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(前11C~前221)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,蔡,曹,鄭,燕,,越,趙,,韓
・呂氏]太公望(尚)-丁公(伋)-乙公(得)-癸公(慈母)-哀公(不辰)-胡公(静)-献公(山)-武公(寿)-厲公(無忌)-文公(赤)-成公(説)-荘公(購)-釐公(禄父)-襄公(諸児)-桓公(小白)-無詭-孝公(昭)-昭公(鄱)-舎-懿公(商人)-恵公()-頃公(無野)-霊公(環)-荘公(光)-景公(杵臼)-晏孺子(荼)-悼公(陽生)-簡公(壬)-平公(驁)-宣公(積)-康公(貸)
・田氏]完-湣-田文子(須無)-田桓子(無宇)-田釐子(乞)-田成子(常)-田襄子(盤)-田荘子(白)-太公(和)-侯(剡)-桓公(午)-威王(嬰)-宣王(辟疆)-湣王(地)-襄王(法章)-王(建)
の丁公(?~?)
  呂伋。太公望の子。太公が亡くなると、位についた。
の乙公(?~?)
  姓は姜、名は得。の丁公の子。丁公が亡くなると、位についた。
の癸公(?~?)
  姓は姜、名は慈母。の乙公の子。乙公が亡くなると、位についた。
の哀公(?~?)
  姓は姜、名は不辰。の癸公の子。癸公が亡くなると、位についた。紀侯が哀公のことを周王に讒言したため、周によって哀公は殺されたという。
の胡公(?~前860)
  姓は姜、名は静。在位?~前860。の癸公の子。哀公の弟にあたる。哀公が殺されると、位についた。都を営丘から薄姑にうつした。末弟の山(のちの献公)に襲撃されて殺された。
の献公(?~前850)
  姓は姜、名は山。在位前859~前850。の癸公の子。哀公の弟にあたる。胡公を殺して即位した。胡公の子をすべて追放し、都を薄姑から臨淄にうつした。
の武公(?~前825)
  姓は姜、名は寿。在位前850~前825。の献公の子。献公が亡くなると、位についた。ときに周の厲王が追われ、共和の政が行われた。周の宣王が立つと、諸侯とともに入朝した。
の厲公(?~前816)
  姓は姜、名は無忌。在位前824~前816。の武公の子。武公が亡くなると、位についた。暴虐無道で、のちに国人たちに攻め殺された。
の文公(?~前804)
  姓は姜、名は赤。在位前815~前804。の厲公の子。厲公がの国人に攻め殺されたのち、即位した。まもなく厲公を殺した者たち七十人を処刑した。
の成公(?~前795)
  姓は姜、名は説。一名に脱ともいう。在位前803~前795。の文公の子。文公が亡くなると、位についた。
の荘公(?~前731)
  姓は姜、名は購。在位前794~前731。の成公の子。かれの治世では強盛となった。
の釐公(?~前698)
  姓は姜、名は禄父。在位前730~前698。の荘公の子。・鄭の諸国とともにを討った。また・燕とともにを討った。公孫無知を愛し、かれの待遇を太子と等しくした。
の襄公(?~前686)
  姓は姜、名は諸児。在位前697~前686。の釐公の子。即位以前からかれは妹の文姜と情を通じていた。文姜はの桓公にとつぎ、襄公はの国君として即位した。四年(前694)、公らがにやってくると、襄公と文姜はふたたび情を通じた。公がこれをとがめたので、襄公は彭生に命じて公をひしぎ殺させた。が償いを求めたので、彭生を殺して詫びた。八年(前690)、紀国を討ち、その都を遷せしめた。十二年(前686)、沛丘で狩猟して足を負傷し、その機に公孫無知・連称・管至父らの襲撃を受けて殺された。
