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正統成化期

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)
※正統~成化期
正統帝(1427~1464)
  朱祁鎮,英宗,天順帝(重祚)⇒。
楊栄(1371~1440)
  字は勉仁。福建省建安の人。建文年間に進士に及第した。燕王の靖難の師が南下してくると、燕王に降った。永楽帝が即位すると、文淵閣に入った。永楽帝の漠北遠征には、常に扈従した。永楽十八年(1420)、文淵閣大学士となった。洪熙帝が即位すると、工部尚書・謹身殿大学士となった。宣徳年(1426)、王・高煦の乱に対して、宣徳帝に親征するよう進言した。正統帝の即位後も輔政の地位にあり、張太后に重用され、五大臣のひとりとされた。また三楊のひとりに並び称された。正統五年(1440)、武林駅で没した。『北征記』、『楊文敏集』。
楊士奇(1365~1444)
  名は寓。士奇は字、号は東里。江西省泰和の人。建文初年、『太祖実録』の編纂に参与した。そのため翰林院に入って、編纂官となった。永楽十五年(1417)、翰林学士・故官に上った。洪熙帝が即位すると礼部侍郎・華蓋殿大学士となる。兵部尚書に上った。宣徳帝のとき、『仁宗実録』の編纂を指揮し、その総裁をつとめた。さらに正統帝に仕え、内閣輔臣の三楊のひとりに並び称された。のちに子の稷が殺人を犯して、獄中で死んだ。士奇はこれをあわれんで病床に伏した。正統九年(1444)に没し、太師を追贈された。『東里全集』、『文淵閣書目』。
楊溥(1372~1446)
  字は弘済。湖北省石首の人。建文年間に進士に及第した。永楽初年、皇太子に近侍し、洗馬をつとめた。十二年(1414)、罪をえて十年にわたって獄中にあった。洪熙帝が即位すると、許されて出獄し、翰林学士となった。宣徳帝が即位すると、内閣に入り、少保に進んだ。礼部尚書にまで上った。正統初年、武英殿大学士となった。内閣輔臣の三楊のひとりに並び称された。『水雲録』。
徐霖(?~1449)
  字は子仁、号は九峰道人。江蘇省県の人。のちに陵に居をうつした。『綉襦』、『三』。
鄧茂七(?~1449)
  もとの名は鄧雲。江西省建昌の人。のちに福建省寧化に移った。葉宗留の叛乱のとき、推されて農村自のための長となった。正統十三年(1448)、農民を率いて蜂起し、官軍を破り、万余人の衆を集めた。蒋福成の軍と併せ、山塞に政権を樹立し、鏟平王を自称した。福建の二十余州を席巻した。のち延平城下の戦いで戦没した。
王振(?~1449)
  河北省蔚州の人。宦官となり、皇太子・朱祁鎮(のちの正統帝)に仕えた。正統帝が即位すると司礼監に任ぜられた。正統七年(1442)、張太皇太后が没し、三楊の力が衰えると、反対者を獄に下し、宮廷を専断した。正統帝はかれを先生と呼び、大臣らはかれを翁父と呼んだという。正統十四年(1449)、オイラート部の侵入があり、正統帝に進言して親征させた。土木堡において乱兵の中で殺された。
于謙(?~1457)
  字は延益、号は節庵。銭塘の人。永楽十九年(1421)、進士に及第した。御史に任ぜられた。宣宗に従って王・朱高煦の乱の鎮圧にあたった。宣徳五年(1430)に兵部右侍郎となり、河南・山西を巡撫して民情を視察した。正統十一年(1446)、宦官の王振の専横に反対して獄に下った。のちに百姓官吏の奏請があって復任した。十四年(1449)、英宗(朱祁鎮)が土木堡に大敗してオイラートのエセン・ハーンに捕らえられると、宗(朱祁鈺)を擁立して南遷の議を排し北京を死守した。あまりに堅固な守りにエセン・ハーンも攻めあぐね、とオイラートの和議が成立し、英宗は帰国することができた。天順年(1457)、英宗が復辟すると、誣告を受けて失脚し刑死した。『于忠粛集』。
