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乾隆期

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
乾隆期
乾隆帝(1711~1799)
  弘暦,の高宗⇒。
沈宗敬(1669~1735)
  字は南季、号は獅峰。江蘇省華亭の人。康煕年間に進士に及第した。太僕寺卿に上った。書画にすぐれた。康熙帝の南巡にあたって画を献じ、「風蘭雪」の題を賜った。
書(1660~1736)
  字は南楼、号は上弟子。浙江省秀水の人。海塩の銭綸光の妻となる。銭群を産んだ。山水画や人物画をよくし、花鳥虫草を最も得意とした。また詩をよくした。『紡余閑課』、『復庵吟稿』。
レジス(1663~1738)
  名はジャン・バプティスト。名は雷孝思。字は永維。フランスの人。ジェスイット会宣教師として、1699年に渡した。天文学・数学に通じ、中国に伝えた。ブーシェらとともに「皇輿全覧図」を作成した。また『易経』のラテン語訳を行った。北京で没した。
王澍(1668~1739)
  字は若林、号は虚舟。江蘇省壜の人。康煕五十一年(1712)、進士に及第した。はじめ翰林院庶吉士に任ぜられ、翰林院編修・戸科給事中などを歴任して、吏部員外郎となった。『竹雲題跋』、『禹貢譜』。
趙執信(1662~1744)
  字は伸符、号は秋谷。山東省益都の人。康煕十八年(1679)、進士に及第した。はじめ翰林院庶吉士に任ぜられ、編修を経て、右春坊右賛善となった。官を辞めて後、詩作と飲酒にふけった。『因園集』。
張鵬翀(1688~1745)
  字は天扉、号は南華山人。江蘇省嘉定の人。雍正五年(1727)、進士に及第した。はじめ翰林院庶吉士に任ぜられ、翰林院編修を経て、詹事府詹事に上った。『進呈集』、『伝宣集』。
張照(1691~1745)
  字は得天、号は涇南。江蘇省嘉亭の人。康煕年間に進士に及第した。刑部尚書に上った。音律にくわしく、書法に巧みだった。
袁江(1693?~1746?)
  字は文濤、号は岫泉。江蘇省揚州の人。はじめ仇英に画を学び、北宋画を宗とし、楼閣山水にすぐれた。袁雪・袁耀・袁杓らとともに袁派を成した。「春江花月夜図軸」、「仿米山水図軸」。
高鳳翰(1683~1748)
  字は西園、号は南村。山東省膠州の人。若いころは地方志の編纂に従事した。雍正五年(1683)、膠州知州の黄之瑞により賢良方正に推挙され、翌年応試して一等に列せられ、安徽の知県を歴任した。乾隆年(1736)に廬見曾の獄に連座して罷免され、翌年には右手が麻痺。揚州西城僧寺に寄寓して売画生活を送った。収蔵を好み、の璽印やの刻印、硯石などを蒐集した。揚州八怪のひとり、また四鳳のひとり。『南阜山人全集』。
方苞(1668~1749)
  字は風九、号は霊皐。安徽省桐城の人。康煕年間に郷試に及第した。礼部侍郎に上り、文潁館・経史館・三礼館の総裁をつとめた。程朱の学を治め、儒家の倫理を宣揚した。『望渓文集』。
高翔(1688~1753)
  字は鳳岡、号は西。江蘇省甘泉の人。石濤を尊崇し、石濤の死後はその墓を掃きめつづけたという。書画篆刻にすぐれた。揚州八怪のひとり、また四鳳のひとり。『西詩鈔』。
敬梓(1701~1754)
  字は敏軒、または文木、号は粒民。安徽省全椒の人。『儒林外史』を著して、科挙制度の矛盾を痛烈に風刺した。ほか『詩説』、『文木山房集』。
岳鐘琪(1686~1754)
  字は東美、号は容斎。四川省成都の人。康熙五十年(1711)、武官となり、游撃に任ぜられた。まもなく副将に抜擢された。五十八年(1719)、都統法喇に従ってチベットに入り、ジュンガル兵を駆逐した。功により四川提督に抜擢された。雍正年(1723)、参賛大臣に任ぜられ、青海のロブザンダンジンの乱の平定に参加して、功により三等公に任ぜられた。まもなく川陜総督となり、年羮堯にわって寧遠大将軍・主持西路軍事となった。曾静の舌禍を報告して雍正帝に賞賛された。まもなく軍事的失敗により、獄に下された。乾隆二年(1737)、釈放された。十三年(1748)、川への出兵で再び四川提督として起用された。川土司莎羅奔に降るよう説得して、功により三等威信公に封ぜられた。のちに資州で没した。『姜園詩集』。