の桓公(?~前643)
  姓は姜、名は小白。在位前685~前643。の釐公の子。襄公の弟にあたる。釐公の死後、襄公が継いだが、無道なふるまいが多く、小白は兄を恐れて莒に亡命した。即位十二年で、襄公は従兄の公孫無知らに弑された。また無知もまもなく殺された。に亡命していた兄の糾と小白とがの公位をめぐって帰国を争った。一歩先んじた小白がに入ると、すぐ即位し、軍を迎え撃った。軍を破り、糾を捕らえて殺した。鮑叔牙の進言で、糾の臣下だった管仲を登用し、大夫として国政を任せた。管仲の富国強兵策によって、は強盛をほこった。桓公七年(前679)、鄄で諸侯と会盟して覇者となった。二十年(前666)、周王の命を奉じてを討った。二十二年(前664)、山戎を討ち、燕を救った。二十五年(前661)、狄を討って、邢・の二国を救った。三十年(前656)、を討ち、と召陵で盟を結んで帰った。三十四年(前652)、周に内乱が起こると、諸侯とともに洮に会し、周の襄王を王に立てさせた。翌年、諸侯と葵丘で会盟した。管仲の死後、管仲の忌避した易牙らを登用して専権を握られた。晩年には五人の公子の間に後継者争いが起こり、公の死後六十七日間も遺体は放置され、屍から蛆がわいて戸外に及んだという。
管仲(?~前645)
  名は夷吾。字は仲。後世に管子とも称された。潁上の人。若い頃、鮑叔牙と友人となった。鮑叔をよくあざむいたが、管仲が貧窮していたことを知っていた鮑叔はそれに不満を漏らさなかったという。鮑叔はの公子・小白に仕え、管仲は同じく公子・糾に仕えた。小白と糾とがの公位をめぐって帰国を争うと、管仲はの軍を連れて待ち伏せし、小白を弓矢で射た。矢は小白の帯の留めに当たって、命を拾ったが、小白は死をよそおって、先にに入った。小白は即位し(の桓公)、軍を迎え撃った。糾は殺され、管仲はに逃げた。桓公は管仲を殺したいと思ったが、鮑叔が覇者となるには管仲が必要だと説いた(管鮑の交わり)ため、用いることを決めた。桓公は管仲を召し取って我が手で処刑したいと偽って、から引き渡させた。管仲は大夫となり、の国政をあずかった。五軒の家を単位とする兵員登録制を定め、物価の均衡をはかり、製塩業の利益を設定し、貧困を救い、能力ある者を登用して、は富国強兵に成功した。桓公は覇者となり、管仲の富と名声もそれに匹敵するにいたった。「倉禀実ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る」は管仲の名言。
無詭(?~前643)
  在位前643。の桓公の子。母は長姫。の桓公が亡くなると、易牙・豎ᑑが群臣を殺して、かれを擁立した。位にあること三カ月で国人に殺された。
の孝公(?~前633)
  姓は姜、名は昭。在位前642~前633。の桓公の子。母は鄭姫。桓公の死後、五公子が争って立ち、易牙・豎刁が公子無詭を擁立した。の襄公が公子昭を立てようと望んで、諸侯の兵を率いてを討ち、このための人が無詭を殺した。四公子の部衆が乱をなしたので、再び軍が軍を討ち、昭をの国君として立てた。孝公九年(前634)、二度にわたってを討った。の援軍を得てを攻めると、翌年亡くなった。
の昭公(?~前613)
  姓は姜、名は鄱。在位前632~前613。の桓公の子。母は葛嬴。の公子開方の助けを借りて、孝公の子を殺して即位した。覇者としてのの文公を支持し、昭公年(前632)にを討った城濮の戦いに参加した。またのちに践土の盟や温の会に参加した。
舎(?~前613)
  在位前613。の昭公の子。昭公が亡くなると、国君の位についた。人望がなく、叔父の商人に殺されて、位を奪われた。
の懿公(?~前609)
