・実録院検討に上った。史学にすぐれ、『徽宗実録』を修訂し、『皇朝文鑑』を編纂した。また朝にあっては抗と弊政の改革を主張した。朱熹と親交を結び、『近思録』を共著した。朱熹と陸九淵を迎えて鵝湖に会し、学術を討論した。招山に住んで講学し、晩年には麗沢書院を開いた。朱熹・張弑と併称され、かれの学派は婺学・呂学・華学派などと称された。のちに清初の浙東学派に影響を与えた。『春秋左氏伝説』、『春秋左氏伝続説』、『東莱左氏伝記』、『歴制度詳説』。
李壽(1115~1184)
  字は仁甫、号は巽岩。遐州丹陵の人。に報復できない朝に憤慨し、『反正議』を著して、時勢を救う大務を説いた。紹興八年(1138)、進士に及第した。礼部侍郎などを歴任した。敷文閣学士・侍読・修国史にまで上った。また『続資治通鑑長編』を著した。
洪邁(1123~1187)
  字は景盧、号は容斎、または野処。鄱陽の人。洪晧の子。紹興十五年(1145)、進士に及第した。はじめ吏部郎・礼部郎に任ぜられた。三十二年(1162)、起居舎人となり、に対する使者として立った。帰国後、知泉州として出向した。乾道二年(1166)、知吉州となった。翌年、起居郎に転じ、中書舎人・侍読に任ぜられた。六年(1170)、知贛州となり、まもなく知建寧府となった。淳熙十一年(1184)、知婺州となった。十三年(1186)、翰林学士となった。紹熙年(1190)、知紹興府となり、提挙玉隆万寿宮をつとめた。翌年、端殿学士として致仕した。『容斎五筆』、『夷堅志』。
吉(1118~1187)
  字は无咎、号は南澗。韓億の子。雍邱の人。科挙に失敗したが、蔭官として処州竜泉県の主簿に任ぜられた。権礼部尚書まで累進した。乾道九年(1173)、賀生辰使としてに使いして万春節に出席した。そのとき朝の内情を視察して帰国し、乗ずべき隙を待つべきことを孝宗に報告した。吏部尚書にいたる。淳煕五年(1178)に致仕して、潁泉軍公に封ぜられた。『南澗甲乙稿』。
克家(1128~1187)
  字は叔子。泉州江の人。紹興三十年(1160)、庚辰科に及第して状となった。はじめ平江通判に任ぜられ、のちに秘書省正字として召された。著作佐郎・中書舎人・給事中を歴任し、実務の才能を認められた。乾道六年(1170)、参知政事に進んだ。翌年、知枢密院事を兼ねた。主戦派と意見が合わず、辞任を申し出たが、許されなかった。八年(1172)、右丞相兼枢密使に上った。の使者が南宋に来朝するにあたって、高宗朝の儀礼に倣って迎えようとしたが、容れられず、宰相を退いた。観文殿学士・建寧知府に任ぜられた。淳熙八年(1181)、知福州となり、治績を挙げた。翌年、再び右丞相となり、儀国公に封ぜられた。十三年(1186)、内祠兼侍読となり、邸宅を賜った。翌年、家中で病没した。少師を贈られ、文靖と諡された。『淳熙三山志』。
陸九淵(1139~1192)
  字は子静、号は象山。撫州渓の人。陸賀の子。陸九齢の弟にあたる。乾道八年(1172)、進士に及第した。靖安県主簿となった。淳煕六年(1179)、崇安県主簿に転じた。九年(1182)、国子正に任ぜられた。理を人間に内在するものととらえ(心即理説)、朱熹と激しく論争した。十四年(1187)、貴渓の応天山(象山)で学を講じた。紹熙年(1190)、荊湖北路荊門知軍に任ぜられ、と対峙する前線に立って、城墻の修復にあたった。のちに荊門で病没した。『象山集』、『語録』。
范成大(1126~1193)
  字は致能、号は石湖居士。平江郡の人。紹興二十四年(1154)、進士に及第した。徽州の司戸参軍を初任とした。乾道六年(1170)、祈請国信使としてに使者として立ったときの態度が賞讃された。淳煕年(1174)、四川制置使となり、陸游らと交友した。五年(1178)、参知政事に上った。沿海制置使などを経て、紹煕三年(1192)に資政殿大学士を最後に退官した。南宋四大家のひとり。『石湖居士詩集』。
尤袤(1124~1193?)