李方膺(1695~1754)
  字は虬仲、号は晴江。江蘇省南通の人。李玉鉱の子。雍正八年(1730)、山東安楽の知県となった。十年(1732)、王士俊の開墾政策を批判し、民工の派遣を拒んだため獄に下された。乾隆年(1736)に赦されて安徽概県の知県となる。潜山・合肥の知県を歴任したが、飢民救済の違法を責められて辞職した。南京の項氏花園に寄食して袁枚・沈鳳らと交友し、揚州に往来して売画生活を送った。
全祖望(1705~1755)
  字は紹衣、号は謝山。浙江省鄞県の人。乾隆年(1736)、進士に及第した。翰林院庶吉士となった。権貴の排斥にあって栄達できず、辞職して郷里に帰った。広東の端溪書院の山長となった。経学・詩詞にすぐれ、黄宗羲を尊崇して『文学案』を続修した。また南明史料や郷土文献、の碑文を蒐集した。『経史答問』、『天一閣碑目』、『鮚埼亭集』。
張廷玉(1672~1755)
  字は衡臣、号は硯斎。安徽省桐城の人。康煕三十九年(1700)、進士に及第した。五十九年(1720)、刑部侍郎に任ぜられた。雍正帝が即位すると、礼部尚書に上り、『史』総裁官をつとめた。雍正四年(1726)、保和殿大学士に上り、戸部と吏部および翰林院を管轄し、軍機大臣にあてられた。乾隆帝が即位すると、総理事務大臣となった。乾隆二年(1737)、伯爵を賜り、勤宣と号した。『伝経堂集』。
張宗蒼(1686~1755)
  字は黙岑、号は篁邨。江蘇省県の人。山水画に秀で、乾隆十六年(1751)、乾隆帝南巡のときに十六景の画柚を献じ、認められて戸部主事となった。雍正・乾隆時随一の大家とされる。
允禵(1688~1755)
  胤禵。もとの名は胤禎。の康熙帝(玄燁)の十四男。康熙四十八年(1709)、貝子に封ぜられた。五十七年(1718)、撫遠大将軍に任ぜられ、軍を率いて青海からチベットに入り、ジュンガル兵を討った。康熙帝が崩じたとき、帝位を十四子に伝える意志を示したとの説が流れた。雍正帝が立つと、京師に召喚され、幽閉された。雍正帝の同母弟ながら、もとより仲が悪かったという。乾隆初年、許されて釈放され、恂郡王に封ぜられた。晩年は、仏教・道教に帰依した。乾隆二十年(1755)、薨去した。
恵棟(1705~1758)
  字は定宇、号は松崖。江蘇省県の人。祖父以来の学者の家で、考証学を研究し、易学の大家となった。また『春秋左氏伝』や『後漢書』の補注をおこなった。『周易述』、『易渓学』。
顧棟高(1679~1759)
  字は震淪。江蘇省無錫の人。康煕六十年(1721)、進士に及第した。国子監祭酒に上った。『春秋大事表』、『尚書質疑』。
汪士慎(1686~1759)
  字は近人、号は巣林。安徽省休寧の人。揚州に流寓して、画を売って暮らしたが、貧窮した。水仙梅竹を描くのを得意とした。詩・隷書・篆刻にもすぐれた。農らと交友し、揚州八怪のひとりとされる。『巣林詩集』。
励宗万(1705~1759)
  字は滋大、号は衣園。静海の人。励廷儀の子。康煕六十年(1721)、進士に及第した。刑部侍郎などを歴任したのち、画をもって内廷に供奉した。張照とともに「南張北励」と称された。
江永(1681~1762)
  字は慎修。安徽省婺源の人。若くして諸生となったが、科挙受験の道を捨て、経学に専念した。制度史や音韻学などを研究し、またとくに三礼・天文・地理の学問に通じた。『周礼疑義挙要』、『礼書網目』、『四声切韻表』、『近思録集注』。
詩正(1697~1763)
  字は養仲。浙江省銭塘の人。文濂の子。雍正年間に進士に及第し、翰林院編修に任ぜられた。乾隆年間に東閣大学士・吏部尚書に上った。『矢音集』。
周顥(1685?~1763?)