  姓は姜、名は商人。在位前612~前609。の桓公の子。母は密姫。甥の舎を殺してみずから国君の位に立った。傲慢で民の信望をえられなかった。丙戎の父の遺体を暴いて足を斬り、庸職の妻を奪って後宮に入れた。丙戎と庸職が共謀して、懿公を馬車の上で殺した。
の恵公(?~前599)
  姓は姜、名は。在位前608~前599。の桓公の子。母は少姫。懿公の弟にあたる。懿公が殺されると、の国人に迎えられて立った。恵公七年(前602)と九年(前600)に莱国を討った。
の頃公(?~前582)
  姓は姜、名は無野。在位前598~前582。の恵公の子。即位当初、が邲の戦いでに敗れたのを機に、東方の覇権を確立しようと図り、と争った。頃公十年(前589)、出兵しての同盟国のを討った。同年、が連合してを攻め、鞍において会戦し、軍は大敗した。このために対して和を請い、奪っていたの地を返却した。以後は、賦税を薄くして、民力休養につとめ、国の安定につとめた。
の霊公(?~前554)
  姓は姜、名は環。在位前581~前554。の頃公の子。霊公十五年(前567)、莱を滅ぼし、高厚・崔杼に境域を確定させ、の領土は山東半島にまで広がった。二十七年(前555)、が諸侯の軍を率いて来攻した。かれ自ら軍を率いて平陰で迎え撃ったが、敗れた。軍は都臨淄の城郭を焼いて去った。翌年、病没した。
の荘公(?~前548)
  姓は姜、名は光。在位前553~前548。の霊公の子。太子のとき、に人質として出て、連合して鄭を討ち、また会盟においては表した。霊公二十八年(前554)、霊公によって廃され、牙が太子に立てられた。霊公がまもなく死ぬと、崔杼に迎えられて国君として立った。荘公四年(前550)、の栾盈の内応をえてを攻めたが、成功せず、朝歌などを掠めて撤退した。のちに崔杼の妻と不倫して、崔杼の部下に殺された。
崔杼(?~前546)
の人。崔武の子。の恵公の寵信を受けた。の恵公の十年(前599)に恵公の薨ずると、一時に逃げた。の霊公のとき大夫となり、権を強めた。霊公が病に倒れると、廃太子の光を迎え、荘公として立てた。荘公の六年(前548)、荘公が崔杼の妻と密通したことに激怒し、荘公を殺し景公を立てた。このとき太史が「崔杼、荘公を弑す」と記録したため、この太史を殺した。太史の弟が同じく記録したのでまた殺した。太史の末弟がまた記録したので放置せざるをえなかったという。景公が立つと右相に任ぜられ、左相の慶封とともに専権を握った。景公の二年(前546)、慶封の手勢に邸を攻撃され、一家を滅ぼされ自殺した。
の景公(?~前490)
  姓は姜、名は杵臼。在位前547~前490。の霊公の子。荘公の異母弟にあたる。崔杼が荘公を殺すと、の国君に立てられた。はじめ崔杼を右相とし、慶封を左相とした。のちに晏嬰を正卿とした。在位中、宮室の修建を好み、犬や馬を集め、税は重く刑は厳しかった。そのため、民心は公室を離れ、田氏を頼りにするようになった。景公三十一年(前517)、を討って鄆を取り、に逃れてきたの昭公を帰国させようとした。四十八年(前500)、と夾谷の会を行った。
晏嬰(?~前500)
  字は平仲。晏子と称される。莱の夷維の人。の霊公・荘公・景公に仕えた。節倹力行をもって重んじられた。崔杼が荘公を殺したとき、荘公の遺体の前で哀哭し、景公が立てられたとき、崔氏・慶氏に忠誠をちかう誓約に加わらなかった。慶氏が滅ぶと六十邑を賜ったが、受けなかった。の政治の腐敗が進み、田氏の実力が日に日に強大になっているのを見て、国が田氏に取ってわられるのを予見したという。『晏子』。
晏孺子(?~前489)