  字は延之、号は遂初居士。常州無錫の人。若くして聡敏で、太学に入り、紹興十八年(1148)に進士に及第した。泰興令・秘書丞兼国史院編修・著作郎を歴任し、地方では知台州・淮東提挙常平・江東提刑などをつとめた。光宗のとき、給事中・侍講・礼部尚書に上った。蔵書に富み、『遂初堂初目』は中国最古の版本目録のひとつとして知られる。詩は楊万里・范成大・陸游と並び称され、南宋四大家のひとりに数えられる。『遂初小稿』。
史浩(1106~1194)
  字は直翁。州鄞県の人。紹興十五年(1145)、進士に及第した。余姚県尉に任ぜられた。温州教授・太学正・国子博士を歴任した。三十二年(1162)、孝宗が即位すると、参知政事に任ぜられた。隆興年(1163)、尚書右僕射に上った。岳飛の冤罪を晴らすよう説いて、名誉回復を図った。光宗が即位すると、太師に進んだ。
亮(1143~1194)
  字は同甫、号は龍川。婺州永康の人。朝の不振を嘆いて、「中興五論」や「酌古論」などの文を作った。また朱熹と三の治世の評価をめぐって論争したという。しばしば孝宗に上書し、官を与えられるところだったが、これを拒絶して故郷へ帰った。紹煕四年(1193)、「君道師道」を論じて、光宗に抜擢され、僉書建康府判官庁公事に任ぜられたが、赴任直前に病死した。『竜川文集』。
程大昌(1123~1195)
  字は泰之。徽州休寧の人。紹興二十一年(1151)、進士に及第した。二十六年(1156)、太平州教授となった。翌年、大学正に進んだ。孝宗のとき、著作佐郎・国子司業兼権礼部侍郎・直学士院・浙東提点刑獄・中書舎人・国子祭酒・権吏部尚書などを歴任した。知泉州・知建寧府として赴任した。光宗が即位すると、知州にうつされた。地方においては治水に気を配った。名物典故の考証に長じ、『演繁露』、『続演繁露』、『禹貢山川地理図』、『詩論』などを著した。
趙汝愚(1140~1196)
  字は子直。の宗室の出身。乾道二年(1166)、進士に及第した。宣義郎・知信州・知台州・秘書省正字などをつとめた。淳熙十二年(1185)、四川制署使・知成都府となった。紹煕二年(1191)、吏部尚書に進み、知枢密院事に転じた。五年(1194)、韓侘冑とともに光宗(趙惇)を廃し、寧宗(趙擴)を擁立して、右丞相に上った。韓侘冑との間に軋轢が生じ、永州に流され、途中に衡州で病没した。朱熹・呂祖謙らと親交があったため、慶の党禁では、党人の首に挙げられている。『太祖実録挙要』、『篤行事実』、『名臣奏議』。
馬遠(?~?)
  字は遙父、号は欽山。銭塘の人。光宗・寧宗に仕えて画院の待詔となった。山水・人物・花禽など多方面に優れた。よく銭塘の山を写生し、優れたものは小のものが大に見え、天空広遠の趣を表現した。李・劉松年・珪とともに南宋画院四大家のひとり。
珪(?~?)
  字は禹玉。銭塘の人。李に画を学び、人物画をよくしたほか、山水画を最も得意とした。寧宗のとき、画院の待詔となった。簡勁蒼老にして墨気潤と評された。構図は多く「半辺」の景をとり、半辺の称があった。また雪景色をよく写生した。李・劉松年・馬遠とともに南宋画院四大家のひとり。馬遠とともに馬と併称された。「風雨山水図」、「江頭泊舟図」。
↓次の時南宋寧宗理宗期

人物事典トップへもどる