  字は厳瞻。江蘇省嘉定の人。科挙に応じず、読書や画を好んだ。
曹雪芹(1719?~1763)
  名は霑、字は夢阮。雪芹は号である。満州正白旗の出身。南京に生まれた。々江寧織造をつとめた名家の生まれであったが、幼少のころに没落した。没落しゆく名家の少女世界を描いた『紅楼夢』は、古典小説の最高峰として名高い。
農(1687~1764)
  字は寿門、号は冬心。浙江省杭州の人。科挙に応じず、気ままな放浪と石の収集を好んだ。そのため窮迫することが多く、晩年は揚州で詩文や書画を売って暮らした。揚州八怪のひとり。『景申集』。
蕙田(1702~1764)
  字は樹峰、号は味経。江蘇省匱の人。乾隆年(1736)、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。のちに工部尚書・刑部尚書に上った。三礼や易に通じ、また音韻や算術に長じた。『五礼通考』、『周易象義箋』、『四声表』。
兆恵(1709~1764)
  雅氏。字は和甫。満州正黄旗の出身。雍正九年(1731)、軍機処に入った。乾隆十三年(1748)、川におもむいて軍営督弁糧運をつとめた。二十一年(1756)、参賛大臣となった。まもなく定辺右副将軍に任ぜられ、軍を率いてジュンガルのアムルサナ(阿睦爾撤納)の乱を平定した。功により一等武毅伯に封ぜられた。翌年、定辺将軍となり、大小ホージャ(和卓)の乱の平定にあたった。一等武毅謀勇公に進んだ。二十六年(1761)、協弁大学士に任ぜられ、しばしば直隷や江南に赴いて水利を実地調査した。のち北京で没した。
鄭燮(1693~1765)
  字は克柔、号は板橋。江蘇省興化の人。鄭之本の子。乾隆年(1736)、進士に及第した。山東省范県の知事などをつとめたが、官歴十一年で退官し、揚州に隠棲した。詩書画に秀でて、揚州八怪のうちでもっとも著名だった。とくに「六分半書」と称する書で名高い。『板橋詩鈔』、『板橋題画』。
丁敬(1695~1765)
  字は敬身、号は鈍丁。浙江省銭塘の人。乾隆年(1736)、博学鴻詞に及第したが、官に就かず、市中で酒を売って暮らした。石文字の研究に打ちこんで、自ら山野岩壁に資料を収集して回り、拓本をつくり、史志を考証した。また古器物の鑑定や書画の鑑別でも知られた。とくに篆刻に詳しく、その印譜は西泠八家の冠首とされた。詩もよくし、農と並び称された。『武林石録』、『硯林詩集』。
ジュゼッペ・カスチリヨーネ(1688~1766)
  名は郎世寧。字は若瑟。イタリアのミラノの人。ジェスイット会の宣教師となった。康煕五十四年(1715)に中国に渡り、内廷如意館に入った。雍正年間に、三度にわたって禁教をゆるめるよう帝に奏請した。乾隆年間にベルサイユ宮殿に模して円園を設計した。乾隆三十年(1765)、アッチレらとともに「准噶爾回部平定戦役図」十六幅を完成させた。画に「乾隆皇帝大閲図」、「乾隆皇帝南巡細密写真図」、「百駿図」、「准噶爾貢馬図」、「春貢試馬図」など、西洋と中国の画法を融合させた作品を残した。
黄慎(1687~1768)
  字は躬懋。福建省寧化の人。貧家に生まれ、画を学んだ。寺に身を寄せて、昼は画を描き、夜は仏前の灯を借りて読書した。康煕五十八年(1719)、揚州にいたり、売画生活をはじめると、人があらそってかれの画をあがなった。花卉・人物画にとくにすぐれた。揚州八家のひとり。また草書や詩もよくした。『蛟湖詩鈔』。