  姓は姜、名は荼。在位前489。の景公の末子。母は苪姫。景公が病にたおれると、国と高張が公の意を受けてかれを太子に立てた。景公が亡くなると、位についた。兄弟たちはみなおそれて国外に逃亡した。年(前489)、田乞・鮑牧が兵を挙げて、国を追放し、高張を殺した。田乞が陽生(悼公)を擁立して、晏孺子を駘に移す途中に殺害した。
の悼公(?~前485)
  姓は姜、名は陽生。在位前488~前485。の景公の子。景公の死後、大夫の間で権力闘争が激化し、禍が及ぶのを恐れてに亡命した。の晏孺子年(前489)、田乞・鮑牧が政敵の国・高張らを追い、陽生を迎えて国君として立てた。在位中、田乞を相として、田氏が国政を専断した。はじめとともにを攻める相談をしていたが、のちにの季康子の妹の季姫を寵愛し、と和を結んで、讙・闡の地をに返還した。このためとの関係が急激に悪化した。悼公四年(前485)、・邾・郯の諸国を率いてを攻めると、の国内で内紛が起こり、悼公は鮑牧により殺された。
田乞(?~前485)
  僖子、田釐子とも。田無宇の子。の景公に仕えて大夫となった。税を取るには小さな升ではかり、粟を貸すには大きな升ではかって、民心を籠絡した。景公五十五年(前493)、の范氏・中行氏を助けて食糧を輸送させた。晏孺子年(前489)、鮑牧らとともに兵を率いて宮中に入り、国を追い、高張を殺し追い、陽生(悼公)を迎えて国君として立てた。さらに晏孺子を駘に移す途中に殺害した。悼公のもとで相となり、の国政を専断した。
の簡公(?~前481)
  姓は姜、名は壬。在位前484~前481。の悼公の子。即位後まもなく、国書・高無邳らにを討たせ、の郊外で戦った。が報復のために王夫差と連合してに攻め入り、博・嬴を侵した。艾陵で軍と軍が戦い、軍は大敗した。闞止を寵愛して、かれを執政としたため、田氏との間に軋轢を生んだ。簡公四年(前481)、出奔したが、徐州で捕らえられ、田常に殺された。
の平公(?~前456)
  姓は姜、名は驁。在位前480~前456。の悼公の子。簡公の弟にあたる。簡公が殺された後、田常により擁立された。田常が専権をふるい、鮑・晏の一族や公族の強勢なものたちがことごとく殺しつくされた。の安平から琅邪にいたるまで田常の封邑となったため、公の食邑は田氏のものより小さくなった。
田常(?~?)
  成子、田成子とも。名は恒ともいう。田乞の子。鮑牧がの悼公を殺したのち、壬(簡公)を擁立した。左相として簡公を補佐した。右相の監止と争い、監止・子我を殺し、簡公を徐州で捕らえて殺した。驁(平公)をの国君として擁立し、相となった。に旧領を返還し、・韓・・趙と盟を結び、・越と使節を交換した。刑罰をつかさどり、鮑氏や晏氏や公族の強勢なものたちをことごとく殺しつくした。安平から琅邪にいたる広大な地域を自領とし、平公の支配地より広い領分をえた。の国内から身長七尺以上の女性を選んで妾とし、妻妾は数百人、子は七十人余におよんだ。
の宣公(?~前405)
  姓は姜、名は積。在位前455~前405。の平公の子。ときにの政治において田氏が専権をふるっていた。
の康公(?~前379)
  姓は姜、名は貸。在位前404~前379。の宣公の子。酒色におぼれ、朝政を見ず、の政治は完全に田氏のものとなった。康公十四年(前391)、田和のために海島の上にうつされ、食邑は一城のみとなった。十九年(前386)、周王が田和を諸侯と認めた。康公の死後、田氏が国を乗っ取り、太公望以来の姜氏の祭祀は絶えた。
の太公(?~前385)
