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(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
後金(1616~1636)]
ヌルハチ(1559~1626)
  の太祖⇒。
費英東(1564~1620)
  瓜爾佳氏。1588年、父に従ってヌルハチに帰順し、ヌルハチの孫娘をめとって大紮爾固と尊称された。一等大臣・固山額真に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。統兵治政につとめ、女真各部やに対する征戦に従って、戦功を挙げた。死後に直義公に追封された。
額亦都(1562~1621)
  鈕祜禄氏。満洲鑲黄旗の出身。々長白山に住んだ。1583年、ヌルハチに従って起兵した。女真各部やに対する征戦に従って、しばしば戦功を挙げた。固山額真に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。のちに病没した。崇徳年(1636)、宏毅公に追封された。
安費揚古(1559~1622)
  覚爾察氏。満洲鑲藍旗の出身。1583年、ヌルハチに従って起兵し、女真各部に対する征戦に従って、戦功を挙げた。碩翁科羅巴図の号を賜り、五大臣のひとりとなった。天命年間にを攻撃し、撫順・瀋陽・陽などの地を奪取するのに功績を挙げた。額亦都とともに開国の功臣の筆頭としてならび称された。
扈爾(1576~1623)
  佟佳氏。満洲正白旗の出身。1588年、父に従ってヌルハチに帰順し、ヌルハチの養子となって侍に任ぜられた。女真各部やに対する征戦に従って、戦功を挙げ、一等総兵官世職に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。達爾轄の号を賜った。天命六年(1621)、罪をえて、国政から退き、副将に降格された。のち病没した。
額爾徳尼(?~1623)
  納喇氏。満洲正黄旗の出身。々都英額の地に住んだ。ヌルハチの起兵のときに、帰順した。文・蒙文に通じて、巴克什(学者)の号を賜った。ヌルハチに近侍して、征戦に従った。1599年、命を受けてモンゴルの字母と女真音を合わせて満文(圏点のない満文、老満文)を創始した。天命年(1616)、後金が建てられると、法制の多くはかれの手によって成った。功により参将・副将などの職を歴任した。ホンタイジはかれを評して一の人傑と呼んだ。のちに命に違反したため殺された。
何和礼(1561~1624)
  棟鄂氏。満洲正紅旗の出身。1588年、部衆を率いてヌルハチに帰順し、ヌルハチの長女をめとって、棟鄂額駙と尊称された。しばしばヌルハチの征戦に従軍し、固山額真・一等大臣に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。
達海(1595~1632)
  覚爾察氏。満洲正藍旗の出身。満の文字に通じ、後金・朝鮮・モンゴルの間の文書の往来は多くかれの手によって成った。天聡初年、値文館に入り、文書籍を翻訳した。天聡六年(1632)、満文字体の改定にあたり、十二字頭を増し、圏点を加えて、満文あるいは圏点満文と称した。
マングルタイ(1587~1633)
  莽古爾泰。太祖ヌルハチの五男。後金の天命年(1616)、和碩貝勒に封ぜられ、正藍旗を統括した。四大貝勒のひとりとなる。序列三位で三貝勒と称された。サルフの戦いに従軍し、またイェヘ部を討滅し、モンゴルを攻め、瀋陽・陽などの戦役に従って、しばしば軍功を立てた。天聡五年(1631)、太宗ホンタイジによる大貝勒抑制の対象となり、五牛録を奪われ、一万両の罰銀を受けた。のちに病没した。死後に貝勒位を削られ、宗室の籍と爵位を剥奪された。
李永芳(?~1634)
  東鉄嶺の人。の撫順游撃。万暦四十六年(1618)、後金に降った。太祖ヌルハチにより三等総兵官に任ぜられた。の巡撫王化貞らが彼を招撫しようとしたが、応じなかった。太宗が即位すると、アミンに従って朝鮮を攻めた。
揚古利(1572~1637)
  舒穆禄氏。満洲正黄旗の出身。幼くして父に従ってヌルハチに帰順し、額駙となった。女真各部やに対する征戦に従って、戦功を挙げ、左翼兵の統括を命じられ、一等総兵官に任ぜられた。崇徳二年(1637)、太宗ホンタイジが朝鮮を攻めるのに従い、戦後に戦場を巡視していたところを朝鮮兵に射殺された。武勛王に追封された。
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