召南(1706~1768)
  字は次風、号は瓊台。浙江省天台の人。内閣学士・礼部侍郎に上った。『大清一統志』の編纂に参加し、副総裁官をつとめた。『水道通考』、『春秋三伝考証』。
アッチレ(1702~1768)
  名は王致誠。フランスの人。ジェスイット教団の宣教師となった。乾隆三年(1738)に渡した。乾隆帝に仕えて内廷画師となった。馬や人物を描くのを得意とし、「十駿図」や「守護天使」などを描いた。カスチリヨーネらとともに「乾隆西域武功図」を合作した。のちに北京で没した。
沈徳潜(1673~1769)
  字は確士、号は帰愚。江蘇省長洲の人。若いころから詩文によって名を知られた。乾隆四年(1739)、六十七歳で進士に及第し、乾隆帝により江南の老名士と称された。内閣学士・礼部侍郎に累進した。『八大家文読本』。
董邦達(1699~1769)
  字は孚存、号は東山。浙江省富陽の人。工部尚書に上った。『石渠宝笈』、『西古鑑』。
鄒一桂(1686~1772)
  字は小山、号は譲郷。江蘇省武進の人。雍正五年(1727)、進士に及第した。乾隆年間に、太常寺少卿・内閣学士・礼部侍郎などを歴任した。画にすぐれた。『小山画譜』。
銭維城(1720~1772)
  字は幼安。乾隆年間に進士に及第した。刑部左侍郎に上った。『茶山集』。
劉統勲(1699~1773)
  字は延、号は爾純。山東省諸城の人。雍正年間に進士に及第した。乾隆六年(1741)、左都御史に抜擢された。十五年(1750)、刑部尚書となった。十七年(1752)、軍機大臣に任ぜられた。十九年(1754)、協弁陝甘総督事務を命じられ、西路軍の軍糧馬匹を経理して、ジュンガル征討を支えた。翌年、アムルサナ(阿睦爾撤納)が叛くと、バリコン(巴里坤)を放棄してハミ(哈密)に退いて守るよう建議して、乾隆帝の怒りを買い、免職された。のちに吏部尚書・東閣大学士に上った。河川の改修や運河の浚渫などの水利工事に功績を挙げた。『劉文正集』。
戴震(1723~1777)
  字は東原。安徽省休寧の人。乾隆二十七年(1762)に四十歳で郷試に及第した。翰林院庶吉士となり、『四庫全書』の纂定に加わって、古籍の復校定にあたった。小学に優れ、朱子学を排撃し、気一論を説いた。朝考証学の大成者と目される。『毛鄭詩考』、『孟子字義疏証』など。
劉大魁(1698~1780)
  字は才甫、号は海峰。安徽省桐城の人。方苞の門下で学び、その文法を受け継いだ。たびたび科挙に挑戦したが、及第しなかった。六十歳を過ぎて、はじめて黟県教諭の官をえた。桐城派古文創始者のひとり。『海峰文集』。
于敏中(1714~1780)
  字は叔子、号は耐圃。江蘇省壜の人。乾隆年間に進士に及第した。翰林院修撰に任ぜられた。内閣学士や兵部・刑部・戸部侍郎を歴任した。文章により乾隆帝の重んぜられるところとなり、二十五年(1760)、軍機大臣に上った。三十八年(1773)、文華殿大学士となる。また四庫全書館や三通館の正総裁をつとめた。『国朝宮史』、『素余堂集』。
朱筠(1729~1781)
  字は美叔、号は笥河。順天府大興の人。乾隆十九年(1754)、進士に及第した。翰林院侍読学士に上った。福建郷試正考官・順天郷試同考官・提督福建・安徽学政を歴任した。石文字を研究した。『十三経文字同異』、『笥河文集』。