  田和。在位前386~前385。田白(田荘子)の子。の康公のもとで相となり、の国政を専断した。康公十四年(前391)、康公を海島の上にうつし、一城をもって祖先の祭祀を続けさせた。十八年(前387)、の武侯と濁沢において会し、諸侯となることを求めた。翌年、周王により諸侯と認められた。これが戦国の田の始まりである。
田剡(?~前375)
  侯剡。在位前384~前375。田和の子。三年(前382)、を助けて趙を攻めた。五年(前380)、燕を攻めて桑丘にいたった。翌年、の康公が亡くなり、太公望の後裔が絶えた。翌年、韓・・趙に攻められ、三の軍は霊丘まで迫った。十年(前375)、田午(のちの桓公)に殺されて位を奪われた。
の桓公(?~前357)
  田午。在位前374~前357。田和の子。侯剡十年(前375)、侯剡を殺して自らの国君となった。国都臨淄の稷門の外に学館を置き、広く文士を集めて、講学議論させた。
の威王(?~前320)
  田嬰。またの名を因。在位前356~前320。の桓公の子。はじめ女色を好み、政を卿大夫に委ねてかえりみなかった。のちに政治にめざめ、賞罰分で、即墨大夫と称された。前後して鄒忌・田嬰を相とし、田忌を将とし、孫臏を軍師として、国力の増加につとめた。父を継いで稷門の学を保護した。威王七年(前350)、長城を拡張した。十六年(前341)、軍を馬陵で大いに破った。二十三年(前334)、の恵王と徐州に会し、互いに王として尊びあうことを誓った。このころから戦国諸侯が王を称するようになった。
の宣王(?~前301)
  田辟疆。在位前319~前301。の威王の子。田忌を将とし、田嬰を相として、国は再びの盛時を迎えた。宣王六年(前314)、燕の内乱に乗じて、匡章に五都の兵を率いて燕を攻めさせた。二ヶ月弱で燕全土を制圧したが、燕人の反抗にあい、撤退のやむなきにいたった。八年(前312)、と連合して・韓・を攻めたが、濮水の上で軍に敗れ、将軍声子が捕らえられた。文学遊説の士を好み、稷下に学官を置き、鄒衍・淳于髡・田駢らを上大夫に列して、講学議論させた。稷下の学は盛んとなり、学者の数は数百から千人に達した。
の湣王(?~前284)
  田地。またの名を遂。在位前300~前284。の宣王の子。田文(孟嘗君)を相とし、匡章・司馬穰苴らを将として用いた。韓・と連合してを垂沙に破り、またを攻めて函谷関に入り、に韓・の旧領を返還させた。また燕軍を破った。王が西帝と称し、王が東帝と称して、帝号を分かち合った。湣王十五年(前286)、を滅ぼし、淮北の地をえた。十七年(前284)、燕が楽毅を上将軍とし、韓・・趙・と連合してを討つと、都の臨淄から追われ、の七十余城を奪われて、即墨・莒を保つのみとなった。かれは出奔して、まもなくの将の淖歯に殺された。
の襄王(?~前265)
  田法章。在位前283~前265。の湣王の子。湣王十七年(前284)、燕の将の楽毅が、韓・・趙・と連合してを討ち、都の臨淄に侵入すると、湣王は逃げ出して、まもなくの将の淖歯に殺された。法章は姓名を変えて、莒の太史敫の家の雇い夫となった。のちにの臣に擁立されて莒で即位した。田単が燕軍を破ってを恢復したのち、臨淄に入って、田単を安平君に封じ、相国に任じた。
王建(?~前221)
  田建。在位前264~前221。の襄王の子。后勝を相とした。后勝はより賄賂を受けており、に入朝するようさかんに勧めた。戦いの備えをせず、趙・・韓・・燕の亡国を座視して助けなかった。五国が滅びたのち、の王賁が兵を率いてに侵入し、都の臨淄を陥した。王建はに降り、幽閉されて餓死した。
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