石亨(?~1460)
  陝西省渭南の人。父の職を継ぎ、寛河指揮僉事に任ぜられた。都督同知に累進し、参将となり、朱冕を補佐して大同に鎮した。于謙の推薦を受けて掌五軍大営となり、右都督に進み、武伯に封ぜられた。北京に鎮して功を挙げた。于謙の子の于冕を封賞するよう帝に上奏したが、于謙にしりぞけられたため、于謙との間が険悪となった。景泰八年(1457)正月、宗(朱祁鈺)の病が重篤となると、徐有貞・許彬らと結んで、英宗(朱祁鎮)を迎えて復位させた(奪門の変)。まもなく私怨を晴らすため、于謙らを誣告して処刑させた。忠国公に封ぜられた。天順四年(1460)、英宗の怒りにふれて、職を罷免され、罪をえて獄中で窮死した。かれの党与はことごとく誅殺され、家産も没収された。
曹吉祥(?~1461)
  永平濼州の人。宦官として宮中に入り、王振の門下として監軍に任ぜられた。過麓川の役やウリャンハイ征討、鄧茂七の乱の討伐などで軍功を挙げた。景泰八年(1457)正月、宗(朱祁鈺)の病が重篤となると、徐有貞・石亨・許彬らと結んで、英宗(朱祁鎮)を迎えて復位させた。司礼太監・総督三大営に上った。昭武伯に封ぜられ、門下で官位につくもの千百人におよび、朝士の多くもかれに追従した。天順四年(1460)、石亨が獄中で死ぬと、吉祥は排斥されるのをおそれて、謀反を計画し、ひそかに甥の曹欽に死士を養わせた。翌年七月、叛乱を起こしたが敗れて、曹欽は井戸に身投げして自殺し、吉祥は市で磔刑にされた。
薛瑄(1392~1464)
  字は徳温、号は敬軒。山西省河津の人。永楽年間に進士に及第した。宣徳帝(朱瞻基)のとき御史となり、景泰帝(朱祁鈺)のとき大理寺丞となった。正統帝(朱祁鎮)が復辟すると礼部右侍郎・翰林院学士に上った。石亨・曹吉祥らが政を乱すと、致仕を請うて郷里に帰った。程朱の学を継承し、「理は気の中に在る」と主張して、「理は気の先に在る」とした朱熹の説を修正した。『薛文集』。
李満住(?~1467)
  建州女直の首長。永楽二十年(1422)、父祖の跡を継いでに朝貢した。宣徳年(1426)、都指揮僉事の官を与えられた。のち都督僉事・都督同知を歴任した。またのちや朝鮮の討伐を受けた。成化三年(1467)、朝鮮軍に殺された。
与弼(1391~1469)
  字は子傅。江西省撫州の人。十九歳で楊溥に学び、『伊洛淵源録』を読んで程朱の理学に志し、科挙受験を捨てて研鑽した。天順年(1457)、東宮輔導に推薦されたが、固辞して就かなかった。十事を上書して聖道政をおこなうべきことを述べた。弟子に献章・胡居仁らがあった。『日録』、『康斎文集』。
劉玨(1410~1472)
  字は廷美、号は完庵。江蘇省長洲の人。宣徳年間に、知府況鍾の推薦で博士弟子員となった。刑部主事・山西按察使僉事を歴任した。郷里に帰って園林を建て、読書して晩年を過ごした。書はの趙孟頫にならい、山水画は五代の董源・巨然を宗とした。また詩文は七言詩を得意とした。『完庵集』。
胡居仁(1434~1484)
  字は叔心、号は敬斎。余幹の人。官途につかず、山中にあって研究にはげんだ。『胡文敬公集』。
商輅(1414~1486)
  字は弘載、号は素庵。淳安の人。正統年間に進士に首席で及第した。景泰年間に兵部尚書にまで上った。英宗が復辟すると、誣告を受けて獄に下され、位官を奪われた。成化初年に復活し、謹身殿大学士となった。『商文毅疏稿略』。
張弼(1425~1487)
  字は汝弼、号は東海。江蘇省松江の人。成化二年(1466)、進士に及第した。官は南安府知府にいたった。詩文をよくし、草書にたくみであった。『東海文集』、『鶴城稿』。
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