黄景仁(1749~1783)
  字は仲則、または鏞。江蘇省武進の人。若くして詩才を知られたが、科挙に及第できず、各地の大官の客として転々とした。貧苦と病に悩まされながら、山西省解州で客死した。『両当軒詩文集』、『竹眠詞』。
蒋士銓(1725~1785)
  字は心余、号は容。江西省鉛山の人。乾隆二十二年(1757)、進士に及第した。戯曲にたくみで、『蔵園九種』『采樵図』『盧山会』などで知られた。「江左の三大家」のひとり。『忠雅堂文集』。
荘存与(1719~1788)
  字は方耕、号は養恬。江蘇省武進の人。乾隆年間に進士に及第し、翰林院編修に任ぜられた。内閣学士・礼部侍郎・直隷学政などを歴任した。『春秋公羊伝』に通じ、『春秋』に借りて古今の時勢を論じた。今文経学の主唱者にして、常州学派の始祖とされる。のちの孔広森・劉逢禄・翔風・荘述祖ら今文経学者に影響を与えた。『尚書説』、『春秋正辞』、『味経斎文稿』。
林爽文(?~1788)
  福建省平和の人。乾隆三十八年(1773)、父とともに台湾にうつり、彰化大里杙村に住んだ。はじめ彰化県の役人になったが、のちに辞めさせられて、田を耕し車を牽いて生業とした。五十年(1785)、天地会に加入して、領袖に上った。翌年、兵が天地会の人々の捕縛に乗り出し、村落を焼いて威嚇したため、ついに叛乱を起こした。彰化・諸羅・淡水などの諸城を落とし、彰化に大盟主府を置き、盟主大帥を自称した。五十二年(1787)、欽差大臣福康安が兵を率いて台湾に渡り、叛乱の討伐にあたった。林爽文は軍と激戦を繰り返したが敗れ、翌年に淡水で捕らえられた。北京に連行され、処刑された。
陸錫熊(1734~1792)
  字は健男、号は耳山。江蘇省上海の人。乾隆二十六年(1761)、進士に及第した。『四庫全書』の総纂官をつとめたのをはじめ、『通鑑輯覧』、『契丹国志』、『河源紀略』などを編纂した。副都御史に上った。
簡(?~1794)
  佳氏。満洲正黄旗の出身。はじめ内務府軍に属した。乾隆年間に内務府筆帖式に任ぜられた。乾隆三十七年(1772)、総管内務府大臣に進んだ。四庫館副総裁となり、『四庫薈要』の編纂に従事し、三史の地名・人名・官名の改訳にあたった。のち工部尚書となり、盧溝橋水道の浚渫などをおこなった。五十七年(1792)、吏部尚書に転じた。
汪中(1744~1794)
  字は容甫。江都の人。貧乏のため書肆に雇われながら読書したという。官途につかなかったが、古典の考証に業績を上げた。駢驪体の文章をよくした。『述学内外篇』、『広陵通典』。
潘恭寿(1741~1794)
  字は慎夫、号は蓮巣。丹徒の人。
盧文弨(1717~1795)
  字は紹弓、号は弓父。浙江省余姚の人。乾隆年間に進士に及第した。侍読学士・湖南学政などを歴任した。晩年は鍾山・楼東・竜城書院の主講をつとめた。戴震・段玉裁らと交友した。古文の研究に専心し、『逸周書』『孟子』『荀子』『呂氏春秋』などの校勘をおこなった。『抱経堂集』。
涵(1743~1796)
  字は二雲、号は南江。浙江省余姚の人。乾隆年間に進士に及第した。侍講学士に上った。『続三通』『八旗通志』などの編纂に参加した。『孟子述議』。
王鳴盛(1722~1797)
  字は鳳カイ、号は西荘。江蘇省嘉定の人。乾隆十九年(1754)、進士に及第した。翰林院編修から内閣中書・礼部侍郎などを歴任して、光禄寺卿に上った。若くして官を辞して蘇州に住み、経学・史学の考証を行った。『十七史商カク』。
袁枚(1716~1797)
  字は子才、号は簡斎、または随園先生。浙江省仁和の人。乾隆四年(1739)、進士に及第した。各地の知県を転々としたが、四十歳にして官職を辞し、南京西北の小倉山に随園を築いて隠棲した。多数の門弟を擁し、とくに五十人の女弟子を集めたことで有名。「江左の三大家」のひとり。『小倉山房詩文集』、『随園詩話』。
畢源(1730~1797)
  字は秋帆、号は霊岩山人。江蘇省鎮洋の人。乾隆二十二年(1757)、内閣中書軍機処行走となった。二十五年(1760)、進士に及第し、修撰となる。侍講・陝西按察使・陝西布政使・陝西巡撫・湖南巡撫・山東巡撫・陝甘総督・湖広総督などを歴任した。白蓮教の乱に対する措置を誤ったとして、その死後に指弾を受けて、家産を没収された。『霊岩山人詩文集』、『続資治通鑑』。
阿桂(1717~1797)
  字は広廷、号は雲崖。満洲正白旗の出身。阿克敦の子。蔭官によって官途につき、大理寺丞に任ぜられた。吏部員外郎に累進した。乾隆十三年(1748)、大山土司の叛乱平定に参加した。二十年(1755)、内閣学士に上り、ジュンガル部征討にあたった。また回族の叛乱平定に参加し、イリに鎮して屯田を行った。四十二年(1777)、武英殿大学士に上った。四十四年(1779)、黄河の決壊にさいして、治水対策に当たった。五十一年(1786)、台湾の林爽文の叛乱を鎮圧するために献策した。
王宸(1720~1797)
  字は子凝、号は蓬心。江蘇省太倉の人。王原祁の曾孫にあたる。官は永川知府に上った。詩・画にたくみだった。
江声(1721~1799)
  字は叔沄、号は艮庭。江蘇省和の人。嘉慶年間に孝廉方正に挙げられた。王鳴盛・畢源らと交友した。壮年にいたって恵棟に師事し、経史・文字の学問を修めた。『尚書集注音疏』を著し、尚書の研究を大成した。『六書説』、『論語質』、『恒星説』、『艮庭小慧』。
羅聘(1733~1799)
  字は遁夫、号は両峰。江蘇省江都の人。農に師事し、画を学んだ。「画羅」と称された。揚州八怪のひとり。「鬼趣図」。
方薫(1736~1799)
  字は嫩儒、号は蘭士。浙江省石門の人。詩・書・画に優れた。乾隆帝が南巡したとき、『太平歓楽図冊』百巻を進呈した。『山静居稿』。
和珅(1750~1799)
  鈕古禄氏。字は致斎。満洲正紅旗の出身。幼少のころは、貧困に苦しんだ。乾隆三十四年(1769)、軽車都尉・三等侍となった。眉目は秀麗なうえに阿諛追従に巧みで、四書などの学問も修めていたため、乾隆帝に寵愛された。四十一年(1776)、戸部侍郎となり、まもなく軍機大臣に上った。歩軍統領・内務府大臣・戸部尚書・議政大臣などを歴任した。乾隆帝の晩年の政権を壟断し、大規模な収賄をおこなって政治を腐敗させた。太上皇(乾隆帝)の死後に多くの弾劾を受け、嘉慶帝に二十大罪を数えられて死を賜った。没収された銀珍宝の量はすさまじく多く、世人は「和珅がけつまづいて、嘉慶が飽食した」と噂した。『嘉楽堂詩集』。
↓次の時嘉慶道光期

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